著者
大塚 雄一郎 久満 美奈子 根本 俊光 松山 浩之 堀内 菜都子 福本 一郎 山崎 一樹 米倉 修二 花澤 豊行
出版者
一般社団法人 日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会
雑誌
日本耳鼻咽喉科学会会報 (ISSN:00306622)
巻号頁・発行日
vol.124, no.6, pp.903-909, 2021-06-20 (Released:2021-07-01)
参考文献数
14

鼻口蓋管嚢胞は鼻口蓋管の胎生期の遺残上皮から発生する. 近年では低侵襲な内視鏡下の開窓術の報告が増えているが, 鼻口蓋神経や上歯槽神経を損傷するリスクがある. 開窓術による鼻口蓋神経の損傷が疑われた1例を経験した. 症例は55歳女性, 硬口蓋前方が膨隆し鼻中隔が前下方で左右に膨隆していた. CT・MRI で鼻腔内に進展する鼻口蓋管嚢胞を認めた. 全身麻酔下に鼻中隔粘膜を切開し嚢胞壁を切除して鼻口蓋管嚢胞を両側鼻腔内に開窓した. 術後に嚢胞は消失したが, 両側上顎の第1, 2, 3歯の違和感を訴え, 術後3年後も両側上顎第1歯の歯肉部の違和感がある. 開窓時の鼻口蓋神経の損傷が原因と考えた.
著者
北村 行伸
出版者
ダイヤモンド社
雑誌
週刊ダイヤモンド
巻号頁・発行日
vol.2005, no.9, pp.102, 2005-09

今週の逸冊 : 政治のリアリティとはなにか?古代インドの教えは「国民の安寧」
著者
R.P. Kangle
出版者
Motilal Banarsidass
巻号頁・発行日
1986
著者
R.P. Kangle
出版者
University of Bombay
巻号頁・発行日
1969

1 0 0 0 實利論

著者
カウティルヤ [著] 中野義照訳
出版者
生活社
巻号頁・発行日
1944
著者
大山 伸子
出版者
沖縄キリスト教短期大学
雑誌
沖縄キリスト教短期大学紀要 (ISSN:03851745)
巻号頁・発行日
no.39, pp.3-22, 2011-03

筆者は、先行研究である「沖縄県の幼稚園における宮良長包音楽の実践状況と方向性(1)-幼稚園教諭へのアンケート調査に基づいて-」において、データに基づく結果を踏まえ、沖縄県の幼稚園における「宮良長包音楽」の実践状況と課題および方向性について論述した。その結果、「宮良長包音楽」の実践率は28.8%と幼稚園現場においては、ほとんど実践されていないことがわかった。しかし、アンケートの回答から得た現場の実態は、決して「宮良長包音楽」を否定的に捉えているのではなく、むしろ肯定的に捉えていることが明らかになった。本論文では、前述論文の後続研究として、1.アンケート調査のデータから見える実態を「実践プロセス概念図」で概念的に示し、構造的に課題を浮き彫りにする 2.幼稚園現場の実践事例を取り上げる 3.活用し得る教材・資料の開発を試みる、という3つの視点から、「宮良長包音楽」を幼稚園現場で実践ならしめる可能性を探ることを眼目とする。研究結果として、多くの幼稚園教諭が、「宮良長包音楽」に親しみを持ち、身近に感じていることがわかったが、実践に至る局面においては、取り組みにくい深刻な実態が顕著であった。また、50代教諭が、「宮良長包音楽」の実践を"中核層"として支えていることが明らかになったが、幼稚園教諭の次世代にどのように継承していくか、大きな課題である。幼稚園現場の実践事例として、沖縄市立北美幼稚園と西原町立西原東幼稚園をモデルとして取り上げたが、両幼稚園で実践している「安里ユンタ」が、地域交流や祖父母と幼児の世代間をつなぐ重要な役割を果たしていることがわかった。さらに、実践困難な理由が「教材・資料が少ない」という多くのアンケート回答に着目し、教材・資料開発の試作として、「すみれ」、「牛」を編曲し、その指導方法を提示した。
著者
武田 弘 山口 亮 宮本 正道
出版者
日本鉱物科学会
雑誌
日本鉱物学会年会講演要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.55, 2004

今回新たに発見された集積岩ユークライト中に,小惑星ベスタのような原始惑星の地殻深部で形成されたと思われる転移ピジョン輝石が発見されたので、その鉱物学的研究を行い、固体惑星物質データベース画像中に類似の組織を探し、その形成過程を推論した。Asuka 980318試料は粗粒結晶質の隕石で、転移ピジョン輝石とCaに富む斜長石よりなる。その結晶化年代は45.6億年と古い。輝石は2_から_3mmの粗粒で、もとあったピジョン輝石の(001)方向に離溶した30ミクロンを越える厚さのオージャイト・ラメラ。このラメラの間には、転移した斜方輝石の(100)方向に配列したブレブス状のオージャイトが観察される。もとのピジョン輝石の粒界と、それより転移してできた斜方輝石の粒界は一致しない。このような組織を固体惑星物質データベースの画像に探した結果、同じく集積岩ユークライトのSerra de Mage (SdM) に見出されたものと非常によく似ている。その転移機構は、斜方輝石の核が形成され、それが成長する事で転移が進行し、もとのピジョン輝石の結晶粒界を超えて斜方輝石が大きく成長したと思われる。
著者
福島 俊一
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報の科学と技術 (ISSN:09133801)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.66-71, 2004-02-01 (Released:2017-05-25)
被引用文献数
2

本稿では,ウェブ検索エンジンの技術の発展を概観する。ウェブはきわめて大規模で多様な内容をもち,日々変化する鮮度の高いハイパーメディアである。このような特徴をもつウェブを魅力的な情報源として活用するための手段として,ウェブ検索エンジンは発展してきた。第一世代の技術はデータベースを利用しながらも人海戦術が基本であった。第二世代の技術はクローラによる自動収集と並列全文検索によって大規模化を推し進めた。第三世代の技術はウェブのリンク関係に着目することで高精炭化を実現した。新たな技術発展として,目的特化と状況適応への取り組みが進められている。
著者
蒋 明超
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.199-221, 2019-09-30

「石敢當」は中国古代の習俗の一つで、一般的に道路の突き当たりや家の壁、橋の入り口などに設置される魔除けや厄除けのための石造物である。石敢當には一般的な石敢當(泰山の文字がない物)と泰山石敢當がある。具体的な出現時期と発祥地は不明であるが、石敢當は唐代末期に今の福建省南部で誕生したと考えられている。宋元時代には北方の山東泰山地域で泰山石敢當が出現した。 中国古代史料の中に、石敢當に関する事柄が頻繁に出ているが、石敢當を建てる習俗の記述を除くと、そのほとんどは石敢當の由来についての解明である。古代資料には泰山石敢當の実物及び泰山石敢當を設定する事情の記述も多くあるが、興味深いことに、泰山石敢當の由来についての記述は一つもなかった。 1970 年代以後、日本でも石敢當に関する多くの書物に中国の石敢當が書かれているが、その研究は主に中国南方に限られており、単独で泰山石敢當を対象にしたものは特に行われていなかったといえる。一方で、同時代の中国の石敢當研究は、まさに泰山石敢當ブームであったともいえる。現時点では、中国においても、日本においても、石敢當と泰山石敢當を分けて比較する研究はほとんど行われていない。 本稿では、中国北方と南方における石敢當のフィールドワークを通し、先行研究の資料と併せて各地域の石敢當の様子、石敢當と泰山石敢當の割合、地域住民の石敢當に対する認識などを調査し、中国南北の石敢當にはどのような異同があるのかを究明したい。中国の地理テキストは秦嶺―淮河を境界線にして、中国南方と北方を分けている。本論文で使用する中国南方と北方はおおよその範囲であり、必ずしも地理定義のように精確なものではない。なお、中国少数民族集住地域と山東省、福建省、浙江省など漢民族集住地域の石敢當はまた違うため、本論文では少数民族集住地域を対象外とする。調査地域は、中国北方の山東省泰山地域と南方の福建省中南部地域を選定した。
著者
高橋 誠一
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点
雑誌
東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian cultural interaction studies (ISSN:18827748)
巻号頁・発行日
no.1, pp.159-177, 2008-03

Situated at T- and L-intersections and at four-corner intersections to drive away evil spirits or energy, Ishigantou talismanic stone tablets were a part of the so-called traditional geographical outlook that was transmitted from China. In the kingdom of Ryukyu in Japan, Ishigantou were installed throughout the cities and villages, and this paper attempts to examine their distribution, etc., with the Amami Islands of Kagoshima Prefecture that was once a part of Ryukyu as the main area of focus. This tradition was brought from China to Okinawa Island, the center of the Ryukyu kingdom, and, as a result, it was then diffused throughout Ryukyu. At the same time, however, due to Ryukyu coming under the rule of the Kagoshima clan at the beginning of the 17th century, after it had spread from Okinawa's capital city of Naha to Kagoshima, it was transmitted from Kagoshima to Edo (present day Tokyo) and throughout the whole of Japan. On the other hand, it was possible to confirm that this tradition also propagated and spread in the opposite direction, from Kagoshima to the Amami Islands. Cultural phenomena must be understood as a multi-directional and intricate thing, and I have illustrated the facts that there are many cases of culture originating from individuals or specific groups, and that its original character is changed by the process of cultural negotiation and new aspects emerge.