著者
酒川 茂
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.83-99, 2001-02-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
35
被引用文献数
2

横浜市のコミュニティハウスは,公立小中学校の余裕教室を活用して設置された小規模生涯学習施設である.本稿の目的は,学校との複合施設でいかに生涯学習が展開されてきたのかを,利用者の構成,施設の選択理由および評価についての調査を通して明らかにすることである.利用者の主体は中学校区内に居住する成人女性や高齢者で,施設を選択した最大の理由は自宅に近いことであった.各館ではさまざまな自主事業が実施され,事業への参加を契機にサークル活動を始めた者も多く,職員による支援事業が生涯学習活動の展開に大きな力を果たしてきた.これらの活動には学校設備も積極的に利用されている.学校側がコミュニティハウスの設備や機能を利用する事例は乏しいが,利用者と児童生徒・教員の間に連携も芽生えっっある.複合施設の利点を活かすためには,支援事業をさらに充実させ,学校との連携を進める必要があろう.
著者
佐藤 ゆきの
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.63-82, 2001-02-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
32
被引用文献数
5

阿蘇北麓の小国町では,第二次世界大戦後かっての共有牧:野にスギ植林が積極的に行われた.それにより,多くの農家が戦前までは社会的地位の象徴であったスギを所有するようになり,「スギの町」との住民の認識が強められた.その一方で, 1960年代以降共有牧野の一部にクヌギ植林が展開されていく.クヌギが植林された背景には,まずシイタケ栽培のほだ木としての経済的価値の高まりがあった. 1960年代半ば,放置された牧野ではすでにクヌギの二次林化が進行していた.住民は,クヌギの経済的価値の高まりによって,その植林を主体的に選択したと認識している.しかしそこには,伝統的な生業の慣行と知識によって形成された広葉樹への意識や評価も大きく作用していることがうかがえる.こうした小国町の住民の生業活動選択の背景を分析するにあたっては,自然・政治・経済・社会的条件と住民の環境観との相互作用の考察が不可欠である.このよう一な小国町の住民の環境観は,近年の木材価格の下落や地域共同体の縮小などの中で,短期的な採算にとらわれずスギ・クヌギ林の維持・管理を続けさせる背景ともなっている.
著者
滕 艶
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.158-176, 2001-03-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
85
被引用文献数
1

本稿の目的は,中国農村地域の小城鎮を対象とした研究に関するこれまでの成果を中国の国内研究を中心に整理し,本課題に関する研究の特色と動向を明らかにすることである.方法としては, 1980年代初頭から現在までの小城鎮に関する研究文献に,小城鎮開発をめぐる動向を加味し,中国の国内研究を中心に,時期別に整理する.そして,研究の内容と特色を考察し,小城鎮研究の問題点と今後の地理学的課題を提示する. 考察の結果,小城鎮研究について時期区分をすることができた.また,小城鎮に関する概念の多様性,農村の都市化の役割,開発要因,町づくり研究ならびに政府各部門の共同研究,モデル鎮実験の研究などの動向と内容を明らかにした.今後の課題として,集落範囲と属性などに着目した小城鎮概念の整理,小城鎮における労働力資質とその教育の改善に関する研究ならびに中国全地域を対象とする小城鎮研究とその定量分析などの必要性を指摘した.
著者
平野 淳平
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

本発表では、歴史時代(1870年代以前)に日本に上陸した台風の経路を客観的に復元・分類する方法について報告する。関東以西の地域に経緯度2°×2°間隔のメッシュを設定し、台風が上陸したメッシュをもとに、台風経路を分類する方法を考案した。この方法を気象庁による台風経路データが得られる1951年以降に適用した結果、台風上陸数の変化傾向にみられる地域性を把握できることが明らかになった。この方法を歴史時代に適用するためには、関東以西の太平洋沿岸地域を対象として風向や天候の変化を詳細に記した古日記天候記録の収集を進める必要がある。
著者
久保田 尚之 松本 淳 三上 岳彦 財城 真寿美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>1.はじめに</b><br>台風の長期変動を明らかにするには、台風経路や強度に関するデータが欠かせない。西部北太平洋地域では現在、気象庁、アメリカ海軍統合センター(JTWC)、香港気象局、上海台風研究所が台風の位置や強度に関する情報を1945年以降提供している。<br><br>過去の気象データを復元する「データレスキュー」の取り組みで、それぞれの気象局が1945年以前についても台風の位置や被害に関する記録を残していた(Kubota 2012)。過去の台風に関する情報を復元することで、100年スケールの台風の長期変動の解明に向けた研究を報告する。<br><br><b>2. 台風経路データの整備</b><br><br>現在台風は最大風速から定義されている。台風の正確な位置や強度を特定するには、航空機の直接観測や気象衛星からの推定が必要である。このため現在と同精度で利用可能な台風データは1945年以降に限られている。一方でデータレスキューにより、各気象局から台風情報を入手し、これまで台風の位置情報をデジタル化してきた(Kubota 2012)。香港気象局と徐家匯(上海)気象局の資料は1884年まで遡ることができる(Gao and Zeng 1957, Chin 1958)。ただし、当時は台風の定義がなく、船舶や地上の気象台のデータから台風の位置を推定しており、精度の面で現在の台風データと同等に扱うのが難しいという点があった。<br> 台風の最大風速と中心気圧には関係がある(Atkinson and Holiday 1977)ことを用いて、台風の中心気圧を用いて台風を再定義する品質検証を行った(Kubota and Chan 2009)。気圧データは陸上に観測点が多く入手が容易なため、日本に上陸した台風に着目し、解析を進めた。北海道、本州、四国、九州に上陸した台風を対象とする。現在の台風の定義である最大風速35ktは中心気圧1000hPaに対応しており、陸上で1000hPa以下を観測した場合を台風上陸と定義し、全期間統一した定義を適応して台風データを復元した(熊澤他 2016)。気圧値だけでなく、上陸時両側の観測点の風向変化が逆になる力学的特徴も考慮した。<br>日本の気象台は1872年に函館ではじまり、全国に展開し、1907年には100地点を超えた。ただ、19世紀は地点数が少なく、地域的な均質性に問題があった。一方で、日本には1869年以降灯台が建設され、気象観測も行われるようになった(財城他 2018)。1880年には全国で35か所の灯台で気象観測が行われ、1877-1886年の灯台の気象データが収集できており、台風データの復元に利用した。<br><br><b>3. 結果</b><br>図に日本に上陸した1881-2018年の年間台風数を示す。年間平均3個上陸し、1950年は10個、2004年は9個上陸した。1970年代から2000年代は上陸数が少なく、上陸数なしの年も見られた。それに対して、1880年代から1960年代は上陸数が多い傾向が見られ、19世紀においても毎年2個以上の台風が上陸した。19世紀の台風データの復元には1883年から気象庁の前身の天気図が、1884年から台風経路データが利用できたが、それ以前は利用できる気象資料が少ない。最近、江戸時代末期からの外国船が気象測器を搭載しながら日本近海を往来した資料が見つかっている。より長期の台風データの復元には、外国船の航海日誌に記録された気象データの活用が期待される。
著者
松本 健吾 加藤 内藏進 大谷 和男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

梅雨最盛期の東日本では,50 mm/日を超えるような「大雨日」の出現頻度は西日本ほど高くはないが,梅雨降水の将来予測などの際には,東日本のように大雨の少ない地域についても知見を整理する必要がある。また,長期間の「気候システムの平均像」としての「広いパラメータレンジでの種々の現象の振れ方」の把握の足がかりともなると考え,40年間の梅雨最盛期と盛夏期の東京を例とする東日本の大雨日について,解析を行ってきた。本講演では,降水特性や大気場について,降水域の南北の広がりも参照しながら吟味した。<br> ミニチュア版天気図が手元にある1971 ~2010年の6月16日~7月15日(梅雨最盛期)の東京での「大雨日」の日数は計31回であった(長崎よりかなり少ない)。これらの各事例における気圧配置の違いをパターン毎に分類した。 東日本では,梅雨最盛期の「大雨日」の約半分は台風が直接関連した事例(パターンA,B)であり,また,西日本の集中豪雨と違い,10 mm/h未満の「普通の雨」が持続することにより大雨日となる事例(パターンB,C)が少なくなかった。<br>&nbsp; パターンAでは,暖気移流の大きい領域が北海道東方までのびていたが,まとまった降水域はその南西方の暖気移流の小さい領域(宇都宮~八丈島,約380 km)だった。さらに,そこでの10 mm/h以上の強雨の寄与率は大きかった。パターンBでは大きい暖気移流域の中で多降水域は南北に広く分布していた(宇都宮~八丈島)。その南半分(館山以南)では10 mm/h以上の寄与率も大きかったが,北半分(横浜以北)では10 mm/h未満の「普通の雨」の寄与率が大きかった。<br> パターンA,Bの双方で高温多湿な空気が台風の東側の南風により北方へ侵入してくるが,下層を通過するパターンAに対し,梅雨前線の存在するパターンBでは関東付近で傾圧性が強い場に流入してくる。このような大気場の違いが降水特性の違いに影響しているのではないかと考える。<br> 盛夏期(8月1日~31日)でも東京について,同様に大雨日を抽出した結果,2/3以上が台風に関わる事例であった。梅雨最盛期の東京での大雨日のうち半数近くは,10 mm/h未満の「普通の雨」によるものだったが,盛夏期の東京の大雨日では全体的に,10 mm/h 以上の降水による寄与が非常に大きかった。この結果は,梅雨最盛期から盛夏期への季節経過の中,オホーツク海気団の張り出し方の変化に伴い,梅雨最盛期のパターンBのような状況の出現頻度が少なくなることを含めて影響していると考える。
著者
二村 太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.91, 2009

<b>I.はじめに</b><br> 戦後日本の地理学がアメリカ合衆国の地理学界(以下「アメリカ地理学」と略)の影響を受けて発展してきたことは論をまたない。第二次大戦後のアメリカ地理学がどのように発展したかについては、キーパーソンの活躍と関連させて検討した杉浦(2001)や、地域研究の視点からアメリカ地理学の変遷と将来の可能性を論じた矢ヶ崎(2000)などがある。一方で、近年のアメリカ地理学について全国組織や地域支部の変化から分析したものは少ない。<br> 発表者は2001年から合衆国の大学院地理学科に6年半留学し、文献知識では得られなかったアメリカ地理学の諸相について学ぶ機会を得た。本報告ではこれまでの知見をふまえ、近年のアメリカ地理学で見られる変化について報告する。中でもアメリカ地理学でもっとも重要な組織であるアメリカ地理学会(AAG)の役割に着目し、近年のAAGの活動や問題点とそれに対応する動向について言及する。<br><br><b>II.AAGの全国組織と地域支部</b><br> 1904年に設立されたAAGは2004年に創立100周年を迎え、近年その規模は拡大傾向にある。AAGは現在2つの学術雑誌(<i>Annals of the Association of American Geographers</i>と<i>Professional Geographer</i>)を年4回ずつ刊行しており、前者は英語圏地理学で最も評価の高い雑誌の一つである。また、全国規模のAAG年次大会(以下「AAG大会」と略)が毎年3月か4月に開催され、ここには毎年数千人の参加者が国内外から集まる。大会開催地は毎年全米各地の大都市で持ち回りとなっており、特別講演や委員会会合から一般発表やレセプションまで約5日間に渡る予定が組まれている。<br> また、全国組織であるAAGの下には現在9つの地域支部があり、毎年秋に各支部で各々の地域大会が行われている。地域大会の活況の度合いは地区によって差が大きい。活動が縮小傾向の地区が多い一方で、南東支部は支部大会を60年以上開催している歴史を持つ。後者においては、予算が少なく学部教育が中心である小規模大学の地理学教室の場合、AAG大会より支部大会を重視する傾向がある。<br><br><b>III.AAGの肥大化に対する批判と新たな動き</b><br> 急速なAAGの拡大には批判もあり、中でもAAG大会は肥大化に伴う弊害が指摘されている。大会は通常大都市中心部の大手ホテルで開催されるが、大会参加者の増加とともに口頭発表やパネルセッション数も増え、大会を通して研究発表が施設内に分散する部屋十数室で行われるようになった。そのため、現在の大会では次なる発表を聴講するためにセッションの途中で部屋を退出して別会場へ移動せざるを得ない状況が頻発することが問題視されている(Kurtz and de Leeuw 2008)。McCarthy (2008) はこの現状を鑑みて「もはやAAG大会は機能が収拾のつかない大会となっている」と断言し、出席者の過密なスケジュールを軽減するために、パネル討論・口頭発表・座長などに参加登録できる回数を一人当たり2セッションまで限定することを提案している。<br> 一方、AAG大会に対する不満や、隣接分野との交流の活発化などを背景に、AAGや地域支部とは異なる小規模な地理学研究集会の開催が増えている。この一例として、1994年にオハイオ州立大・シンシナティ大・ケンタッキー大の地理学者が集まって始め現在も続いている「批判地理学小集会」(The Mini-Conference on Critical Geography)が挙げられる(Dept. of Geography, Univ. of Kentucky 2007)。ここではAAG大会のような過密日程を避け、個々の発表に全員が参加し自由に議論することに重きをおいている。社会理論を援用した批判的人文地理学の研究が盛んになるにつれて、活発な議論や人的交流が期待できる同集会は地理学内外の大学院生や若手教官に注目されるようになり、次第に当該地域外からも参加者が集まるようになっている。<br><br><b>IV.おわりに</b><br> 学問の細分化と学際分野交流が進む昨今、AAG大会はアメリカ地理学の研究を先導する学術大会の限界を露呈しはじめている。一方、経済や学問のグローバル化が進む現在、会員数が増加してAAGが肥大化することは不可避な流れともいえる。このような文脈のもと、今後日本の地理学がどのようにアメリカ地理学と関わっていくか積極的に検討し、かつ交流していくことが求められる。<br><br>
著者
北村 修二 佐伯 祐二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.92, 2004

環境問題への取り組みは、近年企業や地方自治体にとってクリアしないと新たな地平が開けない一つのハードルになろうとしている。もはや従来の形での生産方式、採算やコスト方式、また経営での合理化等では充分対処し得ず、企業活動また行政に、さらに組織や個人そのものにも、その処分や対処方式に変革、つまり環境という視点や流れに見合った対応、環境の管理の実施、またそのための体系や組織付けを迫ろうとしている。そこでは、例えば環境マニフェストシステムの縛りがあり、管理票による産業廃棄物の物流管理には、文書作成等でも、手間や煩わしさが、また費用やコストもかかるが、その対処いかんによっては社会的責任さえ問われる。したがって、環境問題や環境ビジネス産業に関われる、また産廃問題や産業廃棄物処理税に対処できる企業、また部門や業種や地域と、それができない企業や部門や業種また地域とにふるい分けられようとしている。それは新たな要求であり、それへの対応の如何によっては一つのチャンスでもある。<br> 本研究では、岡山県下で展開されている企業や地方自治体の環境問題への取り組みと課題を、ISO14001への取り組みや産業廃棄物問題や産業廃棄物処理税への取り組みを中心に、規模や業種、本社・本店や支店・分工場、ISO14001の認証取得企業とそうでない企業等組織や団体の特性、また企業の特性、さらに地域的特性を意識しつつ、その展開のあり方とそこでの課題という形で検討する。<br> 実際岡山県下における環境問題への対処には、企業、例えば、優良な、また特に環境問題に対しては、それを企業戦略として積極的にとらえる、ISO14001認証取得企業と、多くの場合必ずしもそうでない企業、例えばISO14001を認証し得しない消極的・前向きでない、しかも零細経営をも含む産業廃棄物業者とでは、その取り組みや意向に大きな違いがみられる。もちろん行政の末端としての県下の市町村も、政治的には保守的な政治基盤からも、環境問題や環境政策への取り組みもあまり積極的でない等の対応を示し、産業廃棄物処理税や環境税についても前向きにとらえつつも、それは県税であるとの部外者として意識や姿勢もみられる。そこには、状況が状況であるだけにそれなりの対応をせざるを得ない状況にあるが、産廃処理税や環境税も開始されたばかりの状況で方向性も定かではなく評価できる状況にない、またその立場にない等の縄張り意識的なものをも感じさせるのである。<br> しかし、環境問題にどう対応しどのように適切に処理すべきかは、地域的・社会的、また国際的・地球的にも重要な課題であり、ここで検討するISO14001、また産業廃棄物処理税、さらには環境税への対応や取り組みは、企業や行政そのものの動向と評価に、さらには新たな時代や社会への評価や方向付けにもつながるものである。<br> 日本は今、組織や組織構成員自体が古い体質のなかで、改変よりは温存に明け暮れ、次の時代や社会への展開をなし得ず大きな課題を抱えるが、環境問題やそれへの取り組みは、個人、住民や市民、企業、行政を担当する市町村等の地方自治体や国、また地域にとって、さらに国際的また地球的にも、また学問的にも極めて重要な課題であり、時代的社会的状況を踏まえた、新たな段階の対応を求められている。それはまさに大きなチャンスでもある。環境問題の緩和・解消化への取り組みが一層深まることを期待して止まない。<br><br>参考文献<br>北村修二(1999):『開発か環境かー地域開発と環境題ー』大明堂、pp.1-192.<br>北村修二(2001):『破滅か再生かー環境と地域の再生問題ー』大明堂、pp.1-219.<br>北村修二(2003):『開発から環境そして再生へ』大明堂、pp.1-224.
著者
野間 晴雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<B>1.黒潮に向き合う紀州と房総</B><BR><br><br>&nbsp;&nbsp; 黒潮はフィリピン東部から台湾,トカラ海峡を横切り,南九州,四国,紀伊半島,東海地方から伊豆諸島,房総半島で東に転じる,深さ500m,幅50~100km、最大時速は7ノットの世界でも稀にみる激流である。三宅島と八丈島の間を流れる本流は黒瀬川と形容される。しかも揖斐・長良川から天竜川,大井川,伊豆の狩野川まで,山間から単調な海岸へ一気に流下するため,河口に良港が形成されない。紀州から江戸・房総へ向う船は,遠州灘を一気にこの黒潮の流れにのって航海せねばならなかった。<BR><br><br> 紀州(=紀伊半島)と房総(=房総半島)はこの黒潮が陸域に近接する2つの地域である。まとまった耕地のほとんどない紀伊半島外帯の沿岸域の集落は,後背地との結びつきが少なく,むしろ太平洋の外海へ繰り出していった。船の改良と巧みな操船術は,近世に生まれた武士の巨大都市江戸とその周辺市場に,紀州の物産・技術を移植した。東京湾のフロンティアであった房総半島の南端から内房地域,外房・九十九里・銚子方面には,一時的・季節的移住を経て恒久的移住によって,人と技術・文化が紀州から伝播する。全国の熊野神社1810社のうち,他県を圧倒して1位が千葉県の316社である(み熊野ネット)のもその証左である。<BR><br><br> 本発表は,近世から近代にかけて紀州と房総への地域間の交流,技術・文化の移植と変容を,①漁場開拓,②醸造業,③みかん,④杉林業と杉材移出の4点からの比較考察を目的とする。<BR><br><br><B>2.漁場開拓と醸造業</B><BR><br><br>&nbsp;&nbsp; 紀州漁民が五島・対馬方面や土佐に漁場開拓(捕鯨も含む)を行なったことはよく知られている。黒潮を利用して東へ向う例として,房総での有田郡広村・湯浅から銚子の外への移民と浦立がある。その北には下津,加太などの移住漁民送出地がひかえる。地引網,八手網などを駆使し大勢の曳き子を擁した鰯の集団漁業に特色がある。天然の良港をもたない九十九里の海岸平野や,人口希薄な外房の沿岸のフロンティアが主たる漁場となった。和泉の佐野・貝塚・嘉祥寺,岸和田,岡田など,より商業的な性格が強く釣漁や高度な漁業技術を備えた先進地域からの影響も見逃せない。回遊性の鰯の加工品の干鰯は,花崗岩風化による畿内の土壌に適合し,綿,菜種の新商品作物普及に貢献した。<BR><br><br>&nbsp;&nbsp; 広村は,もともとは漁村であるが,古い列村状のまちなみには商家的様相が混じる。後背地の林業での資本集積をもとに関東への進出を試みたのは,銚子のヤマサ醤油のルーツとなる広村の濱口家である。湯浅の醤油醸造業の集積も有田川流域にはないが,有田郡の肯綮にあたる湯浅・広村の場所性が影響する。<BR><br><br><B>3.みかんと杉</B><BR><br><br>&nbsp;&nbsp; 紀州のなかで,古いミカン産地であり最も早い時期に商品化したのは,有田川流域河谷の傾斜地である。その品種改良には池田細河の台木・接ぎ木技術が貢献している。みかんの積出港は湯浅(近世には河口の箕島には港はなかった)である。湯浅出身の紀伊國屋文左衛門の江戸でのみかん成功逸話は巷間に広く流布している。紀ノ川,有田川上流域は,わが国でも最も早くに杉の育成林業が発達した地域でもある。その用途は上方市場の醸造業の樽丸材であった。一方,紀州の田辺以南の東紀州では,熊野川下流の新宮や尾鷲などの後背地に杉林業が勃興する。黒潮を利用して船で江戸市場へ運び,建築用材として販売された。房総は紀州と異なり海抜500m以下の丘陵・台地が卓越し,杉林業の適地ではない。しかし,外房南部の安房丘陵の沿岸には杉が植林され,平地林の山武林業の成立にも,その技術には「木」を育て改良する紀州の先進性が影響している。海と山が主体である紀州の在来技術体系が房総に入るとき,農の技術を欠きながら,彼の地で変容を遂げたと総括できる。<BR>
著者
高阪 宏行
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.67, 2009

東京都の商店街と商店群を抽出するためには、NTT東日本、NTT西日本のタウンページ(職業別電話帳)に掲載される情報をテ゛ータヘ゛ース化したタウンページデータベース(TPDB)を利用した。商店街・商店群を把握する上で、TPDBの利点は、掲載情報(店舗)だけでなく、経緯度を付与し組み合わせて利用することができることである。経緯度を用いるならば、店舗間の距離を計測することができる。また、店舗に業種コードが付いているので、業種構成も明らかになる。ただし、タウンページに掲載しない場合や1店舗で複数掲載を行う場合もあるため、全店舗数と必ずしも一致しない点を考慮する必要がある。 商店街・商店群の抽出で取り上げた業種は、日常の消費生活で使われている、歓楽、飲食、食品、衣料品・装身具、家庭用品、文化・娯楽、金融・保険、教育、医療・美容、行政・サービス、車両の11業種である(表1:省略)。販売品目・サービス別店舗の種類数は168に及び、いずれも日常の消費生活で使われている。今回使用したTPDBでは、東京には168種類の店舗が約25万店ある。本研究では、TPDBのこの25万店の情報を使用して、GIS上で商店街・商店群を抽出することである。
著者
森川 真樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.183, 2004

1.発表の目的<br> パキスタンの開発計画では、国家単位の計画においてスラム問題が明確に組み込まれるようになったのは、最近のことである。本発表では、2001年以降に策定された国家開発計画におけるスラム開発の取り上げられ方を検討し、計画や実施に関する課題点を明らかにして、今後を展望したい。<br><br>2.従来の開発計画とスラム開発<br> パキスタンにおいて、国家レベルでの大規模な開発計画が立案されたのは、1955/56年度の第一次5ヵ年計画が最初である。スラムに関連する問題は、当初は都市貧困層の居住問題であり、第二次5カ年計画において、住宅供給の対象に低所得者層も含まれることが明記された。その後も低所得者層対象の住宅提供は、計画の上では取り上げられてきたが、実際に居住問題が解消されることはなく、住環境の悪いスラム地区が急速に拡大した。5ヵ年計画は第八次(1997/98年度終了)まで続いたが、同国の核実験実施やクーデターによる政権混乱等により、第九次計画は発表されなかった。<br>2001年になって政府は、10ヵ年長期開発計画(Ten Year Perspective Development Plan)を策定し、長期展望による開発を目指すと同時に、具体的な事業実施に重心をおいた3ヵ年開発プログラム(Three Year Development Programme)を作成した。そこでは、スラム開発に関する方策がはじめて示されている。これは、同じ2001年に、国内のスラム地区住環境改善に対し、政府からの公式ガイドラインが発表されたことにもよる。毎年の開発計画については、年次計画(Annual Plan)が策定されている。<br><br>3.各計画・プログラムにおけるスラム開発<br> 10ヵ年開発計画、3ヵ年開発プログラム、年次計画のそれぞれにおいて、スラム開発は「物的計画および住宅問題」の項でふれられている。簡単にまとめると、<br>(1)開発方法は住環境改善が中心。不法滞在者居住地では土地正規化を実施する。<br>(2)スラム住民の低所得性を考慮し、サイト&サービス方式によるスキームを策定・実施する。開発主体は県、自治体、住宅開発公社とする。モデルとして、ハイダラーバードで成果をあげた「フダー・キ・バスティ」スキームの手法を利用する。<br>(3)スキームはNGOや住民組織の支援を受け、ジェンダー配慮も含めてコミュニティ参加を重視する。<br>(4)低所得者が住宅建築に係る融資を受けられる制度を提供する。住宅融資機関は貯金スキームを開発する。<br>(5)政府ガイドラインを実行する為、州政府は国有地を民間開発業者に供与、低価格住宅供給を推進する包括案を作成する。<br><br>4.課題点<br> 都市人口の約1/3がスラムに居住すると考えられている事実から、スラム開発が国家レベルの開発計画で取り上げられた点は前進といえる。しかしながら、具体性の欠如および技術移転への無配慮と情報交換不足問題であるといえる。<br><br>5.おわりに<br> パキスタンのスラム開発において、NGOや住民組織による開発では成果が上がっている事例は少なくない。政策レベルでの全国的な支援体制が整いつつある現在、州・県政府や都市自治体の取り組みが今後の焦点になる。地方分権化の潮流ともあわせ、具体的なスラム開発プロジェクトの策定・実施・評価について、ステークホルダー間の協力体制構築、情報交換を中心にネットワークを強化しながら、キャパシティ・ビルディングを目指す必要がある。
著者
高橋 日出男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

はじめに<br>都市特有の環境に伴って現れる大気現象(都市気候)には様々な空間スケールがあり,これまで多様な分野において観測,解析,数値モデルに基づく数多の研究が行われてきた。東京は都区部の直径が約 30 km,都心3区だけでも直径 10 kmに近い大都市であり,都市化した領域は広域にわたる。付表は東京を想定し, 10n mごとの空間スケールで大まかに区分した温度環境を中心とする都市大気の現象例と,それを観測的に扱った研究の主な観測手法・資料の概要をまとめている。本報告では,付表中の①~④に位置付け可能と考えられる,東京およびその周辺を対象として実施,あるいは構想している主として観測的研究を紹介して話題提供とするとともにご意見ご批判を賜りたい。 <br><br>観測的研究<br>①生活空間の温度環境<br> 気象観測は,ある範囲の代表的な値を知るために,一般には観測露場のように整備され人間の立ち入らない環境で行われるが,熱中症対策などの応用面においては,実際の人間の生活空間や1日の行動によって経験する環境を詳細に捉える気象観測が必要であろう。通勤や買い物行動を模し,朝に大学を出発して南大沢駅から京王相模原線に乗車し,日中は新宿駅周辺で行動して,夕方に大学に戻るまでの気温やWBGT等の経過を夏季晴天の複数日について観測した。適切に環境の気温等が得られているかという懸念もあるが,街路上において気温は一般にAMeDASや常監局より高い値を示し,場所によっては5℃以上高く,WBGTも午前中から「危険」レベルを何度も超えていた。熱中症発生の危険性を判断するためにも,気温や相対湿度,放射を含めた都市内部における熱環境の不均一性(場所によるばらつき)の大きさを把握する必要があろう。<br>②~ 1 kmスケールの都市内部構造に起因する不均一性<br>都市表面の幾何学的特徴として,東京都都市計画局作成のGISデータ(平成8,9年)に基づいて 50 mメッシュ内の最大建築物階数を異なる空間スケールで平滑化した建築物階数分布を求めた。平滑化の空間スケールが500 m程度までは主要道路に沿って, 5 km以上では東京駅付近を中心とした同心円状に階数が大きい。一方で, 2 km程度では都心(霞が関・大手町),新宿,池袋などの局所的な階数の極大が明瞭となる。この空間スケールは,集中観測と広域観測(付表)の狭間にあたっており,観測的に気温分布や風系などに与える影響(都市気候への反映)の有無はよく捉えられていない。<br>③ 夜間の都区部気温分布と陸風吹走および都市境界層構造との関係<br>都心と都区部外側との気温差が大きい冬季の晴天弱風夜間には,都区部の西部や東部に明瞭な気温急変域が認められる。この時には夜間の陸風と考えられる内陸からの北西風が吹走するが,夜半前から早朝にかけて内陸側郊外では風速が次第に弱まる一方で,気温急変域の高温側(都心から沿岸部)では風速が維持・強化する傾向がある。こうした差異には,郊外と都心の接地層安定度との関係が示唆される。しかしながら,陸風の気温鉛直構造の変形プロセスや温度場との相互作用はよく分かっておらず,たとえば逆転層破壊と気温急変域との関係や,陸風侵入に伴う都心域の接地層の変化などを,冬季ならびに気温急変域が不明瞭な夏季について明確にする必要がある。<br>④ 日中海風吹走時における都心風下側の大気構造<br>東京都市域の影響によって海風循環が強化される一方で,海風前線の内陸側への進行は都心の風下側で停滞傾向を示すとされる。夏季日中においては,海風前線のやや内陸側に地上気温の極大域の存在が指摘される。また,戸田市荒川河川敷におけるドップラーソーダによる風速三次元成分の観測(高橋ほか 2011地理予)によれば,海風前線通過後においても数百m上空には0.5~1ms-1の上昇流が持続していた。海風前線構造を含む海風循環に与える都市の影響(都市に起因する循環との相互作用など)を明らかにするためにも,海風の都心風下側における境界層構造の観測による把握が必要と考えられる。<br><br>補足<br>Stewart and Oke(2012)は,urbanやruralといっても実際には多様性に富むことから,都市気候(特に気温分布)研究のframework(都市相互の比較を行うための地理的条件に関する「統一的物差し」)として,天空率や地表面粗度,構成物質の熱特性などを考慮した景観に基づくlocal climate zone(数百m~数kmの空間スケールでの地域分類)を提案している。都市気候の現れ方はその時々の気象条件にも大きく左右されることから,「晴天」や「弱風」などの基準についても,研究者間の統一があれば,観測成果や解析結果の相互比較が行いやすいのではないだろうか。
著者
関口 直人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<B>Ⅰ.はじめに</B> <BR>モータリゼーションの進展により,人々の移動手段は自家用車へと変化し,公共交通機関は衰退へ追い込まれた。特に地方の鉄道や路線バスは苦しい経営となり、代替バスへの転換や第三セクター化もみられるが、1999年の鉄道事業法の改正により鉄道事業に対する参入と退出の自由が認められ経営の苦しい第三セクター鉄道も廃止されるようになった。 <BR>経営が苦しい鉄道路線が多くなる中で,2011年3月11日に発生した東日本大震災はJR線,私鉄線に大きな被害を与えた.震災の被害から全線運休となったが,復旧を遂げた路線やBRT化を進める路線もあるが,鉄道を復旧させるためには費用面など様々な課題がある.被災した第三セクター鉄道には国からの補助により復旧費用は全額負担となったが,過疎化により,利用者が減少しているなど問題が山積みである. <BR>本研究では,東日本大震災で大きな被害を受け,全線運休から一部区間の運転を再開した岩手県三陸鉄道を事例とし,東日本大震災での被害状況と現在までの復旧状況を整理し,運休中の従前の利用者の移動方法,復旧後の利用状況、これまでの研究から三陸鉄道の主な利用者は高校生であることが明らかになっていることから,沿線高校生の震災前後での交通行動の変化を明らかにすることを目的とする. <BR>1年以上の鉄道運休は利用者にどのような影響を与えたのか,震災以前の利用者は回復しているのか,鉄道運休中にはどんな移動方法をとっていたのか把握することは三陸鉄道の震災の影響や,新たな施策の検討につながると考えられる.なお,本報告では,国、県、沿線自治体の補助により復旧計画として掲げた第一次復旧が完了したことから、2012年4月を「現在」と定義する。<BR><B>2.研究方法</B> <BR>三陸鉄道の現状を知るために,『鉄道統計年報』,『岩手県移動報告年報』によって年間乗降人員,沿線人口を整理し,三陸鉄道の震災後の利用状況について知るために三陸鉄道利用者へのアンケート調査,旅客流動調査,沿線高等学校3年生へのアンケート調査を行い,それぞれ分析を行った.<BR><B>3.研究結果</B> <BR>三陸鉄道利用者へのアンケート調査結果は,平日の利用者の中心は、沿線に居住し、日常的に通学目的で三陸鉄道北リアス線を利用する高校生であり、休日の利用者の中心は岩手県外に居住し、低頻度の旅行・観光目的で三陸鉄道北リアス線を利用する広い年齢層にわたる観光客であった。三陸鉄道不通時の移動手段として自動車による送迎、バスでの移動である。また,旅客流動調査からは朝,夕方は高校生の通学定期での乗車が多く,日中は団体割引乗車券で乗車の団体観光客,現金や普通乗車券で乗車の通院や買い物目的の利用が多い.輸送断面は始発駅と終着駅、学校が近隣に立地する駅で利用が多い. <BR>沿線高等学校に対するアンケート調査結果からは、通学や通学目的以外で三陸鉄道北リアス線を利用している生徒はごく一部である。三陸鉄道北リアス線を利用していない生徒の通学や移動手段は自動車による送迎や自転車が多く、居住地によって移動手段が変わる。震災以前から通学に三陸鉄道北リアス線を利用していない生徒が多い。 <BR>震災以前と震災後で三陸鉄道利用者の利用状況に大きな差はない。
著者
池田 真利子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

音楽と都市の関係性は,意外にも深い.音楽に関わらず,芸術・文化全般はヨーロッパ都市においてパトロンやブルジョアの庇護下で発展し,19世紀に市民階級により消費されるに至るまで,舞台の上で演じられるものであった.音楽は祭典では感動を演出する装置として機能し,戦争ではプロパガンダとして機能し得る側面をもつ(岡田 2010).他方で,現代音楽に目を向けると,一部の音楽は若者文化や抵抗文化,マイノリティ文化と密接結びつき,独自の発達を遂げてきた.その多くは,それらを生み出した社会集団的特性や音の性質・装置等の都合上においても,舞台や祭典ではなく,ストリートや工場,廃墟を嗜好する.ドイツは言わずと知れたクラシック大国であるが,同時にレイヴ文化やエレクトロ音楽でも知られる国である.その首都,ベルリンでは,1990年代にテクノ文化Technokulturが醸成された.この文化は,一部は占拠運動として育まれ,その舞台となった場所は工場や旧ユダヤ系資本百貨店地下金庫,あるいは賃貸住宅地内の地下倉庫等であった.この時期に設立されたテクノクラブは,テンポラリーユースとして合法化されたものもあれば,移転し,現在でも運営を継続するものもある(Ikeda 2018).こうした1990年代初頭に設立されたテクノクラブの多くは,ベルリンにおけるアンダーグランド文化の代名詞となり,エレクトロ音楽の生産の場(あるいは生産に近い場)として機能を維持してきた.ベルリンにはクラブが300件程あり,その多くはインナーシティに位置する.また,クラブ全体の67%がエレクトロ音楽を扱う空間である(現地調査に基づく).こうしたテクノクラブを例とするベルリンのアンダーグラウンド文化は,経済利潤を市へもたらすものと認識されて以降,重要な消費の場へと変化を遂げてきた.その1つ目の転換点となったのが,メディアシュプレー計画に代表される創造産業振興政策である.これは,河川沿いにメディア・音楽産業を誘致する大規模再開発であり,ユニバーサル等の大手音楽産業が集められた.同計画は結果的にテンポラリーユースにより存続を継続していたクラブシーンの一部を追い出すこととなった.しかし,その過程において,クラブの経営形態は多様化し,より高度に専門化(あるいは資本化)したクラブも出現した.第2の転換点が,市全体の観光産業部門の成長である.2011年以降,観光客数は右肩上がりの成長をみせ,観光産業が重要性を増すなか,市は国際的なビジット・ベルリンキャンペーンにおいて,クラブやエレクトロ音楽を,同市を代表する観光資源として積極的に紹介するようになった.すなわち,2010年代前半には消費の場としてのクラブの側面が,社会・学術的課題において重要性をもった.しかし,音楽共有プラットフォーム提供会社SoundCloud設立以降の音楽関連企業スタートアップブームの中,クラブは再度,音楽の生産の場としての役割を担いつつある.クラブのなかには,レコードレーベルをもつ事業体もあり,エレクトロ音楽に限らず,クラブは生産・消費双方の役割を担う場である.今後は音楽産業に占める生産の場としてのクラブの役割に関する一層の研究が求められよう.
著者
吉岡 亮太
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.209, 2010 (Released:2010-06-10)

1.はじめに 神社の全国的な分布を明らかにしようとする研究は、長い歴史を有するにもかかわらず、今も未解明な点を多く残している。特に、全国で12万社以上ともいわれる神社を、その系統別に整理し、その分布を複合的に検討し、分布の地域的特質とその要因を明らかにした研究はあまり見られない。本研究では、デジタルデータである「平成『祭』データ」の特性を生かして、このような課題を解明することを目的とする。 2.研究方法 「平成『祭』データ」は全国に鎮座する神社のうち約8万社についての基礎的な情報を掲載しており、全国的な検討をする際には極めて有用な資料である。このデータの文字検索機能を用いて分析し、神社をその名称によって系統的に整理し神社群を設定した。そのうち神社数が20社以上という基準を設定すると、197の神社群を抽出することができた。特に、突出して多いのが1位の「八幡宮」群であり、以下29位の「氷川神社」群までは急速に減少していき、それ以下は横ばい傾向を示す。そこで、29位までを主要神社群とみなすこととし、それらについて分布を検討した。 3.各神社群の分布による東西格差 総神社数の6割を占める主要神社群29社の分布は、「越前―美濃―尾張」ラインを境として大きく異なる。すなわち、それ以東においては全体として29社の占める比率が高く、それ以西では比率の高い地域が一部塊状にあらわれ、神社分布においても「東北日本」「西南日本」という地域差が認められる。 次に、主要神社群を構成する各神社群の分布の特質を地図化を通して明らかにした。その結果、神社群の中には全国的に鎮座が見られるものとそうでないものとに二分でき、主要な神社群は前者に属する。そこで前者の分布特質に対して5つの型が指摘できた。第一は、「八幡宮」群や「賀茂神社」群、「厳島神社」群がそれに該当するが、各国にほぼ一定数で鎮座が見られる型であり「分散型」と呼称できる。第二は、「白山神社」群や「諏訪神社」群、「鹿島神社」群が該当するが、本社を中心とする地域への集中が顕著であり圏構造が認められる「偏在型」である。第三は、「天満宮」群や「日吉神社」群などがそれに該当するが、本社をおく地域を中心にした圏構造は見られる一方で、それ以外の地域にも一定数の神社が存在する型であり、第一と第二の中間ということで「中間型」と呼称することができる。次に、第四は、「熊野神社」群や「稲荷神社」群、「愛宕神社」群が該当するが、本社の存在する地域から離れた遠隔地にむしろ神社が集中する「乖離型」である。最後に第五は、「神明宮」群がそれに該当するが、第三と第四の両面を併せ持つ型であり、仮に「特殊型」と称しておく。 このような各神社群の分布パターンと、本社の位置との関係を整理すると、「東北日本」に本社をおく神社全てと、「越前―美濃―尾張」ラインにごく近い伊勢に本社をおく神明宮は、共通して「偏在型」という特徴を有しており、「越前―美濃―尾張」ラインが分布上の境界となっている「西南日本」への鎮座が極めて少ない神社であった。一方で、「西南日本」に本社をおく神社は、「分散型」もしくは「中間型」を示し、「越前―美濃―尾張」ラインを越え「東北日本」へと等しく分布している傾向が見られる。また、「乖離形」を示した神社も「西南日本」に本社を持つ神社群であるが、4社中貴船神社群をのぞく稲荷神社群・熊野神社群・愛宕神社群の3社が「東北日本」内の「東国」への集中傾向を示しており、「東北日本」「西南日本」の境界がより東に傾いてあらわれていた。 このように、「東北日本」側の神社にとって「越前―美濃―尾張」ラインがその境界として機能していた一方で、「西南日本」側に本社を持つ神社には、「越前―美濃―尾張」ラインが境界として機能しておらず、一貫して「東北日本」への伝播・勧請の影響が強くあらわれていた。「東北日本」と「西南日本」にあらわれる地域差は、それぞれに本社をおくこうした神社分布パターンの差異によって形成されたと考えられる。 4.今後の課題 以上、神社の分布について全体の約6割を占める主要神社群の分布検討を通して分布上の特質を、全体のみならず主要神社群の類型化の結果を通して明らかにした。ただ、国を基域とした全国レベルの検討にとどまっており、また予想された以上に多い5つもの類型があらわれる結果となった。したがって、今後よりミクロな分析により、このような分布パターンが現出した要因についても明らかにできると考える。
著者
丸本 美紀 福岡 義隆
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

1.はじめに2011年の東北大震災以降、古地震や古津波による災害の復元が重要な課題とみなされている。しかし、日本は地震だけでなく大雨、洪水または干ばつなどの気候災害にもしばしば見舞われてきた。地震と同じように、多くの気候災害の記述が古文書等に残されている。さらに、昨今、地球温暖化による気候災害が深刻な問題となっている。過去においても、西暦800年から1200年にかけて「中世温暖化」または「Medieval Climate Anomaly (MCA)」と呼ばれる世界的に顕著な温暖化があったことが知られている。本研究では、このMCAを含む気候災害の特性を時空間変化の観点から明らかにすることを試みた。2.研究方法はじめに、気候災害の時間変化を明らかにするため、筆者らは日本気象史料、日本旱魃霖雨史料、日本の天災地変、奈良県気象災害史、京都気象災害史料の5つの史料から西暦601年~1200年の古気候災害のデータを収集し、データベースを作成した。このデータベースに基づいて、気象災害が種類に関して9つのグループ、すなわち深刻な被害となりうる暴風雨、洪水、霖雨、雷雨、旋風、干ばつ、雹、大雪、霜に分類した。地域に関しては、6つのグループ、すなわちこの時代に多くの記録が残っている奈良、京都、近畿地方、全国、その他、不明に分類した。最後にこれらの結果を時空間変化の観点から考察し、奈良と京都の比較を行った。3.研究結果図1は西暦601年~1200年の気候災害と北川による年輪から推定された気温偏差の10年ごとの経年変化を示したものである。気候災害の数は西暦860年以降急激に増加しており、推定気温も気候災害とほぼ平行して推移している。両者の相関係数は0.35であった。古記録から分析された気候災害の地域は800年ごろに変化し、一方、気候災害の種類は850年ごろに変化した。西暦601年から800年に気候災害が発生した割合は奈良が33.1%であったが、西暦801年から1200年では京都の割合が57.9%を占めた。干ばつは西暦800年までに最も多かった気候災害であるが、しかし800年以降だんだんと減少している。その代わりに、暴風雨と雷雨が800年以降増加している。奈良の気候災害の種類は発生頻度が多い順に、雷雨(24.8%)、干ばつ(23.8%)、暴風雨(20.8%)であったのに対し、京都で発生した気候災害の種類は多い順に、暴風雨(27.0%)、雷雨(22.8%)、洪水(18.1%)であった。参考文献Maejima Ikuo and Tagami Yoshio (1986): Climatic change&nbsp; duaring historical times in Japan &ndash;reconstruction &nbsp;from climatic hazard records. Geographical reports of Tokyo Metropolitan University, 21,157-171<b>.</b>
著者
山口 哲由
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

ラダーク管区は,インドの北西部のジャンムー・カシミール州に属する。集中豪雨被害は2010年の8月にラダーク管区の中心地であるレー県で発生した。政府発表では死者265人,うち132人が現地住人であったとされる。最も大きな被害を受けたのが県中心部に近いチョクラムサル新興区であり,43人の死者数を数えた。チョクラムサル新興区は,ラダック中心部を流れるインダス川に注ぐサブー川の扇状地に位置しており,上流には伝統的な村落であるサブー村,インダス川との合流点付近にはチョクラムサル村が位置している。 集中豪雨が発生した8月5日,チョクラムサル新興区では,午後7時過ぎから小雨と雷が続き,11時過ぎから突如として猛烈な豪雨となり,15分ほどで土石流がチョクラムサル新興区を襲った。扇状地より上流に位置するサブー村でも河川沿いの家屋などが崩壊し,7人の死者があった。土石流はチョクラムサル新興区を直撃し,サブー川両側に密集していた家屋が押し流された。土石流の岩石は扇状地中心部に堆積したため,扇端部に位置するチョクラムサル村まで到達したのは砂礫や小石のみであり,人命や家屋への被害は比較的少なかった。 ラダーク管区は極度の乾燥地であり,それ故に伝統的な村落は扇状地より上部に位置して支流からの灌漑をおこなうか,あるいは扇状地の末端に位置してインダス川の水を利用して灌漑農業を実践してきた。扇状地中心部は灌漑用水が得られないためほとんど利用されない空白地であった。一般的に扇状地は浸食による土砂が堆積する地形であり,土石流発生時の危険性はこれまでも指摘されてきた。サブー村やチョクラムサル村の立地は,災害対策としても合理的であったといえる。 しかしながら1950年代以降は,地域の中心部に近いサブー川扇状地は便利で平坦な空白地として,カシミール紛争に伴う国境軍の駐屯地や,チベット動乱で流入した難民キャンプなどの大型施設がされた。また,都市化の進展に伴って学校や公共施設,これらの施設関係者の住居が建設されることで,サブー川扇状地は発展してきたのである。このように地域の環境と切り離され,近年のラダック地域の社会状況の変化とともに開発されてきた扇状地で暮らす人びとが大きな被害を受けたのが今回の集中豪雨であり,山地社会における社会変化と密接に関わっていた災害であったと考えられる。
著者
藤本 潔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.110, 2009

<B>はじめに</B> 海水準変動は海岸地域の地形形成や環境変化に多大な影響を及ぼす重要な因子のひとつである.1970年代以降、テクトニックには安定地域と考えられる地域間での最高海水準の時期や高度の相違は,アイソスタシー理論である程度説明できることが明らかになる。しかし,微変動に関しては,アイソスタシーによる沈降域では顕著な現象として見出されていないことから,未だに統一された見解が得られていないのが現状である.本発表では,氷河性アイソスタシーの影響で沈降傾向にあり,現在を最高海水準とする平滑曲線が描かれてきた典型地域のひとつとして知られる北海南部大陸沿岸域において, <SUP>14</SUP>C年代測定法導入以降の完新世海水準変動研究史,および海面変化に関わる沿岸低地の地形地質を紹介すると共に,それらデータの信頼性を評価することで,特に完新世中期以降の海水準微変動について考察することを目的とする.<BR><B>微変動の可能性</B> 本地域で海水準微変動の検出を目的とした研究は,オランダ西部のVan de Plassche(1982),北西ドイツのBehre(2003)のみである.Van de Plassche(1982)は,基底泥炭基部から得られたデータから7000~2800 cal BPの間に数回の地下水位上昇速度の変化を見出し,海水準変動との関係について考察した.Behre(2003)は数回の海面低下を伴う9700 cal BP以降の海水準変動曲線を描いた.しかし,使用されたデータには圧密の影響を伴うもの、泥炭層や文化層形成期から間接的に推定されたものを含むため,変動のタイミングは議論し得るものの,振幅や高度の信頼性は必ずしも高くない.両者を比較すると,5200~4500 cal BPに海面上昇の停滞もしくは海面低下が起こった可能性が高い.4500~4100 cal BPの上昇速度の加速にも同時性が認められる.3900~3400 cal BPの間には北西ドイツでややタイミングが遅れるものの,両地域で上昇速度の加速が見られる.一方、3300~2900 cal BPの間に北西ドイツでは急激な海面低下が推定されているのに対し,オランダ西部ではほぼ停滞している.この間オランダでは塩性湿地の淡水化や泥炭地の海側への拡大は見られないことから,急激な海面低下は圧密に伴う見かけの現象である可能性が高い.2350~1900 cal BPの間にはオランダ全域の塩生湿地で一時的な離水現象が起こったことから,この間の海面低下とその後の再上昇の可能性が指摘される.これらの変動傾向は,5200 cal BPの上昇速度の減速に先立つ相対的な急上昇を除き,アジア・太平洋地域の変動とタイミングがほぼ一致する.<BR><B>手法的問題と今後の課題</B> オランダで復元された海水準変動曲線のほとんどは,泥炭層や粘土層の圧密沈下の影響を排除するため更新世堆積物や砂丘堆積物を覆う基底泥炭基部から得られた<SUP>14</SUP>C年代値に基づく地下水位変動曲線から間接的に推定されたものである.この手法で海水準微変動を検出するためには,河川勾配効果,氾濫原効果,海岸砂丘による開閉の影響,基盤斜面の微地形の影響を考慮しつつ,地下水位との関係が明確な泥炭試料を一連の斜面上から高密度に採取することが求められる.しかし,たとえこれらの条件が克服できたとしても,一時的な海面低下の証拠を見出すことは難しい.なぜなら,海面低下は表層泥炭の分解を引き起こし,その後の海面上昇に伴いその上に新たな泥炭層が重なって形成される.その結果,見かけ上,海面上昇速度の低下もしくは停滞現象として見出される. オランダではこれまで一方的な海面上昇を示す平滑曲線が受け入れられてきた.その主要な根拠は"カレー・ダンケルク堆積物"と呼ばれてきた海進堆積物には広域的同時性が認められないという認識にある.しかし,オランダ西部と北部ではかなりの部分で同時性が認められる上,北西ドイツにおける海面変化傾向はオランダ北部の海進海退時期とタイミングがよく一致する.これまで一般に受け入れられてきた平滑曲線は,上記の手法的問題を含む概略的な傾向曲線に過ぎない.今後は海岸砂丘による開閉の影響を受けていないオランダ北部地域で,圧密沈下の影響を評価した上で,海進海退堆積物の形成時期と高度を示すより精度の高いデータの蓄積が求められる.
著者
赤坂 郁美 財城 真寿美 久保田 尚之 松本 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>1. </b><b>はじめに</b><br> <br>マニラでは、1865年からスペインのイエズス会士により気象観測が開始され(Udias, 2003)、戦時中を除き現在まで150年近くの気象観測データを得ることができる。20世紀前半以前の気象観測データを時間的・空間的に充分に得ることができない西部北太平洋モンスーン地域において、降水量とモンスーンの関係とその長期変化を明らかにする上で、貴重な観測データであるといえる。そのため、著者らはこれまで19世紀後半~20世紀前半の気象観測資料を収集し、データレスキューを進めてきた(赤坂,2014)。また、データの品質チェックも兼ねて、19世紀後半~20世紀前半の降水量の季節進行とその年々変動に関する解析を行っている(赤坂ほか,2017など)。そこで、本調査では風向の季節変化に関する調査を追加し、マニラにおける19世紀後半の降水量と風向の季節変化及びそれらの年々変動を明らかにすることを目的とした。<br><br> <br><br><b>2. </b><b>使用データ及び解析方法</b><br><br> 19世紀後半のマニラ観測所では、多くの気象要素の観測を時間単位で行っていた。そのため、降水量は日単位であるものの、風向・風速や気圧に関しては時間単位のデータを得ることが出来る。本調査では、日本の気象庁図書室やイギリス気象庁等で収集した気象観測資料(Observatorio Meteorologico de Manila)から、1890年1月~1900年12月の日降水量と風向・風速の1時間値を電子化して使用した。1870年代のデータも入手済みであるが、1870年代は風向・風速が3時間値のため、本稿では風の1時間値が得られる1890年代を対象とした。欠損期間は1891年10月、1893年6月である。<br><br> まず、降水と風向の季節変化を示すために、風向の半旬最多風向、半旬降水量を算出した。また、赤坂ほか(2017)と同様に雨季入りと雨季明けを定義し、半旬最多風向の季節変化との関係を考察した。<br><br> <br><br><b>3. </b><b>結果と考察</b><br><br> 1890~1900年の平均半旬降水量と半旬最多風向を図1に示す。大まかにみると、乾季における最多風向は北よりもしくは東よりの風で、雨季には南西風が持続している。乾季である1~4月(1~23半旬頃)の最多風向をみると、1月は北風であるが、2~4月には貿易風に対応する東~南東の風がみられる。この時期の降水量は特に少ない。5月中旬頃(27半旬)になると、降水量が年平均半旬降水量を超え、雨季に入る。最多風向は5月初旬(26半旬)に南西に変わり、5月下旬(29半旬頃)以降、南西風が持続するようになる。これは南西モンスーンの発達に対応すると考えられる。降水量は、6月中旬(34半旬)に一気に増加し、9月中旬(53半旬)にかけて最も多くなる。この期間の最多風向は南西のままほぼ変化しない。降水量は9月下旬(54半旬)に急激に減少し、その後、変動しながら年末にかけて徐々に減少していく。最多風向は9月下旬にはまだ南西であるが、10月初旬(56半旬)になると急激に北よりに変化し、1月まで北よりの風が持続する。この時期が北東モンスーン期に対応すると考えられる。<br><br> 最多風向の季節変化はかなり明瞭であるが、雨季と乾季の交替時期との間には2~3半旬の遅れがみられる。この時期に関しては最多風向だけでなく、風向の日変化も含めてどのように風向が変化していくのかを把握する必要がある。<br><br> 本稿では1890年代の半旬最多風向と降水量の季節変化について気候学的特徴のみを示したが、発表では19世紀後半の風向と降水量の季節変化における年々変動についても議論する。
著者
高木 恵
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.203, 2010

<B>I.はじめに</B><BR> 我が国では律令期 ,奈良の朝廷を中心とする中央政府は,地方支配のためにその拠点となるべく様々な官衙を設置した.中央政府は,全国を行政単位としての「国」に分け,その下に郡,里を置く「国郡里制」を採用した.その結果,奈良時代末の国数は68に及び,各国には中央政府の出先機関である国府 が設置された.その後,聖武天皇の「国分寺建立の詔」により国府と同数の国分寺が各国に設置されることとなった.<BR><BR><B>II.従来の研究と研究目的</B><BR> 国府,国分寺は比較的早い時期から考古学・宗教学をはじめ,各分野に於いて盛んに研究されてきたテーマの1つである.国府研究の大半が文献資料,遺物および伝来の地名などを検証したものであったが明治時代以降からは本格的な発掘調査を伴う研究へと発展した.<BR> しかし,先行研究では当時の国内の状況を知るためには材料不足ではないかと判断し,GISソフトを使用し,視覚的に検証できる可視領域を抽出することにより当時の国府・国分寺間の関係や,国内における権力の空間認識を再考察できるのではないかと考え,国分寺の塔を中心とした可視領域を抽出することにした.本発表では大宰府が直轄した西海道内の5ヶ国を取り上げ,国分寺塔からの国内可視領域に属する施設を地図上に示すことにより,統治者層の方位・距離認識を考察する糸口を探ることを目的とする.<BR><BR><B>III.国分寺塔の可視領域抽出方法</B><BR> 本発表ではGISソフトとして杉本智彦『山と風景を楽しむ地図ナビゲータ カシミール3D』を使用した.<BR> 「計算中心点」は律令期の各国内主要地域における最大高の人工建造物=国分寺塔,「中心点の標高(高度)」は石田(1962) 岩井(1982)角田(1987)等の研究を元に算出した国分寺塔第4層の高さ,「計算範囲」を国分寺塔を中心に直径15kmとした.さらに1/25,000地形図上に算出された可視領域,各地の発掘調査報告書を用い対象施設(国府・国府関連官衙・国分寺・寺社・道路・郡衙・集落)を重ねあわせた.<BR><BR><B>IV.5ヶ国の国分寺塔可視領域と対象施設分布図比較</B><BR> 従来言われていた通りに国分寺の立地場所に関しては主要道路に近接し,平野部以外では比較的高台にあり,その可視領域もある程度確保されていた.また,周囲に全く集落が存在しない場所に立地してもいなかった.しかし,各国の国分寺塔の可視領域と周辺の施設との関係では各国に違いが出た.<BR><BR><B>V.結論</B><BR> 5ヶ国の国分寺塔の可視領域とその周辺施設の分布を比較した結果,共通点と相違点が見出す事ができた.それらが西海道独自のものであるのか,単に今回の5ヶ国だけがそうであったのかを判断するためにも更に多くの国を調査する必要がある.