著者
河西 瑛里子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.98, pp.269-296, 2009

これまでの宗教研究では,男性中心的な視点から研究がなされてきたことを反省し,男性中心の宗教における女性信者に注目することの必要性は叫ばれてきたが,女性中心の宗教にかかわる男性信者の研究はほとんどおこなわれてこなかった。その主な理由としては,女性中心の宗教的実践の数が少なかったことが挙げられる。主流の宗教が提供してこなかった事柄を女性に提供してきたため,女性をひきつけてきた新しい宗教的実践であっても,指導者が男性だったり,女性指導者を操る男性がいたりして,必ずしも女性主導型ではなかったのである。1970年代,フェミニストのネオペイガニズムへの接近から生まれた現代の女神運動は,女性が主体となって実践している数少ない宗教的実践である。女神運動の実践者の大半は女性であるが,男性実践者も少数ながら存在している。女神運動における男性の位置づけとしては,1)排除される,2)劣位に置かれる,3)歓迎される,の三つが考えられるが,ニューエイジの聖地として知られる,イギリスのグラストンベリーで1990年代に始まった女神運動は3)にあたる。この女神運動では,男神は排除するが,女神を崇拝する男性は歓迎するという姿勢をとっているため,他の女神運動のグループと比べると,男性の割合が比較的多い。本稿では,グラストンベリーにおける女神運動の創始者のライフストーリーとその主張,およびこの女神運動にかかわりをもった5人の男性実践者のライフストーリーを分析した。その結果,男性がこの女神運動に関心をもった背景には,ネオペイガニズム,イギリスの固有の神的存在,女性の力や性的側面の肯定があったことがわかった。本稿は,欧米の新しい宗教的実践におけるジェンダー研究の一つである。と同時に現代の欧米で盛んになりつつあるもの,日本ではその存在がほとんど知られていない女神運動の詳細についても明らかにすることを目指している。In the area of religious studies, scholars have focused on female believers of male-oriented religions, but they have rarely studied male believers of female-oriented religions. The main reason is that there are few female-oriented religions. While the teaching of new religions is women-friendly, the leadership is often male dominated even though the followers are female. The contemporary Goddess movement first appeared in the 1970 s when feminists adopted the Goddess or witch from the Neopaganism, as a symbol of strong women. The Goddess movement is one of the rare new religions whose leadership and organisers are women in general, while there are some male believers. The Goddess movement in Glastonbury, England started in the 1990's. In this particular Goddess movement, God is rejected, yet male followers are particularly welcome, So there are more male believers in this Goddess movement than in any other. In this paper, I examined the life story and the teaching of the female founder and the life stories of five men who have been involved in this Goddess movement at some point. I discovered that the reasons why those men were interested in this Goddess movement included Neopaganism, English divines. and their positive attitude toward women's power and sexuality.
著者
藤縄 謙三
出版者
京都大学
雑誌
京都大學文學部研究紀要 (ISSN:04529774)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.65-"118-9", 1975-03-31

この論文は国立情報学研究所の学術雑誌公開支援事業により電子化されました。
著者
風間 孝
出版者
Japan Society of Family Sociology
雑誌
家族社会学研究 (ISSN:0916328X)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.32-42, 2003
被引用文献数
2

本稿は, 同性婚の政治性を明らかにすることを目的とする。まず, 近代家族が異性愛規範に基づくことにより, 同性愛者を周縁化し, 家族を形成する機会を奪ってきたことを論じた。つぎに, 近代家族を批判する立場からの婚姻制度の解体が多様性の承認につながるという主張は, 権力関係の外部を前提にしていることを指摘した。<BR>最後に, 家族制度擁護論に基づく反対論の分析を通じて3つの点を指摘した。第1に婚姻の定義に基づく同性婚の拒絶は法が特定の定義を採用する恣意性を隠蔽することによって成り立っていること。第2に生殖に基づく拒絶は同性カップルが規範的異性愛家族およびジェンダーの (再) 生産につながらないことを理由としており, それゆえに同性婚の要求は家族と規範的異性愛とジェンダーの結びつきに異議申立てを行うものであること。第3に同性婚の要求は, 近代の特徴である異性愛規範に基づいた公/私二元論の枠組みを問題化するものであること。
著者
富田 久仁子
出版者
岐阜大学
雑誌
岐阜大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.2002, pp.111-122, 2003-03

現代日本語の他動詞の中には,「つなぐ」と「つなげる」のように,意味と語形に共通部分を有する他動詞の組み合わせが存在する。本稿においては,この「併存する他動詞」である「つなぐ」と「つなげる」の意味的な類似点と相違点を明らかにする事を試みた。まず,それぞれの語の複数の意味から多義的別義を導き出し,多義の構造を解明し,その語にそなわっている基本的意味を規定した。二つの語の基本的意味は,「つなぐ」が「本来は切れたり離れたりしていないものが2つに離れている場合,それらをひと続きにすること」であり,「つなげる」は「本来は別の2つのものをひと続きにすること」である。意味の違いはその対象が「ひと続きになることが,本来的に自然なことであるかどうか」という点にある。また,この二つの語の多義構造を検証するために,「自己制御性」概念を導入し「つなぐ」と「つなげる」に共通している意味を明らかにした。
著者
友田 明美
出版者
The Japanese Society of Child Neurology
雑誌
脳と発達 (ISSN:00290831)
巻号頁・発行日
vol.43, no.5, pp.345-351, 2011-09-01
参考文献数
22
被引用文献数
1

児童虐待は, 日本の少子化社会の中でも近年増加の一途をたどっている. 小児期に様々な虐待経験のある被虐待者脳MRI形態の検討により, 虐待や育児放棄による幼少期母子関係の破綻 (愛着形成の障害) が社会性の発達障害を引き起こすこと, さらにその障害が脳の構造機能の変容に起因することが示唆された. 「性的虐待」では, 最初に目に映った情報を処理する脳の視覚野で脳の容積が減ったり, 「暴言虐待」では, コミュニケーション能力に重要な役割を持つ聴覚野で大脳白質髄鞘化が異常をきたしたりすることが明らかになった. 被虐待児に認められる "社会性発達障害" という観点から, こころに負った傷は容易には癒やされないことが予想される. 被虐待児たちの精神発達を慎重に見守ることの重要性を強調したい. しかしながら, 被虐待児たちの脳変成も多様な治療で改善される可能性があると考えられる.
著者
鷲谷 花
出版者
筑波大学比較・理論文学会
雑誌
文学研究論集 (ISSN:09158944)
巻号頁・発行日
no.17, pp.71-81, 2000-03

1 その頃、東京中の町といふ町、家といふ家では、二人以上の人が顔を合はせさへすれば、まるでお天気の挨拶でもするやうに、怪人『二十面相』の噂をしていました。江戸川乱歩のいわゆる『少年探偵団』シリーズの第一作である『怪人二十面相』 ...
著者
藤本 勝義 フジモト カツヨシ Katsuyoshi FUJIMOTO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.31-48, 2015

源氏物語では重要な人物で死ぬ者が多い。それは、長編物語のためだけでなく、死そのものの意味があり、死で終わるのではなく、そのプロセスと、死後に残された者の思いが重視されているからと言える。本稿では、死のもたらすものと、死者の救済について考察し、仏教的な救済はもとより、源氏物語独自の救済の論理を把握しようとするものである。先ず、物の怪に憑依された人物を取り上げる。夕顔は、その死が娘などには知られないため、菩提を弔われることが少なく、成仏することがかなり遅れた。葵の上は、嘆き悲しむ光源氏の心からの哀悼により成仏したと考えてよい。しかし、光源氏がそこまで葵の上を愛していたとも思われない。別の理由も考えられる。死者の往生のためには、生前の本人の仏道への帰依と、残された者の供養が要請された。勤行の経験がほとんどなかった主に若い死者には、残された者の心からの追善供養が必要である。六条御息所を光源氏が、心をこめて菩提を弔うことはなかったと言ってよい。それは、死霊となる六条御息所の物語とも深く結びついていた。源氏物語では、死者の冥福に関して、追善供養と精神的救済が要請されているかのようである。紫の上は厚い信仰心と光源氏の心底からの供養によって極楽往生した。次に、亡霊として夢枕に立つ人物の救済だが、桐壺院は、光源氏による大々的な追善供養によって救われ、極楽往生したと考えられる。藤壺救済の道筋は、身代わりになってでも救いたいという光源氏の強い思いなどで、はっきりとつけられた。八の宮は、中の君が「幸い人」路線を進むことで、心の平安を得て成仏したと考えられる。源氏物語以外の作品では、光源氏など個人が、心の底から菩提を弔うといった、あくまで物語の精緻な展開に密着した描写は限られており、盛大な葬儀を行うことが、当事者の権勢を示すことに直接関わったり、源氏物語には決して描かれなかった挿話を記すなど、その質の違いが際立つのである。