著者
山部 能宜
出版者
九州龍谷短期大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1997

本年度の主たる成果は,以下の二点である.(1) 『観仏三昧海経』 (『海経』)の中心的テーマである「観仏」の修行は,仏像を用いた観想行であったと考えられるが,このような行法を明確に説くインド文献が殆ど確認できないことが,従来の観仏経典研究の上での大きなネックであった.ところが,『大宝積経』中に編入されている「弥勤師子吼経」(「師子吼経」)には,『海経』の記述と極めて類似した観仏行が説かれている.ここで,「師子吼経」のインド成立には疑問の余地がなく,かつ本経が『海経』成立段階で漢訳されていないことは重要である.『海経』が疑経であったことを否定するのは難しいので,以上の事実は,恐らくは『海経』が中央アジアで成立したということを示唆するであろうまた,「師子吼経」の背後にはさらに『維摩経』があったものと思われ, 『維摩経』にみられるような極めて哲学的な「仏を見る」思想が,「弥靭師子吼経」を経て『海経』に見られる極めて視覚的な行へと変化していったことが伺われるのである.(2) 『海経』にみられる陰馬蔵相をめぐる四つの説話は,極めて特異なものであり,他の仏典に類例を見ないものである.これらの説話には,明らかにインド・シヴァ派のリンガ崇拝の影響が認められるが,リンガ崇拝が中国では殆ど知られていなかったことは,上述の「師子吼経」の場合と同様の問題をはらむものであり,示唆的である.さらにまた,『海経』における陰馬蔵の記述には,リンガのイメージとナーガのイメージとの混淆が見られること,中央アジアの美術表現からの影響が伺われること,漢訳仏典にみられる要素の不用意な導入が認められること,天山地域に確認される生殖器崇拝が,これらの説話の背景となっていた可能性があることなどを指摘した.これらの諸点は,『海経』が中央アジアの多文化混在状況の中から生み出されてきたものであるとする私の仮説を支持するであろう.
著者
小倉 修四郎
出版者
弘前大学人文学部
雑誌
哲学会誌 (ISSN:02870886)
巻号頁・発行日
no.20, pp.30-33, 1985-04-23

1 0 0 0 IR 本間次彦先生

著者
鈴木 将久
出版者
明治大学政治経済学部
雑誌
政経フォーラム
巻号頁・発行日
no.14, pp.53-55, 2001-11-14

本間先生が酒好きであるというイメージは、おそらく教授会の人物紹介以来広まったものと思われる。本年四月の本学赴任以降、実際に本間先生に接した人々は、おそらくそのイメージが事実であったことを実感しているだろう。本間先生は心から酒を好む人である。ただし先生は一升瓶を片手に持ち歩くといった物量一辺倒の飲み方はしない。むしろ一口ずつ味わいながら、楽しみながら飲む。本間先生と酒を飲むと楽しい気分になれるのは、先生の酒に対する愛情の深さを感じ取れるためだろう。本間先生は酒どころ秋田の出身で、秋田県立秋田高校を卒業後、東京大学文化Ⅲ類に入学、文学部で中国哲学を専修したのち、同大学大学院修士課程、博士課程と進学された。
著者
眞砂 薫
出版者
近畿大学教養・外国語教育センター
雑誌
近畿大学教養・外国語教育センター紀要. 外国語編 (ISSN:21856982)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.117-126, 2013

[要約]英語が国際共通語として生き残るとすれば、英語はどのような変化を経験しなければならないのか。これまで学術的に議論されてきた国際共通語としての英語(English as Lingua Franca: ELF)の「概念の外側へ(exo-noramative ELF)」あるいは「概念の上に(supra-normative ELF)」を想定する試みを検討する。今回は特に、一つの英語の変種・亜種として国際英語という実態が存在するのかを批判的に考察する。眞砂, 薫 著者専攻: 言語哲学・英語学
著者
宮野 真生子
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

本年度、私は、日常を生きるうえで、いかにして「偶然」とかかわるかという観点から、九鬼周造の倫理的可能性を問う作業をおこなった。その作業は具体的には、二つの方向からおこなわれた。(1)和辻哲郎が提示する「間柄」に基づく必然性重視の倫理観との比較。(2)田辺元が晩年の『マラルメ覚書』で提示した「行為の偶然性」というアイデアを媒介として、九鬼の偶然性概念を発展させること。(1)和辻の『倫理学』において、分析の基礎となるのは、「日常の事実」である。間柄を分析し、倫理を析出する和辻は、徹底して「日常の事実」に立つ。だが、日常がつねに私たちとともにあるからと言って、それを即座に「自明の前提」として無批判に受け入れることができるのだろうか。その前に私たちはまず、なぜ日常を当たり前の事実、自明の前提として受け入れてしまうのかを問い、この自明性を成立させる「日常性」のメカニズムについて考えることが必要ではないのか。「日常の事実」に立つ思索は、そのときはじめて広い射程を有することができる。以上のような問題意識を出発点として、和辻と九鬼の「日常」観の相違を分析した。(2)九鬼哲学では、「偶然性」は「存在」の問題として扱われてきたが、これに対し、田辺元は『マラルメ覚書』において「行為における偶然性」について論じている。九鬼周造の哲学を「倫理」として展開するためには、「行為」の次元を考えることが不可欠であり、その部分を補うのが、田辺の『マラルメ覚書』である。彼はここで、行為の当否は常に偶然に委ねられており、その偶然を生きることこそが「倫理」であると論じている。つまり、一般に「倫理」とは「必然」を説くものと考えられがちだが、それにたいし、田辺は「偶然」にこそ「倫理」を見た。それは、必然によって自己と他者、あるいは未来を縛る固定的な倫理ではなく、より自由な倫理的関係を可能にするものであると言える。
著者
山本 展彰 Yamamoto Nobuaki ヤマモト ノブアキ
出版者
大阪大学COデザインセンター
雑誌
Co*Design (ISSN:24349593)
巻号頁・発行日
no.10, pp.91-109, 2021-07-31

本稿は、AIをめぐる法的因果関係について、法哲学者H. L. A. ハートと民法学者T. オノレが『法における因果性』において展開した法的因果関係論を基に検討したものである。AIをめぐる法的因果関係は、近年注目を集めるAIをめぐる法的責任と密接な関わりがある。ここでは、AIの開発やAIの利用といった人間の行為とAIの判断・指示との関係性が問題となる。そこで本稿では、これらの関係性について、ハート=オノレが提示した人間の行為と他の人間の行為との関係性についての理論を応用し検討した。その結果、ハート=オノレの法的因果関係論が用いる判断基準の曖昧さ、AIと人間の判断のどちらが信頼に足るものかを決めることの困難さ、AI開発において満たすべき基準を定めることの困難さが、AIをめぐる法的因果関係の根幹にある問題であることが明らかになった。これらの諸問題の背景には、AIを対象とする場合に、法的因果関係の存否を判断する際の基準となる「通常」という規範的な概念の動揺がある。これは従来の法的因果関係論とAIが立脚する世界観の違いに起因するものであり、AIが立脚する世界観を共有する法的因果関係論の可能性を検討することが求められる。In this article, the author examined legal causation on Artificial Intelligence (AI) by applying the legal causation theory of H. L. A. Hart and T. Honoré in Causation in the Law, Second Edition. Legal causation on AI has a close connection with legal responsibility on AI, which attracts many researchers recently. In legal causation on AI, relations between developing AI or using AI and estimations or directions of AI become problems. Then the author examined these relations by applying the theory of Hart and Honoré about the relation between a human act and the other human act. As a result, the author found three problems: ambiguousness of criteria for judgment of Hart and Honoré's legal causation theory, difficulties of deciding which is reliable decision human or AI, and difficulties of setting up standards of developing AI. Behind these problems, there is an upset of normative concept "normal" using criteria when examining causation, especially on AI. This issue arises from the difference of visions of the world between existing legal causation theory and AI. Then legal causation theory, which shares AI's vision of the world, is needed to consider.
著者
井頭 昌彦
出版者
東北大学哲学研究会
雑誌
思索 = Meditations (ISSN:0289064X)
巻号頁・発行日
no.45, pp.389-418, 2012

2010~2011年度科学研究費補助金(若手研究B), 課題番号: 227200072012年度科学研究費補助金(若手研究B), 課題番号: 24720007
著者
眞田 治子 Haruko SANADA
出版者
国立国語研究所
雑誌
日本語科学
巻号頁・発行日
no.11, pp.100-114, 2002-04

東京学芸大学幕末から明治初期にかけて,西欧文化との接触や文明開化の影響によって数多くの新しい単語が生じた結果,日本語の語彙はその基本的な部分にまで大きな変動がもたらされた。この研究は,そのような語彙の中でも特に学術分野の専門用語の一般化の過程をとりあげ,現代の各種基本語彙表や,明治から現代までの雑誌・新聞・テレビなど各種メディアにおける変遷を主に計量的手法によって明らかにしようと試みたものである。その結果,一部の専門用語は基本語彙表や現代メディアの比較的高頻度の階級に見られるなど,現代日本語の中核の部分に深く浸透していることがわかった。このような学術漢語の一般化の現象は特に雑誌などでは,明治初期から急激に進行し,1900年前後には現代の様相の基礎が既に形成されていたと推定される。
著者
朱 京偉 Jingwei ZHU
出版者
国書刊行会
雑誌
日本語科学
巻号頁・発行日
no.10, pp.80-106, 2001-10

北京外国語大学本稿は,『哲学字彙』初版・再版・三版の訳語の性質を明らかにしようとして,初版訳語の調査(1997)に続き,再版と三版の訳語をとりあげて検討したものである。再版については増補訳語の字数別で,また,三版については収録語の急増をもたらした四つの面,つまり,見出し語と訳語の増加,小見出しの増加,注脚付き語の増加,および哲学者人名の増加から,それぞれ検討した。再版の増補訳語の中で,とくに日中の現代語でともに現存するC類語とD類語に注目するほか,現存する一部の三字語・四字語にも留意すべきであろう。一方,三版の改訂が幅広く行なわれたため,増補訳語も,専門語に偏るものと一般語に偏るものとが混在していて,『哲学字彙』の専門語辞典としての性質を多様化するとともに,曖昧化してしまった。明治末期における三版の位置付けといえば,かつて初版が持っていた先進性が失われ,単なる対訳辞書の一種に過ぎなかったのかもしれない。
著者
真田 治子
出版者
埼玉学園大学
雑誌
埼玉学園大学紀要 人間学部篇 (ISSN:13470515)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-13, 2007-12

I have undertaken extensive research with the aim of achieving an overview of historical changes in the vocabulary of Japanese with the introduction of new European concepts from the Meiji era (1868 - 1912) up to the present. Works of the philosopher Tetsujiro Inoue in the Meiji era are recently seen as important in the process of introducing and stabilizing such new words in modern Japanese. The present research focuses on how Inoue's studies in Europe influenced the style and format of the third edition of Tetsugaku Jii, a list of scholarly terms and one of Inoue's best-known works. He wrote of discussions with English, German and French professors in his diary, and we can trace his foreign language studies through his notebooks. He insisted in his speeches and in his autobiography that it is very important to study several foreign languages if you study in Europe. We conjecture that the multilingual style with English, German, French, Greek and Latin which Inoue employed in the third edition derived from his studies in Europe.