著者
廣瀬 恵 増山 素道 堀部 達也 岩本 卓水 廣瀬 昇 猪飼 哲夫
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会
雑誌
理学療法学Supplement
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.BbPI2125, 2011

【目的】<BR> 今回対象となった脳動静脈奇形(以下、AVM)による広範な右脳内出血患者は、重度意識障害と著明な四肢の痙縮、さらに妊娠(妊娠28週)が合併していることから様々な制限を受け、痙縮コントロールに難渋した。そこで、術前、全身麻酔下、及び術後鎮静期間、立位訓練開始時にわたり痙縮評価を実施し、本症例を通じて、痙縮コントロールの治療手段を検討し、臨床推論モデルの一助となるシングルケーススタディーとして報告する。<BR>【対象】<BR> 脳動静脈奇形による脳内出血発症の女性患者(発症時正常妊娠28週)。<BR>搬送時Japan coma scale(以下JCS)は200、瞳孔散大でCT上右前頭頭頂部に7センチ前後の血腫を認めた。入院当日にAVM摘出術、血腫除去術、外減圧手術施行した。<BR>【説明と同意】<BR>ヘルシンキ宣言に基づき、患者および家人に対し、症例報告する旨を十分に説明し、同意を得た。<BR>【理学療法経過】<BR> 第2病日目より、理学療法開始。初期評価時JCSは30、右上肢にわずかな随意運動を認めるが、除皮質硬直様姿勢を呈していた。Modified Ashworth scale(以下MAS)は、右上下肢3~4、左上下肢 3、足関節背屈可動域は右-50°左-40°で両側の重度内反尖足位を示していた。故に、可動域改善を目的とした早期介入を実施。脳浮腫最大期(第7病日目)は四肢浮腫が著明に出現。看護治療計画にも体位交換毎の可動域訓練とポジショニングを試みるが、右上下肢優位の痙縮は改善されなかった。右足趾には持続的不随意運動も観察されるが、MAS 4と著明な痙縮が持続される。第16病日、JCS I-10、時に瞬きなどでコミュニケーションが可能、バイタルサインが安定したため、車椅子訓練開始。右足部をフットレストに載せることが難しく、内反尖足改善のアプローチは困難な状況であった。第30病日、帝王切開及び残存異常血管摘出術施行。術前評価は、足関節背屈可動域が右-50°、左-40°、両上下肢MAS 3~4であったが、術前徒手矯正時は右-45°左-30°MASは3であった。理学療法士が開頭術中マニピュレーションを実施し、筋弛緩剤を併用する全身麻酔(TIVA)下ではMAS 1、足関節背屈可動域は右-30°左-20°で腓腹筋筋短縮の関節拘縮傾向が認められた。さらに、術中最大背屈位を参考とし、ナイトブレースを目的としたシーネによる装具作成をした。しかし、手術直後のドルミカム、プレセデックスの沈静のみでは強い痙縮が出現し、内反尖足位を認めた。第31病日、前足部に発赤、水疱形成が認められた為、シーネ固定を抜去し床上での可動域訓練・ポジショニング訓練を徹底した。第36病日、水疱除圧・足位修正のため足底板を作成し、車椅子訓練再開。第40病日、足関節背屈可動域は、右-50、左-35、坐位での下肢荷重が開始後、わずかに可動域改善が確認された。第52病日、徐々に座位から立位訓練へ理学療法プログラムを進め装具検討会を実施した。装具は立位訓練の効率化を目的としたもので、支柱付き前開きの短下肢装具を左右に作製予定であったが、転院の運びとなり作成を転院先に申し送った。現在は左SLB+四点杖で監視歩行が可能となっている。<BR>【考察】<BR> 本症例は、脳圧亢進と錐体路障害による重度な痙縮が早期より出現し、切迫流産を回避するため、立位訓練などの自重を利用した積極的な足関節可動域のアプローチが実施できず、徒手的な関節可動域訓練とポジショニングのみを継続したため、足関節可動域維持、改善に難渋したケースであった。臨床所見経過では、MAS・足関節可動域に画期的変化はみられず、痙縮治療のガイドラインから認められるような、持続的伸張法としてとらえるポジショニングや、装具療法を目的としたシーネ固定も、本症例のような強い痙縮筋に対して、効果を持続することは難しく、痙縮の持続的コントロールについては、あまり望ましい治療効果が得られなかった。<BR> 本症例において、MASと足関節可動域の変化として、最も痙縮に対し治療効果が認められたのは全身麻酔下(TIVA)であり、ドルミカム、プレセデックスなどの沈静中も痙縮が増強する臨床所見から、沈静ではなく筋弛緩剤の効果は確実であったと考えられる。<BR> 近年、筋弛緩薬に対する痙縮のコントロールには否定的な報告もあるが、筋緊張緩解に関して、服薬状況と理学療法の併用が痙縮コントロールにおいて治療効果が高いことを推察させた。<BR>【理学療法学研究としての意義】<BR> 理学療法実施と並行して投薬による筋緊張コントロールは、関連身体症状への汎化も含め理学療法プランを円滑に進める手段として有効であり、重症症例に対する筋緊張亢進のメカニズムの推論と筋弛緩剤の薬理作用に対する検討が、筋緊張亢進に伴う障害の改善を目的とした理学療法施行に重要であると考えられた。

1 0 0 0 IR 自牧宗湛(下)

著者
綿田 稔
雑誌
美術研究 = The bijutsu kenkiu : the journal of art studies
巻号頁・発行日
no.395, pp.20-56, 2008-08-28

For résumé, see Bijutsu Kenkyu No. 393
著者
綿田 稔
出版者
国立文化財機構東京文化財研究所
雑誌
美術研究 (ISSN:00219088)
巻号頁・発行日
no.407, pp.34-50,PL1-2, 2012-09

4. Interactions with Hishida Shunsô As indicated in the earlier section of this study, published in Bijutsu Kenkyû 404, Akimoto Shatei, a brewer in Nagareyama, Chiba prefecture, was a patron of Hishida Shunsô during the artist's later years. Shunsô's major works, Fallen Leaves (1909, Eisei-Bunko Museum) and Black Cat (1910, Eisei-Bunko Museum) were both in Shatei's personal collection. Toya Banzan, a pupil of Terasaki Kôgyô and secretary of the Bijutsu Kenseikai group supported by Shatei, is thought to have been the person who introduced Shatei to Shunsô. Banzan's memoirs state that he took Shatei to Izura in the spring of 1908 and there introduced him to Shunsô and Yokoyama Taikan. Letters handed down to Shatei's descendants confirm that Shatei visited Izura during that period. However, it was also around that time that Shunsô was suffering from eye disease and was forced to temporarily stop painting. According to Banzan's memoirs, Shatei had visited Shunsô intending to commission a painting, but when he learned that Shunsô was ill he instead arranged to pay for his living expenses for a year. Shunsô's Landscape in Autumn (Aichi Prefectural Museum of Art), formerly in Shatei's collection, is probably a painting that Shunsô created for Shatei around the autumn of 1908, once his eyes had healed. The following autumn of 1909, Shunsô entered his work Fallen Leaves in the 3rd Bunten Exhibition (Art Exhibition of the Ministry of Education) after which it entered Shatei's collection. According to Banzan's memoirs of Banzan and the collector Hosokawa Moritatsu, it seems that Shatei had already made up his mind to acquire the painting by the time of the invitation-only, first viewing day of the exhibition. Shunsô's Landscape of the Four Seasons (National Museum of Modern Art, Tokyo), painted around the same time, also found its way into Shatei's collection. The painting's exhibition history cannot be confirmed and there is still some need for investigation regarding the production period of this handscroll, but if the Landscape of the Four Seasons, which was of a large scale suited to exhibition entry, was created solely for Shatei's personal enjoyment, then it would speak of the strong and deep connection between Shunsô and Shatei. Black Cat, which was Shunsô's last entry in a Bunten exhibition, was also a work that Shatei had decided to acquire even prior to its exhibition. The interactions between Shunsô and Shatei were not simply a case of paintings being produced and procured. Around the autumn of 1910, when Shatei acquired Black Cat, Shunsô created a painting primer for Shatei's daughter Matsuko. Shunsô expressed his understanding of painting methods in a letter he wrote to Shatei about Matsuko's study from the primer. That letter simply spells out a list of guiding principles for her study of brush stroke methods and painting study, and even though it is intended for a beginning student, the letter does provide a rare expression of beginning painting study methods espoused by Shunsô, who did not himself take any pupils throughout his lifetime. However, it was around this time that Shunsô fell ill again, and died the following year, on September 16, 1911. Talk of a Shunsô memorial exhibition arose immediately after his death, and Shatei's name was linked to those of Okakura Tenshin, Yokoyama Taikan and others as one of the originators of the idea. Shatei provided financial support for the exhibition when it was held in the following spring of 1912. Shunsô's ashes were divided between his hometown of Iida and Tokyo, and it was Shatei who paid for Shunsô's gravestone in Tokyo.
著者
坂本 宗樹 結城 俊也
出版者
社団法人 日本理学療法士協会関東甲信越ブロック協議会
雑誌
関東甲信越ブロック理学療法士学会 (ISSN:09169946)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.10, 2008

【はじめに】片麻痺患者の歩行練習において、下肢関節の支持機能(身体位置の感覚や筋張力発現)低下の程度に個人差がある事から、一様に短下肢装具対応では機能的な歩行に繋がり難い患者もいると考えていた中、重度の左片麻痺患者に対し長下肢装具使用下での立位・歩行練習の機会を得た。当症例を通して装具非使用・短下肢装具使用下では獲得する事が困難と思われる効果が見られたので以下に報告する。<BR>【症例紹介】79歳男性、診断名:右脳内出血(前頭葉・頭頂葉皮質下)、経過:平成17年6月18日に発症し、Z大学病院に入院。リハビリテーション(以下、リハビリ)目的にて7月20日当院回復期リハビリ病棟へ転院となる。初期評価(7月21日):覚醒良好、Br.stage上下肢・手指共にI、起居動作中等度~全介助、端座位保持困難、所謂プッシャー症候群顕在。退院日:11月29日<BR>【方法】11の運動課題を、森中らが推奨するCCAD joint付きプラスチック長下肢装具(以下、当該装具)を使用して9月22日より2ヶ月間実施。膝・足継ぎ手の設定は上記運動課題の遂行状況を確認し、膝伸展0°・足底屈5°とした。<BR>【結果】当該装具使用開始から2ヶ月間でT字杖軽~中等度介助歩行(10m歩行:113秒)からT字杖監視歩行(10m歩行:73秒)に至った。<BR>【考察】歩行における長下肢装具の適合性として、直接衝撃を受ける足底と床反力との関係においては、当症例の初期接地が全面同時接地であった事から足底部分の形状が足底全面を覆わずに前足部~中足部までを覆う形状とする事で相対的に少ない床反力に留まり、かつ当該装具特有のフレキシブル機能発揮下での足継手底屈5°固定による前方制限によって床面と下腿長軸の関係が垂直までの位置関係に留まった事で床反力作用点が足・膝関節共に関節付近を通り、膝関節伸展の筋張力が作用し易かった。また反張膝にならないよう足継手固定、膝伸展0°設定とした事で、より下肢伸展筋張力が発揮され易く、立脚期が安定し易くなった。そしてツイスター使用により股関節外旋を抑制する事で、過剰な関節運動の自由度を抑制し、より推進力を発揮・遊脚期での下肢軌道が安定し易かった。これに歩行周期の骨格筋作用を理解した理学療法士の介助も付加する事でより再現性の高い練習が行えたと考える。<BR>【まとめ】下肢装具を用いた歩行分析を通して、(1)身体機能(歩行能力)と装具機能(剛性)の関係性(適合性)は適正か、(2)床反力作用線は下肢の各関節付近を通っているか、を整理し、上記2つを解決する作業に臨む事で装具療法を洗練化し、機能的な歩行を導く事に寄与すると考える。
著者
高橋 正知
出版者
八戸学院大学
雑誌
八戸学院大学紀要 (ISSN:21878102)
巻号頁・発行日
no.60, pp.21-39, 2020-03-27

近年、受動喫煙の害が問題となってきていることから、新型のタバコに換える喫煙者が増加している。日本で世界に先駆けて発売された加熱式タバコのアイコスをはじめとして、その後グローやプルーム・テックなどの新型タバコは、煙が少なくタバコの匂いがしないことから急速に普及している。日本ではニコチン入りの電子タバコは販売されていないが、紙巻タバコに比べてニコチンやタールが9割以上減っており、健康に対する影響が軽減されるような印象がある。しかし、ニコチンやタール以外の有害物質が含まれており、がんや呼吸器疾患を引き起こす可能性があるという報告が増加しつつある。アメリカでは若年者が電子タバコの喫煙により肺疾患を起こし、命に係わる有害事象が多発している。本稿では、新型タバコの特徴や種類、現在まで分っている能動喫煙による健康リスクおよび受動喫煙の影響について文献的考察を加えて述べる。
著者
高橋 晶 伊藤 ますみ 岡崎 光俊 田中 晋 原 恵子 渡辺 雅子 開道 貴信 大槻 泰介 加藤 昌明 大沼 悌一
出版者
日本てんかん学会
雑誌
てんかん研究 = Journal of the Japan Epilepsy Society (ISSN:09120890)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.74-80, 2007-08-31
参考文献数
9

われわれは成人期に脳出血が生じ、初めてウィリス動脈輪閉塞症(もやもや病)と確定診断された側頭葉てんかんの1例を経験した。症例は36歳男性。8歳時月に1&sim;2回の嘔吐から始まる短い意識減損発作が出現した。17歳時、脳波上左前側頭部に棘波を認め側頭葉てんかんと診断された。27歳時けいれん発作重積とひき続くもうろう状態が2日持続した。その後MRIにて両側海馬硬化、右脳内出血瘢痕を認めた。36歳時、遷延する意識障害を呈し画像所見にて脳内出血を認め、もやもや病と診断された。本例の発作は、臨床症状および脳波所見からは側頭葉起源のてんかん発作と考えられ、もやもや病は偶発的に合併したものと判断した。ただし、てんかん原性獲得にもやもや病による慢性的血行動態異常が関与した可能性は考えられた。以上からてんかんの経過中であっても他の脳器質疾患の並存を考慮すべきと思われた。<br>