1 0 0 0 OA 散花新書 3巻

著者
難波, 立愿
出版者
巻号頁・発行日
vol.[3], 1850
著者
伊井 直記 前田 忠男 土岐 良一 藤山 勝二 浅居 良輝
出版者
Japanese Society for Food Science and Technology
雑誌
日本食品工業学会誌 (ISSN:00290394)
巻号頁・発行日
vol.39, no.12, pp.1093-1097, 1992

カルボン酸分析計を用いて食品中のNANAを簡便で他の成分の妨害を受けることなく,迅速でかつ精度の高いNANA定量法を検討し,以下の結果を得た.<BR>(1) カルボン酸分析計用試験溶液の調製は次の通り調製した.液体試料はそのまま,あるいは水で希釈して一定量に定容した.固体試料の内粉末試料は1gを精秤し,水で50mlに定容した.他の固体試料は10gを精秤し,水を50ml加えてホモブレンダーにかけ100mlに定容し, No.5Cのろ紙でろ過した.この溶液9mlをネジロ試験管にとり1N硫酸1mlを加え, 80℃で45分間加水分解を行った後,冷却し, 0.45μmのメンブランフィルターを用いてろ過を行い,カルボン酸用試験溶液とした.<BR>(2) 乳児用調製粉乳を試料として本法の繰り返し精度を確認した結果, 10回の繰り返しにおける変動係数は1.61%と良好であった.<BR>(3) 乳児用調製粉乳1g当たりNANAを2mg添加し,本法による回収率を求めた結果, 99.8%と良好であった.<BR>(4) 本法は,前処理として加水分解とろ過操作のみで試験溶液が調製でき,また,強塩基性陰イオン交換樹脂カラムを用いることで妨害となる成分からの分離ができた.<BR>(5) 食品中のNANAを簡便で迅速かつ精度良く定量する方法を確立した.
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.131-163, 2014

0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられた抗議の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対――日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ――ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以下,次号以降に掲載予定)4. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1964年8月~1967年12月5. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7. 東京ベ平連との連携 1966年6月~8. 労働者と学生の参加9. 十の日デモの広がりとその評価日本全国に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,最も息の長い運動を続けたひとつが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。1965年から1973年の間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民による反戦デモである「十の日デモ」が続けられたのである。十の日デモは,さまざまな理由から1968年前半に運動上の大きな転換点を迎えている。そこで筆者は,1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした論考を準備した。本稿は,その第1部にあたる部分である(第2部以下は次号以降に掲載予定)。本稿ではまず,政党や労働組合といった組織によらない市民のベトナム戦争反対の動きが,福岡市ではどのように始まったのかを明らかにした。あわせて,その動きを起こした九州大学の中心的メンバーのプロフィールを検討し,福岡市におけるベトナム反戦市民運動発足時の運動の性格について論じた。しかし,ローカルなベトナム反戦運動の歴史は,全国的な動きのなかに位置づけて検討される必要がある。そのために本稿の後半では,いったん福岡からは離れ,ベトナム反戦運動の全国的動向の再検討を行なっている。政党や労働組合など既成組織の動向と市民の自発的な反戦運動の動向とを比較しながら,1967年2月の米軍による北ベトナム爆撃(北爆)以降,日本の中でどのようにしてベトナム反戦運動が広まっていったのかをみていく。またその際には,同時期に運動課題となった日韓条約反対闘争との関係,各種マス・メディアが世論や運動に与えた影響,ベトナム反戦運動において注目された自発性および個人性の問題,労働運動が反戦運動に取り組む際に直面した問題などに注目した。それら個別の論点の検討をとおして,日本におけるベトナム反戦運動全般の重要な特質を明らかにするよう努め,最後の小括のなかでその結果の提示を試みた。One of the longest-lasting anti-Vietnam War movements in Japan was that which emerged in the city of Fukuoka in Kyushu in the middle of the 1960s. Its citizens formed a small protest group and carried out regular protest walks for seven and half years between 1965 and 1973. The walk was called the 'tenth day protest walk' (Ju-no-hi-demo or To-no-hi-demo in Japanese), for it took place on the 10th, 20th and 30th of every month.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a long draft historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the first part of that essay and the subsequent two parts will appear in the next two issues of this journal.The article firstly looks at the beginning of the citizens' anti-war movement in Fukuoka, exploring the biographical backgrounds and ideas of its core members. In the second part of the article, a number of citizens' anti-Vietnam War movements that emerged in other areas in Japan as well as anti-war protest actions organized by trade unions and political parties are examined. This provides a wider context for the Fukuoka citizens' movement that should give a more balanced view of what happened there.In exploring the very beginning of the history of the anti-Vietnam War movement in Japan, this article pays special attention to the following questions which illuminate the peculiarity of the Japanese ant-Vietnam War movements: How did the Japanese people and society respond to the question of the Treaty on Basic Relations between Japan and the Republic of Korea of 1965, which left-wing intellectuals regarded as a part of the US military strategy in Asia? How did the mass media in Japan, which started to report on the Vietnam War intensely after the US bombing of North Vietnam, influence Japanese society? Why did so many people in Japan feel compelled to raise their voices against Vietnam War by themselves? And, what kinds of difficulties did trade unions encounter when they tried to organise a nationwide anti-war strike in 1966? The article concludes with tentative answers to these questions.

1 0 0 0 OA 出水一件

巻号頁・発行日
vol.第31冊, 1000
著者
高木 敏之 木本 茂 牧野 由紀子 那須 正夫
出版者
公益社団法人 日本薬学会
雑誌
衛生化学 (ISSN:0013273X)
巻号頁・発行日
vol.43, no.3, pp.197-201, 1997-06-30 (Released:2008-05-30)
参考文献数
2
被引用文献数
3 2

The recently abused substances called "legal drugs", such as Natural Ecstacy, Herbal Ecstacy and RUSH, were analyzed to confirm that they contain no controlled drugs using gas chromatography (GC) and gas chromatography-mass spectrometry (GC-MS). Seventeen samples were examined for narcotics, stimulants or other controlled substances. While none of them were detected, ephedrine and pseudoephedrine were found in five samples. Their concentrations were determined by high-performance liquid chromatography (LC) to be below ten per cent, within the limit regulated by the stimulants control law. Caffeine was also detected in seven samples. Therefore, the exciting effect of the "legal drugs" was considered to be caused by ephedrine, pseudoephedrine and caffeine.
著者
寺本 明子 Akiko TERAMOTO 東京農業大学応用生物科学部教養分野 Foreign language studies(English) Faculty of Applied Bio-Science Tokyo University of Agriculture
出版者
東京農業大学
雑誌
東京農業大学農学集報 (ISSN:03759202)
巻号頁・発行日
vol.53, no.4, pp.368-377,

英国が,進歩と繁栄の時代として誇るヴィクトリア朝は,一方で,工場の生産性至上主義,子供の奴隷,貧困者からの搾取の時代でもあった。そして当然のことながら,次の四半世紀にかけて,良い面を伝えるだけでなく,暗い影も落とした。当時の英国の知識人達は,社会にとって有害なこうした負の性質に恐れを抱いたが,そのうちの一人が,同郷のオスカー・ワイルドより2歳下の,ダブリン出身のジョージ・バーナード・ショーであった。ショーは,彼のやり方,つまり劇作を通して,社会を改良したいと強く願っていた。彼がギリシャ神話から題材を取り,1912年に書いた『ピグマリオン』は,そうした作品の一つである。主人公は,ロンドンの花売り娘イライザ・ドゥーリトルで,音声学者ヒギンズ教授の指導で,上品なレディーに変身する。この劇は,英国の階級社会への風刺であるように言われるが,私は,男女の性質の差に関するショーの見方を表すものと考える。『ピグマリオン』の登場人物を分析し,彼等を二つのタイプに分けることにする。一つは,ヒギンズ教授(敵役),ピッカリング大佐,アルフレッド・ドゥーリトル(イライザの父親)を含む男性のグループで,もう一つは,イライザ,ヒギンズ夫人,ピアス夫人(家政婦)を含む女性グループである。前者は,仕事や階級を表し,競争や独立独行を象徴する。後者は,協力的でありながら,それぞれ個を確立している。ショーは何を我々に教えているのだろうか。彼は,「偉大な芸術は,社会改良の情熱を持ち教訓的でなくてはならない」と考えていた。この論文では,ドラマツルギーの一つの要素である演繹法を解明することによって,『ピグマリオン』におけるショーのメッセージに迫った。The Victorian Age in England, so often boasted of as an age of progress and prosperity, was also an age of factories, of child slavery, and of exploitation of the poor, which was naturally followed not just by positive phases but by negative ones in the country over the first quarter of the next century. In those days the English intelligentsia was afraid of negative qualities which were harmful to society. Among them was George Bernard SHAW from Dublin, two years junior to Oscar WILDE. SHAW strongly desired to reform society in his own way, through his ability as a dramatist. One of his best examples was Pygmalion, written in 1912, whose title was taken from an old Greek myth. Its protagonist is Eliza Doolittle, who is transformed from a London street vendor who hawks flowers into a charming lady by Professor Higgins, a phonetician. Many have said that the play presents a satirical view of the English class system ; however, I see the play as an expression of SHAW's view of the gender gap. Analyzing the characters of Pygmalion, I divide them into two types : the male group which includes Professor Higgins (an antagonist), Colonel Pickering and Alfred Doolittle (Eliza's father), and the female group which includes Eliza, Mrs Higgins and Mrs Pearce (housekeeper). The male group represents a profession or class and symbolizes competition and self-dependence. The female group indicates individuality combined with a cooperative nature. What does SHAW teach us? He says that great art must be didactic with a passion for reforming the world. I clarify his messages in Pygmalion by elucidating his deductive style, an element of dramaturgy.
著者
高尾 澄江
出版者
The Japan Society of Home Economics
雑誌
家政学雑誌 (ISSN:04499069)
巻号頁・発行日
vol.21, no.3, pp.188-194, 1970

調和についての判定要約は下記の如くである。<BR>1. スタンディングカラーは長頸タイプと調和する。これは第2報で報告したが、短頸でも撫肩のタイプでは、衿を全体に深くつけ、頸の露出度を多くするとこのタイプと調和する。短頸怒肩タイプでは、スタンド巾を狭くし、肩の傾斜が少ないため頸の側面でくるより、前で深くした方がより効果が出て調和し易い。頸付根大のタイブは、衿で頸の側面を覆うようにすると付根大が目立たず調和する。<BR>2. テーラードカラーなどのオープンカラーは一般にどのタイプとも調和し易いが、しかし折返りが上がり、頸に詰ると若さは表現できても、短頸、顔面大のタイプでは短頸、顔面大が目立ち不調和になり易い。又、詰った打合せの多いダブル前も前項と同じ結果となり、肥満タイプでは肥満を目立たせる。<BR>3. シャツカラー類については第2報で一部報告したが、衿高と頸肩部形態の関係は、1.のスタンディングカラーと同じである。頸付根大のタイプでは横に広がったオフネックは、付根大が目立ち衿を頸に添わせた方がタイブと調和する。<BR>4. ノーカラーの各型 (頸に詰った丸衿剖については第2報で報告ずみ) は、一般に、長頸タイプは頸に詰ったものとかボートネックラインは調和するが、痩型鎖骨の出たタイプでは、大きいスクエアネックラィンを着用すると、鎖骨がネックラインと平行して目立ち不調和であり、又、V型も深くすると不調和になり易い。反対に短頸、顔面大のタイプは、Vネックラインとか大きい衿葱は調和し易いが、頸付根大のタイプは、付根を露出したり目立たせるネックラインは不調和である。<BR>本調査にあたり多くのデザイン例による資料を用意したが、結果としては基礎的なもの及びそのバリエーションにとどめた。実物では、はっきり調和度の差が認められたものでも、写真特に白黒写真となると、調和度の差がさして認められないものもあり、又、写真のとりなおしを行なったため、比較写真の一部に髪型が変わっているものがある。今後は更に髪形とか色、年令などの関係も併せて課題として残される。
著者
庄山 茂子 笹田 美沙都 平野 沙季 栃原 裕
出版者
一般社団法人 日本繊維製品消費科学会
雑誌
繊維製品消費科学 (ISSN:00372072)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.43-51, 2016

産婦人科病棟の看護師に異なるデザインの9種の上衣と白のパンツを着用してもらい入院患者267名を対象に印象を調査した.サンプルの生地は無地と花柄で,色彩は,白と高明度の青,赤紫,赤である.衿は,Vネック,クルーネック,シャツカラーの3 タイプである. (1)「好ましい,やや好ましい」の割合は,9 サンプルとも80%以上であった. (2)因子分析の結果,「親しみ・癒し,責任感,積極性,活動性」の4因子が抽出された.最も好まれたサンプルは,「親しみ・癒し」と「責任感」の因子得点の高いものであった. (3)「親しみ・癒し」は,無地より花柄のサンプルの評価が高かった.大花柄の方が小花柄より「親しみ・癒し」の評価は高い傾向がみられた. (4)「責任感」は,白無地の次に寒色系の大花柄のサンプルの評価が高かった.衿付きのサンプルは,「責任感」の評価は高いが,「活動性」の評価は低かった.

1 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1949年05月04日, 1949-05-04

1 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1949年05月25日, 1949-05-25
著者
梅田 雅孝 古賀 智裕 一瀬 邦弘 來留島 章太 高谷 亜由子 清水 俊匡 福井 翔一 西野 文子 川尻 慎也 岩本 直樹 平井 康子 玉井 慎美 中村 英樹 折口 智樹 川上 純
出版者
日本臨床免疫学会
雑誌
日本臨床免疫学会会誌
巻号頁・発行日
vol.39, no.4, pp.401a-401a, 2016

<p>  【症例】68歳女性.【主訴】呼吸困難.【現病歴】2014年12月より労作時呼吸困難あり4月上旬に間質性肺炎を指摘され前医入院.ステロイドパルス,経口プレドニゾロン(PSL)30mg/日,シクロスポリン(CyA)150mg/日で加療行うも呼吸不全が進行し6月上旬に当院転院となった.筋症状を欠くがGottron徴候,Vネックサイン,ショールサインを認めClinically amyopathic dermatomyositis(CADM)と診断した.胸部CTでは短期間で進行する非特異性間質性肺炎パターンを呈し,急速進行性間質性肺炎(RPILD)の合併を認めた.抗MDA5抗体陽性,フェリチン1556ng/mlと予後不良因子を有したため,シクロフォスファミド静注療法,ステロイドパルス,CyA200mg/日行うも転院19日目に肺胞出血が出現し,人工呼吸器管理となった.転院24日目には貧血,血小板低下,Cr上昇の進行に加え,ハプトグロビン低下,破砕赤血球出現あり血栓性微小血管障害(TMA)と診断した.TMAに対し,血漿交換療法を追加し多臓器不全に対して集学的加療行うも呼吸不全が進行し転院36日目に死亡退院となった.【考察】肺胞出血やTMAはまれながら皮膚筋炎に合併することが報告されている.本症例は血清フェリチン高値に加えトロンボモジュリン高値を認めており,自然免疫異常を介した血管内皮障害が肺胞出血やTMAの病態形成に関与した可能性が示唆された.CADM合併のRPILDにおいては加療中の肺胞出血やTMAにも注意を払う必要があると考えられた.</p>

1 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1945年05月02日, 1945-05-02
著者
春日 美穂
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.26-34, 2009

本論は、「澪標」巻、退位後の朱雀院が管絃の遊びを楽しむ場面を始発とし、それが、理想の上皇像を追い求めようとする朱雀院の意志であったことを、歴史資料等をふまえながら明らかにしたものである。朱雀院は、本来あるべきはずの「遊び」の記述が二例しか見られず、他の『源氏物語』の帝たちと明確な差があるが、だからこそ、帝として、そして宇多上皇を規範とする当時の上皇の理想像に近づくために、退位後に「遊び」を自ら選び取っていたのである。