著者
佐藤 俊治
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.69-74, 2002-03-25 (Released:2010-01-20)
参考文献数
15

近年, 哲学者の関心をひいている量子力学解釈の1つに, 様相解釈modal interpretationがある.様相解釈は次のことを狙った解釈である : シュレディンガーの猫のパラドクスに陥ることなく, 収縮なしの理論を構築すること.そのための戦術として, 様相解釈は量子系を特徴づける2種類の概念装置を用いる.すなわち, 通常の (量子力学的) 状態stateのほかに, 新たに性質propertyを導入する.これら二重の記述を巧妙に使いわけ-誤解を恐れずあえて一言でいえば, 状態をもちいて予測をし, リアリティについては性質をもちいて語る, ということをおこなう-いま述べた目的を果たそうとする試みが, 様相解釈の研究プログラムである.現在, 性質を具体的にどう定義するかにかんし, 複数の提唱が並存している.様相解釈という語はそれらの総称であり, 多くの論者がいずれか/いずれものアイディアを, あるいは展開し, あるいは批判する議論を戦わせている.しかし, 中でもとくに議論の俎上にのぼる機会が多いのが, ファーマースとディークスによる提唱である (Vermaas and Dieks 1995, ファーマース-ディークス様相解釈とよぶことにする).本論では, これを取りあげ, 論じる.ファーマース-ディークス様相解釈は次の2点をその基本アイディアのうちに含む.一方で, ある時刻に1つの合成系を成す諸部分系が, おのおのに, 自身の性質を所有するさいの (同時) 結合確率が, 明示的に定義される.他方で, 性質のダイナミクスが認められる.そのさい, 性質ダイナミクスが安定性テーゼstabilitythesisとよばれる条件を満足することが, 通常, 要請される.安定性テーゼを認めるとき, 本論のいう相互独立性テーゼを認めることが自然である (いずれのテーゼも詳細は後述).しかし, 以上のアイディアを十分実現可能なある具体的実験状況に適用するなら, 矛盾を生じる.本論はこの点を示す.結論は次のとおり : 《安定性テーゼ, かつ, 相互独立性テーゼ》と, 《同時結合確率の定義》とが, 両立しない事例が存在する.
著者
若林 明彦 ワカバヤシ アキヒコ Akihiko WAKABAYASHI
雑誌
千葉商大紀要
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.335-352, 2004-12-31

1960年代後半から1970年代にかけて環境問題に取り組む思想は人間中心主義から人間非中心主義,つまり環境主義へと転換した。後者には様々な思想が含まれるがその中でもアルネ・ネスが提唱したディープ・エコロジー運動は思想だけでなく実際の環境保護運動にも大きな影響を与えた。本稿は,ネスのディープ・エコロジーの概念及びそれを基礎づける彼の環境哲学を概観するものである。彼は,人間中心主義的なシャロー・エコロジーに対して生命圏中心主義,生態系中心主義としてのディープ・エコロジーの原則を,それがどのような思想を持つ者でも同意できる八項目のプラット.ホームとして提起する。そしてそのプラット・ホームがどのように究極的規範から合理的に導出され,どのように環境保護のための実践的規則へと合理的に展開されるかを示す「エプロン・ダイアグラム」という図を呈示することによって,ディープ・エコロジー運動がいかに根源的かを示す。また,プラット・ホームを導出する究極的規範は,同一のものである必要はなく,各自がそれを宗教や哲学に求めてもかまわないとされる。そこでネスは,「自己実現!」を究極的規範とする彼固有の環境哲学「エコソフィT」を展開する。それは,利己主義的な自己(self)の枠組みを突破して行き,最終的には生命圏全体を包括する自己(Self)にまで自己を拡大することを意味している。
著者
寺田 治史
出版者
太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.203-214, 2015-03

前著論文(II)では,「グルントヴィの事を誰よりも深く理解している方は池田先生です」と語るヘニングセンの言葉を紹介した。だが,何故にそこまで言い切れるのかについての疑問が残っていた。筆者自身5度目となる今回のアスコ-訪問では,故人となられたヘニングセンの後継者である南デンマーク大学准教授のイ-ベン・バレンティン・イエンセン女史に,これについての質問を行った。1)イエンセン女史の答えは,「グルントヴィは,言葉や理論よりも実践を大事にする人でした。池田先生は,グルントヴィの考えと同じことを現在において実践しておられ,その姿を見てヘニングセン先生はそのように評価されたと思う」と。2)「実践の人」との言葉を聞いた時,筆者の頭の中をよぎった言葉がある。それは,「道理証文よりも現証にはすぎず」という日蓮の言葉であった。3)この意味するところは,理論よりも実践,言葉よりも行動を重視して,現実の上に実証を示すことが大事であるという教えである。ヘニングセンから見て,グルントヴィも池田も人間教育の有言実行の人であることをイエンセン女史も認めていることになる。2013年8月23日,アスコ-校で開催された「アスコ-池田教育セミナ-」においても,ヘニングセンは,「最も優れた学力教育でも足りないものがある。平和,自由,民主主義こそが啓発を促す。池田氏が語る『教育』にも,この意味は全て備わっている。今日の世界的指導者として唯一そのことを世に紹介し続けている。勇気ある者であり,牧口の道を継ぐ者である」と語り,これが氏の生前最後の講演となった。4)グルントヴィ研究の第一人者と言われたヘニングセンをして,ここまで評価された池田が,そのヘニングセンとの対談において,多数の仏典を紹介しながら,自身の人間教育論に昇華し展開していることに筆者は着目した。何故ならば,内村鑑三をはじめ,グルントヴィとデンマークの教育を日本に紹介した先覚者は数多いが,いずれも仏教指導者ではなかったからである。5)今日,創価大学・学園などやアメリカ創価大学を創立した上に,広く世界に平和を訴えて,「教育のための社会」へのパラダイム転換を提唱し,推進し,行動しているのが池田であり,その意味ではグルントヴィをも凌いでいるのではないかと筆者は考える。本論文では,その池田の哲学的背景とも言える,仏典の引用と彼の人間教育論についての考察に挑戦してみようと考えた。
著者
金 秀日
出版者
Japan Association for Comparative Economic Studies
雑誌
比較経済体制学会会報 (ISSN:18839797)
巻号頁・発行日
vol.38, no.1, pp.83-89, 2001

ハイエク(Friedrig August von Hayek,1899~1992),レプケ(Wilhelm Röpke,1899~1966),山田盛太郎(1897~1980)の三者は共に19世紀末に生を受け,ナチズムと軍国主義の台頭という歴史の激流に抗しつつ壮年期を経た経済学者として知られている。ハイエクはネオ・リベラリストの,レプケはオルド・リベラリストの,山田は日本の講座派マルキストの重鎮である。<BR>1989年11月ベルリンの壁崩壊以後,市場経済に対する信頼が喧伝されて来た。結果的にロシア・東欧の厳しい賃金危機と(ハイパー)インフレーションを招きながらもなお,ドイツにおける社会国家解体論,日本における新自由主義(あるいは新保守主義)改革必要論が勢いを増している。ロシア・東欧のみならず,旧西側の住人の我々にも市場経済の有効性を再検討する意義が高まっている。本稿はこうした間題意識に立ち,社会哲学者としてのハイエク,エアハルトの経済顧問としてオイケンと共に実際家としても活躍したレプケ,日本の農地改革プラン作成に大きな影響を与えた山田の認識を市場を軸として比較検討し,その思想を整理するものである。
著者
石井 敏夫
出版者
国士舘大学哲学会
雑誌
国士舘哲学 (ISSN:13432389)
巻号頁・発行日
vol.4, 2000-03
著者
大澤 真幸
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.23-42, 1990-04-01 (Released:2009-03-31)
参考文献数
16
被引用文献数
3

我々にとっては、任意の事物・事象は「意味」を帯びたものとして現象する。(1)最初に、我々は、意味についての現象学的な規定から出発し、意味に対する志向性が、一種の選択の操作として記述できることを示す。選択の操作は、異なる可能性の排除と保存によって特徴づけられる。すなわち、ある特定の「意味」において対象の同一性が規定されたとき、対象の他なる同一性は排除されると同時に、可能なるものとして保存されてもいるのだ。(2)ついで、我々は、意味の概念と情報の概念を区別することによって、意味に向けられた選択の操作が、自己準拠的な構成を取らざるをえないということを明らかにする。このことは、対象の同一性が意味を通じて決定されるとき、同時にその対象が所属する世界の同一性が指し示されていることを含意している。しかし、世界と自己準拠的な選択の操作は、その根本的な単一性(孤立性)のゆえに、同定不可能なものにみえる。というのも、我々は、選択の操作や世界がまさにそこからの区別において存在するような「外部」を、積極的に主題化することができないからだ。(3)そこで、我々は、分析哲学が提起した、「志向的態度(信念)についてのパラドックス」を検討する。志向的態度についての言明は、意味を規定する選択の操作を言語的に表示するものである。我々の解釈では、パラドックスは、他者が存在するときそしてそのときのみ、世界や選択の操作の同定を可能ならしめる「外部」が、構成される、ということを含意している。したがって、意味は、ただ、他者の存在を根源的な事実として認める理論の中でのみ、正当に論ずることができるのだ。言い換えれば、意味は、本質的に社会的な現象なのである。
著者
渡邉 憲正
出版者
関東学院大学経済研究所
雑誌
経済系 : 関東学院大学経済学会研究論集 (ISSN:02870924)
巻号頁・発行日
vol.257, pp.22-44, 2013-10

明治期の日本が文明開化を図ろうとしたとき,福沢諭吉ら多くの論者は文明史を基本的に「野蛮(未開)—半開—文明」の3 段階に区分し,日本を「半開」として,周辺に「野蛮(未開)」をさまざまに設定した。だが,この場合,「野蛮(未開)」は,savage 段階とbarbarous 段階を包括する曖昧なものか「非文明」一般を表すものであり,また「半開」の理解も幅のあるものであったから,1875 年以後「文明と野蛮」図式は変質を遂げ,ついには中国(「支那」)・朝鮮をも「野蛮」と規定し,日清戦争を「文野の戦争」として正当化する図式に転化した。この過程には,「文明と野蛮」に関するいくつかの誤解とスペンサーらの社会進化論の受容における歪みが作用している。本稿は,福沢諭吉や加藤弘之の諸文献,スペンサーの翻訳書(『社会平権論』『政法哲学』等),『時事新報』の記事等の検討を経て,明治期の「文明と野蛮」図式の理解/誤解を考察したものである。
著者
関根 小織
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.37-52, 2013-03-31 (Released:2019-08-08)

Malgré sa condamnation de la rhétorique dans Totalité et infini (1961), Levinas écrit de nombreuses notes concernant la métaphore entre 1960 et 1972, et fait une conférence intitulée «La Métaphore» au Collège Philosophique en 1962. Cet article a pour objet de clarifier, par une étude détaillée de ces matériaux, sa déclaration suivante : «La métaphore par excellence est Dieu». Nous commençons par remarquer dans notre section 1 que dans ses Notes Levinas s’évertue à réconcilier l'évaluation du fonctionnement de la métaphore avec sa philosophie de l'éthique. Dans la section 2, nous faisons une étude détaillée du manuscrit pour «La Métaphore». La section 3 est consacrée à examiner la portée de sa théorie sur la métaphore. Il est devenu évident qu’une distinction entre deux types de métaphore proposée dans sa théorie de la métaphore correspond à la distinction entre deux niveaux, celui immanent et celui transcendant, de son œuvre Totalité et infini. Enfin, en proposant sa théorie de la métaphore comme une analogie dans la direction opposée, nous suggérons que le tournant de la phénoménologie consiste en l'approfondissement d'une interprétation de l’a priori, qui se rattache à la théorie postérieure de Husserl .
著者
松本 和彦
出版者
慶應義塾大学法学研究会
雑誌
法学研究 (ISSN:03890538)
巻号頁・発行日
vol.64, no.6, pp.p24-59, 1991-06

一 はじめに二 K・H・イルティングの所論 (一) 「批判的」(kritisch)という術語の定義及びW・ブッシュのテーゼ (二) ブッシュが依拠している『覚書き』及びレフレクシオーンの分析 1 自然主義的自由の概念(naturalistischer Freiheitsbegriff) 2 批判的自由の概念(kritischer Freiheitsbegriff) (三) 自然主義的自由の概念ならびに批判的自由の概念についてのブッシュの解釈、及びイルティングによるその批判 (四) カントの倫理学ならびに法哲学の非批判的性格三 イルティングの所論の問題点 : むすびにかえて論説
著者
松本 和彦
出版者
慶應義塾大学法学研究会
雑誌
法学研究 (ISSN:03890538)
巻号頁・発行日
vol.65, no.12, pp.p345-413, 1992-12

一 はじめに二 所有権論の超越論的性格 (一) ケルスティングの所論の概要 (二) 感性的占有と可想的占有 (三) 占有実在論と占有観念論 (四) 実践理性の法的要請と実践理性の許容法則 (五) ア・プリオリな綜合的法命題と法の理性概念の適用理論 (六) 可想的占有の図式としての物理的占有 (七) ア・プリオリに結合した意思・配分的意思 (八) 共同占有三 むすびにかえて川口實教授退職記念号
著者
垂谷 茂弘
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.29-43, 2002 (Released:2019-03-21)

Jung has an ambivalent attitude toward “transference,” because it involves problems which are multilayered and full of paradoxes, like any other phenomenon of the soul. But “transference” is essential for individuation, since an internal and subjective process of integration is inseparable from the process of developing objective relationships. These ideas fit together with his fundamental point of view — “esse in anima.” Jung criticizes Freud’s view that “transference” is an artificial new edition of the old disorder. Jung thinks it is a natural phenomenon caused by fate. Since in any intimate human relationship it can take place anywhere outside the consulting-room, there is no technique with which we could control it. Both the occurrence and the resolution of transference are stages of a transformation which involve transpersonal numinous experiences. But at the same time the resolution demands the total effort of both the analyst and his client. Only their moral torment occasioned by the opposites will make a symbolic resolution possible. “One connection in the transference which does not break off with the severance of the projection” is the state linked to the All-Zusammenhang (unus mundus). This is a positive aspect of the participation mystique. Only then can one realize one’s whole personality which is open to others and the world, and which is founded on the numinosum. Jung says, “Individuation always means relationship.”
著者
仲田 誠
出版者
筑波大学
雑誌
哲学・思想論集 (ISSN:02867648)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.214-232, 2001

序論 昨年(2000年)のことだが、週刊文春をたまたま読んでいたらこんな記事に遭遇した。記事というよりは短い評論だが、最近のテレビや新聞の情報社会賛美の記事、報道に辟易してこれをばっさりと切り捨てた記事だ。 ...