著者
栗田 美由紀
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.27, pp.53-91, 1999-03

暈繝彩色とは、淡い色から濃い色へ色を段階的に変化させて作った色の帯を対比的に組み合わせて、立体感や明るい多色感などの色彩効果をあげる彩色装飾の一技法である。わが国へは中国より伝えられ、奈良・平安時代を中心に、建築、仏像、仏具などの文様の彩色にさかんに用いられた。今回、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代にかけての暈繝彩色に用いられた色彩について調査した結果、時代によって使用される量細の種類、組合せ、輪郭線の色に違いがあることが明らかとなった。本稿では各時代に見られる暈繝彩色の色彩的特徴を明らかにし、そこから生まれる色彩効果に着目しながら、わが国における暈繝彩色の受容から発展、衰退の過程について考察を試みる
著者
山川 公見子
出版者
立正大学考古学会
雑誌
考古学論究 (ISSN:09179747)
巻号頁・発行日
no.7, pp.197-212, 2000-01
著者
高橋 照彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.371-407, 2002-03

本稿は,日本古代の鉛釉陶器を題材に,造形の背後に潜む諸側面について歴史的な位置づけを行った。まず,意匠については,奈良三彩が三彩釉という表層のみの中国化であるのに対して,平安緑釉陶では形態や文様も含めて全面的に中国指向に傾斜したということができる。また,日本における焼物生産史全体でみると,模倣対象としての朝鮮半島指向から中国指向への大きな比重の移動は,この奈良三彩や平安緑釉陶が生産された8世紀から9世紀に求められるとした。次に,用途・機能については,奈良三彩が祭祀具あるいは仏具など宗教祭器としての性格を持つのに対して,平安緑釉陶は宗教的機能が続くものの,基本的に実用食器としての用途が中軸となる点に大きな変質を認めることができる。その変容の契機は,弘仁期における宮廷儀礼の整備の中で,鉛釉陶器が国家的饗宴を彩る舞台装置として組み込まれたことが考えられる。生産体制については,奈良三彩が中央官営工房生産とみられるのに対して,平安緑釉陶では各地の在地生産を基盤にしつつ,中央からの品質規定のもと国衙が生産に関与する体制であったと判断できる。それは,中央から地方への技術委譲であり,窯業生産技術において奈良時代まで続いてきた畿内優越状況が終焉を迎え,畿外卓越化へと向かう転換点になったものといえる。最後に,技術導入過程については,白鳳期の緑釉技術が朝鮮半島系であり,特にその故地として百済が最も妥当と推測した。そして,百済滅亡前後の混乱の中で日本への亡命者が伝えた可能性を挙げた。続く奈良三彩は,前代からの鉛ガラス・鉛釉の技術を持っていた工人(玉生)が遣唐使として派遣されて,唐三彩の部分的技術を移入したものと想定した。奈良三彩は,日本在来の素地成形技術の上に,朝鮮半島系の施釉基礎技術と中国系の三彩技術が重なって成立したものといえる。一部非公開情報あり
著者
植田 直美
出版者
宝石学会(日本)
雑誌
宝石学会(日本)講演会要旨
巻号頁・発行日
vol.25, pp.3, 2003

琥珀は数少ない有機物を起源とする宝石の一種である。その産出地も限られており最も有名なものにバルト海沿岸のものがある。日本でも少量産地は北海道から九州まで散在しているが主な産地は久慈市、いわき市、銚子市など数えるほどしかない。また、生成年代も世界各地の産地ごとに異なり白亜紀から新生代まで幅広く分布する。中には虫や植物の一部が包括されている場合もあり地質学・有機化学・生物学・植物学・考古学・文化財科学など様々な分野の専門家が興味を抱く対象となる。琥珀は古代から装飾品として使用されてきた。日本では今までの発掘結果から、旧石器時代までその使用がさかのぼることがわかっている。その後は縄文時代から古墳時代まで(弥生時代にはほとんど見かけられないが)主に首飾りなどの装身具として様々な形の玉に加工されたものや加工の途中の未製品も各地の遺跡から数多く発掘されている。以前は土の中に隠れてしまい検出できないものも多かったが最近の発掘技術の進歩により、多くの出土琥珀製品が見つけられるようになって研究が進んで来た。しかし、中世から近世の発掘報告では他の材質の玉類も同様であるが琥珀製品はほとんど発掘されることはなくなる。その後さらに時代が進み近代から現代になって出土品ではないが、再び装飾品として登場することとなる。その間、発掘品では琥珀は数珠などの仏具としての用途に限られ、その他は正倉院に伝世している装飾具に限られるようになる。 古代の人々の装飾品に対する思想は現在のものとは異なり、装身具の対象はほとんどが死者で哀悼の念を表現する装身具であるといわれている。そのため古代人が生きている間にどのような装身具を身に着けていたかを推測するのは非常に難しく、琥珀が宝石の中でどのような位置づけをもっていたか、おそらく時代によっても異なると思われるが非常に興味が持たれる。 一方、発掘された琥珀は、そのほとんど全てが琥珀本来の輝きを失い非常に脆く崩壊しているものが多い。琥珀の劣化状態を調べることは文化財である琥珀製品を後世にまで長く残すための保存技術を開発する上でも重要である。さらに、現在装飾品として使用されている琥珀の劣化についても同様な研究が役に立つと考える。琥珀の劣化要因についての研究は進んでおり、劣化を防ぐ手段についてもさらに研究は進むと思われる。 最近まで国内で行なわれていた分析はほとんど赤外分光分析(FT-IR)のみであった。この分析法は産地ごとに異なったスペクトルが得られることが特徴で標準の琥珀のスペクトルから産地を推定する手段として最もポピュラーな分析法であった。そのような中で古代の琥珀製装飾品は保存科学的あるいは考古学的な研究を進めるため科学分析が行なわれてきた。保存科学的には琥珀であるかどうかの判断および劣化状態を把握するため、また考古学的には古代の交易を探る手がかりのひとつとなる出土琥珀の産地を推定する手段として実施されてきた。近年、核磁気共鳴(NMR)法や熱分析法による分析法が開発され実施されるようになった。これらの分析法は赤外分光分析だけでは判断することが難しかった劣化した琥珀の産地推定や構造解析への応用の可能性を持っている。現在まだ、完全に適用できるデータを揃えていないため今後の研究に期待がかかる。また各種の分析結果を総合して結論を導くことはより信頼のある結果を得るためには必要なことであると考える。 琥珀は長い年月の間に様々な樹木から流れ出た樹脂が高分子化したもので国外の琥珀については様々な分析方法を総合し、構造が解明されているが国内の琥珀については今のところ構造解析は進んでいない。これについては今後前記以外の分析方法を用いることにより国内の主産地琥珀の比較や国外の琥珀との比較を行い、分子構造を決定することができるようになると期待する。以上のように琥珀全般にわたり、現在国外および国内で行なわれている研究や現状を紹介する。
著者
森田 登代子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.129-158, 2009-11

江戸時代、歌舞伎が庶民の生活に大きく影響を与え、歌舞伎役者着用の衣装、その文様などが流行したことは周知のことである。当時の海外事情や政治的・社会的事件が歌舞伎狂言に影響を与えたこともまたよく知られているが、反面、それらが新しい歌舞伎衣装制作に寄与したことは等閑視されている。馬簾つき四天、小忌衣、蝦夷錦、厚司などの歌舞伎装束はその形成過程において当時の話題性を巧みに取り込んで制作された。たとえば馬簾つき四天は角力のまわしに似せた伊達下がりや江戸で活躍した火消しが担ぐ纏などの意匠が取り入れられ、さらには清から入国した黄檗僧服などをも折衷し、創作された。衣装の各部位にさまざまな意匠や表象を込めた馬簾つき四天は男らしく勇猛な役柄に着用された。小忌衣は中国やオランダから伝播した西洋服装の襞襟、仏具の華鬘紐を応用・受容した衣装と考えられる。江戸時代には大嘗会再興という、天皇家神事に着用される小忌も大きく寄与した。元来は異人や謀反人であることを象徴する装束として成立したが、次第に貴人を表象する衣装へと変貌する。また蝦夷地の開発から、蝦夷錦や厚司を知ることとなり、それらもまた歌舞伎衣装へと受容されていく。これらの事例からも知れるように、歌舞伎役者は、当時の庶民が海外をも含めた様々な社会的事件に関心をもった話題に着目し、それらに関する意匠や衣装の部位に新しい意味づけを加え、あるいは誇張(デフォルメ)し、きらびやかな歌舞伎衣装を創作していったのである。
著者
川辺 紀子
出版者
禅文化研究所
雑誌
禅文化 (ISSN:05143012)
巻号頁・発行日
no.215, pp.115-120, 2010
著者
木村 理恵 きむら りえ Kimura Rie
出版者
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所
雑誌
奈良文化財研究所紀要 (ISSN:13471589)
巻号頁・発行日
no.2010, pp.56-57, 2010-06-15

薬師寺西僧房は1974年に奈良国立文化財研究所が調査し、既に報告書が刊行されている。西僧房は天禄4年(973)に焼失したことから、出土資料は、使用年代の下限がわかる一括資料として注目される。本稿では、須恵器に焦点を絞り、未報告資料の紹介及び須恵器の年代や産地等に考察を加え、報告書の見解を深めたい。

1 0 0 0 IR 鋳物師の本貫

著者
足立 順二
出版者
財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所
雑誌
財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所 研究紀要 第16号
巻号頁・発行日
no.16, pp.73-86, 2010-08-27

戦国時代、鰐口・雲版など仏具が奉納先の遠江を離れ、三河・信濃・甲斐に移動し現存する例を中心に、なぜこのような現象が起きたのかを検討する。その中で、藤原秋長と刻まれた鰐口と雲版を検討し、これが遠江赤座の鋳物師の作例であることを明らかにした。同時にこの秋長銘の雲版が、当初奉納された相良庄の寺院から長上郡高畠の寺院に再び奉納されていることの意味を、鋳物師による中古品の販売による移動であることを検証した。また遠江・駿河の鰐口からその型式的特徴を抽出し、そのいくつかから遠江・駿河のある特定の鋳物師集団が存在したことを取りあげて、その盛衰と近世鋳物師への変貌を論じている。つぎに検証した作業では信濃や甲斐に移動した鰐口を取り上げ、これらのうちいくつかは、武田軍の高天神城攻略や三方原など遠江侵攻の戦時による徴用や略奪の結果ではないかと考えた。と同時に遠江・三河からの販売による移動も認められた。このように鰐口・雲版を単に銘文だけを取り上げるのではなく、移動する意味の検討や考古学の型式分析によって、新たな中世史を描こうとした。