- 著者
-
小林 忠雄
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.36, pp.295-332, 1991-11-11
江戸を中心とした近代科学のはじまりとしての合理的思考の脈絡について,近年は前近代論としてさまざまなかたちで論じられている。加賀の絡繰師大野弁吉については,これまでその実像は充分に分かってはいない。本論文はこの弁吉にまつわる伝承的世界の全貌とその構造について,弁吉が著した『一東視窮録』を通して検証し,幕末の都市伝説の解明を試みたものである。弁吉は江戸後期に京都に生まれ長崎に遊学し,あるオランダ人について西洋の医術や理化学を学んだという。その後加賀国に移り住み,絡繰の茶運人形やピストル,ライター,望遠鏡,懐中磁石や測量器具,歩度計などを製作した。『一東視窮録』の表紙にはシーボルトらしい西洋人の肖像画とアルファベットのAに似た不思議な記号が描かれている。しかし,この西洋人は不明であり,またA形記号は,18世紀のイギリスで始まったフリーメーソンリーの象徴的記号に似ている。この書物には舎密術(化学)・科学器具・医術・薬学・伝統技術等々が記録され,特に写真術についてはダゲレオタイプと呼ばれた銀板写真法の技術を示したものであった。こうしてみると,『一東視窮録』の記載はメモランダムであり,整合性のある記述ではない。いずれにしろ弁吉の伝説のように,その実態が茫洋としていること自体が,本格的な西洋窮理学の本道をいくものではなかった。そして,幕末期の金沢には蘭学や舎密学・窮理学あるいは開国論を議論しあう藩士たちの科学者サロンがあり,弁吉もその中の一員であったと考えられる。そして弁吉の所業は,小江戸と称された城下町金沢の近世都市から機械産業を基軸とした近代都市へと,その都市的性格を変貌するなかで,まったく都市伝説と化していった。それは柳田國男が表現した「都市は輸入文化の窓口である」という都市民俗の主要なテーマに沿ったものとして理解できる。