著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.91-118, 2022-03-31

戦時中を囚人としてアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で過ごしたゾフィア・ポスミシュの実体験を元に強制収容所における女性看守と女性囚人の関係性を描いたポーランド映画『パサジェルカ』(1963 年)は,制作途中に監督であるアンジェイ・ムンクが急死し未完成の映画として公開されたという経緯もあり,強制収容所を描いたフィクション映画の中でもとりわけ謎めいた作品として知られている。本稿はこの映画『パサジェルカ』をポスミシュによる小説版『パサジェルカ』とともに考察の対象とすることで,収容所におけるトラウマ的経験がいかに事後的に想起され,再解釈されうるかということの可能性を検討する。本稿が明らかにするのは,この『パサジェルカ』という作品が,ドイツ人看守のリーザとポーランド人の囚人マルタという二人の人間をめぐる物語の多様な解釈を生み出すことによって,取り返しのつかないトラウマ的な過去に対するある種の現在からの「介入」を可能にするような作品であるということである。ポスミシュの小説版『パサジェルカ』とムンクの映画版『パサジェルカ』は,それぞれ異なった形によってそうした介入の可能性を示唆している。さらに,ムンクの『パサジェルカ』におけるユダヤ人の子供のエピソードが示唆しているのは,子供に象徴されるような「絶対的に無垢な犠牲者」の死や痛みを媒介とした,ある種の共感の共同体の可能性である。そこにおいては,マルタとリーザという本来であれば「被害者(=ポーランド人)」と「加害者(=ドイツ人)」に明確に分けられる両者の間にもしかしたら存在し得たかもしれない,この「哀しみの共同体」のかすかな可能性が示唆され,それによってすでに固定され,変えられないはずの過去のトラウマ的経験は,存在し得たかもしれない別の可能性へとダイナミックに開かれていくのである。
著者
佐々木 憲介
出版者
北海道大学大学院経済学研究科
雑誌
經濟學研究 (ISSN:04516265)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.15-27, 2010-12-09

1870年代から20世紀初頭にかけて, イギリスにおいても歴史学派と称される一群の経済学者が現われ経済学上の有力な潮流となった。歴史学派は古典派の理論的・演繹的方法に対して歴史的方法を対置し, 古典派の方法論をさまざまな角度から批判した。しかし, 古典派を代表する経済学者の一人であったJ.S.ミルは, その『論理学体系』においてすでに歴史的方法について語っており, それ以外にも歴史学派のものとされる主張を展開していた。はたして, ミルの経済学方法論はイギリス歴史学派とどのような関係にあったのか。クリフ・レズリーは, ミルとリカードウとの違いを強調したが, 歴史学派の多くはむしろ両者の共通性に注目した。ミルは, 経済学の原理に関してはリカードウ派の立場を堅持しており, 新しく示された観点は観点の提示に留まっていて歴史研究の先駆的な業績があったわけではなかった。そのような意味で, 歴史学派にとってのミルは旧学派の一員であった。しかし, 実践的な意味では, ミルの学説は社会改良主義への突破口の一つになった。何人かの歴史学派がミルを評価したのはむしろこの点であった。
著者
一色 舞子
出版者
高麗大学日本研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.15, pp.201-221, 2011

本稿は、文法化の観点から日本語の補助動詞 「-てしまう」の意味変化に伴う主観化、間主観化の様相を明らかにすることを目的としている。 まずは従来の研究において一様に指摘されてきた 「-てしまう」のアスペクト的意味について考察するが、本稿では多くが指摘する「-てしまう」の<完了> のようなアスペクト的意味 は本質的なものではなく、それが頻繁に置かれる文脈がもたらす二次的な解釈に過ぎないと主張する。 次に「-てしまう」の主観的意味について考察する。本稿ではその主観的意味として<一掃><遺憾>を挙げる。これらは「-てしまう」に固定的な意味というよりは、発話状況を含めた文脈によってその都度実現する語用論的意味である。ただし、これらの主観的意味は排他的なものではなく、文脈によっては一形式に複数の意味解釈が可能となる場合もある。 その次に間主観的意味について考察する。本稿では 「-てしまう」 の間主観的意味として<言い訳> <照れ隠し> <配慮>を挙げる。これらは 「-てしまう」 のもつ 「非意図化」 という機能 が関連していると思われる。 最後に、「-てしまう」の音韻縮約形である「-ちゃう」の意味的及び形態的特徴を考察する。本稿では、「-ちゃう」は「-てしまう」 とは意味面では大きな差はないものの、運用面で異なる 特徴を見せるということと、音韻縮約によって一形態素化した「-ちゃう」は「-てしまう」の文法化における形態的な証拠であることを主張する。
著者
山田 高誌 Yamada Takashi
出版者
九州地区国立大学間の連携事業に係る企画委員会リポジトリ部会
雑誌
九州地区国立大学教育系・文系研究論文集 (ISSN:18828728)
巻号頁・発行日
vol.5, no.2, pp.No.5, 2018-03-31

本論文は, 18世紀後半のナポリの諸劇場と関わりをもった作曲家, 台本作家, 演奏家, それぞれの待遇の経年変化, キャリアの変化について, ナポリ銀行歴史文書館所蔵, 興行師による支払い文書史料134点の支払い文書全訳とともに, その労働条件, 職務を解明するものである.
著者
植田 麦
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
vol.564, pp.17-41, 2022-09-30
著者
大島 正二
出版者
北海道大學文學部
雑誌
北海道大學文學部紀要 (ISSN:04376668)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.1-88, 1975-11-27
著者
大島 正二
出版者
北海道大學文學部
雑誌
北海道大學文學部紀要 (ISSN:04376668)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.1-80, 1976-03-10