著者
藤井 聡
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.334-350, 2006-10-20
参考文献数
52

本稿では,土木において風土の問題は極めて重大であろうとの認識の下,風土に関する代表的哲学書である和辻哲郎著「風土:人間学的考察」(1943)を批評することを通じて,土木工学への知見を得ることを目指した.和辻の哲学的存在論の基本的立場を踏まえることで,各種土木事業が地域のあり方のみならず,地域の人々の人間存在そのものに根元的影響を及ぼし得る可能性が浮かび上がることを指摘した.それと共に,和辻風土論には「健全なる風土と不健全なる風土」との別が論理的に指し示され得ないという実践倫理哲学上の問題点が潜んでいることを指摘し,その問題点が土木において和辻風土論を参照するにあたっての重大な障害となることを指摘した.その上で,その問題点を超克するためのアプローチとして,近代保守思想を参照し,援用することの有効性を論証した.
著者
久恒 晃代 Hisatsune Akiyo
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.36, pp.97-107, 2018-09-28

ウパニシャッドは, 四つの部門で形成されるヴェ ー ダ文献の最後部であり, ヴェ ーダ思想の集大成に位置づけられる文献である。 加えて, ヒンドゥ ー教の思想の根幹でもあり, 梵我一如や輪廻転生の思想とも深く関わっている。その内容の性質から. 祭式神秘主義と神話の両者から独立した本格的な哲学書と評されることもあった。 そのような哲学害ウパニシャッドにおいて, 神々の性質や神話はどのように変遷をとげていたのか, プラーフマナと同系統の神話を比較すること で明らかにし七いく。まず, 『ジャイミニーヤ ・ プラ ーフマナ』と『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』ではヴァルナ神と息子プリグの物語が記されている。 そこにおいて, ヴァルナの性質のうち水神を除く , 司法神と至高神の要素はウパニシャッドに至ると消失してしまっている。 また.『カタ ・ウパニ シャッド』には『タイッティリ ーヤ ・ プラ ーフマナ』の「ナチケ ー タス物語」と同系統の神話が継承されている。 この両者の比較により, 祭式の重要性を説く内容から,哲学的教義へと変遷し ていることが分かる。このことは,「プリグの物語」でも同様である。従ってウパニシャッドでは, ヴェ ー ダの多くの神々がその性質を消失し, 地位を低下させ, 祭式至上主義から知識の習得に重 きを置く風潮へと推移していた。その一方で, 中性的な哲学的原理プラフマンが男性神プラフマー に神格化し, ウパニシャッド の知識を会得する者であるバラモンが人間の範喀を越える存在にまで昇華している。これらのこ とは, 哲学的思考が大きくはたらくウパニシャッドにおいて,神話的思考も多分に機能している ことを示している。以上のことから, ウパニシャッドは哲学的思考と神話的思考が未分化な状態 にあると言える。
著者
加藤 恵介
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.55-74, 1985-07-01

Heidegger versuchte in der Vorlesung "Die Grundprobleme der Phänomenologie" den Sinn von Sein überhaupt aus der Struktur der Zeitlichkeit des Daseins, die er in "Sein und Zeit" geklärt hatte, herauszustellen. In dieser Vorlesung kann man das zweideutige Verhältnis Heideggers zur traditionellen Dichotomie deutlich sehen. In der vorliegenden Arbeit sollte versucht werden, diese Zweideutigkeit zu erhellen.
著者
小林 睦
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
アルテスリベラレス (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
no.82, pp.1-16, 2008-06

本稿の目的は,ハイデガーにおける「生命」概念を理解するために,彼の思索と生物学との関係を整理・検討してみることにある1)。これまで,ハイデガーと生の哲学との関係については多くの議論がなされてきたが,彼の哲学と生物学との関わりについては,あまり語られることがなかったように思われるからである。 そのためには,ハイデガーがその著作や講義録で行なっている,必ずしも多いとは言えない生物学への言及を手がかりに,彼が当時の生物学によって提案されていた主張をどのように評価あるいは批判していたのか,また,彼がその生物学からどのような影響を受けていたのか,を明らかにする必要がある。 哲学者としてのハイデガーは,アリストテレス研究から出発して,その思索の途を歩み始めた。このことを考慮するならば,彼の生命観を理解するためには,アリストテレスの「生(ζω´η)」概念から引き継いだものを無視することはできない。周知の通り,アリストテレスの生命論は,歴史的に見て,「生気論」の古典的かつ代表的な形態であるとみなされている。 「生気論(Vitalism)」とは,生命現象には物質には還元できない本質(生気)が伴っており,環境に適応するための合目的性は生命そのものがもつ自律性にもとづく,とする立場である。それは,「機械論(Mechanism)」のような,生命現象がそれを構成する物質的な諸要素が組み合わされることによって生じ,物理−化学的な諸要素に還元することができる,と主張する立場とは真っ向から対立する。生命の本性をめぐる解釈の歴史は,こうした生気論と機械論とが互いにその正当性を主張しあう論争の歴史であったと言うことができよう。 アリストテレスの場合,生命における可能態(δ´υναμις)としての質料を,現実態(εʼντελ´εχεια,εʼν´εργεια)へともたらすものが,形相としての「魂(ψυχη´, anima)」である。魂の定義は多義的であるが,その本義は,〈生きる〉という活動─栄養摂取,運動,感覚,思考─の原理として規定されており,植物・動物・人間などの違いに応じて,魂はその生命活動を具現化する形相にほかならない,とされる2)。 こうした思想を熟知していたハイデガーは,アリストテレスと同じく何らかの「生気論」に与するのだろうか。それとも,同時代の生物学において有力であった「機械論」的な発想に理解を示すのだろうか。あるいは,そのいずれとも異なる第三の生命観を主張するのだろうか。 以上のような問題意識にもとづいて,本稿ではまず,(1)ハイデガーによる生命への問いが何を意味するのかを整理する。次に,(2)ハイデガーが機械論的な生命観に対してどのような態度をとっていたのかを確認する。さらに,彼が「生物学における本質的な二歩」を踏み出したとみなす二人の生物学者──ハンス・ドリーシュとヤーコプ・ヨハン・フォン・ユクスキュル──について,(3)ドリーシュの新生気論に対するハイデガーの評価,および,(4)ユクスキュルの環世界論とハイデガーとの関係,をそれぞれ検討する。その上で,(5)生気論と機械論に対するハイデガーの批判を振り返りつつ,動物本性にかんするハイデガーによる意味規定を分析する。最後に,(6)ハイデガーにおける反進化論的な態度が何に由来するのかを考察し,その思想的な特徴を確認した上で,本稿を閉じることにしたい。
著者
加藤 恵介
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.55-74, 1985-07-01

Heidegger versuchte in der Vorlesung "Die Grundprobleme der Phänomenologie" den Sinn von Sein überhaupt aus der Struktur der Zeitlichkeit des Daseins, die er in "Sein und Zeit" geklärt hatte, herauszustellen. In dieser Vorlesung kann man das zweideutige Verhältnis Heideggers zur traditionellen Dichotomie deutlich sehen. In der vorliegenden Arbeit sollte versucht werden, diese Zweideutigkeit zu erhellen.
著者
坪井正五郎著
出版者
哲学書院
巻号頁・発行日
1887
著者
林 修 梅野 圭史
出版者
日本体育・スポーツ哲学会
雑誌
体育・スポーツ哲学研究 (ISSN:09155104)
巻号頁・発行日
vol.38, no.1, pp.9-21, 2016 (Released:2016-11-01)
参考文献数
38

This study discusses the meaning of learning particular art-form movements (in a Noh play) during the stages between infancy and adolescence in the “Flowering Spirits” written by Zeami (around 1400 A.D.). The attitude toward the practice in Zeami’s Noh play for the ages seven to approximately twenty-four correspond with the skill development of human movements (from maturational skills, to personal skills, to advanced skills) proposed by Landall (1979) in the U.S.A. Furthermore, Zeami did not regard the particular art-form movements in the Noh play as technical skills. Zeami had thought that a pleasure and satisfaction felt during exercise a Noh play influenced on performer’s body, strongly. Then, these affective factors made a performer understand the physical meaning of particular art-form movements. The above mention was perceived to have the meaning of ‘to mature’. It was concluded that the practice in Zeami Noh play at the period from infancy to adolescence indicates the influence of naturalism.
著者
森川 直
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2004, no.89, pp.145-151, 2004

わが国のペスタロッチ研究史に新たな一ページが加えられた。本書は、学位論文「ペスタロッチ教育思想における宗教的基礎-その形成と展開」 (一九九九年十一月筑波大学) をもとに編まれたもので、著者の積年の研究の集大成とみなされるものである。「まえがき」で、著者は本書について次のように述べている。「本書は、従来もっぱら教育の近代化の先駆者として位置づけられてきたペスタロッチの教育思想と実践を改めて問い直し、ペスタロッチの教育思想と実践の根底には、一般的には『非合理的』、『非近代的』であると批判されがちであった宗教観が、それもきわめて根源的 (ラジカル) な、敬虔主義的で実践的な深い宗教観が、厳然と存在していることをまず論じている。そして、この宗教的基盤こそが、かれの人間観とそれにもとづく人間性尊重に徹する実践的教育思想を支えているということ、また、それゆえにこそ、かれの教育思想は、近代がもたらしたさまざまな負の遺産を克服し、あらたに人類に希望と勇気を与えうる教育を創造する基礎力をもつという意味での現代的意義をもつこと、などをさまざまな角度から論じている。」
著者
松田 毅
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2014, no.65, pp.73-89_L7, 2014

While Spinoza, rejecting the project of "theodicy", insists on "absolute necessity"of the world from the view point of eternity, Leibniz, as the originator of the concept of "possible worlds," advocates the optimism, namely the logical contingency and moral necessity of the best of this world. Given this seemingly fatal opposition of two 17th century major metaphysicians about modalities, it is philosophically important to see the causes of this tension and, thereby to have some prospect for better understanding of the problems of modalities.<br>Firstly, from the representation of recent interpretations of "the necessity of finite modes" in Spinozaʼs <i>Ethica</i>, especially from Huenemannʼs about "the instantiation of geometrical essence" in the finite modes; secondly from contextual understandings of Leibnizʼs comments about texts such as IP29 of <i>Ethica</i>; and thirdly,characterizing the distinction between modal inferences of <i>consequentiae</i> and <i>consequentis</i> in Leibniz, I maintain that the ontologically irreducible status of agency of actions and the proper concepts of logical contingency turn out to be decisive in the controversy on modalities. Finally, it is argued that the modal sentences as such are seen by Leibniz as a type of reflexive proposition the truth values of which cannot be unconditionally decided.
著者
阪井 裕一郎
出版者
Japanese Council on Family Relations
雑誌
家族研究年報 (ISSN:02897415)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.75-90, 2013-07-10 (Released:2017-02-14)
参考文献数
28

明治期から現在まで日本社会を描く際に、たびたび「家族主義」という言葉が使用されてきた。本稿の目的は、この言葉が登場した明冶から大正期における知識人の言説の分析を通じて、その意味を探究することである。最初に、明治期における家族主義を称揚する言説を分析し、この時期の家族主義が封建批判や救済事業とともに語られていた事実を確認し、その意味と目的を明らかにする(第2 節)。続いて、社会主義者や民主主義者といったいわゆる「革新」の側から提唱された、「家族主義」や「家庭」の言説を検討する。そこから家族主義批判が内包していたある種の逆説を明らかにする(第3節)。続いて、近年の政治哲学の議論を参照しつつ、社会統合の基盤としての「情念」に着目することで、家族主義と民主主義の関係を理論的に問い返す(第4節)。家族主義と民主主義を対立的に捉える従来の見方では看過されてしまう問題を明らかにし、そのうえで家族主義を克服する新たなつながりの可能性を展望する(第5節)。
著者
森 信成
出版者
大阪市立大学大学院文学研究科
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.16, no.1, pp.37-50, 1965-01

ことわりがき : 昨年春以来、公然たるかたちをとってあらわれるにいたった中ソの思想的、政治的対立は、世界政治に深刻な影響を与えている。本稿は、本誌に中ソ論争の理論的内容を紹介するために、中共の代表的イデオローグである周揚の、中共派の主張を要約した、いわばその結語ともいうべき「哲学、社会科学工作者の戦斗的任務」(『前衛』一九六四年四月号所収)をとりあげ、批判したものである。……