著者
長戸 かおる 箱田 直紀
出版者
日本育種学会
雑誌
育種學雜誌 (ISSN:05363683)
巻号頁・発行日
vol.34, no.4, pp.439-444, 1984-12-01

サザンカ,カンツバキ,ハルサザンカ,ツバキのエステラーゼアイソザイムの変異に基づき,種間関係を明らかにした。カンツバキでは,バンド4が高頻度に出現したが,野生サザンカには出現しなかった。サザンカ園芸品種では,海外品種や紅色品種にバンド4の出現が見られたが,白色品種には見られなかった。従って,サザンカ園芸品種の成立には野生サザンカの選抜育種だけでなく,一部には,カンツバキの浸透交雑による関与のあったことが考えられる。 一方,ハルサザンカのザイモグラムの出現頻度分布は,ツバキと大変よく似ていて,ツバキとサザンカの雑種起原であることが確かめられた。しかし,一部にカンツバキの関与を受けたと思われるバンド4を持つ品種が見られた。 このように,一部では,カンツバキとの浸透交雑を通じて,多様なサザンカ園芸品種やハルサザンカの品種が作出されてきた様子が明らかとなった。
著者
村上 正二
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.319-333, 1991

論説異常の学才を示して屈辱と貧困の季節へ前原一誠の密書届く学則から教科書まで学者としての道悟る学問に忠実な学徒世界各国語の独習へ新しい史学への刺激新区分のカリキュラム内藤湖南と識り合う天下の奇書に取組む欣然モンゴル語の講義唯一の道楽は自転車新進白鳥庫吉の登場
著者
佐藤 敬二
出版者
一般社団法人日本森林学会
雑誌
林學會雑誌
巻号頁・発行日
vol.14, no.4, pp.299-300, 1932-04-10

1 0 0 0 古墳と植樹

著者
三宅 和朗
出版者
三田史学会
雑誌
史學 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.81, no.4, pp.533-573, 2013-01
著者
岡本 貴久子 Kikuko OKAMOTO オカモト キクコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, pp.81-97, 2013-03

本研究では近代日本において実施された「記念」に樹を植えるという行為、即ち「記念植樹」に関する文化史の一つとして、明治12(1879)年に国賓として来日した米国第18代大統領U.S.グラント、通称グラント将軍による三ヶ所(長崎公園・芝公園・上野公園)の記念植樹式に焦点をあて、それが行われた公園という空間の歴史的変遷を分析することによって、何故そうした儀式的行為が営まれたかという意図とその根底に備わっていると見られる自然観を考察した。 なぜ記念植樹か。実は近代化が推進される当時の日本において記念碑や記念像が相次いで設置されていく傍らで、今日、公私を問わずあらゆる場面において一般的となった記念樹を植えるという行為もまた同様に、時の政府や当時を代表する林学者らによって国家事業の一環として推進されていたという事実があり、加えてこうした儀式的行為を広く一般に浸透させる為に逐一ニュースとして記事にしていた報道機関の存在から、記念に植樹するという行為もまた日本の近代化の一牽引役として働いていたのではないかと推測され得るからである。 本文では1872年のグラント政権が開国後間もない新政府の近代化政策に与えた諸影響を中心に論じたが、例えばこのグラント政権下において米国で初めて国立公園が設定され、Arbor Dayという樹栽日が創設され、且つ同政権下の農政家ホーレス・ケプロンが開拓使顧問として来日、増上寺の開拓使出張所を基点に北海道開拓を指揮するなど、グラント政権下における殊に「自然」に関わる政策で新政府が手本としたと見られる事柄は少なくない。こうした近代化の指導者ともいうべきグラント将軍による記念植樹式は、いずれも明治6(1873)年の太政官布告によって「公園」という新たな空間に指定された社寺境内において営まれ、米国を代表する巨樹「ジャイアント・セコイア」等が植えられたのだが、新政府にとってそれは単に将軍の訪日記念という意味のみならず、「旧習を打破し知識を世界に求める」という西欧化政策を着実に根付かせる意図を持ってなされた儀式的行為であったと考えられる。しかしながら同時にこの儀式的行為は、「樹木崇拝」という新政府が棄てたはずの原始的な自然崇拝が根底に備わるものであり、新旧の自然思想が混淆している点を見逃してはならない。 従って明治初期の記念植樹という行為は、新旧あるいは西洋と東洋の思想とかたちと融和させるために行われた一種の儀式的行為であり、明治の指導者たちはこのような自然観を応用しながら近代化促進につとめたといえるのではないだろうか。Planting memorial trees is today a common practice. The act of planting such trees indeed contributed to the promotion of Japanese policies of modernization in the Meiji era, no less than erecting monuments or memorial statues. Two facts support this hypothesis. First, there are texts encouraging the planting of memorial trees, some written by Honda Seiroku, professor of the Imperial University of Tokyo, who laid the groundwork for modern forestry, and others issued by such government offices such as the Ministry of Agriculture, Commerce and Forestry. Second, the media came to recognize the news value of memorial planting and reported on it. Under these circumstances, memorial trees were planted widely as rites of national significance in modern Japan. The event that I examine here is the ceremony commemorating General Ulysses S. Grant's visit to Japan as a state guest in 1879. Materials indicate that General Grant planted memorial trees at three different parks, all of which were former landholdings of Buddhist temples and Shinto shrines, transformed now into modern Japan's first public parks by decree in 1873. An analysis of the characteristics and historical changes of these park spaces and the types of memorial trees chosen for planting suggests that the intention was to reflect the policy of Westernization in Japan, with its emphasis on breaking with the past and obtaining new knowledge. At the same time, the root of these ritual practices can be seen in the worship of trees which the government otherwise rejected. There is evidence here that an admixture of old and new ideas regarding nature was one source powering this particular aspect of the promotion of modernization in Japan.
著者
岩間 優希
出版者
立命館大学
雑誌
研究活動スタート支援
巻号頁・発行日
2010

本研究では、日本のヴェトナム戦争報道を、複数のジャーナリストの報道に着目しながら比較研究を行った。その結果、報道の初期・中期・後期で見られた報道の違いには、実際の戦況だけでなく、ジャーナリストの戦争体験・占領体験や先行する報道を乗り越えようとする意思が反映されていることが明らかとなった。

1 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1899年02月22日, 1899-02-22
著者
白石 和行
出版者
国立極地研究所
雑誌
南極資料 (ISSN:00857289)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.50-70, 2001-03

越冬隊40名, 夏隊20名及びオブザーバー6名の総計66名からなる第40次南極地域観測隊(以下, 第40次隊)は, 1998年11月14日東京港を出港した。往路においてオーストラリアの観測船「オーロラ・オーストラリス」号の救援活動が組み込まれたが天候, 氷状等の条件に恵まれ, 当初計画に大きな影響はなかった。昭和基地方面での行動中は天候が悪く, 輸送, 建設等の作業に大きな影響を与えた。さらに, 強風によるヘリコプター機材の損傷のためにアムンゼン湾でのオペレーションを中止せざるを得ない事態がおこるなど, 第40次夏期行動はあわただしい動きに終始した。しかし, その他の夏期の基地設営活動や調査観測についてはおおむね所期の目的を達成し, 越冬隊を成立させることができた。往路においてオーストラリアの観測船「オーロラ・オーストラリス」号の救援活動が組み込まれたが天候, 氷状等の条件に恵まれ, 当初計画に大きな影響はなかった。12月21日から24日までの間に, アムンゼン湾トナー島に小型ヘリコプターを含む地学調査隊(オブザーバーを含め13名)を送り, 12月26日に昭和基地への第1便を発した。12月28日午後, 昭和基地に接岸。ただちに貨油のパイプ輸送と大型物資の氷上輸送を開始した。昭和基地への本格空輸は1月上旬の平均風速が観測史上第1位, 日照時間はわずか29時間という悪天のために輸送ははかばかしくはいかなかった。そのため, 多くの物資を氷上輸送に切り替えざるをえなくなった。夏期建設作業としては, 300kVA発電機の設置, 通路建設, 旧居住棟移設, 太陽光発電や汚水処理棟の設備工事, 第1 HFレーダーとMFレーダーの建設などがあったがこれらの進捗も悪天のために遅々としていた。1月10日にトナー島のヘリコプターが強風により破損したため, 今次隊でのアムンゼン湾地域での地学調査を打ち切り, 「しらせ」をアムンゼン湾に回航して隊員と物資を収容することにした。「しらせ」は1月25日にリュツォ・ホルム湾に戻り, 2月1日に第39次隊との越冬交代を行った。昭和基地への物資輸送は, アムンゼン湾からの回送分を含めて, 総計954トンに達した。また持ち帰り物資は287トンとなった。昭和基地周辺地域では, 沿岸露岩域, 海氷上での観測および調査等を行った。多くの調査がアムンゼン湾地学隊収容後の2月以降に実施され, 野外調査は2月17日に終了した。ドームふじ観測拠点への夏期内陸旅行は, 2月11日にS16に帰投した。復路では, 航走及び停船海洋観測を継続実施した。3月2日に中山基地(中国)とロシアのプログレス基地も訪問した。東経150度線に至った後は北上し, 3月16日に南緯55度を通過し, シドニー港への入港は3月21日であった。