著者
石井 久生
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>アメリカ西部のバスク系移民</b><br> バスク人は19世紀後半から1970年代にかけてアメリカ合衆国西部に主に羊飼いとして入植した。その多くは短期労働査証で入国して故地バスク地方との間を頻繁に往来し,ある程度の蓄財の後にバスク地方に戻った。しかし,一部のアメリカ西部に残った者は,牧羊業やホテル業に参入した。2010年センサスで「バスク系」と回答しているのは全米でわずか約5万人である。数的に極めて少数であるうえ,出稼ぎ目的の還流者が多かったため,エスニック・エンクレイブのように彼らの存在が景観として可視化することはほとんどない。その反面,移民宿であるバスク・ホテルは彼らの重要な活動拠点になった。そのためアメリカ西部主要都市には,バスク・ホテルの集中する地区が形成された。バスク・ホテルは1970年代にバスク地方からの移民が激減するのにともない各地で姿を消し,集中地区も周囲の景観に吸収されていったが,その中で唯一アイダホ州の州都ボイジーではそれが保存・強化されている。<br><b>ボイジーのバスク・ブロック</b><br> ボイジーにバスク系移民がみられるようになったのは20世紀初頭であった。彼らはバスク・ホテルを活動拠点として,牧羊業をはじめ,建設業,鉱業などに就業した。ボイジーのバスク・ホテル集中地区は,鉄道駅の北東側数ブロックの狭い範囲に形成され,最盛期の1920年代から1940年代にかけては10以上のバスク・ホテルが立地した。その中の一区画であるグローヴ通り600番街は,現在「バスク・ブロックBasque Block」と呼ばれ,バスクのエスニックな景観が保存されている。<br> バスク・ブロックは,バスク関係諸施設が集中する世界的にも特異な空間である。このブロックには1940年代までにバスク・ホテルやバスク・センター(バスク人会が運営する集会場)が建設された。しかし1950年代頃から退廃化が進行し,1970年代に進行した再開発計画では,この付近にはショッピング・モールの建設が予定された。しかしバスク系の不動産所有者らからの要望により,1980年代半ば以降,個人と公的機関が協調しつつ既存景観を保全改修する方針に転換された。そして1985年にバスク博物館が開業したのを皮切りに,バスク人会による資金援助もあり,バル,マーケット,レストランなどの諸施設が開業した。<br><b>バスクのポストモダンなエスニック景観</b><br> バスク・ブロックは景観演出においてもバスク色が強調されている。図中⑥にはバスク地方とアメリカ西部のバスク人をモチーフにした巨大な壁画が掲げられている。グローヴ通りの路面には,バスク地方を象徴するラウブルLauburuのイメージが組み込まれている。これらの街路景観整備は, 5年に一度ボイジーで開催される世界最大規模の国際バスク・フェスティバルであるハイアルディJaialdiの会場としてバスク・ブロックが2000年に採用されたのにあわせて実施された。そもそもハイアルディの開催は,1987年に北米バスク組織NABOの会合後にボイジー代表とバスク政府代表の間で交わされた会話が発端になっている。そしてバスク州政府は,ハイアルディ開催のためにバスク地方から人材や情報を今日まで提供し続けている。かつてバスク地方からのヒトの移動がバスク・ホテルを主体としたモダンなエスニック景観を生産したが,バスク地方でバスク州が自治権を得る頃にモダンな移動と景観は終焉し,それにかわり現在では政策や情報のポストモダンな移動が,ボイジーのバスク・ブロックにポストモダンなエスニック景観を生産,強化している。移民の故地と定住地を連動する研究にとっては大変興味深い現象である。
著者
山本 遼介 泉 岳樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1 </b><b>はじめに<br></b>東日本大震災の復興過程のアーカイブについては,NHKの「東日本大震災アーカイブス」の中での復興の軌跡や(独)防災科学技術研究所を事務局とする「東日本大震災・災害復興まるごとデジタルアーカイブス」(略称:311まるごとアーカイブス)をはじめとして,様々な取組がなされてきた.それらの中でも,Google社の日本法人が行っている「未来へのキオク プロジェクト」では,写真や動画の投稿プラットフォームとして既に6万1千件以上のデータがアーカイブされているだけでなく,ストリートビューという360度画像の閲覧サービスのデータを震災直後と震災後2年の2時点で取得し公開している(一部地域については震災前のデータ有).360度画像は,人の目線に近い視点から空間全体を記録しているので,臨場感があるだけでなく,町並みや景観の記録としての価値も高く,このデータを元に建物の3次元モデルを作成し町並みを復元する試みもなされている.<br>本研究では,このように利用価値の高い360度画像を取得できるMMSを用いて独自にデータ取得を行い,復興過程のアーカイブを試みる.その際,写真測量技術により複数の360度画像から画像内の地物の位置や高さなどを計測する機能の有効性についての検討を行う.<br><br><b>2 </b><b>研究手法<br></b><b></b>MMSによるデータ取得は,(株)トプコン製のIP-S2 Liteを用いた.このシステムでは,車両のキャリア上に6つのカメラ,GPS,IMUを備えたメインユニットを搭載し,車内に接続されたPCで動画撮影の制御とデータの保存を行う.このMMSはレーザースキャナを搭載していないが,撮影データの後処理により,動画内の地物の位置や高さを測定することができる.<br>対象地域は,被災地で最も早く防災集団移転事業が進んでいる宮城県岩沼市とした. <br>現地調査は,2012年8月4日~7日と2013年11月18日~19日に行い,津波の被害を受けた岩沼市沿岸部(仙台東部道路の東側)をMMSにより撮影した.<br>&nbsp;<br><b>3 </b><b>結果<br></b><b></b>2012年と2013年のデータを比較すると,以下の変化を見ることができた.(1)防災集団移転地において造成工事が本格化し,用水路の整備や地面のかさ上げ等が開始された.(2)「震災遺構」にもなり得た相の釜地区の水防倉庫が解体された.(3)「千年希望の丘」の造成工事が開始された.(4)海岸部にあった瓦礫等が撤去され,防潮堤の工事が本格化した.また,画像内の計測機能については,特徴点が抽出できるところでは概ね1m以内の精度で測定できることが分かった. <br>今後は,現地調査を継続的に行うとともに,変化の大きい場所について,位置や高さの測定など定量的な解析を行う予定である.
著者
申 知燕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

1.はじめに<br><br> グローバル化の進展に伴い,国際移住が急速に増加しており,グローバルシティと呼ばれる先進国の大都市は,様々な属性を持つ国際移住者を吸収してきた.初期のグローバルシティが吸収していたのはグローバルエリートおよび低賃金労働者層といった,両極化された集団であった.しかし,近年は両者に限らず,より多様な移住目的や様相を持つ移住者が増加しており,中でも,多方向的な移動や,母国との強い結びつきを特徴とするトランスナショナルな移住者が多く見られるようになった.<br><br> 日本においても,少子高齢化の進行や,グローバルな人材への需要を受けて,移住者の受け入れに関する議論が拡大している.しかしながら,移住に関連する議論の多くは,永住目的の労働移民を前提とすることが多く,すでに渡日しているか,今後さらに増加すると考えられるトランスナショナルな移住者については,その実情がつかめていない.そこで,本研究では,東京における近年の韓国系移住者(以下韓人)を事例に,かれらの生活行動および居住地選択の面からトランスナショナルな移住者の特徴を明らかにし,過去の移住者との相違点や関係を把握しようとした.<br><br> 本研究にあたっては,2016年4月から2018年11月にかけて移住者を対象としたアンケートおよびインデップス・インタビュー調査を実施し,移住者個人から得た資料を収集・分析した.<br><br><br><br>2.事例地域の概要<br><br> 本研究では,東京都および神奈川県,埼玉県,千葉県を含む首都圏を事例地域とし,韓人の集住地および市内各地の韓人居住地に注目した.東京においては,20世紀初頭から戦後直後の間に渡日したオールドカマー韓人移住者とその子孫が定住している他,1970年代から1980年代にかけては就労目的で渡日・定住したニューカマー移住者も多数存在しており,当時の韓人は東京における外国人の中で最も高い割合を占めていた.1990年代以降は,高等教育機関への留学や一般企業での就労を目的に移住した韓人若年層移住者の増加が顕著に見られる.首都圏における韓人人口は約15万2,000人であり,東京都および神奈川県の一部地区には集住地も複数カ所形成されている.<br><br><br><br>3.知見<br><br> 本研究から得た結論は以下の3点である.<br><br> 1点目は,1990年代以降に東京に移住した韓人は,主に留学や留学後の就職をきっかけに滞在している移住者層(ニューニューカマー)で,オールドカマーおよびニューカマー移住者とは区別される点である.東京における韓人ニューニューカマーは,キャリアのステップアップを試みて移住を行った層であり,その多くが留学を海外生活の第一段階としているため,日本への定住よりはグローバルスケールでの移動とキャリア形成を念頭に入れている.また,かれらの人生全般における移住経験,アイデンティティ,人的ネットワークなどの面においてもトランスナショナルな側面が多く見られるという点も特徴的である.<br><br> 2点目は,東京において韓人ニューニューカマーの居住地分布は完全に分散しており,既存の移住者とは居住地選択や集住地利用の様相が完全に異なる点である.オールドカマーが三河島や枝川,上野などに不可視的な集住地を,ニューカマーが新大久保に可視的な集住地をそれぞれ形成している一方で,ニューニューカマー移住者は,東京都の23区全体に分散しており,23区外の首都圏居住者は少なかった.また,かれらは,飲食店利用や食材購入のために,オールドカマーやニューカマーが形成した集住地に時折訪れる程度であり,集住地への依存度はあまり高くない.東京において,韓人ニューニューカマー移住者の集住地形成や郊外居住が見られない理由としては,移住者個人の高学歴・専門職化した属性,東京における単身者向け住宅・社宅・寮の存在,エスニック集団別のセグリゲーションがあまり起こらない都心部の民族構成などが同時に作用したと考えられる.
著者
申 知燕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>1.はじめに</p><p></p><p> 近年のグローバルシティでは,国際移住が急激に増加していく中で,従来の労働移民に加えて,トランスナショナル移住者が多く見られる.中でも,留学生やホワイトカラー労働者といった,国際的なキャリア形成を目標とする若年移住者層の急増によって,移住者の集住地を含む都市空間全体が大きく変化している.このような変化は,居住地や商業施設の立地条件だけでなく,インターネットやスマートフォンの普及による移住者の行動変化にも起因すると考えられる.しかしながら,従来の研究は,都市空間における物理的空間としての集住地と移住者間の関係に注目したものが多く,バーチャルな空間がいかに既存の集住地に影響を及ぼしているのかについて把握した研究は少ない.そこで,本研究では,グローバルシティにおける近年の韓国系移住者(以下韓人)を事例に,かれらのオンラインサイトおよびコミュニティの利用状況から,トランスナショナルな移住行動,中でも場所の制約のないオンライン空間でのエスニックな活動が集住地や都市空間全体に与える影響を明らかにしようとした.</p><p></p><p> 本研究にあたっては,2013年5月から2020年1月にかけて移住者を対象としたアンケートおよびインデップス・インタビュー調査を実施した他,回答の中で言及されたオンラインサイト・コミュニティについて,情報を収集・分析した.</p><p></p><p></p><p></p><p>2.事例地域の概要</p><p></p><p> 本研究では,現代における代表的なグローバルシティであるニューヨーク,ロンドン,東京の大都市圏を事例地域としている.それぞれの事例地域における韓人人口数はニューヨークで約22万人,ロンドンで約1万人,東京で約15万人と推定されている.各地域では,戦前もしくは戦後直後から韓人の流入が続いており,主に旧期移住者によって,インナーシティや郊外を中心に集住地が3〜5カ所程形成されてきた.しかし,1980年代後半から,高等教育機関への留学や一般企業での就労を目指して移住する若年層が増加しており,かれらは既存の集住地には流入せず,大都市圏各地,特に市内中心部および生活・教育環境の良い一部郊外に散在するようになった.</p><p></p><p></p><p></p><p>3.知見</p><p></p><p> 本研究から得た結論は以下の3点である.</p><p></p><p> 1点目は,1980年代後半からグローバルシティに移住した韓人は,自らのアイデンティティを保持し,エスニックな必要を満たすために,散在しながらもオンラインサイトやコミュニティを利用することである.かれらからは,集住をし,エスニックビジネスを営み,集住地のコミュニティに積極的に参加するといった,旧期移住者特有の移住行動が見られないが,それはかれらが現地社会に同化しているからではなく,移住過程でインターネットを通じてエスニックな資源を得られるからであると考えられる.かれらは,移住の前段階で,母国や経由地でオンラインサイトやコミュニティを利用することで移住先に関する情報を収集しており,移住後も,それらの情報と自らの社会経済的資本を適切に活用することで,既存の集住地に深く依存しない生活を送る.</p><p></p><p> 2点目は,オンラインサイトやコミュニティは,エスニックな資源を必要とした個人移住者によって自発的に設立・管理・利用される傾向が強い点である.オンラインサイト・コミュニティの利用者は,オンライン上でエスニックな情報交換,親睦活動,中古商品の売買などを行っており,中でも情報交換機能を重視している.これらのサイトやコミュニティは,移住後に情報交換や人脈形成の必要性を感じた個人移住者の善意によって,非営利目的で立ち上げられたものが多く,管理者はサイト・コミュニティが大型化しても,商業化させて収益を得るよりは,一利用者として参加し続ける傾向があった.一部の企業は,インターネットを積極的に利用する移住者層をターゲットとし,同時代の韓国で販売されるような商品やコンテンツを提供することを目的にウェブサイトを立ち上げるが,通販サイトを除いては,情報提供や交流の機能がサイト維持のための原動力となっている.</p><p></p><p> 3点目は,このようなオンラインサイト・コミュニティの利用様相は,かつて物理的な空間としての集住地が持っていた機能の一部が切り離され,バーチャル空間上に別途存在するようになったことを示すことである.大都市圏に散在し,集住地に頻繁に訪れることが難しい移住者にとって,場所の制約がなく,自由に多様な情報を得られるオンラインサイト・コミュニティは唯一無二なエスニック空間となる.しかし,その存在により,逆説的に,集住地に凝集する必要性は低下するため,集住地の機能分化とオンライン化が進む.</p>
著者
和田 崇 山本 健太
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

神楽は本来,農村地域の集落・神社にねざした神事である。中世以降,各地の集落で発生または伝播し,継承されてきた広島の神楽(里神楽)は,近年,地元の商工業者や,広島市内の出郷団体や集客をねらう事業者,さらには行政によって神社・集落の外に引き出され,都市住民や観光者によって宗教・場所から切り離されたコンテンツ,いわば&ldquo;街神楽&rdquo;として消費されるようになった。神楽が演じられる場所は,神座(=結界)から農村,都市へと広がり,さらにDVDなどの映像コンテンツとして流通するようになったことで,神楽が消費される場所はメディア上にも広がった。それに伴い,神座・農村で演じられることに意味のあった神楽は,神座や農村から切り離されてどこでも演じられ,見ることができるものへと変質した。すなわち,宗教空間・村落空間に埋め込まれるかたちで存在してきた神楽は,埋め込みの状態から引き出され(脱・埋め込み化),あらゆる場所でさまざまなかたちで消費されるようになった。神楽団の多くはその流れに対応せざるを得ない状況にあるが,中にはそれに対応できない神楽団や,伝統継承と観光対応のはざまでジレンマを感じる神楽団も少なくない。<br> こうした状況下,報告者が今後の神楽振興のあり方として提案するのが,神楽の「再・埋め込み化」である。具体的には,宗教空間・村落空間から引き出され,都市空間・メディア空間で消費されてきた神楽を宗教空間・村落空間に取り戻し,都市住民や観光者もそこで演じられる奉納神楽を体験し,理解する取組みを展開することを提案する。この取組みは,広島神楽の真正性と多様性を体験し,理解するという,オルタナティブな観光・交流活動に位置づけられるものであり,農村文化を断片的・選択的に消費するのでなく,地域の文脈に沿って体験・理解することが可能となり,そのことが農村文化あるいは農村社会を持続的なものにすることが期待できる。 報告者らはこの取組みの成立可能性を検証するため,広島都市圏の若者・女性らが広島県西部の農村地域を訪ね,秋祭りで奉納される神楽を鑑賞するとともに,神楽団員等住民との交流,周辺観光施設の探訪等をプログラムとする奉納神楽ツアーを企画し,2014年10~11月に4回試行した。<br> 奉納神楽ツアーの参加者からは,多様な神楽を鑑賞できたことに加え,祭り準備の手伝いや直会への参加を通じて神楽団員等住民と交流できたこと,各集落や農村地域への関心が高まったことが評価された。一方,長時間にわたる神楽の鑑賞,地域コミュニティへのとけ込みにくさ,宿泊施設やトイレのアメニティ等について改善が要望された。<br> 試行結果を受けて,報告者は広島県西部の農村地域を訪ね,奉納神楽と当該地域を体験,理解するツアーの企画の方向性について,以下のとおり提案する。 想定されるツアー参加者は,(a)見学型ツアーに物足りなさを感じている者,(b)共同・協働作業に喜びを感じる者,(c)ローカルな祭り(神楽)を好きな者,(d)日本の農村に関心をもち交流や体験を望む外国人,である。ツアー形態については,①短時間の神楽鑑賞と周辺施設観光を楽しむイベントⅠ型(主に中高齢者層向け),②神楽鑑賞に加え,祭り準備の手伝いや直会への参加,周辺施設観光を楽しむイベントⅡ型(主に若年層向け),③秋祭りでの神楽鑑賞,準備手伝い,直会参加に加え,通年で農漁業等を通じた交流を行う集落応援型(主に若年・ファミリー層向け),の3つを提案する。なお,これらのツアーを実施するに当たっては,ア)各集落における観光客受入に対する住民合意の形成,イ)祭り準備の手伝い等における訪問者の役割の明確化,ウ)訪問者が神楽を理解し,地域コミュニティにとけ込むのをサポートするアテンド(ガイド)の配置,が必要になると考えられる。 ただし,今回の試行ツアーについては,参加者が示した支払容認額と実際に支払った経費を考慮すると,旅行代理店等が独自に造成・催行する旅行商品(ビジネス)として成立させることは困難だと考えられる。そのため,具体化に当たっては,経済性を勘案した旅行商品を造成するよりも,取組みの社会性を重視し,訪問者受入に関する住民合意を形成した集落と自治体,農村地域に関心をもつ者が&ldquo;神楽&rdquo;を通して継続的に交流し,相互理解と集落支援を図ることが現実的だといえる。
著者
滝波 章弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

本発表は、パリの北東15kmにあるオルネ=スゥ=ボワの郊外団地について、2007年、2008年、2010年の調査をもとに報告するものである。フランスの郊外問題は1980年代初めからあったが、2005年秋の暴動がメディアに取り上げられて以降、世界的に知られるようになった。そして、「若者」、「移民」、「暴動」、「麻薬」、「強盗」などの語が、郊外と連動して報道される。フランスは多文化社会であり、とりわけ「シテ」と呼ばれる郊外団地は、旧植民地のマグレブ諸国や西アフリカ諸国だけでなく、トルコ、ポルトガル、インドなどの人々も少なくなく、いわゆる「移民系」のマイノリティの空間と化している。以下、オルネ=スゥ=ボワ3000地区を取り上げ、1)郊外文化、2)朝市とメディアの態度、3)余暇的イベントの実態、4)サッカーの報道と実践に注目しながら、郊外団地の現実と表象、およびその領域化の様相を明らかにする。なお、ここで述べる領域化とは、意識的・制度的・物理的な境界によって空間が囲まれることを指す。 郊外文化は、マイノリティ発祥の新しいフランス文化を構成するが、よく知られているのはラップとシテ言葉である。それらは、サルコジが挑発的に言ったように、マジョリティから、「ラカイユ」の文化とみなされる傾向も強いが、それだけにマイノリティは反発する。領域化の手段である地理的呼称にも独自性がみられる。例えば、オルネ=スゥ=ボワ、その北部に位置する3000地区、さらにオルネ=スゥ=ボワが属するセーヌ=サンドニ県、あるいは3000地区内の区画(アパート群)には、独自呼称があり、それがマイノリティの人々によって強調される。 フランスは、大型ショッピングセンターが隆盛している国の一つだが、同時に、パリでも郊外でも、昔ながらの朝市が数多く残っている。3000地区でも週3回、朝市が開催され、近隣の市町村からの来訪者も少なくない。いわば、ポジティブな場所であるが、マイノリティに共感的なメディアであっても、記者がマジョリティの欧州系か、マイノリティのマグレブ系(フランスでは出自の明示化が好ましくないので、氏名から判断)かによって、訪問記事の在り方も違ってくる。 3000地区では、社会活動の一つとして音楽や演劇やダンスなどの芸術にも力を入れている。そのセンターが文化施設カップである。そこでの催し物には、外部向けのイベントと内部向けのイベントがあり、さまざまな点で異なっている。それは、マジョリティとマイノリティの隔絶を意味するが、社会的な活動として止むを得ない部分もある。 郊外文化や芸術だけでなく、サッカーもまた、郊外を特徴づけるものと言える。すでに1998年のW杯で有名になったように、フランスのサッカーは多文化な選手構成で、いわゆる「ブラック・ブラン・ブール」を代表する。しかしながら、2002年のルペンの悪夢や2005年の郊外暴動を経た2006年のW杯においては、フランスが準優勝したにもかかわらず、「ブラック・ブラン・ブール」には冷めた視線が注がれた。その方法は巧妙で、一見熱気を取材しながら、それに対して専門家の見地を交えて、水を差すというものであった。一方、シテのメディアにはそうした姿勢はなく、マジョリティと繋がろうとする意識がみられた。 オルネ=スゥ=ボワではサッカーが盛んであり、多くのプロ選手を輩出しているが、地元クラブの活動には問題が多い。それでも、サッカー関係者には、ローカルなサッカー文化を評価しつつ、グローバルなスタイルにあわせようとする意識がみられ、社会の融合を目指そうとする姿勢を見出せる。 社会の人々やメディアの多くが「シテ」に対してマイナスのイメージを抱いているのは事実である。そして、そこには先入観やステレオタイプも少なからず存在する。それに対して、「シテ」の人々やメディアは、ときに反発や対抗を示し、ときに融和や強調を模索する。現実や表象は、決して一枚岩ではないし、簡単にまとめられるものでもない。
著者
小川 滋之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<b>研究の背景と目的</b> スイゼンジナ(<i>Gynura bicolor</i>)は,キク科サンシチソウ属の多年生の草本植物である.日本,中国,台湾などの東アジアを中心とした広い地域で伝統野菜として古くから食されてきた.しかし,市場に流通することは少なかったため,産地の広がりや各産地の事情はあまり知られていない.原産地もインドネシアのモルッカ諸島や中国南部,タイ北部など諸説あり定かではない.地産地消が叫ばれる現在において,伝統野菜の普及を進める中では産地の事情を明らかにすることが重要である.以上のことを踏まえて,本研究ではスイゼンジナの産地分布と地域名を報告した.<br><b><br> 調査方法 </b>インターネット(Google)を用いて学名を検索し,個体の写真が掲載されているサイト,なおかつ写真撮影地域が特定できるサイトを対象に集計した.現地調査では,産地の分布,販売の形態と地域名を直接確認した.<br><br><b>スイゼンジナの産地分布 </b>この調査では,インターネット上にみられる言語数そのものが影響している可能性は高い.しかし,日本や中国,台湾などの東アジア地域が大半を占め,原産地のインドネシアを含む東南アジア地域の産地が少ない傾向がみられた.<br>現地調査では,東アジアの中でも日本の南西諸島や台湾中部以北,中国南部の一部地域では農産物直売所や屋外市場で多く販売されており,人々に日常的に食されていた.東南アジアではタイ北部の植木市場や少数民族の集落にみられる程度で少なかった.これらの流通量からみると,原産地はインドネシアではなく中国南部からタイ北部の地域が有力であると考えられた.<br><br><b>スイゼンジナの地域名 </b>日本では標準和名のスイゼンジナが,地域名としては水前寺菜(熊本県),金時草(石川県),式部草(愛知),ハンダマ(南西諸島)がみられた.他では,地域あるいは企業が商標登録をしている事例として水前寺菜「御船川」(熊本県御船町),ガラシャ菜(京都府長岡京市),ふじ美草(群馬県藤岡市), 金時草「伊達むらさき」(宮城県山元町)がみられた.<br>日本以外では,紅鳳菜(台湾),観音菜(中国上海市),紫背菜(中国広東省,雲南省,四川省),แป๊ะตำปึง(タイ北部)がみられた.東南アジアではスイゼンジナの近縁種(<i>Gynura procumbens</i>)のほうが多く,タイ北部(แป๊ะตำปึง)やマレーシア,クアラルンプール(Sambung nyawa)では名称に混同がみられた.近縁種については,沖縄島の沖縄市や読谷村においても緑ハンダマという名称で販売されていた.このようにスイゼンジナは,地域ごとに様々な名称があり伝統野菜となっていることが明らかになった.
著者
安 哉宣
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><u>1.研究目的</u></p><p></p><p>本報告では,航空自由化や格安航空会社の出現などにより多様化した日韓間の航空市場の動向を把握することを目的とする。特に本報告では韓国側航空会社の対日航空路線に焦点を当てた。</p><p></p><p><u>2.対日航空旅客数の推移</u></p><p></p><p>1990年から2019年までの約30年間にわたる韓国対日本の航空旅客数の推移をみると,1990年には約4,226千人であったが,2000年には約7,450千人,2005年には90年対比約2倍の約8,592千人にまで増加していた。その後も対日航空旅客数は増え続け,2015年には90年対比約3倍の12,169千人,2018年には過去最高の約21,479千人にまで増加した。</p><p></p><p><u>3.韓国の航空会社による対日路線への参入</u></p><p></p><p>現在,日本に就航している韓国籍の航空会社は全部で8社にのぼる(FSC=フル・サービス・キャリア:2社,LCC=ロー・コスト・キャリア:6社)。韓国における航空旅客輸送は大韓国民航空社(1946〜1962)を嚆矢とし,同社は初の対日路線として1951年のソウル−東京便(チャーター便)を就航させた。その後1962年に大韓国民航空社の事業を継承した大韓航空公社(国営)は,1964年に初の対日定期路線であるソウル−大阪間を開設した。大韓航空公社(現,大韓航空)は1969年に民営化され,1988年に至るまで韓国の航空市場をほぼ独占した。</p><p>韓国第2民営航空会社であるアシアナ航空は1988年に設立されたものであり,1989年に初の国際便であるソウル‐仙台間のチャーター便を,翌1990年にはソウル−東京間の定期便が就航させた。その後大韓航空とアシアナ航空の2社は2008年までにFSCとして日本の25都市・35路線に進出した。</p><p>LCCによる対日路線参入は2008年からであり,チェジュ航空による済州−広島,ソウル−北九州,清州−大阪間のチャーター便であった。翌年同社はソウル−大阪,ソウル−北九州間の定期便を就航させた。エアプサンによる対日航空便の初就航は2010年の釜山−福岡,釜山−大阪,釜山−東京(チャーター便)であった。同2010年にはイースター航空も対日航空便を運行し(ソウル−高知,チャーター便),2011年にはソウル−東京間の定期路線を開設した。この2011年にはジンエアー(大韓航空系,ソウル−札幌)やティーウェイ航空(ソウル−福岡)の日本路線開設もみられた。エアソウル(アシアナ航空系)は2016年度にソウル−高松,静岡,長崎,広島,米子,富山,宇部などの路線を開設した。これらによって2018年までにLCCを含めて,対日航空路線は総27都市・50路線にまで拡大したのであった。</p><p></p><p><u>4.対日航空路線の就航パターン</u></p><p></p><p>韓国航空会社による対日航空路線の開設状況は,時代とともに変化してきた。就航都市のパターンをみていくと,1980年代までは,ソウル発着路線は日本の大都市(大阪,東京,名古屋),広域中心都市(福岡,札幌),地方都市(熊本,新潟,長崎)に就航していた。一方で釜山発着路線は日本の大都市(大阪,東京,名古屋),広域中心都市(福岡)に就航していた。1981年に対日路線が開設された済州は大都市(大阪,名古屋)のみに就航していた。これら3都市のいずれも最初の就航先は大阪であった。対日路線の増加した1990年代をみると,その前半は,ソウルと広域中心都市(仙台,広島),地方都市(6か所)間,済州と広域中心都市(福岡,仙台)間の路線が新設され拡大した。後半は,韓国の地方都市(大邱,広州,清州)と大阪とを結ぶ路線の開設がみられた。また,ソウル発着路線は日本の20都市にまで拡大した。</p><p>2000年代は,FSCによる韓国地方空港からのチャーター便での地方都市(長崎,宮崎,松山,高知,徳島,宇部,富山,出雲,鳥取,米子,秋田,青森など)への就航が相次いだ。2008年からはLCCの進出が著しくなり,両国間の航空自由化とも連動し,対日航空路線はいっそうの拡大をみせた。韓国地方都市と日本の大都市や広域中心都市との結合(便数)の増強とともに,日本地方都市との定期路線も拡大した。これらは,両国の地方空港の国際化を支えるものともなった。2015年以降からは,既設路線への新規航空会社の参入など航空便の量的拡大が顕著になった。しかし,2019年7月以降,日韓の政治的関係の悪化により, LCCの地方都市間路線をはじめ,対日航空路線は急激に縮小した。</p>
著者
樋口 忠成
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1) はじめに<br> 2016年のアメリカ大統領選挙は共和党のドナルド・トランプ候補が当選したが、これは投票前の世論調査と異なっていただけでなく、当選者の全国の一般投票総数では民主党のヒラリー・クリントン候補を下回る得票しか得られなかったという異例な結果であった。これは大統領が得票総数で選出されるのではなく、各州に割り当てられた選挙人をより多く獲得する候補が勝利するという間接選挙方式から生じた現象である。またこの選挙結果は、アメリカ社会の分断の象徴とその結果として取り上げられた。<br> この報告の目的は、アメリカ社会の分断が空間的な分断を伴うとすれば、どのような地理的分断が見られるかをこの2016年大統領選挙結果から明らかにすることである。民主党・共和党の得票数・得票率のカウンティ別データを使って、州、カウンテイ、大都市圏・小都市圏と非都市圏、中心市と郊外などの地理的枠組みを使って分析する。<br>2) 州の分断の進行<br>&nbsp; アメリカの大統領選挙では、ほとんどの州で州全体で勝利した候補が州に割り当てられた選挙人を総取りするので、立候補から当選まで基本的に州ごとに選挙戦が戦われる。近年では州の色分けが定着し、民主党が強いブルー(青)ステートと共和党が強いレッド(赤)ステートがほぼ固定化しているが、これまでの大統領選挙結果から分析すると現在の傾向が定着するのが1992年大統領選挙からである。それ以降の選挙結果は相互に高い相関を伴う結果となっており、青と赤の州が固定した結果、選挙ごとに結果が変わる可能性のあるスウィング・ステートと呼ばれる州をどちらの政党が獲得するかに結果が左右される。<br>3) 地域人口規模による分断<br>&nbsp; 全米にある3100あまりのカウンティのうち人口100万以上のものは44あるが、選挙結果ではクリントン候補が敗れたのは3つだけで、残りの41で勝利した。一方人口規模の小さいカウンティではトランプ候補が圧勝している(人口1万以下のカウンティの86%で勝利)。すなわち、大都市と農村地域の投票行動はほぼ真逆となっている。<br>4) 大都市圏の中心市と郊外による分断<br>&nbsp; 地域人口規模による選挙結果の分断からも類推できるように、大都市圏を単位として得票数を分析すると、大規模な大都市圏ほど民主党が強く(人口250万以上の21の大都市圏ではダラス、ヒューストン、フェニックス、タンパ、セントルイスの5大都市圏のみクリントン候補は僅差で敗れた)、人口50万以下の大都市圏になるとトランプ候補が強くなり、小都市圏ではトランプ氏が圧勝している。またそれぞれの大都市圏の中での得票率は、地域によってはっきりと異なっていいて、地理的分断が見られる。たとえばアトランタ大都市圏での大統領候補の得票率の分布をみると、中心市はクリントン氏が圧勝し、また中心市に近い郊外もクリントン氏が強い一方、郊外の外縁部や超郊外的な地域ではトランプ氏が圧勝している。このように大都市圏では中心からの距離による同心円的な分断が顕著であり、社会の分断は地理的分断と密接に関連することが解明できた。
著者
金 木斗 哲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.18, 2004

セマンゴム干拓事業をめぐる賛否両論は、従来の'開発か環境か'という対立の地域的な展開を越えて、直接的な利害関係をもたない人々をも巻き込んで全国的な展開を見せている。これを空間スケールでみると、'干拓事業の直接的な利害関係住民=生活基盤をなくすことなので反対だが,補償との関係で消極的;補償対象外の地元住民=地域振興への期待と環境悪化への不安;広域の地元(全羅北道)=地域振興への期待で賛成;全国=環境面への配慮からおおむね反対'という構図といえよう。実際に、広域の地元(全羅北道)のマスコミの論調は事業の早期完工を促すものばかりで,テレビの討論番組で反対を表明した地元大学の教員(とその所属大学)は地元住民の抗議電話で職務が中止されるほどであった。また、知事選挙を含む地方選挙では常に「複合産業団地」への用途変更を視野に入れた公約が表明されており,推進派、反対派を問わずセマングム干拓事業によって造成される土地が農地として利用されると考えている人はほとんどいない。(無論、このような図式は、理解のために単純化したものである。)このようにセマングム干拓事業をめぐる論争が全国的に拡大した背景には、セマングム干拓事業そのもののが従来の干拓事業とは桁外れに大規模であること以外にも、'地域感情'称される負の遺産を残している韓国の国土開発の展開と1980年代の民主化運動の過程で培養された市民の政治的交渉能力の向上が大きくかかわっている。したがって、セマングム干拓事業をめぐる対立構図を理解するためには、韓国における国土開発や1980年代の民主化運動に関する理解が不可欠となる。ここでは、セマングム干拓事業との関連のもとに韓国の国土開発の特徴と1980年代の民主化運動の経験を紹介し、それらがセマングム干拓事業をめぐる論争(または運動)とどのようにかかわっているかについて報告者の見解を述べたい。1.国土開発政策の展開とセマングム問題1962年に始まった第1次経済開発5ケ年計画(1962_から_1966)を契機に韓国は高度経済成長期に入り、1980年代まで華々しい経済成長と国土全体にわたる地域変動が続いた。第6次経済開発5ケ年計画(1987_から_1991)に至る過去30年間、その国土開発戦略は拠点開発(1960・70年代)、広域開発(1980年代)、地方分散型開発(1990年代)、均衡開発(2000年以降)と、地域間格差を縮小する方向へ変わりつつあると言われているが、1960年代から始まった国土空間の両極集中(ソウルを中心とする首都圏と釜山を中心とする東南臨海地域)は依然として解決に向かわず、国土面積の約25%に過ぎないソウル_から_釜山軸上に総人口の70%以上が住んでいる。このような過程で開発の恩恵から最も遠ざかっていたのが湖南地方と呼ばれる全羅南道と全羅北道であり、この地域における開発からの疎外感は、当地域出身の政治家である金大中氏への迫害への憤慨とも相まって,「抵抗的地域主義」を生み出した。セマングム干拓事業に対する地元(全羅北道)の執着には、このような国土開発からの疎外に対する補償心理も大いに働いており,複合産業団地のような地域経済への波及効果の大きい産業部門への用途変更がその前提となっている。2.1980年代の民主化運動の経験とセマングムセマングム問題の社会的な表様態が諫早のそれとと大きく異なる原因の一つは、1980年代の民主化運動の経験から蓄積された市民運動団体の組織力と高い政治的交渉能力から求められよう。韓国の民主化運動に参加した個人や組織は、リベラルな市場主義から社会主義までの多様な理念的なスペクトラムをもっていたが,「反独裁民主化」という共通の目標(戦術的であれ戦略的であれ)のもとで戦った。1990年代に文民政府(金永三政権)が誕生して以来、反独裁民主化戦線はほぼ消滅し,運動はそれぞれの専門領域ごとに細分化していった。こうした中で本格化したセマングム保存運動では、1980年代の民主化運動の過程で蓄積された連帯、連携、戦線の経験が存分に発揮され、環境運動団体のみならず宗教界、労働界など市民運動団体のほとんどが参加する国民的な運動へ発展しつつあり、「生命」という哲学的な概念で結ばれている。その結果,セマングム干拓事業をめぐる論争は、初期の「科学的なデータ」の解釈をめぐる部分的なものから、哲学的かつ全国的なものへと拡大しつつある。
著者
永田 彰平 中谷 友樹 矢野 桂司 秋山 祐樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.背景と目的<br> 健康的な生活を支える食料品へのアクセスが剥奪される地域的状況はフードデザートと呼ばれ、特定の社会集団の健康水準を低下させる要因として指摘されてきた。日本社会では、中心商業地の衰退に伴う店舗の閉鎖や都市的な環境で広がる社会的疎外が、高齢者を中心とする徒歩によって生鮮食料品を購買していた居住者に深刻な影響をもたらすと危惧されている(岩間, 2011)。2011年3月に発生した東日本大震災では、津波被災地区を中心に発生した被災による食料品購買機会の喪失が問題となっている(岩間ほか, 2012)。<br> フードアクセスをめぐる課題を受け、近年では生鮮食料品を販売する店舗へのアクセスを評価する地図成果物が公開されるようになった。例えば、農林水産研究所が公開している食料品アクセスマップでは、500mと定義された徒歩圏内にスーパー等の食料品購買機会を得られない地区が示されている(薬師寺・高橋, 2012)。ただし、徒歩圏内に購買機会のない環境が長期的に維持されている場合には、その環境に適応した食料品の確保(例えば、自動車による購買行動)がなされているとも考えられる。そのため、本研究では徒歩での購買行動が可能であった地区において購買機会が失われた状況が、フードアクセスの問題を最も深刻に被る地区と想定した。<br> また、フードデザート問題は、欧米社会にみられる大都市部の貧困地区の健康問題から提起されてきた論点ではあるが(中谷, 2010)、こうした問題発生地区の社会的位置付けを、日本全体を対象として俯瞰する試みはなされてこなかった。これを踏まえて、本研究では近年の生鮮食料品販売店舗の閉鎖に伴って生じた、徒歩でのフードアクセスの喪失地区を特定し、当該地区を社会地区類型(ジオデモグラフィクス)を利用して評価することを試みる(中谷・矢野, 2014)。対象期間は、震災発生前の2010年からその3年後の2013年とした。<br><br>2.資料と方法<br>(1) 座標付き電話帳データベースであるテレポイントPack!(全国版)の2011年2月(2010年10月発行の電話帳と対応)と2014年2月版(2013年10月発行の電話帳と対応)を用いて、生鮮食料品購入可能店舗の抽出を行った。業種はスーパー(生協等店舗を含む)、その他の食料品店(コンビニ、個人商店等)に区別し、店舗名等から実質的な小売店舗であるものに限定した。<br> (2) GIS環境において直線距離500m圏を徒歩圏として、時期別に徒歩圏での食料品アクセス可能範囲を特定するレイヤを生成した。また、両レイヤのオーバーレイによって、食料品店舗への徒歩アクセスの変化を識別した。さらに、各圏域に含まれる人口を基本単位区の人口統計(2010年)を平滑化して推計した。<br> (3) 食料品アクセスの衰退地区に居住する人口を、町丁字等単位の社会地区類型別に比較した。社会地区類型にはMosaic Japan 2010年版(エクスペリアンジャパン(株))を利用した。<br><br>3.徒歩フードアクセスの喪失マップと地区類型<br>徒歩によるフードアクセスが近年失われた地区の全国分布図を作成し、当該地区の地域別・社会地区類型別の特徴を、業種別に検討した。抽出された食料品購入可能店舗の総数は減少しており、とくに津波被災地区ではスーパー以外の店舗の減少が著しい。<br>地区類型別の整理の一例として下図に、2010年において徒歩圏内にスーパーのある地区に居住していた人口の内、2013年にスーパーへの徒歩アクセスを失った割合(%)を、Mosaic Group別に示す(人口密度が低いグループほど上に配置してある)。徒歩によるフードアクセスの喪失は、地区の社会的属性に応じても特徴的に異なることがわかる。<br><br>本研究は,厚生労働科学研究費補助金 循環器疾患・糖尿病等生活習慣病対策総合研究「日本人の食生活の内容を規定する社会経済的要因に関する実証的研究」(研究代表者:村山伸子)および科学研究補助金・基盤研究(B)「GISベースの日本版センサス地理学の確立とその応用に関する研究」による成果の一部である.
著者
伊藤 千尋
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

1 はじめに<br> ザンビアージンバブウェ国境に位置するカリバ湖は、1950年代にダム建設にともない誕生した人造湖である。カリバ湖では、カペンタ (<i>Limnothrissa miodon</i>)と呼ばれるニシン科の淡水魚を捕る漁が行われている。アフリカの内水面漁業が概して小規模で、労働集約的であるという認識とは異なり、カリバ湖のカペンタ漁は企業的・産業的で、資本集約的に営まれてきたことに特徴がある。これには、入植型植民地支配を経験した南部アフリカの地域性が関わっている。<br> 近年、ザンビアにおけるカペンタ漁については、漁船数の大幅な増加、漁獲量の減少といった問題が指摘されている。本発表では、カペンタ漁に関わるアクターの特徴や彼らを取り巻く社会・経済環境を明らかにし、漁船数の増加を引き起こしている背景を考察する。<br><br>2 方法<br> 発表者はザンビア南部州シアボンガ、シナゾングウェを対象として、2010年から断続的に現地調査を行なってきた。シアボンガおよびシナゾングウェは、カペンタ漁の拠点となっている地方都市である。シアボンガは南部州シアボンガ県の中心であり、首都ルサカから約200キロ南に位置している。南部州シナゾングウェ県シナゾングウェは、ルサカから約330キロ南西に位置している。<br> カペンタ漁が開始された初期の動向について明らかにするため、文献調査にくわえてシアボンガおよびシナゾングウェにて1980年代から漁を行っている事業者や造船業者に対する聞き取り調査を行なった。また、現在のカペンタ漁の特徴を明らかにするために、カペンタ漁に携わる事業者、漁師、造船業者に対する聞き取り調査を行なった。<br><br>3 結果と考察<br> ザンビアにおけるカぺンタ漁は、1980年代に白人移住者によって開始された。カペンタ漁はエンジン付きの双胴船、集魚灯を用いた敷網漁により行われる。そのため、初期費用が高く、黒人住民にとっては参入が難しく、漁師や溶接工として雇われるという関わりが主であった。しかしながら、2000年以降は、黒人によるカペンタ漁への参入が増加し、特に2000年代の後半以降、爆発的に事業者・漁船数が増加していることが明らかになった。<br> この背景には、様々なレベルの社会・経済的状況が絡み合っていた。まず、都市・農村住民による副業の展開、生計多様化といった個人レベルの生計戦略が挙げられる。事業者らの多くは、その他の経済活動にも携わっており、カペンタ漁のみに従事している者は稀であった。<br> また、彼らの参入を促進しているのは、造船費用が低下したことである。白人の造船業者のもとで雇用されていた黒人たちが、近年では次々と独立している。さらには、中国との貿易が増加するなか、ザンビアには安価な中国製のエンジンや部品が流入しており、造船はこれまでより低価格で行えるようになった。また、ローンが比較的容易に組めるようになったことも関係していた。<br> 爆発的に事業者数や漁船数が増加するなか、「盗み」や「許可証の不保持」が重大な問題として表出している。このような状況は、政府による管理・モニタリングの不十分さが主要因として働いていることは明らかである。それに加えて、本発表では、アフリカ農村・都市の生存戦略として肯定的に評価されてきたブリコラージュ性や多就業性といった個々の主体の流動的な経済活動の選択、その背景にある政治・経済環境の変化が、資源の過剰な利用に結びついている点について議論したい。
著者
鈴木 晃志郎 鈴木 玉緒 鈴木 広
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.12, 2009

<b>_I_.概説</b><br>発表者らは,文部科学省からの研究助成(研究代表者 鈴木晃志郎:『「開発=保全」問題に直面したコミュニティにおける住民意志決定のメカニズム』(課題番号: 20700673)を得て, 2008年10月下旬,公共事業に対する住民の態度を明らかにすべく住民意識調査を実施した。本発表は,その結果の一部を速報として公表することを目的とする。<br>フィールドは福山市鞆町(=鞆の浦)。昨2008年に公開され,140億円の興行収入をあげた映画『崖の上のポニョ』を,宮崎駿監督は鞆の浦で構想したとされている。このため,鞆の浦は「ポニョの海」として一躍脚光を浴びた。街が抱える港湾架橋問題もまた全国区の知名度を獲得し,『ポニョの原風景が開発で・・』(TBS:10/23)と題する特集が組まれるなど,架橋に対しいっそう厳しい視線が注がれるようになった。<br><br><b>_II_. 問題点の整理</b><br>沼隈半島の南端に位置する福山市鞆町は,城下町特有の細く入り組んだ街路網と狭小な地勢から,慢性的な交通渋滞,船舶の不法係留,駐車用地不足,下水道の未整備などの受苦を長年に渡って被ってきた。1983年,それらの解消を謳って広島県と福山市が計画したのが,港湾架橋計画(正式名称:鞆地区港湾整備事業)である。<br>この種の公共事業が社会問題化するとき多くの場合は,住民(と有識者・文化人)がスクラムを組み,いわば悪玉的存在の行政・企業の地域開発や公共事業を阻止しようとする,といった図式で語られる (長谷川2003)。しかし鞆町の場合,少なからぬ数の住民は,長年に渡る数多の受苦から解放する事業として,むしろ歓迎してきた一面がある。<br>鈴木ら(2008)は各種資料の分析および聞き取り調査をもとに,(1)リーダーの交代によって架橋反対運動の戦略が劇的に変わった,つまり外部有識者や学識経験者,全国レベルの募金や署名活動などを有効に活用し,いわば「外からの声」で事業の白紙撤回をめざす方法になってきたこと,(2) このとき全国から反対の声を挙げたのは,歴史的建築や土木遺構などハード面の景観を専門とする有識者や文化人が多く,鞆の価値が特定の側面からのみ測定される契機となったこと,を明らかにした。一方,多数派であるらしい推進派の声は全く外には届かず,その理由は(3)鞆の社会風土が持つ年功序列・家父長制的な性格と,強固なウチ/ソト意識により,そもそも鞆町内の問題で外部の者に同意を求めるという意識が働かなかったためらしいことも分かった。<br>推進派は,数度に渡る署名活動の結果をもとに,住民の8~9割は計画に賛同していると主張する。反対派は,署名による意志確認は踏み絵に等しいとし,全国からの10万を超える署名や,研究者及びICOMOSによる学術的価値づけを根拠に,事業の撤回を主張する。<br>このような水掛け論は、なぜ続いてきたのか。我々は,可能な限り第三者的な立場に立って,科学的な手続きに則って住民意識調査を実施しようと考えた。<br><br><b>_III_.調査概要</b><br>調査方法と実施状況は以下の通り。<br>・実施日時:2008年10月23~29日<br>・調査形式:訪問配布・訪問回収方式(自記式)<br>・標本抽出:選挙人名簿使用。有権者4434人中600人を無作為抽出(等間隔抽出法:拒否の意思表示がない場合のみ,予備サンプル32名から補充)。<br>・有効回答数441,回収率73.5%(予備標本を含めると69.8%)。<br>・構成比:男性46%,女性54%,高齢者(65才以上)46%<br><br><b>文 献</b><br>長谷川公一2003. 環境運動と新しい公共圏. 有斐閣.<br>鈴木晃志郎・鈴木玉緒・鈴木広2008. 景観保全か地域開発か. 観光科学研究1: 50-68.
著者
廣野 聡子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.91, 2008

<B>1.はじめに</B><BR> 私鉄系のデベロッパーは、高度経済成長期以降、住宅地の郊外拡散を背景に自社沿線の宅地化を進めてきた。その代表的な開発手法の1つが、組合施行による土地区画整理事業を主導し、その事業代行を通じて保留地を獲得するというものであった。<BR> この土地区画整理事業を用いた郊外住宅地開発は、保留地を処分して事業費を捻出するなど事業採算性を土地の売却益に依存しており、地価の上昇が事業を後押ししてきた点は否めない。このため、バブル経済が崩壊し、主に住宅地に供される大都市圏郊外での地価上昇が見込めなくなると、こうした開発手法そのものが大きな岐路に直面せざるを得なくなる。このような問題意識のもと、相模鉄道(相鉄)いずみ野線・ゆめが丘駅周辺地域(横浜市泉区)を事例として、バブル経済崩壊に伴う社会的・経済的な変化の下で、従来型の沿線開発手法がどのような課題に直面しているかを検証したい。<BR><B>2.研究対象地域</B><BR> 相鉄いずみ野線・ゆめが丘駅周辺地域(横浜市泉区)は東京都心から40km圏に位置し、東京駅からの所要時間は約1時間である。<BR> いずみ野線は、横浜市南西部の交通不便地域の利便性向上と、輸送力が限界に達しようとしていた東海道線のバイパス路線確保を目的として計画され、1976年に二俣川(横浜市旭区)からいずみ野(同市泉区・4駅6.0km)が開業して以来、1990年に第2期延伸・いずみ野からいずみ中央(1駅2.2km)、1999年には第3期延伸・いずみ中央から湘南台(神奈川県藤沢市・2駅3.1km)と、およそ20年をかけて段階的に延伸開業した路線で、ゆめが丘駅は1999年に開業した。相鉄は、3期にわたる延伸区間の駅周辺で、土地区画整理事業を用いた住宅地開発を進めてきた。にもかかわらず、現在のゆめが丘駅周辺一帯は市街化調整区域のままであり、駅周辺には商業施設や大規模な住宅地は見られない。いわば「従来型沿線開発の限界」を示す空間といえる。<BR><B>3.研究の概要</B><BR> いずみ野線の新設に際して、相鉄は沿線の宅地開発を計画し、東急電鉄「多摩田園都市」の開発手法を踏襲する形で1972年より沿線7地区で順次土地区画整理組合を立ち上げ、合計354haの住宅地を開発した。<BR> 一方、第2期・第3期の延伸区間は、横浜市の総合計画「よこはま21世紀プラン」(1981年発表)に基づく「いずみ田園文化都市構想」として開発が計画された。この「いずみ田園文化都市構想」は、いずみ野線新規延伸区間の沿線約280haを開発区域とし、良好な住宅地・文化施設などを設け、当地域を都心と県央地域を結び付ける拠点地域とする計画で、開発手法は相鉄を事業代行者とする土地区画整理事業の方式が想定されていた。<BR> 1980年代前半に計画されたこの構想は、バブル経済の崩壊にともなう社会的・経済的な変化の中で見直しを余儀なくされ、1995年、開発区域はゆめが丘駅周辺の約25haのみとなり、大幅に縮小される。しかし、駅の開業から約10年が経過した今日でもなお、この土地区画整理事業は事業化の目処が立たず、駅前には農地が広がっている。<BR> このゆめが丘駅周辺地域の開発が失速した背景として、地価の下落によって計画当初の地権者への水面下での提示価格の維持が困難になり土地区画整理事業の事業化が行き詰まったこと、またバブル崩壊以降、財政悪化に直面した地方自治体が都市開発の民間依存を強める一方、資金力やブランド力が相対的に弱い私鉄系デベロッパーの一部が地方自治体の要請に応えきれなくなった点を指摘することができる。本発表では、これらの点について具体的なデータをふまえつつ検討する。<BR>
著者
島津 弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1.はじめに</b> <br>仙台平野は2011年東北地方太平洋沖地震による津波被害を受けた.名取川に沿って津波はおよそ6km遡上した.名取川下流堤外地は伝統的土地利用慣行が残り,高水敷は現在でも民地として耕作が行われ,これらの農地は津波遡上の被害を受けた.地震津波災害以降,名取川では複数回の洪水が発生し,高水敷にも氾濫した.このとき津波堆積物や塩分が流されるとともに,一部の農地は再び被害を受けた.津波災害後,放棄されたままの農地もあったが,多くは再耕起された.しかし,その後放棄される農地が拡大してきた.本発表では津波遡上およびその後の洪水時の水の流れと高水敷への影響を河川の微地形との関係から明らかにし,耕作放棄およびその拡大との関わりを検討した.現地調査は2011年5月(被害状況,表層堆積物),8月(農地の復興状況,津波被害聞き取り),2012年11月(地形断面測量,その後の洪水による影響,耕作放棄の状況),2013年11月(耕作放棄の状況)に行った.また,耕作放棄状況の把握には空中写真およびGoogle Earthの画像も用いた.&nbsp;<br><b>2.名取川堤外地の微地形と津波遡上プロセス<br></b> 名取川堤外地の微地形と津波遡上の概要についてはすでに報告した(島津,2012,日本地理学会発表要旨集82).堤外地部分は流路となっている低水敷と平水時の水面とは2m程度の比高がある氾濫原である高水敷に分けられる.高水敷は2段の地形面に分けられる.地形面上には流路跡と考えられる縦断方向に延びる浅い凹地が見られる. 河口からの距離に応じて遡上した津波の強さと卓越するプロセス,微地形との関係が異なる.河口~2.5kmでは高水敷における水深が4m程度に達し,遡上および引き波による強い侵食が生じた.2.5km~4kmでは高水敷における水深は3m程度で堆積プロセスが卓越した.4km~5kmでは津波の深さが急に浅くなった.微地形の高まり部分は水没しなかったが,そのほかの部分では水流があり,堆積が生じた.5km~6kmでは微地形の低まりの部分を津波が遡上した.津波が遡上した部分ではわずかに堆積が生じた.<b>&nbsp;<br></b><b>3.津波災害後の河川洪水による高水敷への影響<br></b> 津波災害後の2011年9月,2012年5月,6月に流域で豪雨が発生した.調査地域の上流端の名取橋におけるこれらの出水時の最高水位は平水時の+4~4.5mであった.聞き取りによると高水敷上に氾濫し,河口から4km地点より上流側における影響が大きかった.微地形の低まりの部分では湛水したこともあり,作付けされていた作物が大きな被害を受けた.一方,高まり部分も影響を受けたが,被害の程度は小さかった.氾濫水が低まりの部分を集中的に流下したことが推定できる.2012年11月の観察では,堤防沿いの微地形の低まりの部分では,観察直前の雨で湛水していた.このような部分で耕作を行っている人もいたが,降雨後にしばしば湛水するようになったとのことである.<br>&nbsp;<b>4.津波災害後の耕作放棄地の拡大と微地形の関係<br></b> 津波災害後の5月上旬に現地に入ったときには,盛んに再耕起が行われていた.一方,そのままで放置された農地も多く存在していた.そのような農地は2.5kmより河口寄りに多く,津波による被害程度が大きかっただけでなく,閖上地区では耕作者の死亡,移転により放棄されたところもある. 一度,上流寄りでも再耕起されない場所や,再耕起されたところでもその後放棄された場所も見られた.それらは微地形の低まりの部分に集中し,帯状に分布している.以上のことから,高水敷の微地形が津波遡上とその際の地形プロセスに影響しただけでなく,その後の河川洪水の際も大きく影響した.排水不良地を形成し,その結果そのような場所が耕作放棄につながったと考えられる.
著者
栗栖 悠貴 小島 脩平 稲澤 容代
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

近年、地理院地図に代表されるように地理空間情報技術のめざましい発達により、誰でも容易に地理空間情報を扱えるようになった。その結果、災害対応をはじめ様々な分野で地理空間情報は効果的に活用されている。しかし、平成26年8月豪雨や平成27年9月関東・東北豪雨に伴う被害状況を振り返ると、事前に土砂災害危険箇所や浸水想定区域などの自然災害リスクに関する地理空間情報が被災地で十分浸透していたとは言い難い。その原因の1つにそれらの情報からリスク情報を解読する難しさがある。自然災害リスクに関する地理空間情報を分かりやすく伝えることは、被害軽減対策の1つとして重要である。<br>本報告は、災害時の被害軽減対策を促すために重要な自然災害リスクに関する地理空間情報を分かりやすく伝えるための工夫を紹介するものである。効果的に伝える工夫として次の方法がある。<br>①土地の成り立ちと自然災害リスクの関係をワンクリックで確認できる地形分類データ。<br>②身近な自然災害リスクを伝えるハザードマップポータルサイト。<br>③浸水被害範囲の時系列変化がわかる地点別浸水シミュレーション検索システム。<br>しかし、これらはツールであり利用されなければ被害軽減にはつながらない。<br>そのため、今後有用なツールを活用してもらうような広報活動をしていくことが必要である。
著者
内田 和子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.198, 2009

2000年9月の東海豪雨では約8000億円の被害を生じた。典型的な都市型水害とみなされるこの災害の原因は集中豪雨であるが、被害を拡大した要因として、被災地域の住民が地域の地形条件と土地開発の歴史、人々の治水への対応の歴史を十分に理解していなかった点が指摘できる。<br> 破堤した新川は1787年に開削された人工の排水幹線であり、庄内川の放水路でもある。庄内川からの分派点には洗堰が設けられ、分派後の庄内川には遊水地も設置され、当時の名古屋城下を守るために何重もの治水策が講じられていた。破堤地点は木曽川系統の河川の旧河道と新川とが交差する付近であり、地形条件からみた破堤の危険箇所である。また、庄内川下流部の越水地点は、近世の干拓地とデルタとの境界付近の勾配遷移点であって、木曽川系統の河川が形成した大きな自然堤防により閉塞されている。<br> この災害で大きな被害を受けたもう1つの地点は、名古屋市東部の天白川下流部である。この地点は東西を丘陵と台地に閉ざされ、南部も砂州に閉塞された、古代には入り江であった低湿地であるため、湛水しやすい。越水地点は天白川より勾配の大きい支川・藤川が合流する付近で、しばしばの氾濫により天白川が大きな自然堤防を形成している。しかも、天井川である天白川はこの付近でもっとも緩い勾配となっている。<br> このように、東海豪雨で大きな被害を受けた地点は、地形条件や土地開発の歴史からみて治水上、警戒を要する地点であった。当然、古くからの居住者や為政者は様々な治水対策を講じてきた。しかし現代では、被災地に多くの人々が居住し、人々の心から治水上の警戒意識が薄れていった。以上のように、現代の日本の都市域においても、洪水と地形条件や土地開発の歴史との間には密接な関連がみられ、それらを知ることは減災に寄与できる。<br> 本シンポジウムで対象とする熱帯河川流域は、一般的に日本と比べて河川改修の進捗は小さい上に、気温や降水量などの水文条件は日本より災害を招きやすい条件にあると思われる。こうした地域において、地形条件や水文条件の解明は減災を考える上で、いっそうの重要度を増し、そのような研究を行う地理学者の役割は大きいため、熱帯河川流域における地理学者の社会的貢献も大きいと考える。
著者
田上 善夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.53, 2004

_I_ はじめに 中世以降,近世を中心に開創された地方霊場の多くは現在も存続するとともに,さらに新たな開創が続いている。こうした地方霊場の種類,開創年代,範囲,巡拝路の形態,さらに霊場数あるいは霊場密度などには,全国的に差異がみられる。地方の三十三観音霊場などでは,観音像は本堂でも脇侍とされたり,境内の観音堂にまつられたりする。さらに堂庵や神社,石塔などのことも多い。そもそも霊場はその起源においても仏教のみならず修験との深いかかわりが認められ,神仏習合のもとでは観音を本地とする神社も多いため,札所は神社の内や隣接することも多く,さらに背景に民間信仰が認められるものも多い。_II_ 霊場と寺社の調査 北海道から北陸に至る北日本において,主要な地方霊場について施設や景観などを調べるとともに,それらの分布と関連する寺社などの分布との比較をとおして,霊場の開創の要因や経緯などについて明らかにする。まず,歴史が古く代表的な霊場を選び,霊場および札所寺院の位置や景観,宗派などの特色を,現地調査にもとづいて明らかにする。次に,現在の宗教法人の寺院の主要宗派別の分布を明らかにし,それとともに著名神社を選んでその分布も明らかにする。さらに主要仏教宗派の分布が成立した経緯や,著名神社の成立の経緯などにもとづいて,霊場開創地域の宗教的基盤の特色を明らかにする。さらに,それらを通して明らかにされた地方霊場開創にかかわる要因の中から,とくにかかわりが深い山岳信仰について分析を加え,霊場の開創とその地域的差異の検討を試みる。_III_ 地方霊場と寺社分布 各県ほどの規模の霊場では,札所はおよそ平野や盆地の縁である山麓にみられ,札所は岩や沢の傍らなどに設けられている。札所として,真言系寺院をはじめ,天台系や禅系の寺院が多く選ばれているが,修験の寺院もあり,神社境内にある観音堂のこともある。寺院は当該地域の南西部では浄土系,北東部では禅系などが多く,平野では浄土系,山地側では禅系,天台系,真言系が多い。この天台系・真言系寺院は古くから進出し,霊場と深くかかわり,禅系寺院も霊場とのかかわりを保つ。一方神社は,当該地域には八幡社が広く分布し,稲荷社は北部に多く,神明社は南部に,熊野社は内陸部に多い。_IV_ 山岳信仰の影響 とくに熊野社は,熊野三山や天台系と結びつき,霊場とかかわりが深い。もともと巡礼では札所のほかに多くの霊山が参詣されており,巡礼には山地での修行が含まれる。 廻国巡礼は富山では立山に至り,西国・坂東・秩父巡礼は出羽三山参詣と類似のものとみなされていた。東北地方北部でも,地方霊場は山岳霊地に連なり,お山参詣は修験の影響を受けて,山岳信仰の要素を含んでいる。霊場と結びつく,天台系・真言系や熊野社などが深く結びついており,これらは開創年代が古く,周辺に位置し,とくに観音とかかわっている。さらに修験や山岳信仰と結びついており,それらは霊場の基本的性格を形成したと考えられる。
著者
町田 知未
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>1.はじめに</p><p></p><p> 高度経済成長期における国主導の画一的な大型施設の整備やリゾート開発は地域の不均衡発展をもたらした。産業振興を優先させたことが居住環境の悪化や生活の質の低下を招いた側面もあった。結果として,多くの自治体が基幹産業の衰退,少子高齢化に伴う過疎化に見舞われた。都市部から離れた遠隔地においてその傾向は顕著であった。現在こうした地域においては,それまでの地域振興策を見直し,地域独自の自然・人文環境などの地域資源を保全し,地域の魅力を高めこれを活用することによって,地域外から人を呼び込み内外の交流を促進して,地域経済を活性化させる地域づくりが目指されている。しかしながら,自然・人文環境や産業構造といった地域特性は地域それぞれで異なるため,地域づくりのあり方にも違いが生じるはずである。それゆえに,さらなる事例研究の蓄積が必要である。</p><p></p><p> 本研究の目的は,北海道中川町を事例として,地域資源を活かした地域づくりに対する地域住民の意識と,地域外からの来訪者の行動と地域資源に対する意識を併せて分析することによって過疎地域における地域資源を活かした地域づくりの意義と課題を明らかにすることである。</p><p></p><p>2.データと方法</p><p></p><p> 地域住民の意識を把握するために,中川町の地域づくりに携わる主要組織である役場,教育委員会,商工会,観光協会において聞き取り調査を実施した。また,中川町への来訪者の意識を把握するために,2019年の6月から9月まで中川町内の主要施設(温泉施設,キャンプ場,中川町エコミュージアムセンター,道の駅,飲食店)においてアンケート調査を実施し,256のサンプルが得られた。</p><p></p><p> </p><p></p><p>3.調査結果</p><p></p><p> 中川町は明治期より化石産地として名高い地域である。1990年代後半に国内最大級のクビナガリュウ化石が2度発見され,「化石の町」として脚光を浴びた。化石の町として注目されたことが,町内に存在する地域資源を活かした地域づくりを行う契機となった。1997年に町全体を博物館とみなした地域づくりを目指した「エコミュージアム構想」が提唱されて以後,化石を中心とした地域資源を活かした地域づくりが中川町エコミュージアムセンターを中核施設として行われている。</p><p></p><p> 聞き取り調査によると,中川町では化石以外の地域資源を活かした取り組みも様々な組織によって行われていた。たとえば,役場による林業の町のイメージを活かした取り組み,商工会による地場産業のブランド化,観光協会によるエコモビリティの推進である。化石に係る取り組みは教育委員会を中心として行われているが,教育委員会以外の主要組織の化石に係る取り組みへのかかわり方はいずれも消極的であった。</p><p> 来訪者の意識をみると,化石の見学を目的とした来訪者が最も多い。来訪者の行動からは,休憩施設である道の駅を除くとエコミュージアムセンターを訪れた者の割合が最も高かった。しかしながら,来訪者の目的と町内での行動を中川町への来訪回数別に分析すると,化石を目的として訪れる者は来訪回数の少ないものには多いが,来訪回数が増えると減少する傾向があった。対照的に,温泉施設やキャンプ場を目的とした来訪者は来訪回数の少ない者には少ないが,来訪回数が増えると増加する傾向があった。これらのことから,化石という地域資源の価値を再認識し,来訪回数による来訪者の特性の違いを考慮した誘致策を練るために組織間の協力体制を見直し,住民がより主体的に継続して地域づくりを行う必要があると考えられる。</p>
著者
佐藤 善輝 小野 映介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<b>I </b><b>はじめに: </b>伊勢平野は養老山地,鈴鹿山地,布引山地によって区切られた海岸平野である.同平野中部(鈴鹿川~雲出川)では,丘陵・段丘の海側に東西約1 ~2 km幅の浜堤列平野が発達しており,雲出川などの河口部にはデルタタイプの沖積低地が広がる.雲出川下流低地では,3千年前頃に&ldquo;弥生の小海退&rdquo;(太田ほか 1990)に対応して浜堤列が形成された可能性が指摘されているが(川瀬1998),当時の海水準を復元する直接的な指標は報告されていない.本研究では志登茂デルタと,その左岸の浜堤平野を対象として,2~4千年前頃の地形環境を復元するとともに,相対的海水準変動について検討した.<br> <b>II</b><b> 調査・分析方法: </b>計3地域において電動ドロップヒッター,ポータブル・ジオスライサー,ハンドコアラーを用いた掘削調査を行った.コア中の試料20点について,AMS法による<sup>14</sup>C年代測定を地球科学研究所およびパレオ・ラボに依頼して行った.珪藻分析は各試料200殻を目安に計数した.珪藻の生息環境は千葉・澤井(2014)などを参照した.<br> <b>III</b><b> 結果: </b>3地域の層相と堆積環境は以下のとおりである.<br><b></b> <b>(</b><b>1</b><b>)志登茂川デルタ </b>細粒砂~砂礫層とそれを覆う砂泥互層から成る.細粒砂~砂礫層はデルタ前置層堆積物と考えられ,同層上部から3,175-3,275 cal BPの年代値を得た.砂泥互層はデルタ頂置層で,標高0.0~-1.7 mでは平均潮位~平均高潮位の指標となる<i>Pseudopodosira kosugii</i>(澤井 2001)が優占し,同層準からは3,230-3,365 cal BP(標高-1.3 m),2,920-3,060 cal BP(標高-0.2 m)の年代値を得た.<br> <b>(</b><b>2</b><b>)浜堤</b><b>I</b><b>の後背地 </b>有機質泥層とそれを覆う砂層が認められた.有機質泥層は標高1.6 m以深に分布し,基底深度は不明である.この地層中の標高-0.1 m付近は<i>Tryblionella granulata</i>を多産し,潮間帯干潟の堆積物と推定され,5,985-6,130 cal BPの年代値が得られた.<br> <b>(</b><b>3</b><b>)浜堤</b><b>I</b><b>・</b><b>II</b><b>の堤間湿地 </b>海浜堆積物と推定される砂礫層とそれを覆う泥層から成る.砂礫層最上部と泥層下部(標高-0.5 m付近)では<i>P. kosugii</i>が優占的に産出し,同層準から3,245-3,400 cal BPの年代値を得た.標高-0.15 m以浅は有機質な層相を呈し淡水生種が卓越することから,淡水池沼あるいは淡水湿地の堆積物であることが示唆される.<br> <b>IV</b><b> 考察: </b>四日市港の平均高潮位を考慮すると,<i>P. kosugii</i>の優占層準の標高から3,000~3,400 cal BP頃の海水準は標高-1~-2 m程度と見積もられる.さらに,雲出川下流低地の海成層中から得られた年代値とその標高値から(川瀬 1998),3,400~4,000 cal BP頃に1~2 m程度,海水準が低下したと推定される.3,000 cal BP以降,遅くとも1,600 cal BP頃までには標高0 m付近まで海水準が上昇した. 海水準が低下した時期は浜堤IIの形成開始時期と対応する.雲出川下流低地でもほぼ同時期に浜堤が形成され始めており(川瀬 1998),海水準の低下が浜堤の発達を促進した可能性が示唆される. 当該期における海水準低下の要因の一つには&ldquo;弥生の小海退&rdquo;が考えられる.また,対象地域が安濃撓曲と白子-野間断層(ともに北側隆起の逆断層)との中間に位置し,両断層が連続する可能性もあることから(鈴木ほか 2010),断層変位によって海水準低下が生じた可能性もある.白子-野間断層の最新活動時期は5,000~6,500 cal BPとされるが(岡村ほか 2013),陸域への断層の連続性や活動時期については不明な点も多く,さらなる検討が必要である. 本研究は,河角龍典氏(故人・立命館大学)と共同で進められた.<br> <b>文献:</b>岡村行信ほか (2013) 活断層・古地震研究報告13: 187-232. 太田陽子ほか (1990) 第四紀研究29: 31-48. 川瀬久美子 (1998) 地理学評論76A: 211-230. 澤井祐紀 (2001) 藻類49: 185-191. 鈴木康弘ほか (2010) 国土地理院技術資料D・1-No.542. 千葉 崇・澤井祐紀 (2014) 珪藻学会誌30: 17-30.