著者
辰夫 辰夫 研川 英征 吉田 一希
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<br><br>平成28年(2016)4月16日にM7.3の内陸直下型の熊本地震が発生し、地震断層・亀裂、液状化などの地表変状、多数の建物の倒壊が生じた。そこで、被害の集中した益城町市街地から熊本市にかけて地震直後の地形分類図の作成と共に、地震後の空中写真により液状化、亀裂などの地表の変状、建物被害の判読、これらの分布と地形との関係について調査を行った。
著者
淡野 寧彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><b>1.はじめに</b></p><p></p><p> 各地域に存在する中心商店街は,その衰退や今後のあり方について幅広い研究分野から関心がもたれ,かつ身近な地域を知る具体例として教材にもなりうる。報告者もまた,愛媛県松山市の大街道・銀天街商店街を対象として,愛媛大学生に手描き地図を作成してもらい,その特徴についてグループワークなどを通して学生自身に分析・発表させるといった授業を展開している。また,その手描き地図にみられる諸特徴について報告者自身も分析を行い,愛媛大学により近接する大街道商店街に立地する店舗等の記載が多いことや,買物だけでなく娯楽目的の来訪も多いこと,商店街のメインストリート部分がL字状に強調されることなどを示した(淡野,2015)。</p><p></p><p> こうした傾向は毎年継続してみられるものであったが,2019年10月の授業にて作成された手描き地図には,明らかな変化がみられた。すなわち,その作成時点で全国的なブームのなかにあり,数多くの店舗が出現したタピオカドリンク(以下,TD)店に関する記載の増加である。さらに,TD店周辺部に関する描写も,過去のものと比較して詳細になる傾向がみられた。</p><p></p><p> そこで本報告は,全国的なブームを背景としたTD店の相次ぐ立地が,特定地域に対する若年層の意識や行動にどのような影響をもたらしたのかについて考察することを目的とする。主な研究方法は,2018年と2019年の愛媛大学生による大街道・銀天街商店街に関する手描き地図の内容に関する比較と,2019年の受講学生についてはTDの消費に関するアンケート調査も別途実施した。</p><p></p><p><b>2.大街道・銀天街商店街におけるタピオカドリンク店の分布と</b><b>特徴</b></p><p></p><p> 分析対象とした9店のうち8店は,銀天街商店街東端の「L字地区」と通称される場所ないしその近辺に集中立地している。また,9店中7店は2019年の開業であり,ブームの影響を強く感じさせる。各店舗の開店時間は11〜20時頃である。店舗内に15席程度の喫茶スペースを設ける店舗が2店存在したが,商品購入後は店舗外でTDを飲むこととなる店舗のほうが多い。</p><p></p><p><b>3.大街道・銀天街商店街の描かれ方とその変化</b></p><p></p><p> 2019年の手描き地図において,地図中に記載されたTD店舗数の1人あたり平均と標準偏差は,男性(45人)が0.3±0.7店,女性(48人)が1.5±1.3店となり,t検定による1%有意水準においても女性による記述のほうが有意に多い結果となった。なお,手描き地図中に示されたTD店の場所は,実際の立地とおおむね合致していた。</p><p></p><p> 次に,2018年と2019年の手描き地図中に記された全業種の店舗数の平均と標準偏差をみると,大街道商店街では10.4±4.4店から11.4±6.2店に増加したものの有意な差異は認められなかったのに対して,銀天街商店街では5.3±4.6店から7.8±6.1店と有意な増加がみられ(検定方法は同上),TD店の立地が銀天街商店街への来訪や認知の向上に影響していることが推測された。</p><p></p><p> 一方で,2019年受講学生にTDの消費について尋ねたアンケート結果では,女性において消費機会が多いものの,月2・3回以上の消費は女性全体の3割弱にとどまり,分析対象とした店舗の利用割合も30%前後の店舗が多く,必ずしも頻繁にこうした店舗を訪れているわけではない様子もみられた。なお報告当日には,Instagramに投稿された写真からTDと当該地域の関係についての検討も示すこととしたい。</p><p></p><p><b>4.おわりに</b></p><p> TD店の新たな立地は,これまで若年層が訪れる機会の少なかった場所への訪問を促し,その近辺を含む場所への認知向上に結び付きうることが,分析を通じて明らかとなった。ところで今日,社会の変化はますます急速となり,これに対して学術研究がいかに寄与しうるのか,期待と同時に厳しい視線が送られている。本抄録作成時点で,TDと地域の関係性について論じた学術的な分析は管見の限りみられない。一方で,本報告で用いた分析手法は,地理学においてオーソドックスなものが主である。社会における関心が急速に高まる現象に注目し,客観的なデータの獲得を前提としつつも,なるべく速やかに研究分野からの視点やとらえ方を広く示すことに,報告者は学術研究の1つの将来性をみたいと考えている。</p>
著者
山本 健太
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.19, 2006 (Released:2006-05-18)

近年、文化産業ともいわれるコンテンツ産業への注目が集まっている。しかし、地理学の分野では1990年代後半以降Scott(2000)および半澤(2001)をはじめとした研究蓄積がみられるが、その立地特性や集積メカニズムの解明は十分なされていない。そこで、本研究では、わが国を代表するコンテンツ産業の一つであるアニメーション産業を取り上げ、アニメーション産業の大都市集積の要因と、集積メカニズムを検討する。調査方法は、アニメーション制作企業およびアニメーション産業フリーランサーを対象とするアンケート調査および聞き取り調査である。検討課題は企業間取引構造および労働市場構造である。 1.特徴:アニメーション産業は、1998年以降急速に需要が増大し、市場規模を拡大した。制作企業の立地は、国内の76%以上が東京都内に立地し、都内の立地についても、練馬区、杉並区、西東京市を中心とした特定地域に集積していることが特徴である。アニメーションの制作過程は大きく前制作工程、制作工程、後制作工程に区分でき、制作工程の一部では国際分業が進展している。これら工程を担う制作企業は、頻繁な離合集散により集積を形成してきた。企業規模に関しては、大部分が中小零細規模であり、担う工程による企業規模の違いは明確ではない。そこで、企業間取引構造の分析には、制作過程における位置から元請および工程受注を類型として用いる。またアニメーション産業従事者の中には正規従業員のほかにフリーランサーといわれる就業形態が存在する。フリーランサーは制作企業との間に仕事単位での雇用契約を結び、仕事に応じて複数企業から仕事を受注したり、制作企業間を渡り歩いたりする柔軟性の高い就業形態である。アニメーション産業従事者数において、このフリーランサーが正規従業員数の3倍以上の規模となり、労働市場として大きな影響を与えていると考えられる。そのため、労働市場構造については、正規従業員のほか、フリーランサーを分析の対象とした。 2.企業間取引構造:_丸1_元請制作企業におけるスポンサー企業への高い依存性と固定的取引が特徴的である。_丸2_業界内では流動的で短納期の取引が一般的である。_丸3_業界内取引では信用取引が特徴である。 3.労働市場構造:_丸1_新規労働力給源である専門学校の集中および業界内からの労働力の中途採用が一般的である。_丸2_フリーランサーは業界への高い依存性を示しながら、業界内では流動的な労働力となっている。_丸3_縦の人的ネットワークによる技術修得と横の人的ネットワークによる仕事の斡旋が特徴となっている。 以上より、アニメーション産業の東京における行為者は、1.アニメーション制作企業、2.フリーランサーに代表される労働力プールに加え、3.スポンサーである周辺コンテツン産業、4.新規労働力給源となる専門学校である。これら行為者内、行為者間におけるフローは相互に強化する形で東京への集中集積を促している。一方で、製品価格の安さから、労働者は低賃金労働を強いられている。加えて安価な労働力を指向した制作企業による中国および韓国制作企業への外注が増加し、国内労働者の就業は厳しさを増している。若年労働者における高い離職率は、業界内の縦の人的ネットワークによって技術修得がなされるアニメーション産業において、技術蓄積および労働力の再生産を困難にさせる危険性を孕んでいる。 文献Scott, A. J. 2000. The Cultural Economy of Cities. London: SAGE.半澤誠司 2001. 東京におけるアニメーション産業集積の構造と変容. 経済地理学年報47(4): 56-70.
著者
東城 文柄 市川 智生
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.63, 2013 (Released:2013-09-04)

本報告では、広大な淡水面とそれに付随する生態系を持つ琵琶湖において、1920-50年代の土地改変がどのような環境影響を持っていたかの考察を、土着マラリアの流行と終焉に関する歴史地理的分析を通して行う。日本の土着マラリアは、シナハマダラカ(Anopheles sinensis)によって媒介される三日熱マラリアであった。特に滋賀県での罹患者数が他地域と比較して多く、しかも1940年代末に発生が集中したために、戦後の医療・衛生改革の対象となった(彦根市 1952)。琵琶湖の東岸に位置する彦根市では、彦根城およびその周辺の城下町を取り囲む堀が媒介蚊の孵化地となり、県内でも特に濃厚なマラリアの汚染地域になっていたと言われている。一方統計データから判断すると、マラリアの流行はより広域的で、マクロな環境条件と結び付いた現象であった可能性があると言えた。 統計が示す1920年時点の湖岸地域における村毎のマラリア罹患者分布(1,000人対比)は空間的に不均一で、かつ1920年に作成された測量地図(縮尺5万分の1)からデジタイジングした当時の水田・浅水域(内湖)・泥田の分布と極めてよく一致していた。これら湖岸の内湖が、1940年代までに干拓によってほとんど消失すると、マラリア罹患者数と分布もこれに合わせて急速に収縮した。このように戦後彦根市で社会問題とされたマラリアの発生は、実際には戦前から広域で見られた流行の「残滓」と言える状況であった。歴史的な日本の土着マラリアの終焉に関しては、これまで戦後の彦根における医療・衛生対策の役割が強調されていたが、この分析結果からは1920-40年代の大規模な湖岸の環境改変の進展により、シナハマダラカの発生に適したタイプのエコトーンがマクロスケールで消失し、マラリアの終焉にまで影響を及ぼしたと推測できる。
著者
小野寺 淳 増子 和男 上杉 和央 野積 正吉 千葉 真由美 石井 智子 岩間 絹世 永山 未沙希
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100103, 2015 (Released:2015-10-05)

長久保赤水(1717-1801)は,安永8年(1779)に「改正日本輿地路程全図」 天明5年(1785)に「地球萬国山海輿地全図説」,に「大清広輿図」などを刊行した地図製作者である。長久保赤水が編集した地図は「赤水図」と呼ばれ,江戸時代中期における最もポピュラーな地図として版を重ねた。編集図は,様々な文献や地図をもとに編集して地図を作製したと想定されているが,いかなる文献,いかなる地図を参考にしたかなど,具体的な地図作製過程については不分明な点が多い。そこで,本科学研究費(基盤研究(C)「長久保赤水の地図作製過程に関する研究」代表者:小野寺淳)は,江戸時代中期の最も著名な地図製作者であった長久保赤水の地図作製過程を明らかにすることを目的としている。  このうち,本報告では,1年間の調査をもとに明らかになった点を公表する。赤水は常陸国赤浜村(現,高萩市赤浜)の庄屋に生まれ,1767年藩命により漂流者を引き取りに長崎へ赴く(『長崎行役日記』),翌年水戸藩郷士格,大日本史地理志の編纂に従事した。50歳代から地図製作に携わり,地図を刊行した。これらの地図作製には多くの文献を渉猟したと考えられ,本報告では中国図を対象に,漢籍などから明らかになった作製過程の一部を示す。  長久保赤水からの分家は6家あり,そのうち4家に史料が伝えられている。4家のうち1家の史料は古書店経由で現在,長久保赤水顕彰会と明治大学図書館に所蔵されており,前者には書き込みの見られる漢籍が176点ある。研究初年度の昨年は,すでに現存資料が明らかになっている1家を除く3家について土蔵などの悉皆調査を行った。なかでも長久保甫家では,赤水の手書きによる写図10点,ならびに書き込みの見られる漢籍50点,書簡や村方文書などが新たに見つかった。新出の村方文書は現在整理中である。既存の史料を合わせ,これらの分析が今後の課題となる。 漢籍に記された赤水の書き込みについて,赤水が作製した「大清廣輿図」および「唐土歴代州郡沿革地図」の中国図との関係の検討を始めたところである。ここでは各中国図の原本調査を通した見解を述べておきたい。「大清廣輿図」は,省ごとに板木を作成しており,省内でも板木を分けているため,全体で23の板木を使用していることが判明した。また,省ごとに紙継ぎをするため,料紙裏に「東北淅福建界」といった目印を板木で刷っており,これは16箇所見られた。「唐土歴代州郡沿革地図」では,長久保甫家所蔵資料内に中国図作製過程の「疑問」を書いた史料が見られる。このことから,漢籍からの情報を考証し,疑問を整理しながら地図作製を行っていたと考えられる。
著者
北島 晴美 太田 節子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.100141, 2011

1.はじめに<br>日本では,1966年に死亡数が最少の670,342人となった。その後,高齢化の進行とともに死亡数が増加 し,粗死亡率も1979年に最低値6.0(人口1000対)を記録したが,その後は上昇傾向にある。一方,年齢調整死亡率は,粗死亡率が上昇に転じた後も低下傾向にある。粗死亡率の上昇は,老年人口の増加,年少人口の減少により,人口構成が変化し,死亡数が増えたことに起因する。<br>今後,さらに高齢化が進行し,粗死亡率の上昇傾向も継続し,医療費や社会福祉など様々な分野での対応が急務とされる。本研究では,高齢者(65歳以上)の月別,年齢階級別,死因別の死亡について特徴を把握した。<br>2.研究方法<br>使用したデータは,2001~2009年人口動態統計年報(確定数),2010年人口動態統計月報(概数)(厚生労働省)である。<br>月別死亡率の季節変化,年次推移を把握するために,1日当り,人口10万人対の死亡率を算出し,月別日数,閏年の日数の違いによる影響を除去した。また,各年の月別死亡率は,推計人口(各年10月1日現在,日本人人口)(総務省統計局)を用いて算出した。<br>高齢者死亡率は,65歳以上と,65~74歳,75~84歳,85歳以上の年齢階級に分割したものを検討した。<br>3.月別死亡率の変化傾向<br>総死亡(全年齢階級,全死因)の月別死亡率は,2001~2010年において,いずれの月も変動しながら上昇傾向にあり,死亡率は冬季に高く夏季に低い(厚生労働省,2006,北島・太田,2011)。<br>高齢者の場合も,65~74歳(図1),75~84歳,85歳以上の年齢階級のいずれにおいても,月別死亡率は,冬季に高く夏季に低い傾向がある。<br>2001~2010年の10年間の月別死亡率年次推移は, 65~74歳(図1),75~84歳では,いずれの月の死亡率も,次第に低下する傾向が見られる。85歳以上の死亡率は,年による変動が大きい。<br>4.4大死因別死亡率の季節変化<br>2009年確定数による,65歳以上,各月,4大死因別死亡率は,悪性新生物には季節変化が見られないが,心疾患,脳血管疾患,肺炎の死亡率は,いずれも冬季に高く夏季に低い傾向がある。冬と夏の死亡率比(65歳以上,最高死亡率(1月)/最低死亡率(7月または8月))は,心疾患1.7,脳血管疾患1.4,肺炎1.6である。
著者
磯谷 有紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.60, 2007

<BR> 近年、八ツ場ダム建設に伴う集落移転事業が注目されているが、昭和初期に荒川中流域で行われた大規模な河川改修によって移転を余儀なくされた住民がいたことや、現在でも堤外地に集落が残されていることはあまり知られていない。これまでの荒川の堤外地に関する研究では、集落の立地環境などが明らかにされてきた(池末:1988)が、居住者の生活の実態や集落移転と河川改修の関係を詳細に考察した研究例は見当たらない。そこで、本研究では荒川中流域の堤外地集落を事例に、堤外地での生活および移転の時期と移転形態の関係を、荒川の洪水と河川改修工事を通して明らかにすると同時に、荒川の河川改修が堤外地集落に与えた影響と問題点を検討することを目的とする。本研究では、荒川中流域の羽根倉橋から大芦橋に至る区域の埼玉県川越市古谷上の握津地区、さいたま市の西遊馬地区・二ツ宮地区・塚本地区、吉見町の明秋地区、鴻巣市と吉見町にまたがる古名新田地区の計6集落を対象に、堤外地での生活と堤内地への移転の実態を比較・検討する。これらの集落は、下流に位置する東京を守るための横堤が建設された区域に立地しているという点で共通する。<BR> 堤外地での生活や洪水の実態を明らかにするために、各集落の居住者およびかつての集落居住者へインタビュー調査とアンケート調査を実施すると同時に、河川改修の詳細を知るために国土交通省荒川上流河川事務所へのインタビュー調査も行った。また、河川改修前の集落と住居の位置を復元するために、埼玉県立文書館において古地図(荒川筋平面図など)の調査も行った。1930(昭和5)年に開始された荒川上流改修工事によって、蛇行していた荒川の流路は直線化された。直接この工事区域となった世帯は、移転補償を受けて堤内地へ移転した。しかし、工事区域にはならなかったものの、遊水地となった堤外地に取り残される形となった集落が存在した。昔から水害の多い地域であったため、この堤外地集落の住民(多くは農家)は、水害防備としての屋敷森や水塚、避難用の舟などを備えてはいたものの、工事前までは洪水と共存して生活を営んでいた。しかし、改修工事やその後の上流域においてのダム建設などにより、以前よりも洪水の被害が増大するようになったことを理由に、自ら堤内地への移転を希望するようになった。しかし、国の移転補償が年間1戸程度しか認められなかったため、自費で移転する居住者もあり、この頃の移転形態は世帯の事情などによって違いが生じた。その後、1999年8月の洪水を契機に国の移転補償費が確保されたことから、一括移転が実現した集落(握津地区など)もあった。このことから、集落の移転形態は、移転時期により大きく異なるといえる。さらに、住居の移転とその補償に対する行政や住民の取り組み方によって、移転先が広範囲に分散することとなった集落と、同地区内へ集中する集落に分類できることが確認された。また、今後も堤内地への移転は希望せず、堤外地で農業を継続すると決めている住民がいることや、横堤の上に形成された集落があることは、注目すべき点である。<BR> 以上、本研究で明らかになった点は、以下のようにまとめられる。荒川の河川改修によって始まった堤外地に残された家屋の移転は、改修工事そのものによる移転と、工事の結果堤外地になり、洪水被害が増大したことに伴う移転との二つの要因がある。移転先は、同地区内への「集中移転」(明秋・西遊馬地区など)と、元の集落から離れた地区への「分散移転」(握津地区など)に、移転時期は、多くの住民が1~2年の短期間に移転した「一括移転」(明秋地区など)と、長期間にわたって徐々に移転が進んだ「段階的移転」(塚本地区など)に分類される。<BR> 遊水地としての堤外地となったことで、住民の生活は脅かされ、堤内地への移転、さらには集落の解体へと進んだ。下流の都市地域を守るための公共事業として推し進められた荒川の改修工事は、中・上流域に暮らす住民の犠牲の上に成り立っているといえる。
著者
原口 剛
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<p><b>1.はじめに—寄せ場研究からの問い</b></p><p></p><p> 地理学における寄せ場研究の先駆である丹羽弘一は、1990年代初頭に、寄せ場のジェンダー問題という困難な問いに取り組んだ(丹羽 1992, 1993)。すなわち、釜ヶ崎で起きた性差別事件や糾弾を受け止め、研究者のアイデンティティと立場性を問うたのである。その自己批判と学界制度への批判は、いまなお際立った重要性をもつ。他方で、丹羽の問いを継承しつつ乗り越えることは、現在の私たちの責務であろう。たとえば丹羽は、自らの内なる権威主義を振り払うべく、生身の人間として他者と「ぶつかりあう」よう訴える(丹羽 2002)。だがそれでも、私たちはフィールドの他者から研究者として視られるだろうし、その立場を隠すわけにはいかないだろう。とするなら、私たちがフィールドの他者に関わり、社会的現実と切り結ぶには、研究という活動によるしかない。</p><p></p><p>このような問題意識にもとづき本報告では、かつて丹羽が成したように、路上の運動の声や実践に応答しうる理論の視角を模索したい。具体的には、野宿者運動の状況と、地理学の理論的動向という2つの地平を取り上げる。それぞれの地平において、フェミニズムの視角はいっそう重要なものとなりつつある。かつ、フェミニズムからの問いは、90年代とは異なる射程を有している。</p><p></p><p></p><p></p><p><b>2.運動の状況—寄せ場から野宿者運動へ</b></p><p></p><p> 1990年代以降の寄せ場では、日雇労働者の大量失業がもたらされ、都市の公共空間に野宿生活が広がった。この現実に直面して、運動の姿勢は2つに分岐した。既存の労働運動は、野宿を非本来的な生活として捉え、そこからの脱却と労働市場への復帰を最優先課題とした。これに対し野宿者運動は、彼らの実存を肯定し、公共空間においてその労働・生活を守ろうとした。</p><p></p><p>後者の野宿者運動は、90年代末に現れた潮流である。この新たな運動は、既存の運動の枠を超えた実践を志向した。第1に、寄せ場の運動における労働者主体の把握は、あまりに狭く限定的だった。なぜなら、野宿生活者は下層労働市場からも排除されており、彼らが従事するのはアルミ缶集めなどの都市雑業である。第2に、公園などの占拠や反排除闘争は、最も重要な実践であった。ゆえにこの運動は、世界各地のスクウォット闘争を参照し、公共空間とはなにかを問うた。そして第3に、この潮流において、フェミニズムの声や実践は無視し得ないものとなった。その異議申し立ての声は、性差別の問題はもちろん、それを下支えする国家と資本主義への対抗へと向かっている。</p><p></p><p></p><p></p><p><b>3.理論の動向—マルクス主義とフェミニズム</b></p><p></p><p>路上の運動が変転を遂げているならば、理論も同じ場所にとどまるわけにはいかない。丹羽が議論を展開していた90年代においては、文マルクス主義とアイデンティティの政治は鋭く対立し、フェミニズムもまた後者の陣営に数えられていた。だが2000年代に入ると、マルクス主義とフェミニズム双方のなかで、重大な転換が生じたように思われる。</p><p></p><p>一方のマルクス主義地理学において、その代表的論者であるD・ハーヴェイ(2013)は、本源的蓄積の再読を通じて「略奪による蓄積」という概念を提起した。そしてこの概念にもとづきつつ、「労働の概念は、労働の工業的形態に結びつけられた狭い定義から……日常生活の生産と再生産に包含されるはるかに広い労働領域へとシフトしなければならない」と明言する(p. 239)。このように再生産領域を重視することでハーヴェイは、潜在的にであれ、フェミニズムとの交流可能性を開いた。</p><p></p><p>他方のフェミニズム研究においても、おなじく本源的蓄積がキー概念として浮上しつつある。たとえばS・フェデリーチ(2015)は、女性の身体をめぐる抗争が、資本主義の形成史において決定的な戦略の場であったことを論じた。そのことによりフェデリーチは、賃労働や労働市場を自明の前提とするのではなく、労働市場が形成される過程のうちに見出される抗争こそ、階級闘争の根底的な次元であることを看破した。</p><p></p><p></p><p></p><p><b>4.おわりに</b></p><p></p><p>運動における新たな志向性と、研究における理論の動向とは、別々の局面でありながら、同じ方向へと進んでいるように思われる。そして双方の地平において、フェミニズムの声や理論は欠かせない契機となっている。そこから、いくつかの命題や課題が見出される。第1に、本報告でみたフェミニズムの実践や理論は、アイデンティティの政治を超え出て、資本主義と階級に対する批判的視角を打ち出している。よって、ジェンダーの視点と階級の視点とを、互いに切り離すことはできない。第2に、この理論的地平において、労働の概念を問い直しは中心的課題の一つである。つまり、労働市場の内側だけでなく、その外側に広がる搾取や略奪の機制を捉える視点が求められている。</p>
著者
藤塚 吉浩
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100329, 2015 (Released:2015-04-13)

社会主義体制移行前の都市内部には、中心業務地区、労働者階級の住宅地と、中上流階級の住宅地があった。社会主義体制に移行すると、政府によってすべての資産が没収され、都市の内部構造は大きく変わった。1990年にドイツが統一されると、東ドイツでは旧社会主義政府が没収した資産を、所有者および所有者の子孫に返還することとなった。資産の所有者とその子孫には、その地を離れている者も多く、外国へ移住した者も少なくなく、資産返還後には不在地主となった。そのなかには、資産を転売したり、修復して、より高い賃料収入を得ようとする者も多かった。ジェントリフィケーションは、旧社会主義都市の市街地のなかでも、社会主義への移行前の最もよい住宅地で起こった(Sýkora,2005)。 図1は、ベルリンにおける2005年から2012年までの2,600ユーロ以上の月収者の増減率を区別に示したものである。フリードリヒスハイン・クロイツベルク区では70%以上増加し、パンコー区、マルツァーン・ヘラースドルフ区において60%以上増加した。クロイツベルクは旧西ベルリン側にあり、1980年代より100件以上の不法占拠の建物について、現状の構造を保存し、人口の社会的構成を維持し、市民参加を推奨するという、注意深い更新が行われ、95件の建物が公共の支援により修復されてきた。2000年代後半には、長期の賃貸合意と新しい賃貸契約との差が生じるようになり、低所得の居住者と、家賃の増加を見込む所有者は対立し、それが立ち退きへの圧力を強めることとなった(Holm,2013)。 パンコー区南部のプレンツラウアーベルクには、19世紀末に建てられた歴史的建築物が多く、老朽化した建物の修復には補助があった。1990年代後半には改装される住宅の件数が多くなり、補助によらない、民間による改装の件数は増加した(Bernt and Holm,2005)。建物の更新が進められた地域では、元の住民の比率は25%に過ぎず、標準の所得は1993年にはベルリン全市の75%であったが、2007には全市の140%となった(Holm,2013)。1990年代から老朽化した建物の修復が進められてきたため、2000年代半ばにはジェントリフィケーションされる古い建物がなくなり、空閑地などの開発されていなかったところへ、贅沢なアパートが新築された。居住者層は35~45歳が多く、1~2人の子どものあるファミリー世帯である。彼らの職業は建築家、メディア・デザイナー、行政職員、経営コンサルタントなどであり、スーパージェントリフィケーションが確認された(Holm,2013)。 ベルリンでは、持ち家は少なく賃貸住宅が主であり、1990年代は家賃規制があり、2005年まで家賃は据え置かれた。2000年代後半になると、新たな賃貸契約により家賃は高騰してきた。旧東ベルリンでは、インナーシティにおける観光地化をはじめとしたリストラクチュアリングが進行し、ジェントリフィケーションへの対抗的機運が高まりつつある(池田,2014)。
著者
岩間 英夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100148, 2016 (Released:2016-04-08)

1.はじめに 発表者は、日本における産業地域社会の形成と内部構造をまとめ、2009年に研究成果を公刊した。本研究では、マンチェスターを対象に、世界の産業革命発祥地における産業地域社会の形成と内部構造を解明する(本時)。その後、マンチェスターと日本における産業地域社会の比較研究から、近代産業の発展に伴う産業地域社会の形成メカニズムとその内部構造を明らかにする(次回)。 なお1極型とは、事業所の事務所を中心に生産、商業・サ-ビス、居住の3機能が1事業所1工場で構成された、産業地域社会の構造を意味する。  2.マンチェスターの産業地域社会形成と内部構造 Ⅰ 産業革命による近代工業形成期(1760-1782年) 17世紀末にインド、18世紀に北アメリカから綿花が輸入されたことにより、マンチェスターの主要産業は毛織物から綿工業に転換した。マンチェスターでは、地元のハーグリーブスによるジェニー紡績機の発明(1765年)などによって産業革命が生じた。その結果、旧市街地における商業資本の問屋制家内工業が衰退した一方で、水運沿いでは産業資本家による小規模な工場制機械工業が発展した。これによりマンチェスターは、綿工業による一極型から、多極型の単一工業地域へと変容した。綿工業地域社会の内部構造は、産業資本家の各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は旧市街地に依存、産業資本家(中産階級)の居住機能は旧市街地周辺、また労働者の居住機能は旧市街地の工場周辺(スラム街)に、それぞれ展開した。1543年におけるマンチェスターの推定人口は約2,300人であったが、1773年には43,000人となった。Ⅱ 近代工業確立期(1783-1849年) マンチェスターでは、綿工業の国内外市場拡大に合わせて、商業・金融資本が台頭した。綿工業は一核心多極型から二核心多極型の複合工業地域、1816年以降は綿工業による多核心多極型の総合工業地域を確立した。マンチェスターは「コットン=ポリス」、「世界最初の工場町」と呼ばれた。同市は、商業・金融資本の市街地を中心に、周辺部に工業地域、郊外にかけて住宅地域が同心円状に展開した。工業地域社会の内部構造は、各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は市街地に依存、市街地と工場周辺に労働者の居住機能、産業資本家の居住機能は煙害を避けて郊外の鉄道沿線に移転・拡大した。1821年における人口は、129,035人に増加した。 Ⅲ 近代工業成熟期(1850年~1913年)  世界への市場拡大を背景にマンチェスターは国際的商業センターの性格を強くした。また、第二次産業革命が始動し、マンチェスターは多業種からなる多核心多極型の総合工業地域となった。市街地は再開発され、銀行、保険、商館、鉄道駅舎や市庁舎などが建てられて、中枢業務地区(CBD)を形成した。その結果、人口分布のドーナツ化とスプロール化が顕著となった。工業地域社会の内部構造は、各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は市街地に依存、煙害を避けて労働者の居住機能は郊外に、産業資本家の居住機能は鉄道沿線のさらに外縁部に移転・拡大して展開した。また、1894年にマンチェスター運河の完成により、国際港と英国初の工業団地(トラフォードパーク)が出現した。1901年、マンチェスターの人口は607,000人に急増した。 Ⅳ 工業衰退期(1914~1979年) マンチェスターでは、トラフォードパークにアメリカ系企業が進出したことによって、自動車や航空機産業などの第2次産業革命(重化学工業)が促進され、総合工業による多核心多極型を維持した。しかし、第二次世界大戦後には1,000以上の工場が閉鎖され、工業が後退した。工業地域社会の内部構造をみると、空き工場が増え、ゴーストタウン化した。人口は1931年の751,292人をピークに、1981年には437,660人まで減少した。 <BR>Ⅴ 再生期 (1980年~ ) 1990年代にイタリア人街で始まった市民による都市再生運動により、マンチェスターは再生した。再生の根底には、産業革命時と相通じる主体的開発の精神があった。従来の商業と交易に加えて、金融機関や新聞社・テレビ局などのメディア企業、学術機関、研究所などが集中し、街は勢いを取り戻した。空洞化した都心部には移民が集住し、多民族都市の性格を濃くした。人口は、2011年現在で約49万人である。 <BR>  3.まとめ参考文献  岩間英夫2009.『日本の産業地域社会形成』古今書院. Alan Kidd 1993. Manchester A History. Carnegie Publishing.
著者
江端 信浩
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.272, 2013 (Released:2013-09-04)

1. はじめに 洪水を堤防内で処理する河道改修方式による治水が限界視されて久しく(岸原・熊谷, 1977), また生態系への影響等,河川環境に配慮した治水が求められている中(河川審議会,1996), 氾濫を受容する伝統的治水工法が再評価されてきている(大熊1997など).中でも,水害防備林(以下,水防林)は,経済面・農業面でも寄与するなど,治水機能以外にも多様な機能を持つとされている(上田1955など).ただ,水防林は全国的には減少の傾向にある(渡辺,1998).本研究では,水防林が今日まで維持されている木津川流域に注目し,その背景を明らかにし,水防林の今日的な意義と活用可能性について検討する.対象地域は,淀川水系木津川流域の山城盆地(京都府木津川市),上野盆地(三重県伊賀市)である. 2. 研究手法 明治時代以降現在までの新旧地形図読図を通して木津川流域の水防林の分布の変遷をたどり,次に,水防林の分布と地形・地質との関係を考察した.さらに,流域の市町史等の歴史,国土交通省や林野庁等への聞き取り調査を基に,水防林がどのように維持・管理されてきたかという点について明らかにした. 3.結果・考察 水防林の消長の状況は,流域内でも地域により大きな差異が見られた.上野盆地下流部の岩倉狭窄部手前では水防林の大半が消失したが,山城盆地では,水防林の大半が残されてきた.上野盆地下流部では狭窄部手前で三川が合流するため,氾濫が常態化し,上野遊水地事業の着手に伴い水防林がほぼ一掃されたが,山城盆地では,硬岩の分布や地形の相違の影響を受けて生じた水衝部付近,支流の天井川沿いを中心に,水防林を活かした治水がなされてきた.ただ,上野盆地でも上流部では水防林の残されている箇所が多く,霞堤や堤内地の水田とともに遊水機能を発揮し,遊水地を補完する役割を担っている.また,上流・下流ともに,破堤地形や旧河道など水害が発生しやすい箇所や,堤防の整備状況が不十分な箇所にも水防林は分布していることがわかった.木津川水防林の持つ機能は,上記のような水防機能に止まらない.流域の水防林のマダケは,上流部の上野盆地においては,江戸時代から昭和時代にかけて伊賀傘(和傘)の原料として使用され,一方,下流部の山城盆地でも南山城地域の竹材生産額において一定の割合を占めるなど,流域全体で経済的機能を果たしてきた.近年では竹材の持つ経済的価値は低下したものの,現在ではその文化的意義が注目される.伊賀傘は現在でも上野天神祭で使用されており,山城盆地の御立薮国有林のマダケは東大寺お水取り用の松明として活用され,伝統行事において一定の役割を担っている. また,ダムによる治水の生態系への悪影響が懸念される中(河川審議会,1996),水防林の持つ環境的機能も注目される.水防林は.上述の遊水機能に加え,浄化(ゴミ除去)作用を持ち,さらに河川景観の要素ともなっている. 以上のような水防林の多面的機能を河川管理者や流域住民が認識し, 適切に管理・保全していくことが今後一層重要になってくるであろう.
著者
泉田 温人 須貝 俊彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

1.はじめに<br> 氾濫原内の相対的な地形的高まりである「微高地」は,自然堤防だけではなく,様々な河川作用が形成する微地形の複合体である.自然あるいは人工堤防の破堤を形成要因とするクレバススプレーは,微高地を構成する微地形の一つである.平成27年9月関東・東北豪雨による鬼怒川の破堤洪水では茨城県常総市上三坂地区にクレバススプレーが形成され,微高地の発達過程におけるその重要性が再認識された.著者らはクレバススプレーが広く分布する(貞方 1971)とされる常総市域を含む鬼怒川下流域の氾濫原において,平成27年9月関東・東北豪雨を受けて形成されたクレバススプレー及び歴史時代に形成されたクレバススプレーに対し地形及び堆積物分析を行ってきた.本発表ではその二つの地形を比較し,調査地域ではクレバススプレーがどのように成長し,微高地発達に寄与してきたのかを検討した.<br><br>2.平成27年9月関東・東北豪雨によるクレバススプレー<br> 2015年9月10日に発生した鬼怒川の破堤洪水によって,破堤部付近で"おっぽり"の形成などの激しい侵食が生じた一方,その下流側では淘汰の良い中~粗粒砂層からなる最大層厚80 cm程度のサンドスプレーが堆積した(泉田ほか 2016b).破堤部を起点とする堤外地への洪水流向断面において,両者の分布領域の間に侵食・堆積作用がともに小さい長さ100 m程度の区間が存在した(泉田ほか2016b).この区間からサンドスプレーの堆積区間への移行は洪水流向断面内の遷緩点で生じた.サンドスプレー形成区間より下流では洪水堆積物層は薄く,地形変化量は微小だった.洪水前後の数値表層モデルから計算された,破堤部から約500 m以内の範囲における総堆積量及び総侵食量はそれぞれ約3.7万m<sup>3</sup>及び約8.0万m<sup>3</sup>であり,本破堤洪水では侵食作用が卓越した(Izumida et al. 2017).<br><br>3.歴史時代に形成されたクレバススプレー<br> 上三坂から約4.5 km上流に位置する常総市小保川地区は17世紀初期にクレバススプレーの上に拓かれた集落である.小保川のクレバススプレーは鬼怒川左岸に幅広な微高地が一度成立した後に形成を開始し,ある期間に鬼怒川の河床物質が繰り返し遠方に堆積したことで微高地を二次的に拡大したと考えられる(泉田ほか 2017).既存の微高地上では急勾配かつ直線的な長さ約1.5 kmのクレバスチャネルが掘り込まれ,クレバスチャネルの溢流氾濫による自然堤防状の地形であるクレバスレヴィーがその両岸に形成された一方で,チャネル末端では間欠的な大規模洪水によるイベント性砂層及び定常的に堆積する砂質シルト層の互層からなるマウスバーが形成された.両区間は,クレバススプレー形成以前の鬼怒川の微高地と後背湿地の境界域でクレバスチャネルの緩勾配化に伴い遷移したと推定され,マウスバー部分が後背湿地上に舌状に伸長したことで微高地が面的に拡大したと考えられる.小保川のクレバススプレーは厚い流路堆積物からなるクレバスチャネルを含め堆積環境が卓越し,侵食的な要素は鬼怒川本流とクレバスチャネルの分岐点に位置するおっぽり由来と考えられる常光寺沼のみである.<br><br>4.考察<br> 上三坂と小保川のクレバススプレーの形成時間スケールと地形の分布する空間スケールの差異から,両者の地形はクレバススプレーの発達段階の差を表すと考えられる.しかし,両調査地のクレバススプレーは,ともに破堤洪水により鬼怒川の河床物質が氾濫原地形の遷緩部分に堆積しサンドスプレーあるいはマウスバーが形成されたことで,鬼怒川の微高地発達に寄与したことが明らかになった.調査地域におけるクレバススプレーの発達は(1)クレバスチャネルの形成による河床物質の運搬経路の伸長,(2)その下流に位置する堆積領域の河川遠方への移動,そして(3)侵食環境から堆積環境への転換によって特徴づけられた.上三坂が位置する常総市石下地区の鬼怒川左岸の微高地及び地下地質が複数時期のクレバススプレー堆積物からなることが報告されている(佐藤 2017).クレバススプレーの形成は常総市付近の鬼怒川氾濫原において普遍的な営力である可能性があり,微高地の発達過程で激しい侵食作用を含む地形変動が繰り返されてきたことが示唆される.<br><br>参考文献:泉田温人ほか 2016a. 日本地理学会発表要旨集89, 165. 泉田温人ほか 2016b. 日本地理学会発表要旨集90, 181. 泉田温人ほか 2017. 日本地球惑星科学連合2017年大会, HQR05-P06. Izumida et al. (2017). Natural Hazards and Earth System Sciences, 17, 1505-1519. 貞方 昇 1971. 地理科学 18, 13-22. 佐藤善輝 2017. 日本地理学会講演要旨集 92, 150.
著者
清水 長正 山本 信雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.339, 2013 (Released:2013-09-04)

地下の空隙から冷風を吐出する風穴(ふうけつ)は全国の山地・火山地の地すべり地形・崖錐斜面・熔岩トンネルなどに多数ある。信州の稲核(現・松本市)では江戸期から風穴が利用されていて,幕末期に蚕種を風穴に冷蔵して孵化を抑制し養蚕の時期を延長させる手法が稲核で開発され,その後の明治期における蚕糸業の振興に伴い蚕種貯蔵風穴が全国へ普及し,大正期までに各地に280箇所以上が造成された。明治後期には風穴の機構に関する日本で最初の研究が稲核で始められた。さらに現在でも風穴の利用が持続しているという,自然現象(地形・表層地質・気象)を巧みに利用した山村文化をもつ場所である。
著者
朴 宗玄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.219, 2004 (Released:2004-07-29)

本研究では、在日韓国人企業の事業所分布を取り上げ、産業属性・人口規模との関連性を分析する。_I_ 産業属性と事業所配置490都市を行、25産業部門を列とする490×25の行列を作成し、因子分析を行った結果、固有値1.0以上の共通因子が4つ抽出された。第_IV_因子までの累積変動説明率は85.5%に達しており、以下では、因子負荷量の絶対値が0.55以上の変数群を解釈する。第_I_因子で高い因子負荷量をもつ変数は、サービス業(「教育関連サービス業」「ホテル・娯楽業」「対企業サービス業」「対個人サービス業」)、小売業(「飲食店」「飲食料品小売業」「その他の小売業」)、卸売業、運輸通信業(「旅客運送業」「運輸サービス業」)、不動産業、保険業である。この因子には、製造業は含まれず、サービス業を中心とする第3次産業活動であるので、「非製造業活動を行う産業」を表す因子であると解釈した。因子得点が最も高い都市は、東京で、次いで名古屋、横浜、仙台、川崎である。第_II_因子で因子負荷量の高い変数は、製造業(「生産資材製造業」「機械器具製造業」)、運輸通信業(「運輸サービス業」「貨物運送業」)である。この因子は、生産設備などの重化学工業活動とその生産品の運送を含むサービス活動を表す因子である。したがって、この因子は、「重化学工業活動と貨物運送サービス活動を行う産業」を表す因子であると解釈した。因子得点値が最大の都市は、大阪で、次いで東大阪、東京、尼崎、神戸である。第_III_因子では、生活資材製造業、建設業(「総合工事業」「職別工事業」「設備工事業」)、銀行業の変数の因子負荷量が高い。この因子で抽出された産業は、生活資材の製造業活動、住宅や建物を含む様々な工事、そしてその資金調達先である銀行業であるため、生活基盤と深く関連する産業であるといえる。そのため、この因子は、「生活基盤とその付随的活動を行う産業」を表す因子であると解釈した。とくに、因子得点が最も高い都市は京都であり、次いで尼崎、大阪、広島、北九州、名古屋、横浜、大津、岡崎、宝塚、舞鶴、岸和田、草津などである。 そして第_IV_因子では、「家具小売業」「衣服・身の回り品小売業」「自動車小売業」「消費財製造業」が高い因子負荷量を持っている。この因子は、住民の生活に密着した小売業・製造業を表す因子として、「住民の生活に密着した小売・製造業活動を行う産業」と名付けた。因子得点をもとに導出した地域的分布パターンをみると、神戸が最も高い因子得点を示す。_II_ 人口規模と事業所配置 ここでは、都市別の在日韓国人企業の事業所分布の特徴を、韓国・朝鮮国籍人口規模、都市別人口規模と関連づけながら分析する。まず、韓国・朝鮮国籍と在日韓国人企業の事業所分布との関連性を分析する。主要都市別の韓国・朝鮮国籍人口と在日韓国人企業の事業所数との相関図をみると、在日韓国人企業の事業所の順位・規模は、全体的に連続した形態を呈する。対象都市490都市について、韓国・朝鮮国籍人口数と在日韓国人企業の事業所数の相関係数を算出すると、0.95ときわめて高い値が得られた。しかし、在日韓国人企業の事業所数は韓国・朝鮮人口数だけでは説明できない。このことは、東京・横浜、京都・神戸・尼崎、そして広域中心都市の在日韓国人企業の事業所数が韓国・朝鮮国籍人口規模から予想される以上に大きいこと、逆に大阪、名古屋、東大阪、川崎、などの在日韓国人企業の事業所数が韓国・朝鮮国籍人口規模に比べて小さいことから容易に理解できる。次に、在日韓国人企業の事業所分布と日本の人口との関連性を分析する。都市別人口と在日韓国人企業の事業所との相関係数は、0.87と高いが、韓国・朝鮮国籍人口から得られた相関係数(0.95)より低い。このことから、在日韓国人企業の事業所分布は、都市別人口規模よりも韓国・朝鮮国籍人口規模と類似した分布によってよりよく説明される。また、、大阪、京都、神戸、尼崎、東大阪、大津などの近畿地方の多くの都市は、人口規模から予想される以上に在日韓国人企業の事業所数が大きいのに対して、東京、横浜、千葉と広域中心都市は、人口規模から予想される以上に在日韓国人企業の事業所数が少ない。こうした結果は、前述した日本の事業所分布との相関の傾向とも一致する。
著者
本岡 拓哉
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.58, 2006 (Released:2006-11-30)

1.はじめに これまでのわが国戦後のスラム研究では、建築・都市計画的な観点から、改善された地域に視点が当てられており、必ずしも全てのスラムとされた地域(不良住宅地区)が扱われてきたわけではなかった。特に、戦後日本の都市において居住貧困層が集まったバラック街は研究対象になることは少なく、その状況や現在までの変容については明らかになっていないことが多い。すなわち、これはわが国のスラムに対する実践・研究双方において、資本主義的都市発展を支える産業基盤整備を中心とした都市整備的な観点が重視され、居住貧困層を支える居住福祉という観点は軽視されてきたからと考えられる。こうした問題意識のもと、発表者は既に神戸市をフィールドに、バラック街の形成からクリアランスまでのプロセスについて明らかにしてきた。しかし、そもそもバラック街が戦後都市の中でどのような状況で、社会的、地理的にどのような位置づけであったかは明らかにしていない。そこで本発表では、1958年に東京都民生局が作成した『東京都地区環境調査』を利用し、この課題に取組む。加えて戦後バラック街の状況とその後の変容との関係性を実証的に明らかにしていく。2.戦後不良住宅地区の形成 太平洋戦争時,度重なる米軍の空襲や空襲疎開によって、東京都の住宅は戦前に比べ、約100万戸減少した。このように戦災により多くの住宅が失われたことで、大量の戦災者や外地からの引揚者は住む所がなく、不定住貧困状態 となった。ここでの不定住貧困状態は大きく二つの様態に分類できる。一つは、街頭に投げ出され都市の盛り場や駅前に寄生して生活する「浮浪者」で、もう一つが、戦災跡に出来た「壕舎・仮小屋(バラック)生活者」であった。戦後復興の中、行政の保護により「浮浪者」が減少していく一方で、仮小屋生活者はその後むしろ増加し、ある一定の場所に集まることでバラック街が形成されることとなった。なお、バラック街のほかにも、例えば、非戦災地域における一般住宅の集団的老朽化、簡易旅館街(ドヤ街)における集団的環境不良化、旧軍用施設ないし工場、倉庫を応急的に転用した低家賃都営住宅、引揚者定着寮等の荒廃化などを、戦後都市の不良住宅地区としてあげることが出来る。このような戦災による被害と共に、その後の急激な都市化の中、大量の人口流入のあった東京都では、他の都市に比べて不良住宅地区問題は非常に深刻であった。1950年代後半になると、量的な意味での住宅難は徐々に解消されつつあったが、質的な意味での住宅問題として「不良住宅地区=スラム」が相対的に深刻化しはじめた。こうした状況に対して、東京都民生局総務部調査課は福祉事務所の協力のもと、1957年11月に大規模な調査を実施し、東京都区部で231の不良環境地区を選定した。3.分析対象・方法 本発表では、『東京都地区環境調査』のデータを再検討することで、当時の不良環境地区におけるバラック街の状況を明らかにする。現在、バラック街とは、不法占拠の仮小屋集団地区とみなされることが多いが、当時のデータを見たところ、全不良環境地区231地区のうち仮小屋地区は71、不法占拠地区51であるが、そのうち一致するものは35で、仮小屋地区と不法占拠地区は必ずしも一致していないことがわかる。また一方、バタヤ地区31のうち28地区が仮小屋地区に分類することができ、その関係性は強いことがわかる。したがって、本発表ではバラック街を仮小屋地区、不法占拠地区、バタヤ街に分類される計90地区と設定し、それらを分析対象とする。データを読み解く際には、バラック街が当時の社会の中でどのような位置づけであったかに留意し、他の不良環境地区との比較を行う。加えて、発表者はこれらの地区の現在までの変容との関連性を明らかにする。全不良環境地区231地区の変容については、既に高見沢・洪(1984)が分析しているが、バラック街の特有性を示しているわけではない。本発表では、住宅地図と空中写真によりバラック街の現在までの土地利用の変遷を辿ることで、バラック街の変容過程を示し、その特徴と背景を明らかにしたい。〔参考文献〕高見沢邦郎・洪 正徳「1959年調査による東京区部不良環境地区のその後の変容について」都市計画別冊、1984、85-90
著者
福井 幸太郎 菊川 茂 飯田 肇 後藤 優介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

はじめに<br>&nbsp;2014年5~6月,立山カルデラの温泉の池「新湯」で湯枯れが発生し湖底が干上がった.6月13日なると温泉が再び湧出して水位が上昇,6月15日にはもとの温泉の池にもどった.新湯が一時的に干上がることは数十年前から富山県内の山岳関係者の間で指摘されていた.しかし,写真などの記録は無く,現地で確認できたのは今回が初である.本発表では,湯枯れの発生と温泉の再湧出による水位回復の経過について報告する.<br><br>新湯について<br>新湯は立山カルデラ内を流れる湯川左岸に位置する直径約30 m,水深約5 mの円形の火口湖.もともと冷水の池であったが1858(安政5)年の安政飛越地震(M7.3~7.6)の際の激しい揺れによって熱水が湧き出したとの伝承がある.現在も約70℃の湯が湧出している.希少な玉滴石(魚卵状蛋白石=オパール)の産出地で2013年10月17日に国の天然記念物に指定された. <br><br>湯枯れと温泉再湧出の経過<br>・2014年4月15日:立山砂防事務所撮影の航空写真から新湯では温泉が湧出しており水位も平年通りであることを確認.<br>・5月13日:博物館撮影の航空写真から新湯が干上がっていることを確認.<u>このため,新湯は</u><u>4</u><u>月</u><u>15</u><u>日~</u><u>5</u><u>月</u><u>13</u><u>日の間に干上がったと考えられる.<br></u><u></u>・6月11日:<u>現地にて新湯が完全に干上がっていることを確認(図</u><u>1a</u><u>).</u>池の最深部(水深約5 m)に直径1 m程の凹みが3つあり活発に湯気を噴き上げていたが温泉の湧出はなかった.<br>・6月13日:立山砂防事務所より新湯で再び温泉湧出がはじまったとの連絡が入る.<br>・6月15日:現地にて池の最深部付近から温泉が湧出しており水位が元のレベルまで回復していることを確認(図1b).水位は<u>6</u><u>月</u><u>13</u><u>日~</u><u>15</u><u>日の</u><u>3</u><u>日間程で元のレベルで回復したといえる.</u>湯温は池の切れ口付近で72.6℃と干上がる前と同程度だった.<br><br>謝辞<br>今回の調査は国土交通省立山砂防事務所の協力・支援によって実現しました.お礼申し上げます.
著者
紅葉 咲姫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本研究は,地方都市の大学誘致政策の事例を通して,立地に期待していた効果と立地後の実態との齟齬を分析した.<BR> 調査対象地域の北見市は,若年者人口の増加,地域産業の人材育成を期待し,地域内の大学の拡充と地域外からの大学の誘致を行ってきた.2000年代以降は,産学官連携を通した地域産業振興も推進している.<BR> 北見市における事例分析の結果は,以下の2点にまとめることができる.<BR> ①大学誘致による地域振興への期待と立地の効果は一致せず,地元からの進学,地元への就職は一部に留まった.具体的には,都市人口への影響は大学周辺の若年者人口層の増加に留まった.進学および就職においては,大学によって異なった傾向が見られた.理系国立大学の北見工業大学は,全国各地から受験生を集めており,大企業への就職が多いことから,就職先も全国に及んでいる.文系私立大学の北海学園北見大学は,地元と結びついた進学および就職が行われてきたが,地元子弟の都市部志向から進学者が減少し,経営悪化におちいった.看護系私立大学の日本赤十字北海道大学においては,看護需要の高さを背景に,在学中の奨学金制度を通して,地元からの進学と北海道内での就職が安定的に行われている.<BR> ②大学の立地によって北見市の産業構造が大きく変化することはなく,地元での就職先は既存企業に限定されていた.北見工業大学を中心とした産学官連携に関しては,当初は地元中小企業および行政との共同研究が中心であり,地元企業の技術的,資金的な基盤として活用されてきた.しかし,北見工業大学の共同研究の質的な拡大に伴い,地域外の企業との関係性が強まっている.<BR> 本分析の結果より,大学を通した地域振興政政策は,地元への進学志向の低下により,大学誘致の意義を低下させている.大学設置後も地域の産業構成は変化せず,連携の対象となる企業が地域内にない場合,産学官連携の効果も地域外に流出することがわかった.以上から,北見市の場合では,地域振興政策の資源としての大学の価値は低下していると結論付けられる.
著者
宋 弘揚
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>1</b><b>.はじめに</b><br> グローバル化の進展は,国際人口移動に重要な影響をもたらしている.世界的な情報・通信・交通ネットワークの発展は国際人口移動を促進している.このような国際人口移動は,政治思想に関係なく,数多くの国々で進展している.日本も,留学生30万人計画や高度専門職ビザの新設,永住権獲得所要年数の短縮などの施策を通じて,留学生や専門的・技術的外国人材の日本への移動,長期滞在を促している.<br> 日本における中国人移住者に関する既存研究は,チャイナタウンなどの集住地域研究が大多数である.他方,移住者個人の移住動機や行動,彼(女)らを取り巻く社会環境の変化への着目が欠けている.また,既存研究の着目対象として,技能実習生等の単純労働者があげられる一方,移民起業家や研究者のような「高度人材」もあげられる.このような労働市場の両極端にある者が多く研究されているのに対し,その中間層に位置づけられる者への着目が乏しい.しかし,近年は移住の目的と様相が多様化しており,既存の研究だけで在日中国人社会の様相を描き出すことがより困難になっている.<br> そこで,本報告では,東京大都市圏に滞在する若年中国人移住者を対象に,彼(女)らが国際移動を行った動機と来日後の社会関係構築の様相を分析することで,近年における在日中国人社会の変化に関する考察を試みる.<br><br><b>2.研究対象地域と研究方法</b><br> 具体的な研究対象地域として,東京大都市圏(東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県)を取り上げる.とりわけ東京大都市圏は日本で最も中国人が居住している地域である.特に,「技術・人文知識・国際業務」,「高度専門職」などといった専門的・技術的分野の在留資格を所持している中国人が集まっている地域でもあるため,東京大都市圏は研究対象地域にふさわしいといえよう.<br> 本研究の研究対象者を20代前半~30代後半の中国,日本,または第三国の高等教育機関を卒業・修了し,日本において合法的な就労に関する在留資格(永住者等も含む)を所持している中国人とする.研究目的を達成するために,報告者は14名の研究対象者に対して,基本属性,移住の動機,来日後の居住歴・職歴,住居地選択の影響要素,社会関係の構築などについて1時間~1時間半の半構造化インタビュー調査を実施した.サンプルの収集方法はスノーボールサンプリングである.<br><br><b>3.研究結果</b><br> 本研究から得られた知見は以下の3点である.<br> 1点目は,多数の若年中国人移住者が挙げた動機は,①日本社会・日本文化への興味,②日本企業での就労意欲の高さ,③中国において,中学校または高校,大学において日本語教育を受けたこと,④中国での社会経済的地位の上昇が同世代に比べ見込まれないことである.<br> 2点目は,彼(女)らの多くは,同じエスニック集団の集住を求めず,通勤の利便性や居住環境を重要視している点である.また,SNSを通じたエスニック集団と社会関係の構築を強く志向していることである.パソコンやスマートフォンなどの普及により,従来では集住しなければ得られなかったエスニック的なつながりがオンライン上で構築することが可能であり,集住の意味が弱まっていることが示唆される.<br> 3点目は,彼(女)らが高度専門職ビザや永住権などの獲得に高い意欲を示すが,それは永住意欲が高いからではなく,施策上の恩恵を受けられることにある.また,彼(女)らは日本に滞在しながらも,SNSなどを介し,中国国内とのつながりやビジネスチャンスを追求している.中国人若年移住者は,従来の永住か帰国という二分論のような選択ではなく,日本と中国の間で自由に往来することを希求する傾向が強まりつつある.
著者
小原 丈明 天野 太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.107, 2007

<BR>I はじめに<BR>1.背景と目的<BR> 1990年代以降,社会経済情勢の変化(バブル経済の崩壊,少子化)や法制度の改正(「工業(場)等制限法」の改正・廃止等の規制緩和)など大学を取り巻く環境は著しく変わってきた。そのような環境の変化は,大学院重点化や国公立大学の法人化,専門職大学院の設置,大学の統合といった大学の再編をもたらしつつある。そこで本研究では,大学再編に伴う変化を主として空間的な側面から分析・考察することを目的とする。今回の発表では,その予備的考察として,大学に関する基礎的なデータの分析や,大学の立地の変化についての分析を中心に行う。<BR> 大学立地に関しては,これまでに教育学(教育政策学,教育社会学)を中心に地理学や都市計画学等の分野で研究が行われてきた。既往研究の内容は,(1)法制度の影響,(2)立地のシミュレーション,(3)大学設立・移転のプロセス,(4)地域社会への影響に大別できる。立地自体を扱うのは(1)~(3)の研究であるが,それらの多くは1990年頃までを分析の対象としている(例えば,矢野・小林(1989)など『大学研究』第4号所収の諸論文)。それ以降について体系的に扱っているのは羽田(2002)などわずかであり,近年の大学再編が空間的に明らかにされているとはいいがたい。<BR>2.研究の対象と方法<BR> 分析の資料として,各年度版の『全国大学一覧』(財団法人文教協会)および『全国短期大学・高等専門学校一覧』(同協会),文部科学省のHP,各大学のHPを使用した。それら資料(主として『全国大学一覧』)から,大学ごとの学部数や学生数,キャンパスの所在地,設立年次,設立母体等の項目を抽出してデータベースを作成し,GISを用いて地図化および分析を行った。<BR> 1990年代以降の動向を分析することが中心ではあるが,それ以前の動向と比較して考察する必要から,第2次世界大戦以後を幾つかの期間に区分し,各期間の動向も併せて分析している。<BR> <BR>II 分析および考察<BR> 終戦直後や1960年代後半と並び,1990年代後半から2000年代にかけて大学数が急増している。国立大学は大学間の合併により微減となっているが,公立と私立大学は,短期大学が四年制大学へと改組した分を受けて大幅に増加している。<BR> 専門職大学院の所在地(2006年4月現在144箇所)は首都圏と京阪神圏に多い。特に東京都区部には全体の1/3強が集中し,アクセスの良い場所にサテライト・キャンパスが志向されていることが分かる。<BR> 当日の発表では様々な指標を基に詳細な分析を行う。なお,今回の発表を踏まえ,今後はキャンパス移転の動向や大学間の連携について空間的な分析を行う予定である。<BR><BR>付 記 本研究は平成18年度同志社女子大学学術研究助成金の一部を使用した。<BR><BR>文 献<BR>羽田貴史 2002.縮減期の高等教育政策―大学統合・再編に関する一考察.北海道大学大学院教育学研究科紀要85:99-115.<BR>矢野眞和・小林信一 1989.大学立地の分析―偏在性と階層性.大学研究(筑波大学)4:129-164.
著者
福井 幸太郎 菊川 茂 飯田 肇 後藤 優介
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.77, 2014 (Released:2014-10-01)

はじめに 2014年5~6月,立山カルデラの温泉の池「新湯」で湯枯れが発生し湖底が干上がった.6月13日なると温泉が再び湧出して水位が上昇,6月15日にはもとの温泉の池にもどった.新湯が一時的に干上がることは数十年前から富山県内の山岳関係者の間で指摘されていた.しかし,写真などの記録は無く,現地で確認できたのは今回が初である.本発表では,湯枯れの発生と温泉の再湧出による水位回復の経過について報告する.新湯について新湯は立山カルデラ内を流れる湯川左岸に位置する直径約30 m,水深約5 mの円形の火口湖.もともと冷水の池であったが1858(安政5)年の安政飛越地震(M7.3~7.6)の際の激しい揺れによって熱水が湧き出したとの伝承がある.現在も約70℃の湯が湧出している.希少な玉滴石(魚卵状蛋白石=オパール)の産出地で2013年10月17日に国の天然記念物に指定された. 湯枯れと温泉再湧出の経過・2014年4月15日:立山砂防事務所撮影の航空写真から新湯では温泉が湧出しており水位も平年通りであることを確認.・5月13日:博物館撮影の航空写真から新湯が干上がっていることを確認.このため,新湯は4月15日~5月13日の間に干上がったと考えられる.・6月11日:現地にて新湯が完全に干上がっていることを確認(図1a).池の最深部(水深約5 m)に直径1 m程の凹みが3つあり活発に湯気を噴き上げていたが温泉の湧出はなかった.・6月13日:立山砂防事務所より新湯で再び温泉湧出がはじまったとの連絡が入る.・6月15日:現地にて池の最深部付近から温泉が湧出しており水位が元のレベルまで回復していることを確認(図1b).水位は6月13日~15日の3日間程で元のレベルで回復したといえる.湯温は池の切れ口付近で72.6℃と干上がる前と同程度だった.謝辞今回の調査は国土交通省立山砂防事務所の協力・支援によって実現しました.お礼申し上げます.