著者
倉本 香
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-16, 2009-09

本論文は,モノローグ的と批判されるカント実践哲学の再検討を行う。カントによれば,理性的存在者はフェノメノンとヌーノメンという二つの性質を持っているのだが,それがいかにして同一の主体において「二重に」現れてくるのか,という点に焦点を当てて論じている。この「二重性」は,道徳法則の働きによって他者の「均質性」と「異質性」としてあらわれると解釈することで,カント実践哲学のモノローグ性を克服する可能性を示し,実践的複数主義としてのカント解釈のあらたな問題圏を切り開いてみたい。This paper tries to reconsider Kants' practical philosophy sitting in judgment upon a monologue. According to Kant, rational being has the dual natures, one is homo noumenon,the other is homo phaenomenon. Therefore the attention is focused on this dualism to examine how the dual natuers appear on the same subject. We can interpret this dual function of rational being appears the 'homogeneity' of others and the 'heterogeneity' of others by the effect of the moral law. Through this interpretation, it is possible too that there may be one different reading of Kants' practical philosophy from monologue and there is no difficulty to open up a new subject of Kantianism as the practical pluralism
著者
松野 充貴
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.19-29, 2014-07-31

本稿の目的はミシェル・フーコーの哲学におけるイマヌエル・カントの批判(概念)の役割を明らかにすることである。従来のフーコー研究ではフーコーとカントの関係はモダンとポスト・モダンの論争の枠組みのなかで論じられてきた。それゆえ、フーコー哲学とカント哲学は対立するものとして捉えられてきた。しかし、2008年に生前未公刊だった『カントの人間学』が出版され、フーコーのカント解釈が明らかになり、フーコーとカントの関係を見直さなければならなくなった。なぜならば、フーコーは『カントの人間学』のなかで、自らがこれから歩む哲学的企図をカント哲学と関係づけながら論じているからである。そこで、本稿はまず『カントの人間学』におけるフーコーのカント解釈を論じる。次に、『臨床医学の誕生』においてフーコーがニーチェの試みを『純粋理性批判』と対比して論じていることに着目し、フーコー哲学におけるニーチェとカントの関係を考察する。最後に、「啓蒙とは何か」のなかでフーコーが自らの探求を批判(概念)と論じていることに依拠しながらフーコーとカント哲学との関係を論じる。
著者
福井 謙一
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.33, no.2, pp.133-146, 2000

Whereas Jaegwon Kim's metaphysical theory of events(events as property exenlpl fications)is compatible withDonald Davidson's theory of the nature of events(events asparticulars), the sernantical accounts of event sentences associated with these theories are incompatible with each other. Moreover, no natural modification of Kim's semantics is capable of explaining certain entailment relations between eventsentences in the manner open to the Davidsonian account. thus, given the plausibility of the latter account, it is reasonable to conclude that there is no simple correspondence, of thesort required by Kim's semantics, that obtains between verbphrases of event sentences and the constitutive properties of the events describeci by them.
著者
尾崎 真奈美 オザキ マナミ Ozaki Manami
出版者
相模女子大学
雑誌
相模女子大学紀要. C, 社会系 (ISSN:1883535X)
巻号頁・発行日
vol.77, pp.183-193, 2014-03-07

研究ノート(Research Note)The primary purpose of our panel presentation is to introduce our philosophical, religious andpsychological approach to our planned "Morininaru" ("Becoming Forest") Burial project. The first presenter Dr.Yoshikawa approaches from the perspective of his Moebius integral model embodying the dialogical philosophy which can integrate organically those polarities of human existence and experience – relationships between man and nature, body and mind, life and death, one and many, modern and tradition, and dialogue among different religions. Shukai Kono, the second presenter, is a Buddihst Monk who has produced "Morininaru." In this panel he will explain how "Morininaru" realize relations and connections between human and nature, individual and society, life and death, and this life and next life from the religious perspective. Morininaru means "I will become forest" in Japanese. Phisically, religious, and Morininaru is a movement that the dead person becomes the forest by planting a tree, and sustains the nature. This movement is also explained as a spontanious spiritual growth, with which the individual consciousness would expand universal consciousness. In other words this is a spiritual movement to offer a new paradigm to the individual consciousness and religious thoughts. Morininaru could be a practical philosophy to search a new shema transcending dicotomization. Mrs. Ozaki, the third presenter approaches the subject from a perspective of her renewed positive psychology, "Inclusive positivity theory." This is a model of authentic wellbeing realized through integrative perspective, the Moebious theory presented by the first presenter, Dr. Yoshikawa. She came up with a new awareness of happiness, which she terms as an "authentic wellbeing" which can be realized by integrating the positive and the negative states of mind. She will explain the model based on her researches conducted with respect to the 3.11 Earthquake and Tsunami disaster, which occurred in Japan in 2011. Her research results suggest that the pessimistic attitude could be more adaptive at the time of crisis and that the pain contributes to growth. Based on the results she showed that negative emotional experiences promote spiritual growth and pro-social activity, which does not accompanied with reward cultivate one's life satisfaction and positive emotion. This positivity accompanied by negativity is called "Inclusive Positivity." "Inclusive Positivity" connects and integrates those seemingly conflicting phenomena such as sadness and happiness, death and life. The "Morininaru" has a function to transform the grief of death to the virtuous positive emotion, and is considered to be a practice of "Inclusive Positivity."2011年311災害は、日本の東北地方に壊滅的な打撃を与えただけではなく、今なお地球規模の環境への影響は続いている。まずは、世界の皆様に日本人を代表して深くお詫びを申し述べたい。しかし日本人は、不運や不幸を排除すべき事ではなく、より良くなるためのプロセスとして捉え、そのために祈り実践していくことを知っている。世界唯一の被爆地Nagasaki、Hiroshima が20世紀の聖地となったように、Fukushima は21世紀の聖地となるであろう。そしてその動きはすでに始まっている。宮脇明が提唱し、実践している「森の長城プロジェクト」がそれである。我々は、本シンポジウムで「森の長城プロジェクト」と「森になる」が通底している、持続可能な「利己を排除しない利他精神」を論じ、日本を砦とするこの運動が世界に広がっていくことを期待しつつ、その実践哲学、心理学理論、そして具体的方策を提案する。本シンポジウム発表の主要目的は、「森になる」に対する哲学的、宗教的そして心理学的なアプローチを紹介することである。最初の発表者吉川宗男は、統合的な実践哲学モデルである「メビウス理論」の視点から「森になる」にアプローチする。メビウス理論とは、もともと二極化されている人間存在と経験、すなわち人と自然、心と体、生と死、一と多、近代と伝統といったものの対話を促し統合するための理論である。メビウス理論により、異なった宗教間の対話も可能となる。メビウス理論は、そのようなコンフリクトを日本的な場・間・和をもって対話を促す実践的哲学モデルであり、「森になる」実践の基本的理論的土壌である。二番目の発表者河野秀海は、「森になる」を提唱した浄土宗の僧侶である。本シンポジウムにおいて彼は、「森になる」がどのようにして人間と自然、個人と社会、生と死、この世とあの世をつなげるのか、宗教的な視点から説明する。「森になる」とは、日本語では「私が森になる」という意味である。具体的には、死ぬ前に樹を植えて森となることによって、自然を永続的なものにしていく貢献をする運動である。この運動を精神的にとらえるならば、自発的なスピリチュアルな成長としての説明も可能である。つまり、植樹することによって、個人の意識が宇宙的意識へと、意図しないうちに拡大するのである。すなわち「森になる」は、個人意識と宗教思想へ新しいパラダイムを提供するスピリチュアルな運動ともなりえる。「森になる」は従って、二元論を超越してワンネスの経験を促す、一つの新しい枠組みを探求する哲学実践ともなりうるのである。三番目の発表者尾崎真奈美は、このテーマを、新しいポジティブ心理学の理論である「インクルーシブポジティビティ理論」の視点よりアプローチする。これは、先に吉川が説明したメビウス理論という統合的視点をとおして実現される、本質的なウエルビーイングのモデルである。死すべき存在である人間のウエルビーイングは、ポジティブ、ネガティブ状態双方の統合なしには実現しない。彼女はネガティブさを含んだウエルビーングのモデルを2011年日本で起きた大災害に関する調査データに基づいて説明する。その調査結果は、危機においては悲観的態度が楽観的態度よりもより適応的である可能性と、痛みが成長に貢献することを示している。この結果に基づいて彼女は、ネガティブな感情体験が、スピリチュアルな成長、向社会的活動を促進することを実証した。その中で、社会的に意義ある行動は、直接報酬を伴わない場合においても、実践する個人の人生満足度とポジティブ感情を増加させることが示された。このような痛みを伴う崇高なポジティブさを「インクルーシブポジティビティ」と呼ぶ。インクルーシブポジティビティは、悲嘆と歓喜、生と死のような一見相反するような現象を結びつけ統合する。「森になる」は、死別の悲嘆を社会的に価値あるポジティブ感情に変容させる機能を持ち、インクルーシブポジティビティの一つの実践であると考えられる。
著者
小川 仁志
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-13, 2006-01-10

ヘーゲルの共同体論は、従来国家を頂点とする国家主義哲学として誤解を受けてきた。それは、弁証法的発展の理論を絶対視した結果もたらされた悲劇であるといえよう。なぜなら、家族、市民社会、国家というかたちで構成される彼の共同体論は、すべてが国家に収斂してしまい、家族や市民社会が全否定される性質のものでは決してなく、逆に家族や市民社会などの他の共同体類型によってこそ国家という共同体が基礎付けられるという側面を多分に内包しているからである。そこでは明らかに人間精神陶冶のための機能分担が企図されている。その大胆かつ緻密なロジックは、利己心と公共心の緊張関係の組み合わせによって、各共同体の存在意義を規定していく。愛のための家族、誠実さのための市民社会、そして公共心のための国家。その意味では、国家という共同体は公共心の最も開花した状態であるといえる。国家において、他者との支え合いの精神は頂点を極め、ヘーゲルのいう「具体的自由」が実現する。またそれは視点を変えると、同じく支え合いの理念である「共生」の概念とも結びついてくる。本稿は、ヘーゲルの共同体論をこのような意味で公共哲学として読み替える試みである。そのときヘーゲルは、いわば公共性というプリズムを通して、私たちに各共同体の類型に応じた共生のための知恵を授けてくれる。こうした共生のための知恵を自覚すること、これこそがヘーゲル哲学を公共哲学として読み直す今日的意義であるといえる。
著者
松本 正男
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-30, 1996

ヘーゲルの体系期「論理学」は、そもそも何であるのか。この総括的解釈の問題には、いくつかの接近路が可能であろう。拙論の眼目は、カントの超越論的論理学との関連という観点から、この「論理学」を、特に「主観的論理学」に重点を置いて、再考することにある。ヘーゲル「論理学」には隅外的な立場から有効に読み替えようという試みが為されることがあるが、その意義はどうであれ、私見によれば、「論理学」は、先ずそれ以前に、まだそれをそれとして適正に理解することが要求されている解釈段階にある。そのためには、それを哲学史的連関の内に、特にひとまずドイツ観念論内部に適切に位置づける必要があり、そしてそのためには、前記の観点からの検討が、決して十分ではないが、しかし不可欠な要件であると思われる。ただし拙論は、単に文献的照合によって、とりわけヘーゲルのカント批評の枠内で、両者の連関を確認しようとするものではない。私見によれば、事柄自身における両者の連関は、主にヘーゲルの側からの部分的に不適切な、或いは少なくとも偏向的な批判と、関心範囲の制限によって、必ずしも十分に明らかになっていない。このことは、カント解釈者のカント解釈によりも(彼らはヘーゲルの批判を殆ど意に介していない)、むしろ跳ね返って、ヘーゲル解釈者のヘーゲル解釈に、看過できない支障をもたらしているように思える。拙論は、こうした事情を踏まえて、カント「超越論的論理学」とヘーゲル「論理学」のあいだの思想内実の継承史の研究に、一灯を投じようと試みる。こうした主題研究は、単にカント、へーゲルの哲学史的解釈にだけでなく、超越論的論理学の可能性に関する体系的研究に大きく資するであろう。しかし本格的な遂行のためには、言うまでもなく、一論文をはるかに超える規模の労力を必要とする。拙論は、むしろ就緒のための一灯として、ひたすら確かな研究プログラムの設定を目指すものである。
著者
高橋 誠一郎
出版者
慶應義塾理財学会
雑誌
三田学会雑誌 (ISSN:00266760)
巻号頁・発行日
vol.13, no.7, pp.911(109)-934(132), 1919-07

雑録
著者
土田 龍太郎
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-16, 2010-03

シュンガ王朝没落の後に,四代四十五年にわたって續いたカーヌヴァーヤナ王朝の實態は不明である。プラーナ中のカリユガ王朝テキストによれば,第十代シュンガ王デーヴァブーミの大臣であったヴァスデーヴァが,主君を斃して創始した王朝がカーヌヴァーヤナ王朝である。// 同じカリユガ王朝テキストには,パウラヴァ王朝のジャナメージャヤ王のアシュヴァメーダ祭擧行の顛末がやや詳しく述べられてゐる。この叙述にはシュンガ王朝開祖たるプシュミトラ王の同祭擧行の實情が反映してゐると推測される。この推測に従へば,ヴァージャサネーイン派の支派たるカーヌヴァ派の婆羅門がブラフマン祭官としてプシャミトラの大祭祀の成功を助け,これをきつかけとしてかれの一族が政府宮廷内に勢力を扶植することをえ,つひには大臣となつたヴァスデーヴァがシュンガ王権を簒奪した,と考へられるのである