著者
杉山 弘晃 目黒 豊美 吉川 雄一郎 大和 淳司
出版者
人工知能学会
雑誌
人工知能学会全国大会論文集 (ISSN:13479881)
巻号頁・発行日
vol.31, 2017

現在の雑談対話システムでは、雑談で観測される幅広い話題の間の連続性を正しく認識することが容易でないため、文脈とつながらない話題を発話し対話を破綻させてしまう問題がある。一方、ロボットを複数体化することで、ユーザ発話中の話題に対する応答義務が緩和されるため、話題の連続性に対する要求を低減させ、破綻を回避できると予想される。本研究では、このロボット複数体化による対話破綻回避効果について分析を行う。
著者
林 優子 末光 茂
雑誌
川崎医療福祉学会誌 (ISSN:09174605)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.237-244, 2001-12-25

重症心身障害児(重症児)施設旭川児童院では, 在宅訪問事業や通園事業, および外来の充実により, 短期入所利用が急増している.重症児では, 短期入所の際に不適応反応を示す例が多く, かつて環境変化や母子分離が引き金となり体調が悪化し, 死亡に至った例を経験した.今回, 我々は, 在宅重症児の重度化傾向が進む中, より安全に短期入所を受け入れられるよう様々な取り組みを行い, その成果と今後の課題について検討した.平成11,12年度短期入所利用者73名には医療的問題を有する例が多く含まれていたが, 利用時の死亡例はなく取り組みは有用であった.しかし, 大島分類1の40名中半数に, 摂食困難, 過緊張, 不眠, 呼吸障害の悪化などの症状が見られ, 特に呼吸, 摂食障害を伴う年少児の症状が重篤であった.また, 2名に骨折があり, より安全な受け入れに向けての対策が必要と考えられた.今後も, 医療ニードの高い重症児の短期入所が増加すると予測される.在宅重症児を支援していくために, 短期入所を単に一時的な預かりではなく, 重症児の自立への支援の一つととらえる視点が必要である.そのためには, 保護者と信頼関係を築き, 専門性を生かしたより安全で質の高い短期入所の受け入れ体制の整備が重要と考えられた.
著者
Cem SAHIN Zafer C. CEHRELI Muhittin YENIGUL Bulent DAYANGAC
出版者
日本歯科理工学会
雑誌
Dental Materials Journal (ISSN:02874547)
巻号頁・発行日
vol.31, no.3, pp.401-408, 2012 (Released:2012-05-28)
参考文献数
32
被引用文献数
4 15

To investigate the permeability of deep dentin following immediate sealing with different etch-and-rinse and self-etch adhesives (Single Bond 2, Adper Prompt L-Pop, Clearfil Protect Bond, Clearfil S3 Bond, G-Bond) and a dentin desensitizer (Gluma). Fluid-transport model was used to measure fluid conductance during and after application of adhesives. Polyvinylsiloxane impressions of bonded dentin were taken to monitor fluid transudation from the surface of the adhesives. The area and number of dentinal fluid droplets and/or blisters were calculated using image analysis. None of the adhesives were able to block fluid conductance completely. The fluid conductance values of the adhesives displayed the following statistical ranking (p<0.05): G-Bond≤Clearfil Protect Bond<Smear-layer-covered dentin<S3 Bond≤Single Bond 2≤Adper Prompt L-Pop<Gluma Desensitizer<Acid-etched dentin. Highly significant correlation was observed between the permeability of the tested adhesives and the area fraction of fluid droplets/blisters on the adhesive surfaces (r=0.99, p<0.01).
著者
木下 郁夫
出版者
愛知県立大学
雑誌
紀要. 地域研究・国際学編 (ISSN:13420992)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.199-220, 2007

国際政治の「現実」とは何であろう。政治学は規範を説教するぼかりでなく、「現実」、すなわちありのままの実存を対象としなけれぼならない、とエドワード・ハレット・カーはいましめた。『危機の20年-国際関係序説-』は彼の講義の学生どころか、国際関係論を志すあらゆる者にとり序説でありつづけている。ところが、彼の「現実」には二重の意味があった。実存以外のもうひとつの意味は、力と国家を国際政治の本質とみることであった。世論、知性、自由放任、調和、国際主義、道徳は非本質とされ、実存しない、あるべき理想境の「ユートピア」とされた。さらに、これらを重視する政策まで「ユートピアニズム」と命名され、国際連盟や諸条約がひとくくりにされた。ユートピアニズムはカーにとり、現実主義のひきたて役でしかなかった。彼は歴史のあと知恵で、つごうのよい概念と発言のよせあつめでわら人形をつくり、ノックダウンすることができた。アドルフ・ヒトラーの登場と第二次世界大戦の勃発で、力と国家の全盛期ははじまっていた。「幼稚な」ユートピアニズムと「成熟した」現実主義の二分法は、説得力あるレトリックにおもわれた。しかし、連盟も諸条約も不成功の諸提案も、まぎれもなく歴史事実であった。実存しても(彼の定義する)本質でなければ非現実、とするカーの論法はダブル・スタンダードであった。本論文ではユートピアニズムのレッテルをはられた諸現象を解剖する。まずは、法学的解剖から着手したい。
著者
松田 慎也
出版者
文化庁文化部
雑誌
宗務時報 (ISSN:04484347)
巻号頁・発行日
no.107, pp.18-36, 2002-08
著者
中島 淑恵
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.153-167, 2017-08-21

ラフカディオ・ハーンが日本に興味を抱いたのは,1884年にニューオリンズで開催された万国博覧会で日本の様々な文物に触れ,また農商務省の服部一三と出会ってそれらの文物の説明を受けことがきっかけであると一般に言われている。しかし,ニューオリンズ時代のハーンは,それよりも1年も前に発表されたコラム「日本の詩瞥見(A Peep at Japanese poetry))において,「日本の詩」すなわち和歌についての並々ならぬ知見を披露している。この時期のハーンは確かに,のちにモーデルによって取りまとめられた『東西文学評論(Essays in European and Oriental Literature)』の目次を見ればわかるように,世界各地の民話や伝承に興味を抱いていたのであって,日本をとりわけ特別な国と認識していたとは言い難いかも知れない。実際,『東西文学評論』にまとめられたアジアに関するコラムは,仏教の紹介からインドの女流による詩,中国人の信仰と並んでこの「日本の詩瞥見」が収められているのであって,アジアをざっと俯瞰したような布置になっているのは確かである。しかし,ヘルン文庫に収められた,このコラムを執筆する種本になったと思われるレオン・ド・ロニーの『日本詞華集(Anthologie japonaise)』を精査すると,おそらくこのコラムの発表された1883年頃に,ハーンの中で日本という国が,アジア諸国の「ワン・オブ・ゼム」から,何か特別な位置を占める唯一の国に変貌を遂げたのではないかと思われる点が見受けられる。すなわち,実際の日本や日本人と対峙する前に,ハーンは書物によってすでに「日本」なるものに深い関心を寄せていたのではないかということが十分に推察されるのである。またモーデルは,1923年に『東西文学評論』を編纂するにあたって,グールドがその著作の中でリストに挙げなかった1882年から1884年までの『タイムズ・デモクラット』紙に収められた無署名のコラムをハーンのものとして収録しており,「日本の詩瞥見」もその一つである。これら無署名のコラムをどのようにしてハーンの筆になるものと同定できるのかについて,実は客観的な根拠はないに等しい。またモーデルは序文の中で,「グールドの著作にないタイトルで私が選んだコラムは,ハーンによるものであることに些かの疑いの痕跡もないものである(The editorials I chose, whose titles do not appear in Gould's book are those of which there is not the least vestige of doubt that they are Hearn's)」と述べているが,その理由は「同紙の他の誰も,東洋の事柄についてこれほど親しんだ者はいないし,フランスのロマン派に熱情を抱く者もいなかった(No one else on the paper was as familiar with Oriental topics or had such a passion for the French romantics)」というものであり,これに続く例示はロチなどフランスの作家についてのもので,「日本」を題材にした「日本の詩瞥見」が,なぜ「疑いの余地なく」ハーンの筆になるものと同定できるのかについては何も述べていない。しかし,ヘルン文庫に収められたロニーの『日本詞華集』の精査によって,やはりこのコラムがハーンの筆になるものとある程度確定できる根拠となるものが見つかったようにも思われるのである。以下小論は,このような見地からロニーの『日本詞華集』を中心に,1883年頃のハーンの日本に関する関心のありようを観察することによって,「日本の詩瞥見」をその後のハーンの日本関連の著作との関連から読み直そうとするものであり,この無署名のコラムがハーンの筆になるものと確定し得る根拠の一端を示そうとするものでもある。
著者
堀井 統之 加藤 恒昭 大山 芳史
雑誌
全国大会講演論文集
巻号頁・発行日
vol.41, pp.183-184, 1990-09-04

メッセージ、特に電報文を対象として、その効率的な蓄積方法について検討を行なっている。できるだけ少ない蓄積メッセージから多様なメッセージを生成するためには、蓄積されている複数のメッセージの各部分を組み合わせて新たなメッセージを合成できると都合がよい。これは、たとえば、(例1)新郎、新婦の誕生バンザイ。人生は七転八起。二人三脚で長い旅路のゴールを目指そう。(例2)ご結婚おめでとうございます。北の町の春は、お二人の愛から始まります。末長くお幸せに。という2つの電報文が蓄積されているときに、これらから、ご結婚おめでとうございます。人生は七転八起。二人三脚で長い旅路のゴールを目指そう。末長くお幸せに。を合成できるということである。このような処理を考えた場合、メッセージをそのまま蓄積するのではなく、新たなメッセージを合成する際の一部分となり得るような単位、すなわち「人生は七転八起。二人三脚で長い旅路のゴールを目指そう。」などのような、意味的につながりを持つまとまりに分割して蓄積する必要がある。我々はそのような単位のことをセグメントと呼んでいるが、本稿では、各文の言語行為に着目して、メッセージを自動的にセグメントごとに分割する手法について述べる。
著者
上嶌 真弓
出版者
奈良女子大学
雑誌
人間文化研究科年報 (ISSN:09132201)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.345-356, 2010-03-31

The Empress Jingu was regarded as a good example of stateswoman in Japanese Middle Ages.It was written that she was "the first female Emperor" or "the Emperor Jingu" in a lot of historical materials. Moreover she was worshiped as a goddess of wind and rain, and she was also worshiped as agoddess of war. Therefore the Empress Jingu was recognized as "the female Emperor" and "Goddess" in the Middle Ages.Next, it was written that the Empress Jingu was "cyukou" in some historical materials. Her godhead was highly classed. She was estimated as highly as "Amaterasuoomikami". The hachiman belief was very popular in the Middle Ages. Its main god was the Emperor Oujin, who was the Empress Jingu's son. The reason why the Emperor Oujin was respected was that his mother was the Empress Jingu.The Empress Jingu was highly estimated as "the female Emperor" and "Goddess" in the Middle Ages. Furthermore her godhead competed with that of "Amaterasuoomikami".
著者
髙橋 晋一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.221-237, 2015-02

本稿の目的は,阿波踊りにおける「企業連」の誕生の経緯を阿波踊りの観光化の過程と関連づけながら検討することにある。とくに,阿波踊りの観光化が進み,現代の阿波踊りの基盤が作られるに至る大正期~戦後(昭和20年代)に注目して分析を行う。大正時代には,すでに工場などの職縁団体による連が存在していた。またこの頃から阿波踊りの観光化が始まり,阿波踊りを会社,商品等の宣伝に利用する動きが出てきた。昭和(戦前)に入ると阿波踊りの観光化が進み,観光客の増加,審査場の整備などを通して「見せる」祭りとしての性格が定着してくる。小規模な個人商店・工場などが踊りを通じて積極的に自店・自社PRを行うケースも出てきた。戦後になるとさらに阿波踊りの観光化・商品化が進み,祭りの規模も拡大。大規模な競演場の建設と踊り子の競演場への集中は,阿波踊りの「ステージ芸」化を促進した。祭りの肥大化にともない小規模商店・工場などの連が激減,その一方で地元の大会社(企業)・事業所の連が急激に勃興・増加し,競演場を主な舞台として「見せる」連(PR連)としての性格を強めていった。こうした連の多くは,企業PRを目的とした大規模連という点で基本的に現在の企業連につながる性格を有しており,この時期(昭和20年代)を企業連の誕生・萌芽期とみてよいと思われる。なお,阿波踊りの観光化がさらに進む高度経済成長期には,職縁連(職縁で結びついた連)の中心は地元有名企業から全国的な大企業へと移っていく。阿波踊りの観光化の進展とともに,職縁連は,個人商店や中小の会社,工場中心→県内の有力企業中心→県内外の大企業中心というように変化していく。こうした過程は,阿波踊りが市民主体のローカルな祭り(コミュニティ・イベント)から,県内,関西圏,さらには全国の観光客に「見せる」マス・イベントへと変容(肥大化)していくプロセスに対応していると言える。This article aims to reveal how company-based Awa Dance groups were born by examining the progression in relation to the process of developing the Awa Dance Festival as a tourist event. As more and more tourists were involved in the festival, workplace-based dance groups (dance groups based on workplace relationships) were changing; such a group originally consisted of colleagues of a private-run shop, small or medium-sized company, or plant (from the Taisho to the pre-World War II period), then colleagues of a leading company in the prefecture (in the post-World War II period), and in the end colleagues of a large company inside or outside the prefecture (after the high economic growth period). This development corresponded with the change (growth) of the festival from a local festival mainly for residents (a community event) to a mass event to put on a show for visitors from within the prefecture, within the region, and around Japan. The first dance group formed by a local large company/business since the end of World War II had a similar characteristic with current company-based dance groups in that it was a large group organized for the purpose of corporate public relations; therefore, it is considered that company-based dance groups were born and began to develop at that time (from the late 1940s to the early 1950s).