著者
鷺谷 威 大坪 誠
出版者
公益社団法人 東京地学協会
雑誌
地学雑誌 (ISSN:0022135X)
巻号頁・発行日
vol.128, no.5, pp.689-705, 2019
被引用文献数
4

<p> Geodetic estimates of crustal strain rates in the Japan islands were an order of magnitude larger than geological/geomorphological estimates, which has been an unresolved problem called the strain rate paradox. Ikeda (1996) postulated that geodetic strain mainly reflects elastic strain accumulation due to interactions at plate boundaries. This hypothesis was proven to be correct by the occurrence of the 2011 <i>M</i><sub>W</sub> 9.0 Tohoku-oki earthquake. Confusion between elastic strain and inelastic strain was the cause of the paradox. Significant postseismic deformation observed after the Tohoku-oki earthquake made it possible to distinguish the inelastic contribution from the geodetically observed crustal strain through a comparison with the pre-seismic strain rate pattern, which promoted a better understanding of inelastic deformation in the Japan islands. On the other hand, migration of localized deformation and temporal changes of strain rate are identified over a geological time scale, implying that it is essential to carefully review the methods and the uncertainties of geological/geomorphological strain rates. An integrated understanding of crustal deformation in the Japan islands is being advanced through detailed investigations of crustal strain rates on variable temporal and spatial scales.</p>
著者
小原 一成
出版者
公益社団法人 東京地学協会
雑誌
地學雜誌 (ISSN:0022135X)
巻号頁・発行日
vol.112, no.6, pp.837-849, 2003
被引用文献数
5 14

Non-volcanic deep low-frequency tremors detected in southwest Japan are distributed in the forearc side along the strike of the descending Philippine Sea plate. The source depth of the tremor corresponds to the slab interface or the Moho discontinuity. The time sequence of the tremor activity is characterized by long durations from hours to weeks. The mobility and the successive occurrence of the tremor are thought to be related to the existence of fluid liberated from the slab by a dehydration process. The spatial distribution of the tremors is not homogeneous in a narrow belt but is spatially clustered. The major activity of the tremors with relatively long time durations is also clustered periodically, with a period of 2-3 months in the east and middle of Shikoku area and about 6 months in the west of Shikoku. On the other hand, tremors are sometimes triggered by local earthquakes or teleseismic waves. The periodicity of the tremor activity may represent a stable accumulation of fluid with a stable subduction process and the triggering phenomenon implies the unstable condition of the occurrence of tremors.
著者
Wright Robert G. Baker Jr. Howard H. de Icaza Carlos
出版者
日経BP社
雑誌
日経ビジネス (ISSN:00290491)
巻号頁・発行日
no.1168, pp.162-164, 2002-11-25

米共和党大物上院議員だったハワード・ベーカー駐日米大使の公邸応接間で、インタビューは始まった。カナダのロバート・ライト、メキシコのカルロス・デイカサ各駐日大使と3人で、本誌だけにインタビューの機会を与えようという。あまり前例のない申し出だ。 NAFTA本交渉が始まってちょうど10年。
著者
大塚 俊明
出版者
北海道大学
巻号頁・発行日
1976-03-25

6, 244p.
著者
クラップ P.
出版者
一般財団法人 日本国際政治学会
雑誌
国際政治 (ISSN:04542215)
巻号頁・発行日
vol.1975, no.52, pp.L5-L41,L3, 1975

米国政府が琉球列島に対する統治権に固執する立場をとったことは, 多くの面で, 現実を時勢に遅れることなく認知することができなかったことを示す典型的な例である。この立場の擁護論は, もともと1940年代末に打ち出され, 1950年代の冷戦によって補強された。そのさい, 米国の文民及び軍部の指導者たちはともに沖繩を, アジアにおいて朝鮮からフィリピンにつながる米軍の前進基地の要とみなすようになっていた。もちろんそのさい, この前進基地体系は米国の防衛能力の軸をなすものと考えられていた。米国政府内には, すでに1960年代の初期において, 外国の領土の軍事占領を無期限に続けることに対して快よく思わない人も多くいたけれども, 沖繩の軍事的価値を再検討することによって現状の変更を求める協力態勢は1966年までみられなかった。<br>アメリカの考え方が変ったのは1966年から1969年にかけてであるが, それは主として, 琉球列島の統治から得られる特定の軍事的価値と, 日本及び沖繩において増大しつつあった米統治に対する深刻な政治的圧力が取引によって処理可能であるということを慎重に明確化した結果であった。これについての論理的な説明を体系的に求めていく過程で明らかになったのは, 日本の統治下においても沖繩基地の主要な軍事的価値が維持されうるということだけではなく, さらに重要なことに, それが現行の日米安保条約の下で可能であるということであった。沖繩の返還によって失われるのは沖繩における核兵器の貯蔵または展開の権利だけであり, この損失について十分に対処することができた。また, 基地の効用は, 結局は基地が現地住民によって受けいれられるかどうかによって決まることも明らかにされた。さらに, もし返還問題が1970年までに最終的に解決されないのであれば, 日本との安保条約が脅かされる恐れがあった。<br>アメリカにおける沖繩返還論議は, 殆ど政府官僚に限られ, 安全保障上の機密のベールによっておいかくされていた。ニュースとして公表されたのはきわめて少なく, 一般大衆は関心が薄く, 議会から強い圧力がかかったわけでもない。したがって, 論議への主な参加者は返還問題に直接の利害を有する官僚であった。すなわち, 国務省の極東担当局, 駐日米大使, 国防総省の国際安全保障局, 陸軍省, 統合参謀本部であり, 最終的には大統領が加わった。明らかに返還問題は二次的な比重しかしめていなかったのであり, 意見の相違は政府の中級レベルの官僚間で調整された。1969年に, とくに大統領の決定にゆだねられたのは, 核兵器の撤去に対する日本の要求を尊重するという決定だけであった。その時までにこのような決定に対しては, とくに日本との強固な友好関係を維持していくため大統領が自らの責任で行なった決定であっただけに, 軍部からの反対は殆どなかった。
著者
松村 晴路 Seiji Matsumura
雑誌
聖徳学園岐阜教育大学紀要 = Bulletin of Gifu College of Education (ISSN:09160175)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.149-168, 1991-09-30

This study is and essay on the conjugal name of The Civil Code 750. The Family Law shall be understood from the standpoint of individual dignity and essential equality of the sexes since The Civil Code was revised after World WarII. However, The Woman problem of thesedays have resulted from the substantial inequlity of the sexes in family relation. Especially, The fundamental point is the key to separate the married woman's name from the husband's name
著者
東 浩太郎 長谷川 輝 三河内 岳 Michael Zolensky
出版者
一般社団法人日本鉱物科学会
雑誌
日本鉱物科学会年会講演要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

様々な隕石種の岩片を含む角レキ岩隕石であるKaidun隕石中に見つかった2つの岩片について鉱物学的研究を行った。1. ブラチナイト隕石と考えられる岩片は、主にカンラン石から成る約0.4x0.4mmの岩片で、カンラン石組成はブラチナイトと似ており、ブラチナイトのタイプ標本であるBrachina、ブラチナイトの一種であるNWA 1500と近い特徴も確認された。BrachinaはMn-Cr年代が4564.8&plusmn;0.5 Maを示すことから、Kaidun母天体の形成はこの年代より若い可能性がある。2. 水質変成を受けたEコンドライト岩片は、岩片の両端約1mmの範囲で中央と比べ一部の元素の含有量が明らかに少なくなっており、端層において欠如している鉱物、EPMAの定量分析での収量が低く組成にばらつきのある複数種の物質の存在が確認された。以上の特徴より非平衡な変成を受けており、水質変成を経験したことが示唆される。水質変成を受けた層はCコンドライトと接しており、この岩片の成因に関連した可能性がある。

1 0 0 0 OA 酒場の唄

著者
北原 白秋[作詞]
出版者
ビクター
巻号頁・発行日
1934-05
著者
堀 輝 吉村 玲児 香月 あすか 阿竹 聖和 中村 純
出版者
日本生物学的精神医学会
雑誌
日本生物学的精神医学会誌 (ISSN:21866619)
巻号頁・発行日
vol.26, no.4, pp.218-222, 2015 (Released:2017-02-16)
参考文献数
31

近年,うつ病における認知機能障害が注目されている。うつ病における認知機能障害は治療反応性や再発・再燃の予測因子となる可能性,寛解後の社会復帰に影響を与える重要な因子の一つである可能性など臨床的な分野での関心も高まりつつある。うつ病における認知機能障害は,病相期によって機能レベルは大きく変化するものの,寛解状態であっても認知機能障害が残存することが繰り返し報告されている。また認知機能障害のパターンが抗うつ薬などの治療反応予測に使える可能性についても複数の報告がある。さらに治療薬である抗うつ薬の一部には薬剤誘発性の認知機能障害をきたす可能性があるため注意が必要である。近年は勤労者うつ病の社会復帰や就労継続予測因子としての認知機能障害が注目されている。しかしながら,まだまだ良質な研究が少なく今後の研究結果が待たれる状況である。
著者
喜多川 和典
出版者
日経BP社
雑誌
日経エコロジー = Nikkei ecology (ISSN:13449001)
巻号頁・発行日
no.222, pp.32-35, 2017-12

サーキュラーエコノミーを実践する欧州企業の先進事例を紹介する。資源循環をサービスに取り込み、ビジネスの幅を広げている。オランダ電機大手のフィリップスは、照明技術が白熱球や蛍光灯からLEDに置き換わっていくなか、「サービスとしての照明」(Lighting as a Service)事業に力を入れている。
著者
福田 光治
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学
巻号頁・発行日
vol.11, pp.176-165, 1968

<p> 明治二十七年四月「拾弐文豪」伝の第六巻として北村透谷の『エマルソン』評沄が民友社から出版された。この評伝はエマソンに関する著作としては日本最初のもので、明治二十三年刊の佐藤重則訳の『文明論』とともに、日本におけるエマソン移入史上大きな意義をもっている。明治の中期にエマソン思想の接触が青年透谷によってなされ、しかもそれ以前のエマソン受容の態度を一歩抻し進めた点でエマソン思想移入の先駆者的意義をもっている。</p><p> 明治維新によって海外文化摂取の門戸が開放され、当時アメリ力文化の指導者と考えられていたエマソンが、わが国と交渉をもつようになる。はやくは、明治五年、岩倉具視の率いる日本使節団歃迎の宴がボストンで開かれた。その時詩人のオリバー•ウェンデル・ホームズとともにエマソンが招待され、「日本と武士道」について講演をした。かれの東洋に対する関心が強かったとはいえ、日本に対する知識はほとんどなかったともいえる。明洽二十一年『学士会員雑誌』に「報償論」を掲載した『西洋品行論』の著者は、エマソンの熱烈な愛読者で、エマソンの章句を喑誦しては、子弟たちに座右の銘とすることをすすめたり、ことに「報償論」のごときは数十回繰り返してもあくことをしらなかったという。明治の西欧化の初期に青年たちに与えた中村正直の感化は大きかったものと思われる。エマソン翻刻版の編者外山正一、エマソンの講演をアマーストで聞き帰国後エマソンを講じた神田乃武、内村鑑三、植村正久、徳富蘇峰らをのぞいては、はたしてどの程度エマソンに親近感を抱いていたかは疑わしい。とにかく、鎖国状態を脱して新らしい海外文化にふれようとする気運に燃えて、わが国に迎えられたエマソンの姿は、まず文明論者としてのエマソンで、新らしい自己を形成し発展させるためのエマソンでなかったといってよい。当時におけるエマソン作品の選択傾向にもみられるように、外国文化摂取の開花期に当然現れるべくして現れた特徴をはっきり示している。</p><p> これらの先覚者のあとをうけて、北村透谷はどのようにエマソンに接したのであろうか。かれが『エマルソン』を執筆した時期は、明治二十六年八月三十日付の日記からほほ推定できるが、それは評伝執筆のため祖織的準備に入ったことを意味するもので、明治二十五年二月『女学雑誌』の発表前にさかのぼる。</p><p> 透谷は「余は切にエマルソン紹介者を待つ者なり。余は伝へしと言はず、論ぜりと言はん。」と記して『エマルソン』評伝を結んでいるが、かれの評伝は主観的傾向の強い作品だと考えられている。伝記的事実や作品内容の解説はともかく、かれのエマソン批評は、ごく限られたものではあるけれども、エマソンの作品に即して論じられたものであって、それほど主観性の濃いものではない。評伝の否定的な面のみをあげることになるが、透谷が評伝執筆にあたって、もっとも恩恵をうけたものとしてジョン•モーレイと、マシュウ・アーノルドとをあげることができよう。</p><p> 明治二十六年五月『文学界』第五号に発表された「内部生命論」で、透谷は不変不動の造化とこれに対する人間の「心」の関係を、エマソンの『自然論』と同じ論旨ですすめている。「頑執妄排の弊」においても「宇宙に精神ある如く、人間にも亦精神あるなり。而して人間個々の希望は宇宙の精神に合するにあり、人間世界最後の希望は、全く宇宙の精神に合体するにあり。」とのべて、エマソンの『自然論』の反映をはっきりと見せている。</p><p> 透谷は「内部生命論」で仏教とキリスト教をそれぞれ不生命の思想、生命の思想と見ているが、ことに仏教が本来の目的からはずれ迷盲の世界より解放すべき使命を放棄しているために、従来の仏教観にとらわれざるを得なかった。エマソンが形式化されたキリスト教には反対したが、キリスト教そのものは肯定している。同じように透谷は「内部生命論」では仏教を否定的に見ているものの、その「本来の目的」であるべき姿を肯定していることは「他界に対する観念」の中の言葉で明らかである。『平和』第六号に発表された「各人心宮内の秘宮」においては、普通の論理では把握不可能なかたくとざされた「心宮内の秘宮」に、われわれ人間の精神の活動の根底をおいている。この「秘宮」「内部生命」「人間の生命の裡の生命」にもとづいてはじめて永遠性、絶対の把握が可能になる。この仮相の世界を離れて「大平等の理」変化の中の統一を確立することこそ、透谷のめざすところであった。したがって「生命の根本」を軽視した徳川時代の巧利派の文学を非難するのも当然なことであった。肯定的な唯心論を展開した「心の経験」から自然と我の冥契を説く「一夕観」になると、冷静な自然観照の中にも内的葛藤に悩む透谷の片影が映っている。エマソンは,自己の本性にのっとれば、矛盾など問題ではないと言っているが、透谷の場合は、かれとはまた別の意味で自己思想の矛盾を表出しなければならなかった。その相違も性格はもとより、エマソンのおかれた風土的環境や、あの楽天的な開拓精神の横溢した時代的背景を考えてみれば当然なことである。けれども「伝へしと言はず論ぜりと言はん。」として書きあげたはずの「彼の楽天主義」(「エマルソン」)には、エマソン否定の言葉はみられないのである。善悪の問題についても、悪は本質的には絶対悪ではなく、善の「否定的なもの」と考えたエマソンにとっては、それが人間個人の教育に資し、人間経験の拡大に貢献するものとした。内部生命の昂揚という大きな視点にたてば、悪の存在は否定され、徹底した個人主義、楽天主義へと導かれる。ところが透谷は、善悪の二元対立を認めている。悪をエマソンのように単なる表裏関係ないし対応関係にあるものとすれば、善と悪の「紛争」は永遠に続くものと考えた。ここにエマソンと違って原罪意識から抜けきれなかった透谷の内面的葛藤が示されている。(立教大学)</p>