1 0 0 0 OA 井原西鶴

著者
片岡良一 著
出版者
至文堂
巻号頁・発行日
1926
著者
杉原 久仁子
出版者
桃山学院大学
巻号頁・発行日
2016-03-17

2015年度
出版者
富士通
巻号頁・発行日
vol.26(1), no.138, 1975-01
著者
永井 正勝
出版者
The Society for Near Eastern Studies in Japan
雑誌
オリエント (ISSN:00305219)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.34-54, 2011

The sentence apearing in lines 74-75 of <i>P. Hermitage No. 1115</i> has been understood as a negative construction of a progressive sentence, <i>nn sw ḥr sḏm</i>, in many studies. This understanding is based on an assumption that the sign A1 tn the original text is so wrongly written that we should omit it or should emend it to A2. In this way, the transcription <i>nn wi ḥr sḏm st</i> is derived.<br> However, in my opinion, the sign A1 in the original papyrus is the 1st person suffix pronoun<i>=i</i> and the text should be understood as a sentence with an adverbial predicate, <i>nn wi ḥr sḏm=i st,</i> "I am not in the situation that I hear it." In this sentence <i>sḏm=i st</i> is thought of as an unmarked complement clause.<br> As not even one correct example of the <i>nn sw ḥr sḏm</i> has been attested, I would like to propose that this constriction is a ghost form invented by modern scholars. As a result, the paradigm of the imperfective aspect, including the progressive form, would look like this:<br><br>        imperfective aspect (intransitive)<br>        habitual     progressive<br> affirmative   <i>iw(=f) sḏm=f   </i><i>iw(=f) ḥr sḏm</i><br> negative         <i>n sḏm.n=f</i>

1 0 0 0 OA 語箋

著者
[高橋富兄] [著]
出版者
[高橋富兄]
巻号頁・発行日
vol.[22], 1000
著者
加藤 喜久雄 福田 正己 藤野 和夫
出版者
The Japanese Society of Snow and Ice
雑誌
雪氷 (ISSN:03731006)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.131-139, 1982

永久凍土中に存在する様々の氷体の安定同位体特性を明らかにするために, アラスカのバローならびにカナダ北部, マツケンジーデルタ地帯にあるタクトヤクタークにおいてピンゴ, 集塊氷, 氷楔, ツンドラ構造土を形成する氷体から採取した氷試料について酸素同位体組成を測定し, その結果について氷体の形成過程と水の起源との関連について検討した.<BR>氷体はその形成過程と水の起源を反映した独自の安定同位体特性を示し, したがって, 氷体の安定同位体特性から逆にその形成過程や水の起源に関する情報がえられることが明らかになった.また, 同じ種類の氷体について安定同位体地域特性の存在が指摘され, 水の起源のみならず形成過程についても地域により異なる可能性が示された.<BR>研究例のない, 凍上の際の水の動きに伴う安定同位体分別に関して一つの考えを示し, この考えがえられた結果により裏つげられることを示した.<BR>永久凍土中に存在する様々の氷体について, これまでほとんど測定例のなかった, 安定同位体特性の解明を試みた.<BR>連続的永久凍土分布地域に属し, ツンドラ地帯にあるカナダ北部のタクトヤクタークとアラスカのバローにおいて, 1974年7月と1977年7, 8月にピンゴ, 集塊氷, 氷楔, ツンドラ構造土を形成する氷体から試料を採取した.採取した試料について酸素同位体組成 (δ<SUP>18</SUP>O) を測定し, 氷体の形成過程や水の起源などと関連づけて氷体の酸素同位体特性について検討した.<BR>永久凍土中のいくつかの形態の氷体については, 凍上現象により形成されると考えられている.ところが凍上に伴う水の動きと安定同位体の分別作用との関係に関する研究例はない.そこで, 今日までにえられている知識から考えられる凍上により形成されたときの氷体におけるδ<SUP>18</SUP>Oの変動パターンを示した.<BR>ピンゴの氷体は凍上により形成されたと考えられている.そこで, 前述のδ<SUP>18</SUP>O変動パターンをピンゴの氷体におけるその変動パターンと対比したところ, 巨大なイブークピンゴ以外のピンゴのものとは良く一致した.したがって, 凍上に伴う水の動きと同位体分別作用との関係に関する考え方の正当性が示されたといえる.巨大なイブークピンゴについては, かなり大きな水体の凍結が関与しているものと考えられる.<BR>やはり凍上による形成が有力視されている集塊氷については, 凍上によるδ<SUP>18</SUP>O変動パターンとは必ずしも一致しなかった.冬に割れ目が生じ, そこへの流入した水の凍結, この繰り返しによりできたと考えられている氷楔に関して, この考えを支持する多様なδ<SUP>18</SUP>O値の存在がタクトヤクタークにおいて確認された.ところが, 氷楔が境界部凹地の下にあると考えられているツンドラ構造土の氷体では, バローのものにはδ<SUP>18</SUP>O値の多様性は認められなかった.このことは, 同じ種類の氷体について安定同位体地域特性の存在を指摘するものであり, 水の起源のみならず形成過程についても地域により異なっている可能性を示している.<BR>個々の氷体は独自の安定同位体特性を有し, この同位体特性は氷体の水の起源と形成過程を強く反映しており, それゆえ氷体の同位体特性からその水の起源や形成過程に関する情報がえられることが, 本研究で示されたといえる.

1 0 0 0 OA 花袋紀行集

著者
田山花袋 著
出版者
博文館
巻号頁・発行日
vol.第1輯, 1923
著者
立松 健一 TATEMATSU Ken'ichi タテマツ ケンイチ
出版者
神奈川新聞社
雑誌
神奈川新聞
巻号頁・発行日
2010

2010年12月20日掲載[総合研究大学院大学 天文科学専攻 教授]
著者
松原 由枝
出版者
川村学園女子大学
雑誌
川村学園女子大学研究紀要 (ISSN:09186050)
巻号頁・発行日
vol.16, no.1, pp.1-26, 2005-03-15

本論文は人格投影法であるソンディ・テスト(Szondi-Test:正式名称。実験衝動診断法:Experimentelle Triebdiaenostik)について次の項目に関し検討・考察されたものである。第1章ではソンディ・テストの実際についてその施行方法を呈示し,次いで本テスト分析解釈上最も重要な4衝動領域(衝動ベクター)と8衝動要因(衝動ファクター)の理解方法についてソンディの衝動概念を踏まえて論じ,本テストの施行方法の特徴とそのねらいについての理解をはかった.第2章ではレオポルド・ソンディ(Leopold Szondi, 1893-1986)と彼の構築した運命分析学(Schicksalsanalyse)について論じた。具体的内容はソンディの生涯と研究領域を発端とし,ソンディの学説に多大な影響を及ぼした個人的な3つのエピソードを解説し,ソンディの学説の概観とその整理をはかった。第3章ではソンディ・テストのわが国における研究の歴史と変遷について過去の研究動向(1956年から現在まで)を整理し,本テストの臨床心理学における位置づけを明確にし,本テストに今後の心理臨床が期待する要因について触れた。第4章では筆者が今まで行ってきた,ソンディ・テストを用いた治療的事例研究から得られた知見をもとに,本テストの心理臨床における治療的活用の意義・効果・限界について考究した。
著者
吉澤 悟
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.12, pp.69-92, 2001

火葬された遺骨を収める容器(骨蔵器)には,しばしば人為的な孔が開けられていることがある。本稿では,この穿孔の意味や背景を考えることから,奈良・平安時代(8~10世紀代)の人々が火葬墓を作る時にどのような思いを抱いてたのか理解しようとするものである。全国の穿孔のある骨蔵器86事例を集成し,その分布や時期別数量,使用器種,穿孔位置,大きさなどの傾向を検討した。さらに,これまでの研究で指摘されている穿孔の排水機能や信仰的用途について,一定の基準を設けて分別し,傾向をまとめた。結果,8世紀段階の穿孔は,比較的小さく排水機能に適したものが多く,9世紀前半を境にそれ以降は,孔が大きく多様な位置に穿孔したものが多くなり,信仰的な意味合いで穿孔されるようになる様子が捉えられた。つまり,穿孔は実用性から非実用性へと変化していたのであり,墓造りの意識自体それに伴って変化していたと推察された。<BR>この変化の背景を探るため,信仰的な遺物(鉄板,銭貨,呪砂など)と穿孔の共存関係を調べたところ,9世紀前半以降,墓における仏教的な儀礼の影響がみられ,それが非実用的な穿孔が増加させる原因であるとの推測を得ることができた。また,穿孔という行為が,一つの集団にどのように受け継がれて行くか,その流れを九州の池の上墳墓群を例にして調べてみた。結果,この墓地では,実用から非実用へと変化する全国的動向とは正反対に,最初の段階から非実用的な穿孔が行われ,後に実用化していた。また,穿孔をもたない一群とも有機的な関係が窺え,骨蔵器になにがしかの手を加える意識が伝承されていた様子を知り得た。これらから,骨壺への穿孔は,厳格な規範として行われたものではなく,加工行為自体を,集団が独自の伝承に基づいて行っていたと考えた。総じて,火葬墓の造営は,遺骨を保護する意識から遺骨を収める際の儀礼を重視する意識へと変化しており,それは,前時代(古墳時代)の遺体保護の観念が薄れ,後の時代(平安時代後期)の墓以外の場所で魂や霊の供養が行われるようになる,過渡的な段階を表象するものと推察した。

1 0 0 0 OA 通志200卷

著者
宋鄭樵撰
出版者
謝氏彷武英殿本刊
巻号頁・発行日
vol.[45], 1859
著者
安川 正貴 薬師神 芳洋 酒井 郁也
出版者
愛媛大学
雑誌
特定領域研究(A)
巻号頁・発行日
1999

白血病の新たな免疫遺伝子治療の開発を目的に研究を行い、下記の研究成果を得た。1)急性白血病ならびに慢性骨髄性白血病急性転化で高率に発現されるWT1のアミノ酸配列から、日本人の約60%が陽性であるHLA-A^*2402結合モチーフを同定した。2)このモチーフを有する9merペプチドを作製し、健常者末梢血単核球から誘導した樹状細胞(DC)にパルスし、自己CD8陽性T細胞をくり返し刺激した。この方法によって、WT1ペプチド特異的HLA-A24拘束性細胞傷害性T細胞クローンTAK-1を樹立した。3)TAK-1は、WT1を発現したHLA-A24陽性白血病細胞に対して特異的に細胞傷害性を示し、正常細胞には全く傷害性を示さなかった。4)健常者骨髄細胞の増殖にも全く影響は認められなかった。5)TAK-1を新世界猿のウイルスであるHerpesvirus saimiri(HVS)により不死化させた。HVS不死化TAK-1は、抗原刺激なくして長期間培養でき、本来のTAK-1同様の抗原特異性を示した。5)この不死化TAK-1に自殺遺伝子を導入する目的で、Herpes simplex virus-1由来thymidine kinase(tk)遺伝子を組み込んだレトロウイルスベクターを作製した。現在、このベクターを用いて不死化TAK-1にtk遺伝子を導入している。以上の結果から、新たなヒト白血病特異的標的抗原が明らかとなり、自殺遺伝子を導入したHVS不死化細胞傷害性T細胞は、白血病に対する免疫遺伝子治療に有用であると考えられる。
著者
岡本 佳子
出版者
Institute for Cultural Interaction Studies, Kansai University
雑誌
近代世界の「言説」と「意象」 : 越境的文化交渉学の視点から
巻号頁・発行日
pp.181-211, 2012-01-31

Okakura Kakuzō (1863-1913) is a Japanese art critic famous for his phrase "Asia is One." This paper argues that Okakura "discovered Asia" when he visited India for the first time in 1901-02. At the turn of the twentieth century, non-Western intellectuals began to cross borders in order to pursue national goals, including anti-colonial struggles and cultural "revival" movements. The benefits of a Western education allowed some to engage in writing and speaking activities in Western languages, mostly English. Following the lead of Indian scholars, Okakura and other Japanese thinkers entered the international intellectual arena. He and others like him sought to portray the "East" as a civilization with universal values, placing it on equal terms with the West. In India, Okakura associated with Bengali elites such as Swami Vivekananda (1863-1902) and members of the Tagore family. Vivekananda was a man of strong national consciousness and universal views who asserted that being "Hindu" or being "Indian" also meant being "universal." The confidence and national consciousness of the Bengali elite had a strong infl uence on Okakura's creation of the idea of "Asia." During his stay in India, Okakura completed his first book in English, The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan (1903) which began with the symbolic manifesto "Asia is one." In this book, he presented his idea of "Asia" not as a mere geographical concept but as a civilization with China and India as the two major sources of culture and with vast areas nonetheless united in "the Ultimate" of beauty and religion. One motivation to reveal the heights of "Asian" civilization was Okakura's belief that non-Western peoples needed a reliable standard for self-recognition independent from the Western standard. He wrote this book not only for a Western audience, but for Indians who were conversant with English. Okakura felt political sympathy for colonial India under the historical situation of Bengal where the mental and social preparation for the Swadeshi Movement from 1905 was gradually beginning. However, Okakura could not help realizing that he and Bengalis could communicate with each other only in English, the suzerain language. And he became sensitive to how the Western point of view influenced non-Western people and their interactions with each other. In this historical context, Okakura's idea of "Asia" was meant to be effective as a suggestion of reforming the cultural identity of non-West. But The Ideals of the East had another purpose with regard to Okakura's special field of Japanese art. He put Japan in the position of "a museum of Asiatic civilisation" which preserved the essence of the artistic legacies of "Asia." And thus Japanese art acquired an aesthetic value that matched its Western counterpart. On the contrary, Okakura had to prove that Japanese art was not a mere epigone of China and India but had its own unique significance and originality. This book shows while Okakura located Japanese art within the stream of beauty of "Asia," his nationalism made him seek for a Japanese "spirit" that had continued throughout history from ancient times to modify "continental" styles and produce a "national" element in art. In Bengal, Okakura set himself this complicated task to create a monolithic cultural identity known as "Asia" and to universalize Japanese art while, at the same time, he sought to particularize it as a unique national culture.
著者
小幡 宗平 片岸 正 根津 光也
出版者
公益社団法人 日本アイソトープ協会
雑誌
RADIOISOTOPES (ISSN:00338303)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.39-45, 1962-02-01 (Released:2010-07-21)
参考文献数
25

1957年当場のアイソトープ課にガンマ線照射室が建設され, チューリップ球根に対する影響について実験中である。照射第1年目の効果について試験し, 第2年目以後の変化の模様についても詳細に観察し, チューリップの芽条変異誘発について検討した。1) 線量率試験の結果, 50r/h以下で1~3kr照射の場合仔球の生産は抑制されない。2) ガンマ線により花弁に条斑点が出現するが, これには一定の傾向があり, またその形状は球根の発育分化と関係がある。3) Athleetについて照射第4年までの変化について観察した結果, チューリップにおける芽条変異は‘キメラ説'で説明されるとした。