著者
荒又 美陽
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.66, 2006

1.はじめに<BR> 街区を保存すべきか、作り変えるべきかという判断は、既存の建造物の状態や固有の歴史性にしたがってなされているように見える。しかし、実際には、それは時代や社会情勢を反映しており、決して中立のものではない。同じ街区が、数年間のうちに、保存の対象となったかと思えば取り壊されることもある。<BR> パリのマレ地区は、1964年に歴史的街区として保護・修復の対象となった。根拠法である通称「マルロー法」(1962年成立)の審議の段階で、マレはすでに対象とみなされており、その歴史的価値が相当に認知されていたことを見て取ることができる。ところが、戦前には、マレ地区の南部は「不衛生街区」として取り壊しの対象となっていた。この転換の背後には何があったのだろうか。本報告では、パリ四区の住民を中心とする歴史協会が、現在のマレ地区にほぼ一致する領域を対象に研究し、1902年から39年まで発行していた『ラ・シテ』という機関誌を取り上げる。分析によって、地区の二つの表象が明らかになってくる。ここでは、それらと政策の関連について考察する。<BR>2.取り壊しに対抗する歴史<BR> フランスの都市計画は、19世紀中盤以降、入り組んだ街区を取り壊し、広い街路と設備の整った建造物を建設する方向で進められてきた。マレ地区の整備は遅れていたが、20世紀の初頭には、少しずつ取り壊しと再建が実施された。第四区の歴史協会は、地区の建造物やモニュメントについて、たくさんの研究を行った。詳しく見ていくと、それらは必ずしも美的・歴史的価値が見出されるにつれて増えたというわけではない。1902年の最初の論文から、対象となっているのは破壊されつつある建造物であった。また、歴史上重要な人物が地区でどのように生活していたかについても報告され、具体的な場に当てはめられた。『ラ・シテ』の歴史研究は、具体的な建造物や通りと関連させることによって地区の取り壊しに抗していたのである。<BR>3.排除すべき現状<BR> 他方、同じ『ラ・シテ』において、東方ユダヤ移民が批判すべき対象として現れていた。19世紀末から、ポーランドやロシアの弾圧を逃れて多くのユダヤ人がマレに住んでいたが、『ラ・シテ』では、言葉も通じず、好んで不衛生な状態にいる不可解な存在として描かれていた。行政に「不衛生街区」と指定されたマレ南部については、統計上移民が多いこととともに、19世紀のはじめにコレラの死者が多かったことも報告された。こうして、『ラ・シテ』では、街区の取り壊しにも理由を与える表象を提供していた。<BR>4.破壊から保存へ<BR> マレ南部の不衛生街区は、ヴィシー期に集中的な開発の対象となった。当初は取り壊しを目的としていたが、1942年に街区の歴史性を重視する方針に転換した。同じ時期にユダヤ人が強制移送の対象となり、地区の表象として歴史性のみが残っていたことと無関係とはいえない。戦後、不衛生街区事業を担当していた建築家がマレ地区保存のための調査にあたった。『ラ・シテ』に見られた保存と排除の思想は、60年代に引き継がれていくのである。<BR><BR>主要参考文献<BR>Fijalkow, Y. 1998. La Construction des &icirc;lots insalubres. Paris 1850-1945. L'Harmattan<BR>Gady, A. 1993. L'&Icirc;lot insalubre No 16: un exemple d'urbanisme arch&eacute;ologique. Paris et Ile de France m&eacute;moires publi&eacute;s par la f&eacute;d&eacute;ration des soci&eacute;t&eacute;s historiques et arch&eacute;ologiques de Paris et de l'Ile de France. Tome 44: 207-29
著者
小林 岳人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

本研究は教育困難校の一つの目安となる退学者の分布の分析を行うことによって教育困難校の改善のための方策を探るものである。筆者の前任校である千葉県立沼南高柳高等学校も教育困難校の一つである。1)入学者の居住地住所を10進緯度経度に変換しArcGISにて居住地と沼南高柳高等学校までの距離を求め距離帯ごとの退学者率を算出、2)卒業者の平均距離と退学者の平均距離を算出しこれらの間の有意差を検定(t検定)、という分析を行った。その結果、1)通学者は沼南高柳高等学校を中心に、東武鉄道野田線や新京成電鉄線の沿線に分布、2)沼南高柳高等学校からの距離が4kmまでは退学者の比率は漸増し、その後ほぼ一定、10kmを越えると再上昇、3)卒業者と退学者のそれぞれの平均通学距離の差に関するt値は0.0337で5%の水準で平均距離のその差は有意、という3点が明らかになった。教育困難校形成要因は多様である。その一つに学力による序列化がある。公立高等学校は学区によって通学範囲が制約されるが、千葉県では隣接学区への通学も認められている。この規定により学区境界の制約をそれほどうけることなく生徒の通学が可能となっている。しかし、普通科高等学校には学力による細かな序列化が形成された。志望生徒が学力に見合って高等学校を志願するため、少数の学力上位校と少数の学力下位校が生じた。これらの高等学校の通学区は広域なものとなる。そこで、この広域な通学部分を崩すことに注目する。それには、高等学校自身による「学区づくり」というアクションが効果的である。居住地までの距離2km以下の退学者率が15%と最も低いことから、この部分は沼南高柳高等学校が「おらが町の学校」というような地域的な意識がある範囲と考えられる。地域からより多くの生徒が通学してくるような学校にすることが学校改善のための重要な方策となる。これは、沼南高柳高等学校の学校改善のビジョンである「地域に密着した学校づくり」の意思決定への重要な背景となった。生徒募集のため教員の中学校訪問は10km以内の中学校を目安とした。近接中学校には管理職が訪問し連携を模索した。地域から「開かれた学校委員会」「ミニ集会」「沼南高柳高等学校応援団」、本校から「芸術演奏会・展覧会」「通学路清掃」「近隣中学校との部活動交流」など相互関係の構築をはかり、地域との密着感をより一層強めていった。
著者
林 琢也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.125, 2010

1. はじめに<BR> アグリツーリズムとは農園内での農作業や収穫体験を観光と結びつけたもので,農産物の販売促進を図るため,戦略的に多数の観光客を受け入れる農業経営および観光活動を指す.<BR> 日本の観光農園は,高度経済成長にともなう所得向上や余暇・レクリエーション需要の増大,自家用車の普及とともに大都市近郊や既成観光地周辺の農村で発展してきた.また,1980年代後半以降は,地域振興と結びつき,全国各地に多様な形態を生み出している.観光農園の経営は,その時々の社会情勢や都市住民のニーズに合わせながら成立・発展してきたといえ,甲府盆地や多摩川流域,静岡市久能地域,長野盆地北部は,先駆的な観光農園の集積地帯である.観光農園の全国的な展開が進む昨今,先進地における経営戦略や性格の変化,農園の適応過程を検証することは,アグリツーリズムの可能性を展望する上でも重要な意味をもつ.そこで,本研究では,長野市内を南北に走る国道18号線(通称アップルライン)沿いに樹園地を有するリンゴ農家を事例に観光農園および農家直売所の経営戦略の変化について考察することを目的とする.<BR><BR>2.アグリツーリズムの成立と変化<BR> 長野盆地におけるアグリツーリズムの成立には,善光寺参詣者やスキー客の存在(既成観光地への近接性)と高度経済成長期(1966年)に国道18号がリンゴ生産の核心地域を縦断するように開通したことが影響している.それによって,長野市長沼地区(赤沼)から旧豊野町,小布施町と続く国道18号線沿いにはリンゴのもぎ取り,直売,全国発送(宅配)を営む観光農園(売店)が多く立地した.開設当初は,リンゴ狩りや直売の需要は非常に大きく,看板を設置し営業すること自体が大きな利益を生み出していた.例えば,ピークとなる1970年代から1980年代には40戸以上の観光農園が沿道に立地し,観光バスや運送トラック,個人観光客が訪れた.多くの農園は組合(アップルライン事業組合)に加入し,市の観光協会と連携し,様々なイベントを企画し,関東地方の団体ツアーや北陸方面からの個人客に対応した.<BR> 農園の経営方針に変化が生じてくるのは,1990年代に入ってからの上信越自動車道の開通である.これにより人やモノ,車の流れが変化し,単に観光需要に応えるだけの経営では収益の維持が困難になったのである.また,スキー人口の減少も拍車をかけ,沿道に立地していたドライブインなども撤退を余儀なくされた.こうしたなかで,アグリツーリズムの性格も変容していった.その最たるものが,一見客や滞在時間に制約のある団体客から農園の経営理念や農作物へのこだわりを理解し,支えてくれる個人客の獲得を重視した経営に方針転換を図っていったことである.また,それに伴い,農園の側も栽培のこだわりや安全性の提示,他の農園との差別化を強調するようになっていった.さらには,顧客単価の高い客の確保や価値観を共有する地域外の生産者との連携も進んだ.換言すれば,画一的な観光農園経営から個々の農園の自助努力や工夫を提示するようになったともいえる.それに伴い販売方法に占める宅配の比率が増し,直売やリンゴ狩りの比率は低下し,農園の看板を掲げることの意味は,一見の客に農園をみてもらい,その後の継続的な取引(個人消費や贈答用の注文)を促すための交流やきっかけ作りを図ることへと変化していったのである.<BR><BR>3.現在の問題点と発展の可能性<BR> 現在,長野盆地のアグリツーリズムが抱える主な課題として,以下の3点が挙げられる。まず,宅配比率の高まりに伴う労力の増大である.次に,人気の高い「ふじ」に集中する労力の分散を図るため,品種の多様化を図ったが,他品種を高値で売ることが難しく,結果,「ふじ」頼みは不変というジレンマの存在である.さらに,長年,贔屓にしてくれた顧客の高齢化もみられる.3点目については,プルーンなどの新品目を加え,女性客や若年齢層の取り込みを図る事例や珍しいリンゴや自らの農作物に貼るラベルを商標登録することで他の農園と区別を図る農園も一部に確認できた.<BR> また,発展の可能性については,長野市の中心部に近接する立地条件を生かし,アパートや駐車場に土地を供出することで不動産収入を得る農家や農外就業する子ども世代(後継者予備軍)の同居がみられる点が挙げられる.このことは,農外所得が世帯収入の安定化に貢献するという面が強いことを示している.これらは,暗黙知的な要素の強い栽培技術を日常的に修得していくという意味では技術の伝承が進まない弊害を内包しているが,世帯の収入安定と農業の現状維持に貢献しているという面では,次代を担う人材の確保に寄与している.こうした農外就業者の経験や知識,人的ネットワークを活かしていくことが,今後ますます求められてくるといえる.
著者
水野 一晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.ケニア山における温暖化による氷河縮小と植生遷移</b><br> ケニア山のティンダル氷河の後退速度は、1958-1996年には約3m/年、1997-2002年は約10m/年、2002-2006年は約15m/年、2006-2011年は約8m/年、2011-2016年は約11m/年であった。その氷河の後を追うように、先駆的植物種4種は、それぞれの植物分布の最前線を氷河の後退速度と類似する速度で斜面上方に拡大させている。とくに、氷河が溶けた場所に最初に生育できる第一の先駆種<i>Senecio keniophytum</i>は、1996年に氷河末端に接して設置した方形区(幅80mx長さ20m)での個体数と植被率がともに、15年後の2011年には大幅に増加していた。また、1996年には方形区内の生育種は1種のみであったが、2011年には4種に増えていた。ケニア山山麓(高度1890m地点)の気温は1963年から2010年までの47年間で2℃以上上昇している。一方、過去50年間の顕著な降水量の減少はなく、ケニア山の氷河縮小はおもに温暖化が原因と考えられる。<br> 2006年までティンダル・ターン(池)の北端より斜面上方には生育していなかったムギワラギクの仲間<i>Helichrysum citrispinum</i>が、2009年にはティンダル・ターン北端より上方の、ラテラルモレーン上に32株が分布していた。これは、近年の氷河後退にともなう植物分布の前進ではなく、気温上昇による植物分布の高標高への拡大と推定される。 また、大型の半木本性ロゼット型植物であるジャイアント・セネシオ(<i>Senecio keniodendron</i>)は1958-1997年には分布が斜面上方に拡大するという傾向は見られなかったが、1997-2011年には拡大して、山の斜面を登っている。この種は氷河後退が直接遷移に関係しているとは考えられないが、先駆種の斜面上方への拡大による土壌条件の改善と温暖化がジャイアント・セネシオの生育環境を斜面上方に拡大させていると考えられる。<br><b>2.ケニア山の自然保護</b><br> ケニアには国立公園の野生動物を守るための政府の一機関であるケニア野生動物公社KWS(Kenya Wildlife Service)がある。KWSはケニア山国立公園に対し、他のサファリパークとなっている国立公園(ex. アンボセリ国立公園)や国立保護区(ex. マサイマラ国立保護区)ほど環境管理に力を入れていない。何カ所かあった無人小屋をすべて取り壊して環境対策をしている一方、キャンプサイトにトイレの設置がない場所が少なくなく、環境悪化につながっている。 ケニア山では過去何度も、登山者による失火や密猟者による放火によって、広範囲に樹木が消失した。故意による失火に対しては厳重に罰せられる。近年、放火した密猟者は発見され次第、即座にKWSによって射殺された。<br><b>3.温暖化とキリマンジャロの氷河縮小</b><br> キリマンジャロの氷河は急速に縮小している。氷河の縮小はキリマンジャロ山麓の水環境にも影響を及ぼし、山麓の生態系や住民生活にも影響が及ぶことが考えられる。<br>
著者
山下 脩二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

グローブとは「Global Learning and Observations to Benefit the Environment](環境のための地球学習観測プログラム)のことである。1994年の地球の日(4月22日)当時のアメリカの副大統領アル・ゴア氏が世界に向けて提唱したプログラムで、児童生徒が学校において自らの環境を観測し、インターネットを使ってグローブ本部に送信し、世界から集まったデータを科学者が解析し、地図化、図表化し、再び学校はそれら資料を受信し、教育に役立てる。大気、水、土壌、土地被覆、生物季節を世界で同じ基準・方法・観測器で観測する。そのためのプロトコルを定め、それをマスターするためのトレーニングワークショップを開いて、指導者も同じレベルにし、科学研究に活用できる精度を持ったデータを取ることが義務付けられている。世界112ヶ国が参加している。実際の活動は1995年から始まり、日本も最初から参加し、活動してきた実践を報告する。&nbsp;
著者
伊藤 直之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

1.研究の目的<br><br>シビックプライド(Civic Pride)とは,市民が都市や地域に対して持つ自負と愛着である。筆者らは,平成26年度より,科研費基盤研究(C)一般「異学問・学校・地域との協働によるシビックプライドを育む小学校社会科地域学習の開発」にもとづき,子どもから大人までが,市民として自らの故郷にプライドが持てるような教育を考えるプロジェクトを発足した。<br><br> 本研究では,教科教育学研究者(伊藤直之)と工学(田中尚人・熊本大)・経済学(戸田順一郎・佐賀大)の各研究者が連携し,子どもたちや地域住民との協働を通して,地域社会をよりよい場所にするために関わろうとするシビックプライドの涵養という観点から,とくに小学校社会科を例にして,新しいあり方について検討してきた。<br><br> <br><br>2.シビックプライド教育のあり方<br><br>このプロジェクトでは,各自の所属や問題関心によって意見が少し食い違うことがあるものの,次の①~③についてはおよそ共通理解が得られている。それは,①より良いまちづくりの仕方やあり方については参会者が自ら「考えてみる」ことに意義があるのであり,企画側(教える側)があらかじめ望ましい答えを用意すべきではないこと,②自分たちがより良いまちづくりに関与しているという「当事者意識」をくすぐること,③一人で考えることも大事だが,さまざまな人々との交流を「きっかけ」にすることがさらに大事であること,などである。<br><br>そして,従来の社会科教育や地理歴史教育における性急な態度形成に対する批判に学べば,愛着や愛情の育成は,急いではならないし,目に見えるような成果を期待してはならないということかもしれない。だからこそ,筆者らはシビックプライドを「育成」ではなく「醸成」すると表現するのである。<br><br> そして,そもそもシビックプライドは,一つの教科に過ぎない社会科だけで担い得る教育目標だろうか。その答えは,当然,否である。社会科に限らず,教科の教育だけで育まれるものでもない。学校教育だけで完結するものでもない。ここに,実社会との連携であったり,教育関係者に限らず,さまざまな分野の人々と協働する可能性が生まれてくる。<br><br> 筆者らは,教育目標としてのシビックプライドを,「市民が地域社会や環境に対して持つ自負や愛着,そして,それらをより良くする能動的な参加の精神」と定め,それを先述のような押しつけや誘導に陥ることなく,開かれた形で学んでいくスタイルの教育を「シビックプライド教育」と定義し,その起点を小学校に設定し,徳島県や熊本県,佐賀県において,さまざまな地域学習の構想と実践を試みている。<br><br> <br><br>3.シビックプライドを醸成する学習<br><br> 筆者らがこれまでに取り組んできたシビックプライドを醸成する学習は,おおむね次のように整理することができる。①フットパスコースの提案,②未来予想マップづくり,③地域の諸課題についての価値判断の3つである。<br> 本発表(ポスター)では,上述の学習について,具体的な様子を示しながら,その成果と課題について考察することにしたい。
著者
上村 博昭
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

<b>1.はじめに</b><br> 都市の発展に伴って,都市の内部では,既存の商業地区の変容や新たな商業地区の形成などが生じる.地方都市では,モータリゼーションで郊外にロードサイド型の大型店が増加し,商業活動の比重が変化した.鉄道駅付近の中心市街地が衰退傾向にあるため,活性化が課題とされる.他方,大都市圏では,鉄道の利用者が多く,駅前商業地区の商業集積は,店舗を入れ替えつつ,発展を続けている.<br> 既存研究では,地方都市における商業空間の変容だけでなく,後者の点も,実証的に検討されてきた.たとえば,中心市街地活性化や再開発など,都市内部で展開される政策と結びつけられて論じられている.ただし,大都市圏の商業地区といっても,大都市圏内のどの地域なのかという点で,商業空間の変容の在り方は異なるだろう.また,その分析では,戦後の商業や流通業を特徴づけるチェーン店の出店動向,近年に開発が進んでいる駅ナカや駅ビルの施設についても,併せて検討していくことが望まれる.<br> 本研究では,大都市圏の発展に伴う商業空間の再編成の実態を明らかにしたい.その際,大都市圏全体を検討するのではなく,大都市圏の郊外核となる地域を採り上げて,その内部における商業空間の再編成を検討する.このことにより,大都市圏の拡大が,郊外核の内部にある商業空間をどのように再編成してきたのか,を考察したい.本研究の事例として,城下町や商業都市として発展し,戦後に東京大都市圏の郊外核となった埼玉県川越市を採り上げる.<br><br><b>2.川越市の位置づけ</b><br> 川越市は,埼玉県南部の都市であり,東京大都市圏の郊外核の一つと位置付けられる.実際に,中核市や業務核都市に指定されており,中心性が比較的高い地域である.江戸時代には,川越藩が所在し,川越城の付近に城下町が形成されていた.その後,1893(明治26)年の川越大火によって旧来の城下町を焼失する被害が出たことに伴い,耐火構造とされる蔵造りの商家が,旧城下町地区で増加した.<br> 他方で,川越は,新河岸川の舟運で江戸との往来があるなど,物資の集散地として機能し,商業都市として栄えた.しかし,周辺の諸地域との競合によって,徐々に衰退したといわれる.明治期以降には,旧城下町の南部に,現在の西武新宿線,東武東上線やJR川越線が開通し,川越は鉄道交通の結節点となった.このほか,国道16号線や関越自動車道などの幹線道路が市内を通っており,今日では,通勤・通学の流動や物資流動が盛んな地域である.<br> 川越市の人口は,戦後の東京大都市圏の発展に連れて増加してきた.国勢調査によると,川越市の人口は,1960年に10.7万人であったが,2010年には34.3万人へと,50年間で3倍以上に増えている.2015年には川越市の人口は35.1万人であり,埼玉県では,さいたま市,川口市に次いで3番目の人口規模である.大都市圏郊外として,ベッドタウン化が進んでおり,鉄道駅の周辺に,複数の大型商業施設,商店街が立地するほか,駅ビルも整備されている.<br><br><b>3.商業空間の分化</b><br> こうした経過のなかで,川越市では,以下のように,特徴の異なる3つの商業空間が形成されたと考えられる.<br> 第1は,中心市街地の北部にある旧城下町地区である.江戸期の商人町や職人町に起源があり,川越大火を機に建造された蔵造りの街並みが残っている.かつては商業の中心地であったが,現在では,蔵造りによる観光空間へ変容し,観光関連産業の店舗が集積する地区となっている.<br> 第2は,中心市街地の南部にあたる鉄道駅周辺部である.川越市内には複数の鉄道駅があり,それらの周辺に商業集積がみられる.交通の結節点にあたり,通勤・通学客や観光客の流動が多く,駅ビルや駅付近の商店街が発達している.この地区は,今日における川越市の商業中心地である.<br> 第3は,中心市街地の外延部である.国道沿いにはロードサイド型のチェーン店が多く立地するほか,住宅地付近には食品スーパーなどが立地している.近年には,新たな宅地開発が進む地区において,複合的な商業施設が開業するなど,徐々に商業機能が高まりつつある.<br> 以上をふまえると,大都市圏の郊外のうち,比較的中心性の高い地域では,鉄道交通の利用者が多いことから,中心市街地は衰退しづらいこと,周辺部では自動車を利用したロードサイド型の店舗が立地しており,発展を続けていることを確認できる.また,このほかに,歴史的な建造物など,観光資源がある場合には,観光客を対象とする商業空間が,上述の商業空間と併存することを確認した.
著者
松岡 由佳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

精神疾患は,2013年度から日本の医療計画における五疾病の一つに位置付けられた.メンタルヘルスの問題がますます身近なものとなっている今日にあっては,医学的・心理学的な病理や心的メカニズムとともに,日常の様々な空間とメンタルヘルスとのかかわりを解明する必要がある.英語圏の地理学者は,1970年前後から,既にこうした問題意識のもとで実証研究に取り組み始めた.本発表の目的は,メンタルヘルスを扱う英語圏の研究動向を整理し,その主題や方法論を検討することを通じて,メンタルヘルスへの地理学的な視点の有効性と課題を提示することである.<br> 戦後,ノーマライゼーション理念の進展と福祉国家の危機は,思想と財政の双方の側面から,精神病院の解体と地域におけるケアの推進を要請した.この大きな政策的転換は脱施設化と呼ばれ,1960年代頃から欧米各国で進展した.地域の小規模な施設やサービスの整備が求められる中で,その立地やアクセシビリティが研究課題となった.サンノゼやトロント,ノッティンガムなど北米やイギリスの都市を事例に,センサスや土地利用に関するデータから,サービス利用者の社会・経済的属性や施設の立地とその背景要因が分析された(例えば,Dear and Wolch 1987).施設立地をめぐる紛争や近隣住民の態度を取り上げた研究も同様に,変数間の関連性を分析する計量的手法に依拠していた.<br> 医学地理学や公共サービスの地理の一潮流として興隆したメンタルヘルス研究は,1990年前後に主題や方法論の転機を迎える.地理学における文化論的転回や,健康地理学や障害の地理の台頭が背景となり,社会・文化地理や歴史地理などの幅広い視点から,政策の再編とロカリティ(Joseph and Kearns 1996),「狂気」の歴史(Philo 2004),精神障がい者のアイデンティティ(Parr 2008)といったテーマが取り上げられた.史料や文学作品の分析,インタビュー調査や参与観察などの質的手法が導入されるとともに,研究対象となる時代や地域,空間スケールが多様化した.近年は,以上のような精神障がいに着目する研究に加えて,精神的な健康を,貧困や剥奪などの社会環境や,自然や災害・リスクから検討する研究も登場した(Curtis 2010).<br> 政策の転換に伴う現象を空間的に捉えた一連の研究は,1990年前後を境に主題や手法を多様化させ,個々の研究分野へと細分化する傾向にある.こうした点はメンタルヘルス研究の課題であるとともに,分野間に関連性を持たせ,より大きな枠組みから地理的現象を解明する上で,メンタルヘルスが有効な視点になりうることをも示唆している.<br>文献<br>Curtis, S. 2010. <i>Space, place and mental health</i>. Routledge.<br>Dear, M. J. and Wolch, J. 1987. <i>Landscape of despair: From deinstitutionalization to homelessness.</i> Polity Press.<br>Joseph, A. E. and Kearns, R. A. 1996. Deinstitutionalization meets restructuring: The closure of a psychiatric hospital in New Zealand. <i>Health & Place</i> 2(3): 179-189.<br>Parr, H. 2008. <i>Mental health and social space: Towards inclusionary geographies?</i> Blackwell.<br>Philo, C. 2004. <i>A geographical history of institutional provision for the insane from medieval times to the 1860s in England and Wales: The space reserved for insanity</i>. Edwin Mellen Press.<br><br>本研究の一部には,平成28・29年度日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16J07550)を使用した.
著者
梅田 克樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

Ⅰ はじめに インドは世界最大の酪農国である。3億頭におよぶ牛や水牛から、年間1.2億tもの生乳が生産されている。特に、デリー首都圏の周辺には、インド有数の酪農地域が広がっている。本報告では、インド酪農の最新動向について整理するとともに、生乳流通の地域的多様性について概観する。また、世界第4位の都市圏人口(2,224万人)を擁し、インド最大のメガ・リージョンであるデリー首都圏を事例に、生乳供給システムの現状と課題を明らかにする。Ⅱ 高度経済成長とインド酪農の発展 1980年代後半以降、インドは急速な経済成長を遂げてきた。とりわけ、可処分所得20万ルピー(約30万円)をこえる中間層人口の急増が、需要拡大に与えたインパクトは大きい。生乳生産についても、2005年から2011年までの間に生産量が3割増えるなど、需要拡大を受けた積極的な増産が図られている。しかし、同期間の乳価上昇率は5割に達している。増産ペースを上回る勢いで需要が増え続けているため、生乳需給は今後ますます逼迫するものと見込まれている。2020年の需給ギャップ(供給不足量)は、5,000万tに達するとの予測もある。 インド国民の8割はヒンドゥー教徒である。ヒンドゥー教において牛は神聖な生き物とされており、ベジタリアンも数多い。そのため食肉消費量は少なく、畜産生産額の7割を乳が占めている。ギーやダーヒなどの伝統的乳製品も広く食されている。こうした強固な乳食文化を支える酪農部門は、インドにおける農業生産額の2割を占め、穀物に次ぐ基幹的部門をなしているのである。その一方、牛乳の7割に、不純物が含まれていたり混入物が加えられていたりするなど、品質向上に向けた課題も多く残されている。Ⅲ 生乳生産の地域的偏在とその要因 酪農がさかんなのは北部諸州である。生乳生産量が最も多いのはウッタル・プラデーシュ州(2,100万t)であり、その量はニュージーランド一国の生乳生産量に匹敵する。そのほか、ラジャスタン州(2位、1,320t)やパンジャブ州(3位、940t)、ハリヤーナ州(10位、630t)なども、上位に顔を出している。デリー首都圏を取り囲むように、酪農主産地が分布しているのである。逆に、東部諸州の生乳生産量は少なく、深刻な生乳不足にしばしば陥りがちである。 生乳生産の地域的偏在が生じる最大の理由は、気候条件の違いにある。降水量が少ない地域では草が成長しにくく、飼料調達に支障が出る。一年中高温多湿が続く地域では牛が弱ってしまうし、交雑種を導入することも難しい。欧米からの輸入牛との交雑種は、年間乳量が1,000~2,000㎏とインド在来牛(300~600㎏)に比べて多いものの、耐暑性が大きく劣るのである。その点、明確な冬があり適度な降水も得られる北部諸州ならば、草地資源も豊かであるし、交雑種を導入することも容易である。 そのほか、冷蔵輸送システムが整えられていないことや、種雄牛の導入状況が州によって異なることも、地域的偏在を生じさせる副次的要因として挙げられる。Ⅳ 生乳生産の地域的偏在とその要因 インドの牛乳流通において、organized milkが占める割合は18%にすぎない。自家消費や伝統的流通などのインフォーマル流通が卓越するものの、その全容はほとんど解明されていない。しかし、インド経済の中枢を担う大都市については、やや事情が異なる。デリー首都圏においては、Delhi Milk Scheme (DMS)に基づく流通システムが整えられ、毎日380万リットルものpackaged milkが消費者に届けられている。連邦政府農業省内に事務局を置くDMSが、近隣州の酪農連合会や酪農協などから買い取った生乳を、各乳業者に一元的に販売するのである。デリー市民に牛乳・乳製品を安価に供給するとともに、生乳生産者に対して有利な乳価を確保するための制度である。DMSは、Operation Flood (OF)に基づいて1959年に策定された枠組みである。DMSにおける主な生乳調達源もまた、OFに基づいて普及が図られてきた協同組合酪農である。OF推進のためにNDDB(インド酪農開発委員会)が設けられ、アナンド型酪農協を普及させてきた。アナンド型酪農協の集乳率は8%程度と高くないとはいえ、インド農村の社会経済開発モデルとしての意味は大きい。また、DMSの生乳販売先の多くは、NDDBの傘下におかれている。NDDBが100%出資するMother Dairy社は、DMSによる生乳販売量の66%を占めており、デリー市乳市場における支配力を確保している。デリー大都市圏内に1,000カ所の専売ブースと1,400カ所の契約小売店を設け、牛乳・乳製品をはじめとする多種多様な食品を販売している同社は、インド大都市部において構築すべき安価かつ安定的な食料供給システムの国家的モデルと位置付けられている。こうしたモデルが普及すれば、インドの酪農・乳業が大きな変革を遂げる可能性があるだろう。
著者
渡邉 悌二 白坂 蕃
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

目的 キルギス南部のアライ谷では,家畜(ヒツジ,ヤギ)の放牧が最大の産業である。アライ谷の牧畜は,谷の中の住人が行う水平移牧,谷の外部の住人が行う垂直移牧,および数~20軒ほどの谷の中の世帯が共同で飼育する共同型の日々放牧(ゲズー)からなっている (Shirasaka et al. 2013)。これらの放牧形態のうち,この研究ではゲズーの詳細を明らかにする調査を行った。 <b> </b> ● 結果【アライ谷全域の調査】調査を行った15村のうち,東側(高所)に位置する6村(サリタシ,キチ・アルチャブラック,アルチャブラック,タルディス,サリモゴル,カラカバク)でゲズー(kez&uuml;&uuml;)が行われていたが,西側(低所)に位置する9村(カシカス,ジャイルマ,アチクス,カビク,キジルエシュメ,ダロートコルゴン,チャク,ジャシティレク,ジャルバシ)は同様の形態の放牧がゲズーでなくノバド(novad)という名称で行われていた。アライ谷東部は主要道路で北方のオシに結ばれており,アライ谷からオシの間の村や町でもゲズーが行われているが,南方のカラクル(タジキスタン)ではノバドが行われている。 【アライ谷東部,サリタシ,タルディスの調査】サリタシとタルディスでは (1) 3季・村ベース型,(2) 2季・村ベース型,(3) 3季・ジャイロベース型の3タイプのゲズーが認められた。2011年時点で,サリタシでは,村人が所有するヒツジ・ヤギのうち1,981頭(63家族)が3季・村ベース型ゲズーを行っており,2013年時点で388頭(15家族)が2季・村ベース型ゲズーを行っていた。タルディスには,タルディス,アルチャブラック,キチ・アルチャブラックの3つの集落がある。タルディスでは3タイプすべてのゲズーが存在しており,アルチャブラックとキチ・アルチャブラックには3季・村ベース型および2季・村ベース型ゲズーが存在している。 GPS首輪(合計66頭)を用いた放牧範囲の調査結果からは,一日の水平移動距離が6.8 km~17.3 kmの範囲内にあり,村から半径1.3~5.4 km内で放牧が行われていることがわかった。 村人がゲズー・ノバドに参加する基本的な理由は,家族内の限られた労働力を最小限にするためである。サリタシの場合,ゲズーに参加している63家族のうち,1家族のみが牧畜のみで生計を立てているが,それ以外は教師やトラック運転手,道路作業員,国境警備員など他に職業を有しており,家族の中で家畜の世話をできるのは子どもらに制限される。 【アライ谷全域のゲズー・ノバドの多様性】詳しい調査を行ったサリタシとタルディスでは3タイプのゲズーが認められたが,アライ谷を西に進むとゲズー・ノバドのタイプは少なくとも5つに増える(上記の3タイプに,1季・村ベース型および3季・村/ジャイロベース型が加わる)。ゲズー・ノバドはアライ谷の家畜放牧の形態に多様性を与えることに繋がっている。また,ゲズー・ノバドの存在は,将来の開発が期待されるエコツーリズム資源としても重要である。しかし,多くの家畜が村から半径わずか1.3~5.4 km内の放牧地を使用していることから,将来的には村周辺の放牧地の荒廃が懸念される。
著者
助重 雄久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

インターネットの普及は、観光客による航空券・宿泊等の予約、旅行情報の収集や、観光施設のPR活動に大きな変化をもたらした。離島の場合、観光関係者が観光客の発地に出向いてPRを行うには多額の費用がかかるため、従来のPRは離島情報誌、パンフレット等の紙媒体や口コミに大きく依存していた。しかし、インターネットの普及後は観光施設の独自Webサイトや大手旅行予約サイト等を通して発地にいる不特定多数の観光客に情報を迅速に伝えることが可能となり、情報の質・量も飛躍的に向上した。<br> 助重(2010)では、沖縄県宮古島の小規模宿泊施設へのヒアリングをもとに、インターネットの普及が小規模宿泊施設の急増をもたらした要因の一つであることを解明したが、観光客による旅行予約や情報収集の実態には言及しなかった。また、2010年以降はfacebook等のSNSやスマートフォンの急速な普及により、Webサイトのあり方や閲覧方法が大きく変化しており、宿泊施設のインターネットの利活用にも変化が生じているものと考えられる。<br> 本報告では上記の点をふまえ、観光客による旅行予約や情報収集の実態を宮古空港等で行ったアンケートをもとに分析する。また、2010年以降のインターネット環境の変化が小規模宿泊施設の経営にどんな影響を及ぼしたのかを、助重(2010)の調査対象施設への再調査をもとに考察し、離島を巡る「島旅」の変化の一端を明らかにする。<br><b>Ⅱ 観光客による旅行予約と旅行情報収集の実態<br></b><u>1.航空券の予約</u><br> 調査対象者180名中86名(47.8%)が旅行会社や航空会社のパックツアーを利用しており、うち44名が旅行会社・航空会社のWebサイトで予約していた。一方、旅行の手配をすべて個人で行った観光客は62名(34.4%)いたが、うち50名が航空券を航空会社等のWebサイトで予約していた。<br> 宮古島では先島航路の旅客輸送全廃(2008年)に伴い、島外との交通手段が空路だけになった。2011年にはJTA、RAC、ANAに加え、スカイマーク・エアラインズが那覇-宮古線に参入し、早期割引航空券や、航空券とホテル(+レンタカー)を自由に選択できるダイナミックパッケージ(DP)の値下げ競争が激化した。このため、店頭販売より割安な航空券やDPをWebで予約する観光客が増えたものと考えられる。<br><u>2.宿泊施設に関する情報収集と予約</u><br> 旅行の手配をすべて個人で行った観光客62名のうち、38名がWebで宿泊予約を行っていた。このうち、23名は宿泊施設独自のWebサイトにある予約フォーム等を利用しており、大手旅行予約サイトや航空会社の宿泊予約ページからの予約を上回っていた。<br> 一方、宿泊施設に関する情報収集では、大手旅行予約サイトの利用がもっとも多く、宿泊施設独自のWebサイトを上回った。以上の点から、大手旅行予約サイトで宿泊施設を探した後に、宿泊施設独自のサイトを閲覧して、気に入った施設に予約を入れる観光客が多いものと考えられる。<br><u>3.島内での観光行動に関する情報収集</u><br> 島内での観光行動(観光地巡り、ダイビング等)に関する情報収集方法は、「観光パンフレット・マップ」、「旅行雑誌」がWebサイトを大きく上回っており、依然として紙媒体が重視されていることが明らかになった。<br><b>Ⅲ SNS・スマートフォンの普及と宿泊施設の経営の変化<br></b><u>1.インターネットによるPR活動の変化</u><br> 助重(2010)の結果では、大部分の小規模宿泊施設がホームページによるPR活動を行っていたが、2013年においてはブログやfacebookを利用する宿泊施設が増加した。小規模宿泊施設では、ダイナミックパッケージや大手旅行予約サイトで集客を図るホテルに対抗するため、宿泊客と双方向のコミュニケーションをとり、リピーターの定着を図ろうとする動きが活発化しているといえる。一方で、ダイバー等、特定の常連客にターゲットを絞り、インターネットを利用したPRをやめた宿泊施設もみられた。<br><u>2.宿泊予約方法の変化</u><br> 宮古島では、楽天トラベルの登録施設が2013年7月時点で100軒を上回ったように、大手旅行予約サイトに登録する施設が増加し続けている。しかし、小規模宿泊施設の場合は、大手旅行予約サイトを積極的に利用して集客を図る施設と、大手旅行予約サイトは積極的に利用せず、ブログやfacebookで安定的な集客を図ろうとする施設に二極分化する傾向がみられた。<br><u>3.館内におけるインターネット利用形態の変化</u><br> 多くの施設では、客室でLANを使用できるようにしているが、スマートフォンの発達に伴い、パソコンを持参したり公共スペースに設置した共用のパソコンを利用したりする客は減少傾向にある。宮古島ではほぼ全域で携帯電話の電波も良好に受信できるため、客室のLANやロビーに置いていたパソコンを撤去した施設もみられた。
著者
遠藤 尚
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.はじめに </b> <br> 発展途上国農村地域において、薪炭は依然として重要な家庭用燃料であり、森林資源の維持、管理等との関係で地理学、および周辺分野においても検討されてきた。人口密度が高く、開発の進んだインドネシア、ジャワ島においても、自然資源と住民の世帯生計の両立は重要な課題である。ジャワ島については、Parikesit et al.(2001)が、西ジャワ州における1997年の調査を元に、農村世帯生計における森林以外から得られる薪の重要性を指摘している。しかし、2000年以降、灯油からLPGへの家庭用燃料転換プログラムの実施や離農の進行など、ジャワ島農村部住民をとりまく社会経済的状況は大きく変動しており、農村世帯の燃料源や薪の利用状況にも変化がみられることが推察される。そこで、本報告では、2012年から2014年にかけて、中部ジャワ州1村、および西ジャワ州3村において実施した調査を元に、世帯の燃料源と薪の利用状況および入手経路を検討し、ジャワ島農村部における薪燃料の位置づけと薪資源の維持管理の現状について明らかにすることを目的とする。<br><b>2.対象地域の概要と研究方法</b> <br> 本研究の調査対象地域は、中部ジャワ州プマラン県ススカン村(A村)、および、西ジャワ州西バンドゥン県スンテンジャヤ村(B村)、チアンジュール県シンダンジャヤ村(C村)、チビウク村(D村)である。A村は、ジャワ島中部北海岸、チョマル川氾濫原下流部に位置しており、農地の大部分は水田である。また、A村は、ジャカルタとスラバヤを結ぶ幹線道路から北へ約3kmと近く、郡庁所在地からも4kmの位置にあるため、都市とのアクセスが容易な村となっている。B、C、D村は、西ジャワ州チタルム川流域の村である。B村はチタルム川上流部に位置し、総面積の53%を森林が占める。C村およびD村は、チタルム川中流域盆地部の穀倉地域に位置する互いに隣接した村である。B村はチラタ湖南岸に接しており、C村は郡庁所在地となっている。<br> A村では、2012年8月から9月にかけて175世帯を対象とした世帯経済調査を実施した。また、B村およびC村では、2013年9月にそれぞれ、120世帯、111世帯を対象とした同様の調査を行った。D村についても、2014年12月に、110世帯を対象とした調査を実施した。調査項目は、世帯構成員の属性、世帯構成員の就業状況、世帯の動産・不動産所有状況、農地の経営状況、燃料源等である。<br><b>&nbsp; 3.ジャワ島農村部における薪燃料の位置づけと薪資源の維持管理状況</b><br> 2006年に実施された家庭用燃料転換プログラムにより、灯油からLPGへの燃料の転換が進んだことが明らかとなった。一方で、いずれの村においても、薪を利用する世帯が一定の割合を占めており、特に比較的所得の低い世帯において薪の利用が多くみられた。また、副次的な燃料として薪を利用する世帯もみられた。このように、薪は、ジャワ島農村部において世帯支出の抑制や安定化という機能を依然として維持していることが確認された。また、薪の入手は、集落の屋敷地周辺で行われている場合が多く、採取に際した規制等もほとんど観察されなかった。これは、薪を利用する世帯が限られているため、薪の需要量が、屋敷地周辺の枯れ木や間伐材の発生量の範囲内にあることが一因にあるものと推察される。<br><b>参考文献</b><br> Parikesit, K. Takeuchi, A. Tsunekawa, O.S. Abdoellah 2001. Non-forest fuelwood acquisition and transition in type of energy for domestic uses in the changing agricultural landscape of the upper Citarum watershed, Indonesia. <i>Agriculture, Ecosystems and Environment</i> 84: 245-258.
著者
梁 海山
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.80, 2008

<BR><B>【研究の視点と目的】</B><BR> 中国の急速な経済発展に伴い,これまで開発に取り残されてきた内モンゴル地域も大きな変貌を遂げつつある。それは農村地域での都市的土地利用への大量転用,農村人口の都市への流出といった,都市化の波が東部沿海地方から中部や西部の内陸部へと全国規模に広がったことによる。もともと耕地が少なく人口圧が高い中国では,食糧不足や経済の持続的な発展を支えていくために,内モンゴルなど内陸の牧畜地域に「移民実辺」,「草原開墾」,「西部大開発」政策や,沙漠化防止のため「放牧禁止」「生態移民」など,様々な制度・政策が実施されてきた。その結果,内モンゴルでは耕地面積が増加した代わりに放牧地が減少し,人口圧力や定住化による草原への負荷が増大したため,沙漠化などの環境問題も深刻化してきている。<BR> こうした内モンゴルにおける農業や環境問題に関する研究は,地理学においても徐々に蓄積されていきている(たとえば,澤田(2004),蘇徳斯琴(2005),小長谷ほか(2005))が,都市化に着目した研究はきわめて少ない。内モンゴルの主要都市での経済発展は,都市自体の構造変化に加えて,その周縁の郊外地域や農牧業地域の都市化を招き,地域の環境変化と密接に結びついて進展していると考えられる。<BR> 本研究は,内モンゴルにおける経済発展,環境問題,政府の政策などが,どのように地域の環境変化や都市化に結びついたかを明らかにすることを目的とする。<BR><B>【地域の概要と研究方法】</B><BR> 内モンゴル自治区は,中国全土の北辺に位置し,面積約118.3万km<SUP>2</SUP>,人口約2,392万人(2006年)を有する,おもにモンゴル民族と漢民族が混在する多民族地域である。地域内には,省都の呼和浩特(フフホト)のほか,包頭(パオトウ),烏海(ウーハイ),赤峰(チーフォン),通遼(トゥンリャオ)など12の市と盟が存在する。2000年以降,中国では経済発展や地域変化,中央政府の国策などより,地方行政機構の再編が進んでいる。たとえば,農業を主とした内陸部の「地区」に「市」を新設したり,周辺の「地区」を「市」に編入することで,農民や遊牧民を「市」の住民にする,「撤地設市」という行政改革が行われた。その結果,開発にともなう実質的な地域変化だけでなく,全国的な地方行政再編を反映した形式的な地域変化が進んでいる。とくに内モンゴルでは,自治区の下級行政機構として従来は「盟」が置かれてきたが,「撤盟設市」による行政改革に伴い,2003年には自治区内9の「盟」のうち6までが「市」に改編された。<BR> 本研究では,内モンゴルにおける政府の制度・政策が都市化に与えた影響を検討するために,各種の統計データを用いてGISによる地図化と統計解析を行った。<BR><B>【結果と考察】</B><BR> 内モンゴルが独立した1947年以降の政策転換は,巴図(2006)によって6つに時期区分されているが,改革開放後に限ると次の3時期に分けられる。それは,農牧結合政策により生産請負制が進んだ1982-1991年,放牧を禁止して農牧産業化制が進んだ1992-1999年,西部大開発による退耕還林還草政策が行われた2000年以降である。ここでは,環境変化が顕著になった1990以降における都市化と地域の変化を分析した。<BR> 居住地区分による都市人口は,1990年の781.1万人から2006年の1163.6万人に増え,都市人口比率も1990年の36.1%のから2006年の48.6%と,都市化が進展していることがわかる。これは,1970年代末に始まる改革開放政策により,内モンゴルの経済発展と都市化が進んだ結果である。とくに2000年以後,沙漠化の防止と内モンゴルにおける西部大開発をスムーズに進展させるため,内モンゴル全域で土地封鎖,強制移住,牧畜禁止など「生態移民」政策によって都市への集住が進行した。<BR> 内モンゴルの農村では牧畜業から農業への生業移行が著しい。一方,都市には人口,機能が集積し,中心都市内および周辺地域に工業と第3次産業が集中した。その結果,以前の盟や旗の地域が徐々に合併して,新しい都市が形成されている。内モンゴル全土で,交通,工業,商業などが集積する都市内部および周辺地域と,林地,牧用地,農地などが広がる農村地域との分化が進み,地域変化と都市化が進んでいる。<BR> これまでの農村地域の変革制度・政策は農牧民の生活向上を目的とした農業・牧畜業の改革であったが,農牧地域の経済構造を大きく変革するものではなかった。一方,この間,工業化,サービス経済化によって都市の経済は大きく成長し,結果的に都市と農村地域の間では収入,教育,生活水準などの面での格差が顕在化した。こうした開発の結果,全国的に見ると,沿海部と内モンゴルの格差は縮小傾向にあるものの,都市化に伴って内モンゴル地域内での格差が新たに生じている。
著者
西山 弘泰
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

1.はじめに <br> 人口減少に伴い,空き家の増加による住環境の悪化が懸念されている.国土交通省の試算では,2040年における全国の空き家数は1,335万戸,全戸数に占める割合が22.7%になるとしており,空き家の問題はむしろ今後10年から20年後に深刻な状況を迎えることが予想される.そのため,今後増加が予想される空き家にどう対応していくかということを議論し,適切な対応をとっていくことが求められる.2010年ごろから空き家問題がマスメディア等でも大きく取り上げられるようになったことから,社会的関心事として注目を集めている.昨今の風潮を鑑みると,空き家の問題が実態以上にクローズアップされていることは否めないが,それに比例して国や自治体も空き家の実態調査や条例・法制度の整備に積極的に取り組み始めている.ところが,多くの研究では空間的な視点や地域性な視点が欠落し,それがあたかも全国一律で生じているかのように論じられているものも散見される.空き家の発生は,都市規模の大小,都市化の時期,就業地との関係など,地域性から考察を行い,その発生メカニズムを解明していく必要がある.そこで本研究では,栃木県宇都宮市を事例に全市域の空き家を対象とした空き家調査の結果から,空き家発生の空間的特徴を明らかにする.&nbsp;<br>2.調査地域の概要と研究方法<br> 宇都宮市は栃木県のほぼ中央に位置し,50万人の人口を有する北関東最大の都市である.加えて北関東屈指の工業団地が市東部に立地し,2010年の製造品出荷額は18,068億円(全国9位)と,工業都市としての側面も強い.道路交通が充実していることから,郊外には大規模住宅地や大型店舗が多数立地している.東京へのアクセスも良好なことから東京や埼玉への通勤者も多い.本研究の資料である「空き家実態調査」は,宇都宮市が2014年度の制定を目指している「(仮称)空き家等に関する条例」に先駆けて実施されたもので,宇都宮市市民まちづくり部生活安心課が中心となって実施したものである. まず,宇都宮市全体の空き家の位置を把握するため,上下水道局の水道栓データと,資産税課の家屋課税台帳のデータをGIS上でマッチングさせ,閉栓している専用住宅を暫定的な空き家(8,628戸)とした.なお,今回は専用住宅以外の空き家は対象に含めていない. 続いて暫定的な空き家すべてについて現地調査を行い,「空き家等判別基準」(宇都宮市作成)を設けた上で4,635戸を空き家とした.現地調査では,上記の判別基準に基づいて,建物の腐朽破損度(建物全体,外壁,屋根,窓ガラス,出入り口の状況),対象物の構造(表札,木造,非木造,階数),敷地の状況(雑草・樹木,塀,郵便ポストの状況等),その他周辺環境(接道状況,売却・賃貸募集看板の有無等)について外観目視により調査を行った.建物の腐朽破損度については状態の良いものからA判定,B判定,C判定,D判定,判定不能の5つに分類した. 最後に,空き家と判定されたものの中から,登記簿等で所有者の住所を特定し,住所が判明した1,511世帯に郵送によるアンケート調査を行い,62.4%の回答を得た.&nbsp;<br>3.空き家の空間的特徴 <br> 宇都宮市の空き家は1970-79年築が1,616戸と最も多く,1970年以前を含めると半数以上が築30年を超えていた.とはいえ,約7割の空き家は目立った腐朽破損が認められず,対応に緊急性を要するD判定は247件と少ない.空き家の分布をみてみると,市街化区域全体にほぼ均一に広がっているようにみえる。しかし,分布の傾向を詳しくみると,空き家の分布には一定の規則性を見出すことができる.それは①75歳以上の人口が多い地域で空き家が多いこと,②急激な郊外化以前に市街地だった地域(1970年DID)内において比較的空き家の密度が高いこと,②近年区画整理事業が完了し,築年数の浅い住宅が多い地域で空き家が少ないことがわかった.このように,空き家は市街地全体において分布が認められるものの,諸地域の都市化時期や居住者の属性などの地域性がその分布と一定の相関を有していることが明らかとなった.以上のように空き家の発生メカニズムは,核家族化の進展や人口減少などといった社会的要因がある中で,都市化の時期や居住者の年齢などといった地域性が強く働き,それが空き家分布の地域的差異を生じさせていることが指摘できる。今後は地価や住宅需要といった市場性,生活利便性などとも絡めながら考察することが求められる。
著者
高橋 昂輝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

近年,エスニック・タウンの観光地化や機能の変化が指摘されてきた。時間の経過に伴い,エスニック集団の居住機能はエスニック・タウンから離脱するが,域内にはその後もエスニック・ビジネスなど一部の機能が残存する。したがって,エスニック・タウンはその形態を変えるものの,エスニック集団にとって一定の中心性を維持する。Zelinsky and Lee(1998)によれば,現代の都市においてエスニック集団は居住,就業など活動の内容に応じて異なる空間を利用しつつも,エスニシティを共通項として社会的な結合を保持する。エスニック集団の諸機能を要素として,一体のエスニック社会が形づくられることから,居住,エスニック・ビジネス,エスニック組織など各機能の空間配置を複合的に捉えることはエスニック社会の空間構造の変容を明らかにすることに通ずる。<br> 本発表で取り上げる,トロントのポルトガル系集団は移住から約50年を経て,世代交代期を迎えている。本発表の目的はトロントのポルトガル系社会における空間構造の変容を明らかにすることである。<br> 本発表は2012年10~11月,および2013年7~10月の現地調査にもとづく。調査方法には資料収集,聞き取り,質問票調査,景観観察,および参与観察を用いた。<br> 1960年代末~1980年代初頭,ポルトガル系社会の諸機能はトロントのダウンタウンに近接する,リトルポルトガルに集中した。しかし,1980年代以降ポルトガル系人の居住域は市内北部,および西部郊外へと集塊性を維持しつつ拡散した。現在,ポルトガル系人は①リトルポルトガルにくわえ,②市内北部,および③西部郊外にも居住核を形成する。1990年代末以降においては,居住地移動に呼応してエスニック組織が市内北部に相次いで移転した。<br> ポルトガル系事業所は,現在においてもリトルポルトガル内部に一定の集積を維持するものの,2003年以降ホスト社会住民が出店を続け,その数は減少傾向にある。都市のインナーエリアに対する,ホスト社会住民の再評価は地価の上昇を促進し,低所得のポルトガル系人を域外へと押し出している。ポルトガル系集団のリトルポルトガルからの拡散は,ホスト社会への同化過程としてのみならず,ホスト社会による閉め出しという観点からも捉えられる。また,域内の地域自治組織であるBIA(Business Improvement Area)では,2007年の創設以降ポルトガル系社会の中心人物が代表を務めたが,2012年において代表はカナディアンに交代した。まちづくりにおいても,リトルポルトガルからポルトガルのエスニシティは希薄化している。しかし域内の経営者のうち,ポルトガル系人は依然約半数を占め,リトルポルトガルはポルトガル系商業の核心地として機能を維持している。ポルトガル系経営者の大半は市内北部,または西部郊外から通勤する。他方,ポルトガル系顧客は買物のためにそれぞれの居住地からリトルポルトガルを訪れる。<br> 今日,トロントのポルトガル系集団は3つの居住核を中心に居住,就業,買物,組織への参加など活動の内容に応じ,複数の空間を利用する。ポルトガル系集団の諸機能は空間的に拡散したものの,それらはエスニシティに根差した社会的結合を維持しており,一体の空間的ネットワークを形成している。<br>
著者
林 泰正 石田 雄大 山元 貴継
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.76, 2011

<B>調査の背景と目的</B><BR> 今回調査を行った伊勢市は,かつては「(伊勢)神宮」への参拝者で大きくにぎわっていたものの,近年では短時間での滞在にとどまる観光客が多くなり,「日本一滞在時間の短い観光地」という指摘も受けている.<BR> あらかじめ2009年6月28日(日)の終日行った調査では,伊勢市内の各所において,それらの場所に立ち寄っていた観光バスのナンバープレート記録をもとに,同市を訪れていると思われる観光バスがどのように市内をめぐっているのかを明らかにした(林ほか2010).そこでは,追跡できた192台の観光バスのうち127台が(伊勢)神宮「内宮」を訪れているものの,同じ神宮の「外宮」を経由したのは32台にとどまっていた.また多くの観光バスが,午前中には隣接する鳥羽市・志摩市から伊勢市方面へ,一方で夕方以降は,伊勢市から鳥羽市・志摩市方面に向かうことが確認された.このように,伊勢市を訪れている観光バスの多くが,実際には「内宮」周囲に立ち寄るのみで,そのまま宿泊などのために鳥羽市・志摩市方面に向かっていると想定された.<BR> そこで今回の調査では,こうした想定をもとに,伊勢市を訪れる観光バスツアーの関係者(バス運転手または添乗員)に対して,各ツアーが伊勢市内の観光地をどのように訪れているのか,また,同市以外の三重県内の都市をどのようにめぐるツアーを設定しているのかについて,その理由を含めた尋ねるアンケートを行なった.アンケートは,先の調査と条件を揃えた2010年6月27日(土)・28日(日)の両日に,「内宮」前駐車場にて実施した.<BR><BR><B>観光バスツアーと伊勢市内の観光地</B><BR> 今回,回答を得られた観光バスツアーは計150組であった.まず,それぞれの観光バスツアーについて,参加者の居住する都府県として最も多く挙げられたのは大阪府(30組),次に兵庫県(16組)となるなど,関西地方の居住者を対象とするツアーが多く占めた.これに愛知県(13組),岐阜県(11組)が続いた.ツアーの参加者の年齢層としては,50歳代,40歳代に偏って多かった.<BR> そしてアンケートからは,「内宮」を訪れていた観光バスツアーの中で,116組が「おかげ横丁」,89組が「おはらい町」にも立ち寄るよう,ツアーを設定しているとの回答が得られた.「内宮」に隣接しているこれらの観光地ですら訪れないとする観光バスツアーが現れており,続いて53組が「二見浦」,45組が「外宮」,23組が「二見シーパラダイス」,14組が「倉田山周辺」に立ち寄るとしたほか,「伊勢安土桃山文化村」などの伊勢市内の各観光地に立ち寄った観光バスツアーは一桁台にとどまった.これらの伊勢市内の観光地に立ち寄らなかった理由としては,ほとんどの観光バスツアーが「もともとコースに設定していない」と回答していた.とくに,6割以上と圧倒的に多くのツアーが伊勢市での観光への期待として「神社参拝」を挙げているにも関わらず,「外宮」にすら参拝していないことが明らかとなった.<BR><BR><B>周辺都市への観光との関係</B><BR> アンケートでは,観光バスツアーが伊勢市だけでなく,三重県内の他の都市をどのように訪れているのかについても尋ねた.その結果,ツアーの出発地から伊勢市に直行し,そのまま出発地に戻った27組を除いた123組が,伊勢市の前後に,三重県内の他の都市を訪れていた.とくに,伊勢市に続いて鳥羽市や志摩市に向かうといったように,伊勢市を訪れた後に県内の他の都市を訪れるコースを採る観光バスツアーが,相対的に多くみられた.<BR> そして,宿泊地についても,宿泊を伴っていた観光バスツアー計105組のうち,伊勢市内に宿泊地を求めていたツアーはわずか15組しかなかった.とくに,鳥羽市の存在が際だっており,宿泊を伴った観光バスツアーのうち74組が鳥羽市にも立ち寄っている中で,実に48組が同市に宿泊していた.伊勢市に宿泊地を選ばなかった理由としては,伊勢市以外の都市に宿泊した方が日程の都合が良いとする回答が最も多く,また,伊勢市内に良い宿泊施設が無いからという回答も多くみられた.<BR> 以上の結果からは,伊勢市をめぐっていると思われた観光バスツアーの多くが,実際には鳥羽市や志摩市などをメインに観光および宿泊する観光コースを採っている中で,「内宮」のみを訪れるために伊勢市に立ち寄っている可能性が高いということが明らかとなった.こうした,他の都市を含めた観光の中でますます,「内宮」を除いた伊勢市内の各観光地を観光バスツアーがめぐる時間が短くなっていることが想定される.<BR><BR>林 泰正,石田雄大,田中博久,山元貴継 2010. 三重県伊勢市をめぐる観光バスの動向.2010年度日本地理学会秋季学術大会.
著者
熊原 康博
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

はじめに 群馬県北東部片品川流域では,活断層研究会編(1991)により,長さ約7km,北北東-南南西走向の東傾斜の逆断層が認定され,断層と片品川との位置関係から片品川左岸断層と呼ばれた.さらに,黒ボク土を変位させる明瞭な逆断層露頭の写真も載せている.中田・今泉編(2002)では,活断層研究会編(1991)の断層トレース周辺において,より詳細な位置を提示し,二本の断層トレースが平行にのびていることを示した.熊原(2015)は,右ずれ変位を示す河谷の屈曲や累積性をしめす形成年代の異なる河成段丘面の変形があること,断層長が30kmに及ぶことを報告した。本断層が片品川右岸にも連続することから,本断層を「片品川断層」と改称した。 一方,この活断層がどのような活動履歴をもつのかについては,全く明らかになっていなかった。本発表では,片品村築地地区においてトレンチ掘削調査を行った結果を報告する。 片品川断層の概要 断層の長さは30kmに及び,北端は片品村東小川,南端は沼田市(旧白沢村)高平である.全体としては,北北東-南南西走向であり,4~5本のトレースが左ステップしながら連続する。断層変位の向きは,河谷の屈曲から右横ずれ変位が認められるが,断層の走向が変化する箇所や,トレースの末端部では,段丘面上に撓曲崖が存在することから,一部では逆断層性の変位も確認できる。 サイトの地形とトレンチの概要 トレンチ掘削調査は,片品川左岸沿いの高位段丘面上の撓曲崖で行った。この段丘はフィルトップ性の段丘で支流に沿って段丘面が連続する。垂直変位量は8.8mであった。トレンチは,長さ8m,最大深さ3.5mである。 トレンチ調査の結果 トレンチ壁面からは,地表下には榛名二ッ岳伊香保降下テフラ(Hr-FP,6世紀前半),礫混じりのクロボク土がトレンチ全体で認められた。その下位には,断層変形を受けたクロボク土と礫層の互層が認められ,低角な断層面が2本認められた。下位の断層面(F1)はほぼ水平であり,クロボク中に挟まれる礫層を約2m変位させている。F1を覆うクロボク土は,上位にある断層面(F2)によって変位を受けている。F2はHr-FP下位の礫混じりクロボク土に覆われる。従って,最も新しいイベントはF2によるものであり,おそらく一つ前のイベントはF1によるものと考えられる。ただしF2に沿っては,上盤側に,高位段丘面構成層と見られる礫層の褶曲構造が随伴し,変形の程度が大きいことから,F1の断層変位よりも前にもF2に沿った断層変位があったと見られる。 活動履歴の検討 地層中に含まれる有機質のクロボク土のAMS C<sup>14</sup>年代測定に基づくと,F2の変位を受けている地層から5300-5040 cal BP (Beta-394829),変位後の地層から 8185-8035 cal BP (Beta-394828)の年代値を得た。F1の変位を受けている地層から10225-10160 cal BP (Beta-394827),変位後の地層から17025-16780 cal BP(Beta-394826)を得た。したがって最新イベントの発生時期は5040-8185 cal BP,一つ前のイベントの発生時期は10160-17025 cal BPとなる。 現状ではイベントの年代幅が広く,再来間隔は単純には2000-12000年間隔となってしまうが,5000年前以降活動していないことを考えると,少なくとも2000年間隔よりは長くなるであろう。現在追加の年代測定を依頼しており,発表時にはその結果も加味する予定である。 &nbsp; 文献 活断層研究会編(1991)『新編 日本の活断層』;中田・今泉編(2002)『活断層詳細デジタルマップ』;熊原(2015)地理科学学会春季学術大会発表 <b>謝辞 </b>本調査にあたっては,基盤研究(C)課題番号26350401(代表者熊原康博)の一部を用いた。
著者
黒木 貴一 品川 俊介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<br>台風第18 号や前線による平成27年9月関東・東北豪雨では,7 日から11 日までの総降水量が関東地方で600mmを越える場所があった。中でも茨城県の鬼怒川では,破堤,溢水により40km<sup>2</sup>以上が浸水し,全半壊家屋5500棟以上,死者3人が出た。この被害に関して破堤・溢水・漏水個所を中心とする被害状況全般,浸水範囲と微地形に関して報告がなされた。この浸水はハザードマップで予想された範囲で生じたとされるが,破堤を除き,浸水の始まりとなった段丘面上の浸水や遍在する堤防の漏水箇所など,治水地形分類図の情報からは予測が難しい弱点も確認された。そこで本研究では,既存成果を参考に鬼怒川の破堤・溢水・漏水箇所に関し,河川の微地形との空間関係を地形量を鍵に明らかにし,氾濫に注意が必要な河川条件を検討した。
著者
小林 岳人
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100055, 2012 (Released:2013-03-08)

本研究は教育困難校の一つの目安となる退学者の分布の分析を行うことによって教育困難校の改善のための方策を探るものである。筆者の前任校である千葉県立沼南高柳高等学校も教育困難校の一つである。1)入学者の居住地住所を10進緯度経度に変換しArcGISにて居住地と沼南高柳高等学校までの距離を求め距離帯ごとの退学者率を算出、2)卒業者の平均距離と退学者の平均距離を算出しこれらの間の有意差を検定(t検定)、という分析を行った。その結果、1)通学者は沼南高柳高等学校を中心に、東武鉄道野田線や新京成電鉄線の沿線に分布、2)沼南高柳高等学校からの距離が4kmまでは退学者の比率は漸増し、その後ほぼ一定、10kmを越えると再上昇、3)卒業者と退学者のそれぞれの平均通学距離の差に関するt値は0.0337で5%の水準で平均距離のその差は有意、という3点が明らかになった。教育困難校形成要因は多様である。その一つに学力による序列化がある。公立高等学校は学区によって通学範囲が制約されるが、千葉県では隣接学区への通学も認められている。この規定により学区境界の制約をそれほどうけることなく生徒の通学が可能となっている。しかし、普通科高等学校には学力による細かな序列化が形成された。志望生徒が学力に見合って高等学校を志願するため、少数の学力上位校と少数の学力下位校が生じた。これらの高等学校の通学区は広域なものとなる。そこで、この広域な通学部分を崩すことに注目する。それには、高等学校自身による「学区づくり」というアクションが効果的である。居住地までの距離2km以下の退学者率が15%と最も低いことから、この部分は沼南高柳高等学校が「おらが町の学校」というような地域的な意識がある範囲と考えられる。地域からより多くの生徒が通学してくるような学校にすることが学校改善のための重要な方策となる。これは、沼南高柳高等学校の学校改善のビジョンである「地域に密着した学校づくり」の意思決定への重要な背景となった。生徒募集のため教員の中学校訪問は10km以内の中学校を目安とした。近接中学校には管理職が訪問し連携を模索した。地域から「開かれた学校委員会」「ミニ集会」「沼南高柳高等学校応援団」、本校から「芸術演奏会・展覧会」「通学路清掃」「近隣中学校との部活動交流」など相互関係の構築をはかり、地域との密着感をより一層強めていった。
著者
松井 秀郎 竹内 淳彦 田邉 裕 濵野 清 吉開 潔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.シンポジウムの趣旨 1)新学習指導要領における地誌学習(諸地域学習)の拡充 平成25年度からいよいよ高等学校での新学習指導要領が完全実施となる。なかでも地理Bでは、三つの大項目の中で「(3) 現代世界の地誌的考察」を設け、諸地域の地誌的な学習内容を充実し、また、「地誌的に考察する方法」を身に付けさせることも重要なねらいとされている。 内容の取扱いでは「アで学習した地域区分を踏まえるとともに,様々な規模の地域を世界全体から偏りなく取り上げるようにすること。また,取り上げた地域の多様な事象を項目ごとに整理して考察する地誌,取り上げた地域の特色ある事象と他の事象を有機的に関連付けて考察する地誌,対照的又は類似的な性格の二つの地域を比較して考察する地誌の考察方法を用いて学習できるよう」とされ、これまでのいわゆる静態地誌,動態地誌に加えて、比較地誌の方法によっても考察することが求められている。 2)地理学における地誌研究などの衰微と再興への方途 高等学校での地理教育において、地誌学習が拡充される一方で、地理教育の根幹となる地理学における地誌研究や方法論としての地誌学の衰微が著しい。宮本昌幸・武田泉によれば地誌学を専門とする日本地理学会会員数は減少し、題名に地誌と明記した著書・論文や学会発表も低調な状況にある。 このような問題意識から、地誌学の興隆期から地誌学に強い関心を抱きつつ研究を続けてこられた先生方や、高校教育現場の長として地理教育に力を入れておられる校長先生、全国の学校での地理教育・社会科教育の指導を進めている教科調査官の参加を求めて、本シンポジウムを地誌研究などの再興に向けた講演と総合討論の場としたい。2.講演内容の概要 (1)濵野 清:「新学習指導要領における地誌学習の位置付け」 新学習指導要領における地誌学習重視の視点は、小・中・高等学校を貫く改訂の柱である。学力の重要な要素として基礎的・基本的な知識、技能の習得が求められる中、日本や世界の諸地域に関する地理的認識を養うための学習が、改めてその学習指導要領の内容として位置付けられることとなった。 ここでは、とりわけ大項目レベルで内容構成が変更された中学校と高等学校に焦点を絞り、その概要を確認したい。 (2)竹内 淳彦:「いま、地誌を考える」 「地誌」は正しい地方づくりのための基本である。"地域性の解明と記述"を目的とする地誌の基本は田中啓爾の研究に見られ、田中の「指標をもとにした地域性の解明」と動態的な「地位層」の考えこそが地誌研究のベースとなる。これらをもとに地域区分、域の重層、シンボルなどが検討される。「地誌」の充実のためには、学界、教育界、行政挙げての強力な取り組みが不可欠である。 (3)田邉 裕:「私の受けた地誌教育から考える」 1950年代の大学では、多田先生が外国地誌、福井先生が自然地誌、飯塚先生が「日本と世界」を中心に地誌全般を講じ、1960年代のレンヌ大学ではフランス地誌を受講した。共通する特徴は系統的・画一的でなく、「そこはどのような所か」を明らかに出来るような地域性の指摘から入っていた。自分がヨーロッパ地誌を講ずる立場になって、網羅的でありながらトピック的な地誌とその順序性の論理構築を心がけた。 (4)吉開 潔:「私の体験的地誌教育論」 グローバル人材の育成やリベラルアーツの重視など、総合的な知識・思考力を求める最近の教育動向は、地誌学及び地誌教育の活性化に資するものといえる。かつて高校地理教師として世界地誌を指導したとき、大学で地誌関係講座を履修した経験が活きた。新学習指導要領で地誌学習が充実された今こそ、地誌学研究者と中・高地理教師が連携・協力して、魅力ある地誌授業の開発・実践に取り組んでいく必要がある。