著者
米谷 民明
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.4, pp.231-235, 2017-04-05 (Released:2018-03-30)
参考文献数
12

南部力学と南部ブラケットは,通常のハミルトン形式の拡張として,南部が1973年に提唱した新しい力学形式である.その概要と意義を非専門家向きに解説する.また,弦理論およびM理論との関連,影響についても簡単に触れる.
著者
福元 健太郎 村井 良太 Kentaro Fukumoto Ryota Murai
出版者
学習院大学法学会
雑誌
学習院大学法学会雑誌 = Gakushuin review of law and politics (ISSN:13417444)
巻号頁・発行日
vol.47, no.1, pp.75-99, 2011-09-30

本稿は,戦前日本の内閣は存続にあたって誰の支持を必要としていたかとの問いに,1885年から1947年までの全45内閣の月次データに離散時間の生存分析を適用することによって取り組む.その結果,一方で,議会が多くの内閣提出法案を通すほど,陸相が過去に入閣した経験が長いほど,国務大臣の数が少ないほど,首相選定者の数が多いほど,内閣は長続きすることが明らかになった.他方で,軍部大臣(現役)武官制や政党内閣が内閣の寿命を縮めた,あるいは与党が衆議院に多くの議席を占めるほど内閣が長期間支えられたなどの,証拠は見いだされなかった.以上から,戦前日本は超然内閣というよりも,立法の多寡に内閣の生存が依存するという意味で事実上の議院内閣制であったことが示唆される.
著者
藤山 あやか Ayaka Toyama
出版者
滋賀文教短期大学
雑誌
紀要 = BULLETIN OF SHIGA BUNKYO JUNIOR COLLEGE (ISSN:09126759)
巻号頁・発行日
no.24, pp.(63)-(69), 2022-03-22

ヒギンズ著の「コミュニティミュージック」から、英国におけるコミュニティミュージック成立の背景や発展、その概念と意義について整理した。コミュニティミュージックは人々の音楽体験の共有により創造される芸術表現の形であり、1960年代にコミュニティアート運動の一部として登場した。ヒギンズは、コミュニティミュージックを (1)コミュニティの音楽、(2)共同体の音楽制作、(3)音楽リーダーやファシリテーターと参加者が積極的に関わり合う音楽活動と特徴づけている。また、学校教育でのコミュニティミュージックの実践は学校と外部機関との音楽交流であり、地域社会とのパートナーシップによる音楽教育を行うために「音楽リーダーやファシリテーター」の重要性を強調している。本稿では、学校と地域を結ぶ教育プログラムの開発に向けて、ヒギンズの論考からコミュニティミュージックの教育的意義を明らかにしている。
著者
竹中 佳彦
出版者
日本選挙学会
雑誌
選挙研究 (ISSN:09123512)
巻号頁・発行日
vol.30, no.2, pp.5-18, 2014 (Released:2018-02-02)
参考文献数
23
被引用文献数
2

若年層の政党の保革イデオロギーへの位置づけは高齢層と異なるという知見を踏まえ,(ア)イデオロギーの自己位置づけ(イ)争点態度の一貫性,(ウ)支持政党・投票政党とイデオロギーとの相関の年齢による違いを,JIGS有権者調査(2013年),JESⅣ調査(2010年)とJES調査(1983年)を用いて比較分析した。その結果,①同一コーホートが保守化してはいないが,若年層は,保革イデオロギーを認識しておらず,認識していた場合には自己を革新的と位置づけ,②若年層にも,争点の態度空間に一貫した基底的構造はあるが,その力は弱く,また保革イデオロギー次元でない場合もあり,③40歳代以下に,支持政党・投票政党と保革イデオロギーとの相関がない場合があった。このようにイデオロギーの自己位置づけと争点態度と投票政党との間の一貫性の喪失が,若年層ほど進んでいることを示した。
著者
牛見 真博
出版者
山口大学大学院東アジア研究科
雑誌
東アジア研究 (ISSN:13479415)
巻号頁・発行日
no.18, pp.374-361, 2020-03

従来、近世における一人称代名詞「僕」の使用について言及している研究は、その用例の検討も含めて限られているのが現状である。その中で、近代以前における一人称代名詞「僕」の自覚的な使用は、幕末に始まるものとして捉えられてきた観があり、その傍証として長州藩の吉田松陰による「僕」の多用が指摘されている。しかしながら、そうした「僕」の自覚的な使用は、さらに百年以上を遡り、すでに江戸中期の長州藩の山県周南の用例に見られる。山県周南(一六八七─一七五二)は、十九歳で江戸の荻生徂徠に入門して古文辞学を修め、徂徠門下では最も早い時期からその薫陶を受けた。帰郷後は、長州藩校明倫館の創設時から深く関わり、徂徠が樹立した学問体系である徂徠学を藩校での教学に導入し第二代学頭を務めるなど、その継承と喧伝に努めた。その後、百二十年以上の長きにわたり、長州藩の学問・教育は徂徠学の影響のもとで展開されるに至っている。 本稿では周南による三三の用例の全てを掲げ、「僕」がどのような使用をみているか、主だった特徴について検討し、次のことを指摘した。一人称代名詞としての「僕」は司馬遷『史記』を初出とし、周南は自ら藩の修史にも携わる歴史重視の姿勢と司馬遷への私淑から、『史記』に見られる「僕」の語を使用するようになった。また、『漢書』司馬遷伝における「僕」の多用に影響を受けたものと考えられる。周南による「僕」の使用は、謙遜の意と相手への高い敬意を旨としており、これは、「僕」は対等・目下の相手に使われたという先行研究とは明らかに異なるものである。一方、松陰による「僕」の多用は、藩内教学の祖である山県周南による使用に想を得ながらも、自らを他者に劣る存在であることを強調して表現したものである。松陰は「僕」を、内心を自由に吐露するのに相応しい語として自覚的に用いている。以上のように、松陰における「僕」の使用の内実も、対等・目下の相手に使用するという従来の見解とは異なることを指摘した。
著者
武内 今日子
出版者
関東社会学会
雑誌
年報社会学論集 (ISSN:09194363)
巻号頁・発行日
vol.2020, no.33, pp.133-144, 2020-07-31 (Released:2021-08-24)
参考文献数
17

Through narratives from magazines and 14 interviews, this paper examines how, from the late 1990s, a gender identity category, X-jendā, was formed and spread with self-enforcing abilities. We clarified how X-jendā was utilized in the sexuality mixed self-help group as a transgender subcategory to enable differentiation from the norms of existing categories. In addition, the abilities of X-jendā seemed to be changed in the process of spreading, partly separated from the usage of transgender categories. These results show that the abilities of self-enforcement were regulated differently in the local settings of the self-help groups and in the internet sphere.
著者
相馬 拓也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.13, no.2, pp.420-438, 2018 (Released:2018-10-04)
参考文献数
20
被引用文献数
1

モンゴル西部ホブド県のウリャンカイ系遊牧民は,長年のユキヒョウ棲息圏での暮らしの中で,ユキヒョウに関する多様な儀礼や精神文化を発達させてきた.本研究は,地域住民とユキヒョウとの関係から紡がれた民間伝承・伝説・語りなどの「伝承誌(オーラルヒストリー)」を文化遺産として定義し,ユキヒョウの保全生態に対する遊牧民の能動的な関与を促す社会環境の整備を目的としている.本調査は2016年7月19日~8月22日の期間,ホブド県ジャルガラント山地,ボンバット山地,ムンフハイルハン山地のユキヒョウ棲息圏に居住する117名の遊牧民から,「ユキヒョウ狩り」の実猟経験や,狩猟儀礼「ユキヒョウ送りの儀」などのオーラルヒストリーを構成的インタビューにより収集した.ユキヒョウの科学的調査だけではなく,その文化的・社会的コンテクストの解明は,ユキヒョウと遊牧民の関係改善とサステイナブルな共存圏の確立に貢献するものと考えられる.
著者
加治木 紳哉 Kajiki Shinya
出版者
宇宙航空研究開発機構(JAXA)
雑誌
宇宙航空研究開発機構特別資料 = JAXA Special Publication (ISSN:24332232)
巻号頁・発行日
vol.JAXA-SP-19-004, pp.1-343, 2020-03-13

In February 1954, Japan's space research activities began with the Pencil rocket launch experiment by the Avionics and Supersonic Aerodynamics (AVSA) research groups that was a part of the Institute of Industrial Science, the University of Tokyo. This group’s members (engineers) and other institute’s researchers (scientists) formed a committee for sounding rockets and joined the international earth observation program the International Geophysical Year (IGY) from July 1957 to December 1958. Their attempts to carry out observations of the upper atmosphere, cosmic rays, and others were successful. Following the recommendations of the Science Council of Japan, the Institute of Space and Aeronautical Science (ISAS), the University of Tokyo was founded in April 1964 by the merger of the two institutes of this university, that were the Institute of Industrial Science: engineers related to space research activities, and Aeronautical Research Institute. In February 1970, ISAS launched Japan's first satellite "Ohsumi" and put it into orbit. In April 1981, based on the report of Scholarship Commission, ISAS was reorganized as an inter university research institutes directly under the Ministry of Education and started more ambitious activities. In October 2003, as part of the reformation of administration, the Japan Aerospace Exploration Agency (JAXA) was established, by integrating ISAS, the National Space Development Agency of Japan (NASDA) and the National Aerospace Laboratory of Japan (NAL). This report investigates the history of ISAS, from 1960-2010, considering three perspectives: 1) Collaboration of scientists and engineers, that includes the space science staff that researched the mysteries of space and engineering staff that worked to meet their needs, 2) Activities as an inter university research institutes; and 3) Decision making process in space science missions.