著者
磯田 道史
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.221-239, 1999-06

日本の武士社会では、養子が家を継ぐことが、しばしばある。しかも、日本の養子制度は中国や朝鮮の制度と異なり、必ずしも、同じ家の成員でなくてもよい。しかも、養子が、当主(家父長)になって、その家を継承・相続する点が特徴的である。この東アジア社会では特異な制度は、日本近世の身分制社会にとって、どのような意味を持ったのであろうか?一八世紀末から一九世紀末の武士の養子制度について、長門国清末藩(山口県下関市)の侍の由緒書(家の歴史記録)と分限帳(名簿)をもとに、分析した。その結果、次のことが、明らかになった。(1) 養子相続の割合は三九・〇%にのぼる。そのうち、家名が異なる者が養子になった割合は、三四・二%であった。(2) 同じ身分や階層のなかで、閉鎖的に、養子が交換されている。養子の出身をしらべると、八五%は同じ清末藩士の子であった。武士の子が約九九%で、残りの約一%は僧侶や医者の子であった。同じ武士でも、藩で決めた家のランクが同じ、もしくは、一ランクだけ違う武士の間で、主に養子が交換されている。禄高が二倍以上離れた家が養子をやりとりする例は少ない。(3) そのため、養子制度をつかって、個人が大きな社会移動をするのは難しかった。日本の武士社会では、父の禄高が子の禄高に与える影響は絶大であった。父の地位の影響力をパス係数でみると、実子の場合、〇・九におよぶ。他の家に養子に出た場合でさえ〇・五であった。 もし、養子の制度がなければ、日本の武士の家は、一〇〇年で七〇%以上が途絶えたはずである。しかし、養子制度があるため、武士の家は途絶えず、新たな家が支配層に参入する機会を少なくしていた。日本の養子制度は、同じ階層内で武士を再生産する制度であったため、重要な例外を除いて、直ちに身分制度をゆるめるものではなかった。むしろ、既に支配層にある特定の家々の人々が、永続的にその地位を占めつづけるのに、役立っていたと指摘できる。
著者
羽崎 完 藤田 ゆかり 山田 遼
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会
雑誌
理学療法学Supplement
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.Ab0440, 2012

【目的】 筋連結とは,隣接するふたつの骨格筋において,筋膜,筋間中隔などの結合組織や互いの筋線維が交差して接続していることを指し,全身のいたる所で観察できる。Myersは,個々の筋連結による筋の全身におよぶ連続したつながりを経線としてとらえ,ほとんどの運動が経線に沿って拡がるとしている。つまりこれは,ある筋が収縮したとき,その筋に連なる筋にまで活動が伝達されることであり,この概念は広く臨床に応用されるようになっている。しかし,筋連結や経線についての概念は解剖学的な考察や経験に基づいており,筋の機能的な連結について明確にされていない。我々は,Myersの述べる経線のひとつであるラセン線上にある前鋸筋と外腹斜筋に着眼し,両筋が機能的に筋連結していることを明らかにし,第46回日本理学療法学術大会においてその成果を報告した。本研究では,その延長線上にある菱形筋と前鋸筋も機能的に連結しているか否かを明らかにすることを目的とした。【方法】 対象は,健常成人男性10名(平均年齢21.2±1.8歳,身長170.4±9.7cm,体重65.6±26.2kg)とした。測定は,前鋸筋に負荷を与えたときの前鋸筋と菱形筋の筋活動を導出した。測定肢位は,高さの調節できる椅子に膝関節90°屈曲位になるように座らせ,肘関節伸展位にて肩関節90°屈曲位,肩甲骨最大外転位とした。この肢位で,前腕遠位部に自重(負荷なし),2kg,4kg,6kgの負荷を加え,それぞれ5秒間保持させた。測定筋は第6肋骨前鋸筋,第8肋骨前鋸筋,菱形筋とした。第6および第8肋骨前鋸筋は肋骨上で触診できる位置に,菱形筋は肩甲骨最大外転位で,僧帽筋下部線維外側縁,肩甲骨内側縁,肩甲骨下角から第5胸椎棘突起を結んだ線でできる三角形内に電極を貼付した。なお、電極が正確に菱形筋に貼付できているか,超音波画像診断装置(日立メディコ社製Mylab25)を用いて確認した。筋活動の測定は,表面筋電計(キッセイコムテック社製Vital Recorder2)を用い,電極間距離1.2cmのアクティブ電極(S&ME社製)にて双極導出した。筋活動の解析は,自重時の平均筋活動量を1として,各負荷における筋活動量の変化率を算出し行った。第6および第8肋骨前鋸筋と菱形筋の関係は,Pearsonの相関係数を求め検討した。さらに,第6肋骨前鋸筋と第8肋骨前鋸筋のどちらがより菱形筋と関係が強いか検討するために重回帰分析を行った。【倫理的配慮、説明と同意】 対象者の個人情報は,本研究にのみ使用し個人が特定できるような使用方法はしないことや研究の趣旨などの説明を十分に行った上で,対象者の同意が得られた場合にのみ,本研究を実施した。【結果】 Pearsonの相関係数を求めた結果,菱形筋と第6肋骨前鋸筋との相関係数は0.791,第8肋骨前鋸筋との相関係数は0.817となり、いずれも有意な強い正の相関が認められた(p<0.01)。重回帰分析の結果,第6肋骨前鋸筋の標準偏回帰係数は0.356,第8肋骨前鋸筋の標準偏回帰係数は0.517となり,第8肋骨前鋸筋にのみ有意な影響が認められた(p<0.05)。【考察】 五十嵐らは解剖実習献体を用いて,菱形筋と前鋸筋が肩甲骨内側縁で線維性結合組織で連結されていることを肉眼にて確認している。また,竹内らも解剖実習献体の大菱形筋付着部を観察し,それが前鋸筋筋膜に折りたたまれるように接着していることを確認している。このように菱形筋と前鋸筋が解剖学的に連結していることは明白であり,菱形筋の筋活動の変化率と前鋸筋の変化率が強い相関を示した今回の結果から,機能的にも連結していることが明らかとなった。一般的に菱形筋は肩甲骨の内転・下方回旋に,前鋸筋は外転・上方回旋に作用し,両筋は拮抗筋の関係にあるとされている。その一方でPatersonが経験に基づき推察しているように菱形筋と前鋸筋は共同筋として肩甲骨の安定に作用していることが知られている。今回の結果は,この推察を科学的に証明した。菱形筋と前鋸筋は,解剖学的にも機能的にもあたかもひとつの筋のように肩甲骨の安定に作用すると考える。また重回帰分析の結果から、第6肋骨前鋸筋よりも第8肋骨前鋸筋の方がより菱形筋との関係が深い傾向が認められた。これは,第6肋骨前鋸筋よりも第8肋骨前鋸筋の方が菱形筋の走行の向きに近似しており,肩甲骨の安定に対して共同筋としてより機能しやすいためと考える。Myersもラセン線は前鋸筋のより下部を通過するとしており,下方の前鋸筋の方が菱形筋との関係が深いことが明らかとなった。【理学療法学研究としての意義】 本研究の結果は,不安定な肩甲骨に対して前鋸筋のみにアプローチするのではなく,菱形筋と前鋸筋をひとつの筋としてアプローチする必要があることを示唆している。
著者
郡山 昌明
出版者
学校法人白百合学園 仙台白百合女子大学
雑誌
仙白女大紀要 (ISSN:13427350)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.17-29, 2018-07-20

日本における戦後の社会福祉制度の仕組みは、国民の生活に対するニーズの変化に伴い1990年の社会福祉基礎構造改革で大きく変化した。基礎構造改革の理念は、2000年施行の介護保険制度や2006年施行の障害者自立支援法によって具現化された。これらの制度を効果的に遂行するため、援助技術のひとつであるケアマネジメントが導入され、様々な「ツール」を用いなが利用者のニーズに沿った支援が行われた。「ツール」は、利用者の立場にたった社会福祉サービスの提供を促進するために用いられている。保険医療機関の中では、特に、看護の分野でクリティカルパスという「ツール」が、数多く開発され使用されている。わが国の社会福祉や医療の分野では、「インフォームド・コンセント」や「利用者主体」、「自己決定」などの視点の垂要性が指摘されている。しかし、福祉の分野や医療の分野で使用されている「ツール」の内容や「ツール」研究を概観してみてみると、「利用者主体」「自己決定」という項目が反映されているものは極めて少ない状況である。介護保険制度や障害者自立支援法などで利用されている「ツール」または、看護の領域で使用されている「ツール」は、支援する側が情報を収集することが目的であって、利用者の主体性や自己決定を保障するものではないと言っても過言ではないと考える。筆者は、2006年に行った研究において、ソーシャルワークの分野で使用されているフェイスシートやアセスメントシートなど「ツール」の分類と定義を行った。その中で、「ソーシャルワーク過程において効率的に利用者のニーズと社会資源を結びつけ、利用者の選択の行使や自己実現が行われえるための道具」開発の必要性を唱えた。本稿は、看護の分野において使用されているクリティカルパスを検討し、保健医療福祉分野における「ツール」の先行研究を吟味し、不足している点を明らかにし、ソーシャルワーク過程における「ツール」に必要な構成要素を明らかにすることを目的にすすめていくものである。
著者
大津 雅之 高木 寛之 田中 謙 大津 雅之 高木 寛之 田中 謙 OTSU Masayuki TAKAGI Hiroyuk TANAKA Ken オオツ マサユキ Otsu Masayuki タカギ ヒロユキ Takagi Hiroyuki タナカ ケン Tanaka Ken
出版者
山梨県立大学
雑誌
山梨県立大学人間福祉学部紀要 (ISSN:21874344)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.113-124, 2017-03-16

今日、ソーシャルワーカーが対峙しなければならない社会的ニーズは、増加傾向にある。ただし、ソーシャルワーカーが対峙しなければならない社会的ニーズは、今日において顕著に発生してきたわけではなく、徐々に蓄積されてきた結果であり、これまでにも多くの専門職や地域住民によってさまざまな対応がなされてきた。近年、専門職連携の推進がはかられる中、ソーシャルワーカーは自身の役割を高めながら他の専門職や地域住民と共働することが求められている。ただし、そのためには、まず、ソーシャルワーカー自身が多くの専門職や地域住民がいかにしてソーシャルワークの機能的な一端を担ってきたのかについて歴史的側面もふまえながら学ばせていただき、その中で、自身の役割を高めながら介入し、各々と連携する必要があるであろう。よって、本研究では、ソーシャルワークの機能的な一端を担ってきた多くの専門職や地域住民の活動の実際を「ソーシャルワーク的支援」と位置付け、日本国内における「ソーシャルワーク的支援」について、歴史的側面から整理する必要性を提示した。そして、今日のソーシャルワーカーがそれらの取り組みおよびそれらの取り組みを担ってきた者に向けるべき視座について考察した。
著者
松原 康策
出版者
日本小児科学会
雑誌
日本小児科学会雑誌 (ISSN:00016543)
巻号頁・発行日
vol.114, no.11, pp.1681-1691, 2010-11-01
参考文献数
79
被引用文献数
3
著者
磯 直樹
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.37-53,200, 2008

In this paper I will first introduce Bourdieu's idea of field, a network, or configuration, of objective relations between positions. Then I will show how it integrates theory and empirical research. In the history of Sociology, the relationship between theory and empirical research has been a grand theme, and Bourdieu was committed to integrating the two throughout his career. I will also examine the work of Blumer, an important predecessor to Bourdieu. While both his "sensitizing concept" and his "definitive concept" have limits, Bourdieu's "open concepts" which include habitus, capital and field have more possibilities and significances than Blumer's. The field is a social sphere which has a limit around itself and each has its own rules within. For Bourdieu, the field is considered together with habitus and capital, and also as a part of his theory of practice. The concept of field enables us to analyze social phenomena for which we have lacked a theoretical framework. We can also use the concept of field to relate and integrate differentempirical research. One example can be found in the study of social difference. Bourdieu's sociology makes sense in combination with the works of other sociologists because it owes so much to them. We should ask the question "Bourdieu and what else?" rather than think in terms of a dichotomy such as "Bourdieu or not." This will lead to a productive discussion.
著者
星野 怜旺 椎名 孝之 森戸 晋 今泉 淳
出版者
日本知能情報ファジィ学会
雑誌
日本知能情報ファジィ学会誌 (ISSN:13477986)
巻号頁・発行日
vol.30, no.4, pp.652-657, 2018-08-15
被引用文献数
1

<p>本研究では,プロ野球において,球団間の未消化試合数の差ができるだけ小さくなるようなスケジュールの作成を目的とする.確定的なスケジュールの作成のみにとどまらず,雨天中止という不確実性を考慮したスケジュールを考える.まず整数計画法によりスケジュールを生成する.そして雨天中止を考慮することにより,球団間の未消化試合数の差の最小化を図る.本研究では,実際の日程と比較して全体の未消化試合数を抑えるとともに,各チームの最大値と最小値の差も抑えることが出来た.これにより,球団間の未消化試合数の差を抑制できた.</p>
著者
宮澤 淳一
出版者
日本ロシア文学会
雑誌
ロシア語ロシア文学研究 (ISSN:03873277)
巻号頁・発行日
no.23, pp.15-27, 1991-10-01

The Jerusalem section of The Master and Margarita (1929?-40) is a story of a man of agony, the cruel fifth Procurator of Judea, Pontius Pilate, who executed a vagrant philosopher, Yeshua Ha-Nozri, knowing his innocense. In this section, which is written as a historical novel independent of supernatural phenomena, there is an enigmatic figure who rules its world secretly: Afranius, the chief of the secret service to the Procurator. The enigma of Afranius lies in his false report to Pilate of the last moment of Yeshua on the cross: the chief didn't tell him the fact that Yeshua had accepted his atonement and died forgiving him for his conviction; on the contrary, he described Yeshua as if he had ridiculed Pilate and gave him the false words of the philosopher that "cowadice is one of the worst human sins." Having heard the report, Pilate became aware of his sin. so that he instigated the chief to assasinate the betrayer Judas of Karioth in revenge for Yeshua's death. In that sense, it was Afranius who kept Pilate on a string to let him do "evil" of the assasination. The figure of Pilate is not a typical Bulgakovian "coward" who often appears in the earlier novels of Bulgakov, such as the hero of The Red Crown (1992): Pilate is not a passive "coward" who finds no hope and is always in despair, but an active "coward" who tries to do anything, even "evil," to expiate one's sins like Frudov of The Flight (1925-8). At the end of the whole novel, Pilate is led to the world of "light or good" for his activeness. He stands in contrast to The Master of the Moscow section who is a typical passive "coward" so that he only has earned "rest". If we admit the systematical consistency of The Master and Margarita and analize the two "cowards" of the two sections in comparison, we must find out the figures who help the decision of their fates as well: in the Moscow section it is Woland, the Faustian devil, who leads The Master to the fate of "rest"; in the Jerusalem section the other who leads Pilate to the fate of "light"-must be Afranius! He is nothing but a Mephistophelian figure which is the "part of that power which eternally wills evil and eternally works good" (the epigraph from Faust). Thus, in The Master and Margarita there is not only a single Mephistopheles who controls the Moscow section and determine the fate of the hero, but also another Mephistopheles in the Jerusalem section to do the same work. Bulgakov has the device to give the function to the the devils to develop the both stories. His effort leads to the reconstruction of the whole novel as a newly organized evangel, "The Evangel by Bulgakov."