松裕堂 (@syoyudo)

投稿一覧(最新100件)

3 0 0 0 OA 陸奥宗光

@foxcope >どの本かわからなくなって難民 どなたの本を読まれたのかまではわかりませんが、伝記での初出(つまり根拠・元ネタ)は『陸奥宗光』(明治31年-1898年-、坂崎斌-坂崎紫瀾-著)のこの部分かなと思いますん。 https://t.co/NxFxmduN7x
@ohazu0828 >中岡慎太郎全集持ってる方で是非kwsk…!!!! 中岡慎太郎全集からではないですけど、下記URLのコマ番号280あたりから読むと幸せになるかも知れません。 【武市瑞山関係文書.第2】国立国会図書館デジタルコレクション https://t.co/HExNg0I3PW

7 0 0 0 OA 続再夢紀事

@oretatami >そういう詳細が 添付画像は『続再夢紀事(6)』から該当部分(慶応三年四月一八日条)です。御参考までー。 https://t.co/tBeSjhHO3w https://t.co/F2Jjm3mYCm

お気に入り一覧(最新100件)

2 0 0 0 原六郎歌集

#自慢の坂本龍馬グッズ 445.坂本龍馬のテレホンカード 12 中岡慎太郎2枚 金箔 和歌繋がりで原六郎の『六郎歌集』に龍馬のこと詠んでいることを知る。 https://t.co/qxLfGRVx3c 10/19 1745年Jonathan Swift死去  ガリバー旅行記 昭和2年童門冬二生誕 1936魯迅死去 https://t.co/sG850Q0ZFR

2 0 0 0 幕末維新

NDL 幕末維新. 第13編 (第十六代豊範公紀 明治三年三月四日~明治四年五月末日) https://t.co/7KaQ5zBeUI 「豊範公肖像(木炭画)」は、はじめ写真だと思ってたので絵なの!?でした…好きな豊範のひとつ 実物で質感を確認したいなーと見たいものリストに入れていた。作者誰なんだろう

1 0 0 0 幕末維新

https://t.co/o0t88Z6PMX 個人送信で『山内家史料 第十六代豊範公紀 幕末維新』の慶応元年から明治19年まで読めるようになったのはあまりにも強すぎる
こちらの論文中の「表1『都下諸流試合姓名帳』(弘化4年4月)にみる練兵館門下生の他流試合数」に出てくる「近藤道場」って、試衛館の事だろうか。 https://t.co/GW8onVFRxK
https://t.co/VQTT70b7DQ 羽田野さんの伝記だと、吉田の羽田野さん宅に潜伏した志士の中の一人として以蔵がカウントされてる。(次デジすごすぎる~) https://t.co/UiufXatuqF

52 0 0 0 OA 豊橋市史談

豊橋の国学者羽多野敬雄の書簡に文久3年12月の以蔵の動向が出てくるんだ。 羽多野さんへ攘夷事件を語ったり新居の飯田武兵衛本陣に泊まったりしてる。 https://t.co/8xzDM9MkbO
https://t.co/OqE2018bbh 高知空襲で焼失した「土佐史料」の全索引がないかと去年いろいろ探してたんですが、国会デジタルで見れたんですね。今は読めない史料がたくさんある…

18 0 0 0 OA 谷干城遺稿

次世代デジタルライブラリー様のおかげで、未見だった『干城遺稿』中の晩年の大石圓を知ることができました。 明治33年10月25日の「計らずも大石弥太郎氏来り久しぶりに面会す 丁字結にてなお壮健なり」で泣きそうです。明治30年代の圓は貴重すぎる https://t.co/4BqQnOGvEC

9 0 0 0 OA 南国遺事

https://t.co/JdZ9vNYP3P 盛節(天保~安政にかけて土佐藩士格の子弟の間に歌われた歌)の歌詞はいろいろなバージョンがあるけど 十番の「問う文と武は昼励み 夜は衆道で血気をば」はダイレクトすぎるッピ!
『梅本記』の中の遊女関係史料翻刻。当時の喋り言葉を使って書かれたものです。教養の高い女性は所謂「女言葉」を使うように定められていただけで、大多数の女性は普通に喋っていたし書いていたことが明らかになりますね。 https://t.co/pIPMcsp3mc
亡くなられた色川大吉さんは自由民権運動研究や民衆史で有名な方でしたが、1968年に「資料紹介 佐々木高行日記(前)ー天保から慶応3年まで 尊攘派下士の足跡ー」を執筆されています。色川大吉さんには数年前一度お会いしたことがありました。 https://t.co/vNAtEfGjnn

1 0 0 0 OA 土佐之武士道

https://t.co/3RCwWQEZye たおか典夫の短編「しばてん榎」の元ネタは 小八木屋敷の榎の木に出た妖怪からとっているという話好き (この本でしか小八木邸の怪異の話を見ないので探し中)

1278 0 0 0 OA 明治天皇行幸年表

『明治天皇行幸年表』(明治天皇聖蹟保存会 編、大行堂、昭和8年)の96頁に記載がありました。(国会図書館デジタルコレクションでは56コマ) https://t.co/51Gmk4UMUP https://t.co/MChuhJINNR
中山忠能宛の正親町公董書状に面白い記述が。古高俊太郎の口書が触書として張り出されたと。他の風説書にも古高口書が写されているんですが、これで伝存経緯が判明するのでは。 https://t.co/jEkbl2QhNN
鈴藤勇次郎の書簡。どうも平岡円四郎暗殺事件で川村が水戸藩の刺客と応戦の際使った刀は鈴藤のものだったようです。顔に傷を負った川村に「尊兄当時は大いにモテ風聞有之御浦山敷奉存候」と言っていますね。 https://t.co/QM7gDjj9KX
門谷貫助さん、武市先生の牢番やってるうちに先生に感化されて脱藩、海援隊に入ったかと思ったら 明治はじめには赤坂喰違の変の武市熊吉たちの埋葬を取り仕切ってる いったい何者なんだ https://t.co/WQUOSxNdJf https://t.co/50OWtFcTWJ

1 0 0 0 OA 巣内信善遺稿

古高俊太郎らですが、六角獄で斬り殺された可能性はあるでしょう。少し後になりますが刑死とされる村井政礼は出獄させると言われ、外に出されたところを斬られたと同獄にいた巣内式部が書いています。奉行所が私的なかたちで斬ったものを処刑と述べていたことになりますね。 https://t.co/d5b4l94xid

18 0 0 0 OA 谷干城遺稿

谷さん日記、帝政派出るじゃん!とめくってたら森新太郎や島村外内や淡中新作が登場するページで震えてきた 「島村外内氏来る 例の如く封建主義の論を出す またその子を仕官の推挙の乞あり 誠に閉口なり」って泣くからやめてほしい https://t.co/kAPfSxGogv
松本良順の弟子入沢恭平の日記では、良順、小曽根乾堂、司馬凌海が長崎の大浦で船中酒宴を催したなる記述があります。意外に龍馬と新選組は接点が多いんですよね。 https://t.co/GSrXUtKxb3
『青森県史 資料編 近世6 幕末維新期の北奥』の、工藤威氏による書評(『弘前大学国史研究』139、2015年)。県域が、旧盛岡藩、八戸藩、弘前藩にまたがっているがゆえの掲載資料を選択する苦心に言及。工藤氏は、『奥羽列藩同盟の基礎的研究』(岩田書院、2002年)の著者。 https://t.co/k5j4v4XMLM
大正2年11月22日、徳川慶喜が死去。大庭邦彦「幕末政局と徳川慶喜」(『国学院大学研究開発推進機構紀要』7)曰く、慶喜は有能だが、「逆境の中で頑張ることはしない。あえて泥をかぶっても逆境を挽回しようと粘らない」点が特徴で、その点が西郷隆盛や大久保利通と異なる。 https://t.co/rHqA2LFuBF
田中悟「戦後会津における「観光史学」の軌跡」(『国際協力論集』17-1、2009年)は、同氏の著書『会津という神話』(ミネルヴァ書房、2010年)第5章の元になった論文。会津における「戊辰戦争の語り」や観光資源としての白虎隊などを巡って、郷土史家・宮崎十三八を分析。 https://t.co/a3PLMA2gXw
『原市之進暗殺事件の高橋泥舟・山岡鉄舟黒幕説を否定する』がciniiに投稿されていました。この事件に関しては画期的な論考になりました。 https://t.co/VpAa3pCoba

12 0 0 0 OA 維新史蹟図説

『維新史蹟図説』より平野国臣遺影。全く見たことがありませんでした。本物なんでしょうか。 https://t.co/DcPTEgq9xn
出典はこちら、同志細木元太郎の書簡です。原六郎のものも載ってます。 https://t.co/4Dz0CM1zr9
明治4年8月19日(1871年10月3日)、広如(大谷光沢)が死去。幕末の西本願寺の僧で、長州藩や月性との結びつきが強かった。上野大輔「幕末期長州藩における民衆動員と真宗」(『史林』93-3)曰く、広如が法主の時期に「勤王の立場が明確化され」、朝廷や新政府に献金。 https://t.co/epYE9XctKu
奥中康人「岩倉使節団が見聞した西洋音楽」(『待兼山論叢』33、1999年)は、明治政府が国家プロジェクトとして西洋音楽を教育に導入したことで、人為的に西洋音楽が日本に普及したと指摘し、その意味で岩倉使節団の西洋音楽体験を重視する。 https://t.co/98cIxpbapJ
明治6年9月27日、沢宣嘉が死去。文久3年8月18日政変の際の「七卿落ち」の公家の1人で、生野の変に参加した。吉岡誠也「慶応四年の長崎における佐賀藩」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)曰く、大隈重信を新政府の徴士参与に推挙した。外務卿などを歴任。 https://t.co/FCiMiYm2NR
大正9年9月23日、赤松則良が死去。幕末期に咸臨丸で渡米した1人で、榎本武揚らと共にオランダ留学。明治期に横須賀造船所所長などを務めた。樋口雄彦「旧幕臣洋学系知識人の茶園開拓」(『国立歴史民俗博物館研究報告』108)は、「個人の生活を重視するドライな意識」を指摘。 https://t.co/utK0fZASo2
呉永台「幕末期肥後における〈藩是〉確立とその意味」(『年報地域文化研究』23、2020年)は、文久2年4月、藩是を決定した肥後藩政府には「徳川恩顧の大名としての自己認識があった」と指摘し、藩是の確立を要求した肥後勤王家とは、将軍家への距離感に違いがあったとする。 https://t.co/RlbIB3pMu0
明治15年8月9日、大島友之允が死去。幕末の対馬藩士で、木戸孝允と親しかった。沈箕載「幕末期の幕府の朝鮮政策と機構の変化」(『史林』77-2)によれば、朝鮮進出(征韓)を主張し、対馬藩への財政援助を幕府に要求する運動に積極的で、幕閣に働きかけを行った。 https://t.co/i7A1xGyx34
明治12年には「よしだ東洋を平清盛に擬し、日ごと酒池肉林に溺れる適役として、ついには正義派の主人公(オリキャラ)にかたきを討たれるというストーリー」の小説が大阪で出版されたそうです

6 0 0 0 OA 往事録

西村茂樹が「往事録」にて回顧するところによると慶応三年十二月十三日(本人は十一月としていますが、途中まで一緒だった平野縫殿の記録では十二月)、西村は大坂に下る途中で伏見寺田屋に泊し、その地で土方歳三と土佐藩士の「小争闘」を見ています。 https://t.co/bjqM4uFMeW

48 0 0 0 OA 日本に還る

金子堅太郎伯爵が「近藤勇の虎徹を持っていた」というのは本人が著書に書かれています 『二尺八寸の大業物』は関東大震災で焼身になり、打ち直したとのことです 「日本に還る」金子堅太郎 S16 『明治維新の志士を語る』 https://t.co/LmqDLUgJ6B
阿部裕樹「鳥取藩軍・新国隊をめぐる諸問題-創立者・岸本辰雄の周辺-」(『明治大学史資料センター報告』35、2013年)は、明治大学の創立者・岸本辰雄が所属していた組織で、慶応4年3月に京都で結成された新国隊を分析。新国隊を「鳥取藩の重要な実戦部隊」とする。 https://t.co/FzaagLl1jL
中川邦昭「知恩院・京都写真発祥の地-堀内信重の業績-」(『日本写真学会誌』67-2)は、慶応元年の堀与兵衛が京都における写真撮影の先駆者だという説を疑問視し、『越前藩幕末維新公用日記』(福井県郷土誌懇談会)の口絵写真などを手がかりに堀内信重の方が先とする。 https://t.co/fSOI62qJq9
上野大輔「幕末期長州藩における民衆動員と真宗」(『史林』93-3、2010年)によれば、村田清風は海防のために宗教も利用しようと考え、長州藩内の真宗僧侶たちもキリスト教や排仏論への対抗から要請に応じた。月性の門下・大洲鉄然の僧兵隊結成の動きなどを分析。 https://t.co/epYE9WUSSW
明治11年4月8日、川村修就が死去。初代新潟奉行、堺奉行、大坂町奉行、長崎奉行などを歴任。菅良樹「嘉永・安政期の大坂町奉行川村修就」(『日本研究』46)は、川村が「西洋流砲術に精通していたこと」を強調し、ロシア使節プチャーチンの大坂来航への対応などを分析。 https://t.co/Wtgfcec9GE

5 0 0 0 OA 浮沈日記

大久保利通関連文書、面白いですね。第二奇兵隊立石孫一郎が殺されたときに所持していたらしい「浮沈日記」が読めます。新館精一郎と会ったことは他の史料から分かりますが、楢林昌建とも面会していたり、色々と興味深い。 https://t.co/B1gS9SOL5h
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去(暗殺)。慶応期に木戸孝允と共に長州藩政府の中核を担い、慶応3年には京都で討幕の密勅を受け取った。明治政府で参議などを務めた。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、暗殺事件の捜査を分析。 https://t.co/XCToPjhpGU
明治33年2月26日、品川弥二郎が死去。討幕の密勅の受領に関わった。末木孝典「明治二十五年・選挙干渉事件と立憲政治」(『近代日本研究』32)曰く、第1次松方正義内閣の内相時代の選挙干渉で、「選挙に成果を出す責任と治安を維持する責任との間で板挟みになっていた」。 https://t.co/23IZSvl7p3
板垣哲夫「維新後における大久保利通の政治上の人間関係」(『史学雑誌』86-11、1977年)は、慶応3年10月〜明治10年3月、大久保がどんな人物と接触していたか、日記を分析。大久保の政府内での地位上昇に伴い、薩長土肥以外の出身者が中堅官僚として結び付きを強めたと指摘。 https://t.co/dXsq9H1KlB
上田純子「安政五年萩藩における「会議」と政治機構」(『史学雑誌』107-6)は、「藩政改革派と称された人物の出身階層が一〇〇石前後の大組士であった事実」や、「三〇〇石以上の比較的上級家臣団が、政治的意思決定からは実質的に阻害された存在であった」ことなどを指摘。 https://t.co/LQPyvhGrfh
水上たかね「幕府海軍における「業前」と身分」(『史学雑誌』122-11、2013年)曰く、幕末の幕府海軍では職務に必要な能力を「業前」と呼んで重視し、人材を登用した。だが、「家」の枠組は強固で、家督相続で別の役職に就いて海軍を離れる人材流出の問題などがあった。 https://t.co/yhNhvRbhtb
安政6年9月14日(1859年10月9日)、梅田雲浜が死去。安政大獄で最初に逮捕され、獄死。中島嘉文「角田家本梅田雲浜安政大獄吟味関係資料について」(『福井県文書館研究紀要』13)は、雲浜の取り調べ調書を分析し、「尊攘運動の理論的支柱」として朝廷で期待されたとする。 https://t.co/I6EKCFy9FZ
大島明秀「十九世紀国学者における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容と平田国学」(『日本文藝研究』57-1)は、平田篤胤以降の国学者が志筑忠雄の『鎖国論』を「西洋人ケンペルによる日本讃美論」として読み解き、その後の国内で日本の優秀さを説く古典として受容されたとする。 https://t.co/57Sf67XXul
大正10年8月11日、前田正名が死去。薩摩藩出身で、大蔵省や農務省で活躍。多久島澄子「前田正名の「上州出張記憶書」と「卑見」」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)は、幕末の長崎で始まった大隈重信との関係を軸に、前田の国内調査報告書を紹介。 https://t.co/4KPS4X7dSB
竹ヶ原康佑「長州処分問題をめぐる仙台藩の動向」(『駿台史学』159、2017年)は、元治元年〜慶応期の仙台藩を分析。西国情勢の探索を通じて、中下級藩士層の中に長州藩への同情的意見が目立ってきたことを指摘。また、単独での行動よりも外部との連携を重視する志向を指摘。 https://t.co/IChCiITVn1
慶応4年5月22日(1868年7月11日)、益満休之助が死去。江戸の撹乱工作を主導した。奈倉哲三「『復古記』不採録の諸記録から探る江戸情勢(三)」(『跡見学園女子大学文学部紀要』50)は、江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件で逮捕され、勝海舟に引き渡される過程の史料を紹介。 https://t.co/ON7tEWs3HA
文久2年5月25日(1862年6月22日)、佐賀藩士・中野方蔵が死去。老中・安藤信正が襲撃された坂下門外の変への関与を疑われ、獄死。重松優「青年大木喬任と佐賀勤王党」(『社学研論集』11)曰く、「佐賀藩では、中野は数少ない勤王運動の犠牲者」。江藤新平・大木喬任と親密。 https://t.co/wHWQjvDug6
奈倉哲三「史料蒐集の醍醐味-戊辰戦争期の江戸民衆意識解明を目指して-」(『跡見学園女子大学人文学フォーラム』15、2017年)は、慶応4年閏4月に大村益次郎が江戸府民の「民心朝廷離叛」を把握したことや、民心掌握に天皇の東幸が有効とした大久保利通らの考えを分析。 https://t.co/dq6PZxISfu
明治6年6月3日、南貞助(高杉晋作の従弟かつ義弟)と英国人ライザ・ピットマンの結婚の届が、外務省に送付された。日本政府が許可した最初の国際結婚と言われる。小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)、同『国際結婚第一号』(講談社)参照。 https://t.co/CDYGvqFKOV
廣岡守穂「詩とは何か-幕末の漢詩と明治の新体詩から考える-」(『中央大学政策文化総合研究所年報』21、2018年)曰く、「詩は行動する者たちによって書かれ、心をつたえあい思想を共有する媒体として作用した」。特に、幕末期に至るまで読まれ続けた頼山陽などを紹介。 https://t.co/A4j40cCJ3K
平成28年5月24日、杉谷昭が死去。佐賀城本丸歴史館の初代館長で、著書に『江藤新平』(吉川弘文館)、『鍋島閑叟』(中公新書)、『鍋島直正』(佐賀城本丸歴史館)など。下記は、杉谷氏の論文「明治初年における府・藩・県三治制について」(『法制史研究』16、1966年)。 https://t.co/S2sOR93nOx
吉岡誠也「慶応四年の長崎における佐賀藩」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13、2018年)曰く、慶応4年の長崎における大隈重信らの活動は、新政府中枢に食い込みたい佐賀藩と、開港地を安定化させるため佐賀藩を取り込みたい新政府の、需要と供給の一致。 https://t.co/FCiMiYm2NR
明治32年4月20日、遠藤允信(文七郎)が死去。幕末の仙台藩重臣で、政争に敗れて閉門。竹ヶ原康佑「文久期における仙台藩内政争の争点と「割拠」策への展開」(『駿台史学』162)が詳細。戊辰戦争の戦後処理を担当し、仙台藩の降伏を批判する榎本武揚・土方歳三に応対した。 https://t.co/HVM8IInm2t
「江戸開城記念展覧会陳列目録」って国会図書館デジタルコレクションで見る事ができるんですね。 https://t.co/Fa58pZfQTe どんな書なのかが気になるし、どうしてこういう解説文になるのかも気になるところ。 https://t.co/26poYe1jYv
勝海舟関係文書「伊藤甲子太郎建言書」。おや、と思う方もいるでしょう。しかし、末尾を見てください。慶応四年三月、既に新選組のその人は死んでいます。更に「臣重固」とあるのにご注目を。伊東の諱は武明ですよね。そう、伊東甲子太郎がもう一人、幕末期にはいたんです。 https://t.co/Wb9SPAbrJ1
昭和60年3月7日、森銑三が死去。『森銑三著作集』が「正」と「続」の合計で30冊ある。高木浩明「資料紹介 森銑三刈谷日記・上(大正五年六月一七日~一二月三〇日)」(『書物・出版と社会変容』21、2018年)は、幕末の国学者・村上忠順の旧蔵書を整理したときの日記を紹介。 https://t.co/ilSY7MBGLd
昭和9年3月1日、長沢鼎が死去。幕末の薩摩藩英国留学生の最年少メンバー。帰国せず、カリフォルニアでブドウ王になった。森孝晴「長沢鼎の手紙の下書きとそこに込められた思いと精神」(『国際文化学部論集』13-1、2012年)は、留学生仲間だった森有礼への手紙を紹介。 https://t.co/3pNsWlJUrD
昭和6年2月24日、久米邦武が死去。日本の歴史学の先駆者で、大隈重信の親友。杉谷昭「和魂漢才から和魂洋才へ」(『純心人文研究』12)は、久米が岩倉使節団の報告書『米欧回覧実記』執筆のため玉虫左太夫(万延元年遣米使節に参加)の『航米日録』を参考にしただろうと指摘。 https://t.co/fAJuZHAF2P
須賀博樹「因州鳥取藩と大坂両替商-文久三年~慶応元年の大名貸-」(『経済史研究』21、2018年)は、幕末の鳥取藩主・池田慶徳による国事周旋と京都警衛に関して、その財政状況を分析。鳥取藩が、慶徳の兄・徳川慶篤が藩主を務める水戸藩に、援助金を又貸ししたことも紹介。 https://t.co/FOgSH57x2J
柳澤京子「長州戦争と労働者」(『お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報』13、2017年)は、幕末の長州戦争(長州征伐、幕長戦争)において、いわゆる諸隊に参加した賃銀労働者集団を分析。諸隊の内部や周辺には、「稼ぎ」を求める人々が集っていたと指摘。 https://t.co/2UWQXV40Fe
慶応3年12月26日(1868年1月20日)、上山藩士・金子与三郎が死去。薩摩藩邸焼討事件で負った傷が死因。清河八郎暗殺に関与した疑惑がある。長南伸治「近代における旧上山藩士金子清邦像形成に関する一考察」(『国士舘史学』21)は、清河八郎の「贈位」をめぐる問題を分析。 https://t.co/pUBMAVog8M
慶応3年12月25日(1868年1月19日)、三田の薩摩藩邸焼き討ち事件があった。奈倉哲三「『復古記』不採録の諸記録から探る江戸情勢(三)」(『跡見学園女子大学文学部紀要』50、2015年)は、諸史料から事件の実態解明を試み、益満休之助が会津藩に捕まったことなどを指摘した。 https://t.co/ON7tEWs3HA
明治32年1月19日、勝海舟が死去。金澤裕之「咸臨丸米国派遣の軍事史的意義」(『近代日本研究』26)は、海舟の目指した海軍像がサンフランシスコで見た米国海軍で、そのイメージは木村芥舟も共通だったとする。金澤氏の著書『幕府海軍の興亡』(慶應義塾大学出版会)に再録。 https://t.co/BX5MksxC8P
大林隆司「小笠原諸島における最初のセミの記録はいつか?」(『小笠原研究年報』38、2014年)は、幕末期に外国奉行・水野忠徳が小笠原諸島の回収を推進した際、父島に滞在した本草学者の阿部櫟斎の日記が、小笠原における蝉の記録の初出とする。下記は論文PDFへの直リンク。 https://t.co/yov5phH7Hh
明治34年12月13日、中江兆民が死去。幕末の土佐藩出身で、長崎で坂本龍馬と知り合ったらしい。幕末期の駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳を務めたこともある。村上興匡「中江兆民の死と葬儀」(『東京大学宗教学年報』19)などによれば、中江の葬儀が、最初の告別式。 https://t.co/Q40GXehmtT
明治21年11月18日、日向延岡藩の第7代藩主だった内藤政義(井伊直弼の弟)が死去。大賀郁夫「隠居大名の幕末・維新」(『宮崎公立大学人文学部紀要』25-1、2018年)は、譜代小藩の隠居が幕末をどのように生きていたのか、政義の元治元年〜慶応4年の日記を分析。 https://t.co/8JIBeLzcJG
昭和32年11月2日、徳富蘇峰(猪一郎)が死去。『近世日本国民史』全100巻など多数の著作があり、言論界で影響力を持った。大島明秀「明治二十年代における「鎖国論」の多様性」(『日本文藝研究』59・3/4)は、蘇峰が『国民之友』に発表した「明治年間の鎖国論」を分析。 https://t.co/ZBlcqoAt2t
安政6年10月6日(1859年10月31日)、三条実万(三条実美の父親)が死去。幕末の公家社会で影響力のあった人物。佐竹朋子「三条実万の思想形成について」(『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編』4、2005年)は、実万の日記などから、実万の思想形成を読み解く。 https://t.co/I5BkgFlPtQ
渡邊忠司「王政復古期の京都警固体制」(『鷹陵史学』40、2014年)は、慶応3年12月の王政復古で旧幕府の京都市中の治安維持組織が解体し、早急な対応を必要とした新政府の思惑と、「主君」を失った元与力・同心たちの求職意識が合致したことによる警察機構の整備過程を分析。 https://t.co/RnoaLMdZhO
奈良勝司さんの「人見・中川両苗と新撰組-幕末における二つの「郷士」集団-」、公開されていました。面白い論文です。是非一読願えれば。 https://t.co/sueJyFALkc
明治27年9月2日、柳原前光が死去。明治の外交官。公家出身の逸材として、西園寺公望と並び称される。明治期には、主に外交分野で活躍した。野口真広「明治7年台湾出兵の出兵名義について」(『ソシオサイエンス』11)は、台湾出兵をめぐる清国との交渉における柳原を分析。 https://t.co/6WUzVvtZrA
慶応3年7月29日(1867年8月28日)、中岡慎太郎らが土佐藩の白川邸に居を定めた。ここが、陸援隊の屯所とされる。笹川尚紀「土佐藩白川邸・尾張藩吉田邸にまつわる覚書」(『京都大学構内遺跡調査研究年報』2016年度)は、中岡が白川邸を使うに至った経緯などを分析。 https://t.co/yc9PEH3vaJ
明治10年8月24日、柴田剛中が死去。幕末の幕臣として外国奉行を務め、海外渡航も経験するなど外交畑を歩んだ。上安祥子「幕末維新期におけるパブリックなるものの受容」(『白鴎大学論集』31-1)は、柴田と福沢諭吉に関して、日本になかったものをどのように理解したか分析。 https://t.co/qSV0ZxbebG

16 0 0 0 OA 防長近世史談

昨今、桐野作人さんや町田明広さんが使用されている「廃幕」という用語であるが、1927年刊行の村田峯次郎『防長近世史談』に「排幕」が使用されていることを確認(大小社、261頁)。以下➡https://t.co/9kaiO3OciR
梶原良則「安政期福岡藩における西洋軍法の導入と抵抗」(『福岡大學人文論叢』35-3、2003年)は、安政2年頃から福岡藩主・黒田斉溥は西洋軍法による軍事改革を企図し、徐々に成果を挙げたが、その方針に反対する家臣も多く、後の激しい政争の原型を形成したと指摘。 https://t.co/Fm3fzTXsfs
濱口裕介「榎本武揚「共和国」言説に関する一考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』65、2018年)は、歴史家たちの榎本武揚政権への言動を紹介。例えば、日本とは別の「共和国」が北海道に存在していたと認めたら、北方領土問題で日本に不利になると考えた井黒弥太郎など。 https://t.co/Z5j7Jk8x7d
慶応元年5月16日(1865年6月9日)、第2次長州征伐に向けて、将軍・徳川家茂が江戸城を出発。幕末の将軍上洛をめぐる政治史については久住真也氏が詳しく、下記の論文「慶応元年将軍進発態勢の創出-長州「再征」に関する一考察-」(『史学雑誌』109-6)も、その成果の1つ。 https://t.co/WFDyxgrp0A
大野真由「明治七年における若松博覧会-戊辰戦争後の復興と人々-」(『駒沢史学』86、2016年)は、政府主導で内国勧業博覧会が開催されるよりも前に、戊辰戦争の復興を企図した博覧会が、地域の人々の手によって会津で開催された意義などを指摘する。 https://t.co/RbrgocUK92
明治14年5月26日、斎藤利行(渡辺弥久馬)が死去。幕末の土佐藩重臣で、坂本龍馬が最後に帰郷した慶応3年に、コンタクトした人物。明治政府の参議を務めた。坂本保富「明治初期における教育近代化の問題状況」(『教職教育』2)は、明治期の小林虎三郎との交流を紹介。 https://t.co/K6OgWc7VmU

10 0 0 0 OA 関西巡回記

前もつぶやいたんですが、村田氏寿の関西巡回記は、彼の観察眼の鋭さや当時の武士の旅行の様子を知ることが出来る、とても興味深い内容だと思います。 https://t.co/ZUczbJ8JFz
濱口裕介「幕末期アイヌ風俗改変政策に関する地理的考察-後藤蔵吉『蝦夷日記』の検討を中心として-」(『札幌大学女子短期大学部紀要』64、2017年)は、幕府によるアイヌ(近世を通じて夷狄と認識されていた)に対する同化政策を、歴史学・地理学双方の知見から分析。 https://t.co/LQl8UB2Xj3
明治43年4月26日、木梨精一郎が死去。長州藩出身で、戊辰戦争の際に英国公使パークスと会談して、江戸開城に尽力。斉藤理・渡部史之「地域文化財からみた木梨精一郎」(『山口県立大学学術情報』10、2017年)は、米沢藩出身の宮島誠一郎との交友を示す史料や履歴などを紹介。 https://t.co/fDx8KMaEn0

13 0 0 0 OA 七年史

『七年史』には面白い史料が引用されていますね。清河八郎の仙台藩、あるいは会津藩士宛てと推測される書簡など、とても興味深い。久光の大原勅使との東下を当初清河は快く思っていなかったこと、「関東にては会津奮起致すべくとも思い候」と考えていたことなどが分かります。 https://t.co/ASWRp5VWdK
これは確かにそうで、真木和泉は文久の改革に始まる「公武御一和」に同調しているんですよね。久光らの朝廷への政治参与こそが公武合体だと。また同時に一橋慶喜、松平春嶽の将軍後見職、政事総裁職への就任を高く評価しています。これが文久三年三月のことです。 https://t.co/HFZl2voxrK
井上勲「川路高子『上総日記』解題」(『学習院大学文学部史料館紀要』13、2005年)は、幕末の幕臣・川路聖謨が一時期、小大名を超える威厳を持つほど幕府内で出世したことを紹介し、その妻・高子の立場を説明。夫の聖謨が自害した後を生き続ける高子の心境などを読み解く。 https://t.co/8DSHOwa28V
慶応4年3月15日(1868年4月7日)、日露交渉などを担当した幕臣・川路聖謨が自刃。藤實久美子・渋谷葉子「『上総日記』翻刻-付 川路聖謨・高子史料目録-」(『学習院大学史料館紀要』13、2005年)は、聖謨の妻・高子の日記を翻刻。同日記は、聖謨が自刃した日から始まる。 https://t.co/66hkMinhSd
『真木和泉守遺文』所収の「文久癸亥日記」には真木和泉の息子真木佐忠による補注があります。こちらもバイアスがかかったものですが、真木が朝命に言及し、こうもころころ変わるのは嘆かわしい、会津を追うのは容易いが、それには薩摩の協力がいる云々と言ったとあります。 https://t.co/e962ZbO5j2
明治6年3月14日、国際結婚を認める太政官布告103号が出された。旧幕府時代から、英国などから問い合わせを受けていたことに対応し、フランスのナポレオン法典を参考に制定したものだという。嘉本伊都子「「国際結婚」の歴史社会学的類型」(『社会学評論』48-1)参照。 https://t.co/plnAwImdnO
@T_urade1987 中島錫胤と小室信夫について少し触れられている書籍があるので紹介させていただきますね 大正5年なので後年の記録ではあるのですが 「贈従五位 志摩利右衛門」(木像梟首事件で逃げる中島と小室を匿った阿波の商人です) https://t.co/r2HJI3HzCo

12 0 0 0 OA 続再夢紀事

この続再夢紀事(枢密備忘からの孫引き)の記述は新選組を考える上でも重要です。守護職松平容保は当初水戸の武田耕雲斎を頭目にして浪士を統轄させ攘夷を行おうと考えていた訳ですね。 https://t.co/euQ4yUlzCm
明治36年2月21日、市来四郎が死去。幕末の薩摩藩士で、明治期は島津家の修史事業に尽力。また、西郷隆盛と互いに批判し合っていた。大久保利謙「王政復古史観と旧藩史観・藩閥史観」(『法政史学』12、1959年)は、市来が奔走して史談会を創設させた経緯などを紹介。 https://t.co/9snKTIOUDN

14 0 0 0 OA 維新日乗纂輯

以前の中村小次郎、『維新日乗纂輯』二巻の真木直人日記にも出て来ていました。当時下関にいた真木と会ったようです。柏木民部と行動をともにしていたようですが奇兵隊に加わっていたのかも知れませんね。ただ、この日記はどうも後年加筆された痕跡もあります。 https://t.co/A8pY8joGGH
明治33年2月4日、歌人・税所敦子が死去。薩摩藩士の夫と死別後、近衛家に仕え、さらに高崎正風の推挙で明治8年から宮中に出仕し、昭憲皇太后の歌の相手ととなった。「明治の紫式部」と呼ばれる。長福香菜「御歌所派歌人税所敦子」(『国文学攷』210、2011年)などを参照。 https://t.co/Tnbh4BOoLo
明治28年2月2日、林洞海が死去。幕末の蘭方医で、幕府奥医師。明治政府にも出仕。同門の先輩・佐藤泰然(順天堂創始者)の娘と結婚。樋口雄彦「静岡藩の医療と医学教育」(『国立歴史民俗博物館研究報告』153、2009年)は、林の静岡藩時代の日記「慶応戊辰駿行日記」を紹介。 https://t.co/NHybDqXFYo
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いが起きた。矢羽野隆男「並河寒泉の政治思想と幕府観」(『中国研究集刊』50)は、大坂の懐徳堂(享保期に幕府の許可で作られた学問所で、特権も与えられていた)の教授・並河寒泉が、鳥羽伏見の戦いをどのように見たか紹介。 https://t.co/cRH7JYsk28
青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)に所収の論文「和親・通商・攘夷」は、ペリーやプチャーチン来航時の「和親」の意味を、「夷狄制圧に十分な武力を整備する余裕を得るための暫定的な措置」とする。元論文を下記リンクから読める。 https://t.co/cbdgWHuqk0
明治20年12月6日、島津久光が死去。薩摩藩主の実父という立場で、文久2年に率兵上京を実行。町田明広「幕末中央政局における「皇政回復」」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』38)の言葉を借りれば、「その後の幕末史の方向を決定付けた最も重要な事象」と評価できる。 https://t.co/n69hz0lg9Q

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