著者
渡辺 真人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.9, no.1, pp.4-12, 2014-03-31 (Released:2014-04-23)
参考文献数
16
被引用文献数
6 7

日本の各地にジオパークの活動が広まった経緯について解説し,ジオパーク活動のこれまでの成果と問題点について解説した.日本のジオパークでは,地形・地質遺産の保全に関する意識の向上や,地元の子供たちへのジオサイトを利用した野外教育の振興,教育旅行を含むジオツーリズムが徐々に盛んになるなどの成果が出始めている.一方で,ジオパークの主要なコンテンツである地球科学的なストーリーの構築に関する問題など,さまざまな課題も山積している.それらの課題を解決していくためには,日本ジオパークネットワークを通じたジオパーク間の交流,日本ジオパーク委員会の再認定審査などを通じて,各ジオパークが自らの問題に気付き,自己修正していくことが重要である.
著者
榊原 保志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.287-296, 1993-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
6

The air temperature distributions along the Hibiya Line were observed 86 times by the train traverse observation method with a thermister thermometer from 26 April 1987 to 1 January 1991. Two observation methods were used. One was to observe air temperatures every 10 seconds to determine the temperature distribution along the subway line. The other was to read the air temperature when the train reached the platform, and use that value to represent the air temperature on the platform. The results obtained are summarized as follows; (1) Air temperatures on the platforms are higher than those in tunnels. (2) Air temperatures at Hibiya station and Ginza station are higher than at other stations in seasons when air-conditioning is not required. Air temperatures on air-conditioned platforms and tunnels are relatively low in the season when air-conditioning is required. (3) The air temperatures around the subway platforms have smaller diurnal variation than outside air temperatures. (4) Air temperatures rise in proportion to the outside air temperatures, with small gradients. (5) The gradients of regression of air temperatures on the platform to outside air temperatures range from 0.35 to 0.55. (6) In most stations the equilibrium temperature T*, at which air temperatures on platforms are equal to the outside air temperatures, is higher than the warmest monthly average normal air temperature (26.7°C) at Otemachi, Tokyo.
著者
苅谷 愛彦 松四 雄騎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
巻号頁・発行日
pp.000156, 2018 (Released:2018-06-27)
被引用文献数
34

安倍川上流部にある静岡県静岡市有東木地区(東沢流域)では約6000年前に泥流が発生した.その後,長い時間差をおかず身延山地の主稜線付近を発生域とする岩石なだれ(深層崩壊)が起こった.約5500年前には泥流堆積物や岩石なだれ堆積物を覆うように,流域の広範囲に土石流が発生した.以上のマスムーブメントの誘因は不明であるが,駿河-南海トラフ起源の海溝型巨大地震が関係した可能性がある.
著者
遠城 明雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.79, 2020 (Released:2020-03-30)

1. はじめ19世紀後半以降の近代世界の到来およびそれとの接合という経験において、近代以前に起源を有する地域の祭礼はどのような変化を遂げてきたのであろうか。この問いを人々の意識や行動に寄り添って考えてみる、というのが本報告の試みである。博多祇園山笠は、福岡市の都心に位置する博多地区の櫛田神社で毎年7月1日から15日まで行われる奉納行事である。同地区には近世に起源を有する町の集合体である「流(ながれ)」という地縁的な自治組織があり、この組織が山笠を建設し運営する。七つの流があり、それぞれの地区内で男性が「山」(車輪がついていない山車)を舁き廻って地域の安寧や悪疫の退散を祈願するが、最終日に行われる「追山」は七つの山が同じ順路を移動する行事であるため、タイムを競う雰囲気が高まる。すでに明治期の新聞にも詳しいタイムが報じられており、この祭礼が神事であると同時にレース的な特徴を有することが、参加者と見物人の両者を熱狂させるひとつの要因になっていると思われる。 柳田國男(1942)によれば、「見物と称する群の発生」による祭の変化は明治以前から始まっていた。博多祇園山笠の場合は、近世期から見物人としてのみならず、参加者(「加勢人」)としても、周辺の村人たちが多数博多に足を運び、都市の文化に触れ、それに実際に関与しており、時に祭りの進行を妨げる諍いを起こす場合もあった。山笠行事は、都市内部の地縁組織の想像的な共同性を強化するにとどまらず、都市と農村の人的な接触を生み出すことで、両者の差異を際立たせると同時に、その相互依存的関係を実感させる場になっていたと思われる。 2. 祭礼をめぐる行政と地域社会明治以降、山笠行事をめぐって行政・警察と地域住民の間に激しい対立が幾度もあった。その裸体と「蛮風」、飲酒、時間と資金の浪費、交通への妨げといった理由から、この行事は近代という時代にそぐわないものであるというのが前者の基本認識であり、さらに祭りを通じて醸成される地域の連帯感や共同性の感覚が、市・県の行政執行の妨げになること、また行政・警察への日常的不満が非日常の解放感のなかで、暴力を伴って爆発しかねないことなども懸念されていた。こうした対立は1920年代も続くが、市中心部の人口減少や経済不況などにより山笠行事が衰退すると、福岡市は1937年、観光振興や国策との関連などの理由で、山笠行事に補助金を支給するようになった。地域内外の状況の変化が、山笠を市公認の「伝統行事」に変えていったと言える。 3. 1910年の福岡市と博多祇園山笠 本報告では特に1910年という年に着目してみたい。この年は、その後の福岡市の発展にとって、ひとつの転機になったという評価がある。九州沖縄八県聯合共進会の開催を契機として、市の中心部を東西につなぐ新たな道路が開鑿され、そこに市内電車が敷設・運行されるなど、福岡・博多の空間構造は大きく変容したのである。福岡市はこの社会基盤整備を土台として、近代都市への離陸を果たしたと言えるかもしれない。さて、この時に山笠行事の廃止あるいは継続をめぐって、地域有力者らの意見が地元新聞に掲載されている。その多くは山笠の廃止や行事内容の変更を主張するものであり、こうした有力者らの見解の背景には、地域住民の山笠に対する意識の変化も感じられる。近代性を象徴する諸施設が目の前に具現化されることを通して、人々の場所に対する感性にも揺らぎが生じていたのかもしれない。ただし、地域における話し合いの結果、最終的にこの年の山笠行事は変則的な形ではあったが実施され、その後も継続されることになった。そして、それを可能にした論理は、近代性に対する民衆なりの対抗でもあったと思われる。このように1910年は福岡市、そして山笠行事の過去と現在を考える上でも、興味深い年であると考えられる。本報告は多くの限界を抱えているが、これらの新聞記事を読むことで、最初に掲げた課題に接近してみたい。
著者
林 紀代美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.130-151, 2019 (Released:2019-04-13)
参考文献数
26

本研究は,岐阜県飛騨地域において,ブリ・サケの消費動向と,年末の伝統的風習「年取り」で用いられる年取魚としてのブリに関する人々の消費実態やそれへの認識について明らかにする.アンケート調査によると,日常の食事では,ブリよりもサケを食べる頻度が高い人が多い.しかし,ブリの摂食頻度は20年程前に比べても維持している人が多い.産地に対する人々の関心,認知も高い.年取魚としてのブリ消費の習慣を多くの人々が知っていて,かつそれを実行していた.多くの人が年末にブリを食べることが地域の食文化として重要と考え,年取魚ブリは日本海産であることを望み,伝統的形態からの変更(減塩での製造や切り身での販売)があっても「年取り」に用いる品として妥当と考えていた.
著者
伊藤 修一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.10, pp.585-598, 2001-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
33
被引用文献数
2 5

本稿では,千葉ニュータウンの戸建住宅に転入した世帯の,夫婦の居住地選択への関わり方の解明を試みた.対象世帯の多くは,「夫が外で働き,妻が家庭で家事や育児」を行う,典型的な郊外居住の核家族世帯である.これらの世帯は,住宅取得が困難な1990年代前後に転居を決定し,住宅の質や価格の面で公的分譲主を信頼していた.用いた住宅情報は,公的物件の情報が得やすい媒体に偏り,公的物件供給の地域的な偏りも住宅探索範囲を限定している.また,夫婦それぞれの居住地選択の基準は性別役割分業に影響を受けており,転居後も継続就業する妻のいる世帯では,妻の就業地の近くに候補地を設定するなど,住宅探索範囲が就業状況によって異なる.ただし,現住地の選択には抽選が制約となっており,選択結果に対する不満は予算の都合により生じている場合が多い.
著者
島野 翔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.219, 2008 (Released:2008-07-19)

1.はしがき 地理学では古くから、歴史的・文化的に価値のある景観に関する研究が行われてきた。しかし近年、景観に関する諸問題が生じているのは、むしろ歴史的・文化的な景観を持たない一般の地域においてである。この一般の地域、特に都市の市街地の景観形成に関する助言こそが、景観を研究対象とする学問分野に求められている。建築計画学の分野では、部分的な街路形態の特徴に注目し、それを一般の地域における景観形成の拠り所とする研究が増加している。街路には、かつての地形的、土木技術的な制約による屈曲や勾配、狭まりが視覚的に認識できる状態で残されており、建築物の更新頻度が高いわが国では、こうした街路が地域の歴史を語る際の手がかりとなる。景観を「目に映ずる同様の特徴を有する地表の一部」(山口、2007)と定義し、目視で各地の景観を分析してきた地理学においても、街路形態に視覚で認識可能な資源を見出すことは、地理学の手法を景観形成に役立てるうえで意義があると考えられる。そこで、本論では「Y字路角地」という、一般の地域に普遍的に見られる街路形態の景観構成を調査・集計し、計量分析を用いて類型化を行い、一般の地域における景観形成の資源としていかに活用することが可能であるか、そのモデルを掲示することを目的とする。 2.Y字路角地とは 都市内の交差点は、交通流動や土地利用の合理性が志向されるため、できるだけ直角に近い角度で交わり、角地が矩形となった十字路、T字路を形成している場合が多い。しかし、諸事情により鋭角で交差するものもあり、(1)土地利用や建築物に形態的な制約がかかり、特徴的な景観が現れる、(2)角地に対面する道路から眺めたとき、角地の中央が強調され印象的なアイ・ストップとなるといった特徴を有している。本論では鋭角の角地のうち、交差角度が45°以下の交差点の角地を「Y字路角地」と定義し、景観観察を行った。 3.東京23区におけるY字路角地の分布 東京23区内のY字路角地(合計5875箇所)の位置を電子地図上にプロットし、カーネル密度推計法を用いて等値線を描いた。その結果、Y字路角地は1933年~1945年に行われた耕地整理以前とそれ以後の道路が混在し、かつ両者の方向が異なっている地域に多く分布していることが分かった。本論ではそのうち、JR池袋駅から1kmほど北西に位置する地域でY字路角地の景観観察を行った。 4.景観観察の手法とその結果 建築計画学で使われている「表層」の概念を援用し、調査地域のY字路角地163箇所に対し、対面道路から見える範囲を観察した。観察項目は(1)交差角度、(2)隅切り、(3)接道部と建築物の距離、(4)接道部の見通し、(5)土地利用、(6)建築物の階層、(7)配置物である。その結果、(2)、(3)、(4)は交差角度の影響を強く受けていることが判明した。 5.Y字路角地の景観構成の類型化 景観観察で得られたY字路角地163箇所における、34種類の変数を用いて数量化III類分析とクラスター分析を施し、Y字路角地の景観構成を類型化した結果、「(1)残余地のある低層建築型」、「(2)幹線道路型」、「(3)植栽・駐車スペース型」、「(4)残余地のない低中層建築型」、「(5)非建蔽地・公有地型」の5つの類型を得ることができた。 これらの類型は、(2)以外は分散して立地している。すなわちY字路角地の景観は、経済原理よりもその土地固有の諸事情によって決定されている可能性が高いことが判明した。その他、景観形成の資源として、それぞれの類型のY字路角地がいかなる価値を持ちうるかを考察した。
著者
シュレーガ ベンジャミン
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100139, 2016 (Released:2016-11-09)

1 初めに 日本の養鶏産業は、昭和時代から徐々に産業型に変動してきた。今日、インテグレータが中心となり現在の養鶏業界を大きく形作っている。本発表では、日本の養鶏業界の展開における、鶏の飼育方法と鶏肉の食文化の変容過程、および生産と消費の繋がりについて分析する。本発表では特にcommodity chain(コモディティチェーン)の移り変わりに着目し議論を進める。2 鶏肉食の展開日本の食文化において、卵は鶏肉に先駆けて一般的な食卓に普及した。昭和初期、カツやケーキなどの洋食が増えてきた流れの中で、卵ブームがあった。国内の養鶏は副業としてなされることが多かったことから、小規模養鶏は自給のために行われ、販売されるのは過剰分の卵と鶏肉が主であった。増加する卵の需要に対応するように、中国から輸入を行うようになった。 その輸出入の差に対して、日本政府が養鶏業界の支援に乗り出し、この戦略により5件の養鶏試験場が建立され、養鶏農家への補助金のシステムが創立された。北村(1987)によると、1921年から1935年にかかけて、養鶏農家一戸あたりの平均羽数は8.7羽から18.2羽へ増加し、それに伴い、全国の養鶏羽数は2,773万羽から5,170万羽に増加した。しかし生産の大規模化が進むにつれ、飼料や流通ルートの整備といった問題点も多数現れてきた。 養鶏業界の日比野(1941)らが提案したように、第二次世界大戦中において、「満州新養鶏法」という大規模の飼育方法が目指された。ただ、この計画は満州産の飼料に依存したことにより様々な面において失敗した。大戦直後は、自給率を保護するために「草鶏」という飼育方法が広まった。輸入飼料への依存の脱却のために多くの農家が飼料と鶏、両方の管理を行った一方で、米国国内における飼料の生産過剰問題があり、結局、日本における米国の飼料は輸入は続けられた。輸入飼料の流通は大規模農業企業を通して行われたため、そのような大規模企業の国内の養鶏産業における役割の拡大につながった。 飼料流通の整備とともに、養鶏の産地の移動も行われた。長坂(1993)が論じたように、戦後は都市周辺におけるブロイラー産業が増加したが、70年代以降は遠隔地域に移動した。後藤(2013)によると、遠隔地域の中でも、インテグレータの指導のもと鹿児島県と宮崎県が日本のブロイラーの大産地として形作られた。冷蔵方法の整備も進み、南九州から東京の中央市場までの流通が進んだ。 ブロイラーの生産が増加する一方で、消費需要の伸び悩みが業界の課題となった。三菱株式会社がこの問題を把握し、米国のケンタッキーフライドチキン本社と結びつきを深めたことで日本ケンタッキー社が設立された。日本ケンタッキーは宣伝広告を通して消費者にブロイラーの魅力を伝えた。さらに、カーネルサンダースとクリスマスのキャンペーンが大ヒットとなった。文化および生産においても日本ケンタッキーが鶏肉の消費において果たす役割は重要なものであった。Dixon(2002)がコモディティチェーンアプローチを用いて評論したように、小売業を通して生産と消費の再編成が行われたのであった。 経済成長と同時にブロイラー産業が激増し、さらに90年代以降はグローバル化の影響で安価のブロイラーの輸入増加により、養鶏産業は激しい競争となった。農林水産省によると、ブロイラーの平均羽は1975年から2005年にかけて7,600羽から21,400羽と約3倍に増加した。現在、ブロイラーの平均羽は56,900となった。 このように、日本における養鶏産業の展開には国内外の様々な経済そして政治的な要因が影響を及ぼしてきた。本発表では、上述のように、まず飼料配分と食文化の変容において米国が果たす役割について述べる。さらに、近年における食の安心の問題への関心の高まりとともに着目される。食における「ブランド」の働きを考察することで、国内の鶏肉の生産と消費がどのように展開されてきたのかを論じる。3 文献日比野兼男. (1943) 満洲新養鶏法.鶏の研究社.北村修二. (1987) わが国における養鶏業の地域的展開.名古屋大学文学部研究論集 p149-174.長坂政信.(1993)アグリビジネスの地域展開.古今書院.後藤拓也. (2013) アグリビジネスの地理学, 古今書院.Dixon J. (2002) The changing chicken: chooks, cooks and culinary culture: UNSW Press.
著者
池 俊介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.359-366, 2018 (Released:2018-06-12)
参考文献数
4
著者
山元 貴継 坪井 宏晃
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100237, 2017 (Released:2017-05-03)

報告の背景と目的 「字(小字)」および「字名」は,多くの地域で地区区分および小地名として用いられてきた.そして,その多くは1899(明治22)年前後の「明治の大合併」以前の村の領域や村名を引き継いでいる,といったイメージがもたれやすい.しかしながらこれまで,「字名」自体の残存状況については各地で多くの言及がみられる一方で,それらの「字」が示す領域までもがどのように継承されているのかについての検討は,管見の限り多くはない. そこで今回の報告では,一見すると「字」がよく残されているように映る愛知県西春日井郡を対象に,とくに同郡において比較的よく残されている「土地宝典」などに記された昭和初期の「字」の名称およびその領域が,対応する現行地区名およびその領域とどのような対応関係を見せているのかについて,例えば両者の重複面積などを算出することによる検討を紹介する.愛知県西春日井郡と「土地宝典」 分析対象地域とした旧師勝町(現北名古屋市)および豊山町が属する西春日井郡は,名古屋大都市圏の中心都市である名古屋市の北側にあり,現在でこそ同市郊外のベットタウンとして大きく発展している.しかしながら一帯は,第二次世界大戦以前には,庄内川北岸に広がる低地に集落が点在し,その周囲には主に水田が展開するといった農耕地帯であった.その後1944(昭和19)年には,このうち豊山町の東部に陸軍小牧飛行場(現名古屋飛行場)が開設されている。 そして同郡内の各町村については,昭和初期(昭和9(1934)年前後)に,地籍図の一種である「土地宝典」が多く作製された.これら「土地宝典」は,当時の地籍図に各地筆の地目や面積の情報を加筆して作製されたものである.その図面を画像ファイル化し,幾何補正して現行1:10,000地形図にレイヤーとして重ねることによって,現在では失われてしまった「字」も含めて,かつての「字」の領域が現在のどこに相当するのかが詳細に明らかになる.西春日井郡における旧「字名」の残存状況 まず,「土地宝典」記載の昭和初期の各「字」名自体は現在,豊山町側では依然として一定数がそのまま地区名として用いられているのに対し,旧師勝町側では,旧「字名」に旧「大字名」を冠し,連称化した地区名と,旧「字名」の一部を改変した地区名が多く採用されている. こうした旧自治体による対応の違いに加えて,豊山町側では,小牧飛行場の敷地となり,現在では「字」の存在自体が不明となった範囲がみられる.西春日井郡における旧「字」域と現行地区域との関係  一方で,「土地宝典」図面の幾何補正により判明した旧「字」域と,その「字名」を何らかの形で引き継いでいる形となる現行地区(「字」を含む)の領域とを,その位置に加えて面積的にも比較した結果,かつて集落であった範囲において,旧「字」域と対応する現行地区域とが面積的にも高い割合で重複することが明らかとなった(図).また意外にも,集落の中心から遠く離れ,かつて水田などが展開していた範囲においても,旧「字」域と対応する現行地区域とが面積的にも比較的一致した. 対して注目されたのは,かつての集落のすぐ外周となる範囲であった.同範囲では,一見すると旧「字」に対応する現行地区(「字」を含む)がみられるものの,両者の領域の面積的な重複は少なく,いわば,かつての旧「字」域からいくぶん外れた範囲となった現行地区が旧「字名」を引き継ぐ地名を名乗っている形となっているところがみられやすかった.旧「字(小字)域」変化のプロセス 「字名」だけでなくその領域にも着目した今回の分析からは,とくにかつての集落のすぐ外周に相当する範囲において,「字名」自体は現在まで残されていても,その領域は変化してしまっているところが少なくないことが指摘された.そうした「字」は,都市化に伴い宅地の範囲を拡大させたもともとの集落の属する「字」にその領域の一部を譲る代わりに,さらに外側の「字」域の一部を編入するといった「玉突き」状の字域整理を行った結果,旧字域とその字域を引き継いでいるはずの現行地区(「字」を含む)域とのずれが大きくなってしまったことが想定された. 今回試みたような分析手法をもとに,今後各地で,「字(小字)」の残存状況についての再検討が進むことを期待したい.
著者
金子 直樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.244-264, 2016-09-30 (Released:2016-10-11)
参考文献数
68

本稿は岩木山信仰の伝播について,主にそれに関与した主体,および北海道における状況を,先学が明らかにした信仰圏モデルと関連づけて検討した.岩木山信仰は,ナイーブな自然崇拝的な特徴を有している一方,近世の津軽藩による別当百澤寺の庇護や津軽総鎮守化などの政治的影響力も指摘されてきた.このため,岩木山の信仰圏は津軽地方に意図的に限定され,百澤寺も信仰を組織的に拡大させる活動には消極的であった.しかし,津軽藩による管理が廃絶した明治以降,カミサマと称される宗教者,および非組織的であった民衆が,新たに信仰を広める主体となった.そして彼らの一部は,移住先の北海道において,岩木山系神社の建立という形式で,岩木山信仰を従来の信仰圏と考えられていた津軽地方を越えて,北海道に伝播させた.しかし,岩木山信仰の非組織的という特徴のため,こうした動きは長期的には持続せず,信仰の伝播という点では限定的な動きにとどまっている.
著者
古田 悦造
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.58, no.10, pp.663-673, 1985-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
29

Japanese agriculture in the Edo period substantially depended on the fish fertilizer. In every agrarian village in those days land was continuously cultivated without fallow and fertilizer application was necessary to maintain the soil fertility. As the grass fertilizer from woodlands was limited, a demand for fish fertilizer expanded. Sardine fisheries developed along the south and east coast of the Kanto District, where existed many wholesalers specialized in sardine fertilizers. Particularly such wholesalers in Edo and Uraga played a very important role in the distribution of the fish fertilizer. Uraga, located on a small bay of Miura Peninsula just across from Boso Peninsula, was an important port of transit, where wholesalers played a crucial role transferring dried sardines for Kamigata (Kyoto and its vicinities). Their activities, however, were subject to the influence of the larger wholesalers in Edo. The anther analized the transformation of trade areas of fish fertilizer wholesalers in Uraga during the latter half of the Edo period. The results obtained are summarized as follows. 1. In the early Edo period Uraga wholesaler's collection area of sardines spread widely along the Pacific coast from the northernmost province of Mutsu to Izu Peninsula. In the mid-Edo period, however, it became restricted to some villages in Boso Peninsula. In the late Edo period a small fishing village of Katsuura in Kazusa Province of the Peninsula was the only place to supply Uraga wholesalers with sardines. 2. Competition with wholesalers in Edo was the main cause of the decline. When the new fishing gears (beach seine) appeared in Boso Peninsula, wholesalers in Edo were easily able to supply fishermen with fund reguired to materialize such advancement, thus expanding their control over the fishery. Uraga wholesalers being unable to compete with the Edo wholesalers in extending fund, their sphere of collection became restricted to minor fishing areas where primitive fishing gears such as pair boat lift net were still used. Furthermore, some feudal lords began to buy fish fertilizers for their peasants directly from producers. 3. While Uraga wholesaler's major market was Kamigata in the early Edo period, it shifted in the later period to the nearer districts such as Sagami and Owari Provinces (the present-day Kanagawa and Aichi Prefectures, respectvely). The central part of Sagami, where the fish fertilizer began to be used in the 1730s, became the market of Uraga because of its accessibility. As for the Province of Owari, the feudal lord preferred to use his ships carrying fish fertilizers on their return trips.
著者
野中 健一 柳原 博之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100168, 2017 (Released:2017-05-03)

I はじめに 岐阜県東濃地域の伝統的な地域文化資源利用の一つにクロスズメバチ(当地の方言で「ヘボ」)食文化がある.当地域のヘボ食文化は,秋に野山で巣を採取し(ヘボ追い),巣中の幼虫やサナギ(蜂の子)を蜂の子飯(ヘボ飯)やゴヘイモチなどで賞味するだけでなく,夏のうちにまだ小さな巣を採取して自家で飼育することもあり,一堂に会して巣箱を開き育てた巣の大きさを競うイベントも開催されている.このような慣行を持続的に発展させようと1990年代に各地で愛好会が設立され,さらにそれらが集まった全国地蜂連合会が組織されて現在に至っている. この慣行を続けていくためには,次世代の者たちが継承していく必要があるが,現在の主な担い手の次世代以降にはそれに興味関心を持つ者が少なく,その存続が危惧されている.そこで,地域資源を生かすことをテーマとして,知識・技術の継承に高校生がかかわることにより,その活動の活性化と次世代の興味を高めるための方策を講ずることが可能になるであろうと,岐阜県立恵那農業高校(恵那市に所在)でクラブ(HEBO倶楽部)が2016年に設立された. 本発表は,高校生の関心からクラブ設立への動きと部員の活動経験を明らかにし,地域文化資源を活用した課題解決型学習の成果とその実践が地域にもたらす効果を検討する.   Ⅱ クラブ活動実践 (1)クラブ設立 2015年度にヘボ食文化に関心をもって課題学習に取り組んだ一生徒が恵那市串原や全国地蜂連合会の活動に参加しながら地域との連携関係を形成できた.そこで,地域で重要でありながら失われつつある地域文化資源を特産品として活用した地域の活性化を目的に,2016年度より高校の正式なクラブ活動としてHEBO倶楽部が設立され,柳原が顧問に就き,初年度は3年生4名,2年生5名が参加した. (2)ヘボ食文化の実地体験 串原・中津川市付知町の愛好会および全国地蜂連合会会員の協力・指導により,ヘボ追いを構成する餌付け・餌持たせ・追跡・巣掘り出し,飼育,蜂の子の巣盤からの抜き取り(ヘボ抜き)に至る全工程を体験し習得に努めた.全部員初めての経験であったが,指導を受けて実践できるようになった.そしてヘボ食文化のおもしろさを実感し,将来に残す必要性があることを強く感じた. 食用に関しては,地域の味付けで食品製造販売を行う串原田舎じまんの会からヘボの甘露煮,ヘボ飯の作成方法を習い,基本的な調理法を理解した. さらにイベントを通じて,各地のヘボ飯などの食べ比べを行い,ヘボの成虫を入れる量,醤油の量,薬味の有無など調理方法に地域差のあることを学んだ. (3)地域文化情報の発信と地域との協働 生徒は,さまざまな体験・活動で得た知識と経験を生かして情報発信を行った.東京大学癒やしの森研究所へ地蜂連合会会員らとヘボ生態調査・駆除に出向いた折には,同大の実習授業の受講生らに,自分たちが学んできたヘボ追い,ヘボ抜き,調理方法を伝授した.また,小学生を対象にしたヘボ抜き体験,ヘボに関する企画展の実施等を行い,他地域や異世代への情報発信を行った. 秋期の串原や付知町でのヘボの巣コンテストではスタッフとして協力した.担い手が減少する中で若い世代の参加は運営の補助のみならず,参加者らに活力を与える上でも効果的であった. 学校祭や地域イベントでは,生徒は,ヘボ追いをはじめ自然と親しむ・自然資源を活用する魅力をテーマとした発表を行い,あわせて来場者に対してアンケート調査・分析を実施し,活動をとおして同世代の高校生への知識・技術の継承と,地域への普及を目指して活動した.また,ヘボの知識だけではなく交流をとおして地域理解を深めると共に世代を超えたコミュニケーションを実施した.これらの成果により導き出された地域活性化の提案は「田舎力甲子園2016地域活性化策コンテスト」で最優秀賞を受賞し,ヘボ食文化の意義と可能性を全国に向けて知らしめることができた.   Ⅲ まとめと今後の課題 今回の実践において,高校生が親世代からは学べない地域の文化を学び,その大切さに気づき,主体的な学習の向上と社会実践の意識,外部社会とのコミュニケーション力向上がみられた。いっぽう,愛好家の方々には,高校生の参加により自己の趣味から「文化の継承」という目標が生まれ,組織的で意欲的な活動になったと思われる.地域文化の知識・技術の継承やその食文化の保存に若い世代の参加は大きな影響を与えることがわかった. 生徒のアンケート調査により当地では中年世代よりも若い世代の方がヘボ食に興味関心をもっているが明らかになったことから,この世代をターゲットにして新たな展開をすることが地域文化の継承に重要だと考えられる.
著者
鎌倉 夏来 松原 宏
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.37-64, 2014 (Released:2014-11-29)
参考文献数
37
被引用文献数
1

本稿の目的は,工業統計メッシュデータの地図化を通して,広域関東圏における産業集積地域の特徴と変化を明らかにし,産業集積政策の意義と課題を検討することにある.工場密度や従業者密度をもとに,広域関東圏におけるメッシュ分布図を作成したところ,主要な産業集積地域を摘出することができた.それらの多くは,「地域産業集積活性化法」の基盤的技術産業集積地域と重なっており, 各地域のメッシュ分布図および変化の大きな個別メッシュを分析したところ,以下の点が明らかになった.①工場密度の分布から集積地域の中心が同定されるが,出荷額の伸びが大きいメッシュは,工業団地や大規模事業所の立地の影響により分散的で,集積地域の中心とは乖離する傾向を示す.②集積地域間で工場密度や従業者密度の構成比が類似する組み合わせが存在する.③成長メッシュには大規模事業所が関わっており,大手企業の立地調整を踏まえた産業集積のあり方を考えていく必要がある.
著者
林 紀代美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.8, no.1, pp.96-118, 2013 (Released:2013-09-13)
参考文献数
50
被引用文献数
1 2

本研究は,沖縄県を対象として,当該地域の漁業活動で対象とされていない魚種の流通・消費を取り上げて,地域の食卓への普及過程とその背景,販売・消費活動の展開や地域的特徴を明らかにすることを目的とする.遠洋漁業用餌のサンマの一部が1950年代末から食用に転用され,1960年代には琉球の業者が食用商材を本土から集荷を開始していた.日本への復帰を契機に,本土の業者も流通に参入し,本格的にサンマ商材が扱われるようになった.今日では生・生鮮品の販売も普及している.沖縄の食習慣や社会・経済的条件の影響を受けて,本土とは異なるサンマの販売形態や調理・消費動向が確認された.
著者
松多 信尚 杉戸 信彦 後藤 秀昭 石黒 聡士 中田 高 渡辺 満久 宇根 寛 田村 賢哉 熊原 康博 堀 和明 廣内 大助 海津 正倫 碓井 照子 鈴木 康弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.7, no.2, pp.214-224, 2012-12-31 (Released:2013-01-31)
参考文献数
26
被引用文献数
2 4

広域災害のマッピングは災害直後の日本地理学会の貢献のあり方のひとつとして重要である.日本地理学会災害対応本部は2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震直後に空中写真の詳細な実体視判読を行い,救援活動や復興計画の策定に資する津波被災マップを迅速に作成・公開した.このマップは実体視判読による津波の空間的挙動を考慮した精査,浸水範囲だけでなく激甚被災地域を特記,シームレスなweb公開を早期に実現した点に特徴があり,産学官民のさまざまな分野で利用された.作成を通じ得られた教訓は,(1)津波被災確認においては,地面が乾く前の被災直後の空中写真撮影の重要性と (2)クロスチェック可能な写真判読体制のほか,データ管理者・GIS数値情報化担当者・web掲載作業者間の役割分担の体制構築,地図情報の法的利用等,保証できる精度の範囲を超えた誤った情報利用が行われないようにするための対応体制の重要性である.
著者
佐々木 敏光
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.94, no.3, pp.131-151, 2021-05-01 (Released:2023-02-19)
参考文献数
20
被引用文献数
4

本稿では,和歌山県椿山ダムの建設により水没移転を余儀なくされた人々が移転先をどのように決定したかを,属性,およびそれ以外の要因にも焦点を当てながら解明することを目的とする.ダム建設計画が発表されると,水没予定地区の住民は反対運動を起こしたが,すぐに条件闘争に切り替えた.補償交渉の過程での意見対立は人間関係の悪化を招き,地元ダム対策組織が分裂と再編成を繰り返す事例が見られ,移転先の意思決定に大きな影響を与えた.水没移転者のほとんどは,住み慣れた地域の近くに移転した.新たに仕事を見つけるには高齢で,そのため,移転前と同じ仕事に従事することを望んだことによる.林業経営者も,事業継続のため近隣地域に移転した.水没移転を人口移動の一つとしてとらえ,水没移転者の属性,人間関係等のファクターに注目しながら移転先の意思決定に至るプロセスの分析を行った結果,複数の移転パターンが明らかになった.
著者
岩間 信之 中島 美那子 浅川 達人 田中 耕市 佐々木 緑 駒木 伸比古 池田 真志 今井 具子 貝沼 恵美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.170-185, 2023 (Released:2023-06-09)
参考文献数
61

本研究の目的は,外国人散在地域を事例に,外国にルーツのある子どもたちの成育環境と健康状態の関係を解明することにある.外国人労働者が増加する今日,外国人世帯の生活環境の改善は喫緊の課題である.中でも,外国人散在地域では,外国にルーツのある子どもたちの健全な成育環境の確保が難しいと推測される.そこで本研究では,外国人散在地域に該当する地方都市を事例に,3歳児健診データを分析した.その結果,成育環境の悪化がう蝕(虫歯)などの健康被害を誘引し得ることが明らかになった.特に,所得が低く社会的に孤立していると考えられる外国人世帯の子どもたちの間で,健康被害が顕著であった.一方,社会的統合の程度が高いと推測される世帯では,こうした傾向はみられなかった.社会的排除状態にある外国人世帯は,家族や社会から十分な支援を受けにくい.このことが子どもたちの成育環境を悪化させ,健康被害をもたらすと考えられる.
著者
小泉 佑介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.92, no.6, pp.343-363, 2019-11-01 (Released:2022-09-28)
参考文献数
22
被引用文献数
3 1

本稿では,スマトラ中部リアウ州におけるアブラヤシ栽培の拡大と,それに伴う自発的な移住者の増加という現象に着目し,開拓空間におけるフロンティア社会の生業構造変化と社会階層の上昇移動プロセスを考察する.本稿の調査対象であるL村では,1980年代半ばの大規模な企業農園開発をきっかけとして,隣接する北スマトラ州から大量の移住者が流入している.L村の主な生業は,大きく個人農園経営者と農園労働者に分けられ,前者は個人農園だけで生計を成り立たせつつ,銀行からの融資等によってその規模を拡大させてきた.一方,後者に関しても,賃金を蓄積することで個人農園経営に参入することが可能であり,さらに一部は土地を追加取得することで大規模経営に至る者も存在した.このように,L村というフロンティア社会では,労働者層から兼業者層,そして大規模経営者層といった階層間の上昇移動が可能となることが明らかとなった.