著者
平井 新
出版者
慶應義塾経済学会
雑誌
三田学会雑誌 (ISSN:00266760)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.159(1)-177(19), 1961-03

論説
著者
磯貝 富士男
出版者
大東文化大学
雑誌
大東文化大学紀要. 人文科学 (ISSN:03861082)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.177-197, 2008-03

本稿は、平氏政権から鎌倉幕府に至る日本における武家政権成立という歴史現象を十二世紀前半以来の社会的矛盾の展開の中から解明しようとするための作業の一階梯として試みたものである。分析対象は、崇徳天皇が長承・保江の飢饉への対策を求めたのに応じて、藤原敦光が保延元年七月二十七日に提出した「勘申」であって、この飢饉で生じた社会的矛盾の基本的あり方を明らかにしようとしたものである。敦光の視野に入っていた問題状況としては、中央における財政難問題、国司ルートを通じての徴税問題、その社会において生じていた私的高利貸し問題等があったが、中心軸は徴税に関する問題であった。その国司ルートを通じての徴税に関しては、検田を行なわないで利田請文による場合には強制出挙というだけでなく未進が負債とされるという問題が生じており、また検田手続きを経る場合でも公田官物率法を高くするという問題が生じる等、過酷な重税が現地農村社会を圧迫し疲弊させるという事態が展開していた。このような国司に依る徴税が横行している中で、神人・悪僧が、神威・仏威を悪用して国司の徴税にも応じないという状況が生じていた。その結果、中央に納められるべき物資が不足することになり、中央官司に勤務する人々の月俸などが滞る事態となっていた。社会状況としては、都で低利で借りて、地方で高利の貸出しを行なうという業者が生まれ、その厳しい取り立てによって追い詰められ、逃亡したり、妻子を奴婢に売ったりさせられる人々が続出していた。この私的高利貸し活動は、国司に依る過酷な徴税と相まって、飢饉状況下、公私の高利貸し資本が農村を収奪するという状況を生じさせていた。鳥羽院政期は荘園寄進が続出し領域型荘園の成立期とされるが、国司による徴税問題を中心に論じた敦光勘申には、神人・悪僧問題への言及はあるものの、荘園乱立問題への言及がみられないという特徴があった。
著者
山田 陽子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.380-395, 2002-12-31
被引用文献数
1

本論の目的は, 「社会の心理学化」 (P. L. Berger) をE.デュルケム以来の「人格崇拝」の再構成から位置付けることである.心理学的知識が普及した社会では, 「心」に多大な関心が払われる.その侵犯を回避すべく慎重な配慮がなされ, 「心」は聖なるものとして遇される.「心」が重要だと語りかける一方で, それを操作対象とする「心」をめぐる知の普及はいかに解釈されうるか.ここではデュルケムの「人格崇拝」論にE.ゴフマンの儀礼論, A.ホックシールドの感情マネジメント論を接続し, それぞれに通底する「人格崇拝」論の構造と異同を明らかにすることによって解答を試みる.<BR>デュルケムは「人格崇拝」概念において, 近代社会では個人の人格に「神聖の観念」が宿ると指摘した.ゴフマンはそれを継承して儀礼的行為論を展開し, 世俗化の進行する大衆社会において唯一個人が「神」である様子を詳細に記述・分析した.デュルケムの宗教論とゴフマンの儀礼的行為論の影響が認められるホックシールドの感情マネジメント論では, 人格や「カオ」に加えて「心」に宗教的配慮が払われることが示唆されている.<BR>ホックシールドを「人格崇拝」論から読む試みを通じ, デュルケムやゴフマンの現代的意義を再評価しつつ, 心理学的知識の普及に関する新たな分析視角の導出と理論的枠組みの構築をめざす.
著者
田辺 久子
出版者
東京女子大学
雑誌
史論 (ISSN:03864022)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.1-11, 1975
著者
佐々木 文昭
出版者
北海道武蔵女子短期大学
雑誌
北海道武蔵女子短期大学紀要 (ISSN:03899586)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.五三-九一, 2011-03-15
著者
長澤 淑夫
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書 (ISSN:18817165)
巻号頁・発行日
no.166, pp.13-24, 2011-02-28

千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書第166集『日本の社会・労働運動の史的研究』三宅明正 編
著者
松岡 まり江
出版者
早稲田大学演劇博物館
雑誌
演劇映像学
巻号頁・発行日
vol.2012, pp.235-259, 2013-03-22
著者
福田 義昭
出版者
東洋大学アジア文化研究所
雑誌
アジア文化研究所研究年報 = Annual journal of the Asian Cultures Research Institute (ISSN:18801714)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.1(366)-22(345), 2017

This article is a sequel to my two earlier articles on the literary representation of Muslims in Japan during the Showa period. While the earlier articles each dealt with several writers, this article exclusively deals with works of the Taiwanese-Japanese writer Chin Shunshin (1924-2015). Chin was born in the city of Kobe and encountered Tatar children there in his youth. As he studied Hindustani and Persian at Osaka School of Foreign Languages he increased his interest in the Islamic world. He reminisces about his frequenting the Kobe mosque during the WWII. After the war, he made several visits to countries of the "Silk Road" and met in Istanbul some Turks of Tatar origin, who had lived in Japan until the aftermath of the war and spoke Japanese fluently. Chin wrote a lot of novels set in Kobe, some of which include Tatar characters. He drew attention to the "statelessness" of the Tatars and depicted them with sympathy and understanding. For him, Tatars were co-members of the community of strangers of Kobe who shared Japanese as the common language.
著者
青山 英夫
出版者
上智大学史学会
雑誌
上智史学 (ISSN:03869075)
巻号頁・発行日
no.27, pp.p124-132, 1982-11
著者
伊藤 邦彦
出版者
東京都立産業技術高等専門学校
雑誌
東京都立産業技術高等専門学校研究紀要 (ISSN:18831990)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.112-106, 2009-03

鎌倉幕府守護の管国統治機構については、佐藤進一『増訂鎌倉幕府守護制度の研究-諸国守護沿革考証編-』(東京大学出版会、一九七一年。初版一九四八年。引用は、一九九八年第四刷に拠る。以下、『鎌倉幕府守護制度の研究』と略記)をはじめ、個々に言及されていることは勿論であるが、専論として全体を包括したものはほとんど見当たらない。前号では管国統治機構を構成する正員・守護代以下の職員の問題を取り上げたが、本号では「守護所」について、まずその語義を整理しておきたい。
著者
川崎 由明 坂本 一民 Maibach Howard I.
出版者
日本化粧品技術者会
雑誌
日本化粧品技術者会誌 (ISSN:03875253)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.55-61, 1996
被引用文献数
1

5種類のアミノ酸 (L-リジン塩酸塩, グリシン, L-グルタミン酸モノナトリウム, L-プロリン, L-スレオニン) をアミノ酸のモデルとして選定し, ヒト皮膚に於けるそれらのpH 7.4水溶液からの<i>in vitro</i>経皮吸収挙動をラジオアイソトープを用いて種々検討した結果, ヒト角質層はアミノ酸経皮吸収に対して大きなバリアとなっていることが明らかになった。また, 正常皮膚に於けるアミノ酸経皮吸収流束とアミノ酸のlog P (オクタノール/水) の間に負の相関関係が確認されたことから"マイクロチャンネル"の存在が示唆される。更に, グリセリンやPCAナトリウム等を共存させた場合, L-プロリンの皮膚透過量は殆ど変化せずに, 表皮への吸着量は増大したことから, ヒト表皮はアミノ酸のリザーバーとしての役割を果たしていると考えられる。
著者
任 利
出版者
筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科日本語学研究室
雑誌
筑波日本語研究 (ISSN:13424793)
巻号頁・発行日
no.8, pp.72-89, 2003

本稿では明治初年から現在までに発表された小説を用い、終助詞「かしらん>かしら」という語形変化の流れの中での男女の使用差を調査した。昭和前期頃に語形が「かしら」に定着するとともに、女性的な表現として定着していることが分かった。また、明治後期の男女の使用差を考察したところ、明治後期の作品では、女性の発話に丁寧体と共存して終助詞「かしら」を使用する用例が多く見られた。これは、直接的な問いかけや依頼を避け、柔らかな丁寧さを示しており、明治以後形成された発話の仕方における男女差の反映と見られる。小説の世界では、明治後期から「かしら」を使用する女性のステレオタイプが形成され、大正期・昭和期をへて、現在に至り「かしら」が女性的表現として定着してきたと考えられる。