著者
伊藤 智章
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

タブレット型携帯情報端末で動作するアプリケーションソフトを利用して、地図を共有するシステムを考案した。現在、導入が検討されている「デジタル教科書」の多くが、授業者主導の教材作成ができない状態になっている中で、タブレット端末を使った「デジタル地図帳」は、GISを援用して、誰でも自由に教材を作成、共有できるのが特徴である。 今回は、Apple社の「iPad2」を用いた。利用したソフトは、「GoogleEarth」と、地図アプリ「ちずぶらり」である。教室での利用と、野外調査での利用を想定して、実証実験を行った。 「Google Earth」は、パソコン用の各種GISソフトとの親和性が高いので、授業者が作った主題図や、インターネット上で調達した各種データを生徒の手元で簡単に提示することが可能である。ただし、回線速度や動作の安定性に課題があるため、野外巡検での利用には課題が残る。 「ちずぶらり」は、地図を画像データとしてとして扱い、位置情報の付与や写真の埋込みはパソコンからクラウド経由で行う。地形図はもとより、位置情報を持たない古地図や観光案内図、ハザードマップなどをタブレットで持ち運ぶことができる。また、インターネットに繋がらなくても閲覧や現在地表示が可能なので、野外調査実習の教材としての実用性が高い。ただ、位置情報を持っているGISデータも、画像として取り込んで位置合わせをし直さなければならないこと、アプリ更新の承認等の手続きが必要なため、地図の登録から閲覧開始までのタイムラグが長いこと、地域および更新者を限定しているので一般の教員が手軽に利用する環境にないこと等である。 地理教育は、「セルフメイドの地図帳」を手に入れようとしている。明らかになった課題を基に改善を行い、現場主導のデジタル教材開発を充実させていきたい。
著者
石毛 一郎 後藤 泰彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

著者らは要旨集を提出したものの大会を欠席したため,本要旨を撤回いたします.
著者
目黒 潮
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.61, 2005

1.はじめに茨城県東茨城郡大洗町(以下,大洗町)は水産加工業が多く立地する地域であるが,近年の小売価格の変遷に伴う賃金の低下によって労働力不足がすすんでいる.このため労働者の確保が困難になった各水産加工会社は,雇用対策として外国人労働者を雇うようになった.その結果,経営難のため倒産する企業が増える一方,大洗町の水産加工業の従業員数は増加傾向にある.2.大洗町の外国人労働者とその国籍および就業職種大洗町の外国人登録者数は1980年以降,急激な増加を示している.2004年1月現在の外国人登録者数は,大洗町の日本人数19,623人に対し,904人であり,国籍別に外国人登録者数を見ると,インドネシア人(444人),中国人(133人),フィリピン人(132人),タイ人(57人),ブラジル人(33人)の順に多い.特にインドネシア人は,北スラウェシ州の出身者であるミナハサ族がほとんどを占めるという点で特徴的である.彼らの流入期は,大きく三つに分けることができる. 第1期: 不法就労者の流入(1980年 ? )1980年代後期,大洗町の水産加工業に就労していた在留外国人はイラン人が中心であったが,1990年代半ばになると,タイ人,フィリピン人の不法滞在者が増加した.しかし1996年になると,各水産加工会社が不法就労助長罪で送検されるようになり,それ以降,不法就労者は減少した. また,1980年代頃から,ある日本人船員と結婚していた北スラウェシ州ビトゥンの女性が,インドネシア人の家族を大洗町の各水産加工会社に紹介していたため,インドネシア人の不法就労者の流入も始まっていた.インドネシア人はその後徐々に増加し,同郷会や教会などのコミュニティを形成するようになった.これらの名簿から延べ人数を推計すると,最多時の2001年当事にはインドネシア人だけで1000人以上が大洗町に居住していたと推定される. 第2期: 日系人の流入(1991年 ? ) 1991年以降,一部の水産加工会社は改正施行された入管法の影響を受け,当事急増していた南米日系人の雇用も行っていた.しかし,南米日系人は業務請負会社を経由して就労するため、高額のマージンが取られるという結果をもたらした.その後,ある水産加工会社の関係者が,インドネシアの北スラウェシ州に日系人が多く居住するという情報を得て,各企業の要請に応じて彼ら紹介することで,雇用の合法化を試みた.1998年から2005年までに,北スラウェシ出身の日系人約180人が,大洗町の企業約20社に就労している.彼らの多くは,周辺の他産業に従事するようになった不法滞在者とも交流を持っている場合が多い. 第3期: 中国人研修生の流入(2003 年? ) 1991年に改正施行された外国人労働者の研修・技能実習制度は,海外への技術移転と同時に,二本の中小企業の雇用対策という,二つの側面を持つ.大洗町では同制度の拡大に応じて,2003年から本格的に中国人研修生を導入するようになった.研修生は二つの団体を経由して受け入れられ,18社に入っている.今後,大洗町では他地域の製造業と同様,徐々に研修生・技能実習生を増加させていく可能性が示唆される.ただしインドネシア人については,不法就労者雇用の経歴を持つ大洗町の水産加工会社に対して研修期間の許可が下りず,難航している.3.大洗町におけるインドネシア人の就業とコミュニティ 不法就労者,日系人,研修生・技能実習生という3つのタイプの外国人労働者の中で最大数を示すインドネシア人は,以下のようなエスニック・コミュニティを形成した. 教会:宗教行事や生活支援,指導などを行う. ● インドネシア福音超教派教会(G_(企)_J) ● 日本福音キリスト教会(GMIM) ● インドネシア・フルゴスペル教団(GISI) ● カソリック 同郷会:仲間同士の相談を行い,葬祭時の費用を出す. ● Langoan● Kawangkoan ● Kiawa● Karegesan ● Tomohon● Sonder ● Sumonder● Tondono ● Tumpa Lembean 大洗町の行政当局は不法就労者の増加を恐れ,外国人に対する支援策が十分ではない。そのためこれらのコミュニティが彼らの生活に関して指導的な役割を担っているだけでなく,大洗町の水産加工会社と提携してインドネシア人労働者の指導に関わるようになってきている. 本研究でとりあげた事例に見られるシステムは,移民政策や移民産業によって移住労働者の職種や居住を自由自在にコントロールするというトップダウン式のものではない.むしろ,移住労働者のコミュニティと地域産業が自発的に提携し展開していく,ボトムアップ型の事例である.特に,そのコミュニティに対して,民族意識や宗教組織が重要な役割を果たしているという点で特徴的である.このような就労基盤は,今後の移住労働者研究における重要な素材であるといえよう。
著者
寺本 潔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.276, 2011

小学校からの地図、地球儀学習の必要性を提案する。とりわけ地球儀学習は重要である。地球儀には、多くの印字も見られ、アームやリングにも目盛が付けられている。これらの数字にいきなり入るのは、児童にとって難しい印象を与えるので避けたいが、見慣れている世界全図と地球儀を比べさせることから始めたい。そうすれば、描かれている大陸や海洋の形や大きさが違う、縦と横にいろいろな線が引いてあるが地球儀の線は曲がっている、地球儀だと回転できるので面白いなどと言った意見が出てくる。これらを丁寧に注視させたり、経線や緯線を指でなぞらせたりしながら、地球儀に親しんでもらうことが先決である。特に緯線は、「日本と同じ緯度にある国々はどんな国ですか?」「地球儀で眺めると暖かい土地や寒い土地、中ぐらいの気温の土地などがよくわかります。」「わたしたちの住む日本は、どの州に属していますか?自然の条件で呼ぶ『大陸』ごと、で分けるやり方と違って人間が住む土地の様子で呼び分ける『州』という呼び方で世界を分ける方法もあります。」などと解説して指導したい。州で世界を区分する内容は、教科書には載っていないが、現行の『地図帳』には掲載されている。世界の大陸名が記入してある地図と合わせて、アジアを中心にした西半球図とアメリカを中心にした東半球図という平面の地球図も用いながら、大陸や海洋の広がり、5つの州の名前、経線や緯線を扱うと良い。北回帰線や南回帰線という見慣れない用語も『地図帳』で目にするが、深入りは避けたい。もし児童が質問をしてきたら、「回帰線という線の真上に太陽が見える日があり、その日には真上から光が差すので立っている人の陰ができないのです。夏至の日には北回帰線に、冬至には南回帰線の真上から太陽の光が注ぐのです。」と説明する。地図や地球儀を扱える技能を明確に学力として位置づけるべきであろう。
著者
野上 道男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

魏志倭人伝は日本の地誌に関する最初の文書である.方位や里程の定義が示されていないので、記事の地名がどこに相当するかについて、様々な説がある.日本では倭(ヰ)国をワ国と読み、元祖ヤマト近畿説の日本書記がある.中国では随書の倭国伝・旧唐書の倭国伝・新唐書の日本伝に混乱した記述がある、江戸時代には新井白石/本居宣長(18世紀初頭/紀末)の研究があり、明治時代を経て皇国史観の呪縛を離れたはずの現在に至るまで、いわゆる邪馬台国論争として決着がついていない.そして現在では所在地論は大きく近畿説と九州説に分けられ、観光(町おこし)と結びついて、ご当地争いが激化し、学術的な論争の域を越える状況にある. 年代の明らかでない出来事の記述は歴史にならない.同様に場所を特定しない事物の記述は地理情報ではない.つまり、魏志倭人伝の読み方は全て場所の特定(方位と里程)から始まる.倭人伝は記紀と重なる時代についてのほぼ同時代文書である.そこに記述された歴史がどこで展開されたのか、これは古代史にとって基本的な問題であろう.&nbsp;主な要点は以下の通りである<br>1)記事に南とあるのはN150Eである.(夏至の日出方向)<br>2)倭及び韓伝で用いられた1里は67mである.(井田法の面積に起源があると推定)<br>3)古代測量は「真来通る」「真来向く」方向線の認定が基本である.<br>4)里程は全て地標間の距離である.<br>5)来倭魏使の行程記述には往路帰路の混同がある.<br>6)子午線方向の位置(距離)を天文測量で得る方法を知っていた.<br>7)邪馬台国は卑弥呼が「都せし国」である.<br>8)倭国の首都は北九州の伊都(イツ)国である.<br>
著者
角田 史雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.3, 2006

1.荒川地震帯 寄居以南の荒川下流域では、流路ぞいに1649年」(慶安)、1855年(江戸)、1931年(西埼玉)、1968年(東松山)の被害地震(M;マグニチュード=7_から_6)が、ほぼ直線的に配列し、これを荒川地震帯と呼称する。この地震帯の南東延長には、東京湾北部断層と中部千葉の6つの被害地震の震央が分布する。 2.首都圏東部と同西部における被害地震の交互発生 上に述べた被害地震(浅発_から_中深発地震群)の発生深度は50_から_90kmであるが、首都圏西部の富士火山帯ぞいの被害地震(極浅発地震群)の発生深度は30km以浅である。過去400年間では、これら2つの群の被害地震が、交互に発生するケースがめだつ。 3.富士火山帯でのマグマ活動と被害地震の活動との関係 一般に、現在における地変エネルギーの主な放出様式を噴火と地震とすれば、1回あたりの地震の最大Meは、噴火のMv=5_から_6ていどにあたるエネルギーを放出するといわれる。これに基づいて、過去100年間における富士火山帯_から_首都圏での噴火・鳴動・被害地震などの時系列でまとめると、伊豆諸島で噴火の北上(最長20年で、おおよその周期が15_から_6年)→三宅島または大島での噴火の1_から_2ねんごの東関東における極浅発地震の発生→その1_から_2んえごの東関東における浅発_から_中深発地震の発生、という規則性が認められる。 4.震害には、地盤破壊をともなわない強震動震害と、ともなう液状化震害とがある。このうち前者は、被害地震の震央域と、平野の基盤面の断層・段差構造の直上に現れやすい。埼玉県では、過去に、荒川地震帯ぞいの区域、東部の中川流域(とくに清水・堀口(1981)による素荒川構造帯の活断層ゾーン)、関東山地北縁の活断層分布域などに発現した。 5.埼玉県の液状化震害 液状化は、地盤の構成物、地下水の水位レベル、揺れによる地下水圧の急上昇などの条件にしたがって発現する。過去の液状化事例は、利根川中流低地_から_中川流域でよく知られる。 6.震害予測 強震動震害は4.で述べた事例の再発を予測しておく必要がある。液状化震害は、じょうじゅつしたもの以外、神戸の震災例などから、台地区域において地下水面下にある人口地盤の液状化、河川近傍の傾斜した地下水面をもつ区域にpける、地盤の側方移動などを考慮した予測を確立する必要がある。
著者
阿部 亮吾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.15, 2006

1.はじめに<BR> 東京都区部の山手台地では、戦後の住宅地の急増により都市型水害が発生するようになった。加えて、最近30年間において50mm/hを超えるような豪雨が増加傾向にあり、予想をはるかに超えるような水害が発生している。山手台地を流れる神田川流域や石神井川流域では、1960年代から都市型水害に対する研究が行われ、様々な水害対策も行われてきた。しかし、いずれの流域でも、流域全体を対象とした都市型水害の研究が1980年代以降は行われていない。また、水害対策の効果については、個々の水害対策箇所において研究が行われているが、流域全体を対象とした長期的な検討がおこなわれていない。そこで本研究では、流域が隣接し、浸水域の発生箇所、発生年代、水害対策の進展の過程に大きな違いのある神田川・石神井川両流域を対象とした。両流域を対象として1974年から2002年の期間において、浸水発生域の変化と水害対策の進展過程との関係を検討した。なお細密数値情報(10mメッシュ土地利用)の首都圏版1974から1994によると、この期間には両流域において著しい土地利用変化が見られないため、その影響を考慮することなく分析が行えた。<BR>2.調査方法<BR> 神田川・石神井川両流域における浸水地域は、東京都建設局発行の『水害記録』を、水害対策のうち下水道幹線の整備の進展については東京都下水道局発行『下水道事業概要』を、下水道支線の整備の進展については『東京23区の下水道』を、河川改修と地下貯留施設の整備の進展については東京都第三建設事務所発行『事業概要』を使用した。それらをGIS(MicroImages社製.TNTmips)を用いて数値地図化した。得られたデータを谷底低地と台地に分けたが、得られた浸水域と水害対策のデータの精度が粗く、『1/25000土地条件図』の精度と合わなかった。そのため文献をもとにして谷底低地を河道から両幅200mの範囲としてGISで作成した。<BR>3.結果と考察<BR> (1)両流域における浸水域の変化1974年から1993年までは、谷底低地内に面積規模の大きな浸水域が多数発生し、台地上に小面積の浸水が点在していた。しかし1994年以降、谷底低地の浸水域は著しく減少し、台地上の小面積の浸水は依然として点在していた。このことは、両流域の水害対策が大規模な浸水が発生していた谷底低地から進み、小規模に浸水が発生していた台地上では遅れたことと対応している。また、1999から2002年に発生した浸水域は、1973年以前に整備された排水機能の小さい下水道幹線の周辺に多く発生していた。(2)神田川流域と石神井川流域の比較神田川流域の浸水対策は1974年以前から進んでいたが、1974年以降の進展が遅く浸水域の減少は多くなかった。逆に1974年以前の石神井川流域の浸水対策は神田川流域に比べて遅れていたが、1974年以降の進展が著しく浸水域の減少も急速に進んだ。そのため、1984年以降は石神井川の浸水域は大幅に減少したが、神田川流域の浸水域は石神井川流域と比べると多く発生していた。1979年から1993年には、本来は浸水発生を現象させるはずの河川改修によって、神田川と善福寺川の合流付近に新たな浸水域が発生していた。これは、河川改修が下流より先に上流で整備されたことが原因である。両流域の浸水対策の違いと河川改修の実施順序の逆転による浸水は、長期展望を持った計画的な浸水対策の重要性を示唆する。
著者
中村 和正 若松 伸司 菅田 誠治 木村 富士男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.175, 2003

近年、光化学大気汚染の広域化が進行している。主要発生源から遠く離れた郊外地域に当たる福島県でもOx濃度の増加が90年代に入ってから著しく(図1)、2000年には22年ぶりとなる光化学スモッグ注意報が3回発令され、被害者数も104名に及んだ。本研究は関東地方及び福島県、山梨県におけるOxの空間的・時間的変動を明らかにすることを目的としている。解析方法は解析期間は1982_から_2001年で、福島県・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・山梨県の大気環境常時監視測定局の時間値測定データ及びアメダス時間値観測データを用いた。解析結果。解析領域内におけるOx日最高値の上位5地点がすべて120ppbを超えた高濃度日に関東地方及び福島・山梨県内のどこでOx日最高値上位5地点が出現したのか、その頻度の経年解析を行ったところ、光化学大気汚染の広域化がさらに進行していることが分かった。特に90年代に入ってから、北関東でOx日最高値上位5位の出現頻度が増している。(図2)この要因の1つとして近年のNMHC/NOx比の低下が考えられる。NMHC/NOx比の低下は光化学反応を遅らせ、関東地方では夏季には海風の侵入に伴い、高濃度出現地域が内陸に移動することが多いため、最高濃度出現時刻が遅れることはより内陸に高濃度域が移ることを意味しており(Wakamatsu et al,1999)、高濃度日の日最高値上位5位の出現時刻も経年的に遅くなってきていることも確かめられた。(図3)また2000年には福島県でも日最高値上位5位が出現するようになった。
著者
宮城 豊彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

地すべり地形の実形を写真判読から明らかする作業がほぼ完了している。日本では、このスケールよりも一段小規模な微地形スケールで見た地すべり地形の特徴を、地すべりの再活動可能性の指標として再評価することで、地すべり地形の再活動可能性を評価し始めている。この発想の土台には、田村先生の地形観が反映されている。
著者
中島 直子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.39, 2007

<BR> 英国の社会改良家オクタヴィア・ヒルはオープン・スペース運動の中心人物である.同運動は1880年代から1890年代にかけて全盛期となる.ヒルは同運動を発展させるために,関係者と協力し,コモンズ保存協会・カール協会・首都圏公共公園協会・コモンズ保存協会ケント・サリー委員会・ナショナルトラストなどオープン・スペース運動を行う複数の組織の充実や創設に関与する.ヒルは同運動を,労働者階級を対象とする住宅改良運動を行う仲間たちと共に始めるが,イングランド教会の牧師,博愛主義者,芸術家,高位聖職者,労働者層らも協力した.シティ,教区会,地域委員会区,首都圏建設局など地方自治体の議員,ならびに上下両院の国会議員ともヒルは交渉があった.オープン・スペースを都市内外に保護する活動を全英に周知させ,同運動を発展させるには,国会での同問題の発議・審議,さらに法案の制定など国会議員との連携が必要であったからである.<BR> 1850年代~1880年代にかけてヒルが友人に宛て書いた書簡を中心資料として,彼女と議員と社交の拡がりを示す.ヒルはシャフツベリー,ケイシャトルワース,ショールフェーブル,クロス,ホランド,ブライス,オコナーらの国会議員との交渉があった. 上記議員の所属は上下両院,与野党,自由・保守両党と様々であるが,彼らは各々の立場と得意とする諸分野とから社会改良を実現させようとするリベラルな議員であった.なかには福音主義者やアイルランド自治論者も含まれた.<BR> 今回の発表では,ヒルや議員の著した論文ならびに国会議事録を資料に加え,彼女と国会議員との交渉の内容と拡がりを検証する.19世紀後半の英国で,オープン・スペース運動が,どのような議員の関心と支持を得ていたのか.ヒルはどのように巧みに活動し,同運動を強化,発展させることに成功したのか明らかにする.
著者
鷹取 泰子 佐々木 リディア
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本報告では、ルーマニア・南トランシルバニア地方で活躍する「ADEPT Transylvania Foundation (アデプト・トランシルバニア財団)」というNGOの活動に注目した。ルーマニアでは1989年の革命以降、NGOの数が増えており、6万2千団体以上が登録されているが(2010年時点)、農村地域で活動する団体はその3割にも満たない。<br><br>事例として取り上げる本財団はEUの共通農業政策のもと、地元自治体や他のNGO・財団法人と協力し、農村の持続可能な発展や伝統的な農村景観の保全などを目指した活動を行っている。その活動は主に以下の3つのレベルで行われている。<br><br>まず、地域コミュニティーのレベルでは、具体的に様々な事業(環境調査・保全、持続可能な農業に関するコンサルティング、食品加工開発・マーケティングなど、農村経済の多様化に関する零細・中小企業・起業家へのサポート、地元学校での環境教育など)を実現させている。<br><br>また、地域レベルでは、共通農業政策の支援金やその他のスポンサー、財団の支援を取り付ける役割を果たしている。<br><br>さらに、国・EUレベルでは、共通農業政策の改善を目指して、地域コミュニティーのニーズに合わせた政策や支援金の実現を求め、ADEPTが実際に提案し、小規模農家を対象とした支援金制度が2014年より実施されるようになっている。<br><br>10年以上にわたって実績を積んだこのようなNGOの活躍と、農​村​の​持​続​可​能​な​発​展への貢献が今後も期待されている。<br>
著者
町田 尚久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.はじめに</b><br>関東甲信地方では,寛保2年(1742年)7月27,28,29日,8月1,2日(旧暦)に台風の通過に伴う大洪水が発生した。この災害については,丸山(1990)などが被害の状況を千曲川流域でまとめ,町田(2014)が台風の進路を復元した。町田(2013)は,寛保2年洪水時に荒川上流域の斜面で大量の土砂移動が発生したことを指摘し,これ以降,荒川扇状地で河床変動が生じたことを報告した。しかしながら,寛保2年洪水時の土砂移動の状況については明らかにされてこなかった。本発表では土砂移動の発生の可能性を明らかにすることを試みた。<br><br><b>2.対象地域・対象資料</b><br>対象地域は,土砂移動が発生した荒川流域,利根川流域,千曲川流域とする。資料は,古文書などの一次資料を基にまとめられている県史,市町村誌,郷土史,先行研究等とした(横瀬町,1989;青木,2013;丸山,1990;河田,1977など)。文献には現象,災害記録,景観の変化などの記載があり,当時の土砂移動の有無を知ることができる。<br><br><b>3.土砂移動発生の記録</b><br>千曲川流域の長野県北佐久郡や南佐久郡,松代周辺では山崩れなど,利根川流域の群馬県嬬恋村,赤城山北部,上武山地および荒川流域の埼玉県長瀞町や横瀬町では斜面崩壊などの記載がある(青木,2013;丸山,1990;河田,1977など)。また,多摩川流域の東京都青梅市では家屋が埋まった記録がある。以上のことから町田(2013)が経路を復元した台風による土砂移動は,浅間山周辺から丹沢山地までと,赤城山の一部で発生したことが認められる。資料の多い千曲川流域では数多くの崩壊や地すべりが発生したことから,資料の少ない荒川流域と利根川流域でも,同様の状況にあったと考えられる。<br><br><b>4.寛保2年頃の山林状況</b><br>江戸時代の山林については,青木(2013)は山林の状況と当時の御触に基づいて千曲川流域の状況を示し,開発の影響によるものと推定している。秩父山地では17世紀中期以降,現在の秩父市大滝では伐採がすすみ,幕府が集落から離れた地域で樹木の伐採を制限し,さらに秩父市大滝や上州山地南側にある上野国山中領(現 上野村周辺)の一部でも伐採の制限がかかった(三木,1996)。これは樹木の伐採が進み,木材の確保が難しくなることを懸念した江戸幕府が伐採地域を制限したと推定することができる。一方,伐採制限のかかっていない地域や伐採の制限が弱い地域については伐採が行われていたと解釈することができる。このことから伐採が利根川流域でも進み,荒川上流域や利根川流域の一部では山林が荒廃していた可能性がある。さらに新編武蔵国風土記稿(秩父郡)の挿絵(蘆田,1933)から寛保2年の約90年後の植生や土地利用を推定でき,当時の植生は,現在のように高木が主体ではなかったことが読みとれる。<br><br><b>5.土砂移動が人為的影響により引き起こされた可能性</b><br>千曲川流域では人為介入の影響を受けた土砂移動の発生が指摘され(青木,2013),群馬県上野村周辺では正徳3年(1713年)に一部で伐採の制限をかけたが,寛保2年洪水時には幕府の伐採制限がかかっていた流域と隣接する南牧川では数多くの土砂移動が発生した。荒川流域,利根川流域の一部では,木材自給の増大した1700年代と寛保2年(1742年)洪水時の大雨が一致することから,木材の伐採が進み荒廃した斜面で崩壊や地すべりなどの土砂移動が発生しやすい状況にあったと推定できる。さらに蘆田(1933)の挿絵から秩父山地で高木が少ない環境があったと推定でき,降雨量によっては土砂移動を誘発する可能性は高い。さらに町田(2013)が示した寛保2年から安政6年までの荒川扇状地での河床上昇は,17世紀後半から伐採が増加する時期と一致することから山林の荒廃が示唆される。このことは当時,土砂移動が頻発したことを強く支持するものと考えられる。<br><br><b>6.おわりに</b><br>過去の地すべり,崩壊および土石流といったマスムーブメントの発生には,自然環境だけではなく,発生当時の社会状況,生活状況,産業(林業),御触(法令)などが強く結びついている可能性がある。このことから土砂移動は自然環境を背景として,さらに人為的影響を受けて発生することがあることが示された。歴史災害についても自然の影響と人為の影響を確認する必要がある。一方,植生分布,土砂生産など自然環境で結びつく現象については,流域単位で自然環境の変化とその動態を明らかにする必要がある。<br><br>
著者
大城 直樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

街おこし・地域おこしといったイベント,名産品,民芸品などのモノ,また郷土愛といった精神的な表象にいたるまで,地域と文化の組み合わせは,ツーリズムの発達とも連関する形で,従来の地域的文脈から切り取られたり,違う文脈に接合されたりしながら,編成・再編成されてきた。この「地域」という特定の空間的範域が「文化」と結びつけられることで事実上何が充填/発現されるのか。本研究は,従来自明で所与のものと考えられがちな「地域文化」を,構築的なものと措定することでいったん分解し,各々の概念の問題ならびにこの二つの組み合わせ自体に孕む無意識的な接合の在り方を精査することで,ごく日常的に用いられる「地域文化」表象を本質論から一度解放し,そこで得られた概念的知見を具体的な事例を通して検討することで,地域主義やナショナリズムに結びつくその構造的な枠組みと問題点を析出することを目的とする。<br><br>言い換えると,「地域文化」あるいはそこで措定される「地域なるもの」をめぐって交錯する諸表象と諸実践に焦点を当てて,それがなぜ「分節化(曖昧な状況からはっきりと形をとるようになること)」される必然があったかを問うことがそのねらいである。<br><br>その範囲として19世紀から今日にまで至るモダニティと資本主義の連関の追求を前提とする。その連関の発現であるテクノロジーの発展は,国家形態とも連動しているが,その端的な例が博覧会である。帝国主義ならびに植民地主義と博覧会は切っても切れない関係にある。地理的領土の拡大,地理的知識の蓄積,テクノロジーの発展競争等,スペクタクルな光景を現出させることによって,観客に国家的威信とその野望とを刷り込んでいったのである。また各種メディア・イベントや博覧会,博物館,展示会などが,多様な空間的スケールを表象させるその装置となった。そしてまさにここに地理思想として地域とアイデンティティの関係(愛国心,愛郷心,お国意識など)を問う理由があるものと考える。<br><br>第二次大戦後になると,高度経済成長期を経て,ポストモダニズムとも言われる大衆消費時代を迎える。1970年の大阪万博開催とともに始まった旧国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンのように,出郷者がノスタルジーを感じるよう「漠然としたローカルな風景」をポスター化し,従来観光地と目されなかった「ローカルな風景」をツーリズムの目的地として行く場合もあったし,アンノン族の発生と連動する形で,ファッショナブルな服装をまとった都会的な女性が「田舎」を旅するシーンをテレビで流すなど,従来の旅行形態とは大幅に異なるツーリズム・コンテンツを開発していった。知られているように,これらと雑誌メディアの関係については既に多くの業績がある。しかし,こうした変容がどういう風にして存立するようになったのか,そしてそれが自明化していったのか,その契機や道具立てないしは仕掛けにまで目配せした研究は少ない。これもまた文化史的問題であると同時に地理思想の問題でもあり,精査の必要がある。<br><br>また近年では「民俗」,「民芸」,「伝統」といった語で表象される観念やモノ,さらには生活様式ですらも,現地の宿屋や土産物屋であれ都市のセレクトショップや展示会であれ,あらたにヴァナキュラーなものを「商品化」し,カタログ化し,デザイン化することで消費の場を構築していく仕組みに包括されている。本研究では,使用価値が交換価値に変換されるという契機の文脈を抑えながら,F.ジェイムソン(1991)がいうところの後期資本主義の文化論理を精査し考察していくこととする。
著者
岩船 昌起
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><b>【はじめに】</b>本研究では,球磨郡球磨村を対象地域として,平成 24(2012)年熊本広域大水害を顧みた上で,令和2年7月豪雨災害時の緊急避難の逃げ道に注目し,予測し難い局地的大雨による水害時の住民避難行動を考察する。</p><p></p><p><b>【平成</b><b>24</b><b>年熊本広域大水害を顧みて】</b>2012年7月12日には,球磨村一勝地で日降水量238㎜,時間降水量11〜12時 39.5㎜,20〜21時 46.5㎜が記録された(気象庁)。7月12日7時〜13日7時の積算降水量は240.5㎜に及ぶ。この時,球磨川水系中園川沿いの高沢地区では,数軒が床下浸水し,内1軒では在宅住民が「床上浸水になったら庇をつたって山側に逃げる」つもりで2階に避難していた(岩船,2015)。</p><p></p><p>熊本県では,平成24年熊本広域大水害を顧みて,平成 25 年度から住民避難モデル実証事業等にて「予防的避難」の導入に取り組んだ。これは,「避難準備・高齢者等避難開始」発令以前で一般住民にも「日没前の明るいうちに」事前に避難を促すものである。台風のように数日前から豪雨を明確に予測できる場合には有効な対策であり,全国的にも広がりをみせた。しかし集中豪雨や局地的大雨の強度・頻度が増している昨今,現在の観測技術では突発的な局地的大雨を高い精度で予測し難しく,予防的避難が実現し難い場合での避難計画も事前に準備しておく必要がある。</p><p></p><p>筆者は,国土交通省九州地方整備局「九州地方の大規模土砂災害における警戒避難対策検討委員会(平成 25〜26 年度)」を通じて,モデル地区の球磨村高沢地区で高齢者中心の住民の体力や熊本広域大水害時の避難行動を調べ,予防的避難がなされなかった場合での浸水段階に応じた緊急避難計画を考案した(岩船,2015)。中園川が溢流すると左岸と右岸で行き来できなくなり,両岸それぞれでも地形的行動障害があることから,集落を5区分して,浸水段階と微地形に応じて,避難経路が浸水する前に斜面上方の親類・知人宅等へ移動し,大規模土砂災害が想定される最も危機的な状況下でもヘリコプター救助場所への"逃げ道"が絶たれないようにした。これは,ヘリコプター救助段階を除いて,昭和40年7月豪雨災害時の避難行動の空間的展開に類似しており,「雨が降れば自宅に戻る」日常行動に端を発した緊急避難計画である。</p><p></p><p><b>【令和</b><b>2</b><b>年</b><b>7</b><b>月</b><b>3</b><b>〜</b><b>4</b><b>日球磨村高沢地区での避難行動】</b>一勝地での降水量は,2020年7月3日日降水量 119 ㎜,4日日降水量357㎜が記録され,時間降水量が4日4〜5 時に76 ㎜の最大値であった。3日10時〜4日10時の24時間積算降水量455.5㎜であった。また,気象庁等は,球磨村に,3日21時39分大雨警報(土砂災害),22時20分土砂災害警戒情報,22時52分洪水警報,4日1時34分に大雨警報(浸水害・土砂災害),4時50分大雨特別警報を発表した。</p><p></p><p>7月31日時点で高沢地区を現地調査できていないが,被災後の現地撮影資料(例えば,ピースワンコ・ジャパン,7月11日救助活動動画)から,中園川に直面する家屋では床上・床下浸水程度の被害と認識できた。一方,令和2年7月豪雨による熊本県での死者・行方不明者67名中25名が球磨村住民であり,全てが球磨川本流地区住民{渡(自宅)2名,渡(千寿園)14名,一勝地6名,神瀬3名}であり(熊本県資料),高沢地区を含む山間地域の球磨川支流地区住民の報告はない。</p><p></p><p>従って,床上・床下浸水の被害が及んだ中園川沿いの高沢地区住民は,7月3日から在宅し,大雨による増水で自宅等の浸水の恐れが高まった4日未明から早朝に緊急避難したと思われる。</p><p></p><p><b>【考察】</b>熊本県では「予防的避難」の延長として「熊本県版タイムライン」を2015年4月に策定し,事前予測が可能な大雨への対応策を予め準備してきた(熊本県HP)。しかし,気象庁が予測できない想定外の大雨の発生を否定できないことから,緊急避難的な対応を保険的に準備しておくべきであった。死者・行方不明者が生じた球磨川本流沿いの地区は,元々浸水しやすい地形上にあり,かさ上げで居住地の比高を増したものの,浸水を想定しての緊急避難での逃げ道を確保していない場合が多かった。一方,死者・行方不明者が生じなかった山間地域の球磨川支流地区では,浸水が小規模であったことと,緩斜面上に集落が立地しており,津波立ち退き避難で山麓緩斜面が逃げやすい地形であったことと同様に(岩船,2018),緊急避難しやすかった。</p><p></p><p><b><文献></b></p><p>・岩船昌起2015.水害・土砂災害における高齢者の体力と避難行動−2012年熊本広域大水害時の球磨村での検証.『第14回都市水害に関するシンポジウム講演論文集』,11-18.</p><p>・岩船昌起2018.個人の「避難行動」を記録する意義−パーソナル・スケールでの時空間情報の収集と整理.地理,63(4),22-31.</p>
著者
谷治 正孝 渡辺 浩平
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.227, 2009

古地図を調査して日本海名称の変遷・定着過程を明らかにした。西洋人によってもたらされた日本海名称は最初、日本の太平洋側に使われることが多かった。<BR> 「日本海」に日本海名称を与えた最古の現存地図はマテオ・リッチの『坤輿萬国全圖』(1602)であるが、当時は日本海の形状が明らかでなかったため、この日本海がそのまま定着したわけではない。<BR> 日本海と外海を結ぶ5つの海峡を明示した最初の地図は日本海を北上探検したラペルーズの地図で、1797年に出版された。それをイギリスはじめ多くの地図編集者が取り入れて、19世紀初頭から「日本海」名称が定着に向かう。「朝鮮海」より、日本海の方が名称としてふさわしいとはっきり指摘したのは、日本との交易を求め長崎に来日したクル―ゼンシュテルンである。<BR> さらに、シーボルトが日本から地図を収集して帰国し、それらの地図を出版するようになり、欧米では19世紀前半に「日本海」名称は完全に定着した。しかし、日本では「北海」という日本海名称があったためもあり、「日本海」の定着は半世紀以上遅れ、19世紀末であった。
著者
白 迎玖
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.212, 2006 (Released:2006-05-18)

1.はじめに 近年、先進国のみならず、途上国においても、都市ヒートアイランド現象(以下 UHIと略記)が顕著になり、都市の熱環境が悪化している。特に、中国・上海をはじめとする途上国の大都市では、産業や人口等の一極集中化に伴い、人口密度が過度に高くなっているため、UHI現象が頻繁に発生し、さらに夏期の日中の最高気温が40℃を超える日も出現している。先進諸国が経験した経済成長と環境悪化の関係に照らせば、今後も急速な経済成長が見込まれている東アジア地域において、UHI現象による環境・社会問題は一層顕在化することが予想される。最近、上海においては改革開放経済のもとでの急激な開発に伴う高温域が都市中心部から黄浦江の東側に拡大していることが指摘された。しかし、自動気象ステーションの設置点数と観測範囲が限られているために、都市全体における高温域の分布を詳細に把握したとは言い難い。また、衛星データを用いた上海におけるUHIに関する研究も行われているが、地表面温度と気温との関連が明確にされておらず、UHIの分布とその変化を必ずしも十分に解明できなかった。そこで、発展の著しい上海におけるUHI実態を把握するために、UHIの時間的・空間的の変動を正確に捉えることが重要であり、特に測器の設置場所、設置点数および観測時刻を十分検討した上で、都市全体を高密度で覆う精度の高い観測網を設置する必要がある。本研究は、日本で蓄積された研究成果を有効利用し、途上国の実情に鑑み、観測およびシステム保守のコストを抑えながら、中国・上海において高密度自動観測システムを初めて構築し、長期間にわたって気象観測を実施して得られたデータに基づいて、上海におけるUHIの実態を解明することを目的としている。また、本研究で構築された観測システムおよび研究手法は、中国におけるUHIの研究だけなく、途上国における都市気候研究の発展にも貢献することが期待される。2.観測概要本研究では、2005年4月から上海市をカバーする39箇所で気温と湿度の自動観測が実施されている。図1に示すように、公園緑地・公用緑地で百葉箱(箱内の小型自動記録式温度・湿度ロガー)が設置され、直射日光を受けずに自然通風状態で測定を行うことができた。観測点の選定にあたっては、なるべく地点の配置に偏りがないように努力し、さらに、設置場所の環境が等しくなるように配慮した。また、UHIの中心部に相当する都市中心部には高密度に配置した。百葉箱はすべて公園緑地と住宅地内の公用緑地に設置されており、センサーの高さは地上約1.6mとした。10分間隔で記録したデータを約50日ごとに回収すると同時に、得られた観測記録のデータベース化を進めてきた。3.観測結果2005年の観測によると、月平均気温が上昇していることが確認された。2005年6月1日から8月31日までの真夏日日数(日最高気温>30℃)は、都市の中心部は73日、郊外は68日となった。また、熱帯夜日数(日最低気温>25℃)は、都市の中心部は45日、郊外は37日となった。また、2005年7月の最高気温は39.8℃(南園公園)となり、都市中心部には日最高気温35℃を超える日数は17日であった。日最低気温の最大値は31.0℃(南園公園)であり、熱帯夜日数は、都市中心部は26日、郊外は19日であった。風の弱い晴天夜間にUHIがはっきり存在し、春季の場合、UHIも発生している。2005年7月のUHI強度の最大値(月平均値)は4.3℃で(図2)、8月のUHI強度の最大値(月平均値)は3.4℃であった。また、図2に示すように、UHI強度は日没後急速に増加し、その後は同じような状態が日の出頃まで続くことが明らかになった。UHIのピーク値は、22時_から_午前1時までに現れた。特に、観測点の環境によって、UHIのピーク値とピーク値の出現時間が異なったことから、公園緑地の暑熱緩和効果が明確にされた。図2に見えるように、7月の場合、住宅地内の公用緑地より公園緑地のUHI強度の最大値が約1.3℃低かった。
著者
小池 俊雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

1.鬼怒川水害<br><br>2015年9月のの関東・東北豪雨で発生した鬼怒川水害では、24時間最大雨量記録が311mmから410mmへと大きく塗り替えられた。<br><br>河川管理者から自治体責任者へは、氾濫危険情報や水位の上昇に関する情報や、避難情報の発令や浸水想定区域図の活用についての示唆も提供されていたが、広い地域にわたって破堤前に避難指示は出されなかった。また鬼怒川が洪水流で満杯となった映像が実況中継されてはいたが、避難することなく屋内に留まった住民は多く、結果として、氾濫流に取り残された住民1300人余りがヘリコプターで、また3000人ほどが地上部隊によって救出される事態となった。<br><br>&nbsp;<br><br>2.リスクの変化<br><br>2014年にまとめられたIPCCの第5次評価報告では、大雨の頻度、強度、降水量の変化の将来推定に関して「中緯度の大陸のほとんどと湿潤な熱帯域で可能性が非常に高い」と記述されており、2007年の第4次評価報告に用いられた「可能性が非常に高い」をより詳しく表現している。これらは気候の変化に伴い豪雨の増加に関する科学的知見が確かなものになってきている証左と言える。<br><br>明治期、鉄道網の普及により舟運の必要性が低下し、我が国の川づくりは洪水対策のための連続堤防の築堤が主流となり、国が一義的責任を有する河川管理体制が構築され、地先を守るという市民の当事者意識が低下して、社会サービスの受け手になり易い状況が作り出されている。その結果、危機感や責任感が低下し、施設整備による人的被害の減少とも相俟って、知識や経験だけでなく関心や動機も薄れて行動意図が低下するという事態の進行が心配されてきた。これは洪水に対する社会の脆弱性の悪化を意味している。<br><br>&nbsp;<br><br>3.リスクコミュニケーションの強化<br><br>このように鬼怒川水害は、災害外力と脆弱性の変化を明確に認識し、施設では防ぎきれない大洪水に対して、洪水リスク軽減のための社会的取り組みが必要であることを学ぶ機会となった。<br><br>これらの変化に対して、まずは災害外力の変化の理解を深め、災害に対する社会の脆弱性の特徴を理解し、健やかな生活を阻害する災害リスクを特定して、評価・モニタリング・予測する能力を高め、得られる情報が市民や行政に分かり易く伝えられ、地域の洪水リスクに関する知識、経験、危機感を共有が肝要である。<br><br>また、意思決定・合意形成の体制とマネジメント技術を積極的に導入して、立場や分野を超えて幅広い主体が参画して相互に情報を交換できる場を構築し、市民や行政の関心や動機を高める必要がある。その上で、地域全体を襲う災害による危機に対して、地域ぐるみで災害リスクの軽減と災害からの速やかに回復できる計画作りを進め、発災後も健やかな生活と健全な社会活動を行える地域全体としての事業継続能力の向上を目指して、スムーズな情報交換のためのガイドラインや指針、標準的な情報伝達手順を準備しなければならない。さらに地域の実情に合った訓練を重ねることも不可欠である。<br><br><br>参考資料:社会資本整備審議会大規模氾濫に対する減災のための治水対策検討小委員会資料, 2015.10.30
著者
大貫 靖浩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

演者は現在まで、さまざまな地形・地質・気候条件下における森林土壌を観察する機会を得てきた。森林土壌が斜面のどの位置でどのくらいの厚さを有し、どのような物理的性質(例えば容積重、孔隙率、レキ量)を持つかについては、森林土壌学の分野では系統だった研究は行われてきていないが、微地形分類を切り口にすると明瞭な区分が可能であることがわかってきた。本発表では微地形分類に基づく森林土壌の物理特性に関する研究成果について、北関東と沖縄で行った実例を紹介したい。<br> 調査地は茨城県城里町の桂試験地、および沖縄県名護市の南明治山試験地である。両試験地ともにいわゆる「低山帯」に位置する小流域で、桂試験地は中古生層の頁岩・チャート等の上に関東ローム層が堆積し、乾性~湿性の褐色森林土が分布している。これに対し南明治山試験地は、第三紀層の砂岩・泥岩等が基盤となり、一部でレスが堆積し、赤色土・黄色土・表層グライ系赤黄色土が分布している。<br> 桂試験地(2.3ha)では、682地点を測点とした地形測量によって精密地形図を作成した後、571地点で土研式簡易貫入試験を実施し、10地点で土壌断面調査を行った。桂試験地においては斜面中腹を限る形で明瞭な遷急線が確認でき、遷急線の上側には頂部斜面・痩せ尾根頂部斜面・上部谷壁斜面・上部谷壁凸斜面・上部谷壁凹斜面が、下側には谷頭斜面・谷頭急斜面・谷頭凹地・下部谷壁斜面・下部谷壁凹斜面・麓部斜面・小段丘面・谷底面が分布する。土層厚は痩せ尾根頂部斜面・上部谷壁凸斜面を除く遷急線上側の各ユニットと、谷頭斜面・谷頭凹地で厚いことがわかった。 <br> 土壌の物理特性は遷急線を境に明瞭に異なり、遷急線より上方の斜面では上部谷壁凸斜面を除き容積重が小さく、全孔隙率が高く、レキ量が非常に少ないのに対し、遷急線下方の斜面では容積重が大きく、全孔隙率が低く、レキ量が比較的多いことが明らかになった。保水機能に寄与する有効孔隙率は、遷急線より上方の頂部斜面で特に高い値を示すのに対し、遷急線下方の斜面では低い値を示し、レキ量の多寡が有効孔隙率に影響を及ぼしていると考えられた。<br> 南明治山試験地(1.0ha)では、130地点を測点とした地形測量によって精密地形図を作成した後、99地点で土研式簡易貫入試験を実施し、9地点で土壌断面調査を行った。南明治山試験地においては、明瞭な遷急線は上部谷壁斜面および谷頭凹地と下部谷壁斜面の境界に確認でき、遷急線の上側には頂部平坦面・頂部斜面・上部谷壁斜面・谷頭凹地が、下側には下部谷壁斜面および谷底面が分布する。土層厚は頂部平坦面および谷頭凹地で厚い。 土壌の物理特性は微地形および土壌型によって明瞭に異なり、頂部平坦面に分布する赤色土は容積重が大きく、全孔隙率が小さいが、飽和透水係数は比較的大きい。頂部平坦面・頂部斜面に分布する表層グライ系赤黄色土は、容積重がA層でも1.0Mgm<sup>-3</sup>を超え、全孔隙率・飽和透水係数ともに小さい。上部谷壁斜面・谷頭凹地に主に分布する黄色土は、赤色土・表層グライ系赤黄色土と比較して特にB層の容積重が小さく、全孔隙率・飽和透水係数が大きかった。土壌侵食危険度の指標となる粘土比と分散率は、赤色土・表層グライ系赤黄色土で高く、黄色土で低かった。
著者
福井 幸太郎 菊川 茂 飯田 肇 後藤 優介
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100277, 2015 (Released:2015-04-13)

はじめに 「新湯」は立山カルデラの底にある熱水をたたえる池で現在の立山の火山活動の中心である地獄谷の南3.5 kmに位置する。かつてのマグマ水蒸気爆発でできた小規模な火口湖で直径は30 m、水深は5.6 m、表層の水温は65~70℃である。池中央にある複数の噴出口から熱水が湧出し続けているため常に満水で、熱水は北側の切れ口から溢れだし、立山カルデラ内を東西に流れる湯川に流れ込む。 近年、噴気や地熱活動が活発化している地獄谷周辺と異なり、新湯では水位や水温に全く変化がみられなかった。ところが2014年春先から突如激しい水位や水温の変動を起こすようになった。本発表では2014年6月中旬~10月末に発生した水位と水温変動について報告する。 方法 ・水位の変化を明らかにするため池の岸にインターバルカメラを設置して30分間間隔で湖面を連続撮影した。観測期間は2014年6月11日~10月29日である。 ・水温の変化を明らかにするために水深30 cmと水深2 mに自記温度計を用いて10分間隔で水温の連続観測を実施した。観測期間は2014年6月15日~10月29日である。 結果 ・インターバルカメラの画像の分析から、2014年6月11日~10月29日に新湯は合計11回干上がったり満水になったりを繰り返していたことが分かった(図1)。満水の熱水は噴出口に吸い込まれて1日で完全に排水し、干上がった状態が3~4日続いた後、噴出口から熱水が湧き出して4~5日で再び満水の状態に戻った。したがって、2014年春先から新湯は熱水をたたえる池から間欠泉に変化したといえる。 ・2014年6月15日~10月29日までの満水時の新湯の水温は平均で74℃であった(図2)。2006年10月22日~2007年8月9日の新湯の水温(水深30 cm)は平均64℃で(図2)、平均水温は10℃も上昇した。
著者
小泉 武栄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.68, 2010

1 はじめに<br> 上関という町がある。山口県東部の瀬戸内海に浮かぶ長島の東端にできた漁業の町で、名前はいうまでもなく下関に対置されるものである。長島は、すぐ西にある祝島などとともに、周防灘と伊予灘を分ける防予諸島を構成しており、付近の海は魚の宝庫として知られている。一帯は瀬戸内海国立公園に含まれ、風光明媚なところでもある。<br><br>2 原発の建設計画が<br> 20年あまり前、長島の西のはずれの田の浦という入り江付近に原子力発電所を建設するという計画が持ち上がった。建設主体は中国電力である。過疎に悩む町当局は、莫大な交付金を目当てに建設に賛成したが、漁業への悪影響、原発事故の恐れ、優れた自然と景観の破壊、などを危惧した住民たちが、激しい反対運動を展開している。現時点で中電は反対を押し切って工事を始めたが、日本生態学会などが再三にわたって建設反対を表明している。<br> 演者は現地の住民に依頼されて、田の浦付近の地質・地形と自然の調査に赴いたのだが、天然記念物クラスのすばらしい自然がよく残っていることに驚かされた。<br><br>3 みごとな地質の接点と貫入したアプライト<br> 田の浦付近の地質は、領家帯の結晶片岩という、銀色をした層状のきれいな岩石からなる。これは2億年ほど前に堆積した砂岩・泥岩の互層が、地下深くに押し込められて変成岩になったものである。その後、この岩は花崗岩の貫入などによって押し上げられ、地表に現れたが、田の浦付近の海岸では、結晶片岩とそれを押し上げた花崗岩の接触部が至るところでみられる。両者の接点が観察できるところはきわめて珍しく、地質学の巡検地として最適である。<br> また田の浦の南にあるダイノコシと呼ばれる半島付近には、切り立った海食崖が発達している。この崖では、基盤岩の中に白や黄土色の筋が縦横に走って、特異な地質景観を示す。この筋は、岩が地下深くにあった頃、割れ目にマグマが貫入してきて固まったもので、アプライトと呼ばれている。筋は幅数cmから数10cm、とくに大きいものでは1m余りに達し、実にみごとなものである。岩場にはビャクシンがしがみつくように生えている。これも珍しい海岸植物で、学術的な価値が高い。<br><br>4 山と海のつながり<br> 田の浦付近では、手つかずの自然がよく残っていることも魅力的である。田の浦の背後は海抜100m前後の山になっているが、ここでは多少の雨では沢に水が流れないという。基盤の結晶片岩に割れ目が多く入り、風化が進んで表層に厚い土層ができているため、雨水はほとんどが浸透し、地下水になってしまうのである。この地下水は、海岸の岩場の下部などで染み出しているのが観察できるが、一部の地下水は浅海底の砂地や礫地を通って、田の浦の砂浜海岸から数10m離れた海底に湧き出している。<br> おもしろいことにこの湧水のある浅海底では、日本海にのみ分布する珍しい海藻が発見されている。地下水を通じての山と海のつながりが、このようなきわめて珍しい海藻の分布を生み出したわけである。<br> 瀬戸内海の島々には、かつてこうした豊かな自然が至るところにあったに違いない。開発によってその多くは消滅してしまったとみられるが、田の浦では原発の計画が持ち上がったために、自然の調査が進み、思わぬ発見につながった。怪我の功名といえよう。<br><br>5 危険な原発予定地<br> 風化物質はいつか崩れる。海岸では、背後の山から崩れてきた土砂の堆積が各地でみられる。1954年には豪雨に耐え切れず、沢という沢が崩壊し、海岸に大量の土砂をもたらした。その様子は1974年撮影の空中写真によく写っており、崩壊や堆積の痕跡は現在でも認めることができる。<br> このように原発予定地は、上からは崩壊の危険があり、下からは豪雨時に浸透した地下水が施設を持ち上げて破壊する恐れがある。さらに基盤の結晶片岩は、固い岩ではあるが、無数の割れ目が入り、脆弱なものに変化している。田の浦の入り江は、岩盤が相対的に弱いために、侵食されて入り江になったわけで、地盤は決していいとはいえない。<br>またここは地震の観測強化地区にも含まれており、まさにマイナス面のオンパレートである。仮の話だが、ここでチェルノブイリクラスの大事故が起きたとすれば、瀬戸内海全域が人の住めない場所になってしまう。原発事故に関しては、日本列島はこれまで余りにも悪運が強く、ぎりぎりのところで壊滅的な被害を免れてきた。しかしいつまでもそうはいかないということを考えるべきである。<br><br>6 まとめ<br>田の浦での原発の建設は断念し、天然記念物クラスのすばらしい自然を生かした自然観察の場として生かすのが、賢明というものであろう。