著者
宇野 隆夫
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.7, pp.25-42, 1999-05-14 (Released:2009-02-16)
参考文献数
42

本稿では古墳時代中・後期また飛鳥時代を,弥生時代的な食器様式から律令制的な食器様式への転換過程を考える上で非常に重要な変革期と位置づけて,中国・朝鮮との関係を考慮しながら考察を加えた。方法は,個々の器種の型式に加えて,使用痕観察による使用法の復元を重視した。その結果,倭は5世紀に,中国華北に源流をもつ食器文化を朝鮮半島から本格的に導入したと考えた。華北的な食器文化とは,食膳具における杯の卓越・身分制的使用,煮炊きにおける竈・蒸器・鍋の使用,酒造をはじめとする貯蔵具の多様な使用である。これに韓独特の陶器高杯使用法が加わり,また倭の伝統的な土器高杯の使用の存続と須恵器蓋杯の創出があって複雑な様相を呈した。その結果,煮炊き・貯蔵においては華北的な方式の導入が順調に進んだが,食膳具では祭祀・儀礼的な意味を与える使用法が存続したと理解した。ただし5世紀の段階では,階層あるいは集団の違いによる渡来文化受容の水準差が存在した。これに対して6世紀には,日本列島中央部において,階層をこえて華北的な食器文化が定着した。同時に食膳・煮炊き具の両者にわたって東西日本の顕著な地域差が生じることとなった。この二者は共に次の時代を準備するものであるが,特に東日本において須恵器蓋杯と土器杯の写しの関係が生じてくることを,食膳具における華北的な身分制的使用法への転換のはしりとして重視した。7世紀には,従来の東西日本の食器の在り方を統合し,また仏教の本格的導入を基礎として,食膳具による身分表示を体系化する方式を追求した。それは7世紀初めの金属器を頂点とする写しの方式の採用,7世紀末の土器・須恵器の法量分化・互換性の成立によって実現したが,すでに達成されていた煮炊き具・貯蔵具の変革に,この食膳具の変革が加わって律令制的食器様式が確立した。なお日本列島中央部における律令制的食器様式には,宮都的食器様式をはじめとするいくつかの地域的な様式があり,律令社会を考察するための有益な情報を提供している。
著者
前川 要 千田 嘉博 高橋 浩二 村越 潔 酒井 英男 モリス マーティン 宇野 隆夫
出版者
富山大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

研究成果の慨要を下記の3つに分けて記す。(1)遺跡の年代われわれの唐川城跡における3年間の測量・発掘調査の最大の成果は、中世城館ではなく古代環壕集落であることを明らかにしたことである。いままで、中世城館として考えられ、環境集落の研究史では全く採り上げられなかった。それは、第1次調査における土塁の盛り土から出土した土師器碗破片と土塁の上から検出された鍛冶炉跡SX02の埋土基底部から出土した土師器甕口縁部より明らかとなった。遺跡の存続年代は、従来の土器編年観から10世紀半ばから11世紀初頭頃で、年代的には、50年から60年ほどの期間である。(2)規模・機能と集住唐川城跡については、従来略測図のみ公表されていたが、今回トラバース測量を実施して正確な測量図を作成した。その結果、面積が約8万2千m^2、浅い空堀状の遺構,2条の空堀跡と外土塁、竪穴住居跡あるいは鉄生産関連遺構と考えられる窪みを多数確認した。これらのことから、唐川城跡は,二条の空堀と浅い空堀状の遺構によって,北から3つの郭で構成され、そして中心の郭が最も大きく高いことが判明した。また城城内に竪穴住居跡,鍛冶関連遺構が41箇所存在することを確認した。また、小鍛治の関連と想定される小型の窪みは16箇所以上存在する。第2次発掘調査では、2軒の住居跡を検出したが、いずれも新旧2時期存在した。そのことから、41箇所の2倍程度、つまりすくなくとも百軒弱の集落であることが推定できる。井戸は、井戸は北側郭と南側郭に各1基確認した。どちらの井戸も上端幅約10m,深さ約2.5mを測る。第1次調査では、南側郭の井戸を半分断ち割りしたが、湧水層が確認できず溜井戸の可能性がある。また、井戸周辺に竪穴住居跡あるいは,鍛冶関連遺構と推察する円形の窪みを確認した。鉄生産の際の水を溜める遺構の可能性がある。(3)手工業生産今回の大きな成果の一つは、精錬炉が盛り土をした階段状遺構の頂上から2碁見つかったことである。付章の深澤・赤沼論文によると、鯵ヶ沢町杢沢遺跡と同様の竪型炉であり、関連性が考えられる。従来、環壕集落からは、小鍛冶炉を検出した例はあるが、精錬炉を検出したのは初めてである。北側井戸周辺では直径約2m前後の窪みが約7箇存在しており鉄滓が地表面採集できる。さらに南側井戸東側平坦面にも10基以上の窪みがあり、ここでも鉄滓が地面採集できる。これらのことは、少なくとも北郭と南廓では、精錬と小鍛冶を一連の工程で、土木工事を含めて、大規模かつ組織的に行っていたことを示している。また、内面漆塗りの土師器甕が出土したことは、漆容器として使用された可能性がうかがわれ、漆生産工房があったことを推測させる。
著者
宇野 隆夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.377-430, 1997-03-28

中世的食器様式は,焼物・木・漆・鉄のように多様な素材を使用し,東アジア規模から1国規模以下までの様々な生産流通システムを経た製品から成り立っている。本稿は中世の人々がこの多様な種類・器種の食器にどのような意味を込めて使用したかを考えようとするものである。そのために食器を型式と計量という二つの方法によって分析し,その結果と出土遺跡の性質との関わりに着目した。型式については,貯蔵・調理・食膳の各用途を通じて,写しの体系の中にあるものと,ないものとに二大別した。写しの頂点にあるものは中国製陶磁器が代表的なものであり,日本製施釉陶器の多くと無釉陶器・土器・瓦器・木漆器の一部に写しの現象が存在する。これに対して基本的に写しの体系に加わらないか脱却傾向にあるものは,日本製土器・瓦器・無釉陶器・木漆器の多くである。これら写すか写さないかについては,種類・器種毎に明確な決まりがあったと考え得る。また年代的には,中世前期には写さない在り方が主流であり,中世後期には種類を越えた写しの現象が増加する。この大別を基礎とした計量と遺跡の性格との対比の結果から,他を写さず釉薬や漆をかけない土器・瓦器・陶器・木器類は宗教・儀礼的な意味を込めて使用したものであると考えた。その源流は王朝国家期の平安京中枢部における食器使用法にある。これに対して写しの体系にあるものは,品質の上下を問題とする身分制的な使用であると評価した。この使用法の源流も古代にあるが,武家が主導して復活させたと考えた。漆器は,この両分野にまたがり,かつ日常の食器の主役である。土器・瓦器の鍋・釜の多くは鉄製鍋・釜を写すが,構成比率が著しく低い場合が多く,土器食膳具と一連の使用法であったと推察した。中世的食器様式の多様性は,雑多な品々の寄せ集めの結果ではなく,様々な意味を与えて使い分けた結果であり,その様式構造の変化は社会構造の変化を的確に反映するものであったと考える。
著者
宇野 隆夫
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.7, pp.25-42, 1999

本稿では古墳時代中・後期また飛鳥時代を,弥生時代的な食器様式から律令制的な食器様式への転換過程を考える上で非常に重要な変革期と位置づけて,中国・朝鮮との関係を考慮しながら考察を加えた。方法は,個々の器種の型式に加えて,使用痕観察による使用法の復元を重視した。<BR>その結果,倭は5世紀に,中国華北に源流をもつ食器文化を朝鮮半島から本格的に導入したと考えた。華北的な食器文化とは,食膳具における杯の卓越・身分制的使用,煮炊きにおける竈・蒸器・鍋の使用,酒造をはじめとする貯蔵具の多様な使用である。これに韓独特の陶器高杯使用法が加わり,また倭の伝統的な土器高杯の使用の存続と須恵器蓋杯の創出があって複雑な様相を呈した。その結果,煮炊き・貯蔵においては華北的な方式の導入が順調に進んだが,食膳具では祭祀・儀礼的な意味を与える使用法が存続したと理解した。ただし5世紀の段階では,階層あるいは集団の違いによる渡来文化受容の水準差が存在した。<BR>これに対して6世紀には,日本列島中央部において,階層をこえて華北的な食器文化が定着した。同時に食膳・煮炊き具の両者にわたって東西日本の顕著な地域差が生じることとなった。この二者は共に次の時代を準備するものであるが,特に東日本において須恵器蓋杯と土器杯の写しの関係が生じてくることを,食膳具における華北的な身分制的使用法への転換のはしりとして重視した。<BR>7世紀には,従来の東西日本の食器の在り方を統合し,また仏教の本格的導入を基礎として,食膳具による身分表示を体系化する方式を追求した。それは7世紀初めの金属器を頂点とする写しの方式の採用,7世紀末の土器・須恵器の法量分化・互換性の成立によって実現したが,すでに達成されていた煮炊き具・貯蔵具の変革に,この食膳具の変革が加わって律令制的食器様式が確立した。なお日本列島中央部における律令制的食器様式には,宮都的食器様式をはじめとするいくつかの地域的な様式があり,律令社会を考察するための有益な情報を提供している。
著者
宇野 隆夫 前川 要 櫛木 謙周
出版者
富山大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1990

日本で唯一確認されている古代塩田遺跡(石川県羽咋市滝・柴垣海岸E・F遺跡)の発掘調査を実施した。その結果,土器製塩炉6基に加えて,鉄釜製塩炉1基を発見した。鉄釜製塩炉は,日本ではじめて確認されたものであり,8世紀初めの頃に塩田築造と同時に設置されたものであった。土器製塩炉も,周縁を石と粘土で固めたものと,石敷炉とがあり,石敷炉若狭より東でははじめての発見である。塩を煮る製塩土器も層位的に調査できたため,その年代的な変化が明らかとなった。海水を濃縮する塩田部分と,塩を煮つめてとる釜場の位置関係からも興味深いことがらが判明した。民俗調査例では,塩田と釜場は相接していることが普通であるが,調査結度では,塩田面より5m以上高い,標高約9mの地点に釜場があったのである。またその土木量が1万m^3を越えるように,あらゆる点において,古代塩田式製塩は大規模なものであることが判明した。以上は考古学調査の成果であるが,文献資料の調査から,古代塩田式製塩が,国府機構を軸に成立することがあることが明らかとなり,本事例も,西暦718年に立国された能登国の国家的な手工業政策との関係で理解できるようになった。東アジアの資料では,中国において戦国時代中期に塩鉄政策が,前漢代に国家的な生産体制の編成が,唐代に大土木工事をともなう塩田の築造がなされ専売制度も整うことが判明した。以上から,古代塩田式製塩という先端技術の成立は,東アジア古代世界における,日本律令国家の成立の中で可能となった重要な出来事であり,現在の塩専売制度の源流となったと位置づけた。
著者
寺村 裕史 宇野 隆夫 村上 智見
出版者
国立民族学博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2019-04-01

本研究は、ユーラシア大陸における東西交流(東洋と西洋)の結節点としての古代シルクロード都市の果たした役割と、それらの都市を介して行われた人や文化の交流の実態を考古学的に明らかにすることを目的とする。具体的には、①現地研究者と協働で実施するカフィル・カラ遺跡の発掘調査ならびに出土遺物・遺構の比較研究、②ザラフシャン川中流域に点在する都市遺跡の分布踏査や衛星画像解析、③GISを用いた都市遺跡の立地や周辺環境の分析、の3点を研究の柱とする。それらを総合し、シルクロード都市の形成・発展過程ならびに人と文化の東西交流の動態について国際的な議論を深め、現地研究者と共同で成果を発信する。
著者
宇野 隆史 岩澤 博
出版者
日経BP社
雑誌
日経レストラン (ISSN:09147845)
巻号頁・発行日
no.471, pp.34-37, 2013-08

時代を超えて、繁盛店を作り続ける「居酒屋の神様」こと、「楽」の宇野隆史社長。「弟子代表」として六本木や西麻布で繁盛店を経営するベイシックスの岩澤博社長との座談会を開催し、繁盛店を作るために必要な商売の秘訣とは何かを探った。岩澤 先日、東京・…
著者
原 竜介 伊東 久夫 安田 茂雄 町田 南海男 磯部 公一 宇野 隆 高野 英行 幡野 和男 茂松 直之 久保 敦司
出版者
Japanese Society for Therapeutic Radiology and Oncology
雑誌
The Journal of JASTRO (ISSN:10409564)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.109-115, 1999-06-25 (Released:2011-07-11)
参考文献数
13

放射線治療を行った原発不明頸部リンパ節転移癌患者29例について検討した. N病期はNl: 1例, N2: 14例, N3: 14例で, 組織型は扁平上皮癌25例, 未分化癌4例であった. 11例は放射線と手術が併用され (RT+Ope群), 18例は放射線を主体に治療した (RT群). 頸部リンパ節への総線量は50-78Gyであった. 全体の5年生存率は40%となった. N病期別の5年生存率はN1-2b群61%, N2c-N3群22%となり, N1.2b群が有意に予後良好であった (p=0.003). 治療法ではRT群33%, Ope+RT群59%となり, Ope+RT群において有意に予後良好であった (p=0.004). N1-2b群とN2c-3群の累積局所制御率は, それぞれ73%, 34%となった (p=0.026) 治療法別の局所制御率では, Ope+RT群の76%に対し, RT群は36%となった (p=0.010). 経過中に原発巣が発現した症例は4例であった. 原発不明癌の頸部リンパ節転移では, 転移リンパ節の制御が生存率改善に必要で, 出来る限り転移リンパ節を切除する必要性が示唆された.
著者
須藤 研太郎 山口 武人 中村 和貴 原 太郎 瀬座 勝志 廣中 秀一 傳田 忠道 三梨 桂子 鈴木 拓人 相馬 寧 中村 奈海 北川 善康 喜多 絵美里 稲垣 千晶 貝沼 修 趙 明浩 山本 宏 幡野 和男 宇野 隆 多田 素久 三方 林太郎 石原 武 横須賀 收
出版者
日本膵臓学会
雑誌
膵臓 (ISSN:09130071)
巻号頁・発行日
vol.27, no.5, pp.656-662, 2012 (Released:2012-11-28)
参考文献数
25
被引用文献数
1 1

近年,化学療法および化学放射線療法の進歩により局所進行膵癌の治療成績は向上している.切除不能症例を対象とした臨床試験で生存期間中央値15ヶ月を超えるものも報告される.また,非切除治療が奏効し根治切除可能となった局所進行例も報告され,conversion therapyとしての役割も注目される.一方,局所進行膵癌に対する治療はエビデンスの乏しい領域であり,化学放射線療法の意義についても未だcontroversialである.今回,われわれは化学放射線療法82例(S-1併用56例,その他26例)の成績を供覧し,非切除治療の現状と意義について考察を行う.全82例の生存期間中央値15.4ヶ月,3年生存率17.5%,5年生存率6.7%と化学放射線療法のみでの長期生存例も経験された.さらなる成績向上のためには外科切除との連携に期待されるが,本稿ではわれわれの経験を供覧し,今後の展望について考察を行う.
著者
黄 暁芬 宇野 隆夫 吉井 秀夫 河野 一隆 上原 雅文 米田 穣 河野 一隆 諫早 直人 宮原 晋吾 臼井 正 張 在明 塔 拉 魏 堅 王 曉〓
出版者
東亜大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

本研究は4年間にわたり、対象調査地のフィールドを通して考古学、歴史学、地理情報システムや年代測定法などの学際的研究を展開していた。主な成果は下記3点にまとめられる。1.漢魏帝都と郡県城址の構造プランとその象徴性1)帝都建設における理念空間の完成:漢帝都長安の建設プランは、南山子午谷口から嵯峨郷五方基壇まで南北軸線全長75kmに及ぶ。それが渭水を中心として都城・陵墓との生・死空間が南北正方位に対置し、天と地・自然山川と記念的建造物の対象性をベースにおき、漢帝国支配の正統と神聖を表象したシンボルであり、東アジア古代都城の成立にも多大な影響を与えていた。2)郡県城址の調査と復元:華北、内蒙古における戦国・秦漢期の郡県城址が計26ヵ所を調査、測量した。GPS・GIS解析によって各遺跡の方位と構造プランを解明し、中央帝都建設に対して地方郡県都市の特色を初めて把握した。一辺500~600四方の城郭都市がほとんどで、北方位を重視するが、真北からの偏角は1度~7度あり、帝都建設ほどの精度がない。その偏角の大小は、中央勢力との関係緊密度に影響されるように見て取れる。城外には正方位重視の墳墓が造営されたことも判明し、帝都長安の都市計画を模倣したものと考える。3)北方国境線遺跡の探求:内蒙古の陰山南麓一帯の調査では、城塞、長城、烽火台の併存が発見した。一辺40-50四方の城塞は城門1つ、石積みの城壁が幅3-5、頑丈な防御施設で、それに長城と烽火台は近接に築かれ、戦国秦漢期の北方軍事施設として完備されたことが判明した。2.秦直道の調査と研究1)秦直道の真相究明:紀元前212年建造された秦帝国の南北幹線道路-秦直道は歴史上、深い謎に包まれ、長い間不明なままであった。近年、秦直道の発掘調査や日中連携調査によって、秦直道の真相がようやく解き明かされてきている。山岳高地の作道、版築土の舗装道路の道幅は平均30m、道の沿線に壮観な皇室の行宮や防御に備えた関所、駅舎施設が付設された。それは高度な土木技術と巨大な権力組織によって創り出された「帝国の道」である。2)古代ローマ道との比較:ローマ道は礫石や砂石の作道が主で、道幅4の石畳みの舗装道が特徴的である。帝国領域間の軍事、交通運輸道として発達し、商用道路の兼用を含む実用性の優れた古代ハイウェーである。3.チベット吐蕃王墓の調査と実測チベットの吐蕃王国を象徴する巨大墳墓の4大分布地点で実地調査とGPS測量を行った。その結果、時期の異なる巨大方墳・円墳を特徴とした吐蕃王室・貴族大墓の構造配置と分布を総合的に把握し、吐蕃大墓の立地方位と景観の特色などの検証が初めて実施した。
著者
西村 昌也 宇野 隆夫
出版者
金沢大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010

大規模面積をもち,かつ各時代に亘って利用されてきた遺跡を構造的に理解することは,大規模発掘調査を除けば非常に困難である。本研究は,ベトナムにおける城郭遺跡や大型居住遺跡を対象に,小規模な発掘調査と地形の観察や測量調査、さらに地図資料の分析などから,遺跡の構造的理解をめざす研究を行ったものである。これまで構造的理解が未提出であった各遺跡に対して,地図資料分析と微地形観察調査とGPS測量を組み合わせた胡朝城遺跡の構造、試掘調査と微地形観察と測量調査を組み合わせたホアチャウ城の形成過程と時期別の構造、衛星写真と地形踏査によるチャンパの各城郭遺跡の構造などの全く新しい知見を提出し,後続研究が追随できるよう。その方法論を説明しつつ研究成果を出版した。
著者
安田 喜憲 笠谷 和比古 平尾 良光 宇野 隆夫 竹村 恵二 福澤 仁之 林田 明 斉藤 めぐみ 山田 和芳 外山 秀一 松下 孝幸 藤木 利之 那須 浩郎 森 勇一 篠塚 良司 五反田 克也 赤山 容造 野嶋 洋子 宮塚 翔 LI Xun VOEUM Vuthy PHOEURN Chuch
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2006

年縞の解析による高精度の気候変動の復元によって、モンスーンアジアの稲作漁撈文明の興亡が、気候変動からいかなる影響を受けたかを解明した。とりわけメコン文明の一つであるカンボジアのクメール文明の興亡については、プンスナイ遺跡の発掘調査を実施し、水の祭壇をはじめ、数々の新事実の発見を行った。稲作漁撈文明は水の文明でありアンコールワットの文明崩壊にも、気候変動が大きな役割を果たしていたことを明らかにした。
著者
広岡 公夫 時枝 克安 前川 要 宇野 隆夫 酒井 英男
出版者
富山大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1995

考古地磁気学的研究は、主に遺跡に残されている焼土を伴う遺構から試料を得て、その熱残留磁化を測定して行われてきた。その結果、過去2,000年間の地球磁場の変動(考古地磁気永年変化)が相当な精度で明らかにされている。しかし、データが蓄積されてくるにしたがって、日本列島内でも、同一時代で地域的に地球磁場方位に無視できない差異が存在することが明らかになってきた。考古地磁気年代推定は、永年変化曲線を用いて行われるので、地域差が直接推定年代値に影響を与えることになる。これを避けるためには、地域差を補正した地域毎の永年変化曲線を作る必要がある。本計研究計画の年度中に、出来るだけ多くの地域でその地域の永年変化曲線をつくることを目指したが、最近データの増加が著しい北陸地方の中世(西暦500〜1550年)と、従来から古窯の考古地磁気データが多く、詳しい土器編年も行なわれている東海地方の中、近世(西暦900〜1700年)の補正永年変化曲線を得た。今まで測定例が殆どなかった、北海道の10・11世紀のデータや、青森県からも2例のみではあるが、須恵器窯のデータが得られたし、何よりも、相当数のデータが、韓国から得られたことは、東アジアの考古地磁気研究および、地磁気の地域差を考える上で大きな成果であった。また、考古地磁気年代推定法のよく焼けた焼土遺構であれば遺構の種類を問わないという特徴を有しており、その特徴を生かして、最近、鉄生産に深い関連を持つ炭焼窯が北陸地方で数多く発見され、調査されているが、それに考古地磁気測定を適用したところ、従来から予想されていた奈良・平安初期のもの、近世、近代のもの以外に、12〜13世紀の中世にも相当数の炭焼窯が存在することが明らかとなった。