- 著者
-
土屋 礼子
- 出版者
- 大阪市立大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 1998
本研究では、大阪の二紙、『大阪毎日新聞』と『大阪朝日新聞』の明治36年(1903)から40年(1907)まで、および東京の二紙『時事新報』と『萬朝報』の明治36年から38年(1905)までの、各年一月の紙面に掲載された広告の数量分析を行った。その結果、総件数の月平均では『時事』が3,751件と最も多く、次いで『大阪朝日』3,203件、『大阪毎日』2,956件、『萬朝報』が2,010件と最も少なく、各紙の広告掲載量および広告収入への依存度の差異が明らかになった。また広告件数の増減では、大阪の二紙は共に、戦前の明治36年に比べて戦後の40年には約1.4倍増加しており、日露戦争期に新聞広告が飛躍的に発展したという通説を裏付けた。広告主旨別件数では、四紙とも商品宣伝の広告が最も大きい割合を占めたが、『萬』では六割以上と高く、『大阪朝日』『大阪毎日』では三割から四割、『時事』では三割程度と差異が見られた。大阪の二紙では商品宣伝に次いで年賀広告と事業広告の割合が高く、組織的かつ定期的な広告活動の比重が大きかったといえる。一方、東京の二紙は対照的に異なり、『時事』では商品宣伝以外では特定の分類への偏りがなく幅広いのに対し、『萬』は商品宣伝への集中度が突出して高かった。広告の大きさでは、五十行以上の大型広告の割合が大阪の二紙で高く、戦後には6-10%に達した。また絵図や写真使用などの視覚的デザインも大阪の二紙の方が使用頻度がほぼ二割以上と東京に比べて高く、特に戦勝広告の華々しさは際だっており、新聞広告の大型化とデザインの発展を牽引したのは大阪の新聞だったといえる。また広告主の地域性では、大阪の二紙では大阪の広告主が五割を、東京の二紙では東京の広告主が六-七割を占め、地域性の高さが明らかになった。なお大阪の二紙で東京の広告主が占める割合は7-12%に対し、東京の二紙で大阪の広告主が占める割合は1-3%と低かった。以上のように、新聞広告における大阪と東京の差異が明確に数量的に現れたのが本研究の成果である。