著者
山下 宗利
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

テーマ性を有した大規模なアートプロジェクトが西洋で始まり、世界各地に展開されてきた。近年、日本においても、まちづくりの支援や地域振興を目的としたさまざまなアートプロジェクトが生まれている。日本ではこれまで以上にアートのもつ機能が注目されている。その分野は多岐にわたり、地域のブランディング、観光産業の振興、低未利用地の活用、若者の転入増加、治安の回復・維持、心のケア、マイノリティの社会的包摂、教育など、それぞれの地域の社会課題の解決を目指して多くの取り組みがなされている。これはアート機能の拡張を反映したものといえる。<br> 地理学においても地域の固有性やアートと場、といった視点からのアプローチがなされてきた。地域に根ざしたアートプロジェクトという観点から、越後妻有「大地の芸術祭」や直島に代表される「瀬戸内国際芸術祭」、「釜ヶ崎芸術大学」などが研究対象とされてきた。作家、行政やNPO、ボランティア、地域の住民、一般の参加者のアートプロジェクトへのプロセスとまなざしが考察されてきた。<br> 大都市の都心では名高い美術館や博物館、ギャラリーが数多く立地し、商業主義的作品の展示場所になっている。これらとは一線を画して、都心周辺部ではアーティスト・イン・レジデンスという形で地域に根ざしたアートプロジェクトが進行中である。これら二つのアートプロジェクトは異なった場所で併存しており、互いの地域差を価値にしている。<br> 若い作家が空き家をアトリエにして作品の制作・発表場所として活用している事例もある。作家志望の大学生をはじめ、さまざまな人々が作家と関係性をもちながらコミュニケーションが生まれている。しかし当該地域が活性化し、ジェントリフィケーションが起こると、経済的に困窮した若い作家にとってその場所はもはや最適な活動場所ではなく、新たな制作場所を求めて移動するようになる。グローバル化の進行に付随したローカル性の追求がそこに見て取れる。<br> アートプロジェクトは社会課題の解決の一方策として注目され、治安の回復と維持、社会的包摂に活用されている。しかし一方で、アートそのものがジェントリフィケーションの機能を果たし、また「排除アート」と称されるアート作品が都心空間に現れ、社会的困窮者の追い出しに作用していることも見逃せない。
著者
太田 慧 菊地 俊夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1</b><b>.</b><b>研究背景と目的</b> 多摩地域に位置する東京都小平市は市域が東西に広がっており,市内の東西で土地利用や産業構造に異なる特徴がみられる.本研究は2016年度に実施した小平市産業振興計画に基づく基礎調査のアンケート結果に基づいて,東京都小平市における消費行動の傾向を品目別に検討し,それらの地域的な特徴について明らかにした.<br><b>2</b><b>.</b><b>東京都小平市における購買行動の地域特性</b> 図1および図2は,小平市の東部,中部,西部の地域別に生鮮食品および娯楽サービスの主要な購入・利用先の回答割合を線の太さで表現したものである.図1のように,小平市の東部地域における生鮮食品購入先の回答は,「花小金井駅周辺地区」で購買する割合が最も高い.一方,中部地域の回答では「一橋学園駅周辺地区」,西部地域は「小川駅周辺地区」などのそれぞれの地域から近い場所で購入する割合が高いほか,一部では「新宿駅周辺地区」や「吉祥寺駅周辺地区」などの都心方面の回答もみられた.娯楽サービスについては,小平市の東部地域は「新宿駅周辺地区」,中部地域と西部地域は「立川駅周辺地区」を利用する割合が最も高くなる一方で,相対的に小平市内における娯楽サービスの回答割合は低い傾向となっていた(図2). さらに,アンケート調査回答の購入・利用割合について,生鮮食品,紳士服・婦人服,娯楽サービス,教育サービス,外食サービス,医療・介護サービスの6項目について検討した.その結果,生鮮食品,教育サービス,医療・介護サービスなどの市民が日常的に利用するものに関しては小平市内やその近隣で購入・利用されていることが示された.一方,紳士服・婦人服,娯楽サービス,外食サービスについては,「新宿駅周辺」や「吉祥寺駅周辺」などの都心方面に加えて,「国分寺駅周辺」や「立川駅周辺」などの中央線沿線の商業地域がよく利用されていた.全体的にみれば,小平市東部地域の住民は「新宿駅周辺」や「吉祥寺駅周辺」などの都心方面において商品・サービスを購入・利用する傾向があるのに対して,西部地域の住民は「立川駅周辺」を回答する傾向があった.また,中部地域の住民は「国分寺駅周辺」の回答がやや多いが,おおむね東部地域と西部地域の購入・利用傾向の中間的なものとなっていた.以上のような小平市内で購入・利用先に差異がみられる傾向は,娯楽サービスでより顕著にみられた.つまり,服の購入,娯楽,外食などの週末の利用が想定される項目に関しては,小平市内よりも新宿や吉祥寺,立川などの中央線沿線の商業地域がよく利用されているといえる.
著者
一ノ瀬 俊明 陳 宏
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.216, 2011

世界最速の都市化、自然条件の多様性というバックグラウンドを持つアジア地域の都市を対象に、環境配慮型都市デザインを実現するための研究を推進してきた。都市の物理的な形態、取り巻く自然条件の優位性、特有の政治・社会体制を最大限生かしたデザインを、日本国内では困難な社会実験(顕)などを通じて得られた知見(実証結果)をもとに提示し、グローバルな都市デザインへの貢献、都市計画のパラダイムシフト、低炭素都市実現への革新的ロードマップの提示をめざすものである。今日、経済的利潤の最大化よりも、よりよい環境の創造を優先させた都市計画の事例は存在せず(先進各国では実質的に不可能)、実現するとしたら、土地利用、都市計画における政策的トップダウンが有効であるアジア(中国など)をおいてほかにないとの考えのもと、数値シミュレーションではなく、実地で効果が検証できれば、都市計画の汎世界的なパラダイムシフトへ近づけるものと考えられる。これは、都市の普遍的な技術システム研究とは異なり、また、上記の視点は日本特有のものである。<BR> 手法としては、フィールド観測と数値シミュレーション、ワークショップが中心となる。その過程で、都市計画・建築計画に環境研究の結果を活かすために、その重要な要点を地図上に表現したもの(環境アトラス)を作成し、これをベースとした解析・議論を進める。たとえば、都市の自然を活かした暑さ対策は、その地域(都市)特有の自然条件、気候条件(海風や山風、緑地や河川)を活用するという意味では、特殊素材などの導入に比べ、空間スケールの大きな対策となりうるが、どこでも同じようにできるというものではない。またこの過程では、市民・行政官・専門家(研究者・デザイナー)がラウンドテーブルで、観測・シミュレーション結果、学術資料をもとに、都市環境に配慮した都市開発プランを討議し、合意形成を進めていくことが必要となる。このアプローチの有効性を確認し、普及させていくことにこの研究の意義がある。<BR> わが国と体制・制度・自然条件の異なる中国の都市において、制度的有利性に依拠した形での、新たな都市開発の方向性を模索し、都市の熱環境の悪化防止、あるいは改善を実現するような都市計画が具体の都市において実現することをめざし、武漢を対象として、数値計算や野外観測の結果にもとづき、来る3月にまちづくりワークショップを開催する。ここでは、「ヒートアイランド緩和策」を盛り込んだ市街地の整備プランなどの提案を行う。当日はその結果について報告する。<BR><BR>謝辞:本発表は、科研費基盤研究B「中国におけるクリマアトラスを通じた都市熱環境配慮型都市開発の実現」(代表・一ノ瀬俊明)の研究成果の一部である。
著者
田中 博春 井上 君夫 足立 幸穂 佐々木 華織 菅野 洋光 大原 源二 中園 江 吉川 実 後藤 伸寿
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.83, 2010

<B>I. はじめに</B><BR> 地球温暖化による気候変動は、農作物の栽培適地移動や栽培不適地の拡大、夏季の高温による人々の健康被害等、多くの好ましくない事例が発生することが懸念される。特に都市化に伴うヒートアイランドの拡大は、高温による人的被害をさらに助長する可能性があり、将来の気候変化を見据えた都市・農地の開発計画が必要である。そこで、農研機構が開発した「気候緩和機能評価モデル」に、気候シナリオを再現できる機能を組み込み、将来気候下で農地・緑地等の気候緩和機能を評価できるようにした。<BR><BR><B>II. モデル概要</B><BR> 「気候緩和機能評価モデル」は農研機構中央農業総合研究センターが2004~2006年に開発した領域気候モデルである(井上ほか, 2009)。コアモデルとしてTERC-RAMS(筑波大学陸域環境センター領域大気モデリングシステム)を用いており、サブモデルとして植生群落サブモデルと単層の都市キャノピーモデルを追加している。Windows XP搭載のPCにて日本全国を対象としたシミュレーションが可能であり、計算条件の設定から結果表示まで、すべてグラフィカルユーザーインターフェースによる操作が可能である。計算可能な期間は1982~2004年。計算可能な水平解像度は最大250m。1976,1987,1991,1997年の全国の土地利用を整備しており、それを元にユーザー側で自由に土地利用の変更が可能である。モデル内の都市を農地に変更することで、現在から将来までの農地の持つ気候緩和効果の理解が容易にできる。 2009年は上記モデルの「気候シナリオ版」を作成し、IPCCにより策定されたA1B気候シナリオに基づいた気候値の予測データ(MIROC)を組み込み、気温や降水量の変化を1kmメッシュで再現できるようにした。計算可能な期間は、1982~2004年の現在気候、および現在気候と同条件下の2030年代と2070年代の将来気候である。<BR><BR><B>III. モデル適用事例</B><BR> 現在気候の計算例として、仙台平野を中心とした領域における2004年7月20日の日平均気温分布を示す(図1(a))。この日は東京で史上最高気温(39.5℃)を記録するなど現在気候下で猛暑の事例である。モデル計算により、日平均気温28℃以上の高温域が仙台平野の広い範囲に分布していることが把握できる。<BR> 同じ期間における2030年代の気温を計算すると、計算領域全体で約1.5℃の気温上昇が認められる(図1(b))。仙台市を中心とする平野部が最も高温であり、海岸部では海風の進入によると思われる低温域が形成されている。さらに、同じ期間における2070年代の気温を計算すると、平野部を中心として32度以上の高温域が広範囲に形成されている(図1(c))。<BR> 2004年と2030年代の気温差を計算すると、領域北部で昇温が大きく、海岸部で相対的に小さい特徴的な分布が把握できる(図2)。これに関しては、海岸部では内陸の昇温により海風の進入が強まり、日中の昇温を現在よりも抑制することが考えられる等、将来の気候分布に力学的な解釈が適用可能である。<BR><BR><B>IV. モデルの利用方法</B><BR> 本気候緩和機能評価モデルの利用にあたっては、下記宛てにご連絡下さい。利用申請を頂いた後、500GB以上のハードディスクを郵送して頂くことで、プログラム・データを無償配布している。本気候緩和機能評価モデルは、日本国内の身近な地域の温暖化を予測するツールとして最適であり、大学や研究機関、中学校・高等学校にての教育や、自治体等で利用可能である。<BR><BR><B>連絡先:</B><BR>独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構<BR>東北農業研究センター やませ気象変動研究チーム<BR>田中 博春 宛<BR><BR><B>文献:</B><BR>井上君夫・木村富士男・日下博幸・吉川実・後藤伸寿・菅野洋光・佐々木華織・大原源二・中園江 2009. 気候緩和評価モデルの開発とPCシミュレーション. 中央農研研究報告 12: 1-25.<BR>
著者
飯塚 遼
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100334, 2016 (Released:2016-04-08)

本発表は、芸術家村としての歴史や農村イメージといった芸術文化を背景としたルーラル・ジェントリフィケーションの進展について議論するものである。
著者
田上 善夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.233, 2010

<B>I はじめに</B><br> 全国各地の神社で行われる風の祭祀は二千数百余を数えるが、災害除けが祈願されることが多く、地域の自然、生産などとの深いかかわりがみられる。祭祀は名称や形態等、地域によりさまざまであり、そこでの風の捉え方や意味などを明らかにすることは、こうした記事を含む史料にもとづいて気候を復元する場合などに資するものと考えられる。もとより各地の気候にまつわる行事の分析には多面的な検討を必要とし、さらに災害除の祈願といえ、台風常襲地域や豪雪地域でも、それらは祭祀の対象とされないことも多く、自然現象とその記録との関係について、詳細な検討を必要とする。さきに神社において行われる風の祭祀について特色を明らかにしたが、風の祭祀は神社のみならず、寺院において、集落や個人宅においても行われる。全国の自治体史などから新たに、風の祭祀にまつわる千件余りの行事を収集し、先の風の祭祀のデータベースに加えた。ここではこれらも含めて、風の祭祀にかんして多少の再検討を試みる。<br><br><B>II 風の神の呼称</B><br> 風に対しては一般的な神名のみならず、民間にさまざまな呼称がある。その例に「風の三郎」があり、それに類した名称を用いる地域が新潟、福島、山形などにみられる。また長野や、岐阜、静岡から伊豆諸島にもみられる。風の三郎と呼ぶのは、山麓に多く、会津から流れる阿賀野川と米沢からの荒川の間にそびえる飯豊山の麓や、またその山麓から離れた島嶼、海岸部にも、風の三郎の例がみられる。信濃川の北岸、信越国境にそびえる菱ヶ岳山麓付近、また上越国境にそびえる谷川岳の山麓付近にも、風の三郎がみられる。<br> 風の三郎は、山上や山麓などに祀られることが多く、狩猟あるいは漁労とかかわりが深い。ここでは強風に限らず、さまざまな風が含まれる。海上では順風も必要であり、風は生産に必要なものとしても捉えられる。<br><br><B>III 風の祭礼の特色</B><br> 社寺また集落などで行われるにせよ、風の祭礼には、五穀豊穣祈願や厄払いなどの要素が含まれる。それらは相互にかかわりあい、地域的差異や時代的変容も大きい。その例として風の鎌立(風切鎌)があげられるが、広域に分布する(図)。山間地に多いが平野部にもあり、そこには農耕や田の神とのかかわりがみられる。風塞ぎ、風の神送りなど災害除けとしての風の祭祀も多い一方、鎌はその設置の状態、位置、代替の御幣、強風の中での呼び声など、風が必ずしも厄払いの対象でないことを示すものも多い。<br> 風の祭礼では、田の神、山の神、風の神などに対する豊作祈願、豊猟・漁祈願、鎮風祈願などが主であるが、こうした祭日は春や初夏にもみられる。一方とくに鎌立てにまつわる風の祭礼は八月二十七日や二百十日ころに多く行われる。これらは稲の開花期の後の登熟期にあたり、収穫を前にして催される行事とみることができる。 <br><br><B>IV 風の祭礼の分布と地域的な風のかかわり</B><br> 豊作予祝や豊猟・豊漁祈願として、山地や山麓周辺での春や初夏での風の祭礼は、基本的なものである。こうした地域には、地形による局地的強風が含まれる場合もあり、それらは春の嵐などに伴いもたらされることが多く、風の神のみならず田や山や神への祈願が結びつくものと考えられる。なお古代以来、風祭は龍田の祭として行われるが、この風も台風とは性格の異なるものと考えられる。<br> さらに風の祭礼は八月下旬から九月上旬に行われるものが多く、とくに二百十日の祭とされる。これらは山地に限らず、平野部の農村地域にも広くみられる。盆ともよばれて収穫を前にした農村の行事であるが、八月二十七日は諏訪の祭で鎌はその神器のひとつでもあるため、そこでの習合も考えられる。
著者
前畑 明美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.184, 2005

1.研究目的 日本は、周囲を海洋に囲まれた世界有数の島嶼国である。その広大な本土とは対照的に、小島嶼では第二次世界大戦以降、本土との隔絶から派生する「後進性」の改善が要請され、国による「離島」振興が推進されてきた。特に1960年代からの「架橋時代」、島々は本土からの莫大な投資により近代化・資本主義化を進め、急速にその孤立性を喪失したといわれる。しかし現在も、それら多くの島嶼では後進性からの脱却は果たされていない。人口減少と高齢化、地場産業の衰退、共同体の消滅によって社会的存続の危機にある。今や日本の島々は、縁辺地域として固定化され、最も生活空間の様相が変質し地域社会の衰退が顕著な地域となってきている。本報告では、沖縄の浜比嘉島を事例とし、"架橋化"という島の大近代化事業を通した「島社会」の変容とそのしくみを、"島嶼性"を考慮しながら総合的に検討してみたい。2.島嶼の架橋化 島嶼地域の架橋化は、事実上、海上交通から常時陸上交通システムへの移行を意味する。それは島嶼の特性である海による本土からの隔絶性を除去し、自然の制約を越えた人と物の自由な往来を可能とする。これまで「離島」振興においては、この隔絶性の解消こそが島の抱える社会・経済問題を解決すると考えられてきた。広域化・大規模化・高速化へと進む現代社会にあり、生活や生産・流通にもたらす橋のプラス効果は絶大、かつ人口減少を抑制するとみなされている。いわば後進性脱却への最終手段である架橋化は今日まで諸島嶼で進められ、現在120橋を数える。3.対象地と方法 浜比嘉島は、沖縄本島中部東海岸の太平洋上に浮かぶ、面積が約2㎢の島である。農業に加え、沖縄屈指の広大なイノー(サンゴ礁の浅い礁池)を背景に漁業を基幹産業としている。琉球開闢の神が渡来した島として知られる浜比嘉島もまた、戦後に人口が減少の一途をたどり(1997年の架橋の前には、40年間に国勢調査人口は1372人から421人へと約70%減少)、過疎が進行していた。 用いるデータは、島での面接による聞き取り・参与観察に拠るもの、そして各種の統計である。これらを基に、島の内情についての価値判断に重点をおき、架橋化に伴う生活の質的変化をみていく。その際、様々な要素から成る「島社会」を捉えるには多面的な考察が必要となる。本研究では、人口・産業・共同体の三つの側面から変容の全体像にせまり、それをふまえそのしくみについて明らかにする。4.結果の概要(1)架橋後の島では、交流人口が増加したにもかかわらず、人口再生産はなお縮小し、引き続き人口の減少傾向がみられる。(2)産業も、その再編過程においてモズク養殖への特化に至り、全体として縮小・不安定化している。(3)共同体は内部の個別化・孤立化を受けて急速に弱体化し、解体へと向かっている。(4)日々の生活や産業、共同体の複合体として成立する「島社会」は、存立基盤そのものを喪失しつつある。その結果、本島への依存性が強まる中、受動的変化を遂げながら「島社会」は著しく衰退してきている。しかしこうした島の動静は、島嶼の人々の人間関係や人と島との関係における現代社会特有の変容ともまた別言される。(5)近年の島の変容は、架橋化のもたらした輸送や心理の効果が、海に基づく「人の繋がり」や「多様な暮らし」を包括していた伝統的「島社会」に対し限定的に、同時にマイナスとしても全般的に働いた帰結である。先行研究では人口面での架橋効果が示されているが(宮内・下里,2003)、島の統計人口を扱う際の問題、さらに「島社会」全体のプラス面を上回るマイナス面の影響にも留意していく必要があると考える。島嶼地域の架橋化は、確かに海上交通にはない利便性を島にもたらす。しかし事例を通しては、島独自の社会生活の向上、および社会的存続という点では、その効果が島嶼の特性に十分に反映されず、一定以上の効果を生み出すのは難しいといえる。
著者
加藤 晶子 荻津 達
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<br><br>長周期地震動(周期1秒以上)の地域的な差異 については、地下の地質構造に起因していると考えられている。千葉県では地震動の速度応答(建造物のゆれの大きさに対応する)の分布が、房総半島中央部で周期10〜12秒で周辺の地域より高い値を示すことがわかっており、地下構造探査で先新第三系上面深度が最も深い5000m以上と見積もられている地域とほぼ重なっている。本研究では、この先新第三系上面が深い地域において、地震の観測波形から、先新第三系の上面深度とゆれが大きくなりやすい周期の関係を明らかにするとともに、表層が沖積層や埋立層の場合に増幅・周期ののびの影響が生じるため、表層地質の異なる観測点の比較を行った。対象地域は房総半島中西部をとし、市原市ちはら台、同市有秋台(各々の先新第三系上面深度はおよそ3500m、5000m、表層地質は更新統下総層群、標高約40m)に速度計(測定範囲0.01~100秒)を、木更津市鎌足(先新第三系上面深度4500m、下総層群)に加速度計(測定範囲0.03~10秒)を設置している。また、沖積層上の地点として市原市牛久(先新第三系上面深度およそ4500m)、市原市沿岸部3カ所(先新第三系上面深度およそ3500m)の加速度計で観測した。対象とした地震は、最近2年間に観測されたものから、①大規模(マグニチュード5.5以上)-震央が遠いもの、②大規模-やや近いもの、③小規模-近いものを選定し、各観測点での波形データから速度応答スペクトルの解析を行った。①の大規模-遠い地震の場合、ゆれが大きくなる周期は、ちはら台2~2.5秒および9~10秒、有秋台2~3.5秒および9~10秒、鎌足2秒付近となっており、基盤深度の差が影響していると考えられる。加速度計では10秒程度の長周期地震動を観測できず、速度応答に反映されない。また、震央が遠い地震では、距離減衰が大きいく、地震動がより長周期側に出る沖積層上の観測点では記録が得られなかった。さらに、震源が浅く、ごく遠い海外の大規模地震では、減衰されにくい表面波のみが12秒前後の長周期地震動として観測された。②のやや近い大規模地震の場合には、ちはら台・有秋台ともに0.5秒前後で速度応答が大きくなっている。③近い小規模地震)の場合には、ちはら台で0.1~0.3秒、有秋台で0.3秒、鎌足で0.2~0.3秒、牛久で0.3~0.4秒、市原市沿岸部0.15~0.2秒にピークがあり、基盤深度の影響がみられる。これらのなかで比較的規模の大きい地震(マグニチュード5.2)では、0.5秒前後にピークがあるが、地震のエネルギー規模が大きくなるほど長周期の波が観測されるためと考えられる。これまでの結果では、表層地質の違いによる周期への影響は先新第三系の深度によるものより小さい。しかし、沖積層上の観測点では加速度計の記録であるため、周期2秒以上の速度応答が充分得られておらず、その周期域における解析はさらに必要と考えている。
著者
小口 高 近藤 康久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

オマーン内陸部のワディ・アル=カビール盆地は、大規模な山地であるハジャル山脈の南麓に位置する。盆地には涸れ川(ワディ)が分布しており、とくに東から流入するワディ・アル=カビールと、北から流入するワディ・フワイバが顕著である。本地域は1988年にユネスコの世界文化遺産に登録された「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」の一部を含み、石積みの墓などの完新世中期の人類遺跡で知られる。さらに旧石器時代の遺物も発見されており、日本、米国、ドイツなどの考古学者が近年活発に調査を行っている。 演者らは2013年初頭にワディ・アル=カビール盆地とその周辺の地形と地質を調査した。その結果、興味深い斜面地形、河川地形、表層堆積物が確認された。その一例は、盆地の北東部に位置する比高300 m程度の山地と山麓の地形(図1)である。山地の中部~下部の斜面には、基板岩の構造を反映する帯状の凹凸がみられ、凸部(図1の暗色部、A)には石器の材料となる良質のチャートが含まれる。山地斜面の谷の両脇には開析された崖錐斜面(B)が分布する。山麓の一部には扇状地がみられ、相対的に古いもの(C)と新しいもの(D)を識別できる。さらにその下方にはワディ・アル=カビールが形成した氾濫原が分布している(E)。崖錐斜面や扇状地の地表面および堆積物から、中期旧石器などの考古遺物が発見された。 既存研究によると、中東地域の開析された崖錐斜面は氷期~間氷期の気候変化を反映する。現地観察によると、扇状地や氾濫原における完新世中期以降の地形変化は概して不活発であり、それ以前に大規模な堆積を含む顕著な地形変化があったと考えられる。今後、地形変化の実態と人類史との関係を、さらなる現地調査を通じて詳しく検討する予定である。
著者
伊藤 修一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.220, 2009

<U>I はじめに</U> 東京湾アクアラインが開通してから11年以上経過した.<BR>アクアラインは千葉県木更津市と神奈川県川崎市との間を結び,開通前には両都市間の移動には約90分もかかっていたが,開通後には約30分と3分の1に短縮された.<BR>さらに,木更津市などから東京都区内や横浜・川崎駅との間を結ぶ,アクアライン経由の高速バスの路線網は拡大し続けている.そのバス利用者の増加率は毎年10%程度を維持している.<BR>このことは,自家用車を自由に利用できない者にとっても,東京や横浜方面と南房総との間の交通利便性が向上していることを示している.本研究では,木更津市内に通学するという,アクアラインの利用可能性が高い大学生を対象として,特に東京や横浜方面への移動におけるアクアラインの利用状況に注目して,個人の特性との関係について考察する.<BR><U>II 研究方法</U> 対象者は木更津市の清和大学に通学する学生である.このうち,発表者が担当する人文地理学Iの2008年7月3日の受講者を対象としている.対象者に対して,質問紙による調査を30分程度かけて実施し,68人から有効回答を得た.<BR>質問内容はアクアラインの利用に関するものと,都区内と横浜市内への訪問に関するものに分けられる.アクアラインの利用に関しては,アクアラインの認知とその利用の有無や頻度,利用した際の交通手段,出発地と最終目的地,その間の所要時間などについて質問した.<BR>都区内と横浜市内への訪問に関する質問は,アクアラインを利用するかどうかを問わずに,それぞれの地域へ訪問する際のルートとその所要時間を尋ねた.<BR><U>III アクアラインの利用とルート選択</U> <U>1) 対象者の特徴</U> 67人は千葉県内に居住し,そのうち,52人は木更津市と隣接する市原市や君津市,富津市,袖ヶ浦市から通学している.ただし,入学時に千葉県内へ転入した者は29人おり,このうち27人は木更津市に居住している.そのため,対象者は平均19.7歳であるが,高校卒業前から県内に居住していた者は平均16.5年現住地に居住しているのに対して,県外出身者は0.38年と短い.<BR>また,自動車運転免許所有者は28人であるが,このうち全く運転しない者が12人おり,免許を持たない者を含めると51人が日常的に自動車を運転しない.<BR>そのこともあって,29人が最終目的地として都区内に1度も訪れたことがなく,横浜市内へは40人が1度も訪問したことがない.また,両地域ともに訪問経験がない者は22人と,東京大都市圏縁辺に居住していることもあって行動圏の狭い者が少なくない.特に県外出身者は,都区内に訪れたことがある者は11人,横浜市内には6人のみが訪問経験があり,県内出身者よりも少ない.<BR><U>2) アクアラインの利用</U> 対象者のうち,60人はアクアラインを1度以上利用している.このうち定期的な利用者は6人である.他は44人がこれまでに往復で平均4.9回利用しており,このうち9人は10回以上利用している.<BR>こうした利用回数の,出身地による違いは小さいが,その利用内容は,出身地によって大きく異なる.県内出身者がアクアラインを利用して最もよく訪れる目的地は,都区内と,横浜市内7人を含む神奈川県がともに11人と最も多い.これらの地域へは,11人が食事や買い物を目的としない観光で訪れており,7人が食事や買い物を目的として訪問している.<BR>一方,県外出身者には,都区部や神奈川県が目的地だった者は8人と県内出身者と比べて少ない.17人は出身地との移動の際に利用しており,引越しなどで短い期間にアクアラインを利用する機会が多い.<BR>こうした目的地までは,県内出身者のうち,24人は他人が運転する自動車で移動しているのに対して,県外出身者は18人が高速バスで移動しており,その移動手段に違いもある.<BR><U>3) 東京・横浜方面へのルート選択</U> アクアライン経由のルートを選ぶ理由として,47人が早く目的地へ着けることを挙げている.実際,36人はアクアライン経由のルートのみを利用している.<BR>一方で,アクアラインを経由しないでその目的地まで行ったことがある者も22人と少なくない.このうち15人は鉄道を利用して移動している.アクアラインを経由した場合とそうでない場合の所要時間がわかる17人のうち,それを経由した場合の所要時間のほうが長い者は1人のみに過ぎない.<BR><U>IV おわりに</U> アクアラインの利便性はよく認知され,非日常的な行動圏の拡大に貢献している.ただし,自家用車に同乗できるかどうかという環境は,大都市圏中心部への行動に影響している.これは,この地域に居住する交通弱者にとっては,それが十分ではない可能性を示唆している.
著者
岩船 昌起
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>【はじめに】</b>東日本大震災では、岩手県宮古市でも津波襲来直前まで防潮堤門扉の閉鎖や警戒活動等に携わっていた消防団員16名が殉職された。現在、被災地だけでなく日本各地で地域防災計画の見直しが行われており、命を優先した避難体制の強化が求められている。 本発表では、2012年12月7日に三陸沖で発生したマグニチュード7.3の地震に対応した消防団員の行動を考察し、岩手県宮古市で現在進められている「津波避難計画」の中の「緊急避難(レベル)」を紹介する。また、命を優先した避難体制との係りから防潮堤の門扉や乗り越し道路等のハード面についても若干の考察を加えたい。<b>【被災地区消防団員の津波警戒時の対応行動】</b>2012年12月7日17時18分頃に三陸沖(牡鹿半島の東、約240km付近)でマグニチュード7.3(速報値)の地震が発生し、盛岡市と滝沢村で震度5弱、また久慈市、宮古市、陸前高田市等で震度4が観測された。この地震による強い揺れを受けて、宮古市では17時18分に災害警戒本部が設置された。一方、気象庁では17時22分に青森県太平洋沿岸、岩手県、福島県、茨城県に津波注意報が発表され、宮古市での津波到達予想時刻が17時50分とされた。消防団員は、地震による揺れを感じた場合には、取り決めとして、防潮堤の門扉の閉鎖や地域住民の避難誘導等に当たるために、災害本部等からの指示を待たずにまずはそれぞれ屯所に向かう。例えば、東日本大震災の津波被災地区の宮古市新川町に立地する第一分団の分団員Aは、地震発生時17時18分に屯所と同じに町内の職場におり、道のり約130mを歩いて17時21分に屯所に到着し、屯所から道のり約50mにある「第三水門」を「1分で閉めた」という。しかし、非被災地区の仮設住宅に住んでいる分団員Bは、地震発生時17時18分に仮設住宅で夕食の準備をしており、多少片付けてから道のり約1.5㎞を歩いて22分かかり17時40分に「既に閉じられていた第三水門」に到着した。そして、屯所から道のり約290mの中央公民館まで歩いて到着し、津波到達予想時刻の17時50分に「高台避難」を完了させた。このように津波被災地区では、東日本大震災以降、被災者である消防団員の多くが非被災地区の仮設住宅等に移り住んだために、地震発生直後数分で津波警戒行動に従事できる「被災地区で生活する分団員」の人数が極めて少なくなり、被災地区に立地する消防分団の緊急時の活動が極限られた分団員で何とか維持されている。これは、消防団員の高齢化と共に看過できない問題である。<b>【宮古市津波避難計画における緊急避難】</b>宮古市では、地域防災計画で「消防団員は津波到達予測時刻10分前には高台に避難していなければならない」という「10分ルール」を定めた。そして、これを完了させるために20分前には防災行政無線で消防団員の避難を呼びかけることとしている。従って、宮古市では津波到達予想時刻の20分前からは浸水の恐れがある地区での消防団等による公助が基本的一時的に終了し、それ以降から津波到達予想時刻までは共助と自助で住民個々の避難が行われなければならないこととなる。2014年1月現在策定中の宮古市各地区での「津波避難計画」では、消防団の「10分ルール」に呼応する形で、地域住民の避難行動も津波到達予想時刻の20分前から「緊急避難(レベル)」に移行することが提示されている。「緊急避難」とは「津波到達予想時刻の20分前になった時点で初動避難の目標の避難場所に到達していない場合の避難行動の様式」である。約20分後に津波が到達することと、自分の体力との関係を考慮した上で、現在位置から「目標の避難場所」に到達できるかできないかを判断して、できると考えた場合にはそのままの徒歩等を続けて、できないと考えた場合には現在位置から一番近い避難ビル等の高所に逃げ込む。これは、堤防を越えた津波の動きの解析と人びとの体力に応じた避難行動の様式に基づいている(岩船 2012)。<b>【防潮堤門扉の手動閉鎖の問題】</b>宮古市の消防団の「10分ルール」および「緊急避難」の実施を考えた場合、漁港等と市街地との間に設置された防潮堤門扉の閉鎖はそれらを妨げる可能性が高い。例えば、津波襲来前に「船出し」を行うために港に急行したい漁業関係の「懇願」等によって、ギリギリまで門扉を閉鎖できないからだ。安全性を考慮して遠隔操作できる門扉等が開発されているが、津波襲来直前まで堤外にいる人々の「自助」での避難行動を阻害しないためにも「乗り越し道路」が少なくとも要所に一つは必要であろう。地面との比高が大きい堤防であるほど、設置に必要な用地も広くなるが、生死が懸かった究極の場面でのトラブルを未然に防ぐためにも、各自の判断で避難行動が自由に選択できる施設環境が整備されることが望ましいだろう。
著者
本多 健一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.93, 2009

京都上京の西陣は、旧平安京の北郊にあたり、中世以前のこれらの地域には、条坊制の道路区画に準じた格子状道路網があったと考えられている。一方、近世以降では、特に西陣の西部(大宮通以西)で南北の道路が条坊路(の延長)と大きく乖離し、現在の道路網は、一見、条坊制と無関係の様相を呈している。そこで本研究では、これまで明らかにされてこなかった、中近世移行期における道路網の変容過程を、古文書や古絵図などから解明する。<BR>文明9(1477)年の「主殿寮北畠図」(『壬生家文書』)などによれば、この地には櫛笥・壬生・坊城・朱雀といった条坊路と同じ名称を持つ南北路が、平安京大内裏域から延伸し、東西路と直交して格子状道路網が形成されていた。<BR>しかし、それらの名残と考えられる現在の智恵光院通・浄福寺通は、南にいくほど西に偏ってゆき、特に元誓願寺通以南では、対応するはずの櫛笥小路・壬生大路(の延長)と大きく乖離している。対してそれ以北では乖離が小さくなり、両者はほぼ重なり合う。それゆえ元誓願寺通以北の智恵光院通・浄福寺通は、櫛笥・壬生(の延長)と比定され、中世以前の旧状を保持していると考えられる。<BR>元誓願寺通の南側で智恵光院通・浄福寺通の偏りが著しくなる理由は、天正14(1586)年から文禄4(1595)年まで、その地以南に聚楽第が存在したからではないか。<BR>聚楽第の復原はきわめて難しいが、その外郭の北辺は、「北之御門町」の町名や等高線の乱れなどから、元誓願寺通付近と考えられている。それゆえ元誓願寺通以南の道路網、特に内郭と重なる道は、聚楽第の造営によって破壊されたと思われる。<BR>元和5年~寛永3年(1619~1626)頃の 『京都図屏風』には、聚楽第破却後、その跡地がどのように開発されていったのかが、次のように示されている。<BR>当時の大宮通以西、一条通以南、下長者町通以北には聚楽第跡が残存していたが、その周囲では市街地開発が進行していた。聚楽第跡の北側からは、従来の智恵光院通・浄福寺通が南伸する一方で、南側からも、既存道路とは関係なく南北路が造られ始めている。後になってこれら別々の道が延伸して結合したがゆえに、現在の智恵光院通・浄福寺通における偏りが生じたのであろう。
著者
西村 智博
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

<b>1.</b><b>はじめに</b><br><br> 筆者は大学3年生の巡検で初めて地形分類図を作り,その後二十数年間,コンサルタントとして毎年日本のどこかで地形分類図を作成するような業務に携わってきた.<br><br>研究機関と異なり,コンサルタントでは顧客のオーダーに応じて地形分類図を作成することが多く,その結果,山地・低地,寒冷地・温暖地を問わず,全国各地の様々な地形に出くわしてきたと思う.<br><br> ここでは,地形分類図について,製作者・利用者双方の立場から,作業上感じている課題や利活用の事例,将来の展望について述べたい.<br><br><b>2.</b><b>製作者の立場から</b><br><br> 市町村単位やそれより狭い地区単位であれば,地域の特性に応じた凡例を検討し,実情に即した地形分類図を作成しやすい.<br><br> しかし,土地条件図や治水地形分類図,土地分類基本調査など,全国や都道府県レベルで統一された基準で整備される地形分類図では,一定の範囲の地形を標準的な凡例に適合するように分類しなければならないため,地域特有の地形を表現するのに苦心することがある.<br><br> 治水地形分類図を例にすると,「氾濫平野」から1~2m程度の標高差ながらそれと識別される低い「段丘」や,それが徐々に低地に埋没していくエリアの表現,谷の出口に形成される「扇状地」と「山麓堆積地形」の使い分けにはいつも頭を悩ませる.作業時間の制約もあり,これらの区分を主に空中写真やDEMデータから瞬時に判断しようとするのであるから,悩みはなおさらである.<br><br>GISデータとして整備・表示すると,あたかもその境界がハッキリしているように見えてしまうが,実はかなり境界が不明確な場合も多いのである.<br><br>低い「段丘」の場合,「段丘崖」を描かずに直接他の地形面と接するようにしたり,土石流や洪水流によって形成された地形はなるべく「扇状地」として描いたり,製作者なりにはいろいろ工夫して凡例を適用しているつもりではあるが,うまく利用者にそれが伝わっているか・・・甚だ不安である.<br><br><b>3.</b><b>利用者の立場から</b><br><br> ある地区で豪雨災害が発生したとする.さて,どこが大きな被害を受けているか,報道などの部分的な情報だけではなかなか全体像が把握できない.そこで私たちは,すでに整備されている地形分類図を眺めて,点の情報を面に変換するような作業を行っている.「〇〇地区で浸水」という情報があれば,その地区の地形を見て,同様の地形種では同様の災害が起きているのではないかと推測し,そういった地区を重点的に調査するのである.<br><br> 2017年7月には,活発な梅雨前線の影響によって,秋田県雄物川流域で河川の氾濫や土砂災害等の被害が発生した.家屋の浸水が少なく,地方で発生したということもあり,首都圏ではあまり大きな報道はなされなかったが,数十枚の斜め写真が撮影され,すでに整備されている治水地形分類図から浸水範囲は旧河道部が中心であることが読み取れた.<br> このように,広域に整備されている地形分類図は,災害箇所と地形の関係を検討するのに役立ち,逆に,災害が起きる前でも,地域の災害特性を理解するのに大いに役立つのである. <br><b>4.</b><b>今後の地形分類図への期待と課題</b><br><br> これまでの地形分類図は,基本的には「印刷図」としての利用を念頭に作製され,製作目的に応じて凡例が取捨選択されてきた.しかし,近年,地形分類の成果はGISデータとして整備・利用されることがほとんどであることから,発想を変えて,使用者が使用目的に応じて凡例を切り替えられるような仕組みに転換できないであろうか? 例えば,地形分類の凡例を大分類・中分類・小分類・細分類・・・といった具合に階層化して属性を持たせ,使用目的や縮尺に応じて容易に表示を切り替えられるようにするのである.<br><br> また,近年,地形計測技術も格段に進化してきている.例えば,精細な航空レーザ測量では樹木に隠れた数十cmオーダーの微地形も表現できるようになってきており,このようなデータが我が国の国土の半分以上を占めるようになってきている.これに伴って,新たな次元での地形解析が可能となっているが,解析技術が未だ追いついていない.詳細な地形データを判読して詳細に区分することにより,防災や土地利用などに地形分類の成果が活かせる可能性があることから,これらの利活用も十分に検討する必要がある.<br><br> 最後に,地形分類図の作成に関する課題をいくつか挙げておく.地形分類図は,国土の開発に先駆けて整備されてきた面があり,1970年代に技術が広まった.その後,細々と整備が進められているが,熟練技術者の高齢化が進み,作業機会も減少していることから,経験伝承の機会が減少している.<br> 最近,AIを利用した地形評価の取り組みが行われつつあるが,熟練工の経験を次世代にうまく引き継げるような仕組みを早急に検討する必要がある.
著者
能代 透
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

I はじめに<br> 本研究はフランスのZUS(都市優先対策地区)空間の政策を批判的に論じるものである。 フランスの都市郊外での移民系若者と治安部隊との衝突とが「フランスのZUS政策」と深くかかわっている。 その底流に、ムスリム移民と向き合う「ポストコロニアリズム」と国民不可分性(単一性)を憲法に掲げる「共和制国民国家」と、それを揺るがせ多文化主義を促す「EU統合」の動きがあり、その狭間で「トリレンマ(矛盾)」を抱えるフランス共和国のリアリティを都市空間の側面から研究した。<br><br>II フランス郊外(バンリュー)<br> 郊外(バンリュー)はその特徴により言葉以上に特別の意味をもつ。 かつての城壁都市の周辺地帯に位置しており、フランス特有の経緯による都市構造を形成している。第二次大戦後の復興期の労働者用に1950年代後半から、グラン・アンサンブル計画で郊外に低家賃社会住宅(HLM)の高層住宅団地(通称シテ)群が均衡都市郊外に政策で大量建設された。しかし、交通網、商店街、企業誘致などの街づくりが伴わなかったため都心部(旧城壁内)から隔離され、シテは低所得者層が集住するようになった。 さらに1980年代から脱工業化で、工場閉鎖、大量失業者、産業空洞化が始まり、次第にマグレブ系労働移民者階級が集住する空間となり、年を経て多様性を失い、ホスト社会の差別とセグリゲーションを受けるマグレブ移民二世が集住し、イスラム教義に基づくコングリゲーション(防衛・互助・文化維持・抵抗)が進行し、ジハード(ムスリムの防衛戦)に向かうマグマが増殖する空間となった。 ヨーロッパ最大のムスリム居住国である現在のフランスにおいて、それは「共和制理念とイスラム教義」の観念の対立となり、都市の「危険な均衡」をもたらせている。<br><br>III 監視・防諜の装置としてのZUS<br> 1995年、アルジェリア系「武装イスラム集団」が関与したとされる爆弾テロが、リヨンやパリで続発していた。 フランスに「同化」していたはずの移民二世が、この組織に加わっていたことが分かり、フランス社会に大きな衝撃を与えた。 マグレブ移民が集住する「郊外」は、イスラム過激派の温床とされ、フランス政府は1996年に都市再活性化協定法で国家権力が自治体との契約統治を超えて、各都市で直接介入できる特定区(ZUS)を郊外(バンリュー)のシテを重点的に指定した。ZUSは表向きには貧困地区対策であるが、監視・防諜装置として誕生し機能した。 そのことは入手したにフランス諜報研究センター(CF2R)の2005年9月付報告書で明らかにされた。<sup>1)&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </sup>それによると、「フランス国内の630カ所の郊外地区(ZUS)の180万人の住民が、移民としての出自の文化や社会と強く結び付き、イスラム過激派が郊外の若者たちの組織化が進み、フランス社会に分裂の危機をもたらす危険性が高まっている」との報告がフランスの防諜機関である中央情報局(RG)から内務省に上がっていた。 これはZUSをムスリムの監視と防諜の装置としていた「証拠」である。 2005年10月、パリ郊外のクリシー・ス・ボアの団地で移民系少年と警官に衝突事件が発生した。 その後にボスケ地区のモスクで抗議集会中のムスリムたちに治安部隊が催涙弾を打ち込んだため、衝突が一気に拡大した。 彼らの精神と結束の拠り所であるモスクへの攻撃を彼らが許すことはなく、権力の治安部隊との衝突がフランス全土に広がった。 <br><br>IV おわりに<br> 現在のフランスは、約500万人のムスリムが暮らしているが、彼らの「外に見える行為」を実践するイスラム信仰は、フランス共和国の世俗主義の観念になじまない。 移民二世・三世の重層的な空間への帰属意識がアイデンティティの不安定化を招き、フランスで生まれた移民子孫たちが差別を受ける中でイスラムに覚醒していく。 政府がその実態を把握しようとしてもフランスの国民不可分性の理念から一部集団への表立った調査ができず、中央情報局による防諜活動を必要とした。取り上げたZUSは日本でも差別・貧困・荒廃の社会問題として注目されることが多く研究も多いが、本研究ではそのZUSに関する政策・制度をフランス均衡都市の地理学的構造に着目して研究した。 &nbsp;<br><br>注<br>1)&nbsp;&nbsp; Centre Francais de Recherche sur le Renseignment、Eric Den&eacute;c&eacute; <i>LE D&Eacute;VELOPPEMENT DE L</i><i>&rsquo;ISALAM FONDAMENTALISTE EN FRANCE, ASPECT S&Eacute;CURITAIRES, &Eacute;CONOMIQUES ET SOCIAUX &nbsp;</i>Rapport de recherch&eacute; No.1 Septembre 2005, P7-9 「LA MONT&Eacute;E EN PUISSANCE DE L&rsquo;ISLAM RADICAL DANS LES BANLIEUES FRANCAISES、<br>
著者
由井 義通
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.28, 2004

1.インドにおける大都市の急成長インドではデリー,ムンバイ,チェンナイ,バンガロールなどの大都市がますます大都市化している。この原因として,1990年代以降の経済開放政策により,大都市圏に外国資本の投資が集中することがあげられているが,なかでも首都デリーには外国資本による投資が集中し,それによって雇用機会が増加し,都市人口の急増を引き起こしている。デリーは近年,製造業やサービス業,さらにオフィスなどが増加することによって,政治都市から経済都市・工業都市へと変貌しつつある。本発表の目的は,デリー大都市圏の都市化と都市計画を紹介し,インドの大都市開発の実態を報告することである。2.デリー大都市圏の都市計画_丸1_DDA(デリー開発公社)デリー市やインド政府はデリーの過大化防止策,デリー市内からの機能分散を目的として,1950年代の早い段階から法的根拠を持ったマスタープランの作成に着手した。それにより1957年にデリー開発法が制定され,デリー開発公社(DDA)が設立された。DDAは1962年にデリー・マスタープランを策定し,デリー大都市圏の都市計画に着手した。_丸2_NCRPB(首都地域計画局)デリー大都市圏のあまりにも急激な成長により,デリー大都市圏の整備をDDAにより行うことは困難となった。そこで,法令による首都地域計画局(National Capital Region Planning Board)が1985年に設立され,地域間のバランスがとれた開発をめざすこととなった。これは,デリーの拡大が近隣の三つの州にも及んでいるために,隣接州をも含めた首都圏地域の整備をはかるとともに,国家的計画として首都の都市計画と首都周辺地域の開発を図るものであった。3.デリー大都市圏における都市開発デリーの機能分散のために,近郊にノイダやグルガオンなどのDMAタウンを核として人口と産業の分散化が図られた。_丸1_ノイダデリーの東側に隣接するUP州ノイダは,NOIDA(New Okhla Development Authority)により1980年代から急速に開発が進んだ郊外ニュータウンである。マスタープランではデリーの旧市街地の中小工場と人口の郊外移転先として計画が立てられたが,外国資本との合弁による大規模工場が多数進出し,デリーから転入してきた郊外指向の中間層の受け皿となっているなど,自立的な都市開発とは異なった様相を呈している。_丸2_グルガオンハリヤナ州に属するグルガオンはデリーの南側に隣接し,デリー中心部からグルガオンへはNH8号線により結ばれ,その途中には国際空港があり,外国資本の立地には好条件となっている。グルガオンの開発はHUDA (Haryana Urban Development Authority) が主体となって行われている。HUDAは都市開発を目的として設立されたが,近年, HUDAがライセンスを与えた民間ディベロッパーに開発を委ねることによって,エージェンシー的な役割に変化している。一方,多数の村々が開発地域内には残されており,村は都市インフラ整備などから取り残されたものの,商業やサービス業などが発達し,アーバン・ビレッジへと変化している。4.大都市開発の問題点グルガオンとノイダの事例を通して,デリー大都市圏における都市開発はアーバンマネージャーとしての開発主体によって都市発展の様相の違いが大きいことが明らかとなった。公団が主体となって開発が進められているノイダは,資金不足から都市開発が遅れがちになり,インフラの維持管理が問題となっている。グルガオンでは,民間ディベロッパーの開発をコントロールすることができず,乱開発の一面もあることや個々の民間ディベロッパーが個別にインフラ整備を行うため,非効率であるなどの問題点もある。また,ノイダとグルガオンのいずれにも共通するが,経済のグローバリゼーションの影響を受けて経済格差が拡大し,開発地域内の居住者はデリーへの通勤者である富裕層や中間層に特化していることである。さらに,開発地域内に形成されたアーバン・ビレッジの整備が課題となっている。
著者
水谷 光太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

神城断層は糸魚川-静岡構造線断層帯北部区間を構成する,主に東側隆起の活断層である.2014年11月に神城断層北部を震源とするMw6.2の地震が発生し,地表地震断層を出現させ,多くの被害をもたらした.地表地震断層が現れた北部を中心に変位量調査やトレンチ調査が行われ,断層の性状が解明されてきており(石村,2015;廣内,2015;2017;2018;Katsube et al,2017など),池田(2016)では過去に異なる規模のイベントが繰り返し発生していることを指摘している.一方2014年には活動していない神城断層南部(三日市場-借馬)については,活動履歴や変動地形の変位量に関する調査がいくつか行われているが(松多ほか,2006;澤ほか,2006;丸山ほか,2010;Katsube et al,2015,原口ほか,2016),断層の性状評価において地形面のデータは不十分である.<br><br> そこで本研究では,神城断層南部において変動地形から変位量を求め,変位量分布に基づいて神城断層南部の活動特性を明らかにする. <br><br> 本研究では次のことが明らかとなった.<br><br>1,神城断層南部地域において過去5000年間に3-4回の活動履歴があり,そのうち最新の活動である2750年前以降のイベントにより最大でL3面の約3mの変動崖が形成された可能性がある.<br><br>2,神城断層南部地域においてL2面形成期(4-7ka)以降よりもL1面形成期(10-20ka)以後- L2面形成期(4-7ka)以前において一回ごとの活動規模が大きいか,6回以上のイベントが想定される.<br><br>一方で神城断層南部地域内だけでも局所的な変位量の違いが想定され,変位量分布のデータを高精度かつ高密度に収集し,性状の特性を解明することが求められている.
著者
和田 崇
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

映画制作業は文化・コンテンツ産業あるいは創造産業の一つであり,都市への集積が顕著にみられる。その一方で近年,芸術的および経済的な理由から撮影工程がハリウッドから離れた国内外の他都市で行われるケースが増加しており,映画産業の空洞化をもたらす「逃げる生産問題(Runaway production)」として認識されている。撮影工程の空間的分離は,撮影隊の滞在に伴う経済的効果に加え,映画公開を通じた知名度および地域イメージの向上,住民らによる地域魅力の再発見とまちづくり機運の高まり,撮影地を訪れる観光客数の増加など,撮影地に多面的な効果をもたらす可能性がある。そのため近年,自治体や経済団体はフィルム・コミッションを組織し,映画撮影の誘致および支援,映画公開に乗じた観光振興に積極的に取り組むようになっている(Beeton 2005ほか)。 以上を踏まえ本報告は,映画制作業にみられる撮影工程の空間的分離とそれへの地域的対応の実態を報告することを目的とする。具体的に,制作本数(2010年)が世界最多で,近年は「バージン・ロケーション」を求めて海外での撮影が急増しているといわれるインド映画をとりあげ,2013年から新たな撮影地の一つとして注目されつつある日本における撮影実態を日本のフィルム・コミッションによる誘致・支援活動とあわせて報告する。<br> 富山県では2013年4月,タミル語映画の撮影が行われた。富山で撮影が行われることになったきっかけは,2012年9月に駐日インド大使が富山県知事を表敬訪問した際に,同大使が知事にインド映画の富山ロケ誘致を提案したことにある。知事がその提案に関心を示すと,インド大使館は東京でICT関連事業と日印交流事業などを営むMJ社を富山ロケーション・オフィスに紹介した。MJ社がインド人社員N氏の知人であるチェンナイ在住の映画監督を通じてタミル映画界に富山ロケを働きかけたところ,U社が上記映画のダンスシーンを富山で撮影することを決定した。2013年3月に事前調整のために監督などが富山に滞在したのに続き,同年4月に27名の撮影チームが富山を訪問し,9日間にわたり富山市内のほか立山や五箇山合掌造り集落などで撮影を行った。この映画は2014年6月からタミル・ナードゥ州はもとより隣接3州,海外の映画館でも2か月以上にわたって上映され,公開後3週間はタミル語映画売上ランキング1位を記録するなど,興行的に成功した。一方,富山ロケによる地域波及効果は,撮影チームの滞在に伴う経済効果として約360万円が推計されるほか,日本とインドのメディアによる紹介,俳優らによるFacebook記事,映画および宣伝映像を通じた風景の露出などを通じて,相当のPR効果があったとみられている。映画鑑賞を動機とした観光行動については,インド本国からの観光客は確認できないものの,在日インド人による富山訪問件数が若干増加しているという。<br> 大阪府では2013年8月にタミル語映画,同年11月にヒンディー語映画の撮影が行われた。大阪とインド映画の関わりは,大阪府と大阪市などが共同で運営する大阪フィルム・カウンシルがインドの市場規模と映画が娯楽の中心であることに着目し,2012年度からインド映画の撮影誘致活動を展開するようになったのが始まりである。具体的には2013年2月にムンバイを訪問し,映画関係者に大阪ロケを働きかけたが,そこでは十分な成果を挙げることができなかった。一方で同じ頃,神戸で日印交流事業などを営むJI社のインド人経営者S氏が大阪フィルム・カウンシルにインド映画の撮影受入の可能性を打診しており,2013年5月にはいよいよタミル語映画の撮影受入を提案した。大阪フィルム・カウンシルはこの提案を受け入れ,撮影チームとの調整業務についてJI社と契約を締結した。2013年8月に25名の撮影チームが大阪と神戸を訪れ,水族館や高層ビル,植物園などで撮影を行った。その後,JI社からヒンディー語映画の撮影受入が提案され,同年11月に約40名の撮影チームが大阪城公園などで撮影を行った。<br> 大阪ロケによる地域波及効果については,富山ロケと同様に,撮影チームの滞在に伴う経済効果と各種メディアを通じたPR効果があったとみられるが,映画鑑賞を動機としたインド人観光客数の増加は確認されていない。<br> 2つの事例に共通する点として,①フィルム・コミッションがインドからの観光客増加を目指して撮影受入・支援に取り組んでいること,②実際の撮影受入・支援には在日インド人が重要な役割を果たしていること,③現段階ではインド人観光客数の増加は確認できないこと,が挙げられる。この他,両フィルム・コミッションとも撮影支援を通じて日本とインドのビジネス慣行や文化の違いが浮き彫りになったと指摘している。&nbsp;<br>
著者
村山 良之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.241, 2006

地形改変地における地震災害 日本では、都市の郊外住宅地が丘陵地等に地形改変をともなって広く展開し、近年では大きな地震のたびに、これらの地域で特徴的な被害が発生する。すなわち、切土部では住宅等の被害がほとんど発生しないのに対して、盛土部や切盛境界部で、不等沈下や崩壊といった地盤破壊にともなう住宅等の激しい被害が発生する(1978宮城県沖地震、1993釧路沖地震、1995阪神淡路大震災、2004新潟県中越地震等)。またこのような地盤破壊までは至らなくとも、切土部と盛土部・切盛境界部で瓦屋根等の被害発生率に大きな差が生じる場合がある(2001芸予地震、2003三陸沖の地震、2005福岡県西方沖の地震)。 発表者はこれまで、宮城県沖地震、釧路沖地震、阪神淡路大震災、福岡県西方沖の地震について、地形改変前後のDEMを作成し、GISを用いて、地形とその改変に関わる土地条件指標群と建物被害発生との関係について統計学的検討を行ってきた。その結果、これら土地条件群は建物被害発生についてある程度有効な説明力を持つことを明らかにした。「総合的な宅地防災対策」への期待 2005年12月、国交省は、宅地の地震防災対策として、「大地震時に相当数の人家及び公共施設等に甚大は影響を及ぼすおそれのある…大規模谷埋め盛土」の「滑動崩落」対策を主とする「総合的な宅地防災宅策に関する検討報告(案)」を提示するに至った。より具体的には、「宅地安全性に係る技術基準の明確化」、「宅地ハザードマップの作成」、既存の「宅地造成等規制法の改正」等を行い、新規造成宅地だけを対象とするのではなく、既存の宅地についても、地方公共団体が「特に危険な大規模盛土造成地」を「造成宅地防災区域(仮称)」に指定する等して、減災対策実施を関係者(土地所有者等)が連携して実施するものとしている。これまで宅地盛土には(一部を除いて)技術基準すら存在しなかった状況からすると、大きく踏み込んだ内容を有する本政策は、地震防災におおいに寄与することが期待できる。発表者は、この政策の基本方針を強く支持するものであるが、さらに有効なものにするために課題について以下に記す。_丸1_ 対象範囲のスクリーニング方法 本学会災害対応MLで既に名古屋大の鈴木康弘先生指摘のとおり、スクリーニング作業方法について十分に検討すべきである。発表者の経験からも、提案されている地形改変前後のDEMに基づく盛土分布の把握にはかなり丁寧な作業必要である。この作業に加えて、新規造成宅地の場合は施工図面の提出義務化、既存造成宅地についても可能な限り収集作業を行うのが、精度と費用の点で有効と思われる。_丸2_ 本政策の対象範囲 対策実施に対して公的支援を想定しており、対象が限定されるのは、やむを得ないが、近年の地震災害では、この対象外のところでも(盛土全体の滑動がなくとも切盛境界で不等沈下発生、小規模盛土で滑動崩落等)宅地や住宅で大きな被害を受けている事例も数多くあると思われる。_丸3_ 宅地ハザードマップの公表と利用 スクリーニングから漏れた盛土部を含むできるだけ広い範囲について、宅地ハザードマップ(切土盛土分布図)公表を義務化すべきである。このことが対象外(滑動しないと予測されたものや小規模)の盛土部での個人的対策実施を促し、_丸2_の課題に応えると考えられる。さらに、不動産売買時の提示義務化や、建築確認申請時の参照義務化、地震保険の保険料算定基準への採用など、マップの利用方法についても踏み込むことが、さらに自助努力のインセンティブになると考えられる。
著者
秋山 吉則
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

通信制高校は勤労青年の教育機関として、あるいは生涯学習機関として発足したが、現在では様々な事情から全日制高校への就学が困難になった子どもたちのオルタナティブな高校教育として姿を変えている。現在、通信制高校に入学する子どもたちの6割以上は高校中退後の編入学であったり、年度途中の転入学であったりしている。従来であれば高校中退で社会に出ていたのが、通信制に転編入学することにより高校への就学・高卒資格を保障することができるようになった。これを可能にしたのは、1980年代後半からの単位制高校や定通制の3年卒業などの高校教育への規制緩和と都市内部に開設された学習センターの存在である。通信制高校の本来の学習スタイルは自宅での自学自習である。学習習慣が身についていない生徒が卒業までこぎつけることはむつかしい。1990年代以降に日常的な登校を生徒に求める通学型の通信制高校が出現するようになっていった。この新しい通信制高校では今まで行えなかった日常的な生活・学習指導が可能となった。この日常的な指導を行う場が学習センターと呼ばれている都市内部に開設された施設である。学習センターは1990年前半以降に多数開設されるようになった。学習センターは都市内部の商業・雑居ビルを活用して開設されている。学校が土地・建物を所自己有する場合は少なく、ビル1棟や数フロアーから1室を借用して開設される場合が多い都市内部の新たな土地利用。通信制高校が多数開設され始めた時期はいわゆる平成不況の時期と一致する。多数生まれた空きビル・空室の存在が学習センターの開設を可能にした。放課後の予備校・塾としてではなく正規の高校教育を受けるために都市内部のビルに登校するという子どもたちを生み出している。<br>学習センターは県庁所在都市や地域中心都市の市街地に立地している。県内外から広く子どもたちが通学するので交通ターミナル近くに立地する。大阪市では梅田から難波にいたる地下鉄御堂筋線、東京では池袋から渋谷にいたる山手線西側と秋葉原から新宿にいたる中央総武線沿線に集中している。この分布は一般的なオフィスの分布とは異なり、若者が多く集まる場所を指向した立地となっている。学習センター開設は大阪市内で始まった。これは教育行政が主導したものではなく、通信制高校を経営する学校法人の試行であった。教育環境としてふさわしくない商業・雑居ビルへの公教育としての高校の進出を教育行政は規制することができず、逆にこれが全国に広がった。皮肉にも最初に入学した高校で不適応を起こした子どもたちに高校への就学機会を提供し、高卒資格の付与につながるようになっていった。しかし、弊害や課題も多い。発表では、都市内部での学習センターの開設の経緯、現在の分布と立地条件、学校地理学としての調査研究の意義などについて報告したい。
著者
島津 弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

関東平野北部の荒川,利根川によって形成された河川地形分布域はきわめて複雑な構造をしている.一方,この地域は近世以前の河川災害や社会状況を念頭に教訓に水塚をはじめとした防災システムがつくられてきた.これらは,日本一の川幅を誇る荒川堤外地に象徴される近代治水システムの整備とともに顧みられないどころか邪魔者扱いされるようになった.しかし,ひとたび破堤すると,自然に近い河川の姿が現れるとともに,現在の強固な治水システムが災害を拡大させる可能性がある.本発表では荒川扇状地,妻沼低地,荒川低地の範囲を中心に,河川地形の特徴と自然の洪水時の水の流れを総括し,伝統的な防災施設の現状について述べる. 本発表の範囲には荒川扇状地,妻沼・加須低地,荒川低地,大宮台地がある.低地には河道跡,自然堤防,後背湿地という地形が見られる.一般的には台地は本川の低地から高いところにあるが,大宮台地の北西部(上流側の行田,熊谷寄り)は低地に埋没し,低地との比高がほとんどない.荒川,利根川ともに現在の河道の様子はそれぞれ熊谷,妻沼で大きく変化する.上流側は流路が分岐・合流をくり返す網状流路を呈するのに対し,下流側の流路は1本となり自然状態では激しく蛇行している.この変化は流下する川の流れ,氾濫の形態,流下する土砂の性質の違いとなってあらわれる.荒川と利根川は別の河川として認識されているが,これは,完新世後期から中世までの自然による地形形成と河道変遷に加え,近世における河川の付け替え工事,さらには大正期の大規模河川改修の結果である.大矢ほか(1996)が指摘し,小暮(2011)が明らかにしたように,8世紀頃まで利根川は妻沼低地から南下し,荒川低地で荒川と合流ししていた.その痕跡は自然堤防の分布,配列方向に見ることができる.また,大宮台地北西端は継続して埋積する環境にあった.一方,荒川の主流路が扇状地を北東流し,妻沼低地で利根川と合流していた時期もあったと考えられる.以上のように本地域は2つの大河川の動きとさまざまな地形が複雑に絡み合った構造をしている. 以上の地形的特徴は河川災害にもあらわれる.上流側網状流区間,扇状地地域では,分流,強い流れ,礫の流下で特徴付けられ,下流側の蛇行区間,低地地域では,平面的な流れ,湛水,砂や泥の流下・堆積で特徴付けられる.また,近世以前の自然状態の水の流れが再現されることにもなる.これら河川災害を被る地域は破堤の位置と密接に関係している.荒川の扇状地地域で破堤した場合は,扇状地上の河道跡を勢いの強い水が幾筋にも分かれて流下し,扇端部の広い地域で湛水する.河道跡にある建物は破壊されることもある.利根川の妻沼低地で破堤した場合は,氾濫水は以前の利根川に沿って南流し,元荒川など東西方向の自然堤防や現在の荒川本堤防で堰上げが生じ,行田地域では「石田三成による忍城の水攻め」のときの風景が再現される可能性がある. 低地では現代の治水システムの影響を考慮する必要もある.堤内地へ氾濫した水は自然状態であれば下流で河川に戻る可能性があるが,高く強固な堤防で川と隔絶された堤内地では,堤防で堰き止められて長期間湛水する可能性もある. 荒川低地の吉見,川島地域には近世につくられた「大囲堤」などの輪中堤がある.また,個々の家では災害に備えるためにつくられた敷地内に高く盛土した場所に貴重品や食料などの備蓄を行う蔵「水塚」があった.堤防は残存または強化されているところが多いが,水塚は現在でも見ることができるものの,その数は最近でも減少し続けている.利根川沿いに位置し,かつて水塚が多数存在していた日向集落で2009年に行った調査では,強固な堤防があるので伝統的な水塚は必要を感じず壊したと回答した家も多かった.実際に被災する可能性は低くなっているとはいえ,河川災害に備える意識までも低くなっているとすれば問題である.