著者
松阪 崇久
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究
巻号頁・発行日
no.21, pp.5-18, 2014-08-02

ヒトはなぜ笑うのだろうか?古くから数多くの研究者が取り組んできた問いだが、その答えは未だに完全に明らかになったとは言えない。この問いには、視点の異なる様々な内容が含まれている。この壮大な問いの答えに近付くためには、まず、この問いに具体的にどのような論点が含まれているかを整理する必要がある。そこで本論では、ニコ・ティンバーゲンが提示した「行動に関する4つのなぜ」の分類を参照しながら、笑いに関する研究の論点の整理をおこなった。具体的には、近接要因(笑いの発生要因・メカニズム)、究極要因(生存・繁殖上の機能)、発達過程、進化史の4つの視点について、どのような研究がおこなわれているかを概観した。それぞれの領域において、どのような問題が未解決のまま残されているかにも触れた。究極要因と進化史についての研究がやや遅れているが、今後の発展の余地が大きく残されていることを示した。
著者
古俣 智江 遠藤 恵美子 渡辺 勝子
出版者
国際学院埼玉短期大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02896850)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.27-31, 2008-03

ジャガイモはビタミンC (VC)含量が多く,家庭での消費量も多い。そこで広く利用されている市販のポテトチップスとフライドポテトに含まれるVC量を手作りのそれと比較しようと考えた。その結果,総VCおよび還元型ビタミンC(AsA)は,手作りポテトチップスおよびフライドポテトに多く,市販品には少なく,製品によっては手作り品の1/2から1/3程度しか含まれていないものがあった。酸化型VC(DHA)については,手作り品と市販品のフライドポテトの間に大きな差はみられなかった。一方,市販品のポテトチップスのDHAはカルビーポテトチップスとチップスターに多く,手作り品の2〜3倍量認められた。以上の結果から,総VCとAsAは市販品より手作りポテトチップスとフライドポテトに多く,DHAは手作りフライドポテトと市販品の間には大きな差はみられないが,ポテトチップスには市販品に多くみられた。
著者
岡野 友彦
出版者
愛知教育大学歴史学会
雑誌
歴史研究 (ISSN:02879948)
巻号頁・発行日
no.51, pp.1-14, 2005-03
著者
伊藤 之雄
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.p1-31, 1994-01

個人情報保護のため削除部分あり元老は慣例として形成され、後継首相推薦などの重要な国務について天皇の諮問を受ける役目を果たした。本稿は元老制度に関し、宮中関係者の手になる「徳大寺実則日記」などの史料を初めて本格的に用いて、制度の形成や運用過程における明治天皇と元老との関係や元老根互の関係など、元老制度の構造と機能について考察しようとするものである。元老制度は、日清戦争前後に明治天皇によって作られ始めたが、一八九八年に確立したときに主導権を握っていたのは、伊藤博文らの元老であった。天皇の厚い信任を得ていた伊藤は、元老中最も高い位置づけを得た。山県系官僚閥を率いる山県有朋でさえ、伊藤の格式に並ぶことはなかった。しかし日露戦争後は、元老の政治力の衰退が現れ、明治天皇が制度運用の実権を握った。その天皇の信任を背景として政治的に台頭していくのが、桂太郎である。そのことが山県有朋ら元老の反発を買い、大正政変で桂が失脚させられていく重要な背景となった。The Genro 元老, or elder statesmen, in positions established by convention, acted as consultants to the Emperor concerning important matters of state, such as the recommendation of candidate to succeed as prime minister, etc. In this paper, using Completely for the first time historical sources including "Sanenori Tokudaiji Dairy" 徳大寺実則日記 by a central participant in court affairs, I will examine the formation of the Genro system, and the relationships between Emperor Meiji and the Genro, and among the various Genro in the working of the system. Emperor Meiji began to form the Genro system around the time of the Sino-Japanese War. However, it was Genro such as Ito Hirobumi 伊藤博文 who acquired control over the system with its establishment in 1898. Ito Hirobumi was the most respected amongst the Genro because of the degree of trust which the Emperor placed in him. Even Yamagata Aritomo 山県有朋, who was the leader of the Yamagata Faction in the bureaucracy had less authority than Ito. However, after the Russo-Japanese War, the power of the leading Genro was greatly weakened, and Emperor Meiji was able to gain greater control over the system. Subsequently, Katura Taro 桂太郎, favoured with the trust of the Emperor, emerged as a major political force. The offence felt at this by the leading Genro, in particular Yamagata, was a principal factor in Katsura's loss power in the political upheavals of the early Taisho period.
著者
上野 修
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.57, pp.77-92,5, 2006

Spinoza's system, startling indeed with its strange appearance-<I>Deus seu Natura</I>, or God as the immanent cause of everything-, will be made more understandable if we consider it as a systematic attempt of nailing down a necessitarian concept of truth and existence. I shall examine his denial of contingent truth in the <I>Tractatus intellectus emendatione</I> which is closely related to Cartesian idea of certainty, and show how it brings Spinoza to the concept of the <I>omne esse</I>, the whole Being, where truth, existence and actuality are all flattened out into one reality <I>sub specie aeternitatis</I>. After reconstructing from a modal point of view the theory of human knowledge in the <I>Ethica</I>, I shall briefly discuss a strong notion of actuality Spinozan idea of necessity might convey, together with its ethical import.

3 0 0 0 IR 戌亥の風

著者
久野 昭
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p11-35, 1990-03

日本に吹く主要な季節風は二つある。ひとつは冬季に吹く北ないし西北からの季節風であり、もうひとつは夏季の南ないし東南からの季節風である。不意に激しく吹く西北の季節風は、西日本では「あなし」とよばれてきた。「あな」はこの場合は恐怖をも含む感嘆詞であり、「し」は息であり風である。古代、漁師も農夫もこの「あなし」を怖れた。しかも、この風は疫病をもたらすとも考えられ、だから疫病は風病、風の病ともよばれていた。七世紀、飛鳥に宮廷を置いた天武天皇は龍田で風祭を行ったが、龍田は飛鳥の西北に位置する。奈良時代および平安時代、不安定な政治情勢を背景に凶作と疫病の蔓延が繰り返されたとき、これらの現象は、権力の座から追い落とされて死んだ者たちの怨霊の所為にされた。怨霊は祀られねばならなかった。たとえば京都では上御霊社、下御霊社が建てられたし、御霊会が祇園で行われた。最も有名な御霊は菅原道真の怨霊だが、この御霊はこの両社に他の御霊たちとともに、また北野には単独で祀られている。古代、朝廷は出雲地方を怖れていた。おそらくこれが、出雲が黄泉と結び付けられた主な理由である。その出雲は飛鳥や奈良から西北の方角に位置する。祇園社、下御霊社、上御霊社は一直線上にある。そして上御霊社の近くから出雲路が始まる。道真の御霊の祀られた北野は祇園の西北の方向にあり、この方向も出雲を目指す。朝廷およびその周辺の人々にとって、死者の怨念は黄泉から戌亥(西北)の風に乗って都を襲ったのである。