著者
西山 弘泰
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.92, 2008

1.はじめに 郊外の一戸建て住宅は,住宅双六に代表されるように,終の棲家と位置付けられ,その住民の転出入については不問に付されてきた.居住遍歴の通過点として位置づけられていた公団の賃貸住宅は,1960年代を中心とした地方からの人口流入に対応するため,1960年代後半から1970年代前半にかけて大量に供給が行われた.しかし,公団の賃貸住宅はこれらの膨張した都市人口に対して十分な住宅供給ができたとは言えない.ファミリー向けの民営借家も借地借家法などの法制度によって供給は極めて少なかった.一方,公団の賃貸住宅やファミリー向け民営借家の補完的役割を担っていたのが,郊外にスプロールを伴って建設された狭小で低廉な戸建住宅である. 本報告では,主に1970年前後に開発された敷地面積100_m2_以下の戸建住宅が密集するミニ開発住宅地を事例として,住民の入れ替えとその特徴を明らかにする.2.調査概要 本報告は敷地面積100_m2_以下の戸建住宅の割合が55.1%と高い,埼玉県富士見市関沢地区の3つの番地を事例として,計151筆の土地と建物の登記簿と住宅地図の居住者表示の分析が主である.当地域では1998年に登記内容がコンピュータ化されたため,1998年以前は閉鎖登記簿の閲覧を,1998年以降は登記事項証明書を発行した.A番地は1966年に開発され総戸数は40戸,平均敷地面積40.17_m2_で現在までに約3分の2が建替えを行っている.B番地は1971年に開発され,総戸数は48戸,平均敷地面積は82.89_m2_で現在までに約半数が建替えを行っている.最後にC番地は1977年に開発されたものが主で,総戸数は63戸,平均敷地面積は98.70_m2_で現在までに約4分の1が建替えを行っている.各番地の最寄り駅は,東武東上線みずほ台駅と鶴瀬駅で,各番地から両駅へは徒歩13分程度の距離にある. なお,不動産登記簿の所有者と住宅地図の居住者表示の整合性については,住宅地図の表記に即応性がなく1,2年の表記の遅れはあるものの,ほぼ一致している.よって,関沢地区においては,所有者の変更は居住者の転出入とほぼ同義である.また,国勢調査の結果からも,ほぼすべての戸建住宅が持家であることも明らかとなっている.3.結果A番地では1966年から現在まで,計184回の所有権移転が確認できた.そのうち業者や相続・贈与に伴う所有権移転を除くと124回の所有権の移転であった.これは一筆あたり平均で3.1回の所有権移転があったということを示している.1966年の開発時から現在まで同一の所有者は1筆で,現所有者を除く,平均所有年数は約5年であった.所有者変更が活発なのは1960年代後半から1980年代前半までである. B番地では,1971年から現在まで,計126回の所有権移転が確認できた.そのうち業者や相続・贈与に伴う所有権移転を除くと107回の所有権の移転であった.一筆当たりの平均所有権移転数は2.1回であった.入居当時から現在まで同一の所有者は12筆で,A番地と比べると滞留率は高いものの,約半数で1980年までに所有者移転があった.B番地の所有権移転の特徴は1990年以降の所有権移転が16回と,A番地の7回に比べて多いことである. C番地では,1971年から現在まで,計94回の所有権移転が確認できた.そのうち業者や相続・贈与に伴う所有権移転を除くと83回の所有権の移転で,一筆当たりの平均所有権移転数は1.3回と他に比べると大幅に少ない.また,7割以上が開発時から現在まで滞留しており,所有権の移転は格段に少ない.なおC番地の居住者の前住地は4割が富士見市内であることが国勢調査より明らかになっている. 以上,各番地の所有権移転数の違いは開発時期,敷地面積,居住者の年齢などが密接にかかわっていると考えられる.また,A番地やB番地のように,1960・70年代に所有権移転が多かったのは,ファミリー向け民営借家の不足,急激な地価の高騰,低廉な価格といったことも背景としてあると考えられる.
著者
中林 一樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.75, 2005

1.中越地震の特徴 中越地震は、新潟地震(1964)の40年記念の年に発生した。10月23日午後5時56分、わが国観測史上2回目の「震度7」の強い揺れと、3回に及ぶ「震度6強・弱」の強い余震が引き続いた。被害は、死者40人(震災関連死を含む)、負傷者2,860人、全壊大破家屋3,250棟、半壊5,960棟、一部損壊家屋は75,500棟以上に達した。引き続く余震は、多くの人を自宅外に避難させ、ピーク時は10万人を超えた。 特徴的な被害は、崖崩れや宅地崩壊などの被害である。元々「山崩れ地帯」である中越地域ではあるが、主震や余震の震源直上の中山間地域では、棚田や養鯉池が山腹に拓かれた(外部との連絡道路である)幹線道路や斜面に建つ家屋とともに大崩落した。いわば「山塊崩落」が至る所で発生し、斜面全体が「ゆるみ」、情報的に交通的にも「孤立集落」が多発した。さらに、崩落した大量の土石が河川を埋め、「自然ダム」が発生し、谷筋の集落をせき止められた泥水が水没させた。こうして、山古志村では「全村避難」を行い、その他の被災地でも孤立集落や自然ダム下流の集落などが「全集落移転」を行った。 地震から2ヶ月後に、雪が降った。3000戸の応急仮設住宅が配置も工夫され、積雪以前に完成したことは幸いであった。阪神・淡路大震災の教訓でもあったが、地域(集落)の絆は驚くほど強く、避難所においても、応急仮設住宅においても、「地域」毎にまとまって入居している。4ヶ月の冬を迎え、春以降の本格復興への話し合いが進められた。2.台湾集集地震との比較とその被災地復興の基本方向 台湾集集地震(1999)の被災状況と共通する被災様相を呈している。中山間地域が主に被災し、台湾の震災復興では「社区総体営造」という概念が、その復興の基本となっている。これは、「地域社会の総合的なまちづくり」という計画理念である。被災地では住宅再建と産業復興を、埋もれていってしまった地域の文化の再興や新しい産業の創出など、ソフト・ハード両面からの地域主体の復興への取り組みである。3.中越地震における中山間地域の復興の基本方向 幸い、中越地域は、養鯉業や魚沼産コシヒカリ米という「名産品」を生む地域であり、地域がほこる「闘牛」文化もあり、この地域には他の中山間地域にはない経済力と地域力があるように思われる。しかし、高齢社会の進展した積雪地域であることは、阪神・淡路大震災とも異なる復興プログラムを提供することになる。個々の生活再建には、「被災者生活再建支援法」と「新潟県による生活再建支援」諸制度による支援が基本となるが、孤立集落や山塊崩落に巻き込まれた集落では「防災集団移転事業」などによる移転型「集落復興」を必要としよう。その基本は、動いた山塊や傾斜地の「土留め」と「道路再建」という中山間地域のインフラ復興である。本格復興には相当の長期化が予想される。その間の台風災害による複合災害化が再び発生すると、その復興はさらに長期化するかもしれない。市町村合併による行政体制の変化とともに、注目していなければならない、復興過程の課題であろう。 もう一つの広域的な課題として、温泉観光やスキー観光などの「風評被害とその復興」も大きな課題となっていることを忘れてはならない。
著者
池田 真利子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100198, 2015 (Released:2015-04-13)

分断都市としての歴史を経験した都市ベルリンは,東西で異なる変化を遂げてきた.とくに政治転換期以降,旧東ベルリンインナーシティ地区では,文化的占拠やテンポラリーユースなど,合法・非合法に関わらず文化・創造的空間利用が顕在化し,ジェントリフィケーションを含む特定街区の改善を促してきたが,こうした改善の過程に関しては都市の在り方と併せ議論が成されてきた(池田 2014).独語圏既存研究においては,特に東ベルリンインナーシティ地区の改善過程が注目されてきたが,「旧東独インナーシティ地区が旧西独インナーシティ地区よりも経済的に豊かとなった」という逆説的状況に代表されるように,東西統一から四半世紀が経過した現在,都市改編は旧西独地域へと及びつつある. したがって,本発表は旧西ベルリンインナーシティ地区のロイター地区を事例に,街区の肯定的イメージが創り出される具体的な過程に注目することにより,ジェントリフィケーションにおいてアーティストが担う役割を明らかにする.研究方法は以下の通りである.まず,2013年および2014年にロイター地区全域の詳細な土地利用を調査し,続いて地区改善事業に取り組む行政および関連事業主体への聞取り調査を行い,地区の変容過程に関する聞き取り調査を行った.さらに,ロイター地区のアーティスト,小売店事業主(商業,サービス業)を対象に経営形態や開設年,立地選択理由等に関する聞取り調査を行った.ノイケルン地区は,旧西ベルリンインナーシティ地区であり,東西統一以降はトルコ系移民をはじめとする外国籍住民が近隣地区より多く流入し,トルコやポーランド,セルビアなどの移民の背景をもつ人々Migrationshintergrundが集住している点,失業率も15.4%と市全体の失業率11.2%に比較して極めて高い点などから,典型的な「問題街区」である.本研究の対象地域はノイケルン地区の最北端に位置するロイター地区である.同地区では,「Cultural Network Neukölln」(1995年~)や「48 hours Neukölln」(1999年~)など,特に1990年半ば以降アーティストによる自発的活動が活発化していった.2003年には連邦政府およびEU地域開発基金(ERDF)を基に地区改善事業が開始され,街区マネージメントが開始された.さらに2005年には民間団体であるテンポラリーユースエージェンシーが同地区に多い空き店舗を活用し,アーティストや都市企業者への期間限定的借用を開始した.ロイター地区は2008年以降,広義における文化施設(アトリエ,カフェ・バー,ブティックなど個人経営の小売店・サービス業)の増加が著しい.旧東西境界線(ベルリンの壁)に近接する地区は,東西分断時には国家の縁辺部として衰退していたが,統一後に地理的中心性を回復した.こうした衰退地域では,交通利便性のほかに,未修復・未改善の建造物に起因する安価な地代などから,東西統一後の1990年代よりアーティストや都市企業家が積極的に移住し,地区のイメージを高めていった. 本研究で明らかとなった知見は以下の通りである.第一に,商業施設の分布に着目した土地利用からは,既存研究で指摘されてきたエスニックマイノリティなどの立ち退きによる置換(上方変動)というより,大通り沿いの商業施設(小売店)はエスニック関連施設,小路には小売店事業主(商業,サービス業)が集積し,より偏在的かつ多面的に変容を遂げていったことがわかる.第二に,ロイター地区の改善過程をみると,アーティストがパイオニア期である1990年代半ば以降転入しており,続いて1990年代末以降,創造産業を含む小売店事業主(商業,サービス業)が同地区へと転入した.こうしたことから,創造階級のなかでも特にアーティストは,他の商業・サービス業などの創造産業と一種異なる役割を果たしていることが,ジェントリフィケーションの時系列的変化より明らかとなった.
著者
小池 拓矢
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1.</b><b> </b><b>はじめに<br></b> これまで、観光回遊行動に関する研究においては、観光地を訪れている観光者に対するアンケート調査やGPSロガーを用いた調査により、観光者がどのようなルートをたどってどこを訪れたのかについて、分析が行われてきた。これらの分析においては、主に観光施設内や観光地間での観光者の典型的な移動パターンや、距離や時間などの回遊行動を規定する要因などについて明らかにされてきた。一方、実際に観光者を誘引している個々の観光対象のもつ属性や観光対象間の関係性について、議論の対象となることは少なかった。しかし、情報入手手段や観光者の旅行形態が多様化した現代における観光行動を把握するためには、観光対象の本質的な特徴を捉えることが必要となるだろう。そこで、本研究では観光対象の特徴が観光行動にどのような影響を与えるのかを明らかにする。<br><b>2.</b><b> </b><b>研究方法<br></b> 本研究では、観光者の回遊行動を把握するための第一段階として、定期観光バスなどによるパッケージツアーにおいて、それぞれのツアーの訪問地について分析する。具体的には、「はとバス」ホームページ上のツアー検索を用いて、日帰り・宿泊のツアーがともに存在する東京発長野行きのバスツアーについて整理した。<br><b>3. </b><b>結果<br></b> 検索の結果得られた16ケースのツアーを対象に、訪問地の整理をした。まず、特徴的であったのが、観光入込客数の多い観光地である善光寺(2位)や上田城跡(8位)がすべてのツアーで訪問地になっていなかったことである(括弧内は長野県主要観光地の平成24年度観光入込客数の順位)。必ずしも観光入込客数の多い観光地を訪問地として選択しているわけではなかった。また、図1はすべての訪問地の位置を特定できた8ケースのツアーについて、最初の訪問地から最後の訪問地までの行程を直線でつないだものである。図1からは、多くのツアーが県の外縁部で行われていること、上高地にツアーの訪問地が集中していることなどがわかる。 今後は、他の地域や他の旅行会社のツアーの分析、マイカーによる個人での旅行における訪問地の分析を通して、観光行動においてそれぞれの観光対象がもつポテンシャルを明らかにする。
著者
フルガラ ラナトゥンゲ 井上 吉雄 三上 岳彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.71, 2006

ENSO related spatial and seasonal variation in rainfall regimes in Laos was investigated using the Factor Model (FM). A 3-Factor Model (FM) with statistically significant t-values identifies the three seasonal rainfall regimes, which can be characterised as wet, dry, and inter seasons rainfall. Influences of ENSO were significant during the wet season, and apparently a significantly lower rainfall during the wet seasons. The wet season rainfall found to be most important in restricting upland rice farming in Laos. Significant correlation coefficients are found between rainfall and upland rice production. Importantly the ENSO related rainfall largely controls the upland rice production in Laos.
著者
山内 昌和 江崎 雄治 西岡 八郎 小池 司朗 菅 桂太
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.109, 2009

<B>課題</B> 沖縄県の出生率は、少なくとも沖縄県が日本に復帰して以降、都道府県別にみればもっとも高い値を示す。2007年のTFRは全国の1.37に対し、沖縄県は1.78であった。<BR> 沖縄県の高い出生率の背景に夫婦の出生力の高さがあることは知られているが(例えば西岡・山内2005)、さらに踏み込んだ検討はほとんどなされていない。こうした中で、Nishioka(1994)は、1979年に沖縄県南部地域で行われた調査データをもとに、沖縄県の夫婦の出生力が高いのは家系継承者として父系の長男に固執するという家族形成規範があることを実証した。同研究は沖縄県にみられる出生行動とその要因を指摘した重要な研究といえる。しかし、近年の沖縄県の出生率が低下傾向にあることを踏まえるならば、現代の沖縄県の出生率の高さを沖縄県特有の家族形成規範で説明できるのかどうか慎重であるべきだろう。他方、Nishioka(1994)は言及していないが、沖縄県の高出生率は人口妊娠中絶率の低さとも関わっている。このため、妊娠が結婚・出産に結びつきやすいことも沖縄県の高出生率の一因となっている可能性がある。<BR> 以上を踏まえ、本研究ではNishioka(1994)で利用された調査データの対象地域を含む地域で改めて調査を実施し、近年の沖縄県における出生率の高さの要因について検討する。<BR><B>方法</B> 出生行動を把握するための独自のアンケート調査を実施し、その結果を分析する。アンケート調査は調査員の配布・回収による自計式とし、20~69歳の結婚経験のある女性を対象として2008年10月下旬から11月中旬にかけて実施した。対象地域は沖縄県南部のA町の複数の字であり、全ての世帯(調査時点で1,838)を対象とした。<BR><B>結果</B> 調査票は20~69歳の結婚経験のある女性1,127人<SUP>1)</SUP>に配布し、有効回収数は946(83.9%)であった。<BR> 分析対象とした調査票は、有効票のうち、Nishioka(1994)や全国の出生行動についての調査結果(国立社会保障・人口問題研究所2007)との比較可能性を考慮し、夫婦とも初婚であり、調査時点で有配偶であること、子どもの数とその性別構成が明らかであること、さらに複産・乳児死亡を含まないという条件を満たす706である。分析の結果、以下の点が明らかになった。<BR>(1)45~49歳時点の平均出生児数は2.9人で全国の2.3人(国立社会保障・人口問題研究所2007)よりも多かったが、1979年の4.7人(Nishioka1994)よりも減少した。<BR>(2)かつてみられた強固な男児選好は弱まっていたが、夫ないし妻が位牌を継承した(或いは予定のある)ケースでは男児選好が強く、多産の傾向がみられた。このため、沖縄県特有の家族形成規範と出生行動との関連は弱まっているものの、依然として一定の影響を与えていることがわかった。<BR>(3)第1子のうち婚前妊娠で生まれた割合が全体で4割を超え、明瞭な世代間の差もみられなかった。このため、妊娠が結婚・出産に結びつきやすい傾向は少なくとも数十年間は継続していると考えられる。<BR> 以上から、沖縄県の高出生率をもたらしている夫婦の出生力の高さの要因として、沖縄県特有の家族形成規範と妊娠が結婚・出産と結びついていることの2点を挙げることができる。ただし、沖縄県特有の家族形成規範と出生行動との結びつきは弱まっており、今後は沖縄県の出生率がさらに低下する可能性もあろう。<BR> なお、本研究の実施に当たって科学研究費補助金(基盤研究B)「地域別の将来人口推計の精度向上に関する研究(課題番号20300296)」(研究代表者 江崎雄治)を利用した。<BR><BR>1) 対象地域の1,838世帯の全てに調査を依頼し、協力を得られた1,615世帯(87.9%)に対して聞き取りを行い、対象者を特定した。<BR>
著者
前田 健一郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2002, pp.94, 2002

全国レベルでの規模拡大が進んでいない現状の中で、新潟県頚城村では経営規模の拡大が進んでいる点に注目し、規模拡大が展開している要因を考察することを本報告の目的とした。1969年以降からはじまった減反政策のさらなる強化や近年のさらなる米価の低迷は、全国的レベルで水稲作農業経営を困難なものとして、その対応に苦慮しており、低湿地を広く持つ頚城村でも例外ではなかった。畑作物の導入が困難な村の農業経営の安定にとっては、水稲作の大規模化が迫られている。このような状況のもとで、一部の個別経営農家や農業法人では積極的な経営規模の拡大が展開している。農地の流出元は「浜」の少ない面積を所有する多数の農家、「在」の大きな面積を所有する少数の農家が挙げられるが、近隣である上越市周辺の就業機会の深化とともに流動面積を伸ばした。
著者
田代 雅彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<br><br><b>1.はじめに</b><br><br>福岡は、札幌、仙台、広島とともに地方圏での広域中心都市(地方中枢都市)に位置づけられている。バブル経済崩壊後、日本経済が長期の低迷にあえぐ中で、福岡は国内でも相対的に&ldquo;元気な&rdquo;都市と言われ、発展を続けた結果、最近ではいわゆる「札仙広福」から一歩抜けだし、一部の事象では東京、大阪、名古屋という三大都市に迫る勢いを見せている。<br><br>本研究では、福岡の1990年以降の動向について、人口のみならず産業、交通、アジアとの関係、コンベンション、イベントなど多方面のデータより分析し、広域中心都市・福岡の発展要因について分析する。<br><br>&nbsp;<br><br><b>2.</b><b>九州の中枢都市として発展する福岡</b><br><br>福岡の発展要因の1つは、九州という背後圏の存在である。九州は、北海道や東北、中四国など他の地方圏と比較して、人口規模の大きな県都クラスの都市が、域内に分散的に位置している。九州では1990年代に、7つの県都が高速道路で結ばれ「九州クロスハイウェイ」が完成、2000年代には九州新幹線が完成した。福岡に本社を置く西鉄バスやJR九州は福岡を中心とするネットワークを整備、両者が競合することで利便性が高まった。結果、地方圏では規模の大きな九州が、1つのマーケットとして機能するようになり、その中心都市として福岡が発展することとなった。<br><br>福岡は、大都市圏に流出する若者を九州域内にとどめる「ダム効果」を果たし、学生や若い女性が多く若者へのサービス集積がさらに若者を呼び込む好循環を形成している。<br><br>&nbsp;<br><br><b>3.</b><b>アジアとともに発展する福岡</b><br><br>2つにはアジアとの近さと連動した発展である。福岡市は1989年にアジア太平洋博覧会「よかトピア」を開催し、アジアとともに発展する方向性を打ち出した。当時アジアとの連動は希薄だったが、東アジアが急速な経済成長を遂げる中で、福岡空港の国際線ネットワークは充実、博多港の国際港湾化も進み、交通結節点や各種都市機能がコンパクトに整備された福岡はアジアの玄関となっていった。<br><br>また、アジアなど国際市場をターゲットにした自動車産業をはじめとする大企業の主力工場が、九州各地に相次いで立地・拡大し、九州経済はアジアとの連動性を高めていった。同時に豊かになったアジアからの入込も増加した。九州がアジアと連動して発展した結果、九州の中枢都市である福岡も国際都市として発展した。<br><br><b>&nbsp;</b><br><br><b>4.福岡は&ldquo;日本の第4の大都市圏&rdquo;へ</b><br><br> 福岡は、東京や大阪、京都などとともに各種の世界都市ランキングに登場することが増え、世界的にも国際都市として認知されるようになった。このランキングには札幌、仙台、広島はもちろん名古屋でさえ登場は稀である。<br><br>この福岡の発展は、交流人口に支えられている。国際コンベンション開催件数は東京に次いで2位。2003年には日本医学会総会が三大都市圏以外では初めて福岡で開催された。著名アーティストの公演(ライブ)でも、札幌、仙台、広島を大きく引き離し、名古屋に迫る勢いである。<br><br> 福岡は、三大都市圏とは異なるコンパクトさが特色であり、人口減少社会に向かう日本において、新しい大都市のモデルとなることが期待されている。
著者
中川 清隆 榊原 保志 下山 紀夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.43, 2007

<BR> 筆者らは、第2筆者を代表者とする任意団体「気象情報を教育に利用する会」を結成して、「気象情報画像取り込み・表示ソフト」の普及に努めてきた。旧版ソフトを公開して4年が経過し、(1)静止気象衛星の交代(GMS5→GOES9→MTSAT1)、(2)気象庁の画像圧縮形式変更(jpeg形式→png形式)、(3)気象庁および広域定点観測実証コンソーシアムのURL変更等が相次いだため、デザインやコンセプトは旧版を踏襲するものの、コーディングそのものは全く新たにやり直して、大幅な改訂を行ない、改定版を作成したので、その概要を報告する。<BR> 2005年6月のMTSAT正式運用後、日本気象協会の画像の領域が気象庁実況天気図領域をはるかにしのぐ領域に拡大されたのを利用して、画像ビュアーサブソフト(第1図)の実況天気図全域と衛星画像の重ね合わせを可能にするとともに、画像観察ウィンドウを3画面に増設した。これにより、旧版では基本画面と観察画面との比較しかできなかったのに対して、改訂版では3種類の衛星画像同士とか3箇所のライブカメラ画像同士等、様々な画像を比較することが可能となった。<BR> 発表当日、「気象情報を教育に利用する会」入会手続者にソフト入りCDを先着順に実費配布する。また、既存会員にはメール添付ファイルにより改訂版ソフトを送付する体制を整備する予定である。
著者
櫛引 素夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

1.はじめに<br>&nbsp; &nbsp;北陸新幹線が2015年3月に開業し、東京-金沢間が2時間半まで短縮された。2016年3月には北海道新幹線が新函館北斗開業を迎える。本研究は、新幹線駅が郊外に立地した市に着目し、より適切かつ速やかな対策の検討に寄与することを目的として、発表者が2015年までに青森市や北陸、北海道新幹線沿線で実施したフィールドワークと郵送調査に基づき、整備新幹線とまちづくりの関連について、地域政策上の論点整理と問題提起を速報的に試みる。 <br><br>&nbsp;2.北陸新幹線沿線の概況<br>&nbsp; &nbsp;JR西日本のデータによれば、北陸新幹線利用者(上越妙高-糸魚川間)は在来線当時の3倍の水準で推移している。ただし、地域を個別にみると、例えば富山県高岡市は新幹線駅が在来線の高岡駅から1.8km南側に位置している上、速達型列車「かがやき」の全定期列車が通過し、さらに北陸本線が経営分離され特急列車も全廃に至った状況に対して住民の強い批判が存在する。新幹線通勤者の発生に伴う新高岡駅一帯の駐車場不足も問題となっている。 <br>&nbsp; &nbsp;また、新潟県上越市は、都市機能が直江津、春日山、高田、上越妙高の4地区に分散した。直江津駅は鉄道の結節点としての機能が低下する一方、田園地域に新設された上越妙高駅周辺の再開発地区利用は進んでいない。上越地方全体としても、特急「はくたか」の廃止によって中越・下越地方との往復手段が激減した。加えて、「かがやき」が上越妙高駅に停車せず、やはり住民の不満が大きい。<br><br>3.北海道新幹線の開業概要<br>&nbsp; &nbsp;北海道新幹線は新函館北斗-東京間が最短4時間2分と時間短縮効果が限られ、直通列車も1日10往復にとどまる上、新駅から函館市中心部まで18km、駅が立地する北斗市の市役所は11km離れている。料金も割高で、開業によって観光客がどの程度、増加するか、また、函館市や北斗市のまちづくりがどう進展するか不透明な状況にある。新函館北斗駅前の利用は進んでおらず、むしろ南隣の木古内駅一帯が、道の駅の併設などによって活況を呈している。<br><br>4.青森駅、新青森駅と市民の意識<br>&nbsp; &nbsp;各市町のまちづくりが今後、どう進展するかを予測する参考とするため、発表者は青森市民を対象に、青森駅および新青森駅に関する郵送調査を実施した(対象257件、回答87件、回収率34%)。<br>&nbsp; &nbsp;市中心部に立地する青森駅からみて、東北新幹線の終点であり北海道新幹線の起点となる新青森駅は約4km西に位置する。2010年に東北新幹線が全線開業した後も周辺に商業施設やホテルは立地していない。<br>&nbsp; &nbsp;ただし、函館市の医療法人が2017年春の開業を目指して総合病院を建設中で、新幹線駅前の利用法の新たな姿を示した。<br>&nbsp; 二つの駅と駅前地域に市民は強い不満を抱いており、総合的な評価で「満足」と答えた人は実質ゼロだった。機能や景観、アクセス、駐車場など、ほぼすべての面で不満が大きく、特に新青森駅の機能や景観への不満が目立った。<br> 両駅周辺の将来像については大半が「今と変わらない」もしくは「すたれていく」と予測する一方、今後の対応については、両駅とも「一定の投資を行い速やかに整備すべき」「投資は抑制しつつ着実に整備」「整備の必要なし」と回答が分かれ、市民のコンセンサスを得づらい状況が確認できた。<br><br>5.考察と展望<br>&nbsp; &nbsp;青森市民への調査を通じて、「新幹線駅はまちの中心部にあって当然」「新幹線駅前には買い回り品を扱う商業施設や都市的な集積、景観が必要」とみなす住民が多いことが確認できた。ただ、多くの回答者は新幹線利用頻度が1年に1往復以下にとどまり、積極的に両駅前へ出向いているわけでもない。上記の認識は必ずしも自らの新幹線利用や二次交通機能、外来者への配慮、さらにはまちづくりの議論と整合しておらず、鉄道駅や駅一帯の機能と景観をめぐり、市民の評価に錯誤が存在している可能性を否定できない。<br>&nbsp; &nbsp;同様の傾向は、高岡市や上越市にもみられている。 <br>&nbsp; &nbsp;住民らは、在来線駅と新幹線駅が併設された都市を念頭に「理想像」を描き、そこから減点法で最寄りの新幹線駅を評価している可能性がある。その結果、新幹線駅が郊外に立地した地域では「理想像からの乖離」が、いわば「負の存在効果」をもたらし、新幹線をまちづくりに活用する機運を削いでいる可能性を指摘できる。 <br>&nbsp; &nbsp;整備新幹線の開業に際しては、主に観光・ビジネス面の効果が論じられがちである。だが、人口減少や高齢化の進展に伴い、医療資源の有効活用や遠距離介護、さらに空き家の管理・活用問題といった、住民生活や都市計画・まちづくりの課題を視野に、地理学的な視点に基づく地域アジェンダの再設定が不可欠と考えられる。
著者
金 木斗哲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.110, 2006

1.はじめに<BR> 近年の韓国農村部にはどこかで活気を感じさせるところが多い。都市との生活水準の格差は依然としてあるものの、社会基盤整備も進んでおり、毎年のような変わっている韓国農村部の変貌ぶりには目を見張るものがある。本報告では、韓国農村部における近年の劇的な変化の要因を、1990年代以降の韓国農村部をめぐる社会経済的な環境変化から明らかにするとともに、変化の渦中にある韓国農村部の中でひときわ注目を集めている全羅南道咸平郡を事例として取り上げ、韓国農村部自治体の新たな地域開発戦略である「場所マーケティング」ついて検討し、場所マーケティング戦略が韓国農村部に新たな活路を見出す可能性について検討する。<BR>2.韓国農村部をめぐる社会経済的な環境変化<BR> 韓国において1990年代はあらゆる面で大きな変化があり、韓国の現代史の中で一つの分水嶺になるに違いない。何よりも30年間続いてきた軍部独裁による強権統治が終焉を告げ、社会全般に重くのしかかっていた権威主義的な雰囲気が晴れてなくなった。このような変化の具体的な内容は次の5つにまとめることができる。第一に、民主化と伴ういわゆる「文民政府」の登場と、それによる農業農村政策基調の変化である。この時期に至って農業農村部門への財政投資が本格的に行われるようになるが、その物的基盤になったのは地方譲與金制度の創設や各種補助金の拡充である。第二に、1995年の地方自治制の復活と民選郡守(郡長)による地域活性化への取り組みである。韓国農村部は、韓国社会全般の植民地支配と朝鮮戦争による伝統との「断絶」の上、画一性や均一性を重んじる軍事文化が社会全般に横行し、「没地域文化」を強いられていたが、地方自治制の復活後は民選郡守による地域活性化への取り組みが本格化し、伝統文化の発掘や特産品の開発など様々な試みがなされている。実に、2005年には600を超える「地域祝祭」が全国各地で行われている。第三に、金融危機以降の金融界の貸付先の変化である。金融危機後に新たに登場した融資先が土地などの担保能力のある自営業であり、与信禁止業種の緩和もそれに拍車をかけた。その結果、レストランやホテルなどの消費部門の過剰競争が起こり、それらの自営業が農村部にまで乱立するようになった。第四に、農村部における交通網の整備とIT化の進展である。1990年代以降農村部への財政投資の多くは道路整備に投じられ、農村部へのアクセスを飛躍的に向上させた。また、高速インターネット通信網の整備も進み、農村部にも高速インターネットが広く普及した。インターネットの普及に伴う農村部からの情報発信は新たな農村観光の需要を引き起こし、網道路整備による時間距離の短縮はそれらの需要を現実のものとした。最後に、観光パターンと意識の変化である。観光パターンの変化は農村を「立ち去るべき」空間から「訪れる価値のある」余暇空間へと変えていった。2002年からは週休二日制が導入され、農村観光の需要は大幅に増えている。<BR>3.場所マーケティングよる地域戦略<BR> 咸平郡の事例咸平郡は全羅南道に属する韓国の代表的な後進地域で、過去35年間に2/3以上の人口が減少し現在は約4万人で高齢化率は約21%、専業農家率は約80%である。最寄りの中心都市は東に約50_km_離れている光州市であり、ソウルまでの距離は約440_km_で高速道路を利用した場合約4時間30分で結ばれる。場所マーケティングとは、新しい地域のイメージを創り出し、場所資産としてマーケティングすることによって、地域経済の活性化を図るというものであるが、咸平郡では1999年から「チョウまつり」をはじめ、150万人以上の観光客で賑わっている。すなわち、地域のイメージを創造や清浄を連想させる「チョウ」に代表させ、地域ブランドとして「Nareda」(韓国語で'飛ぶ'という意味の造語)を登録し、すべての地元特産品に「Nareda」の商標を付け、付加価値の高い販売戦略を取っている。ここで注目すべき点は、咸平郡という場所性とチョウとの関連性であるが、実は「チョウまつり」以前の咸平郡はチョウとはまったく無縁であった。にもかかわらず、生態観光や体験型観光を求める需要に合わせて当該地域を「商品」として開発し、新しい地域性を創り出したのである。従来の地域づくりや地域ブランド化戦略では地域固有の資源、すなわち場所性に基づいて行わなければならないと主張されてきた。しかし、すべての地域が競争力のある地域資源を持っているとは限らない。それ故、場所性を場所に対して認知された特性と定義し、需要に合わせて修正ないし形成可能であるという場所マーケティング戦略は注目に値する。
著者
阿子島 功 山野井 徹 川邊 孝幸 八木 浩司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.110, 2003

<B>1.問題点</B> 山形盆地南部の上山断層は、酢川火山岩屑流台地を上下2面に分ける、地形的には比較的明瞭な活動度B級の断層である。 山形盆地西縁断層群については、科技庁の平成9から11年度交付金による山形県の調査によって活動歴に関する資料が増えた。 地震調査研究推進本部の平成14年5月評価では、予想される最大地震規模7.8、活動間隔約3,000年、最近30年間の地震確率は ほぼ0から7%と 社会的にも影響の大きい評価となった。 その根拠のひとつは、総延長を上山断層を含めて約60kmとしたことである。 しかし、盆地南半西縁の山辺町から山形市村木沢の一連の南北性の断層群と上山断層との連続性には問題がある。 西側隆起という共通性はあるが、上山断層の走向はNE-SW方向で、両者は斜交し、上山断層の走向方向からはむしろ山形盆地東縁の断層に連なる。上山断層の詳細な活動歴・活動様式はわかっていなかった。 地域整備振興公団の協力を得て調査した。 <B> 2.調査手法</B> 上山断層北半部でトレンチ3ケ所、ボーリング2本、酢川火山岩屑流上位面の凹地の堆積層中の広域火山灰検出のためシ゛オスライサーによる採取3本である。<B> 3.調査結果</B><BR> <B> 1) 断層の累積変位量と長期的平均変位速度</B> ボーリングb-1は 断層崖の中腹にあり、上位面頂部より約25m低い。-30mまで粗大な岩屑よりなる火山岩屑流堆積物で断層破砕帯はない。<BR> 下位面のb-2はGL-1から-4mが表層堆積物、-4から-43mまでは一部に木片を含み、やや泥質な部分を含む火山岩屑流堆積物、 -60mまでは岩屑流堆積物である。 -49m付近にせん断面あり。 b-1,2とも第三紀凝灰岩に着岩しなかった。 断層の累積変位量:断層崖両側の酢川火山岩屑流堆積層の頂部の比高(b-1頂+25mとb-2の-4mとの比高)は約46mである。 酢川岩屑流の年代:b-2の-23m,-32mの木片(周辺に腐植層などが挟まれていないので岩屑流に巻き込まれたものと解釈)の14C年代は 後述T-1の年代よりも新しくなり上下逆転した。 上位面の凹地堆積層6mのうち2枚の火山灰をそれぞれNm-Kn,Ad-N1に対比し(八木が別報とする)、2層の火山灰年代を外挿すると、火山岩屑流台地面が形成された年代は 約75,000年前となる。 よって、長期的平均変位速度は約0.6m/1000年(1.8m/3000年)となる。<B>2)最新の断層運動</B> トレンチT-3(探さ3m、延長6m)では、黒ボク土を含む礫層と締まった砂礫質粘土層が 逆断層状に接している。イベントは2回以上、変形を受けた礫層の年代は3,430+_50(yrBP)、覆土の年代は270+_40(456から5 Cal yrBP)である。 上下方向の単位変位量は1.5m程度。<B>3)未固結堆積層の塑性変形</B> T-1、T-2では、断層破砕帯は認められないが、顕著な地層の変形がみられる。 T-1(8m深、20m長)に酢川火山岩屑流堆積層の2次堆積層がみられ、地表面傾斜が約10°、 トレンチ上部の地層の傾斜が約20°である。高角度の明瞭な断層破砕帯はないが、3種類の変形構造が認められる; 1)層理面の変形で波高1.5m程度の波状および炎状の断面形を示す。 2)層内の微小なせん断構造。 3)幅数cmで、延長が数m以上つづく低角度・南傾斜のせん断面である。 T-2(6m、30m長)では、岩屑流堆積層の2次堆積層のなかに著しい変形構造が認められる。 最大波高2mで、地層のひきずり変形構造、 褶曲構造、礫の配列異常など。変形のひきずり方向は南側へ押し出すような方向である。変形している地層の年代測定を行った結果、変形の時期はT-1では46,300±630(yrBP)以降、T-2では27,870±190(yrBP)以降であった。断層活動の強振動によって未固結の堆積層が塑性変形した可能性がある。<BR>図1 上山断層北部の調査地点 CTO-76-19に記入
著者
淺野 敏久 金 枓哲 伊藤 達也 平井 幸弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.139, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 2006年4月に韓国・セマングム干拓事業の防潮堤がつながった。2箇所の水門はまだ開放されているものの,約33kmの堤防により干拓事業地は外海から締め切られた。事業はまだこれからが肝心の部分であるが,ここに至るまで,世界的な巨大開発事業に対して,環境への影響を懸念した反対運動が全韓国的に展開されてきた。<BR> 報告者らは,セマングム問題に関する調査を,2003年度より共同研究として続けてきた。2006年度は,科研費は切れていたが,締め切り後の状況を知るために現地を訪れた。今回は,セマングム問題の現状を報告するとともに,断片的に状況を把握したレベルではあるが,この間のセマングム問題をめぐる環境運動の変化について,運動体の支持層・参加層の空間的な違いに注目しつつ指摘することを目的とする。<BR>2.セマングム問題の経緯<BR> 韓国西南海岸では,1970年代に干潟の開発が注目され,西南海岸干拓農地開発事業基本計画が策定された。セマングムはその10分の1を占める巨大開発で,閉め切り面積は約4万ha,干拓面積は28,300haに及ぶ。セマングム開発は1991年に起工されるが,1996年に同様の干拓地であるシファ地区での水質悪化が社会問題化し,これをきっかけに,セマングム開発への懸念が全羅北道の環境団体から投げかけられると,全国的な注目を集めることになった。<BR> 全羅北道が強く要望する産業・都市開発に対して,1998年末に用途変更は認めないと農林部が表明,セマングム開発は建前上,農地開発を行うものとして進むことになる。水質問題が争点になり,環境影響評価を行うための民・官共同調査団が組織され工事が一時中断した。この間,反対運動は全国的に広がり,環境団体,労働・社会団体などが抗議行動を次々に起こしていった。<BR> 一方,高まる事業反対世論に抗して,全羅北道の有識者らが環境に配慮した事業の推進を求め,全道的な事業推進運動に発展していく。農地だけではない産業・都市開発が提案され,「親環境的な開発」がキーワードになっていく。 <BR> 2003年3月,キリスト教や仏教の宗教指導者が,三歩一拝デモを始めると,賛否双方の運動はますます過熱化し,社会的混乱が生じ,同年7月にソウル行政法院が,反対派の求めた本訴判決までのセマングム工事執行停止を命じると,それはピークに達した。翌年1月に,ソウル高裁はこの仮処分決定を取り消し,2005年2月にソウル行政裁判所が事実上の原告(反対派)勝訴判決を下すものの,進行中の防潮堤補強工事と残る区間の防水工事の工事中止決定を出さなかったために工事は進み,さらに控訴審で原告敗訴の判決が下ると一気に防潮堤工事が進んで,2006年4月にはセマングムは水門部分を除いて外海から隔てられることになった。<BR>3.ケファの変化<BR> ところで,筆者らは,地元の反対運動の拠点となったケファ地区を2003年から2006年まで毎年訪れ,この問題に翻弄されたこの集落の変化を見た。初めての時は,過激な行動を辞さない抵抗運動が行われ,ソウルから若い「活動家」が住み込んでいたが,工事が再開した2005年には彼らはいなくなり,絶対反対のこの地区と親環境的な開発を視野に入れた方針転換を図りつつあった全国的環境団体との温度差がみられるようになった。2006年にはこの地区の干潟は消失(陸化)して,砂地がどこまでも広がる景観が現れ,この地区では干潟の恵みを生活の糧にすることはできなくなっていた。絶望感が漂う一方で,これからどうするかというアイディアが,反対を続けてきた住民の中から出されてもいて,この土地で生き続けてきた人のしぶとさも感じられた。<BR>4.環境運動の変化<BR> この問題について調べる中で,韓国と日本の環境運動の違い,例えば,民主化運動とのつながり,大衆的な運動スタイル,運動団体の規模・人員の充実度,労組や宗教団体などとの幅広い連帯,運動の舞台となるソウルの重要性といったことや,セマングム問題を理解する上で重要な全国レベル・道レベル・地区レベルそれぞれの空間的な枠組み,例えば,運動がこの空間ごとに異なる様相を示し,それぞれでの利害関係が問題の社会的な側面を構成していることなどに気づかされた。本報告では,この環境運動の空間構造について論じるつもりである。
著者
尾方 隆幸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1. 普天間飛行場代替施設建設事業<br> 日本政府の「普天間飛行場代替施設建設事業」に関するさまざまな準備作業が,名護市の辺野古湾および大浦湾周辺で進められている.これまで,日本生態学会による「沖縄県名護市辺野古・大浦湾の米軍基地飛行場建設に伴う埋め立て中止を求める要望書」(2013年3月),沖縄生物学会による「米軍普天間飛行場代替施設建設のための辺野古埋め立て計画に関する意見書」(2014年2月)など,生物科学関係の学会からは反対意見が提出されている.本発表では「普天間飛行場代替施設建設事業」について,ジオコンサベーションの観点から検討する.&nbsp;<br><br>2. 沖縄のサンゴ礁と辺野古の生物多様性<br> 日本の地理学的特徴のひとつに,南北方向に長い国土による気候の多様性がある.その中で,南西諸島をはじめとする広い地域にサンゴ礁の生態系を有することは,国内の自然資源を考える上で大きな意義を持つ.しかしながら,これまでに進められた開発行為により,特に沖縄島周辺のサンゴ礁は破壊が著しく,ごく一部の海域を除いて健全な造礁サンゴは残されていない. <br> 一方,辺野古周辺には,環境省の「日本の重要湿地500」(No.449沖縄本島東沿岸)に指定された自然度の高い海域がある.辺野古~漢那の選定理由には「ボウバアマモ,リュウキュウアマモ,ベニアマモなどの大きな群落.アマモ類を餌にする特別天然記念物のジュゴンは,この海域で発見例が多い.沖縄島北東部の沖には藻場が存在し,そこにアオウミガメの大規模な餌場があるらしいことがこれまでの調査から推定される」とある.また,沖縄県による「自然環境の保全に関する指針」においても,最も評価の高い「ランクI」(自然環境の厳正な保護を図る区域)に指定されている.すなわち,生物科学の専門家のみではなく,国および県もこの海域の極めて高い自然的価値を認めている.<br> 辺野古の周辺は,良好な状態でサンゴ礁の生態系が守られてきた数少ない海域である.あえてそのような海域で大きな環境破壊を伴う事業を行うことは,日本の自然資源の多様性を自ら損ねる行為でもあり,持続的な国土の発展と整合する事業かどうかを慎重に検討する必要がある.&nbsp;<br><br>3. 辺野古における地質調査<br> 生物資源そのものだけではなく,その生息・生育環境を同時に考えることをジオコンサベーションでは重視する.たとえば新基地の建設が予定されている辺野古を例にすると,藻場や造礁サンゴのみならず,生物活動を支えるサンゴ礁地形・堆積物の保護・保全を問題にする.サンゴ礁の地形や堆積物は,地球の歴史の中で形成された自然史的な資源であり,いったん破壊されると,その回復には極めて長い時間を要する(短期的には不可逆的なものとなる).また,一連の事業はサンゴ礁の表面物質を破砕・拡散させ,破砕物による海水の混濁を引き起こす可能性がある.さらに,調査や建設工事に付随する騒音と海中の攪乱は,ジュゴンの行動に直接的な影響を与える可能性もある.&nbsp;<br><br>4. ジオコンサベーションからみた米軍基地移設問題<br> ジオコンサベーションにおいては,地球科学的資源ごとに,破壊からの回復に要する時間スケールを検討することが重要である.米軍基地移設問題の場合は,既存の米軍基地エリアと,新基地の建設が予定されているエリアの地質・地形を整理し,それぞれの地質・地形について破壊から回復に要する時間スケールを明らかにすることが,地球科学者の課題ではないだろうか.こうした基礎的な研究に立脚する形で問題解決への道を探っていくことを,地球科学者としては提言すべきであろう.さらに,地理学者には,ジオコンサベーションを踏まえた持続的な地域振興について,人文社会科学的な検討も求められよう.
著者
虫明 英太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

文化産業は特定の大都市に集積する傾向が強いが,映画の撮影工程では,製作拠点の外部で<b>ロケーション撮影</b>(ロケ)が行われることが多い.日本では2000年以降,各地の自治体などが<b>フィルム・コミッション</b>(FC)を設立し,ロケ支援事業を開始したことから,ロケがロケ地にもたらす効果が注目されるようになった.しかしながら多くのFCが観光振興・地域振興の目的で設立されたこともあり,ロケ地に対する製作者側の需要や,ロケ地の地理的条件を踏まえた研究は不足している.本研究では,製作者とFCへの聞き取り調査をもとに,製作者がロケ地を選定する基準,FCに求めるサービスを把握した上で,FCの取り組みが製作工程にどのような影響を及ぼすのかについて分析する.また各地のFCが,製作拠点からの距離・地域内の景観など地理的な条件を踏まえつつ,どのようにロケを誘致し,ロケ作品を地域振興に活用しているのかについて考察する.<br>日本の映画産業では1960年代以降製作部門の合理化が行われ,固定式のオープンセットを備えた撮影所の閉鎖が相次いだことから,ロケによる撮影が増加している.ロケ地の選定は撮影前のプリプロダクションの段階で行われ,<b>「画」「予算」「許可」</b>の3点が選定条件となる.画に関しては他地域の景観を代替として利用することも多く,予算は撮影隊の滞在費・撮影準備期間の長さを規定する. 撮影許可については施設管理者や行政・警察だけでなく,周辺住民の理解を得ることも重要となる.映画の製作機能は東京への集積が著しいことから,ロケ地も関東地方に集中しているが,東京の都心部は撮影許可を得るのが難しく,日帰り圏内の市街地などを代替として利用することも多い.<br>FCはロケ地探索やロケハン・ロケの際に利用される.製作者はFCが<b>地域への「根回し」</b>を行い撮影交渉が円滑になることを期待するが,初期のFCは作品を利用した観光振興を目指し,製作者のニーズに応えられないことも多かった.しかし近年では,ロケ支援の経験を多く蓄積したFCは行政各部署・警察などへの交渉力を高めており,製作者とFCの職員との間でも人脈が形成されている.<br>現在国内には,全国組織のJFCに加盟する113のFCと,加盟していない241のFCが存在する. 東京から日帰り圏内の地域では映画やドラマに限らずテレビ番組などのロケの依頼も多く,著名な観光地に加えて学校や公共施設など「どこにでもありそうな景観」も求められる.また1回の遠征で複数のシーンを撮影しようとする製作者も多いことから,地域内の多様なロケ地の情報を提示できるFCに多くのロケが集まっている. 遠隔地では,「その地域でなければ撮影できないもの」が無い限り,ロケ地としての需要は少ない.自治体の出資によって観光地が登場する作品を製作する地域も存在するが,他の地域では許可を得にくい特殊な撮影を実現すること,ロケに対する地域全体の協力体制を整えることなどによって製作者の信頼を得て,「地域性が前面に出ない作品」も含めてロケを継続的に呼び込むFCもみられる.<br>FCはロケ支援経験を蓄積する中で「地域との結びつき」を強め,地域がロケ地に選定される可能性を高めている.すなわち<b>ロケ地情報の収集</b>により多様な画を提案でき,FCの取り組みを通して<b>ロケに対する地域の理解</b>が深まれば撮影交渉は円滑になる.また短期間でのロケ地探索・撮影交渉を可能にすることで,予算面でも製作者に貢献している. 継続的なロケ誘致を実現したFCでは,製作工程だけでなく映画産業全体に貢献する取り組みも行われている.すなわちロケ作品の公開時に関連イベントを開催することで,ロケ支援活動に対する地域のコンセンサスを形成しつつ,<b>宣伝の機能</b>を担うFCが増加している.また自主製作映画のロケ支援や上映機会の提供により,地域に根付いた<b>製作者の育成</b>を図るFCも存在する.
著者
山川 大智 泉 岳樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1</b><b> はじめに<br></b><b></b>&nbsp;近年, UAV(無人航空機)の低コストかつ高解像度のデータ取得能力とSfM-MVS手法を利用し,災害現場やアクセス困難地での地表計測を行う研究(例えば,小花和ほか, 2014; 泉ほか, 2014; 飛田ほか, 2014など)が数多くなされている.一方で,既存研究では露頭のように傾斜がほぼ垂直の崖面を扱った研究はほとんど見られない.これは既存のUAVの自動航行ソフトでは崖面のステレオ画像を取得することが困難なことや基準点の設置や測量が困難であることが影響していると考えられる.<br>&nbsp;そこで本研究では,UAVを用いて露頭のステレオ画像を取得し,露頭の3次元モデル作成を試みた.その際,UAVの位置情報のみを使用した3次元モデル(UAVモデル)と露頭内のGCPの位置を与えた3次元モデル(GCPモデル)の2種類を作成し,精度の差についても検討した.<br> <b>2</b><b> 現地調査の概要</b><br>&nbsp;対象地域は神奈川県足柄下郡箱根町仙石原,箱根外輪山中腹の長尾峠露頭とした.選択理由としては,長井・高橋(2008)に地層構造が示されており比較・検討が行いやすいことや,露頭が小規模でUAVの手動フライト時の安全確保が容易であることなどが挙げられる.露頭全体を目視できる基準点をGNSS(Trimble GeoExplorer 6000XH)で測量し,そこからTS(トータルステーション, SOKKIA SRX3)で露頭内の6点のGCPの位置を測量した.<br>&nbsp;使用したUAVはDJI社のPhantom3 Professionalである.調査は2016年9月16,17日の2日間で行った.16日は撮影設定やフライト方法の検討や練習を行い,17日に撮影した2回分の各約120枚の画像を分析に用いた.フライトは手動で行い崖面との距離5mを目標で行い,概ねオーバーラップ75%以上,サイドラップ60%以上の画像を取得できた.SfM-MVS解析には,Agisoft社のPhotoScan Professional Ver.1.2.5を用いた.<br> <b>3</b><b> 結果と考察<br></b><b></b>&nbsp;カメラ画像の撮影位置の推定結果からUAVと崖面との距離は最大でも8m以下であり,取得した画像の解像度は最大でも0.36cmであることが分かった.17日の2回目の画像に基づく露頭の3次元モデルを図1に示す.3次元モデルを拡大し判読を試みると,直径約1cm未満の中礫以上の粒子の判別が可能であった.<br>&nbsp;露頭内の6点のGCPの位置をGNSSとTSで測量した結果を真値とし,位置情報の付加の仕方が異なる2種類の3次元モデル(UAVモデルとGCPモデル)上での6点の位置の推定値と比較した結果が表1である.GCPモデルの最小二乗誤差(RMSE)が0.16mなのに対し,UAVモデルのRMSEは21.84mと非常に大きい.これはUAVモデルの位置情報はUAVに搭載されている単独測位のGPSに依存しているためz方向や急斜面により視野が狭められているy方向の精度が悪いためと考えられる.ただし,UAVモデルはいずれの方向に対しても系統的な誤差が大きいため,3次元モデル自体の形状や大きさ,方位などの精度は悪くない可能性がある.そのため,2つの3次元モデル内で,長さや方位の計測を行い,比較をおこなった.その結果,長さの精度は両モデルともRMSEが0.15mで同程度,方位に関しても両モデルの差は0.1度未満であることが分かった。このことにより,絶対的な位置精度は高くないが,3次元モデルを用いて露頭の観察や計測を行うには,地上測量を行う必要のないUAVモデルでも十分な精度を持っていることが示唆される.<br><b>謝辞<br> </b>&nbsp;長尾峠でのUAVの撮影許可について,箱根町企画観光部企画課ジオパーク推進室の青山朋史氏に大変お世話になりました。記して謝意を表します。
著者
田力 正好 水本 匡起 松田 時彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.232, 2013 (Released:2013-09-04)

活断層(縦ずれ)の断層崖は,その成長と共に比高を増大させ,重力的に不安定となる.その結果,断層崖では地すべり・崩壊などのマスムーブメントが発生しやすくなると考えられる.縦ずれ断層が多く,新第三紀以降の固結度の弱い岩石が多く分布する東日本(糸魚川-静岡構造線(糸静線)以東)においては,特に高頻度で発生していることが予想される.本発表では,東日本のいくつかの活断層帯において,断層崖に生じたマスムーブメントの実例を示し,その形態や変形の特徴,断層崖の形態に及ぼすマスムーブメントの影響,活断層のマッピング・変位量の測定等の際に注意すべき点などについて述べる.断層崖沿いに重力的な変形(マスムーブメント)が認められることは珍しくない.断層崖に地すべり等のマスムーブメントが生じている場合,重力的な変形の影響を受けてテクトニックな要因のみの変形の場合に比べて低断層崖の位置がずれたり,変位量が大きくなったりする可能性がある.このため,活断層のマッピングや変位量の測定の際には,重力的な変形の影響の有無を検討することが必要である.特に大規模な地すべりや,地すべり地形が不明瞭な場合には,断層近傍の地形のみに着目すると地すべり地形を見落とす可能性があるため注意が必要である.
著者
苅谷 愛彦 松永 祐 宮澤 洋介 石井 正樹 小森 次郎 富田 国良
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.113, 2008

<BR><B>はじめに</B><BR>長野県白馬村白馬尻と白馬岳山頂を結ぶ白馬大雪渓ルートは北アルプスの代表的な人気登山路である.しかし大雪渓の谷底や谷壁では融雪期~根雪開始期を中心に様々な地形・雪氷の変化が生じ,それに因する登山事故が例年起きている1).特に,広い意味での落石 ―― 岩壁や未固結堆積物から剥離・落下・転動した岩屑が谷底の雪渓まで達し,それらが雪面で停止せず,またはいったん停止しても再転動して≧1 km滑走する現象 ―― は時間や天候を問わずに発生しているとみられ,危険性が高い.大雪渓のように通過者の多い登山路では,落石の発生機構や登山者の動態などを解明することが事故抑止のためにも重要である.本研究では,大雪渓に静止画像データロガー(IDL)を設置し,地形や雪氷,気象の状態および通過者の行動を観察・解析した.<BR><BR><B>方法・機器</B><BR><U>IDL</U>:KADEC21 EYE II(カラーCCD,画素数2M).<U>IDL設置点</U>:大雪渓左岸谷壁(標高1730 m).方位角約240度,仰角約5度.<U>記録仕様</U>:2007年6月10日~8月7日の毎日.0330~1900JSTの毎時00/30分に記録(6月10日10時開始).<U>画像解析</U>:肉眼による静止画と疑似動画の解析(落石,通過者数,融雪,気象など).<U>関連野外調査</U>:5月上旬~10月下旬に地温観測や落石位置のGPS測量などを複数回実施.<BR><BR><B>結 果</B><BR><U>IDLの作動</U>:設置直後から正常作動していたが,8月8日以降停止し,無記録となった(浸水による回路損傷).<U>撮像状態</U>:レンズへの着水による画像の乱れや濃霧により,谷を全く見通せない状態が全記録(1767画像)の約21%あった.<U>融雪</U>:反復測量に基づく日平均雪面低下量は5月上旬~6月上旬に約14 cm,6月上旬~7月上旬に約12 cm,7月上旬~8月上旬に約17 cm,8月上旬~9月上旬に約24 cmだった.この傾向は画像解析でも確認された.登山者の増加する7月~8月に融雪が加速したが,主谷はU字型断面をもつため雪渓表面積の減少は著しくなかった.<U>気象</U>:上記のように,全画像の約1/5に降雨や濃霧の影響が認められた.しかし大雪渓下部での降雨や濃霧が大雪渓上部でも同時発生していたのか否かは不明である.一方,大雪渓上部のみでの霧や雪面での移流霧の発生が多かった.<U>落石</U>:画像の前後比較により,雪渓上に落下し,停止した礫が確認された.また,それらの一部には融雪の進行による姿勢変化や再転動が認められ,撮像範囲外に移動したものもあった.さらに,雪渓上に達したナダレや土石流堆積物に含まれていた礫の一部にも姿勢変化や転動が認められた.なお,滑走する礫が雪面に残す白い軌跡は画像では確認できなかった(現地観察によれば,明確な軌跡を残すような巨礫の滑走は5月上旬~10月下旬に生じなかった可能性がある).<U>その他の地形変化</U>:大雪渓上部の珪長岩分布域では落石が定常的に発生しているが,画像では確認できなかった.<U>通過者</U>:7月20日(金)まで日通過者は≦40名(画像不鮮明などによる解析誤差あり)だったが,21日(土)に61名となった.これ以降増加し,27日(金)に292名,28日(土)に253名を記録した.時間帯別累計では,6時以降に増えて8時30分~10時30分に最多となり,11時以降減少することが判明した.<BR><BR><B>主たる結論</B><BR>(1)雪渓には谷壁や支谷から礫が到達し,雪面を滑走するほか,雪面に停止した礫の再転動も生じる.(2)記録期間における大雪渓下部の視界不良率は約20%である.(3)遠隔山岳地における地形,融雪,気象および登山者のモニタリングにIDLは有効である.(4)定量解析のためにIDL画素数の増量のほか,新たに動画記録も望まれる. <BR>--------------------<BR>参考文献:1)小森2006(岳人),2)苅谷ほか2006(地質ニュース),3)苅谷2007(地学雑),4)Kawasaki et al. 2006(EOS Trans. 87(52) AGU 06Fall Mtg. Abst).<BR> ◆本研究は,東京地学協会平成19年度研究調査助成対象.
著者
岡本 有希子 長澤 良太 今里 悟之 久武 哲也 小林 茂
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.10, 2007

<BR> 日本軍は,1928年以降空中写真による地図作製を本格的に開始し,第二次大戦中も各地でこれを実施した.これらの写真は,かなりが終戦時に焼却されたが,2002年9月アメリカ議会図書館で発見された.翌2003年には,このうち標定が可能と思われるもの723枚をスキャンして持ち帰り,この一部について中国製衛星写真と比較対照しつつ標定に成功し(安徽省五河付近),すでに分析がこころみられている(長澤ほか, 2005, 岡本勝男, 2007).本発表は、さらに残されていた空中写真について、とくにその方法と撮影地域を報告する.<BR><B>1. 標定の方法</B><BR> 空中写真に付された地名はごく簡略なため,地名辞典によりまず関係する地域を特定した.スキャンした空中写真をプリントし,これを飛行コース(東西方向)ごとにはりあわせて特徴的な地形を観察してから,Google Earthによって類似のものを探した.拡大縮小が容易なGoogle Earthでは能率的に作業を進めることができ,ひとまとまりの飛行コースの標定はほぼ一日で終了した. <BR><B>2. 撮影場所</B><BR> 図1にそれぞれの位置,表1にひとまとまりの飛行コースの北西・南西・北東・南東隅の緯度経度を示す.緯度経度は暫定的にGoogle Earthにより読み取ったもので,今後の本格的な標定の参考にするものである.撮影地域は農村部にかぎられ,特徴的な農地パターンがみられた.またGoogle Earthにみられる湖岸線や農地パターンと比較すると,大きな変化がみとめられ,解放後の中国における土地開発の進行がうかがわれた.今後は本格的な標定をおこなうとともに,オルソ化などもすすめたい.
著者
川久保 篤志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.6, 2004

1.はじめに<br> 日米間の農産物貿易で長年の懸案であったオレンジの輸入自由化(1991年)が実施されてから10年余りが経過した。自由化前には,輸入の増加による日本の柑橘農業への悪影響やわが国の青果物流通業界の再編や海外農場への進出,外資系企業の日本進出など様々な予想がなされたが,現実にはどのように推移したのか。<br> 本発表では,自由化後のオレンジ生果の輸入動向の特徴を統計的に把握し,そのような変化が生じた要因を,わが国のオレンジの流通・消費事情の変化から探ることにする。<br><br>2.自由化後のオレンジ生果の輸入動向<br> 図1は,1980年以降の日本のオレンジの輸入量を国別に示したものである。これによると,自由化後の変化として次の2つが指摘できる。1つめは,輸入量は自由化後の4年目にあたる1994年をピークに減少基調にあることである。2002年には自由化が政治決着した1988年の水準をも下回っている。2つめは,減少基調のなかでアメリカ産のシェアが低下し,輸入国が多様化してきたことである。これは,アメリカ産の流通の端境期にあたる8_から_11月にオーストラリア・南アフリカ共和国など南半球産のオレンジの輸入が増加してきたことによる。しかし,このような変化は既に1971年に自由化されているグレープフルーツにはみられず,日本特有のオレンジ流通・消費事情が反映されたものであるといえる。<br><br>3.自由化後のオレンジの流通・消費事情<br> 自由化前のオレンジは完全な供給不足で買い手市場の状況にあり,政府から割り当てられた輸入枠の大小が輸入業者の利益の大小にほぼ直結していた。このため,自由化後は多くの社・卸売業者・小売業者が競って輸入業務に参し,一部の商社や小売業者ではアメリカのオレンジ農場に資本提携や契約栽培といった形で直接関わる動きもみられた。しかし,多くの輸入業者は日本での販売先を確保してから輸入するのではなく,輸入後に探したり,とりあえず卸売市場に流すといった販売方式を取っていた。このため,過剰輸入が港湾倉庫での在庫と鮮度の低下・腐敗をもたらし,販売価格が輸入価格を下回ることも生じた。<br> このような流通業者の需給バランスを無視した過剰輸入は,自由化前の希少価値のある高級品としてのオレンジのイメージを一挙に崩壊させ,自由化当初に目玉商品として設定された低価格をさらに下回る価格が近年では定着することになった。また,消費そのものが減少傾向にあることについては,健康食品しての評判が定着したグレープフルーツに外国産柑橘のトップ<br>銘柄を奪われたことや,自由化後にバレンシア種からネーブル種に輸入の主力品種が変化することで日本の中晩柑類との時期的競合が激化し,競争に敗れたことが大きな要因である。今や小売店におけるオレンジは,グレープフルーツに次ぐ外国産柑橘,日本産柑橘のシーズン終盤にあたる3・4月の主力柑橘,として果実コーナーで販売される商材になってしまったのである。<br>