著者
高田 有希子 奥出 祥代 林 孝彰 月花 環 片桐 聡 北川 貴明 久保 朗子 小島 博己 常岡 寛
出版者
公益社団法人 日本視能訓練士協会
雑誌
日本視能訓練士協会誌 (ISSN:03875172)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.153-159, 2014 (Released:2015-03-19)
参考文献数
25

【目的】心因性視覚障害で、色覚異常を主訴として眼科受診するケースは少ない。今回、一過性の聴力障害後に、色覚異常を訴えた心因性視覚障害の1例を経験したので報告する。【症例】15歳女性。2013年1月頃より、一過性の左聴力障害を認めていたが、経過観察していた。同年2月右眼の色覚異常を自覚し、近医眼科を受診。同年3月精査目的にて当科受診となった。矯正視力は右眼1.5、左眼1.2であった。左右眼ともに前眼部、中間透光体、眼底に異常所見は認めず、Goldmann動的量的視野は正常で、網膜電図の潜時・振幅は正常範囲内であった。石原色覚検査表の分類表誤読数は右8表、左4表。パネルD-15では右fail、左passであった。Farnsworth-Munsell 100 Hue Test(F-M 100 Hue)の総偏差点は右148(正常範囲外)、左84(正常範囲内)であった。精査中、頭部MRIにて左聴神経腫瘍を認めた。2013年6月頃には自覚症状の改善を訴えており、同年7月再度色覚検査を行ったところ、石原色覚検査表誤読数は右2表、左1表。パネルD-15は左右眼それぞれpassと改善がみられた。F-M 100 Hueの総偏差点は右108、左124(ともに正常範囲外)であった。【結論】発症時、高校受験勉強の最中であり、一過性の左聴力障害などストレスとなる背景がいくつか存在していた。明らかな視路疾患や眼疾患がなかったことから、色覚異常は重複したストレスによる心因性視覚障害が原因であると思われた。
著者
石黒 真木夫 OTTO Marc C. CHEN Bor Chu BELL William MONSELL Bria FINDLEY Davi 川崎 能典 北川 源四郎 尾崎 統 BOR Chung H. R.BELL Willi 浪花 貞夫 赤池 弘次 LARRY G Bobb BRIAN C Mons DAVID F Find 田辺 國士
出版者
統計数理研究所
雑誌
国際学術研究
巻号頁・発行日
1992

この研究で扱われた問題は以下の通りである:1.譲歩量基準EICの利用:季節調整の問題におけるEIC(Extended Information Criterion)の利用が論じられ、提案されたリサンプリング法によると、外挿による予測に適したトレンドが選択されることが示された。2.多変量経済時系列解析:多次元時系列解析のための前処理としての季節調整の役割を研究した。相互に関連している時系列を個々に季節調整し、トレンドを除去すると相互の関係に関する情報が失われる危険があることが湿された。3.動的X11モデル:米国センサス局の開発した季節調整法であるX11法は手続きの総体として定義されている。これをモデルベースの現代的統計手法に再構成するためにその中味を分析するなかでそれが乗算的時系列のトレンド推定に関してユニークな特色を持っていることが明らかになり、その特色をモデルベースで実現する方法を考えた。一つの方法はlog変換した後で加算的モデルベース季節調整法を適用してトレンド推定し、その後バイアスを修正してやる方法で既にYoung.A.H(1968)の仕事があるがそれをさらに拡張した方法を導入しその有効さを実データを用いて示した。もう一つはX11的性質を持ったモデルを新たに導入し直接そのようなトレンドを推定することで、動的X11モデルとでもいえるモデルを開発し、その有効さを示した。4.モンテカルロ・フィルター:任意の密度関数を多数の粒子を用いて表現する方法を用いて、非線形・非ガウス型の状態空間モデルのフィルタリング・平滑化を行なうためのモンテカルロ・フィルタを呼ばれる新しいアルゴリズムを開発した。この方法は従来の非ガウス型フィルタと異なり数値積分を必要としないので高次元の状態空間モデルへの適用が可能となった。モンテカルロ・フィルターの開発により季節性を持つ時系列の解析においても自由に非線形・非ガウス型のモデルを利用することが可能となった。具体的には以下の問題への応用を行なった。1)トレンドや季節成分のステップ状の変化の検出2)異常値の処理3)積型・混合型モデルの推定4)システムノイズなどのハイパーパラメータのベイズ推定5.遺伝的アルゴリズム:パラメータ間に一次元的な特殊な構造をもつようなもの-例えば時系列-は、一般化された状態空間表現の枠組みで問題解決を行うのが、計算手続きの見通しが良く様々な点に於いて都合が良い。状態ベクトルの次元が比較的高い場合に提案されたモンテカルロフィルタは(以後MCF)、自然淘汰と発生のメカニズムを模倣する最適化の一手法の遺伝的アルゴリズム(Genetic Algorithm、以後GA)とほぼ同じ構造をもつことが指摘されている。GAと対応づけることでMCFの理解は容易になるうえに、アルゴリズムに内在する本質的な問題点の認識も深まる。また、MCFの予測の操作にGAのCross-overやMutationの操作をとりこんだ手法が考えられる。実際にその試みを季節調整などの具体的な問題に適用した。6.DECOMPの改良:ベイズ型季節調整モデルDECOMPにおける定常自己回帰成分推定について、トレンド成分や季節成分とのデータの「食い合い」を避けるために、周波数領域で制約つきの最適化を行なうことで、business cycleに相当する成分の摘出を安定的に行なうような改善を行なった。一方、トレンドのジャンプやキンクのモデリングについては十分な検討を行なうことができなかった。7.共和分モデル:また、多変量時系列モデルで共通トレンド成分を考慮する共和分モデルについて、その代表的な推定法を取り上げ、状態空間表現を与えることでone-stepで推定する方法を提案した。8.X-12-REGARIMA:移動平均法を基礎としたセンサス局の季節調整プログラムX-11にAICを利用した回帰モデル選択による予測方式を組み込んだ。
著者
北川 誠一
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
オリエント (ISSN:00305219)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.69-84, 1998

In 1236, the <i>tamachi</i> army of Chormaghan Noyan began to conquer the Georgian Kingdom. Starting at their traditonal winter encampment in Arran, they proceeded to the North West. Their first victims were the cities and districts of the western branches of the Middle Kur. In the Kazakh canton of the present Republic of Azerbaijan, their course was divided into three directions. The Nothern course led them to the central and eastern provinces of Georgia. To the south they advanced and conquered the cities of Ani, Kars and Surb Mari, and third course overran the territories of South-West Georgia. In this way almost all the territories of the Georgian Kingdom were conquered.<br>In about 1240, the conquerd part of Georgia was divided among the six Georgian generals, called the generals of ten thousands ("<i>tmanis mtavari</i>" in Georgian) by the Mongols.<br>After the coronation of Emperor Monke, the conquered part of Georgia was put under the physical administration of Arghun-Aqa who made a census in 1254, and Georgia's population was counted and the area was divided into nine <i>tümens</i>. Each of these <i>tümens</i> could afford ten thousand soldiers. It was after this census that a new tax system was introduced by Arghun-Aqa.
著者
須藤 研太郎 山口 武人 中村 和貴 原 太郎 瀬座 勝志 廣中 秀一 傳田 忠道 三梨 桂子 鈴木 拓人 相馬 寧 中村 奈海 北川 善康 喜多 絵美里 稲垣 千晶 貝沼 修 趙 明浩 山本 宏 幡野 和男 宇野 隆 多田 素久 三方 林太郎 石原 武 横須賀 收
出版者
日本膵臓学会
雑誌
膵臓 (ISSN:09130071)
巻号頁・発行日
vol.27, no.5, pp.656-662, 2012 (Released:2012-11-28)
参考文献数
25
被引用文献数
1 1

近年,化学療法および化学放射線療法の進歩により局所進行膵癌の治療成績は向上している.切除不能症例を対象とした臨床試験で生存期間中央値15ヶ月を超えるものも報告される.また,非切除治療が奏効し根治切除可能となった局所進行例も報告され,conversion therapyとしての役割も注目される.一方,局所進行膵癌に対する治療はエビデンスの乏しい領域であり,化学放射線療法の意義についても未だcontroversialである.今回,われわれは化学放射線療法82例(S-1併用56例,その他26例)の成績を供覧し,非切除治療の現状と意義について考察を行う.全82例の生存期間中央値15.4ヶ月,3年生存率17.5%,5年生存率6.7%と化学放射線療法のみでの長期生存例も経験された.さらなる成績向上のためには外科切除との連携に期待されるが,本稿ではわれわれの経験を供覧し,今後の展望について考察を行う.
著者
北川冬彦 著
出版者
温故堂出版部
巻号頁・発行日
1952
著者
梅枝 覚 松本 好市 北川 達士 野地 みどり 山本 隆行 石井 雅昭 成田 清 鳥井 孝宏 肥満 智紀 山崎 学
出版者
日本大腸肛門病学会
雑誌
日本大腸肛門病学会雑誌 (ISSN:00471801)
巻号頁・発行日
vol.63, no.10, pp.838-845, 2010 (Released:2010-10-15)
参考文献数
28
被引用文献数
1

環状自動縫合器(circuler stapler,PPH=procedure for prolapse and hemorrhoids)による痔核脱肛の手術は,1998年Longoによって発表された手術(粘膜環状切除術,以下PPH)であり,痔核口側の直腸粘膜を環状切除し,痔核脱肛を吊り上げ固定する術式で,疼痛が少なく,QOLにすぐれているため世界で広く行われるようになった.本邦でも2001年より各施設で施行され,術後疼痛の軽減,早期社会復帰,再発率において結紮切除術と比べても差がない,などとIII度内痔核には有用な手術術式と考えられる.一時期PPHによる合併症も報告されたが,PPH機種の改良,手技の向上により合併症が減少した.PPHの特性から,すべての痔核に適応はなく,適応基準を厳格にして症例を選択する必要がある.術者は他の治療法であるLEやALTAにも精通し,長所短所を理解のうえ,痔核・脱肛の適応を的確に判断出来る能力があり,PPHの特性と実技を充分会得したうえで行う手技である.適応症例においては非常に有用な手術と思われる.
著者
清木 康 金子 昌史 北川 高嗣
出版者
The Institute of Electronics, Information and Communication Engineers
雑誌
電子情報通信学会論文誌 D (ISSN:09151923)
巻号頁・発行日
vol.J79-D2, no.4, pp.509-519, 1996-04-25

画像データを対象としたデータベースシステムにおいては,検索者の印象や画像の内容による検索を実現する方法が重要である.我々は,文脈あるいは状況に応じて動的に変化するデータ間の意味的な関係を計算するモデルである意味の数学モデルを提案している.本論文では,意味の数学モデルを用いた意味的画像探索方式を提案し,また,その学習機構を示す.本方式では,メタデータ空間と呼ぶ正規直交空間を形成し,その空間上に画像データ群,および,検索に用いるキーワード群を配置する.そして,その空間上での距離計算により,検索者の印象,および,画像の内容の指定に応じた画像探索を実現する.検索対象の各画像は,画像の特徴(印象あるいは内容)を表す言葉(単語群)によって表現されることを前提とする.本方式は,検索者が発行する検索語,および,画像データの特徴を表現する単語間の相関関係の分析により,画像を検索する方式として位置づけられる.本方式では,検索者が指定する印象あるいは画像の内容を文脈として言葉により与えると,その文脈に対応する画像をメタデータ空間より動的に抽出する.本学習機構では,その文脈から得られた画像が,本来,抽出されるべき画像と異なる場合,抽出されるべき画像を指定することにより,文脈を構成している言葉についての学習を行う.本学習機構を適用することにより,画像の印象表現における個人差に対応することが可能となる.

1 0 0 0 OA 四国アルプス

著者
北川淳一郎 著
出版者
伊予史籍刊行会
巻号頁・発行日
1925
著者
田口諒 田中成典 北川悦司 吉田博哉 中村健二
雑誌
第74回全国大会講演論文集
巻号頁・発行日
vol.2012, no.1, pp.917-918, 2012-03-06

近年,工事現場や自宅などの様々な場所で距離計測が行われている.このような状況の中,コンピュータとデジタルカメラの発展に伴い,写真を撮影するだけで距離計測が可能な写真測量が注目されている.しかし,写真測量は,研究者や測量会社などの専門機関以外ではあまり利用されていない.そこで,本研究では,撮影方法の工夫やスマートフォンの特性を利用することで,専門知識がない人でも容易に距離計測できるアプリケーションの開発を目指す.さらに,計測用途に応じて,単写真とステレオ写真を使い分ける機能も開発する.なお,開発には,手軽に素早くゲーム感覚で利用できるWindowsPhoneを用いた.
著者
北川 香子
出版者
東南アジア学会
雑誌
東南アジア -歴史と文化- (ISSN:03869040)
巻号頁・発行日
vol.2014, no.43, pp.87-116, 2014

<p>In January 1885, anti-French rebellions broke out at various points in the Kingdom of Cambodia. France concentrated four thousand troops on Cambodia and barely suppressed the rebels with the help of the Cambodian King by the end of 1886. In general understanding, those rebellions were the reaction of Cambodian elites to the treaty which the Governor of Cochinchina, Charles Thomson, forced to King Norodom on 17 June 1884. Although much attention has been given to the roles played by supreme elites, such as the Governor of Cochinchina, King Norodom, Second King Sisowath and Prince Si Votha during those years, little is known about the situation in each region under the rebellions. In this paper, I inquire closely into the activities of the rebels who uprose along the Mekong River between Kampong Cham and Kracheh. After the rebellion subsided, this region began to develop significantly under the French colonial rule which guaranteed the safety of the traffic on the Mekong River from Cochinchina to Laos. </p><p>The rebellion in Kampong Cham─Kracheh region occurred in inland <i>srok srae</i> (the land of paddy field), and the main participants were Khmers. <i>Prei</i> (forest) or <i>phnom</i> (mountain) behind <i>srok srae</i> were not the foothold of the rebels, but served as supply and escape routes for them. Ethnic minorities and religious or magical authorities were not included in the main body of the rebels. Most chiefs of the rebels were officials who held traditional titles as governors and <i>balats</i> (deputy governor). They led hundreds of people, held their own grounds in the plain of <i>srok srae</i>, and shared information about the maneuvers of French troops by exchanging letters with each other. They had been respectively appointed by different authorities, and some of them were appointed by Si Votha who had maintained another independent kingdom to the north of Kampong Thum, which contacted with the territory of Siam. A dozen "Burmese warriors" were distributed under chiefs who had strong ties with Si Votha, and Siamese of Siem Bouk played an important role in supplying guns and ammunition for the rebels. These facts suggest that the rebels maintained close connection with Northeast Thailand area. The targets of the rebels were those who related to the French colonial rule, Chinese merchants, and Malay and Chams along the Mekong River. </p><p>The French did not have enough military power to defeat independent chiefs to control the entire <i>srok srae</i>, but could find skilled pro-French local officials and nominated them as governors in the process of suppressing the rebellion. During the decade after the outbreak of rebellion, the chiefs of the rebels disappeared one by one, and the governors newly appointed by the name of the King were received by the local population. Then the French succeeded in stabilizing their rule to promote "a colonization without collision" on the territory along the Mekong River to the edge of <i>prei</i> and <i>phnom</i>.</p>
著者
浦上 達彦 花岡 陽子 藤田 英廣 北川 照男
出版者
一般社団法人 日本糖尿病学会
雑誌
糖尿病 (ISSN:0021437X)
巻号頁・発行日
vol.29, no.7, pp.631-637, 1986-07-30 (Released:2011-08-10)
参考文献数
21

小児インスリン依存型糖尿病患児4例に対して, 診断後早期に非修飾型免疫グロブリン製剤を400mg/kg, 4~5日間点滴静注する治療 (免疫グロブリン大量療法) を行い, その前後で食後2時間における血清C-peptide [以下CPRと略す], アルギニン負荷テスト [以下ATTと略す] におけるCPR反応, 1日インスリン必要量およびHbAlcを測定するとともに, その他若干の免疫学的検査を行って比較検討した.免疫グロブリン投与後, 全例において食後2時間における血清CPRの上昇を認め, ATTでも50%の症例でインスリン分泌能の改善を認めた. また4例中3例は診断後6~11ヵ月を経過しても0.5U/kg/day以下のインスリン必要量でコントロールが可能であり, 免疫グロブリン大量療法によって, 経過とともに本症の内因性インスリン分泌能が低下するのをある程度阻止し得るものと思われた.そしてこれらの機序は明らかではないが, 免疫グロブリン大量療法によって, 細胞性免疫系や抗体産生系に抑制効果をもたらすことが考えられるが, その他製剤中に含まれる抗Ia抗体や抗イディオタイプ抗体が免疫反応を抑制して臨床効果をもたらすのではないかと推測された.
著者
北川 誠一
出版者
一般社団法人 日本オリエント学会
雑誌
オリエント (ISSN:00305219)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.41-53, 1987-09-30 (Released:2010-03-12)

Al-Husein b. Muhammad b. 'Ali al Ja'fari ar-Rughdi or simply known as Ibn Bibi after his mother, many times uses the term of “ilkhan” in his Anatolian history of Al-avamir al-'ala'iyye fi al-Umur al-'ala'iyye.Carefully examining the uses of this title in the faximile of the unique Istanbul manuscript, the author of this paper concludes that Ibn Bibi called by this title Törege Khatun, Ögedei's wife and regent after his death. So, the meaning of this term would not be “the subjugated khan”, but “khan of the people”, because the other title of this regent was “Ulus Beg”, which means “the lord of the state”.Accordingly, Hülegü's title of “il-khan”, when he assumed this title about after twelve years, would mean also “the khan of the people”. This regental title should not be maintained after the conversion of Ghazan-khan so this word was omitted from the legend of his coins as well as his soccessors, just like another inscription of “khaghanu nereber (by the order of the khaghan)”, which was turned into “Möngke tengrin küchündür (in the strength of the eternal Heaven)”.
著者
北川 誠一
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
オリエント (ISSN:00305219)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.41-53, 1987

Al-Husein b. Muhammad b. 'Ali al Ja'fari ar-Rughdi or simply known as Ibn Bibi after his mother, many times uses the term of "ilkhan" in his Anatolian history of <i>Al-avamir al-'ala'iyye fi al-Umur al-'ala'iyye</i>.<br>Carefully examining the uses of this title in the faximile of the unique Istanbul manuscript, the author of this paper concludes that Ibn Bibi called by this title Törege Khatun, Ögedei's wife and regent after his death. So, the meaning of this term would not be "the subjugated khan", but "khan of the people", because the other title of this regent was "Ulus Beg", which means "the lord of the state".<br>Accordingly, Hülegü's title of "il-khan", when he assumed this title about after twelve years, would mean also "the khan of the people". This regental title should not be maintained after the conversion of Ghazan-khan so this word was omitted from the legend of his coins as well as his soccessors, just like another inscription of "khaghanu nereber (by the order of the khaghan)", which was turned into "Möngke tengrin küchündür (in the strength of the eternal Heaven)".