著者
静 春樹
出版者
Association of Esoteric Buddhist Studies
雑誌
密教文化 (ISSN:02869837)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.219, pp.L9-L40,139, 2007

In issues 216-217 of <i>Mikkyo Bunka</i> the author discussed the philosophical viewpoints having been held within Indian Buddhism by the three <i>yanas</i> of Sravakayana, Paramitayana, and Vajrayana. In the present article the author will discuss in outline the view of the position occupied by women in Vajrayana. This is a timely and cutting edge issue that involves questions revolving around feminism and postmodernism. First and foremost, we are all either male or female. Feminists have declared that textual studies forming the foundation of the humanities cannot avoid the issue of gender, but that an awareness of this has not been present initially in such studies. Some cultures have a symbol system focused on women such as is typified by the worship of the Madonna, yet contradictorily those societies in practice suppress women and take away their right to discourse. Feminism accuses the history of Indian Buddhism as being strongly androcentric, and further criticizes the cultural paradigm within Indian Buddhism in which statements of gender inequality have resorted to the shields of emptiness and transcendent practices to rationalize the suppression of women by men. Based on such criticisms, the author will present a general idea of the view of women within Vajrayana, and will provide a foundational report to serve as the basis for a constructive dialogue to approach this issue.<br>In the first section the author provides an outline of discrimination against women in the history of Indian Buddhism. The second section will examine passages on the <i>yogini</i> and <i>dakini</i> deities developed in Vajrayana. Section three will study textual passages delineating the living yoga consorts treated as the physical manifestations of such deities. Section four will present passages describing the women who participated on an equal footing with men in the <i>ganacakra</i> tantric rite. In conclusion, the author will demonstrate the ideal of the female principle having been incorporated in Vajrayana doctrine and the indispensability of women in actual religious practices, in particular, the high degree of gender equality described in <i>ganacakra</i> meetings.
出版者
日経BP社
雑誌
日経ベンチャ- (ISSN:02896516)
巻号頁・発行日
no.242, pp.19-25, 2004-11

「お願いしておりました"スキルナー"、届きました! 装着して指輪をはめてみると、本当に私の指のよう。嬉しくて嬉しくて涙がこぼれました」 「"ビビファイ"、ありがとうございました。早速友人に見せに行きました。みんなびっくり! このおっぱいを着けて、温泉に行きたいです!」 義肢装具会社、中村ブレイスには、こんな感謝の手紙が毎日のように届く。
著者
王 彩華 坂上 勝彦
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会論文誌. D-II, 情報・システム, II-情報処理 (ISSN:09151923)
巻号頁・発行日
vol.81, no.8, pp.1885-1894, 1998-08-25
被引用文献数
10

ステレオマッチングの信頼性と精度を向上するために, モーションステレオによって3次元物体形状を獲得する手法を提案する.本手法では, 2枚のステレオ画像のほかに, 物体を少しだけ動かして撮影したもう2枚のステレオの画像(合計4枚)を使う.まず, 4枚の画像から求められるステレオマッチングとオプティカルフローを, 背景が静止で物体が剛体である条件のもとで統合し4枚の画像間の対応を求める.ステレオ情報とモーション情報を同時に使うことによって, 従来のステレオ手法より信頼性の高いマッチングが得られる.更に, 4枚の画像の間の対応をアクティブネットで表し, 各ネットの内部ひずみ, 画像間の適合性, 視差と動きの整合性, 局所剛体性によって定義されているネットのエネルギー汎関数を最小化することによって, 4枚の画像の間の最適マッチングを求める.また, 剛体性のある動き領域(物体)を抽出し, 3次元物体形状を獲得することができる.いくつかの画像での実験結果はこの手法の有効性を示している.
著者
武村 知子
出版者
一橋大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2001

1980年にバンド「アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン」を結成し、現在、音楽・文芸・舞台・映画等様々な分野で活躍中のドイツのアーティスト、ブリクサ・バーゲルトの二十年にわたる活動の全容をあきらかにすること。日本ではかろうじて、ごく一部の「音楽」活動しか知られていない彼の多岐にわたる営為、ことに言語芸術的営為に焦点をあてて紹介することで、彼とそのバンドに対する従来の一般的評価に新しい視点をくわえ、彼の作品に新しい位置づけを与えること、いわば、「音楽」という狭い領域のなかから彼とその営為とを、人間の言語的営為一般のなかへ放り出し、広々した混迷の歴史のなかに位置づけようとしては失敗することによって、彼の営為に接近すること。そのようにしてしか接近しえないものとして彼の営為をとらえることによって、彼の作品、および、それらの作品が生まれるに至った現代文化のある深層にスポットを当てることが可能になるということを明らかにすること。15年にわたって蓄積した膨大な資料にもとづいて、上記のような意図に沿ってこころみた集大成は、したがって、研究成果の集大成というよりは、集大成することの失敗の集大成という様相を呈する。レコード、CDどころかインターネットで音楽を聞く、聞くことを反復するとはどういうことなのか?歌詞の翻訳とは何か、あるいは、音楽の記憶とは何か、そこで生じるメランコリーはなにゆえのものか。そうしたことを言語をもって考察し、その考察が文字として印刷される、あるいはされないとはどういうことなのか、音楽と言語とがこもごもにめざすユートピアは、書字文化からデータ文化への移行期にあって、その非在の様相をどのように変えるのか、「研究成果」としての「書物」は、その変化のなかでどのような立ち位置を見出すことができるのか?そうした複合的な問いに対するひとつの解答のこころみ、あるいはその確信的失敗の例証として、この研究報告書としての「書物」は成立するだろう。
著者
竹内郁雄 奥乃博 大里延康
雑誌
情報処理学会研究報告プログラミング(PRO)
巻号頁・発行日
vol.1982, no.34(1982-PRO-020), pp.1-8, 1982-10-18
著者
大里延康 竹内郁雄 奥乃博
雑誌
情報処理学会研究報告プログラミング(PRO)
巻号頁・発行日
vol.1984, no.71(1984-PRO-031), pp.5-12, 1985-03-12
著者
カール ヴァイス E ピーター スタモーリス G 作山 宗久
出版者
社団法人情報科学技術協会
雑誌
情報の科学と技術 (ISSN:09133801)
巻号頁・発行日
vol.44, no.7, pp.392-401, 1994-07-01
被引用文献数
2

品質システム規格のISO9000シリーズは米国とカナダにおけるすべてのビジネスに影響を与える.レコード・マネジメント・プロフェッショナルは品質保証のプログラムを開発し運営するにあたって重要な役割を演ずる機会を持っている。ISO9000シリーズは正式なレコード・マネジメントの実践を明白に求めている,はじめての規制による要求事項であり,または市場からの要求事項なのである。本稿はISO9000シリーズによる審査登録の重要性とレコード・マネジメントの参画の必要性を説明し,審査登録のプロセスを述べ,会社に貢献するために,私たちがふまなければならない行動ステップを明らかにする。
著者
REZA Mohamad 山本 大介 松岡 裕之
出版者
日本衛生動物学会
雑誌
衛生動物 (ISSN:04247086)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.217-222, 2012
被引用文献数
6

ハマダラカ (<i>Anopheles stephensi</i>) 幼虫を低濃度の銅イオンにさらし,これを死亡させる濃度を探索するため,異なる濃度の銅イオン環境で飼育し,動きが悪くなる個体,死亡する個体を観察した.幼虫を1.2 ppmまたは2.4 ppmの銅イオン環境下で飼育したところ,1週間で半数以上が死亡した.0.6 ppmの飼育では,死亡はしないものの動きが悪くなり,成長が遅くなることが観察された.捕食性の魚であるグッピーに与えたところ,0.6 ppm銅イオン処理幼虫群は,無処理幼虫群に比べ,有意に短時間でグッピーに捕食された.ヒトの飲料水に許容される銅イオン濃度の上限は1 ppmであるため,ヒトとボウフラに対する銅イオンの毒性の差を利用して新たなハマダラカ幼虫対策が期待できる.
著者
内藤 親彦
出版者
日本ペストロジー学会
雑誌
ペストロジー (ISSN:18803415)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, 2012-04-30
著者
長谷川 昌弘 藤沢 隆夫 駒田 幹彦 内田 幸憲 灰原 クリスティーナ
出版者
一般社団法人 日本アレルギー学会
雑誌
アレルギー
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.173-180, 1991
被引用文献数
12

小児気管支喘息患者において, 好酸球中に含まれる顆粒蛋白の一つである eosinophil cationic protein (ECP) の血中濃度を測定し臨床的パラメータ-との関連, 日内変動の有無について検討した. 対象は重症気管支喘息患児89名, 非アレルギー正常小児及び成人16名で, 6, 12, 17, 21, 翌朝6時に血清 ECP, 好酸球数(Eo), 肺機能を測定し, 臨床症状と合わせて検討した. ECP は radioimmunoassay にて測定した. 血清 ECP, Eo ともに非アレルギー群と比較して喘息群で高く特に採血時に喘息発作が認められたとき有意に高値を示した. 発作前後の変動では血清 ECP は発作後24時間まで高値であり, 7日以内に発作前値に戻った. 一方, 一定の日内変動リズムは認められなかったが, 喘息群 (非発作群) では有意に変動幅が大きく, 不安定であった. ECP と採血前2ないし8週間の発作点数の合計, 肺機能とは相関はなかった. 以上より血清 ECP は喘息特にその活動期に高値となり, 好酸球の活性化の状態を反映している可能性が考えられた. 今後, 気管支喘息の臨床評価の一手段として有用であると思われた.
著者
帖佐 尚人 チョウサ ナオト Chosa Naoto
出版者
鹿児島国際大学福祉社会学部
雑誌
福祉社会学部論集 = Quarterly journal of welfare society (ISSN:13466321)
巻号頁・発行日
vol.33, no.2, pp.17-26, 2014-10

「親のライセンス化」論は、子の出産・養育に先立って、全ての親に一定のライセンス取得手続きを要求することで不適格な親(incompetent parent)を排除し、全ての子どもが適格性を有する親による保護・養育を受けられるようにすることを企図したもので、1980年にアメリカの倫理学者H.ラフオレットが提唱して以降、賛否両論の活発な議論が展開された。しかし、実のところこの主張は極めて極端なものであり、あくまで思考実験レベルでの議論にとどまるものであると捉えるのが妥当であろう。そこで本稿では、この「親のライセンス化」の代替策、つまり親の権利制約をより少ない次元にとどめつつも、一方で児童虐待を事前的レベルで抑制し得る理論・制度を探求することを目的として、アメリカの児童精神医学者J.ウェストマンの青年期妊娠・出産規制論を検討する。彼の主張は、別稿で取り上げた上記のラフオレットの代替的理論とは異なり、「親のライセンス化」という発想の実質的な放棄を試みている点で特徴的と言えよう。The theory of licensing parents aims to exclude incompetent parents from childrearing and to give every childappropriate protection and nurture of competent parents to every child, by requiring all parents to be licensed beforehaving children. After American ethicist Hugh LaFollette proposed the claim in 1980, the active arguments of the pros andcons have been developed in the United States.However, it is probably appropriate to remain his assertion as thought experiment level because it is extremelyunrealistic. Therefore we have to seek alternatives of licensing parents, which can put less restriction on parental rights andalso can protect from child abuse in advance.So in this paper, I analyze American child psychiatrist Jack C. Westman's claim of preventing adolescent parenthood.His claim is different from Hugh LaFollette's which I formerly analyzed, and it is characteristic that he is trying toabandon the idea of licensing parents practically.
著者
帖佐 尚人 チョウサ ナオト Chosa Naoto
出版者
鹿児島国際大学福祉社会学部
雑誌
福祉社会学部論集 = Quarterly journal of welfare society (ISSN:13466321)
巻号頁・発行日
vol.33, no.2, pp.17-26, 2014-10

「親のライセンス化」論は、子の出産・養育に先立って、全ての親に一定のライセンス取得手続きを要求することで不適格な親(incompetent parent)を排除し、全ての子どもが適格性を有する親による保護・養育を受けられるようにすることを企図したもので、1980年にアメリカの倫理学者H.ラフオレットが提唱して以降、賛否両論の活発な議論が展開された。しかし、実のところこの主張は極めて極端なものであり、あくまで思考実験レベルでの議論にとどまるものであると捉えるのが妥当であろう。そこで本稿では、この「親のライセンス化」の代替策、つまり親の権利制約をより少ない次元にとどめつつも、一方で児童虐待を事前的レベルで抑制し得る理論・制度を探求することを目的として、アメリカの児童精神医学者J.ウェストマンの青年期妊娠・出産規制論を検討する。彼の主張は、別稿で取り上げた上記のラフオレットの代替的理論とは異なり、「親のライセンス化」という発想の実質的な放棄を試みている点で特徴的と言えよう。The theory of licensing parents aims to exclude incompetent parents from childrearing and to give every childappropriate protection and nurture of competent parents to every child, by requiring all parents to be licensed beforehaving children. After American ethicist Hugh LaFollette proposed the claim in 1980, the active arguments of the pros andcons have been developed in the United States.However, it is probably appropriate to remain his assertion as thought experiment level because it is extremelyunrealistic. Therefore we have to seek alternatives of licensing parents, which can put less restriction on parental rights andalso can protect from child abuse in advance.So in this paper, I analyze American child psychiatrist Jack C. Westman's claim of preventing adolescent parenthood.His claim is different from Hugh LaFollette's which I formerly analyzed, and it is characteristic that he is trying toabandon the idea of licensing parents practically.

1 0 0 0 OA 愛媛県誌稿

出版者
愛媛県
巻号頁・発行日
vol.上巻, 1917

1 0 0 0 OA 真書太閤記

著者
著者不詳
出版者
信濃出版
巻号頁・発行日
vol.第8編 巻1−10, 1884