著者
木村 義成 山本 啓雅 林田 純人 溝端 康光
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2021年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.144, 2021 (Released:2021-03-29)

研究発表の背景 令和元年度版の消防白書によると,全国における医療機関への平均搬送時間は35.0分(平成20年)から 39.5.分(平成30年)と10年間で4.5分増加しており,救急搬送の長時間化が指摘されている.また,患者の受入先医療機関が速やかに決定しない救急事案(救急搬送困難事案)が全国的に報告されている. 傷病者に対する救急搬送の時間フェーズは大きく分類すると,「傷病発生〜消防署による覚知」,「覚知〜救急車の現場到着」,「現場到着〜傷病者の医療機関への収容」の三段階となる.救急救命活動においては,傷病者に対して一定時間内に適切な初期処置を行わなければ救命率が下回ることが報告されており,救急搬送の時間フェーズの中では,特に救急覚知場所への到着,「覚知〜救急車の現場到着」までの時間短縮が重要となる. 高齢化社会が進展する中で,今後も救急需要は高まることが予想されており,救急施策において消防組織の改善努力では限界があり,救急車の適正な利用促進や夏季における熱中症の注意喚起など,搬送対象となる地域住民への啓発活動が推進されている.研究発表の目的 このような社会的な背景のもと,本研究発表では,現場到着からみた救急活動,不要不急な救急車の利用,熱中症と社会地区属性の3つの課題を例に,地理学がどのように救急医療の諸課題に貢献できるか紹介する. 本研究発表では,救急隊の活動において重要視される「出場〜現場到着」時間の観点から考案した「救急隊最近接地域」という空間分析単位と都市内部の居住者特性の空間的分布パターンや居住分化に関する分析から派生したジオデモグラフィックスと呼ばれる小地域における地区類型データを用いた分析を上記の3つの課題に適用する方法について解説する.救急隊最近接地域を用いた分析例 救急活動においては,救急隊配置場所から救急覚知場所(「出場~現場」)の現場到着時間の短縮が重要となる.したがって,発表者らは,各救急隊がそれぞれ最短時間で現場到着できる地域を「救急隊最近接地域」と定義し,カーナビゲーション・システムで利用される道路ネットワーク・データとGIS(地理情報システム)を用いることで,この独自に定義した地域を作成した(木村, 2020). 本研究発表では,大阪市を事例にした「救急隊最近接地域」の作成(図1)と,この独自に作成した空間分析単位を用いて,現場到着からみた救急活動,不要不急な救急車の利用に関して,それぞれの地域差について分析した例を示す.ジオデモグラフィックスを用いた分析例 本研究発表では,Experian Japan社のMosaic Japanというジオデモグラフィックス・データと大阪市消防局の救急搬送記録から判明した熱中症発生データから,熱中症が多発する地区類型を見出す分析例を紹介する. この分析例から,どのような地区特性の,どのような人を対象に,熱中症の注意喚起を促す広報活動を行うか,救急施策に対する地区類型データの利活用の可能性について本研究発表で触れる。参考文献木村義成 2020. 大阪市における消化出血患者の搬送特性からみた地域グループ.史林 103(1):215-241.
著者
川合 泰代
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.188-198, 2016-09-30 (Released:2016-10-11)
参考文献数
3

現在の日本の地理学は,近代以降の欧米思想の導入に基づき成り立っている.一方,それ以前の日本では,中国に源を発する思想が,日本の思想や文化の根幹を形成していた.それは,「道」の思想であり,陰陽五行の思想である.近世までの日本人の聖地信仰も,この思想に基づいていたと考えられる.本稿ではまず,「道」や陰陽五行の思想と,陰陽五行に基づく干支の意味を説明した.そして,干支を用いた時間と空間の概念を説明した.その後,近世江戸の富士講による富士信仰を,庚申という干支を用いて読み解いた.本稿は,近世までの日本人が生きていた時間・空間感覚の再考を提案するものである.
著者
高屋 康彦 廣瀬 孝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.82, no.5, pp.389-401, 2009-09-01 (Released:2011-08-25)
参考文献数
39
被引用文献数
2 1

花崗岩を用いた二つの溶解実験の結果から,溶解特性に及ぼす要因について考察した.実験Aでは,固/液比を0.25,0.5および1に設定し,破砕した岩石試料を3種類の粒径(粗粒:32~45 mm;中粒:8~16 mm;細粒:1~2 mm)で振るい分けたもの200 gを用いた.実験Bでは,粉末試料1.0 gまたは直方体のブロック試料3.54×3.54×20.0 mm3を蒸留水50.0 mlと反応させた.その結果,溶解特性は表面積および固/液比の影響を大きく受け,その度合いは花崗岩では表面積の方が,花崗閃緑岩では固/液比の方が大きいことがわかった.花崗岩類が他の岩石に比べて溶けにくいことは,間隙率が小さいことと岩石中のアルカリ成分量が少ないことに起因すると考えられる.実験開始直後から初期の溶解特性は,有色鉱物の溶解特性の影響を受けやすい.花崗岩は破砕(粉砕)することにより,Fe,KおよびMgが溶出しやすくなるが,それは黒雲母の縁部からの顕著な溶解によると思われる.このことは,花崗岩の溶解特性が表面積の影響を大きく受けることの一因となっている.
著者
吉田 容子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.69, no.4, pp.242-262, 1996-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
65
被引用文献数
5

本稿は,欧米において近年議論が活発になってきたフェミニズム地理学に触れるものである.フェミニズム地理学は,現実世界のあらゆる局面において生じる性差に起因した不平等的・抑圧的関係を疑問視し,このような関係がいかに社会空間に反映され,強化されていくのかを把握する学問である. 本稿では,1970年代中頃から現在までのフェミニごム地理学の展開過程をフェミニズム理論の流れと関連づけながら整理するとともに,今日の人文・社会科学全体で盛んに議論されているポストモダニズムやポストフォーディズムとの間で共有する論点についても,関連諸文献をもとにまとめた.また,フェミニズム地理学が抱える問題点にも言及した.
著者
桝田 一二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理 (ISSN:21851697)
巻号頁・発行日
vol.3, no.3, pp.397-401, 1940-07-01 (Released:2010-03-19)
参考文献数
5
著者
小長谷 有紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.34-42, 2007 (Released:2010-06-02)
参考文献数
17
被引用文献数
2

モンゴル牧畜システムは移動性が高いという特徴に加えて,多くのオスを維持し,多種の家畜を多角的に利用するという特徴を有しており,自然環境のみならず,社会環境にも適応的であった.それは単なる生存経済ではなく,軍事産業であり情報産業でもあった.20世紀になると社会主義的近代化のもとで脱軍事化すなわち畜産業化が進行した.市場経済へ移行してからは,牧畜に従事する人々すなわち遊牧民の間で地域格差と世帯格差が拡大している.今日,遊牧民たちは必ずしも自然環境だけではなく,むしろ社会環境に対して積極的に適応して移動している.
著者
吉川 虎雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.10, pp.691-702, 1984-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
32
被引用文献数
7 9

Landforms are shaped by tectonic movement and sculptured by denudational processes. Davis (1899) deduced landform development by denudational processes, postulating prolonged stillstand of a landmass following rapid uplift, but W. Penck (1924) emphasized that land forms were formed by tectonic and denudational processes proceeding concurrently at different rates. These two distinctive views of tectonics and denudation in geomorphology have been discussed many times, but actual conditions of these processes have rarely been assessed quantitatively. Schumm (1963) and Bloom (1978) estimated modern rates of uplift to be much greater than those of denudation, and supported to some extent the Davisian assumption of rapid uplift of a landmass, which allowed little denudational modification of the area during the period of uplift. Recent geomorphological study has achieved many excellent results concerning tectonic and denudational processes and their products, but landform development by concurrent tectonics and denudation has scarcely been investigated intensively. As a result of the author's estimate in Japan (Yoshikawa, 1974), modern rates of uplift are generally greater than those of denudation, but denudation rates are greater than or approximately equal to uplift rates in high mountains of Central Japan and on the Pacific slope of Southwest Japan; in these mountains both rates are usually of the order of 1mm/yr. These mountains have been rapidly uplifted and intensely denuded in the Quaternary. Landform development of these mountains, therefore, should be explained not by the Davisian scheme, but by the Penckian. When a landmass is uplifted at a constant rate, the area increases its relief with uplift, being sculptured by rivers. Denudation rates become greater and approach uplift rates. Ultimately both rates become equal, and steady-state landforms in dynamic equilibrium of uplift and denudation are accomplished, as far as the landmass is continuously uplifted at the constant rate (Plirano, 1972, 1976; Ohmori, 1978). Landform evolution by uplift and denudation, therefore, can be divided into the following three stages; (1) the developing stage that landforms approach steady state by concurrently proceeding uplift and denudation, (2) the culminating stage that steady-state landforms are maintained in dynamic equilibrium of uplift and denudation, and (3) the declining stage that landforms are reduced down to sea level by denudation when uplift ceases. Landform evolution passes through these three stages in different duration periods according to various rates of uplift and denudation as well as duration periods of uplift. Supported by the interpretation that erosion surfaces fragmentarily distributed in Japanese mountains are remnants of peneplains in previous cycles, the Davisian scheme of landform development has survived in Japan, where active uplift and intense denudation have proceeded concurrently in recent geologic time. It was, however, clarified in the upper drainage basin of the Waiapu River, northeastern North Island, New Zealand, that erosion surfaces in the hills, about 500 to 700m above sea level, were formed nearly at the present height probably by periglacial processes and fluvial transportation of debris in the last glacial age (Yoshikawa et at., in preparation). This suggests that there is a possibility that a considerable part of erosion surfaces in Japanese high mountains is also of the similar origin. Geomorphological study in tectonically active and intensely denuded regions, such as Japan, will produce invaluable information of landform evolution by concurrent tectonics and denudation. This will contribute to further development of geomorphology.
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100025, 2017 (Released:2017-05-03)

軍用気象学への認識の高まりを受け、軍用気象会が昭和5年に設立されたが、陸軍の砲工・航空の両学校では必要に応じて(陸士卒)を中央気象台に短期派遣し、気象に関する講習を受講させていた。昭和6年からは、陸軍航空本部に教室を整備し、近接する中央気象台に依嘱して気象勤務要員の養成が行われた。第1・2回(昭和7・8年)各8名(大尉・中尉)が修学し、戦中期の陸軍気象部の中核を担う人材が養成された。 昭和10年8月、陸軍砲工学校内に附設の気象部が設立され、軍用気象学をはじめ、軍用気象勤務、気象観測、気象部隊の編成・装備・運用等の研究、軍用気象器材の研究・検定、兵要気象の調査、気象統計、兵要誌の編纂、気象要員の養成が主な業務であった。武官の職員には、武や古林などの気象勤務要員の教育を受けた将校も携わった。外部から気象学、物理学、数学関係の権威者を専任教官として講師に任命した。第1期生(昭和11年)は、荻洲博之、田村高、夕部恒雄、泉清水、中川勇の5名が入学し、修了後は気象隊、関東軍司令部、陸軍気象部、南方軍気象部等に派遣された。第2期生(昭和12年)も久徳通夫高他5名、第3期(昭和13年)は蕃建弘他4名の大尉や中尉が連隊等から派遣されている。 昭和13年4月、陸軍気象部令が公布され、陸軍砲工学校気象部が廃止されて陸軍気象部が創設された。「兵要気象に関する研究、調査、統計其の他の気象勤務を掌り且気象器材の研究及試験並に航空兵器に関する気象器材の審査を行ふ」と定められ、「各兵科(憲兵科を除く)将校以下の学生に気象勤務に必要なる学術を教育を行ふ」とされ、「必要に応じ陸軍気象部の出張所を配置する」とされた。組織は、部長以下、総務課(研究班、統計班、検定班を含む)、第一課(観測班、予報班、通信班)、第二課(学生班、技術員班、教材班)で構成され、気象観測所、飛行班も設けられた。ここでも、陸軍砲工学校気象部の出身者が班長を務め、嘱託として中央気象台長の岡田武松をはじめ、気象技師、著名な気象学者などの名前も見られ、中央気象台の技師が技術将校として勤務した。戦時下で企画院は気象協議会を設立し、陸軍・海軍と中央気象台・外地気象台の緊密な連繋、さらには合同勤務が図られた。昭和16年7月には、陸軍中央気象部が臨時編成され、陸軍気象部長が陸軍中央気象部を兼務することになり、昭和19年5月には第三課(気象器材の検定等)が設けられた。さらに、気象教育を行う部署を分離して陸軍気象部の下に陸軍気象教育部を独立させ、福生飛行場に配置した。終戦時には、総務課200名、第一課150名、第二課1,800名、第三課200名が勤務していた。 陸軍気象部では、例えば昭和15年には甲種学生20名、乙種学生80名、甲種幹部候補生92名、乙種幹部候補生67名に対して11カ月から5か月の期間で延べ259名の気象将校の養成が計画・実施されていた。また、中等学校4年終了以上の学力を有する者を採用し、昭和14年からの2年間だけでも675名もの気象技術要員を4か月で養成する計画を立て、外地の気象隊や関東軍気象部に派遣していた。戦地拡大に伴う気象部隊の兵員補充、陸軍中央気象部での気象教育、本土気象業務の維持のため、鈴鹿に第一気象連隊が創設された。昭和19年に入るとさらに気象部隊の増強が急務となり、第二課を改編して前述した陸軍気象教育部を新設し、新たに航空学生、船舶学生、少年飛行兵の教育を開始し、気象技術要員の教育も継続された。養成された気象将校や気象技術要員は、支那に展開した気象部(後に野戦気象隊、さらに気象隊に改称)をはじめ、外地に展開した気象部隊に派遣された。 第一課では、兵要気象、気象器材の研究・考案・設計、試作・試験が行われ、気象観測所の開設や気象部隊の移動にも十分に耐え得る改良が求められた。第二課では、高層気流・ラジオゾンデ観測と改良、ガス気象観測、台湾での熱地気象観測などが実施され、中央気象台や海軍の水路部などの測器との温度器差も測定された。さらに、気象勤務教程や気象部隊戦闘規範を作成して気象勤務が詳細に定められ、現地で実施されていた。陸軍気象部では作戦用の膨大な現地気象資料、陸軍気象部月報、現地の気象部隊でも各種の気象資料や気象月報が作成されていた。 終戦により膨大な陸軍気象部や気象部隊の書類・資料は機密保持の目的で大部分が焼却された。連合軍司令部は陸軍気象部残務整理委員会を立ち上げ、陸軍気象機関の指揮系統・編成、気象部隊の分担業務、気象器材の製作会社、陸軍気象部の研究調査内容、陸軍と海軍における気象勤務の協力状況、中央気象台との関係、さらには予報の種類、観測・予報技術など120頁にわたる報告書を作成させた。なお、終戦時に内地・外地に展開していた気象要員の総数は2万7千名にも達していた。
著者
松宮 邑子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.378-403, 2019 (Released:2019-11-27)
参考文献数
24

ウランバートルでは,体制移行後の人口増加を背景にゲル地区が拡大した.本稿では,ゲル地区の居住環境を改善すべく立案された再開発事業を焦点に,それが遅々として進まない実態と,計画に翻弄される人々の姿を描き出した.ゲル地区はインフラ設備の欠如によって開発の必要性が叫ばれ,アパート化による居住環境の改善が図られている.しかし再開発事業は,実現への具体的な道筋が不明確であるがゆえに期待通りに進展していない.そればかりかゲル地区で従来から実践されてきた居住者自身の手による居住環境の改善を阻害している.一部のアパートは竣工し,入居者は生活の利便性が向上したと評価する半面,ゲル地区ならではの住まい方が継続できない困難も指摘する.ゲル地区のアパート地区への置換や短期間でのインフラ整備が現実的でない中,居住者が元来発揮してきた内発的な居住環境改善の実践を正当に評価し,下支えすることで活用できるような方策の模索が望まれる.
著者
寺床 幸雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.89, no.5, pp.211-233, 2016-09-01 (Released:2019-10-05)
参考文献数
41
被引用文献数
3 1

本研究では,長崎県長与町の果樹栽培地域において,農家間の社会関係および地域外アクターとの関係性が農業の維持に果たす役割を,社会関係資本の視点から明らかにした.社会関係資本については,「結束型/橋渡し型」および「構造的/認知的」の両区分に基づいて検討した.研究対象地域では,柑橘研究同志会の活動のように戦後早くから地域的協働が進んでいた.1990年代後半以降は,農業存続への危機感から新たな協働が模索されている.地域内の役割などの構造的・結束型社会関係資本は,農業に関連する地域的協働を可能にしてきた.協力の規範や信頼といった認知的・結束型社会関係資本は,変化を伴いつつも高い水準で維持されている.行政との長期的な信頼の構築は橋渡し型社会関係資本として機能し,現在でも「ながさき型集落営農」などの新たな取組みを支えている.一方で,特定農家への役割の集中など,農業の地域的協働には新たな問題も生じていた.
著者
崎田 誠志郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.13, no.2, pp.439-451, 2018 (Released:2018-10-04)
参考文献数
24
被引用文献数
2

ギリシャの水産物流通をめぐっては,漁業経営の小規模性や,長大な海岸線と多くの島嶼から成る国土の地理的特徴により,流通システムの断片化やインフラ整備の遅れが生じている.本稿では,ギリシャにおける水産物流通の現状を把握するため,各地の水産物が集積する首都アテネの水産物市場に着目し,流通水産物の内容や鮮魚店の経営形態,水産物の流通経路などについて報告する.調査の結果,アテネ市内において計42科60種の水産物の取扱いを確認した.産地は国内の広範囲にわたっており,海外からの輸入水産物も多くみられた.水産物は大半がアテネ近郊のケラツィニ港を経由していたが,鮮魚店によっては個別に流通ルートを有していた.市場における取扱水産物の傾向と多様性には,生産現場における漁獲魚種・漁法の多様性だけでなく,産地の広がり,鮮魚店の経営戦略,国内経済の動向,ギリシャ社会の文化・宗教的側面などが反映されていた.
著者
今里 悟之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.72, no.5, pp.310-334, 1999-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
69

本研究では,九州玄界灘の離島,佐賀県鎮西町馬渡島の空間の意味を社会的コンテクストと関連させて解釈し,主体による立場の差異と時系列変化を考慮した動態的な記号論を展開することを試みた.理論的基礎として社会記号論的アプローチを採用し,村落空間を物的記号とみなした上で,その記号の内容実質を空間に関するイデオロギーやイメージと措定した.解釈したテクストは村落空間に関する住民と外部者の言説であり,そのコンテクストは村落内部の歴史的な社会過程および日常生活である.はじめに,馬渡島住民と外部者の空間認識を島スケールと村スケールに分け,各空間に関する言説を解釈し,空間の意味を抽出した.次に,馬渡島の江戸末期から現在までの社会過程を四つの時期に分けて記述し,言説との相関を分析した.最後に,馬渡島で得られた知見と社会記号論の理論的枠組を照合した.従来,理論が先行していた社会記号論の枠組は,馬渡島で得られた知見から村落空間研究におけるその妥当性・有効性がほぼ検証された.
著者
仁科 淳司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.5, pp.329-348, 1984-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
31
被引用文献数
2 2

冬季季節風下における中部日本周辺の雲分布について,地形が原因で生じる気象票素分布の特徴によって受ける影響(地形効果)を考察した.その結果,地形効果は, 800~850mbの風がほぼ西から吹く場合と,ほぼ北西から吹く場合の,二つに集約して説明される.前者の場合,地形性の高山高気圧が閉曲線に囲まれた形で解析されず,日本海側の帯状雲は福井平野から金沢平野にかけて分布し,太平洋側の雲バンドは冷気の吹き出しによって発生する.後者の場合,中部山岳の風上に高山高気圧が閉曲線に囲まれた形で発生する.敦賀には低気圧が解析され,この低気圧の位置に日本海の帯状雲がかかる.太平洋側でも,中部山岳の風下に四日市低気圧や三宅島低気圧が発生し,これらを伴う風の不連続線に沿って雲バンドが発生する.
著者
荒木 一視
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.239-267, 2014 (Released:2015-03-31)
参考文献数
228
被引用文献数
2 2

明治期以降の日本の食料供給を,穀物の海外依存に着目して検討するとともに,それに対する地理学研究を振り返った.食料の海外依存は最近始まったことではなく,明治中期以来,第二次大戦にかけても相当量を海外に依存していた.それに応じ1940年代まで,食料は地理学研究の1つの主要な対象で,農業生産だけではなく多くの食料需給についての論考が展開されていた.戦時期の議論には,問題のある展開も認められるが,食料供給に関する高い関心が存在していたことは事実である.しかし,その後の地理学においてこれらの成果が顧みられることは無く,今日に至るまで食料への関心は希薄で,研究の重心は国内の農業に収束していった.明治期以降もっとも海外への依存を高めている今日の食料需給を鑑みるに,当時の状況と地理学研究を振り返ることは,有効な含意を持つと考える.
著者
瀬戸 真之 西 克幸 石田 武 田村 俊和
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.88, 2007 (Released:2007-04-29)

I.はじめに 郡山・猪苗代両盆地の分水界に位置する御霊櫃峠(海抜約900m)には一種の「階状土」が発達し,少なくともその一部では現在も礫が移動していることが知られている(鈴木ほか,1985).田村ほか(2004)は,この微地形を「植被階状礫縞」と呼び,その形態的特徴を調査した.この植被階状礫縞は,基岩の岩質,節理の方向と斜面の向き,強い西風とそれによる高木の欠如,および少ない積雪等が要因となって形成され,維持されていると推測され,植被の部分的欠如には人為の関与も疑われる.その後,隣接する強風砂礫地で礫の移動状況や各種気候要素の観測を行っている(瀬戸ほか,2005, 2006; Seto et al. 2006). 今回,この植被階状礫縞を掘削してその断面を観察し,成因の考察に有用なデータが得られたので報告する.なお,本発表においても,植被階状礫縞という名称を用いる.II.植被階状礫縞の概要 植被階状礫縞が発達しているのは,海抜925mのピークの南側(長さ約200m),西側(40m),北側(30m),北東側(40m)にかけての,傾斜10~20度(南側)および10~20度(南側以外)の,やや凸型の縦・横断面形をもつ斜面である.基岩は中新統大久保層(北村ほか,1965)の緑色凝灰質砂岩で,平行な細かい節理が発達し,薄く剥がれやすい.年間を通して強い西風が卓越する.積雪はかなり少ない模様である.その強風のせいもあってか,稜線部の植生は高木を欠き,高さ数10cmのツツジ群落,あるいはササ草原(ピークの北側斜面のみ)となっている. 植被階状礫縞は,扁平な角礫が露出した幅数10cm~2mほどの「上面」(tread)と,ツツジ(北側斜面ではササ)に覆われた比高・幅とも30cm~1.5m程度の「前面」(scarp)で構成される.この「上面」と「前面」の列は,ピークの南側から西側さらに北側の斜面ではほぼ東西にのび,しばしば分岐し,合流して,西方に向かうと階状より縞状の形態が明瞭になる. III.植被階状礫縞の断面 北側斜面に位置する植被階状礫縞で,階段を横断する方向に約150cmの長さの溝を掘削して観察した(図). 植被階状礫縞の「上面」では,地表に径15cm前後(最大径20cm)の扁平礫がオープンワークに堆積し,その下位には小角礫を大量に含む暗褐色腐植質砂壌土~壌土がある.この層の厚さは20~40cmで,基底面は斜面の一般的傾斜と調和的に10~20度ほど傾き,「前面」の地表下ではツツジの根やササの地下茎が密である.最下位には薄く剥がれやすい基岩が出現する. IV.植被階状礫縞の形成プロセス 断面の観察から,階段状の形態を呈するのは地表面だけで,堆積物直下の基岩は階段状を呈さず,「上面」の部分でも「前面」の部分でもほぼ一様の傾斜を示すことが明らかになった.また,「前面」の部分にはツツジ群落が付き,その根やササの地下茎が堆積物の中にまで及んでいる.さらに,地表面の礫がツツジ群落中へ入り込んでいる様子も認められる. これらの特徴から,下記のプロセスが継起したことが窺われる:(1)高木がなくなり裸地となる;(2)植生が斜面最大傾斜方向と直行する向きに帯状に発達する;(3)礫が最大傾斜方向へ向かって斜面上を移動し,帯状植生によって堰き止められる;(4)礫が裸地と帯状植生の境界部分に堆積し,最終的には細粒物質も堰き止めるようになる;(5)裸地と帯状植生の境界部分で堆積物の層厚が厚くなる この一連のプロセスによって礫地は徐々に水平になり,帯状植生の部分は基岩とほぼ同じ傾斜を維持して,最終的には階段状の微地形を形成したと考えられる.植被のない方向には傾斜に沿って礫が連続的に移動し,縞状になったのであろう.V.今後の課題 植被階状礫縞の断面から,その形成プロセスの一部を推定した.しかし,高木が失われた原因や,低木・草本植生が帯状に発達したプロセスは,今のところ明らかではない.帯状植生については近くの斜面で裸地上の礫が帯状に黒っぽく変色し,この部分に発芽が認められる箇所が存在する.この黒色に変色した部分は何らかの原因で地表・地中の水分条件が周囲の斜面とは異なると推定される.今後は,強風などの気象条件とも関連させて帯状植生の成因を探ることが,植被階状礫縞の形成プロセスを考える上で重要になると思われる.
著者
大庭 正八
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.67, no.12, pp.833-857, 1994-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
52
被引用文献数
1 1

1886年から1889年にかけての東海道鉄道(現JR東海道本線)建設のとき,静岡県内の宿場町や農漁村では鉄道反対運動があったと伝えられるが,それは鉄道忌避伝説と称すべきもので,県内ではむしろ鉄道線路と停車場の誘致運動の方が盛んであった.鉄道に対する真の運動と称すべきものは,農業用排水,地域交通路の確保,治水,用地買収等の関係から提起された工事改善要求運動であった. 東海道鉄道は日本の東西を貫く幹線として建設されたもので,その線路は,1890年第1回帝国議会召集までの期間内に,限られた予算内で完成させることが求められた.したがって線路の選定は,いちいち住民の忌避iや誘致について配慮することはなく,地形的に建設しやすく,あるいは勾配が緩やかで列車運転に適したルートが選定された.住民の反対のために線路が曲げられるようなことはほとんどなかったと考えてよい.しかし,停車場は,誘致運動のあった旧城下町・宿場町・港町や地の利を得た場所に多く設置された.
著者
久谷 明子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.92, no.5, pp.269-282, 2019-09-01 (Released:2022-09-28)
参考文献数
36
被引用文献数
4

本稿では,宝塚市子ども委員会を事例として,子どもの視点を活かしたまちづくりの観点から,子どもの意識する場所の拡がりを検証した.まちづくりに関する意見や提案の機会を得た子ども委員たちが,提案に至る学びのプロセスの中で,自分たちのまちとして意識する場所を拡大させたことを明らかにした.子どもが意識するものには,場所的な拡がりだけではなく,時間的な拡がりもある.現実の社会の中での体験的な活動を通して,子どもたちは自分たちの暮らす地域から,視野をより広げる力を培ったことが明らかになった.

5 0 0 0 OA 書評等

出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.72, no.10, pp.707-720, 1999-10-01 (Released:2008-12-25)
著者
鳴海 邦匡
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.223, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 近年,里山のような身近な自然環境が注目され,保全への関心も高まっている.こうした自然環境の多くは,ここ100年程の里山の植生景観の変遷にみられるように,大きく変動するものであった。そのことは,保全をすすめていくうえで,いかにして変化する景観を評価するかが重要となることを示している。<BR> こうした観点から,報告者は神社林の森林景観の変動について先に検討した(鳴海・小林,2006).西日本の鎮守の森の多くは,現在,常緑広葉樹林として構成されている.それは多くの人々にとって昔から変わらないと認識される植生景観であった.しかし,先の検討を通じて,こうした森林景観のある部分は,近代以降に形成された比較的新しいものであることが明らかとなった.かつては矮小なマツ,恐らくアカマツの卓越する景観であったと考えられる.<BR> この議論をすすめていく過程で,近代における地域環境史資料としての正式2万分1地形図を基礎にしながら,近世の地図の有効性に注目した.そこで利用した近世の地図は,幕府の検地に際して作られたものであり,地目を表すうえで植生を描き分ける必要があった.近代以前の自然環境をみていくうえで,近世の地図は重要な資料であるが,十分な資料批判が求められる.<BR> 今回の報告では陵墓の景観変化に注目した.それは,陵墓の植生景観も,神社林と同様,現在にかけて大きく変動していたからである.その際,山陵図と呼ばれる資料に注目し議論を進めている.<BR><BR>2.山陵図について<BR> 山陵図は,近世から近代にかけて,陵墓の探索や修繕事業にともない作製された図を指している.また,陵墓地の比定は社会的にも当時の大きな関心事であったことから,山陵図に類した資料も存在する。ここで山陵図に注目したのは,この図が現地調査に基づく陵墓の現況の把握や,修繕結果の報告を目的に作られたものであり,地域環境史資料としての活用に堪えうると判断されるからである.また,関連する文献資料が多いのも理由である.<BR> こうした事業は,主として幕府(近代以降は明治政府)によって元禄以降,享保,文化,安政,文久,慶応,明治と度々実施されることとなった.そして,その度毎に山陵図が作製されている.この時期以降,陵墓は保護される対象へと次第に変化していく.実際,当時の陵墓の多くは年貢地や小物成地として登録されていたように,周辺の農民らが林産資源の採集地や耕作地として利用する場であった.そうした利用状況を反映して,山陵図に描かれた当時の墳墓の景観,特に植生景観は現在のものと比べて著しく異なっていた.以下ではその一例を挙げてみたい.<BR><BR>3.山陵図に描かれた植生景観とその変化<BR> 元禄期(1690年代),奈良奉行が京都所司代の指揮のもと,大和国内の陵墓調査を実施した.当時の状況を描く字王墓山古墳(景行天皇陵,山邊道上陵)の山陵図をみてみると,この時に村々から提出された記録(耕作地として樹木のない年貢畑であったと記す)の内容と一致する.他の陵墓の多くも,こうした植生被覆の乏しい景観となっていた.<BR> こうした陵墓の多くは近世を通じて次第に森林化していくこととなる.文久期(1860年代)の修陵事業に際して描かれた景行帝の山陵図をみると,灌木や竹の生い茂るなかマツ形の樹木が卓越しつつある状況が描かれており,元禄期と異なる景観を示し注目される.<BR><BR>4.まとめと今後の課題<BR> これまでみてきたように,山陵図は近世から近代にかけての植生景観の変遷を知る有効な資料であるといえる.ここまでみてきた近世の陵墓の景観は,明治に入るとさらに大きく変化していくこととなる.先にみた景行帝陵について正式2万分1地形図(1908(明治41)年測図)をみると,針葉樹の植生記号のみで示されているのが確認される.この後,帝室林野局により作製された陵墓地形図(1926(大正15)年測量)では,主に「松」樹の記号で覆われていることが確認され,この針葉樹がマツであることを示している.<BR> こうした近代以降の景観変化は,計画的な植樹や伐採を経た結果であった.先にみた神社林のように,現在,常緑広葉樹の卓越する陵墓の植生景観は,比較的新しいものであるといえ,身近な自然環境の変動をしる良い事例であると考えられる.