著者
古家 貴雄
出版者
山梨大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
教育実践学研究 : 山梨大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = Journal of Applied Educational Research (ISSN:18816169)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.169-178, 2021-03

戦前の教員養成機関において,学生に教師の教職的教養教育を提供したほぼ唯一の学校である東京高等師範学校の附属中学校の教員スタッフであった村岡博に焦点を当て,彼の英語教育観や英語教育実践について述べていきたい.そのために彼の教育や教員生活のキャリアの概略の説明から入り,彼の学校で実践されていた新教授法の論考,初学年の英語教育導入に関する論考等について見ていきたい.その中で述べられた村岡の英語教育に関する指導観や英語教育における特定なテーマに関する考え方について,その特徴を考察してみたい.
著者
松下 博宣 東京情報大学看護学部
雑誌
東京情報大学研究論集
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.1-11, 2022-09-30

本研究は,下総台地に鎮座する下総七年祭神社,藤原時平神社,天満宮等の配置形象に含意される意味を探索的に特定することである.下総三山の七年祭りに参加する9社,八千代市の時平神社4社,ならびに下総地域に点在する天満宮,天神社を実際に訪れ,神社の位置をGoogleマップ上にプロットして,神社群の位置(緯度,経度,標高)を特定し,各神社の由緒書を収集し,関連する史料を分析した.その結果,①三山七年祭神社パラレログラム,②八千代時平系神社群トライアングル,③天満宮ラインA,B,④下総道真信仰系レクタングルという神社の呪術的配置形象が空間的に構成されていることが明らかになった.本研究の発見にもとづき,これらの神社の配置形象が,同地域に特有の水害リスクを暗黙的に示唆する可能性について論考した。
著者
福江 充
出版者
北陸大学
雑誌
北陸大学紀要 = Bulletin of Hokuriku University (ISSN:21863989)
巻号頁・発行日
no.54, pp.165-192, 2023-03-31

江戸時代初期、加賀藩前田氏は、立山衆徒(芦峅寺と岩峅寺の衆徒)を、のちに江戸幕府が本山末寺制度に基づいて日本の仏教界を統制する以前に、自藩の寺社奉行の支配下に治め、さらに立山衆徒に対し立山信仰に関わる宗教的諸権利を分与するかたちで認め、立山の実質的な管理をさせている。加賀藩のこうした政策は、同藩が立山・黒部奥山の広大な領域を誰にも邪魔されず独占的に支配するためのものであった。すなわち筆者は、加賀藩が立山・黒部奥山の軍事的重要性や鉱山資源・森林資源を有する場としての重要性、さらにはマイナス要件として、隣藩や江戸幕府との間で国境問題が勃発しかねない不安定な地域であることなどを強く意識するあまり、幕府の宗教界に対する統制よりも先んじて、立山衆徒を自藩の支配下に治め、彼らと各宗派の本山との間に本末関係を一切結ばせず、幕府の影響が直接的に及ばないようにする目的があったと推察している。そのため、以後、立山衆徒は他の寺社とは本末関係を結ばず、比叡山とは一切関係のない「無本山天台宗」或いは「天台宗門一本寺」を称して宗教活動を行っていった。しかし、加賀藩の政策に反して、長い江戸時代のなかで立山衆徒は加賀藩に徹頭徹尾支配されながらも、それとは別に加賀藩の外の権威を得ようとする動きが度々見られ、筆者はそうした行動が、いずれも近世の立山信仰の展開に大きな意義を持っていると考えている。そこで本稿では、立山衆徒が加賀藩の外の権威に関わった事例として、芦峅寺十三郎が京都吉田家から神道裁許を受けた件(第 1 章)、芦峅寺衆徒と武家の権威に関する件(第2 章・第 3 章)、岩峅寺衆徒が立山大先達の免許状を捏造した件(第 4 章)、岩峅寺衆徒と公家・門跡寺院の権威に関する件(第 5 章)の四つを題材に取り上げ、それらの実態と意義を立山信仰関係の古文書史料から分析し、最後に、以上の事例をとおして加賀藩の立山支配の在り方を考察した。
著者
太田 草子
雑誌
日本文學 (ISSN:03863336)
巻号頁・発行日
vol.114, pp.103-123, 2018-03-15
著者
松田 孝江
雑誌
大妻女子大学紀要. 文系
巻号頁・発行日
vol.27, pp.19-32, 1995-03
著者
劉 剛
出版者
沖縄大学人文学部
雑誌
沖縄大学人文学部紀要 = Journal of the Faculty of Humanities and Social Sciences (ISSN:13458523)
巻号頁・発行日
no.26, pp.121-140, 2023-03-17

琉球王国では、中国福建から渡来人によって豆腐乳が伝えられると、転身して王府の保護食品となり、王宮では珍味に格上げされたという。つまり、在地化されて文化的変容と受容により再現した。それは、薫り高いチーズのような、そしてチーズよりもコクのある、素晴らしきキューブ状の「東洋のチーズ」といい、栄養食品として王府に認定された秘蔵物である。その後、琉球王国の滅亡とともに、その運命は波乱に満ち、戦争によってほとんど消滅してしまった。しかし、戦争によって王室の保護もなくなり、民衆の食卓に降りてくるようになった。今、普及と革新の過程で、新たな問題や出会いに直面している、と筆者は提言したい。