著者
大愛 崇晴
出版者
美学会
雑誌
美學 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.57-70, 2002-06-30

While it has been often emphasized that Monteverdi's seconda pratica opens the way to the essential idea of Baroque music : musical expression of passions of the text, Zarlino has been supposed to be a great defender of the more conservative style, prima pratica. However, Zarlino also develops the idea of "imitation of words" on the basis of the medieval conception of music as quadrivium. Zarlino supports the traditional Pythagorean view defining music as Harmonia, which is based on the simple proportions of the integral numbers and accordingly connotes consonances which sound agreeably to the sense. His view of music is therefore primarily speculative and mathematically analyzable by the reason. On the other hand, in the Renaissance humanistic thought, Zarlino seeks restoration of emotional effects of music in antiquity. He asserts the arousal of passions is caused by the very words to be set, those Harmonia (tune) and rhythm which are suitable to their emotional contents, and moreover, he stresses on the ethical purpose of music. But, Zarlino admits only the polyphony composed of consonances, as device of expression. He considers mathematical harmonic match as the most intrinsic part of music, recognizing the important role of words in music.
著者
金 龍洙
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.10-17, 1979-02-15

古代ギリシャでは,マテネでアドニス祝祭が女性により壮厳に行なわれた。それが,いまもギリシャの所々でアドニス・ガーデンの風習として生き続け,とくにセェレェー村では復活祭にこの行事が盛んである。 本研究は,アドニス庭の形成と推移を歴史的に考察し,現代のギリシャ庭園に及ぼした影響を検討したものである。 文献によればアドニス祝祭は紀元前5世紀に遡る。美男アドニス神の若い逝去を悼んで,若い女性らが,こわれたエムプラ (ギリシャの壷) を逆にして,なかに土を埋め草花を栽培した。草花の枯死はアドニス神の死と復活を象徴するもので,植物の再生と成長を促進する呪術的な行為とされた。とくに注目すべきことは,こわれたエムプラの残りを逆さにして,それを鉢として使用した点である。 この風習はギリシャ人の生活に深くしみ込み,形こそ変わったが,いまでもいたるところでアドニス・ガーデンがみられるし,ポット・ガーデンのオリジンとみることもできる。 なおアドニス・ガーデンは豪華な造園ではなく,庶民の情緒的な小庭園であるところに,大きな意味があると思われる。
著者
伊藤 裕子 相良 順子 池田 政子
出版者
公益社団法人 日本心理学会
雑誌
心理学研究 (ISSN:00215236)
巻号頁・発行日
vol.75, no.5, pp.435-441, 2004
被引用文献数
3 5

This research investigated mental health of marreed people in relation to their marital relationship, occupational life, and household income. A questionnaire was administered to husbands and wives, either in middle age or child-rearing years, to measure their degree of satisfaction in marital relationship, occupational life, household income, and subjective well-being. Results showed that satisfaction in workplace for men, and additionally satisfaction in marital relationship of men in child-rearing years, strongly predicted their subjective well-being. As for women, however, the strong association with subjective well-being was found for satisfaction in marital relationship, for those who were unemployed or employed part-time. The association was strongest for those who were in child-rearing years. Satisfaction in workplace was as important as satisfaction in marital relationship for women who were employed full-time. These findings suggested that satisfaction gained from what a person concentrated most of his/her energy on, explained his/her subjective well-being very well.
著者
伊勢田 哲治
出版者
名古屋大学情報科学研究科情報創造論講座
雑誌
Nagoya journal of philosophy (ISSN:18821634)
巻号頁・発行日
no.15, pp.14-32, 2021-06-14

クリティカル・シンキングの主な吟味の対象は理由つきの主張であるが、果たしてフィクション作品はそうした吟味の対象となりうるだろうか。「反戦映画」などの概念が普通に受け入れられていることからすれば、あるフィクションが、たとえば「戦争は悲惨であるからやめるべきである」といった理由つきの主張をするとみなされることは十分ありそうである。他方、架空の物語を語ることが現実世界について「理由つきの主張をする」という行為でもありうるというのは奇妙でもある。本論文ではフィクション作品は果たしてクリティカル・シンキングの対象となるような理由つきの主張を行うか、そしてもし行うとすれば、それはどうやってか、という問題を考える。この問題は、フィクションが主張を行うというのがある意味ではあまりに当然であるために、これまであまりきちんと分析されてこなかったように思われる。この問いはいくつかの副次的な問いから構成される。一つはフィクションを語ることが同時に現実世界について何かを主張することでもあるということが(いかにして)可能か、という問いである。第二は、その主張が理由つきの主張となるのはどのような場合か、という問いである。さらに、第一の問いへの答えは、フィクションが何を主張するのかを主に決めるのは何か(作者の意図か、作品そのものか、受け手か、何か他のものか)という第三の問いとも深いかかわりを持つ。第二の問いについては、まず、フィクションが主張するとき、必ずしも理由がついているとは限らないことが指摘される。また、その主張が現実世界についてのものである以上、フィクション内で提示された情報がそのままその理由となるのは難しい。「戦争は悲惨であるからやめるべきである」といった理由つきの主張がフィクションに帰せられる場合、フィクション内の出来事が現実世界の出来事を映しているという了解が成り立つことが不可欠となる。フィクションにおける理由つきの主張を以上のように理解したとき、第三の問いへの答えとして、主張内容を作者や作品が一方的に決めるという考え方は正当化が難しくなる。かといって受け手が一方的に決めるわけでもない。フィクションのさまざまな側面と主張内容をつなぐ推意が成立しているか、またどのような推意が成立するか、という、フィクションをとりまく状況が主張内容や主張の構造の特定の上で重要な役割を果たすはずである。以上の考察の有効性を確かめるための事例として本論文で取り上げるのは映画『スターシップ・トゥルーパーズ』(バーホーベン監督、1997) である。本作品は未来のファシズム国家と昆虫をモチーフとした異星人との戦争を描く。公開時はファシズムを肯定する好戦的な映画として批判されたが、監督やスクリーンライターの意図はまったく逆であったことが明らかとなっている。本作品の内容を本論文の観点から分析すると、いくつかの特徴が、製作者側の意図するような推意を成り立たせる妨げになっていることがわかる。『スターシップ・トゥルーパーズ』はファシズムを肯定するという主張をしているのだろうか、ファシズムを否定するという主張をしているのだろうか、それを決めるのは誰(何)なのだろうか。
著者
近藤 光
出版者
千葉経済大学
雑誌
千葉経済論叢 The proceedings of Chiba Keizai University (ISSN:21876320)
巻号頁・発行日
no.64, pp.59-80, 2021-06

現在,業務用・家庭用を問わずビデオゲームにおいて一般的に利用されているCGを用いた3D表現はいかに普及していったのか。そして,技術革新がビデオゲームを巡る競争にどのような影響を与えたのか,ナムコ,ソニー,セガ,任天堂の企業行動に着目しながら明らかにすることが本稿の目的である。 本稿では,戦後から1970年代までのCG技術の発展とコンピュータゲームへの応用について整理し,その後,1980年代から始まるアーケードゲームにおける3D表現の展開を明らかにする。更に,そうしたアーケードゲームの展開を受けて,家庭用ゲームにおいて3D表現が導入されていく過程を三つの企業グループの活動から明らかにする。最後に,日本のゲーム産業におけるCG技術導入の特徴について言及する。
著者
香川 由紀子
出版者
名古屋大学国際言語センター
雑誌
名古屋大学日本語・日本文化論集 (ISSN:1348804X)
巻号頁・発行日
no.28, pp.97-111, 2021-03-31

本稿では2019年度に実施した、名古屋大学国際言語センター全学向け日本語プログラムの入門講義「日本文学」について、作品の選択と学習者の表現活動および学習者の反応について報告した。留学生向けの文学の授業では、日本語運用能力が高い学習者を、読解に留まらず周辺知識を得て作品を味わい楽しむことに導くことが望まれる。そのためには教師の解説のみでなく、学習者が参加する活動が必要である。「日本文学」の授業ではこれに向けて、文化比較やジェンダーの観点から話し合いができる作品を近代文学を含めて選択し、表現活動として短歌の現代語訳を行った。学習者のアンケートからは、テーマが明確で平易な日本語で書かれた作品が読みやすいとは限らず、難解でも内容に共感し表現を味わっていることがわかった。古文や近代短歌を現代語訳する活動に関心のある学習者もおり、オノマトペや役割語など通常の日本語の授業で産出までは扱わない表現を、学習者が実際に使ってみる場にもできることが確かめられた。
著者
渋谷 綾子
出版者
東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター
雑誌
東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信
巻号頁・発行日
no.91, pp.27-29, 2021-01-31

2020年10月12日、前近代日本史情報国際センターとの共催研究会報告。松尾大社所蔵史料の料紙におけるデンプン粒の分析を素材に、古文書料紙研究の現状を紹介。
著者
大塚 明子
出版者
文教大学
雑誌
人間科学研究 (ISSN:03882152)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.33-41, 2003-12

Recently the Japanese urban family after the late Meiji period has been illustrated, in terms of its motherchild relationship and the stress on family affection, as a type of Modern Family. Taking this view, I have tried in some previous papers to analyze Japanese Modern Family through one of the best-selling magazines "Shufu no Tomo (Housewives' Companion)", especially its husband-wife relationship. Is the Japanese modern conjugal love very much alike its source, the Western romantic love ideology, or not? In this paper, I focus on how the magazine in the pre-war period looked on the problem of divorce and show that its concept of love, closely related its nationalism, was very different from romantic love as well as what we think of it today.