著者
柘植 秀樹
出版者
日本海水学会
雑誌
日本海水学会誌 (ISSN:03694550)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.4-10, 2010 (Released:2011-07-05)
参考文献数
29

2 0 0 0 OA 国史大系

著者
経済雑誌社 編
出版者
経済雑誌社
巻号頁・発行日
vol.第6巻, 1905
著者
田中 光一
出版者
東京医科歯科大学
雑誌
特定領域研究
巻号頁・発行日
2006

中枢神経系の興奮性シナプス伝達は主にグルタミン酸により担われており、グルタミン酸シグナル伝達の解明は脳機能解明の基礎となる。我々の分野では、神経回路網の形成・脳高次機能におけるグルタミン酸シグナリングの機能的役割を分子、細胞、個体レベルで明らかにすることを目指す。また、過剰なグルタミン酸は神経毒性を示し、様々な精神神経疾患の原因と考えられている。精神神経疾患におけるグルタミン酸シグナル伝達の病態生理学的役割を解明し、それら疾患の新しい治療法の開発を目指す。グルタミン酸トランスポーターは、神経終末から放出されたグルタミン酸を取り込み、神経伝達物質としての作用を終わらせ、細胞外グルタミン酸濃度を低く保つ機能的分子である。現在まで脳のグルタミン酸トランスポーターには、グリア型2種類(GLT1, GLAST)と神経型2種類(EAAC1, EAAT4)の計4種類のサブタイプが知られている。本年度は、グルタミン酸トランスポーターのうち、GLASTまたはEAAC1をノックアウトしたマウスでは眼内圧の上昇を伴うことなく網膜神経節細胞が脱落し視神経が変性するという、正常眼圧緑内障と同様な症状が生ずることを見出した。GLAST欠損マウスではミューラー細胞内のグルタチオン含量が減少しており、グルタミン酸受容体阻害薬を与えると神経節細胞の減少が抑えられた。一方、EAAC1欠損マウスでは神経節細胞の酸化ストレスに対してさらに脆弱化していた。これらの事実からこれらのグルタミン酸トランスポーターはグルタミン酸による興奮毒性の抑制に加えてグルタチオンの合成にも必要であることが示唆される。このマウスは正常眼圧緑内障の始めてのモデルであり、今後のこの種の疾患の治療法の探索に有望なモデルであるとしている。
著者
森 一夫 出野 務
出版者
日本科学史学会
雑誌
科学史研究. 第II期 (ISSN:00227692)
巻号頁・発行日
vol.15, no.120, pp.196-199, 1977-01-31

周知のようにニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』(以下,『プリンキIピア』と略記する)の冒頭に 定義I 物質量とは,物質の密度と大きさ(マーグニトウードー)(体積)とをかけて得られる,物質の測度である. と質量を定義している.一見循環論法とも思えるこの不自然な定義をめぐり,E.Machを初めとして今日までさまざまな解釈が行われ,議論されてきた.わが国でも『科学史研究』誌上で,渡辺正雄・板倉聖宣両氏の論争が行われたことは記憶に新しい.両者の論争によって新しい視点が提供されたのは注目すべきであるが,なおも問題点は解決されないまま残されているので,筆者はあえて別の視点からニュートンの質量の定義に関して新しい解釈を試みようとした.筆者の見解を述べる前に,その素材を提供したともいうべき両氏の論争を最初に紹介しよう.
著者
中村 泰介 中村 公美子 松原 英樹 ANTONIO Solana SEVILLA FC
出版者
聖トマス大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2009

本研究の調査を終えて、フランス(フランス国立サッカー学院(I.N.F.))、スペイン(SevillaFC)のサッカー指導現場における「パスアンドゴー」のプレーのトレーニング及びコーチングは常に「技術」と「戦術」が〓がったもの、或いは一つとして捉えられており、さらにスペインではそこに「フィジカル」「メンタル」の要素が包含されているものであった。日本においても同様の認識はなされてはいるものの、「戦術」へ〓がる「技術」の習得、或いは「戦術」の中で必要となる「技術」、といった指導者のコーチングの認識レベルをさらに高めていく必要性があり、そのことが選手のプレーを世界水準へと飛躍させる一つの手がかりになると考える。
著者
松山 薫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

広島県呉市は、1889(明治22)年の呉鎮守府の開庁を契機に、軍港都市として近代以降急速に発達した都市である。1902年に宮原村、荘山田村、和庄町、二川町が合併して市制を施行し呉市となった。その後、周辺に海軍関連施設用地が拡大するのにともない、さらに隣接町村の合併を視野に入れた「大呉市」構想が模索されたが、それが実現するのは昭和に入ってからであった。すなわち旧呉市に隣接する吉浦町、警固屋町、阿賀町の編入(1928[昭和3]年)、そしてさらに東方の広村、仁方村の編入(1941年)である。こうした市域拡大の背後には海軍の意向が働いていたが、一方で関係する自治体の側も、地域性や歴史的経緯の違いから、合併に対する態度は町村ごとに大きく異なった。本発表では、独自路線を貫こうとしたものの、海軍と広島県の圧力により最後に合併を受け入れた賀茂郡広村を主にとりあげる。 1941年に呉市と合併することになる広村は、地勢的にも歴史的にも当初の呉市域とは一線を画しており、呉市との合併を最後まで拒否しようとした自治体であった。広村は黒瀬川(広大川)河口部の低地を中心に発達した農村で、広村の西に位置する灰ヶ峰や休山などの山塊が、旧呉市の市街地が広がる二河川・境川流域との間を隔てている。広村はもともと優良農村として全国的な知名度を誇っていた。1910(明治43)年、内務省の模範村選奨制度が始まった際に、広村は最初に表彰を受けている。その後、1921(大正10)年に呉海軍工廠広支廠が開庁(2年後に広海軍工廠として独立)すると、それまでの農村的性格は次第に変貌した。広村は、急激な人口流入と市街化に対応し、将来的には「広市」としての市制施行を視野に入れた独自の都市計画に着手した。しかし、一方で呉市も呉市、阿賀町、警固屋町、吉浦町、広村を範囲とする広域的な呉都市計画区域案を作成していた。広村は当然そこに含まれることに強く反発したが、海軍、広島県、呉市の3者の意向のもとで1925年に呉都市計画区域は決定され、広村独自の都市計画構想は消滅した。 このような軍港周辺の都市計画決定や市町村合併には、海軍関連施設等の散在する地域を一体的に扱おうとする海軍の意向が強く働いており、それに抗うことは時代を追うごとに困難になった。田村(1957)によると、1940年11月に、元呉市長・澤原俊雄が自邸で山中直彦広村長、相原環仁方町長、水野甚次郎呉市長らと会見し、広村、仁方町の両首長に呉市との合併を説いた。その後5ヶ月間、山中村長は、海軍(鎮守府参謀長、工廠長等)と、その意を受けた広島県(知事、総務部長等)との交渉にあたって奔走したが、最終的には両者からの強硬な申し入れにより、「高度国防国家建設」のために合併を受け入れざるを得なかった。なお、こうした一連の軋轢は、戦後における広の呉市からの分離を目指す運動(1948~1950年)にまで尾を引いた。 田村信三 1957.『広町郷土誌』広町郷土史研究会.
著者
稲葉 奈々子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.210-223, 2014

新自由主義的な政策に基づく住宅など社会保障の市場化に抗して活動を開始した「DAL (住宅への権利運動)」を中心に, フランスの反グローバリズム運動を分析することが本稿の課題である. 社会保障の市場化は, 社会運動の古いテーマであった再分配の問題をふたたび表舞台に引き出した. 社会保障の市場化によって社会的排除を経験したのは, まず貧困層の移民家族であった. DALの担い手はフランスの旧植民地出身の移民一世が9割以上を占める. DALの運動は, グローバルな規模の構造的不平等を指摘し, 植民地出身者の毀損されたアイデンティティの承認と, 公正な分配を求める運動を連動させて展開する可能性があった. しかし実際には, 新自由主義的な政策が社会の領域をも市場原理で席巻していくことへの異議申し立てとして展開した. 市場経済至上主義に対して「万人にアクセス可能な公共性」を掲げたため, 運動はミドルクラスの支持を得て, 住宅への権利を保障する複数の重要な法律の制定が実現した. そこに植民地主義的な権力関係を問題にするアイデンティティの政治が入る余地はなく, また担い手の移民たちも生活の改善のために勤勉に働く1世で, 「普通の生活」の実現が運動参加の動機であった. 結果として反グローバリズム運動を新自由主義に適合的な行為者が担うという矛盾がみられ, また, 構造的な不平等の是正は実現しなかった.
著者
西野 春雄
雑誌
能楽研究 : 能楽研究所紀要 (ISSN:03899616)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.143-153, 1974-10-31