著者
玉田 芳史
出版者
京都大学東南アジア研究センター
雑誌
東南アジア研究 (ISSN:05638682)
巻号頁・発行日
vol.34, no.1, pp.127-150, 1996-06

この論文は国立情報学研究所の学術雑誌公開支援事業により電子化されました。
著者
松下 隆志
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.71-91, 2011-12-26

1990年代のロシアでは,欧米諸国に遅れる形でポストモダニズムが流行した。ロシアのポストモダニズムは,元来アメリカの後期資本主義の発展を受けて形成されてきたものであるこの思想を,コミュニズムの文脈に置き換えて解釈する独自のものである。イデオロギーの集積から成るソ連社会を実質 を欠いた空虚な存在とみなすロシアのポストモダニズムは,実際にソ連崩壊を経験した新生ロシアにおいて大きな影響力を持った。文学の領域においても,ポストモダニズムはロシアの伝統的なリアリズムを超克する新しい潮流としてポストソ連文学のもっとも先鋭的な部分を代表するものとなったが,保守的な作家や批評家には大きな反発を引き起こした。このように1990年代には賛否両論喧しかったポストモダニズムだが,ソ連崩壊から時間が経つにつれセンセーショナルな性格は弱まっていった。結果として,2000年代以降のロシア文学はリアリズムの復興,若い世代の作家の台頭,政治性の高まりなど,より多様な展開を見せており,ポストモダニズムもそうした多様性のなかの一潮流として看做されるようになっている。 本論では,このように90年代のトレンドであったポストモダニズム文学が2000年代以降どのような展開を見せているかを,パーヴェル・ヴィクトロヴィチ・ペッペルシテインПавел Викторович Пепперштейн(1966-)の小説『スワスチカとペンタゴン』《Свастика и Пентагон》(2006)を取り上げて考察する。ペッペルシテインはロシアのポストモダニズムの先駆的存在であるアート集団「モスクワ・コンセプチュアリズム」に属するアーティスト・作家であり,『スワスチカとペンタゴン』は探偵小説のロジックとポストモダニズムの哲学をミックスさせたユニークな作品である。第一節では,作品分析の下準備として,ソ連崩壊後の90年代にロシアにおいてポストモダニズムと探偵小説が果たした役割を概観する。第二節では,2000年代以降の文学的 動向を視野に入れながら本作品の分析を行う。第三節では本作品に仕掛けられたトリックを解明し,ペッペルシテインの創作において「解釈」が持つ重要性を考える。
著者
岡部 光明
出版者
明治学院大学国際学部
雑誌
明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review International & regional studies (ISSN:0918984X)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.21-40, 2017-10-31

現在の主流派経済学は、人間の行動に関して比較的単純な前提(利己主義的かつ合理的に行動する人間像)を置き、そうした個人や企業によって構成される市場のメカニズムとその帰結を分析の基本としてきた。しかし、多くの学問分野の研究によれば、人間は単に利己主義的な存在であるだけでなく利他主義的動機も併せ持つほか、モノの豊富さ追求以外にも多様な行動動機を持つことが明らかになっている。このため、経済学においては人間の行動動機を再検討する必要がある。また経済学の究極的な目的が個人の「幸福」と「より良い社会」の構築にあるとすれば、市場メカニズム以外にも、個人の行動がより良い社会を導くといった思想の探究もその射程に入る。本稿では、そのような問題意識に基づいて刊行した近刊書籍(岡部 2017a)の要点を紹介した。そして(1)人間にとって持続性のある深い幸福は単に消費増大というよりも人間の能動的側面(自律性、絆、人生の目的意識等)に関わっている、(2)社会の基本的枠組みの理解においては従来の二部門(市場・政府)モデルでなく上記(1)の延長線上に位置づけられる三部門(市場・政府・NPO)モデルに依る必要がある(後者の優位性は経済政策論の観点から理論的に示せる)、(3)個人の幸福追求と社会改革を一体化する一つの現代的な実践哲学が存在感を高めており今後その動向が注目される、などを主張した。
著者
蒲生 重男
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学理科紀要. 第二類, 生物学・地学 (ISSN:05135613)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.1-21, 1991-10-31

Eleven specimens of serolids (Crustacea, Isopoda, Flabellifera, Se-rolidae) were collected by the Japanese Antarctic Research Expedition (JARE) from the Antarctic Sea during 1973-85. Examination of the materials has resulted in the finding of four known species, Serolis polita PFEFFER, S. pagenstecheri PFEFFER, S. (Ceratoserolis) trilobitoides EIGHTS, and S. (C.) meridionalis VANHOFFEN, Some brief notes and illustrations are given for the species.
著者
加藤 重広
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.31-64, 1997-03-21

日本語の数量詞(quantifier)に関する問題はこれまで様々なかたちで考察されてきており,論点は整理されてきたように見える。①子豚が三匹いました。(NCQタイプ)②三匹の子豚がいました。(Q-no-NC タイプ)③子豚三匹がいました。(NQCタイプ)。本稿では,まず「数量詞」の様々な形を網羅的に議論できるように,その用語を定義することから始める。「数量詞」の定義は単純なようで厄介な問題を含んでおり,数量詞分析のアプローチに直結する問題も含んでいるので,避けて通るわけには行かない。その後で,まずNCQタイプの数量詞(遊離数量詞)の性質について多角的に分析を試みる。次に,Q-no-NCタイプの数量詞文(連体数量詞文)の意味とNCQ夕イプの数量詞文(遊離数量詞文)の意味の違いを分析する。これら連体数量詞と遊離数量詞の差異は,従来の意味統辞的な準位だけでなく,談話文法のレベルでの分析が必要である。多くの例文に当たりながら,話者の認知がいかに反映されるかについて,一つの仮説を示し,あわせてその検証を行う。
著者
渋井 君也
出版者
文化学園大学・文化学園大学短期大学部
雑誌
文化学園大学・文化学園大学短期大学部紀要 (ISSN:24325848)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.109-118, 2019-01-31

『源氏物語』は、中国では「日本の『紅楼夢』」と称されることがよくある。初めて『源氏物語』全文を中国語に翻訳した豊子愷は、かつて「白頭今又訳紅楼(白頭今又『紅楼』を訳す)」と書き、『源氏物語』を翻訳することを、『紅楼夢』を翻訳することに喩えた。『紅楼夢』の研究が中国で「紅学」と称されるのに対し、『源氏物語』の研究は「源学」と称される。近年、中国の『源氏物語』の研究が迅速に進むとともに、『源氏物語』と『紅楼夢』との比較研究は、中国における「源学」研究に占める比重が非常に大きいだけでなく、中国文学と外国文学を含む『紅楼夢』の比較文学の研究においても、それに比肩するのは恐らく『紅楼夢』と『金瓶梅』との比較研究のみである。『源氏物語』がそれほどまでに注目されるのは、主に中国の読者からみれば『源氏物語』が、『紅楼夢』と『金瓶梅』以外に貴族家庭小説の特徴を有し、しかも女性描写への傾注を特色とし、貴族社会を描いた長篇世情小説を提供したためである。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.21-49, 2018-03

食糧管理制度は,戦時下であった1942(昭和17)年の食糧管理法の制定から,約半世紀にわたり,わが国の食糧政策の根幹であり続けた。本稿はその起源を戦時体制下の食糧政策に求め,今日も続く自給をめぐる管理体制の問題を明らかにした。 1939(昭和14)年の朝鮮大旱魃をきっかけとして,わが国の食糧管理体制が構築された。この体制は外米輸入や消費規制を重視したが,食糧の供給不足が続くなかで,農林省は農家保有米の制限や配給の導入を行なった。それとともに外貨を流出せずに外米を輸入できる仕組みを整え,供給不足の解消をめざした。さらに1941(昭和16)年に食糧管理局が設置され,日米開戦後に食糧管理法が制定された。 しかし戦局の悪化に伴い,外米輸入や朝鮮・台湾からの移入が困難となった。農林省は国内自給を訴えたが,食糧管理体制は脆弱性を露呈した。この体制の維持には,農家の供出が重要となったが,その完遂は容易ではなかった。 終戦直後,食糧管理局はGHQ に対する食糧輸入の懇請を行なった。GHQ は食糧輸入を通して,日本の食糧管理に深く関与したが,国内自給を最も重視した。このためにGHQ は,食糧管理局主導の食糧管理強化を許容せざるをえなかった。これによって食糧管理局は戦後も食糧管理体制を存続・強化することになった。これが現在も続く自給率向上の強調へとつながっていった。