著者
東 義真
出版者
東義真
巻号頁・発行日
2012-03-24

本論文は、米国人映画作家ジョージ・ルーカス氏が原作、脚本、及び監督し制作した映画『スター・ウォーズ』(Star Wars)について、多角的なコンテクストで捉え、ルーカス監督の思想的局面に迫るものである。映画史における『スター・ウォーズ』の立ち位置を確認していく。そして特殊撮影技術(visual effects)による前人未到の世界観創造が縁の下の力持ちとなり、リアリティを持って表現される叙事詩テーマを解明する。そこには神話的伝統というコンテクストが意図的に盛り込まれていることを発見する。1980 年代という時代性の中で、アメリカ文化と日本・東洋文化(仏教や道教などを含む)とが合流するウエストコーストが生み出したカルチャーとしての『スター・ウォーズ』の世界的影響力というコンテクストを見る。さらに、20 世紀末の多元文化主義の勃興というグローバル・ムーブメントの中に於ける『スター・ウォーズ』の求心力を確認し、1960年代~1970年代の米国の政治的イベントとベトナム戦争の経緯から生じる社会変革の中で、表現者としてのルーカス監督の 思想がどのように時代への答えを出してゆくのか、を再確認し、『スター・ウォーズ』シリーズによってルーカス示すメッセージを、文化的融合の促進として捉 える。映画史のコンテクストとしては、初期ハリウッドのスタジオ確立そして弱体化という変遷から独立系の映画作家たちが登場し、ルーカスフィルム社も又その中から登場してきた事と、ルーカス映画の系譜を検証する。 ジョージ・ルーカスの制作する映画の特徴を、西部劇スタイルから登場する孤独なヒーロー像や、スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(2001: A Space Odyssey)に始まる現代SF 空想科学映画テーマと関連付けて述べる。アメリカ文化と東洋・日本文化のコンテクストを考えた時の『スター・ウォーズ』は、アメリカにおける超絶主義(Transcendentalism)の代表者の一人であるラルフ・ウォルド・エマソンが東洋思想的観点を主張したことと、自然と一体になるフォースの思想との関連性を軸に検証することができる。また『スター・ウォーズ』にはビジュアル面でも多くの東洋デザインが取り入れられていてルーカスの東洋思想への傾倒を補強している。こうした観点から映画を 検証していく。さらに、ルーカス監督自身の伝記と彼の映画作品との関連性から、作家のパーソナリティに迫り、作家ジョージ・ルーカスのライフワークとして位置づけられる2大シリーズ『スター・ウォーズ』と『インディ・ ジョーンズ』の中に見られる神話学・人類学の要素を、比較神話学者ジョゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)の神話的伝統(神話的雛形と汎神論的な考え)と関連付けて述べる。本論文は、ヒューマノイド型生物や、異星人、または高度に発達したロボットが、様々な文化・習慣を持つ銀河世界で活躍するという映画を表現し、そこに多文明 共存の豊かな形を提示し、この世界を多元文化的に捉えることを肯定するジョージ・ルーカス氏が、映画芸術の中で象徴的な形として、複雑な文化的遺産と苦闘しながらも新しい形の共存社会の提示を決意したということを証明しようとしている。第1章では、序章として本論文の中心的テーマである『スター・ウォーズ』に伝統的神話が意図的に含められて制作された経緯を見る。ここでルーカスが未来の世代を荷う子供たちのために、映画『スター・ウォーズ』制作を決意したことを示す。第2章では、『スター・ウォーズ』が登場するまでのアメリカ映画史とアメリカン・ヒーロー像を検証し、ルーカス監督の人物像や育ちの背景の詳細と、『スター・ウォーズ』に描かれる東洋思想がさらに続編映画によって深いものとなっていき、単なる映画を超えて文化的現象となる時代とを関連付けて考える。第3章では、『スター・ウォーズ』にあるアメリカ文学的背景としての父を探す物語の部分を検証する。そして、サーガとして見たときに、この大河絵巻が改心の 物語をテーマにしているというヨーロッパ文学のコンテクスト上にあることを示す。同時に、その枠組を超えて汎神論的な多元文化主義を強く打ち出しグローバルな表現としてメッセージを提示していることを確認する。そのために、思想的に一貫している他のルーカス映画も検証する。第4章では、『スター・ウォーズ』の中に含まれた他の神話的雛形の抽出を、ジョゼフ・キャンベルの捉え方の中で検証する。ルーカスのキャンベルへの傾倒が、ルーカス自身の作風を汎神論的に、より多様で深いものとしたことを考察する。そして、ルーカスが次第に文化人類学的理解を深め文化多元主義を持論とし、多くの人類集団(人類学では人種という言葉を使用しない方向にある)共存の映像的メッセージを確立した、と結ぶ。
著者
鈴木 基伸 Motonobu SUZUKI
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.017-039, 2018-07-31

本稿では、日本語の難易形式「〜やすい」「〜にくい」が、目的格名詞句を、ガ格をとる場合と、ヲ格をとる場合とで、どのような意味の違いが生じるのかについて考察を行う。コーパスから、同じ動詞句でありながら、ガ格とヲ格が使用されている例を抽出し、それらの意味について比較・検討を行ったところ次のようなことがわかった。まず、「〜やすい」においては、ヲ格を使用した場合、ガ格が使用された場合に比べ、「意志の希薄化」が見られる。「〜にくい」においては、ガ格が使用された場合、ヲ格が使用された場合と比べ、動詞によって表される行為の遂行に対して焦点が当てられるようになり、意志性がより強く読み取れるようになる。この結論の他、「〜やすい」「〜にくい」においてヲ格からガ格へ、ガ格からヲ格への交替をブロックする要因についても明らかにした。前者については動作の「非意志性」が、後者については「評価性」「主題化可能性」がそれぞれの格交替をブロックする要因である。
巻号頁・発行日
2017-12-05

International workshop on sharing, citation and publication of scientific data across disciplines: Session 3: Data Sharing & Inter-OperabilityTue. 5 Dec./Lecture Room (4F, NIPR)
著者
白崎 護 Mamoru Shirasaki
出版者
関西外国語大学・関西外国語大学短期大学部
雑誌
研究論集 = Journal of Inquiry and Research (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.117-134, 2019-09

公的な制度の内外を問わず選挙以外の場面で市民の意見を政治へ反映させようとする活動のうち、ロビ活動・陳情・献金など政治過程への個別の接触を除く活動であり、かつ政治エリートとの協力ではなく彼らを監視する活動をカウンターデモクラシーと呼ぶ 。Rosanvallonによると、特定の社会集団と政党との紐帯が弱化した現代、代議制を補完するカウンターデモクラシーが政府への牽制手段として求められている。そこで本稿は、まずカウンターデモクラシーを促進または阻害する道具として注目されているソーシャルメディアの機能について、社会学と政治学の先行研究を手がかりに概観する。その上で、2016年参議院選挙時に収集された世論調査データに基づき、ソーシャルメディアをはじめとするインターネットメディアの利用とカウンターデモクラシーへの参加の関連を検討する。
著者
塚田 浩二 安村 通晃
雑誌
情報処理学会論文誌 (ISSN:18827764)
巻号頁・発行日
vol.43, no.12, pp.3675-3684, 2002-12-15

本研究ではモバイル環境において,手指のジェスチャを用いて情報機器や情報家電機器の操作を実現する指装着型のウェアラブルデバイスUbi-Fingerを提案し,実装および評価を行った.ジェスチャは誰もが利用できる日常的なコミュニケーション手段であると同時に,身体性をともなった直感的な入力が可能であるという利点を持っており,これまでも主にVirtual Realityなどの分野で積極的に利用されてきた.一方,コンピュータの利用分野はモバイル環境やユビキタス環境など,実生活全般に大きく拡大しつつある.Ubi-Fingerはこれらの新しいコンピューティング環境に適した,小型でシンプルなジェスチャ入力デバイスである.我々は実世界のさまざまな機器をシンプルなジェスチャにより直感的に操作できるUbi-Fingerのプロトタイプシステムを実装した.また,具体的なアプリケーションとして,ライトやテレビなど,実世界のさまざまな機器を「指差す」ことで特定し,手指を用いたシンプルなジェスチャで対象の機器を操作できる応用例や,ノートパソコンの入力支援,プレゼンテーション支援などの応用例を試作した.さらに,システムの利用評価を行い,ジェスチャを利用した実世界機器操作の有効性を確認し,本研究の将来的な方向性を示した.
著者
大石 真一郎
出版者
東洋文庫
雑誌
東洋学報 = The Toyo Gakuho (ISSN:03869067)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.95-120, 1996-06

This paper attempts to examine the social and political situations of the Turkic Muslims, who are now called Uygur, at Kashgar in the early twentieth century and their reformist movement.After Ismail Gasprinski, the Crimean Tatar reformist, opened a model primary school at Bakhchisaray in 1884, his new-method (usul-i jaded) education had an important effect in the Muslim regions of Russia, the Ottoman Empire, and so on.Husayn and Baha’al-Din. the brothers of the Musa Bayof family, whose native place was Ustun Artush in the suburb of Kashgar, were representative millionaires in Eastern Turkistan (Sinkiang). They endeavored to introduce the new-method education, and opened schools at Ustun Artush and Gulja in 1908 at the latest. At Kashgar, the reformist ‘ulama ʻAbd al-Qadir Damulla also established a new-method school in 1912.But, the reformist movement was severely hampered by conservative ‘ulama and influential persons at Kashgar. The activities of the Turkish teacher, Ahmed Kemal, who had been sent by “the Committee of Union and Progress” and opened a new-method normal school at Ustun Artush under the assistance of the Musa Bayofs in 1914 made clear the conflicts among the Muslims. ‘Umar Bay who had rivaled the Musa Bayofs in commerce was one of the conservative leaders. He made approaches to the Chinese authorities and the Russian consul to suppress the reformists. Especially during World War I, the authorities were also fearful of the Pan-Turkic and Pan-Islamic inclination of Ahmed Kemal’s education.Though the authorities were cautious about the reformist movement, the native reformists actually never verbally nor physically oppose the Chinese rule, for, in those days, their objectives were limited to reforming the traditional Islam and enlightening the ignorant Muslims. Consequently,however, the Chinese authorities’ suppressions gave the occasion for the reformists to incline to drastic nationalism later.
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture : Graduate School of Literary Studies, Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.19-29, 2017-03-31

百人一首業平歌の初句に関して、「ちはやふる」と清音で読むか、「ちはやぶる」と濁音で読むかという問題が存する。従来は全日本かるた協会の読みを尊重して、「ちはやぶる」と読むことが通例だった。ところが最近「ちはやふる」というマンガが流行したことにより、書名と同じく清音で読むことが増えてきた。そこであらためて清濁について調査したところ、『万葉集』では濁音が優勢だったが、中古以降次第に清音化していることがわかった。業平歌は『古今集』所収歌であるし、まして百人一首は中世の作品であるから、これを『万葉集』に依拠して濁音で読むのはかえって不自然ではないだろうか。むしろ時代的変遷を考慮して「ちはやふる」と清音で読むべきことを論じた。
著者
佐藤 雄一 Yuichi Sato
雑誌
共立国際研究 : 共立女子大学国際学部紀要 = The Kyoritsu journal of international studies
巻号頁・発行日
vol.30, pp.161-177, 2013-03

Noun predicate sentences with the structure "A wa B da" can be classified into different types according to the relationship in meaning between the subject noun and the predicate noun. The predicate noun generally indicates characteristics and properties of the subject noun. Sometimes it identifies the subject noun or describes the action of the subject noun. When the Japanese corpus (BCCWJ: The Balanced Corpus of Contemporary Written Japanese) was examined. the relative frequency of each type of noun predicate sentence became clear. Among the noun predicate sentences "A wa B da", 51% of predicate nouns indicate characteristics and properties of the subject noun. 26% of predicate nouns identify the subject noun, 15% of predicate nouns indicate the state of the subject noun. and 3% of predicate nouns describe the action of the subject noun. This shows that the noun predicate sentence "A wa B da" turns to have links to the adjective predicate sentence and the verb predicate sentence.
著者
原田 和彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.195-217, 2002-03-29

寛保2年(1742)の8月,信濃の北部を流れる千曲川・犀川が大水害をおこした。この水害によって多くの被害がもたらされた。この水害のことを北信濃では「戌の満水」と呼び習わしている。長野市立博物館には,この「戌の満水」の被害状況をあらわしたといわれる絵図面が伝わる。この絵図面は,水害前の様子と水害後の各村の被害状況を克明に示している。また,山崩れや土砂災害の場所まで描かれている。災害をあらわした絵図面としては,信濃に残るものとしては非常に古い部類に属する災害絵図である。ただ,この絵図面が「戌の満水」の被害状況を示した絵図面であるとの根拠は,絵図面が入っていた袋の表書によるだけである。本稿では,まず「戌の満水」の被害状況を,当時の松代藩の被害届から抽出する。これによって,被害届からわかる「戌の満水」の被害状況を描き出す。また,いちじるしい被害をうけた松代城下についても,当時書かれた見聞記にてらして,川の水がどのように城下町に押し寄せたかなどを検証する。このように当時の記録類などから「戌の満水」の被害状況を描き出すという作業を行っている。こうした基礎作業をもとに,そこから前出の「戌の満水」の被害絵図について,その被害状況を抽出し,その上で記録類から導き出した「戌の満水」の被害の様相と照合し,絵図面の性格付けを行った。「戌の満水」の後に松代藩ではさまさまな復興策を試みる。このなかで,松代城下を水害から守る方法として千曲川の流路を改める作業がなされた。災害後の松代藩の復興策をこうした千曲川の流路変更という面から考えてみた。
著者
朱 徳峰
雑誌
オイコノミカ (ISSN:03891364)
巻号頁・発行日
vol.46, no.4, pp.119-136, 2010-03-31

本稿は中国の長期的な経済成長と自然災害の関係について実証分析を行った.中国31省をサンプルとし,出生率と一人当たり初期所得をコントロールした上で,長期的一人当たりGDP 成長率と自然災害の頻度の関係をパネルデータを用いて回帰分析を行った.その結果,地質的な災害(地震,地すべりなど)は長期的な経済成長に対しマイナスの関係があるが,気候的な災害(台風など)は経済成長に有意かつプラスの結果が得られ,気候的な災害は資本ストックの蓄積及びTFP の成長を通じて経済成長に影響を与えることが確認された.

2 0 0 0 OA 「あたし」考

著者
山西 正子 山田 繭子 Masako YAMANISHI Mayuko YAMADA 目白大学外国語学部アジア語学科 西東京市図書館
雑誌
目白大学人文学研究 = Mejiro journal of humanities (ISSN:13495186)
巻号頁・発行日
vol.(4), pp.183-200, 2008

本稿では、自称詞「あたし」について、史的変遷を概観し、現代のいわゆるJ-POPの世界での「あたし」の位置づけを考察する。そして、しばしば「ややくだけた語感」とされる「あたし」が、J-POPの歌詞としては、「かわいらしさや女性のオーラを伝える」ためのアイデンティティ管理の表現として意図的に選択されることを確認する。その背景に、現代における、終助詞を含む文末表現に殊に顕著な、言語上の性差の縮小を想定する。アーティストが、自分のアイデンティティ表明の場である歌詞の中で、大きく女性に傾いた、いわば「有標の自称詞」である「あたし」を多用するのは、終助詞の使用など、それ以外の言語上のアイデンティティ表明手段が弱体化しているからではないか。「あたし」は一般的に「「わたし」の変化したかたち」と説明される。しかし、さらに変化して特化されている「わっち」や「あたい」に比して、いわば「変化の度合いが小さい/「わたし」との乖離が少ない」ために、様々な表情をもち得る。男性には「おれ」や「僕」などの「わたくし」系に属さない自称詞があるが、一般的にはそれを使用しない女性にとって、「わたくし」「わたし」「あたし」の選択は、時に大きな意味をもつ。しかるに、現代語では、「わたくし」系の自称詞は漢字「私」で表記されることが多い。日常語の実際の発音習慣が「わたくし」か「わたし」か、さらには「あたし」かを問わず、文字化するときには漢字表記「私」ですませてしまうことが多い。その中であえて「あたし」と表記するときの表現者の意図に迫り、アイデンティティ管理の手段として「あたし」が積極的に選択されることもある点を指摘したい。