著者
小森 次郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>2019年10月12日,台風19号の接近により南関東を東京湾へ流れる多摩川(全長138 km)周辺でも豪雨となり,流域内6か所のアメダス観測点ではいずれも24時間降雨量の観測史上最多を記録した.国土交通省の石原水位観測所(河口から27.6 km)と田園調布水位観測所(同13.4 k)では約90年の観測史上最高の水位となり河川の計画高水位を超えた.これにより下流の右岸では東京都調布市・狛江市・世田谷区・大田区が,左岸では神奈川県川崎市多摩区・高津区・中原区・川崎区の15地域で住宅等の浸水被害が発生した(図1).本発表ではこれら地域の現地調査で明らかになった被害の特徴と,そこから考えられる課題について報告する.なお,この調査では発災翌日の10月13日に撮影された国土地理院の航空写真が大いに役立った(2020年1月22日現在,電子国土Webサイトで閲覧可能).</p><p></p><p>【浸水被害の特徴】</p><p></p><p>・浸水の原因は①多摩川につながる樋管からの逆流,②多摩川から支流河川へのバックウォーター現象,③堤防より低い水門を越えた多摩川からの越水,の三つに分類される.</p><p></p><p>・多摩区布田と高津区二子以外の主な浸水域は江戸期の瀬替えを経た多摩川の旧河道の地形に相当する.</p><p></p><p>・多摩川は溝の口の下流側を境に上流は網状流河川,下流は蛇行河川を呈するが(門村(1961)地理科学,1, 16-26),浸水域の広がりかたもこの違いを反映している.</p><p></p><p>【課題】</p><p></p><p>・①の多摩川につながる樋管からの逆流については,記録的な増水の中で水門を開放していた川崎市や調布・狛江境界での河川管理について特に検証が必要である.</p><p></p><p>・現状のハザードマップは,広域の内水氾濫や河川の氾濫による建物被害を示したものであり,今回のような樋管や用水路周辺の局地的な浸水の危険性を理解することはできない.</p><p>・1974年の多摩川水害以降,目立った洪水がなかったことで住民の川への防災意識や土地の成り立ちに関する知識が薄まっていた可能性がある.</p>
著者
前田 拓志 藁谷 哲也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1</b><b>.目的</b> <br> 新第三紀から第四紀の堆積岩を基盤に持つ,房総半島および新潟県中越地域の河川において,近世以降人為的な蛇行切断が行われてきた.これらは,房総半島では「川廻し」,中越地域では「瀬替え」と呼称され,一般に蛇行頚状部を掘削して新たに直線的な流路をつける(曲流短絡する)ことで,廃棄河道を新田として開発する目的で行われた.曲流短絡による一連の地形(以下,曲流短絡地形)には以下のような特徴があると考えた.①切断された流路(旧流路)は,無能河川となり,その後下刻作用を受けない.つまり,旧流路の河床面(旧河床面)は短絡以前の地形面を保存している.②一方,旧河床面と対比される(かつて連続していた)現河床面は,その後も下刻作用を受ける.つまり,現河床面と旧河床面の比高を,曲流短絡以降の下刻による河床の低下量とみなすことができる.また,短絡以降の時間は,下刻作用継続期間とみなすことができる.そこで本研究では,現・旧河床面における比高を<i>H</i> ,下刻作用継続時間を<i>T</i>として,短絡以降の平均下刻速度<i>H/T</i>を求め,さらにそれを制約する要素を検討した. &nbsp; <br> <b>2</b><b>.研究方法</b> <br> 既存文献および史料より,房総丘陵と魚沼丘陵から流路の短絡時期が推定できた7地点を研究対象として選定した. 7地点はいずれも,おもに受食性の大きい新第三系の泥岩を基盤に持つ渓流部である.それぞれの地点において,現地調査のもと現・旧河床面の比高を測量した.また,下刻速度を制約する変数を考察するために河床勾配,流域面積,年降水量の情報を取得した.一方,河床を構成する岩石の力学的強度を求めるために,シュミットハンマーKS型を用いて反発強度を測定するとともに,岩石試料をもとに圧裂引張強度を測定した. &nbsp; <br> <b>3</b><b>.結果と考察</b> <br> 現・旧河床面の比高および下刻作用継続時間は,それぞれ0.11~2.05m,103~235年間であることがわかり,平均下刻速度1.08~15.89mm/yが得られた.下刻速度は,河床を構成する岩石の抵抗力<i>R</i>に対する下刻侵食力<i>F</i>の比に制約を受けると考えられる.そこでまず,下刻侵食力<i>F</i>と侵食に対する抵抗力<i>R</i>の変数について検討した.下刻侵食力<i>F</i>は,流水が河床底面にあたえる力,すなわち流体の強さである掃流力として表すことができると考えられる.掃流力は,水深,河床勾配および流体の密度に比例して増大する.入手できた変数を用いて下刻侵食力<i>F</i>を以下のように考えた. <br> <i>F</i> &prop;(&gamma;,<i>A</i>,<i>P</i>,tan&theta;,<i>W<sup> </sup></i><sup>-1</sup>) <br> ここで,&gamma;:流水の単位体積重量(9810N/m<sup>3</sup>と仮定),<i>A</i>:流域面積,<i>P</i>:年間降水量,tan&theta;:河床勾配,<i>W</i>:河床幅員である.一方,侵食に対する抵抗力<i>R</i>は,河床を構成する岩石の力学的強度によって表すことができると考えられる.流水によって,岩盤には河床に沿ってせん断力が作用する.したがって,侵食に対する抵抗力<i>R</i>は,河床を構成する岩石のせん断強度(<i>S</i><sub>s</sub>)によって次のように表すことができると考えた. <br> <i>R</i> &prop;<i>S</i><sub>s</sub> <br>以上を整理すると,基盤岩石の抵抗力<i>R</i>に対する下刻侵食力<i>F</i>の比を表す変数が,以下に示す速度の次元をもつ指標(<i>F/R</i> index)として表される. <br> <i>F/R </i>= &gamma;<i>A P</i> tan&theta; <i>W </i><sup>-1</sup> <i>S</i><sub>s</sub><sup>-1</sup> <br>それぞれの地点について<i>F/R</i> index値を計算し,下刻速度との関係を分析した.その結果,短絡区間の上流側では下刻速度と<i>F/R</i> indexとの間に関係性が認められないのに対して,下流側では両者の間に高い相関(r=0.92)が認められた.これは,短絡区間の上流側と下流側の地形条件の違いが,下刻速度に影響を与えたと推察される.曲流を短絡しているので短絡区間の河床勾配は,その前後の河床勾配に比べて大きくなり,遷急区間となる.したがって,短絡の下流側の下刻速度は,この遷急区間の河床勾配が優位に作用していることが示唆された.
著者
吉村 光敏 八木 令子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>千葉県市原市田淵にある上総層群国本層の露頭は、更新世前期・中期境界の指標となる「地磁気逆転地層」がよく観察され、国の天然記念物指定地となっている。また2020年1月には、この地層を含む「千葉セクショ ン」を、「国際境界模式層断面とポイント(GSSP)」とすることが 正式に認定され、更新世中期の地層に、「チバニアン(期)」の名称 が使われることになった。このような話題を受けて、数年前より現地を訪れる人が増えており、現在、地元自治体を中心に観察路整備、ビジターセンターのオープン、ガイド育成などが進められている。そこで今回、これらの地層が見られる場所がどのようなところかを示すため、露頭周辺の地形とその成り立ちについて明らかにした。 </p><p>露頭が位置する崖は、房総丘陵を北流する養老川本流沿いの河岸段丘分布域にあたる。地磁気逆転を示す露頭は、完新世の最も新しい段丘面である久留里Ⅴ面(鹿島1981)の段丘崖にあり、 段丘面と現河床の比高はおよそ5メートルである。養老川本流右岸は、久留里Ⅲ面期の蛇行流路が短絡した後、比高60mに及ぶ本流下刻と側刻により蛇行切断段丘が形成された。さらに蛇行跡旧河床面は、支流により開析され、曲流する侵食谷となった。谷底は、江戸時代に川廻し新田として河道変更と埋め土が行われ、小規模な連続型の川廻し地形が形成された。これら川廻し地形のうち、フルカワは近年盛り土され原形を留めないが、シンカワのトンネルなどは現在も残り、観察することができる。ここには洪水対策としての微地形も見られ る。また地磁気逆転地層の露頭近くに位置する不動滝は、流路変更による人工の滝である。このことから、養老川中流の集落では、中世〜近世の頃には、様々な地形改変が行われていたと考えられる。</p><p> なお2019年9月から10月にかけて連続して発生した台 風15号、19号、及び21号 関連の集中豪雨によって、旧河道跡は水没し、支流の川廻し地形跡にも、想定された洪水水位の上まで水が上がったことが観察されている。</p>
著者
山下 清海
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.58, no.5, pp.295-317, 1985-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
58
被引用文献数
1

植民都市の一つであったシンガポールの中心部における華人方言集団のすみわけと,その崩壊について分析した.華人会館の会員の分布や会館:施設の分布を検討した結果,第二次世界大戦後も戦前とほぼ同様に,方言集団が互いにすみわけていた.しかし,そのような伝統的すみわけパターンは,シンガポールのマレーシアからの分離独立 (1965年)後,とりわけ1970年代以降,崩壊し始めた.その要因としては,1.華人をとりまく言語環境の変化(とくに英語優先化), 2. 華人のシンガポールへの定着化の進行と,方言集団内の相互扶助機能の低下, 3. 外資導入による工業化の進展に伴う華人の伝統的経済構造の変化, 4. 都市再開発の進行による方言集団の集中地区の崩壊, 5. 方言集団のすみわけの崩壊を促進させる人民行動党政府の諸政策,などが重要なものとしてあげられる
著者
山下 清海 松村 公明 杜 国慶
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.69, 2007 (Released:2007-04-29)

研究の背景と目的 日本の三大中華街(横浜中華街,神戸南京町,長崎新地中華街)は,いずれも幕末の開港都市に形成された伝統的なチャイナタウンと位置づけられる。三大中華街は,主として日本人を対象に,中国料理店を中核としながら観光地として発展してきた。これに対して,近年の華人ニューカマーズの増加に伴い,東京・池袋駅北口周辺に新興のチャイナタウンが形成されつつある。このチャイナタウンは,主として華人ニューカマーズを対象にサービスを提供する中国料理店,食材店,書店,ネットカフェなどが集積して形成された点に大きな特色がある。 アメリカ・カナダをはじめ欧米では,都心近くに形成された伝統的なチャイナタウン(オールドチャイナタウン)とは別に,近年,中国大陸・台湾・香港・東南アジアなどからの華人ニューカマーズによって新たなチャイナタウン(ニューチャイナタウン)が形成されている(山下,2000)。このようなグローバルな傾向の中で,池袋チャイナタウンは,日本最初のニューチャイナタウンとして位置づけることができる。なお,池袋チャイナタウンという名称は,報告者の一人である山下が,三大中華街とは性格が異なるチャイナタウンであることを強調するために,敢えて「中華街」という名称を用いずに,2003年,「池袋チャイナタウン」と名づけたものである (山下 2003,2005a)。 本研究では,池袋チャイナタウンの形成プロセスを明らかにするとともに,三大中華街との比較考察を通して,池袋チャイナタウンのニューチャイナタウンとしての特色について考察することを目的とする。 池袋チャイナタウンの形成と特色 池袋チャイナタウンの位置は,西池袋1丁目の歓楽街と重なり合う。新宿や新橋と並んで,池袋は戦後の闇市などで多額の収入を得た華人が投資する繁華街の一つであった。1980年代半ば以降,日本語学校で日本語を学ぶための就学生ビザによって来日を果たす福建省や上海周辺出身などが急増した。池袋周辺には日本語学校が集中し,付近に残されていた低家賃の老朽化したアパートに彼らが集住するようになった。 チャイナタウンの形成においては,中核となる店舗の存在が大きい。池袋チャイナタウンの中核となっているのは,中国物産のスーパーマーケットチェーン店「知音」である。「知音」では中国書籍・ビデオ販売に加えて,中国料理店や旅行会社を併設するほか,中国語新聞(フリーペーパー)やテレホンカードも発行する。 池袋チャイナタウンが位置する池袋駅西側周辺には,華人が居住するアパートが多いが,池袋駅東側の東池袋,大塚周辺にも,華人が多く居住している。また,華人ニューカマーズの定住化傾向に伴い,単身者が結婚後,より広い住宅を求めて,埼京線や京浜東北線の沿線の埼玉県の公団住宅やアパートに移り住む郊外化の傾向もみられる(江・山下 2005b)。彼らの職場は東京都内が多く,勤務を終え,帰宅する途中に買物,食事などで立ち寄りやすい池袋の位置は,チャイナタウン形成の一つの重要な要因になっている。 池袋チャイナタウンの最近の傾向として,中国東北3省(遼寧・吉林・黒龍江)出身者の進出が顕著であることが指摘できる。東北3省には朝鮮族が多く,朝鮮語と日本語には文法をはじめ類似点が多いため,朝鮮族にとって,日本語は学び易い外国語であった。また東北3省は,伝統的に日本語教育が盛んな地域であった。中国東北3省出身者の増加に伴い,池袋チャイナタウンでは,中国東北料理店あるいは中国朝鮮族料理店が増加している。 池袋チャイナタウンは,新宿区大久保地区のコリアンタウンがそうであったように,今後,日本人の顧客を取り込むことにより,チャイナタウンとしてさらに発展する可能性を有している。 〔文献〕 山下清海 2000.『チャイナタウン―世界に広がる華人ネットワーク―』丸善. 山下清海 2003.世界各地の華人社会の動向.地理 48:35-41. 山下清海 2005a. 「池袋チャイナタウン」の誕生. 山下清海編『華人社会がわかる本―中国から世界へ広がるネットワークの歴史,社会,文化』146-51.明石書店. 江 衛・山下清海 2005b.公共住宅団地における華人ニューカマーズの集住化―埼玉県川口芝園団地の事例―.人文地理学研究 29:33-58.
著者
香川 幹一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理
巻号頁・発行日
vol.5, no.4, pp.522-523, 1942
著者
遠藤 匡俊
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.60, no.5, pp.287-300, 1987-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
11
被引用文献数
2

江戸時代におけるアイヌの移動形態は,ほぼ一定の本拠地からの季節的移動と理解されてきた.これは,集落の位置および集落の構成家が一定していたことを意味する.しかしながら,安政3 (1856) 年から明治2 (1869) 年にかけての三石場所では,集落の位置が変化し,しかも集落の構成家は流動的に変化していた.このような流動的集団が形成されるメカニズムを親族関係から分析した. その結果,集落間居住地移動の行先には,多くの場合,親,子,兄弟姉妹等の親族が各々の家族と共に既に居住していたことが判明した.すなわち,婚姻等によって居住集落を異にしていた親族(親子,兄弟姉妹)が,再び同じ集落に共住するように,各々の新たな家族と共に居住地を移していたのである.集落間居住地移動によって集落の構成家は流動的に変化していたが,集落内の家と家の成員は密接な親族関係で結ぼれていたということになる.
著者
竹本 弘幸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
巻号頁・発行日
pp.179, 2011 (Released:2011-05-24)

_I_ はじめに 八ッ場ダム建設に伴う川原湯代替地:上湯原地区は,川原湯温泉再生の要として重要な移転先である.この地区の地形は,やや開析を受けた円弧状の急崖と前縁に広い堆積面を有する緩斜面である(図1).中村(2001)によれば,吾妻渓谷で貴重な土地ながら土砂崩れと落石が頻発することから,畑地利用が出来ず雑木林になっているという.この地を所有する豊田氏らの証言でも,過去に何度か土砂災害を体験・目撃しているとのことである. この地区は,国から地すべり調査の委託を受けた会社の報告でも,地すべり危険地帯22箇所の内の一つに挙げられている. 一方,国交省では上湯原地区は地すべり地形ではなく河川の蛇行地形で,裏付けとして地質断面図を公開していた(図2). 本発表では,代替地の安全確保と防災上の視点から,2つの全く異なる見解について検証するために実施した文献および現地調査の結果を報告する. _II_ 長野原町・群馬県・研究機関ほかの資料検証 久保他(1996)は,上湯原地区を吾妻川の最高位段丘とし,応桑岩屑なだれ堆積物(OkDA)を崖錐堆積物が厚く覆うこと,中村(2001)は,同地区全体を覆う複数の崖錐堆積物の存在と昭和の土石流災害を報告している.倉沢(1992)「川原湯新温泉源の開発」の地質断面図では,OkDAが7mの崖錐堆積物を挟んで上下2層(群馬県,1991)に分かれていることを図示している(図3). 2009年公開(独)防災科学技術研究所の全国地すべりマップによれば,上湯原地区は背後の円弧状急崖を滑落崖とし,2つの地すべり斜面移動体で構成されていることを明らかにしている(図1).竹本(2010)は,OkDAの堆積面高度が対岸の立馬に比べ30m以上低下した地すべり塊であることや河川局が公開した地質断面(図2)の誤りを指摘している.いずれの報告もOkDAが流下後,時間を置いて再移動した事実と上湯原地区の全体を覆う大規模な土砂災害が起きていたことは明らかである. _III_ 国交省の蛇行地形と(独)防災研の地すべり移動体の検証 次に,上湯原の災害履歴の検証結果を図4に示す.地点1(新駅建設地上)では,OkDA以降5回の大規模災害が発生した.地点2では,尾根地形直下から複数の地点で湧水が観察でき,群馬県(1991),倉沢(1992)の報告も同じである.上湯原でOkDAの堆積面高度が大きく低下し,層厚10m以上の崖錐堆積物が全域を覆った事実は,防災対策を考える上で重要課題の1つである.この大災害は,浅間テフラから約1.3万年前直後に発生していたことが確認できた.以上は,住民の安全第一を考え,地すべり危険地帯を指摘した良識ある地質調査会社と防災科学研究所の地すべり見解を裏付けるものである.このような場所にダムを造り湛水した場合,活動中の移動体(林・白岩沢・八ッ場沢トンネル)と同様,地すべりが再活動する可能性が高く,代替地では深刻な事態を招くことに繋がるだろう.現状は,国交省河川局がダム建設のため,意図的に検証を怠ってきたとしか言いようがない.万一,地すべりが発生した場合,ダム推進を訴える一方で,住民の為の安全検証を怠った側に責任が生ずるのではないだろうか. _IV_ まとめにかえて 国交省・群馬県などの資料検証と現地調査から,上湯原地区はOkDA流下後,地すべりと土砂崩れを繰り返して形成された場所であることは明らかである.河川局は,多くの調査者と国の研究機関が災害リスクを指摘した上湯原の巨大地すべり地を『八ッ場ダム建設のため,河川の蛇行地形であると偽装公表して工事を進めてきた』と受け取らざるを得ない.既に,利根川流域の治水・利水計画の中で基本高水を操作していた事実を含め,河川局の環境アセスメントが,ダム建設に協力した住民の災害リスクまで軽視し,ダム建設だけを目的化していたことと同じである. 国は,川原湯温泉街の再建を最優先で実施し,従来型の河川行政の誤りを認め,全面的見直しと情報公開を通じて真の環境アセスメントを実施することが急務ではないだろうか.
著者
吉村 光敏 八木 令子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.206, 2020 (Released:2020-03-30)

千葉県市原市田淵にある上総層群国本層の露頭は、更新世前期・中期境界の指標となる「地磁気逆転地層」がよく観察され、国の天然記念物指定地となっている。また2020年1月には、この地層を含む「千葉セクショ ン」を、「国際境界模式層断面とポイント(GSSP)」とすることが 正式に認定され、更新世中期の地層に、「チバニアン(期)」の名称 が使われることになった。このような話題を受けて、数年前より現地を訪れる人が増えており、現在、地元自治体を中心に観察路整備、ビジターセンターのオープン、ガイド育成などが進められている。そこで今回、これらの地層が見られる場所がどのようなところかを示すため、露頭周辺の地形とその成り立ちについて明らかにした。 露頭が位置する崖は、房総丘陵を北流する養老川本流沿いの河岸段丘分布域にあたる。地磁気逆転を示す露頭は、完新世の最も新しい段丘面である久留里Ⅴ面(鹿島1981)の段丘崖にあり、 段丘面と現河床の比高はおよそ5メートルである。養老川本流右岸は、久留里Ⅲ面期の蛇行流路が短絡した後、比高60mに及ぶ本流下刻と側刻により蛇行切断段丘が形成された。さらに蛇行跡旧河床面は、支流により開析され、曲流する侵食谷となった。谷底は、江戸時代に川廻し新田として河道変更と埋め土が行われ、小規模な連続型の川廻し地形が形成された。これら川廻し地形のうち、フルカワは近年盛り土され原形を留めないが、シンカワのトンネルなどは現在も残り、観察することができる。ここには洪水対策としての微地形も見られ る。また地磁気逆転地層の露頭近くに位置する不動滝は、流路変更による人工の滝である。このことから、養老川中流の集落では、中世〜近世の頃には、様々な地形改変が行われていたと考えられる。 なお2019年9月から10月にかけて連続して発生した台 風15号、19号、及び21号 関連の集中豪雨によって、旧河道跡は水没し、支流の川廻し地形跡にも、想定された洪水水位の上まで水が上がったことが観察されている。
著者
森本 健弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.66, no.9, pp.515-539, 1993-09-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
26
被引用文献数
5

本研究では,大都市周辺の集約的農業地域における不耕作農地の形成について,その実態と形成要因の解明を土地利用と個別経営の調査によって試みた.研究対象地域とした千葉県市川市柏井町四丁目では, 1970年代から兼業化・脱農化の一方,残存した専業農家・第1種兼業農家は経営の重点を施設園芸や梨栽培へ移してきた.この変化と並行して不耕作農地が形成され,台地では不耕作農地が施設と混在し,低地ではその大部分が不耕作農地となる景観が形成された.研究対象地域の農家による不耕作農地のおもな形成要因は,施設園芸や梨栽培への集約的な労働投入による農業労働力の相対的な不足であり,また田の環境の悪化,および農外就業の進展であった.不耕作農地の形成の基盤には,市街化調整区域における農地の転用規制,圃場条件の悪さ,農地地価の上昇と農地貸借の困難さがあった.研究対象地域以外の居住者へ所有権の移転した不耕作農地も多く存在した.この場合には,兼業化・脱農化がおもな形成要因であること,農地転用に伴う代替農地の取得が関与した事例の多いことが推測された.
著者
由村 百代
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.51, no.5, pp.406-415, 1978
被引用文献数
1

Bunjir&ocirc; Kot&ocirc; (1856_??_1935) ist einer der Geologen, die zur Entwicklung der modernen Geographie von Japan beigetragen haben.<br> An der Universit&auml;t Tokyo studierte er 1877_??_1879 Geologie. Zu semen Lehrern geh&ouml;rte der deutsche Geolog E. Naumann. Japanisches Kultusministerium schickte Kot&ocirc; nach Deutschland, Geologie zu studieren. 1881/82 in Leipzig and 1882_??_1884 in M&uuml;nchen studierte er Geologie. Im Fr&uuml;hling 1884 kehrte er nach Japan zur&uuml;ck, and 1886_??_1921 hatte er den Lehrstuhl f&uuml;r Geologie an der Kaiserlichen Universit&auml;t Tokyo inne.<br> 1887 ver&ouml;ffentlichte er eine Buchbesprechung &uuml;ber das zweib&auml;ndige Japanwerk von J. J. Rein in der Zeitschrift &ldquo;T&ocirc;y&ocirc; Gakugei Zasshi&rdquo;, and 1908 schrieb er einen Aufsatz &uuml;ber die &ldquo;Neue Geistesstr&ouml;mung in den deutschen Geographen&rdquo; in der Zeitschrift &ldquo;Rekishichiri&rdquo;. Seine eingehenden Kenntnisse in der deutschen Geographie zeigen diese Buchbesprechung and der Aufsatz.<br> Im ersten Band des &ldquo;Journal of Geography (Chigaku Zasshi)&rdquo; 1889 erschien emn Aufsatz unter dem sonderbaren Titel &ldquo;Ich gebe die Definition der Geographie anl&auml;sslich der ersten Ver&ouml;ffentlichung des &lsquo;Journal of Geography&rsquo;&rdquo;. Seine Definition kommt aus dem ersten Kapitel &ldquo;Begrif der Geographie&rdquo; and dem zweiten &ldquo;Die Stellung der Geographie im Kreise der Wissenschaften&rdquo; der ersten Abteilung von F. Ratzels &ldquo;Anthropo-Geographie, I.&rdquo; (1882). Das zeigt, dass schon am Ende der 80er Jahre des 19. Jh. ein Teil von Ratzels &ldquo;Anthropo-Geographie, I.&rdquo; (1882) in Japan vorgestellt wurde, and Kot&ocirc; die Kenntnisse von nicht nur Physischer Geographie, sondern auch der Geographie des Menschen hatte.<br> Sowohl Kot&ocirc; als Ratzel kritisierten, dass die bisherige Geographie nur die Erdbeschreibung gewesen war, and die Natur der L&auml;nder fast vernachl&auml;ssigt worden war. Man kann die Geschichte der japanischen Geographie der Meiji-Zeit nicht verstehen, ohne den Prozess der Einf&uuml;hrung der europ&auml;ischen and amerikanischen Geographie in Japan zu verfolgen. Doch sp&auml;testens in der zweiten H&auml;lfte der Meiji-Zeit waren die deutschen Gedanken &uuml;ber, die Geographie unmittelbar von &ldquo;Anthropo-Geographie, I.&rdquo; (1882) oder mittelbar durch den Aufsatz Kot&ocirc;s eingef&uuml;hrt worden, and sie waren die neuesten Gedanken &uuml;ber die Geographie zu jener Zeit.
著者
松井 歩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<p>1. 報告の背景と目的</p><p> 沿岸域は多様な人間活動の舞台である.日本における沿岸域の管理は伝統的に,近世以来の排他的な沿岸域の利用権を持つ沿岸漁業者集団によって担われてきた.しかし,1980年代後半以降の日本における沿岸漁業の衰退は,多様な主体による統合的な沿岸域管理の必要性を提起した.</p><p> そのような中で,本報告で取り上げる沿岸域での観光業は,沿岸漁業コミュニティとともに沿岸域を管理する新たなアクターとして注目を集めている.一方で,沿岸域における観光活動は基本的に人間活動の困難な海洋空間がその「舞台」となるため,従来の管理主体との間でのコンフリクトも発生している(フンク 2009).これらのコンフリクトはいかにして発生するのか,そして,合意形成はいかにしてなされるのか.本報告ではこれらの諸点について検討していきたい.</p><p></p><p>2. 事例と方法</p><p> 本報告では,石川県能登島,七尾湾におけるドルフィン・ツーリズムをその対象とする.事例地域では2001年秋に野生のミナミハンドウイルカ(<i>T. aduncus,</i>以下,イルカ)2頭が発見され,その後定住・繁殖する中でイルカ観光業が発展してきた.また,七尾湾は現時点でのミナミハンドウイルカ定住域の北限でもある.</p><p> 本報告は2018年5月,2019年7月に実施した現地調査および,2019年に散発的に実施したNPO法人や研究者など,地域外のアクターに対するインタビュー調査に基づく.また,ドルフィン・ツーリズムの沿革を明らかにするために2001年に能登島で野生のイルカが確認された以降,2018年5月までの地方紙における新聞記事74件を収集・分析した.</p><p></p><p>3. 石川県能登島におけるドルフィン・ツーリズムの展開</p><p>事例地域におけるドルフィン・ツーリズムの展開は大まかには4つの時期に区分できる.以下ではその概略を示す.</p><p>1)発見期(2001-2004) </p><p> まず,2001年から2004年は能登島において野生のイルカが地元住民によって発見され,急速に資源化された「発見期」として位置づけられる.事例地域で最初期にドルフィン・ツーリズムを開始したグループは同時期に定年退職を迎えた地元住民・観光業経営世帯であり,専門の知識を有する者は関係していなかった.</p><p>2)発展期(2005-2010)</p><p> 次に,2005年から2010年までが,専門知識の流入とともに事例地域におけるドルフィン・ツーリズムが体系化・組織化された「発展期」となる.同時期にはエコツーリズム・環境教育を実施するNPO法人が参入し,その主導でイルカの保護と観光の持続的な展開を趣旨とする団体が地域内に設立された.明文化されたルール内では,イルカへの接近方法や時間・隻数の上限,観光客の安全対策などが定められた.</p><p>3)攪乱期(2011-2017)</p><p> しかし,2011年以降,イルカが繁殖するとともにその行動範囲は広域化し,従来の方法では催行中のイルカ遭遇率を保持することが困難となった.そして,必然的に観光船の行動範囲が拡大する中で地域漁業とのコンフリクトが顕在化していく.2014年にはNPOが撤退するなど,同時期は事例地域におけるドルフィン・ツーリズムが大きく変化した「攪乱期」として位置づけられる.</p><p>4)再整備期(2018-)</p><p> 2018年になると,攪乱期に起こったコンフリクトを解消する上で,イルカ保護委員会と地元漁協の集団間での話し合いの場が持たれるようになる.拡大したドルフィン・ツーリズムの空間スケールに対応する上で,組織のスケールを拡大し,観光協会内で七尾湾全域での保護組織が設立された.</p><p> 以上まで,能登島におけるドルフィンツーリズムの展開についてその概略を示した.本報告の主眼である漁業とのコンフリクトを検討する上で重要であると思われる点について,以下では簡単に示しておきたい.</p><p> まず,イルカの多元的な側面を注視する必要がある.そもそも能登島におけるイルカは熊本県天草で個体識別されたイルカであり,外部から偶発的に流入してきた存在である.その定住と繁殖,そしてそれに伴う行動範囲の拡大は事例地域におけるドルフィン・ツーリズムの展開に大きな影響を与えた.</p><p> さらに,様々なスケールにおける知識の移動への着目も有効となるだろう.ホエールウォッチングは国際的に「クジラの非消費的利用」の一形態として,反捕鯨的な思想を背景に持つ(Choi 2009).国際的な知識を有するNPO法人や科学者といった地域外アクターは,事例地域における最初期の独自的なドルフィン・ツーリズムを国際標準的な形態へと変化させるきっかけとなった.これらの諸点をふまえることで,冒頭の問いに対してより踏み込んだ検討が可能となるだろう.</p>
著者
影山 穂波
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.71, no.9, pp.639-660, 1998-09-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
55
被引用文献数
4

本稿は港北ニュータウンの荏田地区を研究対象として,居住空間が形成される過程をジェンダーの視点から分析した.港北ニュータウン開発では市民参加が目指されたが,地権者は基本的に男性の世帯主であるため,女性が参加する場は用意されていない.区画整理後に入居してきた人は,ほぼ一定の年齢層と所得階層の住民である.彼/彼女たちの居住空間の形成への関わりの一つに地域活動が挙げられる.対象地域では,ライフステージに応じて居住環境に焦点を当てた地域活動が展開されており,地域ネットワークを拡大し,ニュータウンの発展段階に沿って発足・発展・消滅することで,居住空間形成に寄与してきた.その地域活動で中心的な役割を果たしてきたのは主婦である.彼女たちは日常の生活時間・生活空間でジェンダー役割を担い,さまざまな制約を受けながらも,地域活動において自分自身の存在価値を認めるために自分の時間を捻出し,活動に参加している。
著者
束田 大樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>1.研究の背景と目的</b><br> 1993年に制度が開始された「道の駅」は、当時の建設省によって103カ所の施設が登録されてから、毎年増え続け、その数は2019年1月現在、1145カ所にものぼる。高速道路のSAやPAと同じく、一般道路にも休憩施設を整備することを目的としたため、制度開始当初は道路休憩施設という意味合いが強かった。しかし近年、道の駅は、農産物直売による農業振興、観光拠点としての地域振興、更には地域福祉、交通結節点、防災等の役割も担うようになってきており、地域の核となる施設に変化している。<br> 道の駅は原則、地方自治体やそれに代わり得る公的な団体が設置し、管理・運営は地方自治体、または自治体からの業務委託や指定管理により、第三セクターや地域の民間事業者等が行う。そのため、道の駅は地方自治体それぞれの、道路休憩施設や地域振興に対する考え方や財政事情、土地の特徴がよく表れる施設である。<br> この研究では、自治体が道の駅を設置した背景と目的、設置をした際の国や県の関与、現在の運営状況を明らかにし、立地による違いを分析することを目的とする。<br><br><b>2.対象地域と調査方法</b><br> 対象地域は、群馬県内の道の駅を設置しているすべての自治体と全32か所の道の駅とする。県北部や西部は山間地域が多くを占め、南部や東部には関東平野が広がるため、山間部と平野部の道の駅を比較するのに適当な地域であると判断したからである。<br> 調査方法は、対象地域内各自治体の担当部署への聞き取りを行い、得られた情報をもとに、各自治体にとっての道の駅位置付けを分析する。そして、対象地域を、過疎地域、特定農山村地域、それ以外の地域(主に平野部)に分け、地域ごとに立地する道の駅の特徴を比較する。<br><br><b>3.研究結果</b><br> 調査結果の中で特に注目されるのは、整備手法、設置の際の補助金、条例の3点である。<br> 道の駅の整備方法は、道路管理者と自治体で整備する「一体型」と、自治体で全て整備を行う「単独型」に分けられる。全国的には「一体型」の方が多いが、群馬県は、「一体型」は32か所中4か所しかなく12.5%と極めて低い。<br> 補助金は、一番多かったのが、農林水産省の農業振興に関する補助金であった。道路休憩施設ではあるが、国土交通省の社会資本整備等の補助金は農林水産省の約半数にとどまった。<br> 条例は、自治体が道の駅を設置する際に制定した条例の「設置の目的」に関する条文に注目すると、農業振興や地域振興が多く、道路休憩を目的として明記している自治体は少なかった。<br> 群馬県の道の駅は「単独型」が多く、自治体が独自で設置しているため、道路休憩よりも地域振興や農業振興を重点化する傾向になると考えられる。地域ごとに比較すると、過疎地域、特定農山村地域の道の駅は、農林水産省から受けた補助金が多く、設置目的も地域振興や農業振興が多い。逆にそれ以外の地域では、国土交通省から受けた補助金が多く、設置目的も道路休憩の意味合いが強い。地域の状況によって自治体が道の駅に求めるものが異なるのである。
著者
由井 義通
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.41, 2006

1.問題の所在経済のグローバル化の進展は,労働力の国際的な移動をもたらせた.企業活動は国際的に展開し,それに伴って駐在員として,あるいはその家族の随伴移動を生じさせながら海外勤務者が増加していることは容易に想像できる.また,近年では海外就職に内容を特化した就職情報誌が刊行されるなど,就職先として海外を選び,自らの意志で「海外で働く」ことを選択することが珍しくなくなっている.このような国際的な人口移動の内容に関しては,まだ十分な検討がなされているとはいえない.1994_から_95年に日本人の海外就職ブームが起こったとされるが,それはホンコンでの就職がマスコミなどで取り上げられたことで火がついた.当時,日本における深刻な景気後退に伴う就職の困難さも海外での就職に目を向けさせたといえる.また,海外の日系企業においても,駐在員を減らし,現地採用者への切り替えたりすることによってコスト削減を図るところが出てきた.しかしながら,海外就職は就労ビザ取得の制約が大きく作用するため,専門的技能や知識などをもった労働者しか就労ビザの発給をしない欧米諸国では就労することは困難である.そのような状況のなか,シンガポールでは4年制大学卒業者であれば比較的容易に就労ビザを取得することができるうえに,英語で仕事ができることや治安が良いことなど,海外就職希望者にとって好条件がそろっている.それに加えて,受け入れ側となる企業においても,東南アジア全体を統括するリージョナルセンターとして機能を拡張している日系企業やそれらとの取引の多い外資系企業が,日本語を話すことができる就業者を求めている.また,上記のような経済的背景とは違った観点から海外就職者に特徴的な現象を報告したThangほか( 2002, 2004)の先行研究がある.それらの研究では,シンガポールでは多くの日本人女性が就労の機会を得ており,彼女たちが海外就職を希望した理由が日本の雇用状況や就業における女性の地位のアンチテーゼ的な意味を持つことや,日本人女性にとって海外で働くことの意義,海外就職の際の求職活動などが詳細に報告されていた.海外勤務を求めて人材紹介会社に登録する日本人の約80%が女性で,彼女たちの大部分が人材紹介会社の求人情報を利用して求職活動をしていることから,本研究は,海外で働く日本人女性の就労と生活を明らかにする調査とリンクさせ,海外就職における人材紹介会社の役割に関する調査を実施した.本発表はその研究成果について報告する.2.研究方法人材紹介会社への聞き取り調査は,2006年2月に日本国内で海外への人材紹介をしているJ社本社,2006年3月と8月にシンガポールでC社,J社,P社,T社に実施した.上記の聞き取り対象の人材紹介会社は,日本商工会議所や日本シンガポール協会の紹介などを通したもので,シンガポール内では大手と中堅の日系人材紹介会社である.併せて人材紹介会社や研究グループの知人の紹介などによって,シンガポールで働く日本人女性に対してもインタビュー調査を行った.3.シンガポールの人材紹介会社日本国内の大手人材紹介会社の大部分は,シンガポールにオフィスを置いている.転職行動の盛んなシンガポールには現地資本や外資の人材紹介会社が数多くあるが,日系人材紹介会社は,シンガポールやその周辺国の日系企業や外資系企業への現地採用日本人社員の人材紹介,第二に日系企業の現地採用外国人(日本語の会話能力があるシンガポール人やマレーシアの中国系)を主たる業務としている.日本企業が人材紹介会社を通して人材を募るのは,人材選定の作業を人材紹介会社に任せることができるからである.なぜなら,人材募集の広告をシンガポールの新聞等で行う場合,多数の応募があるため,人材選定のスクーリングを人材紹介会社に依存せざるをえないからである.4.人材紹介会社の求人情報一部を除いて人材紹介会社の求人情報は,web上で公開されている.本研究では,J社のweb上に公開されている求人情報について国別に集計した結果,タイやインドネシアでは製造業の求職情報が大部分を占めるのに対して,シンガポールでは職種では営業職,IT関連のカスタマーサービスやSE,事務職,サービス業など多様な雇用があることが明らかとなった.
著者
飯島 慈裕 門田 勤 大畑 哲夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.108, 2007 (Released:2007-04-29)

I.はじめに モンゴル北部は,北(森林)から南(草原)に植生が漸移する北方林の南限地域である.また,その山岳地域では,南向き斜面に草原,北向き斜面に森林が差別的に分布している.この特徴的な植物分布に対応して,森林斜面には地下に永久凍土が分布する一方,草原斜面には永久凍土が認められず,その結果,南北斜面で蒸発散・流出特性が異なる可能性など,水文気候環境の違いが示唆されている. 本研究では,この特徴的な植生景観を示す地域での水循環過程を解明する一環として,北向き森林斜面と南向き草原斜面を対象に,森林の樹液流測定と,草原・林床での総合気象観測から蒸発散量の推定を行なった.また,それぞれの斜面について,蒸発散量の季節変化と水文気象条件,ならびに植物生長・フェノロジーとの対応関係を検討した. II.研究地域と観測方法 本研究の観測地点は,モンゴル国の首都ウランバートルの東北東約50kmに位置する,Tuul川上流のShijir川流域内の南北斜面である.観測サイトは,南向き草原斜面(標高1,670m)と,北向き森林斜面 (カラマツ(Larix sibirica Ledeb)が優占;標高1,640m)である. 草原斜面では,総合気象観測データから熱収支計算(bulk法)によって蒸発散量を推定した.また,20cm深までの土壌水分量・降水量を観測した.草の生長は,入力・反射光合成有効放射量の比を緑被の指標として用い,超音波積雪深計の出力を夏季の草丈に変換した. 森林斜面では,林床での総合気象観測データから同様に蒸発散量を推定した.また,Granier法による樹液流測定(カラマツ12個体)を行い,50x50mの樹木調査結果から辺材面積の合計を推定し,平均樹液流速と総辺材面積の積によって樹木からの蒸散量を推定した.これらの和を森林からの蒸発散量とした.同時に,カラマツ4個体に対し,デンドロメータで直径方向の幹生長量測定を行なった.林床での長波放射量の比を樹木の展葉・落葉の指標とした. III.結果 図1に2006年の草原・森林斜面での蒸発散量と水文気候条件,植物生長の季節変化を示す.4~9月の降水量は227mmであり,5~8月は断続的に降水があった.土壌水分量はどちらの斜面も4月下旬の消雪から6月中旬まで高い状態が続き,8月中旬から9月下旬にかけて降水量の減少に対応して乾燥が進行した. 植物生長の季節変化は草原・森林斜面で違いがみられた.草原では5月上旬から展葉が始まり,7月初めに緑被が最大となった.草丈の生長は6月中旬から7月上旬までの短期間で急速に進んだ.草の枯れ(草丈の減少)は8月上旬から始まった.一方,森林では,5月中旬からカラマツの展葉が開始し,6月下旬には展葉が終了した.展葉の終了時期から幹生長が進行し,一貫した生長が8月上旬まで継続した.カラマツの落葉は8月下旬から現われ始めた. 草原での蒸発散量は展葉と共に増加し,生育最盛期(7月)に4mm day-1を越す期間が継続した.蒸発散量の可能蒸発量に対する割合は,7月に約80%であった.森林からの蒸発散量は草原に比べて春の増加時期がやや遅れ,量も約半分(最大2mm day-1)であった.カラマツの生育最盛期(7月~8月中旬)には,林床からの蒸発散は57%,樹木からの蒸散は43%であった.枯れや紅葉・落葉に伴う蒸発散量の減少は草原で8月中旬以降急速に進むのに対して,森林では緩やかに減少する違いがみられた. 以上から,森林-草原斜面の蒸発散量変動は,植物活動の季節変化と降水量,土壌水分量変動とよく対応していた.森林からの蒸発散量は草原に比べて半分程度であり,森林草原の南北斜面は蒸発散量の差を通じて水収支も大きく異なっていると考えられる.
著者
藤村 健一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.146, 2019 (Released:2019-03-30)

百舌鳥・古市古墳群は大阪府堺市・藤井寺市・羽曳野市に位置する。2017年、これに含まれる45件49基の古墳が文化審議会によって世界文化遺産の推薦候補に選ばれた。早ければ2019年にも正式に登録される可能性がある。 推薦候補に選ばれた古墳には、仁徳、履中、反正、応神、仲哀、允恭の各天皇陵古墳が含まれる。このうち、堺市の仁徳天皇陵古墳は国内最大、羽曳野市の応神天皇陵古墳は国内2番目の規模の古墳である。天皇陵は皇室祭祀の場所であり、現在でも宮内庁が管理している。 発表者は2016年、京都の拝観寺院(観光寺院)の意味や性格について報告した。これらの寺院に対しては、主に宗教空間、観光施設、文化財(文化遺産)という3種類の意味が付与されている。これらは互いに異なる立場から意味づけられており、対立する可能性をはらむ。1980年代の古都税紛争は、このことが一因であったと考えられる。 天皇陵古墳に対しても、様々な立場から異なる意味づけがなされ、そのことが摩擦を生んでいる。本研究では百舌鳥・古市古墳群の天皇陵古墳を事例として、そこに付与された様々な意味を整理・分析するとともに、意味づけを行っている人々についても調査し、摩擦の要因を解明する。 百舌鳥・古市古墳群の天皇陵古墳に付与された意味は、①聖域、②文化財、③観光地・観光資源、④世界文化遺産の4つに集約できる。①の見方をとるのは主に宮内庁と皇室、神道界の人々や、皇室崇敬者・皇陵巡拝者である。②の見方をとるのは、主に古墳を研究する歴史(考古)学者である。③は地元の経済界や観光業者・観光客を中心とした見方である。④は、主に世界遺産登録運動の推進役である地元自治体や文化庁の見方である。 ①~④の意味には重複する部分もあるが、これらは一致しておらず齟齬もある。とりわけ、①の見方をとる立場と②の見方をとる立場の間では対立が顕著である。天皇陵古墳を②とみなす歴史学者は、宮内庁を批判してきた。 ①の立場をとるのは宮内庁・皇室関係者だけでない。神道界や皇室崇敬者、皇陵巡拝者には、天皇や皇室に対する尊崇の念をもって天皇陵を聖域視する人々が少なくない。 こうした人々の中には、天皇陵古墳をもっぱら文化財とみなす歴史学界や、世界遺産登録を推進する行政、観光資源としての利用を図る業者を非難する人もいる。ただし、現代の皇陵巡拝者は必ずしも皇室崇敬者に限らない。彼らは「陵印」収集など多様な動機をもって巡拝している。
著者
山口 幸男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.5, 2007 (Released:2007-04-29)

「自然と人間との関係」というテーマは、地理教育・地理学習の最も重要な目標であり内容の1つである。戦前には環境決定論(自然決定論)的な考え方がみられたが、戦後においては環境決定論の非科学性が批判されるとともに、環境可能論(可能論)が中心的・主流的な考え方となった。環境決定論を代表する地理学者はラッツェルであり、環境可能論を代表するのがブラーシュといわれている。そのため、「環境決定論=ラッツェル=悪」、「環境可能論=ブラーシュ=善」という図式が地理教育界において強く浸透した。環境決定論批判、ラッツェル批判を一貫して主張したのは飯塚浩二で、飯塚の著作を通じて環境決定論批判、ラッツェル批判が地理学・地理教育界に広まっていった。したがって、多くの地理教師のラッツェル理解は飯塚の論じたラッツェルの理解であって、ラッツェル自身の著作に基づくものではない。そのような中、最近、由比濱(2006)によって、ラッツェルの主著『人類地理学』(第一巻1882、第二巻1891、古今書院)の訳書が刊行され、ラッツェル地理学の正確な姿を論じる基盤が整った。一方、ブラーシュの『人文地理学原理』(1922)は既に飯塚によって翻訳されている(1940,岩波文庫)。こうして、ラッツェルとブラーシュという近代地理学史上の2巨人の主著の訳書が出揃い、地理教師各自が自らの眼で両著を考察することができるようになった。
著者
工藤 邦史 杉村 政徳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.70, 2009 (Released:2009-06-22)

島畑は一筆の水田の内部に島状に畑地としている様から、そう呼ばれる農業景観である。「刎畑」(はねばた)の別名や、「掘下田」あるいは「半田」とも呼ばれる。いずれにしても、水田と畑地の並存景観という点が特筆される。従来の、柳田国男の稲作指向や、対する坪井洋文の畑作指向の議論では説明することの出来ない形態である。島畑の最も古い成立時期の可能性として、金田(1974)では鎌倉期に遡ることを指摘している。また、江戸期の様々な絵図に描かれ、当時の人々に広く認知されるものとして存在していたことが示されている。かつて竹内(1967)によって、島畑の全国各地の分布が考察された。ところが以降長年にわたり、島畑の現状を捉えた研究はない。また、島畑そのものへのアプローチも、成立経緯の研究事例がわずかにあるだけである。さらに、「景観」に対する観光や文化、歴史的価値を強調するような流れとは無縁であり、同じ農業景観でありながら研究の盛んな、棚田とは状況を異にする。しかし前述のように、島畑の景観および歴史的価値は非常に高く、現状について調査・検討する必要がある。そこで現代においてなお、島畑景観を残す愛知県一宮市三ツ井での調査結果を報告する。島畑は、かつては対象地域のみならず、広く尾張平野に分布していたことが溝口(2002)によって指摘されている。広範に存在していた島畑が消滅していった原因として、第一に灌漑・圃場整備がある。元来島畑の形成は、水利不利条件の克服ためであり、灌漑・圃場整備が進むにつれ島畑は必要がなくなったのである。次の原因として、農耕の機械化がある。農耕を機械化する際、島畑のように水田と畑地が複雑に入り組んだ耕作地形状より、水田・畑地がそれぞれまとまった面積をもつほうが生産効率的に有利である。一方、対象地域に島畑が残っているのは、市街化調整区域に属し、圃場整備や宅地化から免れたこと、また土地所有が小口であり、農地以外への転用の意思決定の足並みが揃わないことに原因がある。現地の聞き取りから、多くの農家が自給目的で多品種少量生産を行なっていることが明らかになった。このような生産形態から、作物には農薬をほとんど使用していない。これは食の安全性の観点のみならず、生態系保全の場としても、島畑の重要性は極めて高い。加えて名古屋という大消費地に近接している点においても、歴史的な農業景観の側面のみに留まらず、農産物供給の場としての価値が潜在的にある。しかし米や一部の野菜は出荷している事例がある一方、現状では既に放棄されて荒地化した島畑も存在する。耕作者の減少や、対象地域では道路整備の予定もあり、島畑の存続は危うい状況に置かれている。島畑は、近年の棚田オーナー制度やアグリツーリズムのような動きとは無縁の状況下で、その形態を長年に亘って継承してきた稀有な農業景観である。しかしながら、とりまく状況は安泰とは程遠く、今後いつ消滅してもおかしくはない。島畑の現況をきちんと把握し、記録に残すことも、農業史・農業景観の観点から極めて重要である。
著者
陳 效娥
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>1.はじめに</p><p> 大阪の玄関口であるJR大阪駅と地下鉄、私鉄の各梅田駅の周辺には商業施設や業務施設などが密集している。そのため日中は通勤・通学客や買い物客で賑わい、夜はJR大阪駅の東側にある阪急東通り商店街の飲食店を利用する客で活況を呈している。大阪を代表する盛り場の一つである阪急東通り商店街では深夜遅くまで営業する店が多く、若年層を取り込んだ、まさに多様な人々が混じり合う場となっている。その中でも、阪急東通り商店街の「パークアベニュー堂山」界隈には、特殊で多様な性的指向/嗜好、ジェンダー・アイデンティティを持つ人々向けの店が立ち並んでいる。</p><p></p><p>2.研究の目的</p><p> 「パークアベニュー堂山」界隈に立地しているセクシュアル・マイノリティ関連の店の大半は、ゲイ・バーである。その数は160軒を超える。しかし、ゲイ男性向け以外にもレズビアン、トランスジェンダー、異性装者向けの店が混在しており、多様性が受け入れられている場であるといえる。そもそもなぜ、この地域に異性愛規範から「逸脱している」とされる人々が受け入れられたのか。</p><p> 本発表では、「パークアベニュー堂山」が位置している大阪市堂山町に焦点をあて、この地域がどのような歴史的過程を経て異性愛規範から「逸脱している」人々を受容する場となったのか、地理的文脈から解明することを目的とする。</p><p> 研究の対象時期は、堂山町にとって大きな転換期の一つであった戦後に着目し、現在に至るまでとする。地域の変遷をみるため、住宅地図や行政の資料を用いて土地利用、主要業態の変化を追跡する。終戦直後から1950年代までは資料が少ないため、商業雑誌などを含む多様な文献を検討する。</p><p></p><p>3.小括</p><p> 堂山町に位置する東通り商店街界隈の大部分は戦前まで太融寺の寺域で、そこは住宅地に利用されていたが、戦争中の空襲で大半が焼失された。終戦直後、ここは住宅地から商店街へと次第に変わっていった(サントリー不易流行研究所1999)。『北区誌』(1955)によれば、1950年代後半になると、太融寺界隈には連れ込み旅館、ラブホテル、性風俗関連の店が増加し、堂山町界隈は盛り場として賑わうようになった。1960年代〜1970年代には、高級料亭やジャズハウスなども開業し、多様な文化が流れ込んできた(サントリー不易流行研究所1999)。しかし経済成長期の終焉とともに、比較的安価なバー、スナックなどに入れ替えが生じた。戦後の堂山町は、多様な文化が混じり合う場であった。このような背景が今日セクシュアル・マイノリティ向けの店舗立地の誘因に関係しているのではないか。現在阪急東通り商店街は異性愛者向けの店と多様な性的指向/嗜好、ジェンダー・アイデンティティを持つ人々向けの店が共存する遊興空間となっている。</p><p></p><p>参考文献</p><p>サントリー不易流行研究所1999.『変わる盛り場—「私」がつくり遊ぶ街』30-35.学芸出版社</p><p>大阪市北区役所1955.『北区誌』381-384.</p>