著者
渡辺 春巳
出版者
中央大学商学研究会
雑誌
商学論纂 (ISSN:02867702)
巻号頁・発行日
vol.58, no.5・6, pp.267-316, 2017-03-01
著者
藤本 猛 フジモト タケシ Takeshi FUJIMOTO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.23-46, 2017-03-31

宦官とは、去勢された男性のことを指す。ユーラシア大陸に広範に見られるこの風習は、中国においては紀元前の古代から存在し、彼らは特に禁中にて皇帝の身辺に奉仕し、一種の奴隷でもあり、また官僚でもある存在であった。そして最高権力者たる皇帝との距離の近さから、しばしば政治に介入し、専横な振る舞いが見られ、その特異な身体的特徴もあって、非常に負のイメージの強い存在である。 そんな宦官に関する北宋時代の史料を見ていると、宦官の「子」や「妻」という表現をよく目にする。言うまでも無く宦官には生殖機能がなく、子ができるはずがない。このことにつき改めて諸史料を調査し、検討を加えたところ、北宋初期に命令が出され、30歳以上の宦官には養子一人を取ることが認められていることが判明した。これによって基本的に北宋時代の宦官には、養子によって家が継がれ、その養子の多くがまた宦官となって次代の皇帝に仕える、というシステムになっており、結果としていくつかの宦官の家柄が成立していたことが推測される。また彼らのなかには複数の養子を兄弟として育てたり、皇帝の声がかりなどで妻を娶り、宮中とは別の場所に邸宅を構えるものも存在し、宦官でありながら一般官僚と変わらぬ家族生活を営むこともできていたことがわかった。 北宋時代の後宮が、基本的には限られた宦官一族によって支えられていたことが分かったが、その実態については史料が限られているために全面的に解明することは不可能である。しかし零細な史料をつなぎ合わせると、歴代皇帝の後宮に仕えたいくつかの宦官一族の存在が見つかった。その一つが李神福にはじまる一族であった。六代十二人の存在が確認できるこの一族は、初代から第六代までの歴代皇帝に仕え、特に李神福は太宗・真宗皇帝に50年以上も仕え、穏和な性格で知られた。その曽孫である李舜挙は軍事面で神宗皇帝に仕えて戦死したが、その散り際の潔さ、忠誠心の厚さによって、司馬光・蘇軾ら当時の士大夫から賞賛された人物だった。 以上判明した北宋時代における宦官の実態は、これまで抱かれてきた宦官の負のイメージとはいささか異なるものであったといえるだろう。
出版者
BOC出版部

なぜ私は「憂慮する朝鮮人・アピール」への賛同を呼びかけるのか 徐京植「自由主義史観研究会」「新しい歴史教科書をつくる会」等の動きを憂慮する在日朝鮮人のアピール日本の国会議員、学者達および極右勢力の「慰安婦」内容削除活動に対する韓国市民からの抗議右派勢力の教科書攻撃に関する略年表<緊急アピール>中学教科書から「従軍慰安婦」記述の削除を要求する 自由主義史観研究会「新しい歴史教科書をつくる会」創設にあたっての声明月刊「SAPIO」に対する福岡県市民団体の申し入れと「SAPIO」の回答インターネットで流された「教科書是正デモ」お知らせ日本教育委員会熊本支部 藤岡信勝氏講演会に対する市民の抗議運動女性団体による「新しい歴史教科書をつくる会」への抗議書沖縄から <基地・軍隊を許さない行動する女たちの会>総会/沖縄県、米国へ女性要請団派遣 ほか阪神から いま、神戸は、いま、私は/「被災者に公的援助を」市民=議員立法修正案発表集会から 「自画自賛史観」を批判する/三重大学公開シンポジウム「女性政策と草の根の女性活動」
著者
小木曽 智信
雑誌
じんもんこん2012論文集
巻号頁・発行日
vol.2012, no.7, pp.25-32, 2012-11-10

旧仮名遣いで書かれた口語文のテキストを形態素解析する場合、既存の形態素解析辞書では不十分な点があった。発表者は既存の形態素解析辞書UniDicをベースに見出し語の追加やコストの再学習を行い、旧仮名遣いの口語文を解析するのに適した新しいUniDicを開発した。本稿では、この旧仮名遣いの口語文を対象とした形態素解析辞書の作成方法とその解析精度について述べる。
出版者
政策研究大学院大学 / National Graduate Institute for Policy Studies
雑誌
科研費「核不拡散体制の成立と安全保障政策の再定義」プロジェクト
巻号頁・発行日
2022-02

インタビュー対象者 : 沼田 貞昭 (ヌマタ サダアキ) インタビュアー : 岩間 陽子, 高橋 和宏, 吉田 真吾, 武田 悠, 白鳥 潤一郎, 合六 強, 栗田真広, 岸俊光インタビュー期間 : 2019/4/18 - 2020/11/27
著者
飯野 智子
出版者
実践女子大学
雑誌
実践女子大学短期大学部紀要 = The Bulletin of Jissen Women's Junior College (ISSN:21896364)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.51-67, 2018-03-09

本稿は、今日「男性問題」(男性が男性であるが故に生じる問題)という概念が一般の共有認識となっていない現状をふまえ、「男性学・男性研究」が研究対象とする「男性問題」とは何かということを、男性性の自明性、男性問題の不可視性、問題設定の困難さという視点から考察する。また、男性の労働や家事、育児への参加を取り上げ、現状の男性の被抑圧状況やその打破への可能性を検証する。最終的には、今日のジェンダー問題の解決のため「男性学・男性研究」にどのような意義があるのか探っていく。
著者
赤澤 紀子
出版者
電気通信大学
雑誌
電気通信大学紀要 (ISSN:09150935)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.54-61, 2020-02-01

In the New Course of Study from 2020, all elementary school students will experience programming and all high school students will learn informatics. Previously, the importance of informatics education has not been recognized in Japan. However, with this educational reform, it is expected to start to change society’s attitude toward informatics education.Attention has also been focused on university entrance examinations using informatics.Therefore, in this paper, we survey informatics in high school, and university entrance examinations using informatics.In addition, we analyze the content of “high school informatics” and the university entrance exam questions.
著者
森田 大介 Daisuke MORITA モリタ ダイスケ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, 2020-03-31

十六世紀は、『中原康貞記』や『中原康雄記』などの古記録があるものの、地下官人に関する研究が停滞している。その理由は、『中原康貞記』と『中原康雄記』が全面的に翻刻されていないことや、当該期の六位外記史に関する職員録がない点にある。そこで、本稿は、基礎的な作業となるが、十六世紀に現われる外記局・弁官局の六位外記史の系統・官職・在職時期などの考証を行う。これによって、中世から近世に至る六位外記史や外記局・弁官局の実態を解明するための礎を築くものである。その結果を述べると、まず、十五世紀半ばの外記局の構成員一族は、隼人正流中原氏と「種」流清原氏となっていたが、長禄年間(一四五七~六〇)を境に「種」流清原氏は姿を消し、それに代わって「賢」流清原氏が出現する。そのため、十六世紀は、隼人正流中原氏と「賢」流清原氏が外記を本官として活動する。十七世紀初頭には、隼人正流中原氏の康政と、「賢」流清原氏の賢好が、出家・引退してしまうものの、蔵人方出納を輩出していた中原氏や、京近郊で郷士となっていた隼人正流中原氏の傍流から、新たに六位外記となる一族が現れる。弁官局では、十六世紀前半に三善氏が加わるが、同時期に高橋氏がいなくなる。しかし、高橋氏は後陽成天皇の在位期に再興されるので、十六世紀末から十七世紀初頭に史を本官とする一族は、安倍氏・高橋氏・虫鹿流小槻氏・三善氏の四氏構成となる。これらのことにより、両局ともその構成は、十五世紀半ばから十六世紀末に至るまでいまだ流動的な状況にあったと判断されるのである。十六世紀の六位外記史の多くが「両局兼帯」していたことも確認できる。この「両局兼帯」の一般化によって、両局は多数の構成員一族で運営されることになり、それぞれの局内にいる特定の構成員一族が六位の極臈となる官職を目指し、それ以下の官職を家業習得の場として請け負っていく「下級官史請負」の仕組みは崩れた様子がうかがえる。当該期は、家業習得や極臈になることを目的として下臈から上臈に昇っていく階梯を少数の構成員一族が独占し請け負っていくのではなく、行事運営を支えるためにそれぞれの局を構成する一族が、両局の枠を超えて外記と史の両方を請け負う状態となったと捉える方が妥当である。こうして両局は、「下級官史請負」の進行がもたらした人員不足と、それに伴う少数の構成員一族による局内運営という組織運営上の構造的欠陥を克服し、組織の統廃合や改編を経ることなく近世へと存続したと考えられるのである。Research on low-ranking officials in the 16th century has been stagnant due mainly to an absence of contemporaneous staff records.Accordingly, this paper examines the history, responsibilities, and terms of service at the Rokuishi and Rokuigeki that emerged in the 16th century with the hope of laying a foundation for elucidating the actual situation of the Gekikyoku and Benkankyoku.Our examination confirmed that during this period, members of the main lineage of the Nakahara Hayato family and Shu lineage of the Kiyohara family served as the Rokuigeki Secretariat.Nakahara Yasumasa of the main lineage of the Hayato Nakahara family, and Katayoshi Kiyohara, from the Ken lineage of the Kiyohara family, became priests and retired in the early 17th century. A new family of Rokuigeki Secretariat then appeared from a side lineage of the Nakahara family, which had produced Kurodo-shutsuno or brewers’ treasurers, and from another side lineage of the Nakahara family, which had become country samurai in the suburbs of Kyoto. From the end of the 16th century to the beginning of the 17th century, the Benkankyoku was served by four families; Abe, Takahashi, Mushiga lineage of Oduki, and Miyoshi. In other words, the organizational personnel of the two bureaus was still unstable during the period from the mid-15th century to the end of the 16th century.It can also be confirmed from the history of the 16th century that most of the time the secretariat served both bureaus. When the practice of serving both bureaus persisted, both bureaus were operated by a large number of specific family members who aspired to achieve the position of Gokuro, or head chamberlain. The structure of taking positions as lower-ranking officials as opportunities to learn about their family business eventually disintegrated. During this period, instead of a few members of the family monopolizing the echelons from the lower to the upper ranks, a large number of the family members who were in charge shared the responsibilities beyond the scopes of the bureaus to learn their family business and reach the top Gokuro post. In this way, the two bureaus were able to overcome their structural deficiencies, such as shortages of personnel from excessive taking of positions as lower-ranking officials resulting in management by a small number of family members. The two bureaus survived to early modern times without experiencing organizational elimination, consolidation or restructuring.
著者
奥野 善則 又吉 直樹 石井 寛一 小林 啓二 Okuno Yoshinori Matayoshi Naoki Ishii Hirokazu Kobayashi Keiji
出版者
宇宙航空研究開発機構(JAXA)
雑誌
宇宙航空研究開発機構研究開発資料 = JAXA Research and Development Memorandum (ISSN:13491121)
巻号頁・発行日
vol.JAXA-RM-15-001, pp.1-47, 2015-12-09

JAXAの実験用ヘリコプタMuPAL-ε(ミューパル・イプシロン)は,我が国初の純国産民間ヘリコプタであるMH2000A型機を母機とし,様々な飛行実験に対応可能な実験用システムを搭載して開発された.2000年4月の運用開始から2013年2月の運用終了まで,JAXA内外の多くの研究開発に活用された.本稿では,その主な活用事例と研究開発成果の概要について報告する.
著者
倉田 実
雑誌
大妻女子大学紀要. 文系
巻号頁・発行日
vol.46, pp.1-15, 2014-03