著者
高橋 裕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

Ⅰ はじめに<br> 2000年代以降,ネットカフェやビデオ・DVD試写室,サウナ,ファストフード店を代表とする24時間営業店舗などでの,ホームレス状態にある人の寝泊まりや住み込みがみられる.何かしらの要因によって貧困状態にあるなどの,このようなホームレス状態にある人の近年の特徴として,「見えにくさ」が挙げられる.彼らの姿や実態,そして彼らが多くみられる地域との関係性はよく分かっていない.そこで本研究では,東京都大田区蒲田を事例として,24時間営業店舗などに寝泊まりせざるをえない新たな不安定居住者層が集中する地域の特性について,東京都大田区蒲田の事例を中心として,不安定居住者・ネットカフェ利用者の立場と,地域性・場所性の両面からアプローチして分析・考察を試みた.なお,本研究では,特定の住居を持たず,ネットカフェやビデオ・DVD試写室,サウナ,ファストフード店を代表とする民間セクターの商業スペースなどで寝泊まりする人を不安定居住者とよんでいる.<br><br>Ⅱ 研究対象地域<br> 本研究では,近年みられる不安定居住者層が集中する代表的な地域として東京都大田区蒲田を選定した.大田区は東京都の南東部にあり,東は東京湾に面し,北は品川・目黒区に,北西は世田谷区に,さらに西と南は多摩川をはさんで神奈川県川崎市にそれぞれ隣接している.面積は東京都23区内で最も広く,人口は2015年の国勢調査では世田谷区・練馬区に次いで3番目の多さである.<br><br>Ⅲ 研究方法<br> 総務省統計局やネットカフェを運営する企業のホームページなどから抽出したデータ,各種文献などをもとに,不安定居住者層が蒲田に集中する要因を分析した.そして,蒲田のネットカフェ利用者への聞き取り調査などにより,蒲田の不安定居住者の実態や,彼らと蒲田との関係性・結びつきを分析した.考察においては,適宜,有識者・専門家・社会活動家・NPO関係者などへの聞き取り調査の結果を用いた.<br><br>Ⅳ 結果と考察<br> 蒲田には,交通の要衝や繁華街としての要素があり,ネットカフェやDVD鑑賞店の数も多く,城南地区の中心地となっていることや,他地域には見られない非常に安価で不安定居住者を客層としているような特異なネットカフェ店舗が存在すること,高度経済成長期に地方からの集団就職者層の歓楽街として発展したという歴史的経緯などの特性があることによって,蒲田は近年みられる不安定居住者層を集中させていたことがわかった.そのうち,交通の要衝であり繁華街的性格をもち,ネットカフェ・DVD鑑賞店など安価な24時間営業店舗を多く集積していることが,近年みられる不安定居住者層集中地域の普遍的要素であることが挙げられる.不安定居住者と同様のネットカフェ寝泊まり常連者も含めた蒲田のネットカフェ利用者が,蒲田のネットカフェを利用している理由としては,蒲田に居住しているためであること以外に,仕事場所への行き来のためであることが多く,彼らは蒲田を中心に東は京浜急行線に沿うように羽田まで,西は東急線に沿うように多摩川駅や五反田駅・目黒駅に至るように移動し,南は横浜市,北はJR田端駅付近までJR京浜東北線に沿うように移動していることがわかった.<br> それらをもとに,東京都内において,蒲田以外にも不安定居住者層集中地域を見出すことができ,近年みられる不安定居住者層の東京都内での「漂流パターン」も一定程度,想定できる.
著者
水野 一晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.134, 2008

<BR> インドのアルナチャル・プラデシュ州(アッサム・ヒマラヤ)は、ブータンと中国・チベットとの国境に近く、22-24のチベット系民族(細分化すれば51民族)の住む地域である。長らくインドと中国の国境紛争が続き(現在でも中国の地図では中国領)、最近まで外国人の入国が禁止されていたため、未知の部分が多く、神秘的な領域である。現在外国人が入域をするためには、国と州の入域許可書が必要で10日間以内の滞在が認められる。今回は2007年7月の予備調査、とくにディラン・ゾーン地域の自然と人間活動について報告を行う。<BR> 1. 地形と土地利用:住居や農地の多くは、地滑り斜面と崖錐斜面に立地している。それらの地形はその形状と堆積物から住居と農地の立地に有利であると考えられる。<BR> 2. 森林利用:農地の肥料は樹木の落葉のみが利用されるため、落葉は住民にとって重要な財産になっている。森林は森林保護地域と非保護地域に区分され、それぞれ住民による利用の仕方が異なる。また、土地の所有者、同一クランの者とそれ以外の者では落葉の利用権が異なる。<BR> 3. 農業:農耕は標高2400m以下(稲作は標高1700m以下)、牧畜(ヤク)は標高2000m以上で行われている。放牧地は樹木を人為的に毒で枯死させてつくられ、そこではバターやチーズが現金収入になっている。<BR> 4. 住民の定着と農耕の起源:同じアルナチャル・プラデシュ州のジロ地域では、各所の露頭でみられる埋没腐植層の<SUP>14</SUP>Cの年代から、2000年前頃には人が定着し、500年前頃には焼畑が盛んであったことが推測される。ディラン・ゾーン地域の水田下から発見された埋没木の年代は、<SUP>14</SUP>C濃度から1957年-1961年のものと推測されるが、今後さらに埋没木や埋没腐植層を探し、タワン-ディラン・ゾーン地域で農地が拡大した時代を明らかにしていきたい。
著者
岩船 昌起 瀬戸 真之 田村 俊和
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100011, 2016 (Released:2016-04-08)

【はじめに】本稿では,高台への津波からの「立ち退き避難」に係る実歩走行実験と,被災者からの実際の避難行動の聞き取り調査を報告し,避難路の移動環境と避難者の体力との関係等を総合的に考察する。【避難行動にかかわる実走行実験】山田町各地区での「避難のしやすさ」を検証するために,海や川に近い「逃げ難い場所」を避難開始地点,実際に避難した場所等を避難完了地点として歩走行での移動実験を2015年12月30・31日に実施した。被験者は,年齢48歳,身長170㎝,体重66㎏の健常な男性である。ランニング中心の中高強度トレーニングを週5日以上1日約1.5時間実施しており,自転車エルゴメーターでの運動負荷検査で心拍数から推定した最大酸素摂取量が60ml/kg/min程度である。「健常な高齢者の体力」を再現するために,スポーツ心拍計(Polar S710i)で心拍数を1分間約100拍に抑えて歩走行し,「避難場所等」と「浸水域の境界の高さ(浸水高)」までの所要時間等を計測した。  その結果,⑯小谷鳥「ミッサギ」を除いて他の16区間全てで10分より短い時間で「浸水高」に達し,かつ「避難場所等」に到着可能なことが確認できた(表)。2011年3月11日には14:46の地震発生から約30分後の15:15以降で山田町各地区に津波の押し波が到達した事実にも基づくと,発災時に海沿いの「避難し難い場所」に居ても,地震が収まってから直ちに出発して適切な避難場所等に向かえば,「歩ける」高齢者を主体として考えれば,時間的体力的に余裕を持って「津波浸水域」外に脱出できる「避難環境」であることが分かった。【避難行動の聞き取り調査】発災当日の避難行動について,2014年10月~2015年11月に地区ごと数名に1人当たり1~2時間の聞き取り調査を行い,山田町全体で39事例54人(40~80歳代)の結果を得た。行動空間については「住宅地図レベル」で訪問場所や移動経路を逐一確認して,その場での時刻に係る情報をできる限り収集した。 1つの事例の「一部」を紹介する。  …(前略)…一方,妻IKさん(当時73歳)は,FI宅前(地点⑤)で地震を感じた。自宅(①)を自転車で出てしばらく走行した直後であり,地震の揺れで転んだのか,自転車を降りたか分からないが,「ひっくり返った」状態で我に返ったという。そこから立ち上がり,自転車を引いて約220mの道のりを経て自宅に戻った。その間「ずっと揺れていた」という。自宅(①)に戻ると,休日に車で出かける直前だった娘IM(当時46歳)が居た。そして「津波が来っから逃げびす!」と言われ,「1週間前に起ぎた地震で準備していだリュックサック」と毛布を車に積んで,「家に戻ってから5分くらい」で出て,「大沢林道」の駐車場(⑥)に車でたどり着いた。…(後略)… 年齢や性別等から話者の体力を推定し,このような聞き取り結果で分かった避難経路の道のりや傾斜も考慮して歩走行速度等を区間ごとに算出し,経過時間ごとの「滞在・移動」場所を検証した。また,避難行動は,本稿執筆時点で取りまとめ中であるが, A「浸水の恐れがある自宅等からできる限り早く立ち退く」,B「自宅等に長く残り,浸水の直前に避難行動に移る」,C「『津波がここまで来ない』と考えて自宅等に残る」,D「『津波で浸水する恐れがない場所』で地震に遭っても『浸水する恐れがある場所』にわざわざ降りる」,E「『津波で浸水する恐れがない場所』で地震に遭ってそのまま安全な場所に滞在または移動する」等に類型化できる。特に浸水域に残る/向かう理由として,「人間的な事情」に起因して (1)高齢者や乳幼児等の肉親の安否確認・救出,(2)貴重品等の確保,(3)店や自宅の戸締り,(4)船の沖出し,(5)海を見に行く等が挙げられる。【総合考察の一例】表の⑫船越「家族旅行村」は,「健常な高齢者」が避難する際には,「浸水高/秒」0.090で,時間的に効率よく「高さ」を得られる避難路であるが,道のり約500m高低差約40mの傾斜路(平均傾斜約4.57°)で,車イス移動では屋外基準1/15(傾斜約3.81°)を超える「移動できない道」と判断できる。この避難路の途中には,震災当日に約9mの津波で利用者74人と職員14人が死者・行方不明となった介護老人保健施設SKがあった。震災以前の想定ではSKは「予想される津波浸水域のギリギリ範囲外」にあり,有事にはスロープを通過して標高約7mの避難場所に移動する避難マニュアルが準備されていた。 シンポジウムでは,このような避難路の移動環境と避難者の体力との関係や「人間的な事情」も加えて避難行動を総合的に考察したい。
著者
曽我 とも子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100028, 2011 (Released:2011-11-22)

厳島神社は広島県廿日市市宮島町の海上に造営された珍しい神社である。厳島神社には、厳島の中心となる神の山と崇められてきた弥山を源流とする御手洗川と白糸川の両河川が流れ込んでいる。厳島神社本殿の裏の森である後苑は、祭神が紅葉谷(御手洗川)を通路とし、弥山から本殿へ出現するという信仰に裏付けられ、神聖な場所として人の出入りを禁じ、不明門は神の通る門であって絶対に開いてはならないとされている。 厳島神社において、最も盛大な祭りのひとつが、旧暦6月17日の夕刻から深夜にかけて船上にて管絃を奏する管絃祭である。この日の日没後、北斗七星は厳島神社本殿の前方(西北)に、南斗六星は社殿後方(南東)にくる。西北は八卦の乾(☰)にあたり乾は陽の気の集まった最も純粋な「陽」である。ゆえに西北は万物を生み出す光の元でもある天を象徴する方角とされる。さらに旧暦6月は、北斗七星の柄(剣先)は十二支の未を指している。未とは万物が実り豊かに滋味をもたらすさまをいい、易(後天八卦)では坤(☷)であり、坤は純陰で地を表す。この日、弥山の祖神は紅葉谷を通り不明門から厳島神社本殿へと入る。では、その時に管絃を伴うのはなぜか。 厳島の管絃は、雅楽と呼ばれる伝統的な古典音楽で、舞を伴わない合奏である。『史記』「楽書」には、楽の和は天地間の和の気を受けたものであり、和を合する作用があるため万物が生まれ、節序があるため四季における陰陽の気が1年12ヶ月の順序を決める。楽は天の道理によって作られ、陰と陽の和合は、五行を順当におこない季節をなめらかにすることで五穀豊穣となすとしている。 管絃祭のすべての神事の終る23時頃には、社殿背後(南東)から十七夜月が顔を見せる。満月に合わせた管絃祭が十五夜(15日)でなく十七夜(17日)としたのは、北斗七星にちなんだものと思われる。北斗七星は、農耕の基準である季節を指し示し、海上生活の方角見にとっても重要視されていた。 旧暦6月17日の夜は、山の神(陽)と水の神(陰)が出合い、天(陽)と地(陰)が楽(管絃)によって和合する日であり、厳島管絃祭は、五穀豊穣と航海安全を願う祭りと考える。
著者
田中 誠也 磯田 弦 桐村 喬
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

近年,新たな観光資源としてアニメ作品の背景として利用された地点をめぐる「アニメ聖地巡礼」が注目を集め,ファンに呼応する形で地域も様々な施策を行っている.本報告では,SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の1つであるツイッターの位置情報付きの投稿データを用いて,アニメ聖地と認められている地域内で巡礼者がどのような地点を訪れているのかを,時系列に見ていくことで地域の施策の動きと聖地巡礼者の動きの関係性を分析していく.
著者
藤永 豪
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.201, 2005

1.中国の経済成長と農山村 周知のように、現在、中国は急速な経済発展を続けている。1990年代半ば以降は、さすがに経済成長率が10%を下回ったものの、その後も毎年7_から_9%を維持している。今後も2008年の北京オリンピックおよび2010年の上海万博に向けて,中国国内の需要拡大はほぼ確実であり、2005年も、8.4_から_8.5%の経済成長を予測している。これは、故!)小平中国共産党総書記の指導のもと、1978年より始められた改革開放政策の結果である。この改革はもともとは貧困に喘ぎ、経済発展から立ち遅れていた農村部から始められた。1979年には「農業の発展を加速する若干の問題についての決定」が可決され、さらに1980年代に入ると、国から請け負った以上の農業生産物は、原則として自由に売買でき、各戸で利益を上げることが許される、いわゆる「生産責任制(生産請負制)」が確立された。そして、「先に豊かになれるものから豊かになれ」という「先富論」のもとに、沿岸地域と内陸地域の経済格差の問題が顕著化しながらも、北京や上海などの大都市近郊の農村では、「万元戸」や「億元郷」が出現するに至った。2.北京市郊外における農山村の経済成長 このような経済情勢のもと、首都である北京市郊外の農山村も急速な経済成長を遂げた。とりわけ、前述した3年後の北京オリンピックを視野に入れ、急ピッチで開発が進んでいる。中心城区(西城区、東城区、宣武区、崇文区)に接する海淀区や朝陽区、石景山区、豊台区では大規模な宅地開発が行われ、農村は中高層マンションへと姿を変えている。また、北京市郊外を走る「五環路」沿線の農村は、環境政策の方針から、政府によって取り壊され、植林が進んでいる。 一方、さらに郊外に位置する門頭溝区や昌平区、順義区、通州区、大興区、房山区等では道路網が整備され、北京中心部へのアクセシビリティが向上したこともあり、土木・建設・製鉄業などの都市開発と直結した郷鎮企業が次々と設立された。それらの中には、近年の土地に関する法規制の緩和もあって、不動産業にまで手を広げ、住宅団地の建設・販売まで行う企業も出現している。このほか、観光開発が進む農山村もある。伝統的な景観を保全し、北京市やその周辺地域をはじめとする中国国内だけでなく、海外からの観光客をも積極的に呼び込んでいる。3.北京市郊外の農山村景観の変容 以上のような経済発展の中で、北京市郊外の農山村はその景観を大きく変容させている。マンションへと姿を変えた村、観光開発のために景観保護が施される村、政策によって移転・廃村が決定・実行された村、郷鎮企業の成功によって集落全体が近代的な住宅群へと変化した村など様々な景観が広がる。 本発表では、統計資料等には限界・不足する点があるが、これらの農山村の景観変化に関するいくつかの事例について、写真等を用いながら紹介し、景観から見えてくる中国農山村の現状について、若干の報告をしたいと考える。[付記] 本報告は、神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」における若手研究者の海外提携研究機関派遣事業の一部である。
著者
磯野 巧
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本研究の目的は,オーストラリア・カナウィンカ地域において広域的に展開してきたジオパーク運動に地方自治体(LG)がどのように対応してきたのかを,観光地域としての特性を踏まえながら解明することである。カナウィンカ地域はオーストラリア大陸南東域のサウスオーストラリア州およびビクトリア州境に位置し,サウスオーストラリア州の3つのLG(マウントガンビア,グラント,ウォトルレンジ),ビクトリア州の4つのLG(グレネルグ,サザングランピアンズ,モイン,コランガマイト)が該当する。<br><br>オーストラリアでは,国内の地学協会や連邦政府によってジオサイトが大地の遺産として保全・評価の対象となっており,ジオツーリズムやジオパーク運動を実施するための基盤が早期より構築されてきた。2000年代になると,オーストラリア国内でジオパーク・プロジェクトが始動し,大陸南東域に位置するカナウィンカ地域に注目が集まった。カナウィンカ地域では火山景観を活かしたローカルスケールの観光振興が取り組まれており,1990年代以降,その取り組みは地域間連携によって広域的に展開するようになった。広域的観光振興の計画立案から着手までの経緯がスムーズであった背景には,全LGが観光地域としての条件不利性を共通の課題として認識していたことが指摘できる。2000年代には,カナウィンカ地域におけるジオパークの推進が正式に決定し,2008年に世界ジオパークネットワーク(GGN)に加盟するも,2013年の再審査時に連邦政府の判断によってGGNからの脱退が決定し,国内版ジオパークとして再編された。<br><br>カナウィンカ地域にはライムストーンコースト,グランピアンズ,グレートオーシャンロードの3つの観光地域に含まれる7つのLGから構成されており,これらのLGは各々の観光地域の特性を意識した観光戦略を策定してきた。こうした状況下においても,全LGはボランティア組織による広域的観光振興計画に理解を示し,ジオパーク運動に対する財政支援を行ってきた。しかし,ジオパーク運動の推進から十数年が経過し,カナウィンカ地域がGGN加盟から国内版ジオパークとして再編される過程の中で,ジオパーク運動に対するLGの対応に変化がみられるようになった。<br><br>カナウィンカ地域最大のLGであるマウントガンビアは,広域的観光振興の時代から積極的に活動に参与してきた。マウントガンビアには域内最大の観光資源のひとつであるBlue Lakeが存在し,ジオパーク運動の推進はマウントガンビアの観光振興に直結するため,国内版ジオパーク再編期以降もジオパーク運動に対する理解は深い。サザングランピアンズはグランピアンズに包含されるLGのひとつであるが,グランピアンズ国立公園への訪問に際しては,観光関連施設や都市機能が充実する北部域がそのゲートウェイとしての優位性を有しており,サザングランピアンズはグランピアンズ国立公園とは別の独自性のある観光戦略を策定する必要があった。そこで注目されたのがジオパーク運動であり,サザングランピアンズでは次席的な位置付けとしてジオパーク運動を観光戦略に組み込んでいる。サザングランピアンズはカナウィンカ地域において最大規模のインタープリテーション機能をもつ火山博物館を有しており,それを活用した周遊型観光地域の創出にも積極的な姿勢を見せている。一方で,グレートオーシャンロードの一部であるコランガマイトは,GGN時代まではジオパーク運動に対して積極的な姿勢であったものの,国内版ジオパークへの再編以降,LGによる支援は行っていない。その理由として,LGの逼迫した財政状況を受け,より経済効果の見込めるグレートオーシャンロードへと観光戦略を一本化したことが挙げられる。<br><br> 以上より,ジオパークに対するLGの対応は一定の地域差が認められ,それにはカナウィンカ地域がもつ「ジオパークとしてのステータス」が大きな影響を与えていると看取できる。
著者
坪本 裕之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>2020年4月7日に,新型コロナウイルス感染症(Covid-19)の感染拡大防止を目的とした緊急事態宣言が政府より発せられ,全事業者への通勤者7割削減が要請された.多くの企業ではオフィスへの出勤制限とともに在宅勤務に切り替えられた.しかし5月の宣言解除以降,7割を超える企業が出社を前提とする体制に戻った.さらに再度の全国的な感染拡大を受けて,7月には再び出社抑制および時差出勤の推進が企業に対して要請された.今回のコロナ禍の特異性として,強制的な在宅勤務要請の期間の長さとともに,感染収束やワクチン開発の時期が想定できず,先行きに対する不透明さがある.東京のオフィスを取り巻く状況は非常に流動的である.</p><p></p><p> 2020年6月に企業のオフィスファシリティ担当者に対して,緊急事態宣言前後における働く場所についてのwebアンケート調査を行った.自社オフィスを中心として,自宅やサテライトオフィス,カフェなど働く場所の複数の選択肢があった宣言前に対して,宣言以降は感染防止のため,在宅勤務と時差出勤を含めたオフィス勤務に制約されている.</p><p></p><p> コスト削減を目的として,オフィス内でのモバイルワークを前提とするフリーアドレスの導入を検討している企業が増加し,加えて数年後には「ジョブ型」人事制度に切り替える企業事例が報道されている.しかし,このような就労環境を構築できるのは,ファシリティとICT,人事制度に精通した人材の存在と推進体制を組むことのできる企業である.加えて,成果主義を前提とした人事制度の策定にも,施策を進める時間が必要だ.</p><p></p><p> 対面接触によるコミュニケーションの強い制約も今回のコロナ禍の大きな特徴だ.多くの企業における現状の取り組みは,コミュニケーションの維持と出社比率のコントロールの間にあり手一杯の状況だ.在宅勤務が長い期間継続すれば,単純なオフィスワークの場としての意義を包含するオフィスを,対面接触の場に絞り再定義する可能性があり,住環境を補完するシェアオフィスも広域的に展開すると予測できるが,そもそも対面コミュニケーションの制約のもとでは,オフィスの意義やそれに伴う立地の変化が起こるとは考えにくい.</p>
著者
山本 遼平 奈良間 千之 福井 幸太郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100275, 2016 (Released:2016-04-08)

北アルプスの北部に位置する立山連峰は日本で唯一の氷河が存在する地域であるが,氷河の年間質量収支や形態,環境条件などは明らかにされておらず,例えば北アルプスの局所的に氷河が維持されている要因なども不明である.そこで本研究では,立山連峰における氷河の年間質量収支および,局所的に氷河と越年性雪渓が発達する環境条件を明らかにすることを目的として,現地調査や解析をおこなった.以下に研究方法と結果を示す. 1),立山三山に存在する御前沢氷河に対し,融雪期末期の氷河上および氷河周辺の位置情報を高精度GNSS測量により取得した.また,冠雪の2日前の2015年10月9日に北アルプス北部で小型セスナ機からの空撮を実施した.現地調査により得たGNSS測量データと空撮画像からSfMで氷河表面の25cm解像度のDEMを作成した.作成したDEMから算出した融雪期末期の御前沢氷河の平均表面高度は2637.7m,末端高度は2502.0mであり,面積は0.112km2であった.また,作成したDEMの精度検証のために現地のキネマティックGNSS測量データと比較をした結果,氷河全体の平均鉛直誤差が0.55mであった. 2),衛星画像と国土地理院の解像度10mDEMを用いて,北アルプス全域において主稜線から一定の距離にある点を流出点とする集水域を作成し,雪の涵養・消耗に関連する地形的要素を集水域ごとに比較した.解析の結果,北アルプスに現存する氷河はその周辺の谷地形よりも涵養に関わる要素の値が大きい結果が得られた.
著者
三上 岳彦 長谷川 直子 平野 淳平 Batten Bruce
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>弘前藩御国日記には、江戸時代の弘前における毎日の天候が記載されている。そこで、11月〜4月の冬春季における降水日数と降雪日数から、毎年の降雪率(降雪日数/降水日数)を求めて、1705年〜1860年の長期変動を明らかにした。同じく、弘前藩日記に記載された十三湖の結氷日と解氷日から結氷期間(日数)を求めて、その長期変動特性を明らかにした。次に、冬春季における弘前の降雪率と平均気温との関係を考察するために、観測データ(AMeDAS弘前)の得られる最近数十年間について、毎年の降雪率と冬春季の平均気温との関係を分析した。</p><p>1705年〜1860年の156年間における十三湖の結氷期間と弘前の降雪率の変動傾向は、年々変動、長期傾向(11年移動平均)ともに類似している。すなわち、十三湖の結氷期間が長い年や年代は寒冷で、降雪率が高く、結氷期間が短い年や年代は温暖で、降雪率が低い。長期トレンドで見ると、十三湖の結氷期間は100日間前後で一方向の変化は見られないが、弘前の降雪率は18世紀前半から19世紀前半にかけてやや減少傾向にある。1740年代と1820年代に、結氷期間と降雪率がともに低下した時期があり、一時的な温暖期と考えられる。とくに、1810年代から1820年代にかけての降雪率の顕著な低下については、従来の研究では指摘されたことがないので、さらに分析を進めたい。</p><p>観測データ(AMeDAS弘前)の得られる1983年〜2020年の38年間について、毎年の降雪率(11月〜4月)と平均気温(12月〜3月)の関係から、両者の間に負の有意な相関があることがわかった。これにより、十三湖の結氷期間や降雪率から、弘前の冬春季の平均気温変動を復元することが可能となろう。</p>
著者
松村 嘉久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.72, 2008

<BR>1.はじめに<BR> 寧夏回族自治区の区都・銀川市で比較優位性の高い観光資源は,西夏王陵と中国映画の代表作『紅高粱』のロケ地となった寧夏鎮北堡西部影視城くらいしかなく,国際観光客は極めて少なく国内観光客も多くない。清真寺(モスク)が点在する銀川市旧市街地の空間も,イスラムの文法よりもむしろ漢族の文法で編成されていて,ウルムチやラサと比較するとエスニックな魅力は乏しい。回族文化を展示する中華回族文化園(2006年10月開業)といった新たな観光空間も創造されているが,イスラム教やイスラム文化を可視化しスペクタクル化するのは難しく,民族問題に発展しかねない危険性もはらんでいる。<BR> このような観光事情のもと,銀川市への来訪者は観光という文脈よりも,ビジネス・コンベンション・求職目的など,区都としての機能に由来する区内や近隣地域からのものが多数を占める。そのため,観光業の盛んな地方の中心都市と比較するならば,宿泊施設の規模や機能も多様である。本発表では,銀川市の旧市街地で実施した270軒余りの宿泊施設の現地調査の結果を踏まえ,都市計画や都市構造などとの関連にも言及しつつ,宿泊施設の類型・機能・分布特性などを考察したい。<BR><BR>2.銀川市旧市街地における宿泊施設の類型について<BR> 中国における宿泊施設の呼称は,賓館・飯店・旅館・旅店・旅社・招待所・客桟・度假村など多彩であり,施設の名称と内実は必ずしも一致しない。日本には「旅館業法」を基本法として,高級ホテルから簡易宿所まで,宿泊施設の構造設備を細かく定める法体系が存在するが,中国ではまだ整備されていない。<BR> 中国の場合は80年代から国際観光振興と連動して,「旅游(観光)旅館」と「渉外(国際観光客用)飯店」に限定して,規模・設備・サービス内容から等級付けが進む。その一方で,国内客向けの旅社・招待所の類を規制する法律は見当たらない。90年代半ば以降の国内旅行需要の急増と不動産開発バブルのもと,銀川市旧市街地でも高級ホテルから劣悪なものまで,様々なタイプの宿泊施設が急増していく。<BR> 本発表では銀川市旧市街地に立地する宿泊施設を,規模・等級・標準客室宿泊料金・経営主体・開業年次・外観などの基準から,いくつかの類型に分けることを試み,その類型に対応して機能や分布特性を分析している。<BR><BR>3.銀川市旧市街地における宿泊施設の機能と分布特性<BR> 銀川市旧市街地の宿泊施設の機能と分布特性は,おおよそ以下のようにまとめられる。<BR> 1)旧市街地北側の広幅員の都市計画道路(北京路・上海路)沿いに立地する大規模な高級ホテルは,1996年の都市計画と関連して,企業・投資集団が経営主体となって90年代半ば以降に建設されたものが多い。主な顧客層は国際観光客と国内富裕層の観光・ビジネス客である。<BR> 2)旧市街地の繁華街や交差点角に立地する二星・三星クラスの中規模ホテルは,80年代半ばから90年代半ばにかけて建設され,一部では老朽化が進む。地方政府や政府系部門が経営するところも少なくない。主な顧客層は国内の観光・ビジネス客で,コンベンションもよく開催される。<BR> 3)小規模な旅社や招待所の類は,都市域と農村域がせめぎあう市街地周辺部や市街地内のインナーシティに立地し,ほとんどが個人経営である。部屋を時間貸しするところ,売買春の温床となっているところも散見される。利用客は国内の観光・ビジネス客,乗り換え・求職などで一時的に滞在する者が主流である。立地条件や機能などから,バス停近接型・城中村型・寄せ場型・インナーシティ型などに分けられる。<BR><BR>4.おわりに<BR> 結節性の高い宿泊施設の機能と分布特性の考察が,都市の構造やダイナミズムを解明するうえで重要であることは言うまでもない。本発表では観光客向けの宿泊施設のみならず,一時滞在者を主な顧客とする小規模なものまで分析対象に含めた。そのなかで,例えば,地方の中心都市で,寄せ場と宿泊施設がセットで形成されているという知見が得られたことなどは貴重であろう。<BR> 中国でも近年,「宿泊」という概念では捉えきれない夜を過ごす様々な都市空間が急速に増殖しつつある。今後はこれらも視野に入れて分析することが課題となろう。<BR>
著者
小田 匡保
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.63, 2005

_I_.はじめに 発表者の所属する駒澤大学文学部地理学科では、2004年度に学科創立75周年を迎え、2005年2月に記念式典や記念誌の発行を行なった。本発表は、この経験をもとに、地理学科の歴史を記念することについて若干の考察を試みるものである。 「記念」や「記憶」については、近年、地理学でも議論が行なわれている。その場合、記念物や特定の場所など具体的な景観が議論の対象とされることが多いが、本発表はそれらとは文脈を異にする(実際のところ、記念の施設を作ってはいない)。 日本の地理学界では、学会組織の創立何周年、あるいは教員の退職に際して記念事業がしばしば見られるが、これらと並んで地理学教室の創立何周年というタイプがある。このような記念行事も、地理学界の出来事である以上、地理学の研究対象となしえよう。本発表では、地理学科創立記念事業を、地理学科の結束を固めるのに貢献したとか、記念誌の発行によって「歴史」を作ったというような結論には持っていかず、記念事業遂行の実際的な面から考察してみたい。_II_.駒澤大学地理学科の歴史 駒澤大学地理学科の淵源は、1929年(昭和4)、駒澤大学専門部に歴史地理科が設置されたことにさかのぼる。1949年には、新制駒澤大学文学部に地理歴史学科地理学専攻・歴史学専攻が設置され、1967年、地理歴史学科は地理学科と歴史学科に分離した。2001年には、地理学科に地域文化研究専攻と地域環境研究専攻を設けている。なお、1966年には、大学院地理学専攻(修士課程・博士課程)も設置されている。_III_.創立75周年記念事業の内容と経緯 地理学科創立75周年記念事業の内容は、記念誌の発行と、記念式典・記念講演会、祝賀懇親会である。記念誌は、「地理学科75年の歩み」、「地理学科の記録」、「地理学科に関する資料」、「思い出の記」の4章から成り、付録として写真集や卒論題目などを収めたCD-ROMを付けている。 2002年に地理学科75周年記念事業委員会を設置し、まず、記念誌に掲載する「思い出の記」の原稿を2003年12月締切で募集した。2004年5月には記念事業の大要を公表し、記念式典・懇親会参加、記念誌購入の受付を開始した(7月締切)。記念式典は2005年2月19日駒澤大学で行なわれ、それに引き続いて中村和郎教授の記念講演会、また同日夕方に渋谷のホテルで祝賀懇親会を行なった。記念誌は、これに間に合うように刊行された。_IV_.若干の考察 資金面から考察すると、収入の約半分が参加費であり、残りの約半分が大学からの補助金である。一方、支出においては、半分近くが祝賀懇親会費で、次に多いのが記念誌発行費である。懇親会参加費・記念誌購入費だけでは不十分であり、大学からの補助金を得られたことが、この記念事業の遂行にとって大きな手助けとなっている。 次に、75周年記念事業に関わる人について考察すると、活動の中心となったのは地理学科専任教員(特に駒澤大学出身者)であり、一方、卒業生は記念式典・懇親会への参加、記念誌の購入、記念誌の原稿執筆という形で関与した。卒業生の参加者数を年代別に見ると、卒業者数の少ない1960年代卒業の参加者数が最も多い。時間的余裕の問題もあろうが、地理学科卒業後、教職など地理学に関わる職業に就いていることが、地理学科の記念事業への参加を促す一因となっているとも考えられる。
著者
佐竹 泰和
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.背景と目的</b><br>スマートフォンなどのモバイル通信機器が急速に普及するにつれて,公衆無線LANに注目が集まっている.公衆無線LANの特徴のひとつは,これまでインターネットを利用できなかった場所にも接続環境を整備できることである.ADSLや4Gなどのインターネット接続方法は,利用対象者をその契約者とするのが普通であるが,公衆無線LANの場合は,不特定多数の人に利用環境を提供できる.近年では,観光客の利便性向上や災害発生時の情報収集手段など,観光や防災の観点からさまざまな自治体で整備されている.その一方で,訪日外国人観光客の増加や2020年に控えた東京オリンピックを踏まえ,日本政府が訪日外国人観光客を成長戦略の一部としてとらえ,彼らに対する公衆無線LANの整備を進めようとする動きもみられる.<br>しかしながら,公衆無線LANを整備するか否かはその場所のオーナーの裁量に委ねられるため,必ずしも目的に沿って整備が進むとは限らない.そこで本研究では,公衆無線LANの整備地域の空間特性を明らかにする.<br><br><b>2.研究事例地域と研究方法</b><br> 本研究では,山梨県の事業である「やまなしFree Wi-Fi Project」をとりあげる.事業の背景には,2013年の富士山のUNESCO世界文化遺産に登録などによる訪日外国人客の増加がある.こうした状況を踏まえて,山梨県は訪日外国人向けにインターネット接続環境を提供することを目的とした全県規模の公衆無線LANの整備事業を進めた.2012年から進められたこの事業により,公衆無線LANの整備数は事業発足当初の230箇所から2015年8月には1,843箇所にまで増加した.<br> 公衆無線LANの分布を明らかにするために,山梨県およびNTT東日本が公表している公衆無線LANの設置場所をジオコーディングにより地図化した.また,訪日外国人観光客の需要動向を把握するために,山梨県へのヒアリングを行った.<br><br><b>3.結果および考察</b><br> 公衆無線LANの整備状況をみると,山梨県内でも比較的訪日外国人観光客の多い地域に集中しているが,利用場所はその中でも局所的である.山梨県の事業により整備された公衆無線LANを利用するにはIDとパスワードが必要であり,それらを印字したカードを県内11箇所(2014年7月時点)で配布している.2012年7月以降の2年間におけるカードの配布数のうち,最も配布数が多かったのは富士ビジターセンターで総配布数の80.9%を占める.次に配布数の多い施設は富士河口湖観光総合案内所であり,12.4%を占め,富士ビジターセンターと合わせると,公衆無線LANの利用者の9割が富士山麓周辺地域で公衆無線LANを利用していると予想できる.<br> 一方,県北部の八ヶ岳高原周辺地域では国内観光客を意識した公衆無線LAN整備を進めている.また,時系列的に公衆無線LANの設置場所をみると,訪日外国人観光客の大小にかかわらず,もともと公衆無線LANの設置が少なかった地域においても設置数の増加しており,面的な広がりが認められる.<br> このように,「やまなしFree Wi-Fiプロジェクト」は訪日外国人観光客を対象として進められた事業であったものの,訪日外国人観光客による需要は富士山麓周辺地域に限られた需要であり,その他の地域に整備された公衆無線LANは,訪日外国人客ではなく,国内客向けのサービスとなりつつある.<br> 公衆無線LANの利用において訪日外国人観光客と国内観光客が決定的に異なるのは,その他の手段でインターネットに容易にアクセスできるか否かである.その機会に乏しい前者においては,公衆無線LANを通じた情報発信など観光振興の面で効果があると予想できるが,後者においては必ずしも公衆無線LANが必要であるとはいえない.面的に広がった公衆無線LANを活用するためには,訪日外国人観光客だけでなく,国内観光客や地域住民の需要を想定した仕組みづくりが求められる.
著者
岩間 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.はじめに</b> <br>発表者は、日本における産業地域社会の形成と内部構造をまとめ、2009年に公刊した。企業城下町に特色を持つといわれる日本において明らかとなったことは、世界の一般性に通じるのであろうか。この解明には、最小限、世界の産業革命発祥地で近代工業の原点である、イギリスのマンチェスターとの比較研究が重要となる。マンチェスターの事例研究については、2016年日本地理学会春季学術大会(早稲田大学)において発表した。<u>本研究の目的は、マンチェスターと、同じ綿工業からスタートした尼崎、ならびに日本の主要な産業地域社会との比較研究より、工業の発展に伴う産業地域社会の形成と内部構造、内的要因、</u>内部構造の発達モデルと発達メカニズム<u>を明らかにする。</u> 1極型とは事業所の事務所を中心に生産、商業・サ-ビス、居住の3機能が1事業所1工場で構成されるものをさす。1核心型とは、日本においては1事業所当たり従業員が1900年代は2000名以上、1920年代からは4000名以上とした。マンチェスターは1760年代からと日本より120年早いため、一応、1000名以上とする。<br><b>2.産業地域社会の形成と内部構造</b> <br>マンチェスターと尼崎の工業地域の発達段階は、両地域とも、近代工業創設期から形成期、確立期、成熟期、後退期、再生・変革期の過程を歩んだ。工業地域社会の内部構造は、一極型から多極型の単一工業地域、一核心・多極型から二核心・多極型の複合工業地域、多核心・多極型の総合工業地域の発達段階を経た(表1)。これらは、日本で捉えた場合も同じ展開である(表2)。 産業地域社会の形成は、3段階を経る。第1に、産業革命時の未熟な段階にあっては、商業・金融資本などの支援を必要とするため、工業地域社会は既存産業地域社会に付随して成長した。工業地域社会は、各企業の1極型が単位となって事務所を中心に工場の生産機能、商業・サービス機能は金融・商業のある市街地に依存し、居住機能は旧市街地・工場周辺・郊外に展開した。日本の事例では、既存集落からでは岡谷、相生など、都市部では芝浦、尼崎、宇部、四日市、浜松などがこれに該当する 第2に、産業資本が確立すると、マンチェスターのトラフォード地区の工業団地に象徴されるように、新開地に独自の工業地域社会を形成した。そこには、一極型を基本とする単一、複合、総合工業地域を形成し、事務所を中心とする工場(群)の生産地域、その周辺に商業地域、外方に住宅地域からなる、同心円状の工業地域社会を展開した。この独自に工業地域社会が展開した形態は、日本では企業城下町、臨海コンビナートにおいて典型的である。即ち、新開地に工業が立地した八幡、室蘭、日立、豊田などの企業城下町、川崎、水島、君津などの臨海コンビナートが該当する。 第3に、工業地域社会の発展に伴って、商業・サービス機能地域に行政、商店街、関連産業などの関連地域社会が付帯し、工業を中心とした産業地域社会、工業都市の性格を強めた。 以上のように、発展した時代と3機能の混在状況は異なるが、マンチェスター、尼崎・日本の工業は、基本的に、同様な産業地域社会の形成メカニズムとその内部構造を展開して共通し、世界の一般性を有する。日本において企業城下町として特異に映ったのは、日本が導入した1880年代当時、マンチェスターは成熟期の段階に達していた。この120年のギャップに追い着くため、日本は官営、財閥、大企業の形態を優先させ、軽・重化学工業、3機能からなる工業地域社会の形態、工業地帯の造成にいたるまで精選して一気に導入を図ったことに起因する。これは、後発型の工業国に共通する傾向といえる。 &nbsp; <b><br>3.工業地域社会形成の内的要因</b> <br>工業地域社会形成の内的要因は経営者および管理・技術集団である。特に、工業においては機械を発明し、機械化を成功させ、管理・技術面を推進させた管理・技術集団の存在と役割が重要である。 以下、後発型で短期間に工業国となったが故に解明が容易であった日本の分析をもって、工業地域社会の発達モデル、発達メカニズムを示す。 <b>&nbsp;</b> <br><b>4.工業地域社会の内部構造発達モデル <br></b> 工業地域社会の中心に位置したのが事業所の事務所であった(図1)。表2に基づいて、日本における工業地域社会形成の内部構造発達モデルを作製した(図2)。 &nbsp; <br> <b>5.工業地域社会における内部構造の発達メカニズム<br> </b> 工業地域社会における内部構造の発達メカニズム(工業都市化)は、企業の生産機能拡大に伴う3機能の作用によって生じる「重層・分化のメカニズム」である。その結果、企業の事務所を中心に生産地域、商業地域、住宅地域の圏構造に分化した。 <b>&nbsp;</b> <br><br>参考文献 岩間英夫2009.『日本の産業地域社会形成』古今書院.&nbsp;
著者
水野 一晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><b>1</b><b>.京都大学自然地理研究会の発足とその目的</b></p><p></p><p> 京都大学に自然地理研究会が発足したのは2001年4月である。演者が1997年より京都大学の全学共通科目(一般教養)にて自然地理学の授業を担当すると、次第に、自然地理学を京大で学べる場を作って欲しいという要望を受けるようになってきた。当時、文学部と総合人間学部に地理学教室があったものの、教員がすべて人文地理学の教員であったため、とくに学部生が自然地理学を学べる場が一般教養以外になかった。その当時、演者は大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の教員であった。自然地理学はとくにフィールドワークを重要視しているため、野外実習を行う場を設けるために、自然地理研究会を発足させることにした。会員制ではなく、登録をすると毎回案内が送られ、参加したいときだけ参加するという緩い組織である。参加資格に制限はなく、他大学や一般社会人の参加もある。計画は7〜8人からなる世話人を中心として、すべて学生が行い、演者は相談にのったり、参加するだけである。</p><p></p><p><b>2. 自然地理研究会の活動</b></p><p></p><p>自然地理研究会は、毎年春から夏まではほぼ毎月、秋〜冬は数ヶ月に1回程度、野外実習を実施してきた。2001年4月から始めたので、今年で20年目になる。当初は自然地理学に関する実習を中心に行っていたが、しだいに、実習の場所が決まると、そこでの自然地理学と人文地理学の両面から実習を行うことが多くなってきた。</p><p></p><p>コロナ汚染の影響でしばらく活動を自粛していたが、2020年7月に、第144回 自然地理研究会「琵琶湖疎水の歴史と周辺の地形」の実習を行った。琵琶湖疎水取水口と三井寺にて、疎水の成り立ちや琵琶湖周辺の地形について、インクラインと南禅寺にて、京都市の近代化について、琵琶湖疎水記念館にて、疎水の歴史を、主に世話人からなる数人の案内者の解説とともに現場で観察しながら学んだ。</p><p></p><p><b>3. </b><b>自然地理研究会の活動例(2016〜2019年度)</b></p><p></p><p><b>2019</b><b>年度</b>:「愛宕山の歴史と自然」「下鴨・上賀茂神社の社叢林:植生観察と都市緑地としての役割」「賤ヶ岳・余呉湖周辺の自然と歴史」「京大周辺の自然観察:大文字山と東山連峰」</p><p></p><p><b>2018</b><b>年度</b>:「京都御苑での冬の野鳥観察」「中池見湿地に生育・生息する動植物」「保津峡の入口と出口における歴史的・地質的観点からの考察」「京大周辺の自然観察:比叡山の地形・植生」</p><p></p><p><b>2017</b><b>年度</b>:「晩冬の京都で観られる季節の野鳥と植物の観察:方法と実践」「奈良盆地の形成と里山の棚田景観-古代の都・明日香村探訪-」「桂川の地形の観察と巨椋池の歴史」「京都で観られる季節の野鳥と植物の観察:方法と実践」「京大周辺の自然観察:大文字山と東山連峰」</p><p></p><p><b>2016</b><b>年度</b>:「自然地理研究会第100回記念〜白浜巡検〜」「海にせりでた伊根の舟屋集落とその成立要因」「都市大阪・凸凹地形散歩」「西の湖一周でわかる内湖とヨシ原の環境」「京大周辺の自然観察:比叡山の地形・植生」「京都:身近な京都の自然・文化・歴史をみる、きく、あるく」</p><p></p><p>写真:第144回 自然地理研究会「琵琶湖疎水の歴史と周辺の地形」(2020年7月撮影)</p><p></p><p>研究会のURL: http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/cgi-bin/spg/wiki.cgi</p>
著者
フンク カロリン
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

観光者が様々な観光形態を求めることになり、「新しい観光」と言われる現象を生み出している。その中でアート・ツーリズムが今後の経済活動に重要な役割を果たすとされている創造的階層の旅行形態として(竹田・陳2012:78)、または地域住民の積極的な関わりを可能とする地域活性化手段として(Klien 2010: 519)期待されている。 現在日本で最もアート・ツーリズムの取り組みとして注目を浴びているのは香川県直島町とその周辺で開かれる瀬戸内国際芸術祭である。そこで本研究は直島におけるアート・ツーリズムに注目し、観光者と観光産業関係者の特徴と彼らが抱く直島に対する考えを調べる。また、訪れている観光者は、普段どの程度アートに関心を持っているのか、一般観光者層と異なるのか、アート・ツーリズムは観光産業にどのような効果をもたらしたのか明らかにする。 &nbsp; 2.研究対象と方法 直島町は1917年に三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)の精錬所を誘致し、鉱業の島として繁栄してきたが、銅市場の変化も影響し、精錬場の労働者数とともに直島の人口も1970年代から減少しはじめた。1970年から教育文化施設を島の中心部に集め、「文化ゾーン」を作り出した。1985年、当時の町長と当時の福武書店(現在ベネッセ・コーポレーション)社長の合意に基づいて、島の南部エリアを中心に総合的な観光開発が始まった。直島国際キャンプ場、ホテルと美術館を合体したベネッセハウス、本村地区で展開された家プロジェクト、地中美術館、犬島アートプロジェクトなど、アートを用いて25年をかけた文化・リゾートエリアが直島に誕生し、プロジェクトはその周辺の島にも広がった。その結果、島は現在、北部の産業エリア、中心部の生活・教育エリア、南部の文化・リゾートエリアに別れている。 現地調査は2012年11月24-25日に観光者、観光産業施設、住民という3つのグループを対象にアンケートを実施した。回答者数は観光者255人、観光産業施設40ヶ所、住民34人であったが、この報告では観光者と観光産業のみ取り上げる。 &nbsp; 3.調査結果 アンケート調査で把握した限り、直島を訪れる観光者は旅行全体や普段の生活でもアートに強い関心を持つ人、アートとともに自然を楽しむ人、訪れた相手とゆっくり島を歩き回りたい人など様々であり、性別や年齢層による差もみられる。したがって他の観光地とは全く異なる客層を引きつけているというよりは、客層が拡大し、多様化しているといえよう。 観光産業については地中美術館の開館とそれに伴う観光者数の増加が影響し、2004年以降に島外からの若い人々が移住し、観光産業、特に宿泊施設に取り組む傾向が強まった。しかし、観光者向けのサービス、特に外国人旅行者に対する情報提供などはまだ限られている。外国人の増加に対してもそれほど積極的ではない観光産業従事者が多く、国際観光地としての成長はこれからの課題である。施設管理、サービス、値段がともに高水準であるベネッセの施設に比べると、その他の観光産業は小規模で、個人的で、施設の水準があまり高くなく、そのギャップは大きい。また、彼等はアートに強い関心を持つ、または積極的にアートプロジェクトに関わるようなことがあまりなく、「アート」に対する思いよりも、「島」へのこだわりや、自立して事業を行いたい志向が強いようにみえる。観光産業の成長はアート・ツーリズムの魅力の効果というよりも、アート・ツーリズムを通じて観光地として成功した効果によるところが強いといえる。 Klien, S. (2010): Contemporary art and regional revitalisation: selected artworks in the Echigo-Tsumari Art Triennial 2000&ndash;6. Japan Forum 22/3-4, 513&ndash;543 竹田茂生,陳那森 (2012) :観光アートの現状と展望. 関西国際大学紀要, 13, 77-90
著者
宮内 久光
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>本研究では,座間味島を対象地域として,観光事業所,特にマリンレジャー事業所の経営形態や事業状況を調査し,それらの結果を1997年調査以降の島を取り巻く環境の変化や経営者の現状評価や経営方針などと関連付けながら検討することを目的とする。2015年9月現在,座間味村公式HPには,座間味島にあるマリンレジャー事業者として39店が掲載されていた。このうち,調査時に営業をしていた34店の事業者に対して,アンケート調査を実施した(2015年9月〜10月)。回収したアンケート調査票は32店(有効回答率94.1%)であった。アンケート調査は全体集計とその考察のほかに,事業所設立年代別や,提供するマリンレジャーの種類別に集計を行い,グループ間の比較を行った。</p><p> 1997年調査時に座間味島には21店のダイビングサービスが立地していた。2015年調査ではそのうち19店が存続しており,事業の持続性は高い。また、1997年調査では,全事業所がスキューバダイビングのガイドサービスをしていたが,その後に開設された事業所の中には,ダイビングのガイドサービスをしない店が5店ある。2000年代以降,座間味島のマリンレジャー産業は,それまでのダイビングガイドサービス一辺倒から,SUPやカヤックなど新しいマリンレジャーを取り込んで,提供サービスの多様化が進んできている,といえる。 </p><p> 2010年代は島の観光を取り巻く社会的条件に恵まれて観光客は増加している。しかし,マリンレジャー事業者の中には,スキューバダイビング以外のマリンレジャーを楽しむ層が増えただけ,と認識している人もいる。また,一般旅行客が増えたために,船舶や宿泊施設の予約が取りにくくなり,ダイビングのリピーター客の中には,行きたい時に中々チケットがとれない座間味島を敬遠する動きが出ている,と経営者たちはみている。</p><p> マリンレジャー経営者は日本人の若年層の個人客を顧客のターゲットとして捉えており,外国人や団体客を重視していない傾向がみられた。</p>
著者
今井 理雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.239, 2005

1.はじめに 交通網とそれを取り巻く諸環境の整備は,社会経済の円滑な遂行において必要不可欠である.近代交通機関が発達し,高度経済成長以降のモータリゼーションによって,自家用車の保有が一般化したが,一方,近年では公共交通機関の必要性も再認識されている. 公共交通の必要性が再認識されるなかで,とくに欧州の先進的システムが研究,紹介されているが,我が国の公共交通システムとは本質的な相違も指摘される.また政策的,制度的な背景もさることながら,交通事業者がもたらす営業施策の姿勢も根本的に異なる.我が国における公共交通システムが衰退した要因として,事業者個々のハード整備には積極的であった反面,相互の連携や,ソフト面の整備が重視されてこなかったことが大きいと思われる. とくに複数の交通モードが錯綜し,ネットワークが複雑に入り組む都市部においては,適切な交通システムの構築が重要である.複数の異種公共交通機関の連携は,広範な都市内を有機的に結びつける重要な方策であるが,我が国の大部分の都市では,このようなシステムの構築に視線が向けられることはほとんどなかった.そのなかで北海道札幌市では,戦後日本の都市が試みてこなかった公共交通の連携システムが模索された. 本研究では,我が国の都市公共交通システムにおいて,先進的な役割を果たしたと考えられる札幌市での公共交通ネットワーク形成の過程を対象とし,とくに地下鉄とバスとの連携について,定性的な分析を試みる.2.札幌市における公共交通の整備 北海道札幌市は,人口187万人を有する地方中枢都市のひとつである. 現在に続く公共交通は,1880年に開業した手宮・札幌間の鉄道が嚆矢である.もっとも,札幌市における都市公共交通の機能を拡大させてきたのは,札幌市交通局と民営バス事業者であった.とくに戦前から現在にかけて,市電,市営バス,地下鉄を一体的に運営してきた交通局の位置付けは大きい. 札幌市における公営交通事業は1927年,札幌電気軌道株式会社が運行していた路面電車事業を買収することにより開始された.次いで市営バス事業が1930年,3系統,総系統長14.744kmで開始されている.市電事業は1964年まで拡大され,総延長約25km,1日あたりの輸送人員は約28万人となった.しかし,同年をピークに市電の輸送人員は減少に転じ,市営バスが市電の輸送人員を上回った.1967年には札幌冬季オリンピックの開催を契機として地下鉄建設が決議され,1969年には地下鉄南北線の建設が開始された.これにともなって,地下鉄と重複する区間から市電が順次廃止されており,1971年10月から1974年5月にかけて,4度にわたり廃止・縮小された.また,札幌市における地下鉄の建設・開業にあたっては,市電を廃止するのみならず,市営バス路線の大幅な見直しを実施した.3.地下鉄開業にともなうネットワークの再編成 地下鉄開業以前,札幌市における基幹交通は市電であり,市電が利用できない地域の大部分においては,市営バスがその輸送を担っていた.しかし地下鉄を都市の基幹交通と位置付けるなかで,1971年の地下鉄南北線,北24条・真駒内間の開業にともない,都心から放射状にあった市営バス路線の大部分を,近接の地下鉄駅に短絡させる再編成を行なった.その後7回にわたり,地下鉄の開業にともなって,市営バス路線が再編成されている. これと同時に,地下鉄駅におけるバスターミナル整備と,地下鉄とバスとのあいだで,普通運賃の乗継運賃制度を開始させている.乗継運賃制度は全国初の試みであり,札幌市における軌道系交通とバス交通とのネットワークを形成・維持するうえで,根幹をなす施策であった思われる. また当初は,市営バスのみで再編成および乗継運賃制度が実施されたが,のちに民営バス事業者も対象に組み込まれた.とくに,1994年10月の東豊線福住延伸以降,地下鉄の開業地域周辺におけるバス事業者の主管エリアが,民営バス中心となってきており,これらの大幅な再編成が実施されるようになった.もっとも,これらのバス路線再編が完全に成功しているとはいい難く,わずかに残存した都心直通系統が混雑する傾向も見られる. このようなバス路線の再編成について,地下鉄などの軌道系交通の開業にともなって実施される例が,近年では多くの都市で見られるが,バスターミナルなどのハード面,また乗継運賃制度の導入といったソフト面の双方において,札幌市が先駆的に果たした役割は大きいと思われる.
著者
児玉 恵理
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<p><b>はじめに</b></p><p></p><p>和歌山県美浜町の煙樹ヶ浜松林は、江戸時代から地域の防災資源として重要な役割を果たしている。煙樹ヶ浜松林において、松くい虫の被害が多発し、松林が枯れるといった問題が発生した。そこで、防除作業を開始したが、和歌山県美浜町内で煙樹ヶ浜松林の管理をめぐり、齟齬が生じている。そこで、本研究の目的は、煙樹ヶ浜の歴史的変遷や松林の管理状況を解明し、煙樹ヶ浜松林の保全について考察することである。</p><p></p><p> </p><p></p><p><b> </b><b>煙樹ヶ浜松林の概要</b></p><p></p><p>和歌山県美浜町は、和歌山県中部に位置しており、煙樹ヶ浜松林といった近畿最大の松林を有している。煙樹ヶ浜松林の面積は78ha、延長は4.5km、最大林幅は500mである。2018年時点では、マツの木は50,000〜60,000本ある。</p><p></p><p> </p><p></p><p><b>煙樹ヶ浜松林に関する歴史的変遷</b></p><p></p><p>1619年に初代紀州藩主の徳川頼宜により山林保護政策が実施され、地域住民が多数のマツを植林していた。1873年に「御留山」が和歌山県知事より和田村・松原村へ移管され、煙樹ヶ浜松林の土地は官有、立木は村有となる。1906年に、煙樹ヶ浜松林は潮害防備保安林に指定され、マツの伐採が禁止されている。 </p><p></p><p>1946年に松くい虫の被害が発生し、1961年に第二室戸台風により、マツの木が約3,000本倒れ、その後枯れ木が増加した。1968年から松くい虫の被害対策として、年2回の地上散布が行われ、1974年になると、空中散布と地上散布が実施された。そして、1996年まで空中散布が実施されたが、美浜町の住民たちから空中散布を行うことに対して強い反発があったという。2018年時点では、地上散布を毎年3回実施し、地上散布の実施日を町内放送等で事前に美浜町の住民へ連絡している。他にも、樹幹注入や特別伐採駆除を行い、松くい虫の被害対策が講じられている。</p><p></p><p> </p><p></p><p><b>煙樹ヶ浜松林の管理状況</b></p><p></p><p>地域住民は、松葉をかつてかまどや風呂の焚き付け用に利用していた。1950年代にガスの利用が普及するにつれて、松葉が堆積したままとなり、煙樹ヶ浜松林の生態系に変化が起きるようになった。光が差し込み風通しの良い松林にすべきという地域住民の意見により、2000年以降、松葉かきを行政と一部の住民が連携し、実施している。 美浜町では、煙樹ヶ浜松林の松落ち葉を堆肥として活用し、農産物の栽培を開始している。その農産物の「松きゅうり」等は、美浜町の地域ブランドとされている。</p><p></p><p> </p><p></p><p><b>おわりに</b></p><p></p><p>江戸時代から継承されてきた煙樹ヶ浜松林は、健康保安林および潮害防備林である。松くい虫の被害の予防として、地上散布や樹幹注入があり、行政が主体となって松林の保全・管理を行っている。また、煙樹ヶ浜松林の保全活動として、毎年行政と先駆的な地域住民グループが松葉かきを実施している。煙樹ヶ浜松林の一部は、地域住民の交流の場となっており、次世代への文化継承や地域活性化につなげている。また、美浜町では、松葉堆肥を活用した環境保全型農業が行われており、煙樹ヶ浜松林の保全は新しい局面を迎えている。</p>
著者
川島 友李亜
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

【目的】<br>ソメイヨシノ(<i>Prunus yedoensis</i>)の開花日の変動は気温と密接な関係にあることが、これまで多数の研究で証明されている。また、近年の気候温暖化による春先の気温の変化に伴って、ソメイヨシノの開花時期はこの50年間に全国平均で5日早まっていることも報告されているが、今後さらに気温上昇が進行すると、サクラを初めとする果樹は自発休眠打破に必要な低温遭遇時間を不足し、発芽や開花の不揃い、生育異常現象が多発する可能性がある。本研究では高知市における気候の変化を明らかにするとともに、気候変動がサクラ(ソメイヨシノ)にどのような影響を及ぼしているかを明らかにする。特に、1961年以降の休眠時期及び開花時期の変化と気温上昇との関連性について調査し、地球温暖化との関連に着目して検討した。<br>【対象】<br>ソメイヨシノの開花日のデータは、全国の気象官署で生物季節観測として行われたもの、気象データはアメダスのデータを使用する。高知県では高知城公園(北緯33&deg;N、東経133&deg;W、海抜高度31m)のソメイヨシノが標本木とされており、開花宣言は標本木の花が5~6輪開いた状態の時に行われる。<br>【方法】<br>1886年から2013年までの高知市の気温変動について調査した上、開花日の経年変化、気温との開花日との相関関係の有無について検証した。<br>【結果】<br>高知市の気温は1980年と2012年を比較すると、夏季(8月)は+2.3℃、冬季(1月)は+0.5℃上昇していた。ソメイヨシノの開花日は1954年から2013年の期間において平均開花日は3月23日、最も早かったのは2010年で3月10日、最も遅かったのは1957年で4月2日であった。年度の推移に伴って1954年から2013年までの59年間で1年あたり、開花日はおよそ0.11日早まっていた。また、1989年までと1990年以降に分けて分析すると、前者は1年あたり0.067日、後者は1年あたり0.277日早まっていた。また、開花日と気温との関係性は3月の月平均気温と開花日の間に最も強い相関が見られた。<br>【考察】<br>高知市の気温上昇は1980年以降に顕著に表れ始めていることがわかった。また、開花日も同様に近年早期化が進んでいる。3月の月平均気温と開花日の間に最も強い相関が見られたことから、ソメイヨシノは開花する約1~2週間前の気温に最も影響を受けるということが予想される。