著者
小池 順子
出版者
千葉経済大学
雑誌
千葉経済論叢 = CHIBA KEIZAI RONSO (ISSN:21876320)
巻号頁・発行日
no.54, pp.1-19, 2016-07-21

本論文は、音楽における表現とはいかなる営為かという問いの解明を目指している。この課題を遂行するにあたり、美学と音楽美学の知見を手がかりに、表現の概念が様々に揺れ動いてきたことを論証した。造形芸術においては、表現概念の中で描写と表出の対立が長くあった。対照的に、音楽芸術は造形よりも早く、表出芸術として認識された。19世紀には作曲家が表現の主体として存在価値を高めた。しかし作曲家の表現としての音楽は、演奏行為を通じて初めて直観的になる。演奏行為が演奏者という別の主体に委ねられるとき、次の問いが導かれる。第一の問いは、演奏者の行為は作曲家の表現を単に再現する行為なのかという問い、第二の問いは、演奏者の演奏行為は表現になりうるか、なりうるとしたら表現者としての演奏者はいかなることを遂行しているのかという問いである。
著者
奴田原 健悟
出版者
専修大学経済学会
雑誌
専修経済学論集 (ISSN:03864383)
巻号頁・発行日
vol.50, no.3, pp.91-101, 2016-03-11

近年,ゼロ金利下におけるニューケインジアンモデルでの政策効果が,従来のマクロ経済理論で考えられていたものと大きく異なることが指摘され,パラドックスとも呼ばれている。本稿では,このゼロ金利下の政策効果のパラドックスが「右上がりの総需要曲線(AD 曲線)」によって説明できることを示す。またパラドックスの多くは,学部教育でも使用可能なフォワードルッキングな要素を持たないケインジアンモデル(IS-MP モデル,AD-AS モデル)による可視的なアプローチによって説明できることを示す。
著者
瀧口 和樹 光来 健一
雑誌
コンピュータシステム・シンポジウム論文集
巻号頁・発行日
vol.2022, pp.11-21, 2022-11-28

パブリッククラウドの仮想マシン(VM)上で重要なデータを扱うと,クラウドの内部犯などから VM 内の機密情報を盗まれる可能性がある.このリスクを低減するために,AMD プロセッサでは SEV と呼ばれる VM のメモリを透過的に暗号化するセキュリティ機構が提供されている.一方,クラウドにおいて VM の中でVMを動作させるネストした仮想化を用いた様々なシステムが提案されているが,ネストした仮想化を用いるシステムには SEV を適用することができない.本稿では,ネストした仮想化に SEV を組み合わせることを可能にする Nested SEV を提案する.SEV の適用方法によって 4 種類のシステム構成が考えられるため,Nested SEV は透過的 SEV,SEV パススルー,SEV 仮想化の 3 つの方式を提供する.透過的 SEV は外側の VM に適用されている SEV の機能を用いて内側の VM のすべてのメモリを暗号化する.SEV パススルーは内側の VM に外側の VM の SEV をそのまま適用する.SEV 仮想化は内側の VM に専用の仮想 SEV を適用する.これらを Xen,KVM,BitVisor に実装し,I/O 性能を調べる実験を行った.
著者
谷口 太一
出版者
皇學館大學人文學會
雑誌
皇學館論叢 = KOGAKKAN RONSO (ISSN:02870347)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.119-136, 2022-01-10
著者
"有馬 善一" "アリマ ゼンイチ" Zenichi" "ARIMA
雑誌
経営情報研究 : 摂南大学経営情報学部論集
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.63-76, 2003-07

本論文が目指すのは、形而上学的な問題系の現代的意義を明らかにすることを念頭に置きつつ、ハイデガーの存在の思惟に対して形而上学がどのような意義を持っていたかを明らかにすることである。そのための準備作業として、まず、アリストテレスの「形而上学」の成立にまつわる困難、すなわち神学と存在論の二重性の問題が取り上げられる。次に、ハイデガーが存在への問いを遂行する過程で、存在論の存在者的根拠としての現存在へと定位した「現存在分析論」の独自の意義が「いかに存在」の「形式的告示」という点にあったことが明らかにされる。最後に、存在の問いにおいて「全体における存在者」の問題化という事態が出来することによって、形而上学の二重性がハイデガーにおいても問題となることが示される。
著者
越智 徹
雑誌
情報教育シンポジウム論文集
巻号頁・発行日
vol.2018, no.37, pp.242-247, 2018-08-12

筆者が担当する授業「情報社会と倫理」において,Twitter における「マナー」についてアンケート調査を行った.このアンケート調査では,日本特有のマナーとしてよく話題に挙げられる「FF 外から失礼します」「無許可 RT 禁止」についてどう思うかについて学生の意見を求めたところ,「FF 外から失礼します,無許可 RT 禁止は守るべきである」と回答した学生は全体の 10%であり,理由として「その行いが他者を不快にすることや,自分が不快になるかもしれないようなことは自重すべき」「日本人の性質として最低限のマナーを守ろうとしている所から出てきたものなので遵守すべき」などが挙げられた.本稿ではこれらの意見から,現実社会とネット社会を地続きとして考える地続き型ユーザを提案し,これらユーザの違いについて考察する.
著者
大島 正二
出版者
東洋文庫
雑誌
東洋学報 = The Toyo Gakuho
巻号頁・発行日
vol.56, no.2~4, pp.310-342, 1975-03

The present paper is the report of a part of the investigation on the Chin-shu-yin-i (the Phonetic Glosses to the Chronide of the Chin Dynasty) by Ho Ch’ao 何超 (ca. 740 A. D.). This investigation forms a part of the writer’s main study on the phonology of Chinese of the T’ang Dynasty together with the previous studies of the writer on the phonetic glosses in the Han-shu 漢書, the Chi-chiu-p’ien 急就篇, and both the So-yin 索隠, and the Chêng-i 正義 Commentaries of the Shih-chi 史記 which were already published, including a study on the Hou-han-shu-yin-i 後漢書音義 (the Phonetic Glosses to the Chronicle of the Later Han Dynasty) which will appear soon.After having made clear the phonological peculiarities on the basis of the analysis of the phonetic glosses, the writer has pointed out in this paper that the Chin-shu-yin-i has incorporated some phonetic modifications which had been produced or were in progress during the T’ang Dynasty into the basic system of the Ch’ieh-yün 切韻 (601 A. D.) that is supposed to have remained as the authority of the reading of the Chinese characters throughout the reign of the T’ang Dynasty. Further,the writer corroborates his hypothesis that besides the norm of the Ch’ieh-yün another tradition of reading was maintained exclusively among the T’ang scholars (cf. S. ȎSHIMA, “A Phonological Study on the So-yin and the Chêng-i Commentaries to the Shih-chi”, the Tōyō Gakuhō Vol. 55, No. 3, 1972), since the phon6logical peculiarities reflected in the Chin-shu-yin-i are identical in nature with those found in the So-yin Commentary (between 719 and 736 A. D.) and the Chêng-i Commentary (736 A. D.), both of which were compiled practically at the same time as the Chin-shu-yin-yi was written. It can be added that the phonological peculiarities reflected in Yen Shih-ku 顔師古’s Han-shu-yin-i 漢書音義 (641 A. D.) and Chi-chiu p’ien-chu 急就篇注 (between 627 and 644 A. D.) support this supposition. (cf. S. ȎSHIMA, “A Study on the Finals of Yen Shih-ku’s Phonetic Glosses to the Han-shu”, the Gengo-Kenkyū, Vol. 59, 1971; S. ȎSHIMA, “A Study on the Phonetic Glosses in Yen Shih-ku’s Commentary on the Chi-chiu-p’ien”, the Memoirs of the Faculty of Letters of the Hokkaidō University, Vol. 22, No. 1, 1974).The writer also touches in this paper on the methodology of a phonetic history based on fragmentary sources like the phonetic glosses. According to the writer, aberrant readings appearing in fragmentary sources such as found in the phonetic glosses do not always reflect the results of real phonetic changes, but may show the traditional readings as they were orally transmitted from teachers to their disciples. Therefore, these two should be clearly distinguished for a careful observation. For the purpose, the writer believes, a comparative study between all the phonetic commentaries is necessary besides the “projection” method in the treatment of phonetic glosses in one phonetic commentary, (i. e. the method intended to find out divergences between the system of the Ch’ieh-yü and that of the phonetic commentary in question, by projecting the reading of a certain character on the system of the Ch’ieh-yün). The writer pays attention to this idea by citing concrete examples and waits for a further study in future.
著者
原口 耕一郎
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.204-188, 2008-06-25

『古事記』『日本書紀』においては、かなり古い時代の記事から隼人は登場する。この隼人関係記事の信憑性をめぐって、大きく二つの議論がある。一つは天武朝以降の記事からならば、それなりに信を置くことができるとする理解であり、これは現在の通説になっているといえよう。もう一つは、天武朝より前の時期の記事にも史実性を認めようとする理解である。小論は、これまでの隼人研究史を回顧し、隼人概念の明確化をはかり、『記・紀』に史料批判を加え、天武朝より前の隼人関係記事については、ストレートには信を置きがたいことを論じようとするものである。つまり、可能な限り通説の擁護を目指すことが小論の目的である。まず、文献上にあらわれる隼人様を整理し、隼人概念の明確化を行う。次に考古資料と隼人概念との対比を、最近の考古学研究者の見解を踏まえながら行う。さらに畿内隼人の成立について触れる。その結果、『記・紀』編纂時における政治的状況、すなわち日本型中華思想の高まりの中で、政治的に創出された存在としての隼人の姿が明らかにされるであろう。このような、現在の隼人理解において中核的なテーゼをなす、「隼人とは政治的概念である」という主張を確認したうえで、天武朝より前の隼人関係記事は漢籍や中国思想により潤色/造作を受けていることを明らかにする。
著者
望月 詩史 Shifumi Mochizuki
出版者
同志社法學會
雑誌
同志社法學 = The Doshisha Hogaku (The Doshisha law review) (ISSN:03877612)
巻号頁・発行日
vol.68, no.3, pp.979-1021, 2016-07-31

本稿では、清沢洌の提案により1928年に発足した二七会の活動状況について検討した。活動の中心は、毎月27日に開催された定例懇談会である。政治や経済などをテーマに議論したり、時折、来賓を招いて時局談を聞いたりした。会員は主に、『中央公論』に寄稿していた評論家と文学者である。この会は学術組織ではないため、会員の間で思想的な統一性や時局に対する共通の見解が存在したわけではない。だが、そこには「自由」に特徴付けられる独特の雰囲気が存在していた。
著者
神田 より子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.9-41, 2008-03-31

本論は、山伏神楽・番楽と結びつけて考えられることの多かった権現舞と獅子舞を、その主な担い手であった修験者との関わりの中で考察した。東北地方では、中世期以降、修験者が地域の人々の依頼に応じて数多くの宗教儀礼を担ってきた。中でも南北朝以降の青森県、秋田県、岩手県、山形県の特定地域では、修験者が自分たちの霞場や旦那場において獅子頭を廻し、祈祷を行うことが宗教活動の大きな分野を占めていた。近世期に修験者が地域に定着すると、宗教活動をさらに広く理解し、受け入れてもらうために、獅子を廻す傍ら芸能が演じられた。これらの地域に広がる芸能の中でも旧南部藩領に属していた岩手県地域で修験者が中心となって演じてきた神楽がある。これを本田安次は山伏神楽と名付けたが、これらの地域でそれに相当する集合名称が存在しなかったことから、これは便利な名称として一人歩きした。しかし秋田県、山形県地域では修験者が主に担ってきた芸能は、地元で比較的古くから使われてきた番楽の名称がそのまま用いられた。また本田の著作に取り上げられなかったが、旧南部藩領の青森県下北半島地域に伝わる能舞も修験の手によって伝えられた芸能であった。一方、個々の修験者によって担われ、演じられてきた獅子舞だけではなく、一山を構え修験集落を形成してきた地域でも、獅子舞は重要な儀礼と宗教活動の一翼を担っていた。それは一山を形成してきた修験集落が、他の仏教寺院と同じように、法会の後や、任位・任官など僧侶や長官の昇進や就任儀礼の場に、賓客の来臨を得て行われる延年、それに連なる舞楽や田楽ともつながる総合芸能の姿を伝えていた(1)からでもある。すなわち獅子舞は山伏神楽・番楽だけではなく、延年や舞楽とも関わりがあったことが見えてきた。このことは修験者が関わる場の広がりをも示していることになる。そうした場を想定して、今後は修験者が関わってきた儀礼や芸能を再考する必要が見えてきた。(1)松尾恒一『延年の芸能史的研究』岩田書院 一九九七 二四三―二六五頁、神田より子「修験道の儀礼と芸能―延年を中心に―」『山岳修験』三一号 日本山岳修験学会 二〇〇三 一―二〇頁