著者
稲葉 瑛志 Inaba Eiji
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.1-13, 2022-03-31

本論は、20世紀ドイツの作家・思想家エルンスト・ユンガーの初期思想を、ヴァイマル共和国の「危機」に対する応答として明らかにする試みである。歴史学者デートレフ・ポイカートは「古典的近代」の病理論のなかで、過度な近代化のもたらした光と闇を鮮やかに描き出した。しかしその議論においては、経済危機という実体があまりにも重視されることによって、この時代の経験的次元における「危機」の複雑性が単純化されてしまったのである。本論は、「危機」概念の3つの意味内容を検討し、そこに従来見落とされてきた「危機」の「ユートピアの精神」を分析の中心に据え、ユンガーの初期作品を読み直すことを試みた。とりわけユンガーの歴史観、思考法、構想について考察し、黙示録的歴史観、「好機としての失敗」の思考法、「技術の完成」の秩序構想を抽出した。
著者
王 玉輝
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.173-186, 2016-12-15

本稿は、中国映画における分身の表象およびその歴史的展開について、欧米の映画理論とその他の諸言説に関わらせながら史的に考察することを課題とする。まず中国映画史を軸に、一九四九年までの民国期、一九四九年から文化大革命が幕を閉じる一九七六年までの共和国期、文革後から今日に至る改革開放期という、中国近現代史の流れに沿った三つの部分に分けつつ、中国映画における分身表象のそれぞれの相貌を捉え、その歴史的展開を描き出す。次に、中国の第四世代の監督黄蜀芹による『舞台女優』(人鬼情、1987)を取り上げる。本稿では、「重層的な鏡像と分身」、「反復と分身」、「フェミニズムと分身」といった諸点に絞りつつ、同作品を具体的に考察するが、このことを通して、中国映画史の研究分野において分身論の視点による映画史の再構築を目指したい。
著者
大渕 憲一
出版者
東北大学文学会
雑誌
文化 (ISSN:03854841)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1・2, pp.1-25, 2014-09-24
著者
翁 康健
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.197-216, 2022-01-31

本稿は,民俗宗教研究と華僑華人研究の分野に位置付けられ,タイの社会的・宗教的文脈から,タイの華人宗教の動態を把握したうえで,脱共同体社会における民俗宗教のダイナミズムを見出すことをめざす。具体的には,民俗宗教はいかに社会の産業化・都市化に対応できるのかを考察する。そこで,本稿はタイにおける華人宗教の動態を取り上げる。タイにおいては,産業化・都市化への対応として,宗教実践に新しい現象が現れている。その中で,華人系以外のタイ人でも華人宗教施設を訪ねることが多くある。こういった華人宗教は,血縁,地縁に基づく華人社会を越え,タイの都市化・産業化社会に対応していると考えてよいだろう。では,そういった華人宗教は,タイの都市化・産業化に対してどのように対応しているのか。またどのような社会的意味を持っているのか。その問いに対して,本稿は華人系以外のタイ人も普遍的に実践している「ゲイ・ビーチョン」(厄払いの儀),「ギンゼイ(齋)」(ベジタリアン・フェスティバル)という2つの華人宗教の儀礼に焦点を当てた。その結果,都市化・産業化への対応として,ゲイ・ビーチョンは100バーツ(約350円)の冊子を購入することで,簡単に厄払いの儀を行うことが可能となっている。また,齋料理を食べて過ごすギンゼイは健康のためだけのものではなく,個人の修養として取り上げられる。このように,「ゲイ・ビーチョン」と「ギンゼイ」という華人宗教儀礼は,華人のエスニシティ,および血縁,地縁を越えて,消費パッケージ化および,禁欲的な修養によって,産業化・都市化社会における宗教儀礼実践の個人主義化に対応しているとみられる。そして,タイの華人宗教のような脱共同体的な民俗宗教は,共同体に依存していなく,かつ都市生活様式への個人実践に対応できることにより,ホスト社会に広く受け入れられることが可能となると考えられる。
著者
宮﨑 勝正
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.51-71, 2021-03-31

遊びとは,誰もが知っている身近な経験である。遊びは楽しみや歓びをもたらしてくれるだけでなく,私たちの生の一部として重要な役割を担っていると考えられている。しかし,遊びを扱う諸研究においては未だに,遊びがそもそもどのような現象であり,それ以外の活動からいかに区別されるのか,といった本質的な問題に対して十分な説明が与えられていない。遊びの本質を捉えるような説明は,いかなる視点と方法によって可能だろうか。本稿はホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を批判的に検討することからはじめる。ホイジンガによる遊び自体の定義と,それに基づく文化因子としての機能についての説明を概括する。続いて,ホイジンガが遊びと見なしている具体的な文化活動の例をいくつか取り上げ,遊びであるという説明がいかなる論拠に基づいて行なわれているのかを見ていく。そのなかで,ホイジンガの遊戯論における二つの問題点を明らかにする。一つは,遊びを内から見るか外から見るかの二つの視点が混在していることである。もう一つは遊びを遊び自体の特徴から説明するか文化因子としての機能から説明するかの二つの説明方法が錯綜していることである。ホイジンガ批判を踏まえて,遊びの機能を扱う研究と,遊び自体を扱う研究をそれぞれ概観する。まず,遊びに想定された機能を5つに大別して簡単に見渡し,機能を中心問題とする議論では,遊び全般に当てはまる一貫した説明を行なうことが難しいことを示す。次に,遊び自体を扱う議論としてアンリオと西村の遊戯論を挙げ,要点を整理する。遊び自体を扱う議論は,あらゆる形式の遊びに対し包括的な説明を与えうる。しかし,アンリオと西村の遊戯論は遊び自体の本質を十分に説明しきるものではなく,より詳細な分析の余地を残していることを示す。最後に,遊びの本質に迫るための視点と説明方法について考察する。人が遊びを本来的な姿で見出すのは,遊び手として現に遊んでいるときではないか。直の経験としての遊び自体こそ遊戯論の目指すべき対象であるという考えを提示し,遊び研究における遊び手の視点に基づいた遊び自体の分析の必要性を主張する。
著者
清水 颯
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.237-251, 2022-01-31

本稿では,義務づけ(obligatio / Verbindlichkeit)の根拠をめぐる18世紀ドイツ倫理思想を,完全性(perfectio / Vollkommenheit)との関連から考察する。完全性を実現するよう自らを義務づけるという発想を倫理学の原則として採用するのは,18世紀のドイツ倫理思想においては常識的見解だったからである。例えば,当時の講壇哲学を席巻していたヴォルフ学派の倫理学においては,完全性を求めることが倫理学の基本原理となっている。ここでは,三人のヴォルフ学派の思想家を取り上げる。 ヴォルフはライプニッツから多大な影響を受けながら,「多様なものの一致(Zusammenstimmung)」と定義される完全性を倫理学の中心概念へと据えた。完全性へと向かっていくよう努力することが人間には義務づけられており,それは自らの自然本性によって要求されるために,義務づけの根拠は「自然の法則(Gesetz der Natur)」となる。それゆえ,完全性へ努力する義務は「自己自身に対する義務」であると明確に打ち出しているヴォルフは,カントの義務づけ論の始祖とみなすことができるだろう。 その次に取り上げるモーゼス・メンデルスゾーンは,理性によって洞察される完全性を求めることを原理としたヴォルフ的な理性主義的完成主義の枠組みをほとんどそのまま採用している。しかし,理性だけではなかなか行為へと動かされない人間のあり方を鋭く見抜き,感情的側面と蓋然性を積極的に評価する点で,メンデルスゾーンの倫理学はヴォルフの倫理学とは異なっていた。 三人目として,カントが直接的に影響を受けていたバウムガルテンを取り上げ,完全性へと義務づけられるとはどういうことかを『第一実践哲学の原理』に則して紹介する。その際,カントによってバウムガルテンの著作に書き込まれた記述や講義録から,カントのバウムガルテンへの批判点にも注目する。最後に,カント以前の義務づけ論がカントへ流れていった形跡に簡単に触れることで,18世紀ドイツ倫理思想史の一側面が明らかにされる。
著者
有澤 優佳莉
出版者
金沢大学人間社会学域経済学類社会言語学演習
雑誌
論文集 / 金沢大学人間社会学域経済学類社会言語学演習 [編] (ISSN:21886350)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.51-64, 2018-03-22

<概要>歌詞はJ-POPのヒットの 一 因である。近年、消費者の音楽的嗜好が平均的なものになっており、歌詞に同じフレ ー ズが多用されると共に、差別化を図るために、他の曲には用いられない言葉を使用しているとされる。そこで、本研究では、 「近年、J-POP のヒット曲の歌詞において、差別化を図るため他の曲には使用されないような言葉を使用する傾向がある」と仮説を立てた。そして、1987 年から2012 年まで5 年ごとに、ヒット曲の歌詞の日本語使用語数と外国語使用語数、総使用語数がそれぞれ年数を重ねるごとに増加すると仮定し、検証した。結果は、それぞれ年々増加する形ではなかったが、おおよそ増加の傾向があり、日本語使用語数と外国語使用語数、総使用語数全てが増加の傾向が認められた。したがって、ヒット曲の歌詞は差別化が図られていると言 ってもよかろう。
著者
松田 愛 松井 茂 外山 紀久子 伊村 靖子
出版者
松田愛(富山大学芸術文化学部)
巻号頁・発行日
pp.3-54, 2022-02-28

目次レポートアートと地域の協働をキュレーションする 松田愛・・・・・4レクチャー : 2020年12月18日@富山大学方法詩の実践と社会との関わりについて 松井茂・・・・・12レクチャー解題私的芸術体験試論 松井茂・・・・・23参考 : カタログ『松井茂個展 : 詩の原型展』2004年11月ネオ・ムーサのチェーン : 方法芸術私感 外山紀久子・・・・・24レクチャー : 2021年2月17日@オンラインポストモダンダンス×歩行芸術⇒ムーシケー型アートの自己治療的側面? 外山紀久子・・・・・30レクチャー : 2021年2月11日@オンライン生活の芸術化 建築と市民を結ぶ『記憶』のアーカイブ 伊村靖子・・・・・41
著者
寺尾 智史
出版者
九州地区国立大学間の連携事業に係る企画委員会リポジトリ部会
雑誌
九州地区国立大学教育系・文系研究論文集 = The Joint Journal of the National Universities in Kyushu. Education and Humanities (ISSN:18828728)
巻号頁・発行日
vol.8, no.1, pp.No.7, 2021-10-30

宮崎大学では、一般の大学では外国語教育の対象とされていない言語を母語とする留学生が、複数の日本人学生、自分以外の留学生に対して、自らの母語とそれをとりまく文化を日本語で教えるクラスを正規授業科目として開講している。「拡張型タンデムラーニング」の実践ともいうべきこのクラスのコーディネーションおよびファシリテーション担当者としての参与観察を通して、学ぶ側、そしてなによりレクチャーする留学生側にどのような異文化理解の互恵的深化が見られるかをまとめ、今後のさらなる展開の指針とする。
著者
野村 育世
出版者
[出版者不明]
巻号頁・発行日
2003

制度:新 ; 文部省報告番号:乙1824号 ; 学位の種類:博士(文学) ; 授与年月日:2003/9/26 ; 早大学位記番号:新3645
著者
杉本 良男 Yoshio Sugimoto
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.267-309, 2015-11-27

小稿は,神智協会の創設者にして,のちの隠秘主義(オカルティズム)や西欧世界における仏教なかんずくチベット仏教の受容,普及に決定的な役割を果たしたマダム・ブラヴァツキーが,具体的にどのようにチベット(仏教)に関わり,どのような成果を収め,さらにその結果後世にどのような影響を及ぼしたのかについて,とくに南アジア・ナショナリズムとの関連に議論を収斂させながら,神話論的,系譜学的な観点から人類学的に考察しようとするものである。ここでは,マダム・ブラヴァツキー自身のアストラハン地方における幼児体験をもとに,当時未踏の地,不可視の秘境などととらえられていたオリエンタリスト的チベット表象を触媒にして,チベット・イデオロギーへと転換していったのかが跡づけられる。その際,マダム・ブラヴァツキーのみならず,隠秘主義そのものが,概念の境界を明確化する西欧近代主義イデオロギーを無効化するとともに,むしろそれを逆手にとった植民地主義批判であったことの意義を明らかにする。