著者
関根 正美
出版者
Japan Society for the Philosophy of Sport and Physical Education
雑誌
体育・スポーツ哲学研究 (ISSN:09155104)
巻号頁・発行日
vol.30, no.2, pp.99-111, 2008
被引用文献数
1

In this study the author considers whether a 'serious' physical movement, unaccompanied by cheerful looks, can be regarded as play for man. On this point, Kitada has reported that forms of 'play which exudes pleasure in the effort to grow up'. The purpose of this paper is to clarify three points concerning play and human movement: 1. We inspect the phenomenon of human activities by which work and constant effort can become an experience of play. 2. What kind of experience is play, compared to other experiences in life? 3. Why a stoic (serious) act and an attitude can be play? This paper does not consider the general phenomenon of play, but only the phenomenon of human activities. The author uses the theory of Huizinga and Takahashi. To classify human movement and sport, we adopt Sato's forms of movement. Consideration of these results support Kitada's argument that 'play is considered as an activity that involves the least effort and brings as much pleasure as possible'. On the basis of this view, we conclude as follows: 1. According to a subject's experience of play, a man has to suffer and to make efforts by way of action to enjoy play. This can be seen as an aesthetic experience, as in the boat that Nakai drew. 2. We suggest that the existence of 'the refinement of work (techne)', and 'a quick motion' as an aspect of a concrete physical movement, lead to experience. 3. We conclude that an apparently stoic human movement, which appears as the above 'a quick motion' and 'refinement of work' may be play.
著者
佐古 仁志
出版者
江戸川大学
雑誌
江戸川大学紀要 = Bulletin of Edogawa University
巻号頁・発行日
no.30, pp.257-265, 2020-03

本稿では,心理学と哲学の〈あいだ〉でなされてきたインゴルドの思索の変遷を,彼の「移動」にまつわる研究に注目し,展開する。特に,インゴルドが西洋近代思想の特徴と主張している「反転の論理」の要点が「〔存在するものの〕知覚」と「〔存在しないものの〕想像」の区別・対立にあること指摘する。そのうえで,「反転の論理」を反転させようとするインゴルドの試みが,たえず生まれては消えながら波を形成する波頭のように,生きることをたえざる世界との調整あるいは世界の形成に見る生成の人類学とでも呼ぶべきものであること,さらには,パースの連続主義と結びつけることで,身体性認知科学の方へと展開しうるということを提示する。
著者
八尾坂 修
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
開智国際大学紀要 (ISSN:24334618)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.75-86, 2020 (Released:2020-04-01)

アメリカにおける教育長の養成・研修に着目すると、歴史的に免許資格と養成、更新・上進制の連結が特徴的である。免許資格要件の特徴として以下の点を見出すことができた。①発行される免 許状は包括的な行政免許状あるいは教育長固有の免許状である。②博士号あるいは教育スペシャリスト学位(博士論文を提出する必要のない准博士号)取得の要請。③教職経験や行政経験を要求しているのが歴史的特徴。④インターンシップ充実への州間差異。⑤教育長独自のテストを要求する州の存在。⑥上進制を導入する州(10 州)のなかで更新を認めず上位の免許取得を求める州の存在。⑦伝統的な大学院養成プログラムに対して州教育長会のような専門職団体、民間によるオルタナティブ養成・研修の存在。教育長養成プログラムの課題として、ア.入学募集、選抜、入学、イ.プログラムの目標・哲学、ウ.養成の核となるコースカリキュラム内容、特に実地体験の重視、エ.テニュア教員の存在といった基本的な視点、要素を共通認識して高める質保証が養成関連機関に求められる。
著者
水本 正晴
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.37, no.1, pp.43-59, 2004
被引用文献数
1

Swampan poses a problem for physicalists who adopt the teleological approach to functionalism. In this paper I reformulate the intuitive idea behind the physicalists' worry about it as "Swampman argument", and consider possible rejoinders, including Maeda (1999)'s claim that swampman is not even imaginable. This paper was originally intended as a comment on Maeda's reply to Mizumoto (2000), which criticized his (1999).
著者
宇野 重規
出版者
東京大学社会科学研究所
雑誌
社會科學研究 (ISSN:21894256)
巻号頁・発行日
vol.71, no.1, pp.43-52, 2020-06-11

本稿は,ロールズの政治哲学と,ソローやホイットマンに代表されるアメリカの超越主義の伝統との関係を検討するものである.ロールズが自らの正義論を展開するにあたって,アメリカの伝統的思想に言及することは少ない.しかしながら,市民的不服従を強調したソローをはじめ,ロールズとアメリカの伝統的思想との間には予想以上に連続性があるのではないか.超越主義は,人間を本来,善なるものとして捉え,原罪を否定する.これを受けてソローは,人間の自己とその良心を重視し,これを抑圧するものへの市民的不服従を主張した.市民的不服従は,それを通じて社会の多数派の良心に訴えかけるものであり,ロールズの正義感覚の議論との間に共通性がある.さらにホイットマンは,宗教と切り離された世俗の道徳法則として,正義と民主主義を論じようとした.このような点において,アメリカの伝統的思想は,ロールズの政治哲学にも影響を及ぼしていると考えられる.特集 リベラルな社会を読み解く
著者
福田 殖
出版者
九州大学中国哲学研究会
雑誌
中国哲学論集 (ISSN:03856224)
巻号頁・発行日
no.9, pp.p51-65, 1983-10
著者
横路 佳幸
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2018, no.69, pp.259-273, 2018-04-01 (Released:2018-08-01)
参考文献数
26

The Principle of the Identity of Indiscernibles (hereafter the PII) states that if any individuals exactly resemble each other, then they are necessarily identical. Intuitively, the PII seems valid, but Max Black attempted to refute it by introducing the possibility of a symmetry universe in which two iron spheres c and p can resemble each other exactly. This counterexample (hereafter BU) seems easy to rule out using a weak discernibility strategy (hereafter WD) according to which c, being spatially separate from p and not from c itself, is not indiscernible from p. WD, however, leads to ‘the presupposition problem’, because obtaining c as spatially separate from p presupposes the distinctness of c and p. In this discussion, I will give an outline of a defense of the validity of the PII that evades the presupposition problem through the elucidation of some aspects of ‘identity’. In my view, ‘identity’ has two aspects: one is simply self-identity as a universal monadic property (hereafter identity-1), and the other is identity as an equivalence relation entailing indiscernibility (hereafter identity-2). The basis or ground for identity-1 obtaining with regard to an individual x can be called the individuator for x, but it is no wonder that the individuation and articulation of c and p are prior to or ground for obtaining c as spatially separate from p. So far as the PII is concerned with identity-1, it may not be valid. However, we can characterize identity-2, following David Wiggins’s lead, in terms of what is called the sortal dependency of identity-2 and the extended Locke’s Principle (hereafter ELP), according to which, for any sortal concept F, x falling under F is identical with y falling under F if and only if x is the same F as y, and x is the same F as y if and only if a) x and y share F and b) x is not spatially separate from y. If ELP is valid, we can regard BU as merely a general case to which WD is applied. And if the Wigginsian idea of the sortal dependency of identity-2 is also right, there is no longer a presupposition problem. I hence conclude that the PII is valid to the extent that it is concerned with identity-2.
著者
井上 義彦
出版者
長崎大学教養部
雑誌
長崎大学教養部創立30周年記念論文集(Bull. Faculty of Liberal Arts)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.1-24, 1995-03-27

これまでの自然観には、大別すれば、自然現象をすべて物理学的に、即ち物理的な作用原因による因果関係によって説明できると考える「機械論」(mechanism)と、自然現象をすべて生物学的に、即ち目的原因による因果関係によって説明できるとする「目的論」(teleology)とがあった。アリストテレスの自然哲学は、生物学的な発想により、万物を質料と形相の結合として、エンテレケイア(自己実現的な力)の発展によって説明し、目的論的哲学を大成的に確立した。アリストテレスの目的論的自然観は古代以来、キリスト教的世界観ともうまく調和するところから、中世を通して近代初頭までヨーロッパ精神世界の支配的な自然観であった。だがしかし、ガリレオ、デカルト、ニュートンの近代科学の成立と共に、いわゆる「科学革命」の成功により、自然現象をすべて機械的に物理化学的に説明する機械論的自然観が、目的論的自然観を圧倒し駆遂していった。デカルトの哲学は、まさに機械論的自然観を哲学的に確立した代表的な哲学である。彼の有名な「動物機械論」は彼の機械論的見解を端的に表明している学説といえる。デカルトの物心二元論の形而上学的なテーゼは、以後世界の自然観を支配し、中世以来の神の座に、近代の科学を据え、神を玉座から追放することになったのである。スピノザは、デカルト同様に、形而上学的神学的な決定論と物理学的機械論的な決定論という二重の決定論的哲学の下に、目的論を人間の擬人論的な虚構的な欺瞞として、徹底的に批判し排除しようとした。これに対してライプニッツは、代表的な近世哲学者の中では例外的に、目的論的な哲学を「モナドロジィー」として構築した。ライプニッツの「予定調和説」はまさにそれを表示している。ライプニッツは、機械論と目的論をモナドロジィーにより調和し和解できるような新しい哲学を構想した。以上の近世哲学の思潮を総合的に批判的に考え抜いて独自の哲学を確立したのが、カントといえる。カントは、二重の意味で機械論と目的論との対立を批判的に止揚したといえる。第一には、哲学の歴史における機械論と目的論の対立の止揚であり、第二には、カント自身の学説的な止揚、即ち自然に基づく理論哲学『純粋理性批判』と自由に基づく実践哲学『実践理性批判』との批判的止揚としての目的論的な『判断力批判』の確立である。カントは、機械論と目的論の対立をニ律背反として捉え、目的論の原理たる「合目的性」を自然の構成原理でなく、自然の統制原理と解することにより、その二律背反の解決を図る。だからカントは、機械論と目的論とは相互に対立排除的に成立するのでなく、両論は相互に矛盾せず両立できるとする。カントは、機械論と目的論を統合するような、第三の説明方式を我々に提案しているといえるのである。
著者
山内 友三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.55-70, 1971

「このコスモス(宇宙、秩序)は、すべてにとって同じであるが、神々にしろ人間にしろ、誰が作ったものでもなく、常にあったし、あるし、あるであろう。メトロン(度、矩)に従って燃え、メトロンに従って消える永遠の火として」(DK. 22B30)、「太陽はそのメトロンをこえないであろう。もしこえれば、ディケー(正義の神)の助力者たるエリニュエス(復讐の神々)が見つけ出すであろう」(DK. 22B94)、という言葉がヘラクレイトスのものとして伝えられている。また、アポロニアのディオゲネスによれば、冬夏、夜昼、天候など「すべてのものに或る一定のメトロンがある」と云われている(DK. 64B3)。一般に自然界においては一定の法則があって、自然は一定の限度をこえることがない。動物の行動もまた一定の限度をこえることはないと云われる。ところが人間だけは、その自由によって、自然の限界をふみこえ、たえず限度を見なう可能性をもっている。限度や節度をこえることを、古代ギリシア人は、ヒュブリス(暴慢,不遜)としてしりぞけた。有名な「君自身を知れ」(DK. 10A3, cf. Philebos 48c)にしても、ソロンに帰せられる「すごすな」(DK. 10A3, cf. Philebos 45e)にしても、あるいは七賢人の一人クレオブーロスのものとされる「メトロンが最善」(DK. 10A3)という言葉も、さらにタレスに帰せられる「メトロンをたもて」(DK. 10A3)も、このヒュブリスをいましめたものと考えることができる。人間に火を与えたプロメテウスはゼウスによって罰せられなければならなかったが、悲劇の主人公達も、人間としての限度をこえることによって、没落していったのである。ところが,現代は、限度や節度を失っているところに、その特徴がある、とされることがある(cf. Bollnow, s. 36ff.以下引用書名は、とくにことわらないかぎり、末尾の文献表にまとめて示して、頁数だけを記すことにする)。たとえば『悲劇の誕生』(Bd. I, s. 33ff.)において、デュオニュソス的なものに対して、アポロン的なもののひとつの徴表を節度のうちに見たニイチエは、他の箇所で、つぎのように云っている。「節度(Maß)がわれわれに縁遠いものとなったことをわれわれは自認する。われわれの欲望は無限・無節度なものの欲望である。奔馬をかる騎手さながらに,無限なものを前にして手綱をはなすのである。われわれ現代人、われわれ半野蛮人は。」(『善悪の彼岸』第七章224, Bd. II, s. 688)。ギリシア的なメトロンの考え方が最もよく現われている作品のひとつとして、プラトンの『ピレボス』をあげることができる。本稿は、メトロンの概念をひとつの導きの糸としながら、この対話篇の一解釈をこころみたものである。たとえばヴィンデルバントは、この対話篇について、およそ次のような意味のことを述べているが、きわめて核心をつく言葉とおもわれる。すなわち、「これはプラトンの哲学的倫理-ギリシア精神のもっとも純粋・貴重な産物のひつ-である。美と真理の理想をもって、くまなく感覚生活に光をとおすことは、ギリシア人の創作と造形芸術すべてにおいて私たちに語りかけていることであるが、このことがここで光を放っているのである。これは節度(Maß)につながれ、ハルモニアにみちている。そのために、プラトンはここで、円熟のさなかにあって、また形而上的思考の頂点にたって、二世界論によって基礎づけようとした神学的倫理の場合よりも澄明で輝やかしい色彩のうちに,人間存在を見たのである。」(s. 108)。しかしながら、節度といい、限度といっても、それだけでは相対的なものであって、中心、規準をどこにとるかによって規定されてくるはずである。では規準となるべき「尺度」はどこに求めるべきであろうか。まずこのことについて、『ピレボス』篇の背景をさぐりながら、考えてみたいとおもう。In der Interpretation des Philebos bemerkt man bisher nicht besonders die Bedeutsamkeit des Maßes (metron), etwa außer Natorp und Krämer. Daher übersieht man oft die Einheit des Dialogs. In dieser Abhandlung versuchen wir, die Einheit dieses sehr verwickelten Dialogs dadurch zu finden, daß wir den Begriff des Maßes als Leitfaden der Ariadne benutzen. Das Prinzip, das diese Welt des Werdens als gewordenes Sein aus Mischung von Bestimmtheit und Unbestimmtheit erzeugt, ist auch dasdas gemischte gute Leben erzeugende Prinzip. Dasselbe Prinzip der Bestimmtheit, d. h. des Maßes macht also diesen Kosmos schön und das Leben des Menschen gesetzmäßig und geordnet. Auch in der Erforschung von Lust und Erkenntnis teilt Platon, meiner Ansicht nach, diese in Klassen nach Kriterium des Maßes ein. Und das, was als maßhaft anerkannt wird, wird in das aus Lust und Erkenntnis gemischte gute Leben eingemischt als die Bestandteile desselben. Die fünf Stufenfolgen der sogenannten Guttafel (ktēma 66 a ff.) scheinen die innerhalb dieses gemischten Lebens zu sein. Also darf man dieselbe Stelle nicht so interpretieren, daß die ersten drei Stufen Maß, Schönheit und Wahrheit sind, die zusammen das Prinzip des Guten darstellen. Den ersten Rang hat das Maßhafte und Normhafte in dieser gemischten gewordenen Welt, den zweiten das Symmetrische und Schöne, den dritten die maßhafte Vernunft, den vierten die nicht so maßhaften praktischen Wissenschaften, den fünften die ungemischte wahrhafte, d. h. maßhafte Lust.
著者
伊藤 斌
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.29-62, 1992

快楽は善なのか、それとも思慮のほうが人間にとってよいものなのか。我々の人生にとっては、快楽も思慮も両方あったほうがよい。快楽と思慮との混合した生がよりよい。では、その混合の生をよきものにしているのは快楽なのかそれとも思慮なのか。快楽と思慮の各々を分析して二等賞争いの決着をつけねばならない。第I章、快楽の分類、第II章、思慮の分類、第III章、両者の比較及び判定。 第I章 快楽は一つかそれとも幾つかのものに分けられるのか。快楽を考える時、快楽を与えるものとの関係を無視できない。その対象との関係によって、快楽には真なる快楽と単なる快楽の区別が立てられることになる。思いなしに伴う快は、思いなし自身に真偽の区別が語られるので、それに伴う快にも真偽が語られうる。また、苦痛がなくなることを快と思い違えることもある。かくて、真なる快、偽なる快、苦痛と混じりあった快と、純粋な快など、快楽の間に分類が可能となる。 第II章 思慮についてはそれと同族の知識によって分類が行われる。永遠に変らない神的対象にかかわる知識もあれば、感覚的事物を対象とする知識もある。それらの間には当然、真実さの段階が認められるがしかし、快楽の場合とは異なって、偽なる知識というものはありえない。感覚的事物を対象とする知識も、我々が感覚の世界に生きている以上、必要なものとなる。 第III章 快楽、思慮ともに様々に分類されたが、そのうちのどれを混ぜればよき生が出来るか。両者ともその全部を混合することは危険。ではどれを入れるか。よき生のよさに貢献するものを選ぶのだからというので、善の三つの姿、適度、美、真実性をとり出し、その各々によって快楽と思慮の各分類を吟味する。その結果をもとにして、よき生のよさに貢献するものをランク付けすると、快楽のほんの一部のみがようやく第五位にひっかかる程度である。快楽と思慮がその位を争った善とは何か。この対話篇で語られる限りでは、感覚の世界、実在の世界を秩序づけ、それらをしてよきものたらしめるもの、すなわち原因であり、逆に、我々の生はそのような生を可能な限り写しとっていく限りにおいてよきものとなるのであり、知性と思慮はそのことを行うことを本来の使命とする。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.45-70, 2000-09

一連の論考の連載からなる本論文では, プレスナーの主著『有機的なものの諸段階と人間』において展開されている中心思想を対象とし, とりわけ「位置性」の理論に焦点をあてながら, 難解なことで知られるプレスナーの哲学的人間学の本質的な諸特徴を把握し, その人間学思想と, 「哲学的人間学」の定礎者シェーラー, そして同じ流れを汲むゲーレンの人間学思想との同一性と差異性とを解明することを試みる。前編においては, プレスナーの人間学の諸前提として, 生の哲学とのかかわり, 人間学にたいする課題意識, またカントの批判哲学および現象学的方法との関連におけるその人間学の方法的な独自性を考察した。本稿においては, デカルト的な心身分離論, ユクスキュルの環境世界説, ケーラーとドリーシュの論争との関連をふまえながら, プレスナーの位置性の理論の導入部となる生命あるものの「境界」の概念, そしてこれにもとづく有機的なものの本質諸徴表の理論の全容を究明する。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.63-93, 2001-12

これまでの2回にわたる前編では, プレスナーの哲学的人間学のよって立つ哲学的諸前提とその出発点となった哲学的・生物学的論争について考察した。本稿からはいよいよ, その哲学的人間学の中心思想である位置性の理論の核心的な部分を取り上げる。まず本稿では, 有機的生命一般の本質的諸性質と, これを踏まえた植物的生命の本質的諸特徴とにかんするプレスナーの理論を解明し, 論評する。初めに, 生命体とそれの環境領野である媒体とのあいだに想定される境界, そしてこれにもとづいて生ずる位置性の概念のプレスナー的意味を再確認したうえで, 生命体一般がそなえる動態的および静態的性格, そして生きたものの自己調節可能性と調和等能性などにかんするプレスナーの理論を解釈する。そして, 開放的な有機組織形式をもつと特徴づけられる植物の位置性が生命循環のなかでどのように機能し, またそれが動物の位置性または位置形式とどのように区別されるのかを解明し, あわせてプレスナーのこうした接近の視点の積極的面と限界とを考察する。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.21-50, 2003-03-20

本稿では,植物と動物の位置性にかんするプレスナーの理論を考察した前稿に引き続き,人間の位置性にかんする理論を検討する。プレスナーによれば,人間が環境領野にたいしてとる位置性は,植物の開放性,動物の閉鎖性・中心性とは異なって,脱中心性である。動物は,おのれのうちに意識と中心を有し,環境世界にたいしては行動図式をもって対処しうる。しかし動物は,空間的には<ここ>,時間的には<今>のうちに埋没し,これらと事物とを真に対象化することはできない。これに対して人間は,動物と同じく閉鎖的・中心的ではあるが,<ここ>と<今>にたいして距離を取り,「意識とイニシアティヴの主体」として,おのれの中心から外に出て,これらを対象化し,これらから離脱することができる。人間は,自我をもち,「消失点」または「眺望点」を自己の背後にもつ。しかし,自然による束縛を免れた人間には,動物のような自然的な場所と安定性はもはや失われ,自らの足で立たなくてはならず,場所も時間もなく,境界ももたずに,自らの力で進路を切り開かねばならない。こうして人間は,自然的技巧性を発揮して,道具を用いて文化を創造する必要に迫られ,媒介された無媒介性によっておのれを表出し,歴史をおのれの背後に残さざるをえず,そして世界のうちにおのれの本来の場所をもたない無場所的=ユートピア的性格のために,世界根拠または神への信仰という宗教的次元によっておのれの故郷へと還帰せざるをえない。われわれは,位置形式という首尾一貫した観点から植物・動物と人間との差異に一歩一歩迫っていこうとするプレスナーの理論から豊富な諸論点を大いに学ぶことができる。しかし,彼が空間的なイメージに固執して,人間の一切の営為を脱中心性という位置形式へと還元するあまり,一種の還元主義に陥っているのではないかという嫌疑もまた生じている。彼が言う「消失点」または「眺望点」も,人間の大脳化に伴って,自己自身を対象化しうるまでに発達を遂げた人間の自己意識から説明しうるのであるから,結局のところプレスナーはドイツ古典哲学における観念論的な伝統に回帰していると言わざるをえない。そして位置形式の差異から動物と人間を考察する限り,そこには両者のあいだに橋渡ししえない質的断絶しか見えてこないことになろう。ここにプレスナーの理論の時代的制約と限界があるように思われる。