著者
崔 銀姫
出版者
一般社団法人 社会情報学会
雑誌
社会情報学 (ISSN:21872775)
巻号頁・発行日
vol.1, no.2, pp.93-108, 2012

本稿では,1950年代の日本における「観光アイヌ」の誕生をめぐって全国的な流行と社会的なブームに至るまでの歴史を,近代後半からおよそ60年間(1899年の「北海道旧土人保護法の制定」〜1959年の『コタンの人たち』)の時代における「観光アイヌとは何か」の問題を中心に,単なる「差別」と「同化」の問題に帰結させるのではなく,20世紀初期から半ばのメディアの空間の成立と変容をメディア文化論の視点から鳥瞰的に検討することで,「覧(み)せる/観(み)られる」といった身体を媒体にした経験のなかに隠れていた歴史社会的意味とその変容を考える。考察の結果,第1期の時代(1899年〜1926年)において,アイヌにとってはそうした博覧会の主催者たちの欲望への理解には至らず,「観られる」アイヌの身体の方向性は異なったものであった。その後,第2期の時代(1927年〜1945年)になるとアイヌの大きな変化としては,「民族意識の高揚」とアイヌ自らが各種の著作物を出版したことであった。その後の第3期(1946年〜1959年)の戦争が終わってから1959年までの特徴は,「観光の介入」による変化があった。「観光アイヌ」とは,さまざまなファクターが相まった60年間のなかで「観られる」アイヌとして風景化されていたといえる。
著者
門田 園子
出版者
アート・ドキュメンテーション学会
雑誌
アート・ドキュメンテーション研究 (ISSN:09179739)
巻号頁・発行日
no.15, pp.33-46, 2008-03-31
参考文献数
15

二十世紀前半に活躍した国際的美術商である山中商会については、近代美術市場史を語る際にしばしば言及されてきたが、商会によって実際にどのような物品が、どの程度の数海外に渡り、現在どのような形で残されているのかについては依然として不明な点が多い。本稿は山中商会ロンドン支店の足跡を辿る事例研究であり、ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアム・アーカイブが保管している登録ファイルをもとに、ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムの東洋美術コレクションのうち、山中商会が関わった作品について明らかにする。登録ファイルは1910年から1932年の間に山中商会ロンドン支店とヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムで交わされた文書からなり、購入にいたった作品には所蔵番号が付与されているため、所蔵状況を確認することができる。本研究はアーカイブ資料を用いた美術研究の有用性を示すとともに、ミュージアムという公的な場でいかに東洋美術のコレクションが形作られてきたかを、その担い手であったディーラーと専門学芸員の交渉過程から検証する。
著者
真鍋 俊照
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.258-266, 2014-12-20
著者
阿部 安成
出版者
滋賀大学
雑誌
彦根論叢 (ISSN:03875989)
巻号頁・発行日
vol.373, pp.21-42, 2008-06
著者
奈倉 哲三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.249-276[含 英語文要旨], 2010-03

戊辰戦争期に江戸で生活していた多くの市民・民衆は、東征軍による江戸駐留に対して拒否的な反応を示していた。「新政府」は江戸民衆のそうした政治意識を圧殺・再編せざるを得ず、両者の間で激しい抗争が展開される。この抗争は、新旧両権力間で展開している戊辰戦争とは異なる、もう一つの戊辰戦争である。本稿は、このもう一つの戊辰戦争を、民衆思想史の視点から解明したものである。ただし、本稿は正月十二日慶喜東帰から四月二十一日大総督宮入城までに限定し、その間に江戸民衆の眼前で生起した事象を分析し、江戸民衆の意識・思想をめぐる抗争の特質を解明した。旧幕府諸勢力の動きは多様であったが、小諸藩主牧野康済(やすまさ)の歎願書は際だっていた。ひたすら、臣子として徳川家に仕えることで朝廷に仕えるのだ、との論理一つを主張、朝命だからとて慶喜追討の兵は出せないと突っ張り、出兵拒否で「朝廷の闕失を補う」とまで直言した。この論理が大総督宮入城当日に、江戸市民の眼前に示されていた。一方、東征軍の江戸入り総過程を通じ、江戸市民の負担は急激に膨張する。それにより「万民塗炭之苦」を朝廷が救うとの論理は破綻し、「天子之御民」は空語となる。江戸町民は、東征軍入城によって下層民にまで負担が及ぶ状況の改善を町奉行所に提出、入用が嵩んだ四月五日には町人惣代九十余名が歎願書を先鋒隊宿所に提出した。他方、柳河春三(しゅんさん)は二月下旬以来、「新政府」嫌悪を根底に据えつつも軍事的抵抗は無益とし、外国交際と言論を重視する市民派新聞『中外新聞』を発行し続けていた。この市民派新聞が背景の力となって、四月二日、江戸町奉行佐久間鐇五郎(ばんごろう)は市中困窮人への御救米支給を決定した。統治権の委譲を目前にして、新権力へのギリギリの抵抗として、市民・民衆の側に寄り添う政策を打ち出したのであった。以上が、この時期江戸市民・民衆の意識をめぐる抗争の特質である。Most citizens and common people who lived in Edo during the Boshin War showed a rejective response to the Tosei Army stationed in Edo. "The new government" had no choice but to suppress and rebuild the political awareness of the Edo citizens, and a fierce feud between the two parties developed. This feud, different from the Boshin War fought between the old and new powers, is another Boshin War. This article sheds light on the other Boshin War from the viewpoint of historical public thought. However, this article is limited to the period between January 12th when Yoshinobu returned to Edo and April 21st when the governor general entered the castle, and analyzes the events that happened in front of the eyes of the Edo citizens during that period, and reveals the characteristics of the feud over the awareness and thought of the Edo citizens.While moves by assorted influences of the old feudal government varied, the petition by Makino Yasumasa, the lord of Komoro domain, stood out. He insisted on one theory alone that he would serve the Imperial court by serving the Tokugawa family as vassal, and stuck to the idea that he could not send his army to subjugate Yoshinobu even though it was the order of the Imperial court. He even petition fearlessly to "compensate the delinquency of the Imperial court" by rejecting the dispatch of troops. This theory was displayed before the nose of the Edo citizens on the day when the Governor General entered the castle.On the one hand, through the whole process of the Tosei Army entering Edo, the burden of the Edo citizens suddenly expanded. Owing to this, the principle whereby the Imperial court would rescue "the nation's terrible suffering" collapsed, and "emperor's nation" became a null word.Town people in Edo requested the magistrate's office improve the situation whereby even the lower class people had to share the burden of the entrance of the Tosei Army to the castle. On April 5th when the needful cost mounted, approximately ninety town officials submitted a petition to spearhead force lodging.On the other hand, although having an aversion to "the new government" from the bottom of his heart, Yanagawa Shunsan assumed that military counteraction would have no benefit, and since the end of February continued to issue the "Chugai shimbun," a civil newspaper emphasizing relationships with foreign countries and speech.Supported by the civil newspaper, Sakuma Bangoro, the Edo magistrate's officer, decided to supply impoverished people in the city with rice on April 2nd. Just before turning over sovereignty, as a last-minute resistance against the new power, he adopted policies siding with the citizens and common people.Described above are the characteristics of the feud over the Edo citizens and common people's awareness during this period.
著者
長谷川 孝治 小向 佳乃
出版者
信州大学人文学部
雑誌
信州大学人文科学論集
巻号頁・発行日
no.6, pp.71-82, 2019-03-15

本研究は,Twitter のフォロワーに対する類似性認知が他者への不寛容性を促進させるのかを検討することを目的として行われた。インターネット調査会社のモニター127名に対するWeb 調査の結果,フォロワーに対する類似性認知が高いほど,彼/彼女らに対する不寛容性も高いことが示された。また,この傾向は,孤独感の高さや自己肯定感の低さによって,調整されていた。すなわち,孤独感が高い人や自己肯定感が低い人は,フォロワーに対する類似性を高く認知するほど,それらの人々と意見の食い違いが生じた際に,不寛容性が高くなることが示された。さらに,そのような際に,フォローを解除したり,ミュートしたりする拒否行動をとるのは,不寛容性が高い人であることも示された。これらのことから,SNSを通してコミュニケーションが円滑になる反面,そこでの同質性の追求が,他者に対する寛容性を下げることにつながることが示唆された。
著者
若宮 由美
出版者
埼玉学園大学
雑誌
埼玉学園大学紀要 人間学部篇 (ISSN:13470515)
巻号頁・発行日
no.10, pp.231-243, 2010-12

In 1892 Austrian Princess Pauline von Metternich organized "the Internaional Exhibition of Music and Theatre" in Prater(Vienna). For this exhibition she asked Johann Strauss junior a waltz. He promised her to offer the waltz "Seid umschlungen Millionen", op.443. Later the Princess asked Strauss to compose a ballet for the Exhibition too. Strauss, however,refused her request. The ballet was the "Donaunixe", which first performed on 13th July. It is not clear why the director of the Austrian Court Ballet, Josef Bayer composed this exihibition ballet. As the result of analysis Bayer used the motifs of 40 works by Johann Strauss jonior and "Radetzky March" by Johann Strauss senior in the ballet "Donaunixe".
著者
増田 芳雄
出版者
帝塚山大学
雑誌
人間環境科学 (ISSN:09193790)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.25-73, 2000
著者
渡辺 滋
出版者
山口県立大学
雑誌
山口県立大学学術情報 (ISSN:21894825)
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-15, 2020-03-31

本稿では、周防国(現在の山口県の東半分)の古代地名について、とくに吉敷郡(現在の山口市+宇部市の一部)の事例を中心に、想定所在地や名称の由来などについて検討する。近世以来の先行研究のなかには、論点が十分に突き詰められていないものや、結論に再検討を要するものも少なくない現状を踏まえ、関連分野における最新の研究成果に依拠した分析を進めていく。
著者
塚原 知里 加古 さおり 中須 慧 依田 香子 新田 浩朗 奥西 智哉
出版者
日本調理科学会
雑誌
日本調理科学会大会研究発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.29, 2017

【目的】炊飯をするのに大事な要素の一つに火加減がある。家庭用炊飯器においては、おいしく炊き上げるために常圧より高い沸点を実現できる圧力機能を付与したものが市場に供給されているが、そのほとんどは1.2気圧以下の微圧であり、家庭用炊飯器の高圧炊飯における炊飯米特性の学術的知見はほとんどない。今回、家庭用炊飯器では比較的高圧である1.5気圧程度での炊飯を行い、できた米飯の特徴を明らかにした。<br />【方法】家庭用炊飯器(パナソニック製SR-SPX106)の調圧弁を調整することにより微圧(1.2気圧)あるいは高圧(1.5気圧)炊飯による米飯を得た。まず、32人のパネリストにより2つの試料を比較して7段階で評価した。その後、米飯をホモジナイズし、50%エタノール抽出物を得、遊離アミノ酸と、米飯表層および米飯全体の遊離糖含量を求めた。それぞれ、アミノ酸分析機(日本電子JLC-500/V2)、フェノール硫酸法、イオンクロマトグラフ(Dionex ICS-3000)で測定を行った。常温まで放冷した米飯のテンシプレッサーによる硬さ粘り測定を行った。米飯を粉砕後乾燥した試料を用いてRVA測定を行った。<br />【結果】官能評価によると、高圧炊飯で得られた米飯は有意に硬く、粘りも大きな数値を示す傾向であった。味に関しては差が見られなかったが、米飯粒全体のアミノ酸量は多かった。物性評価では米飯の硬さと粘りは高圧炊飯で有意に増加していた。RVAでは高圧炊飯米飯はブレークダウンを示さず、微圧炊飯とはまったく異なる挙動を示した。これらの結果から高圧炊飯では、炊飯中に結晶構造の崩壊がより進み、かなり特徴的な米飯となることが明らかとなった。