著者
瀬端 孝夫 瀬端 孝夫
出版者
長崎県立大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:18838111)
巻号頁・発行日
no.14, pp.163-174, 2013

2009年9月、長年政権の座にあった自民党に代わって、鳩山由紀夫を首班とする民主党政権が誕生した。国民は官僚主導の政治を変え、政治主導を提唱した民主党に変革を期待した。しかし、結果は、鳩山政権が普天間基地の移転問題でつまずき、民主党は、マニフェストになかった消費税の増税をはじめ、多くの公約違反で、2012年の衆議院と2013年の参議院の選挙で惨敗した。菅政権と野田政権が、消費税増税をいわず、民主党のマニフェストにもっと忠実であったならば、これほどまでの敗北はなかったに違いない。その意味で菅直人、野田佳彦、両氏の罪は重い。なぜならば、日本の政治史の歴史的快挙である政権交代という、日本の民主主義の成長の機会を逃し、官僚支配の自民党政治に後戻りさせたからである。 この過程を見てみると、既得権益を守ろうとする勢力、すなわち現状維持派の勢力が、いかに強かったかがわかる。自民党、官僚、財界、大手マスメディア、そして、その背後にいるアメリカ、こういった改革を阻止する勢力の抵抗は激しかった。日米関係をより対等な関係にするため、普天間の海兵隊基地を国外、最低でも県外に移転しようとする鳩山首相のもくろみは、アメリカはもとより、本来、首相を支援し、首相の考えを政策に反映させるべき外務省、防衛省の官僚からの抵抗にあった。しかし、官僚の抵抗は、民主党が政権を取る以前から始まっていたのである。小沢総理をなんとしても阻止したい検察は、2009年から本格的に小沢たたきをはじめた。この両者の戦いは1990年代から続いていたが、2009年の来るべき総選挙で、民主党の勝利が濃厚になったまさに、その矢先に検察は小沢の政治資金問題を持ち出した。 小沢攻撃は検察ばかりではなかった。自民党はもとより、大手マスメディアの小沢金権政治に対する批判が高まり、世論の批判をバックに、民主党内からも小沢一郎に対する批判が続いた。その結果、小沢排除が民主党内で進み、小沢は党幹事長として、鳩山内閣に入閣することができなかった。結果として、鳩山・小沢による官僚主導から政治主導への政治改革は頓挫した。その後、財務省主導の消費税増税案が、菅、野田両政権で具体化し、民主党は小沢一郎との内部抗争も重なって、国民の信を失っていった。 本稿では、民主党政権下の安全保障政策を中心に、小沢排除、官僚の抵抗、アメリカの対日政策をみていく。小沢問題における検察の勝利、消費税増税法案の通過に象徴される財務省の勝利、そして、普天間移転における外務、防衛両省の勝利と、ことごとく官僚の勝利に終わった。民主党が目指した官僚政治の打破は失敗に終わり、自民党による従来の政治に戻ったのである。
著者
清水 美知子
出版者
関西国際大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:13455311)
巻号頁・発行日
no.16, pp.61-73, 2015-03-31

This paper examines the home life of an urban middle-class household at the end of the Meiji Period as seen in Natsume Soseki’s full-length novel The Gate (1910). The character Sosuke, who resides in a three-person household with his wife and a gejo (maidservant) in a humble rented house nearly 20 minutes on foot from the final station of a rail line, lives in straitened circumstances. Despite his gloomy thoughts on a rainy day with a hole in the sole of his shoe, he cannot afford to buy new shoes.But why does this household, which is not particularly wealthy, have a live-in maidservant? This was because housework in a middle-class household at the end of theMeiji Period took so much time and effort that a full-time housewife could not complete the task herself. Gas lamps were the source of light, and meals were cooked using a shichirin, a small charcoal stove of clay or earthenware. The novel The Gate answers our question persuasively by depicting household articles and the living space in detail.
著者
呉 菲 谷光 太郎
出版者
大阪成蹊大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:13489208)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.167-190, 2006-03-25

中国半導体産業発展の沿革と現状を踏まえ、中国政府の半導体産業政策の戦略的特質について、中国国務院が公布した「18号文書」を中心に考察する。「18号文書」の内容と実施における問題点を分析し、今後の中国半導体産業政策の行方を展望する。
著者
李 炯哲 李 炯 喆
出版者
長崎県立大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:18838111)
巻号頁・発行日
no.11, pp.161-173, 2010

太平洋戦争の敗戦が必至となった1945年早春から降伏を決定した8月中旬までの終戦過程を無決定という観点から検証した。一撃講和,早期終戦,即時終戦へと和平派の判断が変わる中,抗戦派は本土決戦を固持して譲らなかった。その拮抗を終わらせたのが二度にわたる天皇の決断であったが,終戦が遅延したので日本は度重なる大災難に遭った。国家的犯罪とも言われる終戦決定の遅延の主因は,軍部の抵抗,対ソ和平交渉でソ連に翻弄されたこと,煩雑な会議過程と国体護持をめぐる観念的な論議などであるが,究極,軍民の首脳らが本土決戦を避けて天皇の決断に服従したのは幸いであった。しかし,国際法上の盲点に突かれて,終戦後も満州ではソ連軍の武力行使が続いたので,当地の日本軍民が新たなる悲劇に見舞われた。
著者
古俣 智江 遠藤 恵美子 渡辺 勝子
出版者
国際学院埼玉短期大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02896850)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.27-31, 2008-03

ジャガイモはビタミンC (VC)含量が多く,家庭での消費量も多い。そこで広く利用されている市販のポテトチップスとフライドポテトに含まれるVC量を手作りのそれと比較しようと考えた。その結果,総VCおよび還元型ビタミンC(AsA)は,手作りポテトチップスおよびフライドポテトに多く,市販品には少なく,製品によっては手作り品の1/2から1/3程度しか含まれていないものがあった。酸化型VC(DHA)については,手作り品と市販品のフライドポテトの間に大きな差はみられなかった。一方,市販品のポテトチップスのDHAはカルビーポテトチップスとチップスターに多く,手作り品の2〜3倍量認められた。以上の結果から,総VCとAsAは市販品より手作りポテトチップスとフライドポテトに多く,DHAは手作りフライドポテトと市販品の間には大きな差はみられないが,ポテトチップスには市販品に多くみられた。
著者
川崎 衿子
出版者
文教大学女子短期大学部
雑誌
研究紀要 (ISSN:03855309)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.51-61, 2003-01

西洋社会の影響を受けたリゾートがわが国に成立していく過程は、鉄道を主軸とした交通網の発達に大きな影響を受けている。1872(明治5)年の東海道線の営業開始に始まり、1887(明治20)年には横浜・国府津間が開通、やがて1889(明治22)東京・神戸間が全通し、並行して他の交通機関の整備が進むと、それまで都市近郊にとどまっていた別荘地は鉄道沿線の各地に拡大した。避暑避寒や温泉保養、海浜保養を目的に外国人、政府高官などの上層階級、文人らの知識階級が集まる別荘地が多数出現し、それに伴いリゾート生活の規範がつくられていった。それらの発展史および別荘地類型、社会的背景については安島、十代田らによる研究が詳しい。 1898(明治31)年6月に茅ヶ崎駅が開設された。開設前々年の1896(明治29)年には、外科医・須田経哲が茅ヶ崎駅近くに別荘を建て、さらに続いて歌舞伎俳優の市川団十郎が小和田地区(現在平和町)に壮大な別荘を建設した。駅完成後は、宮内省、内務省などの高級官僚、政治家、軍人、学者などが現在の中海岸、東海岸方面に別荘を構えるようになった。以後明治末には既に200棟を越す別荘があったといわれる。 一方、後に戦前の最盛期には東洋一の設備をもつまでに発展した結核専門病院・南湖院が駅開設の翌年に開院した。南湖院の経営は都会の上層階級の患者を優待したことから、南湖周辺には、いわゆる文化人、富裕人が集まった。そしてこの存在は茅ヶ崎を単なる別荘地としてだけではなく療養地としての性格を広く印象づけることにもなった。 これらの動向は、人ロ6000人余であった旧来の農漁村・茅ヶ崎の社会経済に多様な変化をもたらした。その後も関東大震災、第二次世界大戦の影響を受け、茅ヶ崎の別荘の様相は著しい変貌を遂げていく。 本研究では茅ヶ崎の別荘地の開発過程とその特性を明らかにしつつ、明治・大正・昭和・平成にいたるまでの別荘の歴史的変遷を事例的に捉え考察を試みた。
著者
大庭 裕介
出版者
佐賀大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:18819044)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.69-74, 2013-03-29
著者
川村 光 紅林 伸幸 越智 康詞 加藤 隆雄 中村 瑛仁 長谷川 哲也 藤田 武志 油布 佐和子
出版者
関西国際大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:13455311)
巻号頁・発行日
no.17, pp.51-71, 2016-03-31

The purpose of this study is to analyze Japanese teachers’ viewpoints relating toJapanese society and education based on the data of quantitative investigation of public primary school and junior high school teachers in 2013.From this survey, some important findings were drawn. First, the characteristics of teachers who take an optimistic view of the future Japanese society is that the level of their consciousness of the autonomy of the profession is lower. Second, the characteristics of teachers whose consciousness of the autonomy of the profession is lower are that the level of their consciousness of the training of pupils in 21 century academic abilities is lower and they are not ready to carry out the individual and clinical education that help teachers cope with the reality of pupils in their educational practice. Third, the teachers who are school middle leaders in schools are the ones “accomplishing their duty of the school organization”type, who positively carry out school and lesson reform. Also this trend in younger generation is higher. Especially, the characteristics of the school middle leaders is the important issue to consider for the future school education.
著者
白根 恵子
出版者
佐賀女子短期大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02882965)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.29-34, 2011
著者
岡田 精一
出版者
東京音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02861518)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.85-106, 1990
著者
蔀 花雄 尾形 ひろ美
出版者
聖徳大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02892677)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.353-365, 1985-12-15
著者
国枝 幸子
出版者
聖園学園短期大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:03894231)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.29-50, 2004-03

現在日本は長年の平和を享受しているが、かつては第二次世界大戦において、非常な困難を経験して来た。戦争によって破壊されるものは多くあるが、当時の日本に於ける保育もまた、その中で時代の荒波に翻弄され、大きな痛手を受けてきた。その悲惨さを今再び掘り起こし、ありのままにみつめる。その方法として、保育の専門誌「幼児の教育」の戦時中における倉橋惣三の記述を中心に考察してみる。彼は長年にわたり、東京女子師範学校付属幼稚園の主事であり、保育界の第一人者として活躍した。彼の記述には戦争に向けて、急降下してゆく歴史の中で、幼児教育を国の方針に合わせ、または批判し、常に変わらない真心を持って子どもたちのために考え、保育者を教育し、励まし続ける彼の姿と、時代と共に揺れ動く心の動きが映し出されている。国民学校の方針に賛同し、国民幼稚園を提唱し、戦勝に陶酔した彼も、泥沼化する戦時下で期待は裏切られていく。その中で全国の幼稚園に呼びかけ飛行機を献納する運動を起こし実現させる。やがて、本土空襲が開始され、幼稚園が閉鎖されていく中で荒波に必死に抵抗しつつ、保育界の人々を支え、信念と温かい保育理論をもって指導するが、彼の幼稚園も閉鎖され、失意のうちに退陣する。