著者
Margaret R. Bunson
出版者
Facts on File
巻号頁・発行日
2002

2 0 0 0 OA 十二ヶ月花合

著者
豊原国周 筆
出版者
武川清吉
巻号頁・発行日
vol.2, 1880
著者
武田 正倫
出版者
国立科学博物館
雑誌
国立科学博物館専報 (ISSN:00824755)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.135-"184-2", 1989

昭和年63年 (1988) 7月, 国立科学博物館の「奄美大島周辺地域の自然史科学的総合研究」の一環として, 奄美大島と加計呂麻島間の大島海峡においてドレッジを用いた底生生物調査が行われた。調査地点は水深15m から 70m にわたる合計27地点で (Fig.1), 得られた力ニ類は10科32属42種に分類された。また, 真珠養殖のために浅海に懸垂したマベの貝殻から掻き落とした付着生物の間から見い出されたカニ類は5科8属12種に分類され, マベの外套腔からカクレガニ科の1種が得られた。その他, プロカメラマンの楚山勇氏がスクーバ潜水中に採集したカニ類(8科18属18種), 昭和45年 (1970年) に鹿児島大学水産学部の学生がドレッジを用いて採集したカニ類(7科16属19種)も含めた。すべてのカニ類は合計14科57属81種であるが, Table 1 に示したように, それぞれのコレクションの間で重複している種が少ないことが特筆される。国立科学博物館と鹿児島大学の採集方法はともにドレッジであるが, 前者の42種と後者の19種とに共通しているのはコブシガニ科3種, ヒシガニ科1種, オウギガニ科1種, ケブカガニ科2種の合計7種にすぎない。これは″ドレッジ″とはいっても器具の形と大きさの違いによるためなのか, あるいは採集地点の海底の状態によるためなのか, カニ類の種構成だけからでは説明が難しい。一方, スクーバ潜水によって得られた18種とマベの付着生物中から得られた12種に共通するのはコブシガニ科の1種にすぎず, また, ドレッジによって得られた種と共通するのもオウギガニ科の1種とサンゴガニ科の1種にすぎない。これは, それぞれの生息環境が異なるほか, 採集方法の違いが主因と考えられる。すなわち, スクーバ潜水によって得られた種は主として岩礁性で, 目につきやすい大型種か, 小型種であっても比較的動きのある種からなっているのに対し, マベの貝殻から得られた種は付着生物の間に潜り込む習性をもつ小型種で構成されている。スクーバ潜水による採集品とドレッジによる採集品にはもっと多くの共通種が期待されるが, 前者には小型種の採集に, 後者では複雑な海底での採集に限界があることから, 採集方法としては両者は互いに補完すべきものである。記録された合計81種には2新種が含まれている。オウギガニ科の Miersiella cavifrons sp. nov. の近縁種は相模湾, インド洋東部のクリスマス島, オーストラリア東部のニューサウスウェールズ州から知られている M.haswelli (MIERS) のみである。一方, エンコウガニ科の Psopheticus megalops sp. nov. の所属にはやや疑問があるが, この属には日本からインドまで分布するナキエンコウガニ P.stridulans WOOD-MASON, 台湾の高雄とビルマ(ミャンマー)のマルタバン湾から記録されているモンツキエンコウガニ P.insignisALCOCK, 日本とフィリピンに産するウスベニエンコウガニ P.hughi RATHBUN およびニューカレドニアから記載された P.vocans GUINOT の4種が知られている。日本新記録種は Table 1 の各種名の前に星印を付して示してあり, カイカムリ科1種, コブシガニ科3種, ヤワラガニ科1種, クモガニ科5種, ヒシガニ科3種, ワタリガニ科2種, オウギガニ科2種, ケブカガニ科2種, エンコウガニ科3種, カクレガニ科1種の合計10科23種に達する。新記録種はいずれも, 従来, フィリピンやミロネシア, マレー諸島などから知られている南方系種である。これほど多くの日本新記録種が見い出されたということは奄美大島の浅海域の調査がほとんど行われていなかったことを示している, 海峡内だけでなく外海に面したサンゴ礁域の浅海の調査が行われれば, さらに多くの種が追加されるものと思われる。また, 従来, 琉球列島南部からのみ記録されていたカニ12種が採集された。それらはコブシガニ科1種, クモガニ科1種, ワタリガニ科2種, オウギガニ科5種, ケブカガニ科1種, サンゴガニ科1種, サンゴヤドリガニ科1種で, 日本新記録種ではないが, いずれも分布の北限が奄美大島まで広がったことになる。一方, 本州中部から九州沿岸にのみ分布するとされていた日本固有の3種, コブシガニ科のゴカクウスヘリコブシガニ Cryptocnemus pentagonus とロッカクコブシガニ Nursia japonica, エンコウガニ科のモールスガニ Xenophthalmodes morsei が今回の調査で採集された。これらはいずれも小型種であるが, 形態的に特徴があるため同定に問題はない。分布の南限が奄美大島まで広がったことになるが, 従来のフィリピンやインドネシア海域の広範な調査において記録されていないことから, 奄美大島よりさらに南方海域に分布している可能性は低い。
著者
泉田 英雄
出版者
Architectural Institute of Japan
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.80, no.708, pp.411-417, 2015

Edmond Morel, a chief engineer in railway construction of the Meiji Japan, proposed the foundation of a board called <i>KENCHIKU-kyoku</i> to the government in April 1870 to promote various construction projects for the public convenience. The proposed board was to consist of three sections; administration, accounting and education, and should be controlled by a minister. This paper argues the origin of this board referring to Morels career, British and its colonys situation. During the 1850s-60s, the British government challenged to reformation of public works in the British India for effective development and administration, and founded technical school to train civil engineers. Morel had chance to learn this effort, and might propose that the Meiji Government should found a government body in charge of public works. Although <i>Kenchiku-Kyoku</i> had to be the Board of Public Works for Morel and his followers, its function was turned to more engineering based industrialization when the Board was officially formed by the government councilors as <i>Kobu-Sho</i>. <i>Yozo Yamao</i>, a government technocrat tried to realize an idea of public works by adding survey and education departments, with assistance of Colin Alexander McVean.
著者
有田 伸弘
出版者
関西福祉大学研究会
雑誌
関西福祉大学研究紀要 (ISSN:13449451)
巻号頁・発行日
no.9, pp.31-44, 2006-03

平成14年の「学校教育法施行令の一部を改正する政令」は,教育におけるノーマライゼーションを一歩推し進めたと評しうる. しかし,障害児を盲・聾・養護学校などの「特別な場」で教育を行う分離教育制度そのものは,なんら変わっていない.この点についての憲法的考察の必要がある. まず,「障害児教育のあり方に関する憲法学説」を整理する.これまで,十分な考察を加えられていなかったため,訴訟テクニックの観点からの「自由権アプローチ,平等権アプローチ」分類しかなされていない.本論では,憲法学説の主流が「憲法沈黙説」(自由権アプローチはその中に含まれる)であることを明らかにしている. しかし,憲法が沈黙しているというのは,障害児教育の歴史の浅さにある.分離教育の「教育の理念」も,統合教育の「教育の理念」も理念としては合理性を有しているように思われたからである.しかし,憲法の大原則からすれば,分離教育に真の合理性がなければ統合教育でなければならない.そこで,分離教育の合理性を検証する必要性がある. 障害児が教育不能として教育の場から排除されていた時代からすると,彼らを特別な場で教育することは進歩であった.これを促進した発達保障論には歴史的意義が認められる.しかし,分離教育の真の意図するところは疑わしい点も多い.また,分離することによるデメリットも多いことがわかってきた.分離教育を容認してきた憲法学説の再考の必要性がある. 憲法学は,忠君愛国の精神を養成するために教育が用いられた反省から,教育の目的=「個々人の発達」と捉えてきた.しかし,個々人が競争するだけで,よき社会,よき国家ができるとするのは「神の見えざる手」を信用するようなもので,歴史的反省を活かせていない.もちろん憲法が,国家に対して,よき社会を形成するための教育をせよと命じているというのではない.子どもたちが成長過程で,さまざまなことを学び,よき社会の形成者となるような環境を整えるべきことを要求していると解すべきだと考えるのである.
著者
増見 敦
出版者
関西英語教育学会
雑誌
英語教育研究 (ISSN:09192662)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.1-10, 2016 (Released:2017-04-14)
参考文献数
11

This study examines Japanese high school students’ logical development of ideas (LDI) through writing activities using various types of concept maps (CM). The result suggests 1) the most effective CM is a type including the task to reconstruct the ideas, 2) cognitive processing with reconstruction and repeat training contribute to improve LDI, and 3) the students’ awareness of the LDI improves.
著者
ジエー・バチエラ 著
出版者
富貴堂書房
巻号頁・発行日
1925
出版者
日経BP社
雑誌
日経コンストラクション (ISSN:09153470)
巻号頁・発行日
no.645, pp.32-36, 2016-08-08

東亜建設工業は7月26日、地盤改良工事の偽装に関わった社員のうち、責任の重い2人を諭旨解雇にすると発表した。同時に、社内調査委員会の報告書を公表。一連の偽装問題に一区切りを付けた(写真1)。
著者
石原 千里
出版者
日本英学史学会
雑誌
英学史研究 (ISSN:03869490)
巻号頁・発行日
vol.2003, no.35, pp.1-15, 2002 (Released:2010-01-25)
参考文献数
13

Nishi is a most reputable family of Japanese-Dutch interpreter at Nagasaki. Kichibe Nishi, the 1st, began his career as interpreter in Portuguese in 1616 and then in Dutch in 1641.Kichibe Nishi (1811-1854), the 11th, was a chief compiler of Egeresugo Jisho Wage, the second English-Japanese dictionary compiled in Japan, and his son Kichijuro (1835-1891) was also one of the compilers. The dictionary, compiled from 1851 through 1854 but unfinished, was a fruit of the government order in 1850 to study English and Russian languages and to compile an EnglishJapanese dictionary, which was the second in history after the first similar government order in 1809.In 1853 Japan faced with one of the biggest events in history, the visits of Commodore M. C. Perry and also Admiral E. V. Putyatin with their squadrons, requesting the opening of Japan, and the interpreters were forced to be involved in those events. Major compilers of the dictionary, Kichibe Nishi, Einosuke Moriyama, Eishichiro Narabayashi and Gohachiro Namura, played important parts in them as well. Kichibe Nishi was the chief of the interpreter corps to Admiral E. V. Putyatin. He was used to be assigned tasks to facilitate confidential Dutch-Japanese talks between J. H. Donker Curtius, Superintendent of the Dutch Deshima Factory, and the Governor of Nagasaki over ways to deal with the foreign powers.Although it was unfortunate that the dictionary was left unfinished under those circumstances, the efforts of the interpreters directed to their study of English were to be highly valued, since many of them made the most of their knowledge of English in their work and in teaching English. Kichibe Nishi, who took charge of their studies of English, was also an excellent teacher of Dutch to many of those interpreters in their childhood. His life, which has little been known, is described in this paper.
著者
糧友会 編
出版者
糧友会
巻号頁・発行日
1936
著者
パホモフ オレグ
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.109-109, 2009

本発表では3つのエスニック・フェスティバル、ロサンゼルス・コリアン・フェスティバル(アメリカ)、東九条マダン(京都)、ロシア・コリアン・フェスティバル"友好に国境なし"(ロシア)を比較検討する。まずフェスティバルの社会的コンテクストについて言及する。そして同じコミュニティに属する他の言説、主流社会に触れ、"構造的カップリング"が個々の実例でいかに実現されているかを見ていきたい。