著者
植原 亮
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2005

本年度は、研究課題である認識論(知識の哲学)に関わる学術論文一本が学会誌に掲載され、もう一本もまた雑誌に掲載予定であるという点で、目に見える成果を十分にあげることができた。具体的な内容に即して述べるならば、まず第一に、懐疑論的な議論を知識に関する一種の反実在論(あるいは認識論的ニヒリズム)として捉えたうえで、知識を自然種であるとする立場(知識の自然種論)からそうした反実在論を批判し、知識の自然種論という立場がさちに多くの認識論上の問題を解決しうる豊かなリサーチプログラムであるということを論じた。そして、第二に、直観の認識論的な身分に関わる問題に関して、反省的均衡の方法論的妥当性をめぐる議論においてそれがどのように位置づけられるのかを明確に示し、「認知的分業」の観点からこの問題を解決するという提案を行った。すなわち、直観や理論的枠組みは、おおよそ生得的・文化的バイアスによって個人や集団ごとに大きな偏倚を示すものであるが、にもかかわらず認知が個入に閉じるのではなく共同的営為である限りにおいて、認知ないしは探究は、全体としては十分と言えるような合理性を発揮することができるのだ、ということを明らかにしたわけである。上述の知識の自然種論からはまた、生物種や人工物に関する存在論的あるいは科学哲学的問題を引き出すことができたので、これに関する研究も進行中である。
著者
間瀬 啓允
出版者
慶應義塾大学
雑誌
哲學 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.95-103, 1990-12

宗教言語に対する実在論的理解と非実在論的理解のあいだの論争は,現代の宗教哲学における最も根本的な問題のうちの一つである.これまでの宗教の自己理解は,一般に実際論的であった.ところが現代では,キリスト教にも仏教にも,確たる非実在論的解釈があらわれ,その解釈が現代の科学志向の,脱-超自然主義的な一般社会に広くアッピールしている.思うに,宗教における実在論と非実在論の論争は,哲学的な議論によっては決着がつけられないであろうが,しかしその問題点の明確化は,哲学的な分析によっておこなわれうる.そこで,以下の論述は,暫らくその点に集中し,そのあとで,主題をめぐる議論の展開となるであろう.
著者
北川 治男
出版者
麗澤大学
雑誌
麗澤学際ジャーナル (ISSN:09196714)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.A15-A25, 1997

人間は不可避的に老い、そして死ぬ存在である。しかし人間が人間たるゆえんは、掛け替えのない自己自身や他者の生命の減衰と亡減を強く意識し、自覚する存在であるところにある。老年期とは、各人の人生のあらゆる側面において「縮減(リダクション)」が迫られる時期である。縮減とは、身体的諸機能が衰えること、退職、社会的活動や影響力の減少、配偶者との死別などを含む。老年期を迎えるに当たって、我々は「縮減の哲学」をもつことが必要となる。リダクションは、縮小、減少、減力などを意味する言葉で、生産、製造、産出などを意味するプロダクションとは対をなし、その対局に位置する言葉である。老年期を迎えるとき、我々は、生命の発展を期し事物の創造に携わる「生産(プロダクション)」という視点で人生の意味を捉えてきたそれまでの生き方から、かげりゆく生命力や影響力に直面して「縮減(リダクション)」という視点で自己の人生の意味を捉え直し、自己の人生哲学を再構成していくことが迫られるのである。老年期は、縮減における、縮減を通じての「自己成全(セルフ・フルフィルメント)」の時期である。それは生の充実や発展ではなく、生の全局面における縮減を前提にして、自分なりのまとまりのある人生を築き上げていく時期である。我々は老年期において、自己の縮減という自己の有限性の自覚を介して生き方の機軸の転換が求められる。それは同時に、人生の意味の深化でもある。老年期は、より深いところで自己の人生の意味を受け止めていくことのできる時期でもある。老年期には「生産(プロダクション)の哲学」から「縮減(リダクション)の哲学」への転換が求められるが、それは今日の限りない生産と消費の循環という高度産業社会の価値観や信念体系と真っ向から対立するものである。老年期に求められる「縮減の哲学」は、現代社会の哲学と全く相反するものになっているので、現代に生きる我々は、老いと死を受容することが本当に難しくなっている。だからこそ老いと死の受容の問題を生涯学習の中核的な課題に据え直すことは、高度産業社会の価値観や信念体系に基本的な反省を促すうえで必須の課題でもある。今日のように困難になった老いと死の受容のためには、介添えが必要である。老いと死の受容は、老いつつある人・死にゆく人と、当人を取り巻く近しい人々の間に、揺るぎない確固とした信頼関係が成り立っていなければ達成できない。また老いと死の受容を試み、受容にチャレンジする人の真摯な企て・生き方は、身近に居る後続世代の人々に深い形成作用を及ぼす。人間の生を、出生から死にいたるまでのライフ・サイクル全体から捉えれば、「発達(ディベロプメント)」の彼方に横たわる縮減を視野に入れた人間形成論が必要になってくる。この新たな人間形成論は、子供と大人の発達や異世代間の相互規制をも含む人間形成だけではなく、人間の生の必然的契機である縮減を受容することによる自己成全までを考察の対象とするものである。このような人間形成論に基づけば、若い世代も老年世代も、老いと死という人生に不可避の事態をいかに受容していくのかが、生涯学習の必然的な課題となるのである。
著者
河見 誠
出版者
青山学院女子短期大学
雑誌
青山學院女子短期大學紀要 (ISSN:03856801)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.105-128, 2002-12-10

From the 1990s the "New Civic Society" which is diffent from the market society becomes the focus of public attention. The "New Civic Society" is composed of various associations and communities including NPO, NGO, volunteer groups, ecology movements, etc. The reason why many people pay attention to the "New Civic Society" is their expectations for it to open not only a new development in politics but also a public space for human flourishing. Then what role does law play in this "New Civic Society" movement? "Republicanism" insists that law makes possible and activates communications in the New Civic Society. Therefore law is the basis for politics and human flourishing in the new era. Criticizing republicanism thoroughly, Emilios A. Christodoulidis insists that law pauperises politics and excludes many human (anguished) voices. Instead of law, he proposes "Reflexive Politics" which activates politics and human activities. His theory is based on "contingency" and "self-reference" so as to "remain free to contest." I think Christodoulidis' criticism of republicanism is to the point, but reflexive politics does not bring about open public sphere, non-exclusive human relationships. This is because the theory presupposes "passion"-based human relationships. I will propose politics (or love) as "corn-passion" instead of politics (or love) as "passion." I think "compassion"-based human relationships will certainly open the possibility to "remain free to contest." A theory based on "compassion" would restore the world of ethics, and it would try not to exclude law and politics from the world of ethics, but to locate them in the world of ethics. We can name it "Natural Law Theory as Compassion." This theory is worth studying as a philosophy of law for the "New Civic Society."

1 0 0 0 OA 『挑戦』

著者
井上 昭一
出版者
関西大学
雑誌
關西大學商學論集 (ISSN:04513401)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.113-121, 2005-04-25

アルフレッド・P・スローン・ジュニア(1875〜1966)に関しては,経歴や経営哲学を含めあらゆる側面・角度から追求され分析され尽くした感があり,今更,私が仰々しく紹介するまでもないだろう。ただ一言でいいあらわすとすれば,私は,単に卓越したプロフェッショナル・マネジャー以上の存在であったとの敬意を込めて,彼のことを「インダストリアル・ステーツマン」と称したい。本稿は,当時ジェネラル・モーターズ社(以下GM)の会長(1937〜56年まで会長に在位)であったスローンが第2次大戦中の1943年12月に,「アメリカ産業戦時評議会」(Second War Congress of American Industry)で『挑戦』(The Challenge)と題して行った講演の記録を抄訳したものである。講演はきわめて広範多岐にわたっており,終戦後に企業,政府,個人を含めアメリカ合衆国全体が国際社会の中で歩むべき道や,それに向って努力することの重要性が,適切かつ具体的に表明されている。彼の講演録を読んだとき,私は古来よりわが国日本において語り継がれてきた名言,すなわち「夢なき者に目標なし。目標なきものに努力なし。努力なきものに成果なし。」を想起した。それほど明快な,資料的価値にとんだ内容であり,紹介する所似である。
著者
小口 一郎
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本研究は、近年の文化研究における「身体性」の再発見に基づき、ロマン主義文化の物質・肉体面を超領域的に考究し、ロマン主義の身体意識を宗教、文学、政治、哲学に通底し、ヨーロッパ全土に渡る超域的文化運動として再定義することを目的としている。文化史および文化理論の分野に棹さすものであるため、方法論的な原理を考察した後に、研究対象の時代順に研究に着手した。平成16年度は、ロマン主義以前の科学、政治思想、そして擬似科学の調査を実施した後、最初期ロマン主義の身体性の研究への見通しをつけた。まず、ヤコブ・ベーメ、カドワースを始めとする17世紀までの神秘主義者やプラトン主義思想家の宇宙観と、神の恩寵たる「流出」の概念、そしてそれを受けたニュートンの物理学と、宇宙に遍在する「能動的原理」の思想、そしてプリーストリーら18世紀の非国教会派の科学的世界観を、ロマン主義の身体性に繋がる思想の流れとして捉え直した。こうした思想が、政治思想における共和主義、民主主義政治運動そして革命的急進主義の流れとへ結びつくことを、資料のレベルで確認した。この成果を基に、ロマン主義最初期の身体意識を概観した。1780年代から90年代にかけての英国および大陸ヨーロッパの急進主義と自然哲学、そして非国教会系の神学運動を調査し、ロマン主義文化のインフラストラクチャーとして位置付けた。この結果、ゴドウィン、エラズマス・ダーウィン、ウィリアム・ペイリーなどの政治思想が、神学および自然哲学の観点から再解釈され、ロマン主義的身体性の枠組みを構成することが明らかになった。同時に、18世紀の神経生理学が、神学と政治学を思想的に結び付け、ロマン主義初期の唯物論的な身体意識を産む思想的枠組みとなっていたことを突き止め、この観点から本研究の本年度における暫定的な結論付けを行った。
著者
小口 一郎
出版者
静岡大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1999

研究計画の二年目にあたる本年は、一年目の研究で明らかとなった「宇宙有機体説」または「万象生命体論」の思想が、イギリス・ロマン主義の想像力論の形成に果たした役割を、三つの段階に区分して解明し、合わせて研究成果の総括を行なった。1)まず、フランス革命に代表される急進主義思想と有機体論哲学、そしてロマン主義との関連を初期のロマン主義思想と当時の科学者や政治思想家の中に探った。その結果、政治的急進主義思想を媒介として、キリスト教の千年王国主義と有機体論が結びつき、全宇宙が生命体として進歩するという、生物進化論を産み出したこと、およびこの思想がエラズマス・ダーウィンなどを経由してロマン主義に重要な思想的枠組みを与えたことが明かとなった。2)次にロマン派の第一世代を代表するワーズワスを取り上げ、彼の世界像が有機体的な世界観に書き換えられ、「生命霊気」の概念に基づく新しい文学理論と想像力説を生み出す過程を検証した。この新しい文学観は、精神内面の神格化と、生成発展する自律的自我という、ロマン主義に特有の二つの概念を両立させる思想的装置であることが判明した。これは後にコールリッジにおいて、ドイツロマン派の哲学を取り入れた想像力論として結実した。3)最後に、有機体論の観点から、第二世代のロマン主義者が抱いた想像力論を検証した。その結果、1810年代以降も科学思想は政治的急進主義に影響を受け、パーシー・シェリーの神なき宇宙の動因としての生命霊気、ジョン・キーツの進化論的宇宙論を産み出したことが明かとなり、最終的にメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』において生命霊気が人工的操作の対象として神性を失ったことが判明した。この第二世代のロマン派こそが、現代科学が急速に成立する直前の時代にあって、生命体論や有機体論を文学的思想として昇華し得た最後の世代であった。
著者
高橋 輝暁
出版者
立教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

1.ヨーロッパにおける「精神」(Geist)概念の系譜について,初期古代ギリシアの哲学者アナクシメネスにいう「プネウマ」(pneuma)までさかのぼって吟味するにあたり,古代ギリシア語ならびにラテン語のうち18世紀ドイツで「精神」(Geist)およびその派生語を用いてドイツ語訳された単語や概念を探るという方法で,たとえば,キケロにおける「狂気」に相当するラテン語(furor)は,デモクリトスにおけるギリシア語「プネウマ」に対応する意味をもつ概念として,18世紀ドイツのゴットシェートにより「精神を吹き込まれた状態」を意味するドイツ語(Begeisterung)をもって翻訳されていることが確認された。2.ヘルダーリンの作品やヘーゲルの『美学講義』において,「精神」概念を「プネウマ」の訳語としてとらえ,その汎神論的原義にさかのぼって解釈することにより,難解とされる各箇所を明解に解釈できることが確認された。3.「プネウマ」の類義語ともいうべき「エーテル」(aither/aether)を概念史的に追跡したところ,近代では,少なくとも初期ライプニッツにおいて,「エーテル」概念は「プネウマ」のラテン語訳とされる「スピーリトゥス」(spiritus)とも密接に関連し,物質性とともに観念性をもあわせもつ「プネウマ」に特徴的な二重性のうち,「自然」としての前者には「エーテル」概念が,「精神」としての後者には「スピーリトゥス」概念が用いられ,それぞれ概念的に使い分けられているとの感触をえた。この点の立ち入った検証とともに,このライプニッツの思想が18世紀ドイツにおける「精神」概念に与えた影響の追跡は,今後の課題である。4.東洋思想における「気」の概念と「プネウマ」概念とは,ともに「大気」という物質性と「精神」という観念性をあわせもつという並行的対応関係の比較対照的分析の糸口をつかむことができた。