著者
三上 岳彦 長谷川 直子 平野 淳平 Batten Bruce
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>弘前藩御国日記には、江戸時代の弘前における毎日の天候が記載されている。そこで、11月〜4月の冬春季における降水日数と降雪日数から、毎年の降雪率(降雪日数/降水日数)を求めて、1705年〜1860年の長期変動を明らかにした。同じく、弘前藩日記に記載された十三湖の結氷日と解氷日から結氷期間(日数)を求めて、その長期変動特性を明らかにした。次に、冬春季における弘前の降雪率と平均気温との関係を考察するために、観測データ(AMeDAS弘前)の得られる最近数十年間について、毎年の降雪率と冬春季の平均気温との関係を分析した。</p><p>1705年〜1860年の156年間における十三湖の結氷期間と弘前の降雪率の変動傾向は、年々変動、長期傾向(11年移動平均)ともに類似している。すなわち、十三湖の結氷期間が長い年や年代は寒冷で、降雪率が高く、結氷期間が短い年や年代は温暖で、降雪率が低い。長期トレンドで見ると、十三湖の結氷期間は100日間前後で一方向の変化は見られないが、弘前の降雪率は18世紀前半から19世紀前半にかけてやや減少傾向にある。1740年代と1820年代に、結氷期間と降雪率がともに低下した時期があり、一時的な温暖期と考えられる。とくに、1810年代から1820年代にかけての降雪率の顕著な低下については、従来の研究では指摘されたことがないので、さらに分析を進めたい。</p><p>観測データ(AMeDAS弘前)の得られる1983年〜2020年の38年間について、毎年の降雪率(11月〜4月)と平均気温(12月〜3月)の関係から、両者の間に負の有意な相関があることがわかった。これにより、十三湖の結氷期間や降雪率から、弘前の冬春季の平均気温変動を復元することが可能となろう。</p>
著者
松村 嘉久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.72, 2008

<BR>1.はじめに<BR> 寧夏回族自治区の区都・銀川市で比較優位性の高い観光資源は,西夏王陵と中国映画の代表作『紅高粱』のロケ地となった寧夏鎮北堡西部影視城くらいしかなく,国際観光客は極めて少なく国内観光客も多くない。清真寺(モスク)が点在する銀川市旧市街地の空間も,イスラムの文法よりもむしろ漢族の文法で編成されていて,ウルムチやラサと比較するとエスニックな魅力は乏しい。回族文化を展示する中華回族文化園(2006年10月開業)といった新たな観光空間も創造されているが,イスラム教やイスラム文化を可視化しスペクタクル化するのは難しく,民族問題に発展しかねない危険性もはらんでいる。<BR> このような観光事情のもと,銀川市への来訪者は観光という文脈よりも,ビジネス・コンベンション・求職目的など,区都としての機能に由来する区内や近隣地域からのものが多数を占める。そのため,観光業の盛んな地方の中心都市と比較するならば,宿泊施設の規模や機能も多様である。本発表では,銀川市の旧市街地で実施した270軒余りの宿泊施設の現地調査の結果を踏まえ,都市計画や都市構造などとの関連にも言及しつつ,宿泊施設の類型・機能・分布特性などを考察したい。<BR><BR>2.銀川市旧市街地における宿泊施設の類型について<BR> 中国における宿泊施設の呼称は,賓館・飯店・旅館・旅店・旅社・招待所・客桟・度假村など多彩であり,施設の名称と内実は必ずしも一致しない。日本には「旅館業法」を基本法として,高級ホテルから簡易宿所まで,宿泊施設の構造設備を細かく定める法体系が存在するが,中国ではまだ整備されていない。<BR> 中国の場合は80年代から国際観光振興と連動して,「旅游(観光)旅館」と「渉外(国際観光客用)飯店」に限定して,規模・設備・サービス内容から等級付けが進む。その一方で,国内客向けの旅社・招待所の類を規制する法律は見当たらない。90年代半ば以降の国内旅行需要の急増と不動産開発バブルのもと,銀川市旧市街地でも高級ホテルから劣悪なものまで,様々なタイプの宿泊施設が急増していく。<BR> 本発表では銀川市旧市街地に立地する宿泊施設を,規模・等級・標準客室宿泊料金・経営主体・開業年次・外観などの基準から,いくつかの類型に分けることを試み,その類型に対応して機能や分布特性を分析している。<BR><BR>3.銀川市旧市街地における宿泊施設の機能と分布特性<BR> 銀川市旧市街地の宿泊施設の機能と分布特性は,おおよそ以下のようにまとめられる。<BR> 1)旧市街地北側の広幅員の都市計画道路(北京路・上海路)沿いに立地する大規模な高級ホテルは,1996年の都市計画と関連して,企業・投資集団が経営主体となって90年代半ば以降に建設されたものが多い。主な顧客層は国際観光客と国内富裕層の観光・ビジネス客である。<BR> 2)旧市街地の繁華街や交差点角に立地する二星・三星クラスの中規模ホテルは,80年代半ばから90年代半ばにかけて建設され,一部では老朽化が進む。地方政府や政府系部門が経営するところも少なくない。主な顧客層は国内の観光・ビジネス客で,コンベンションもよく開催される。<BR> 3)小規模な旅社や招待所の類は,都市域と農村域がせめぎあう市街地周辺部や市街地内のインナーシティに立地し,ほとんどが個人経営である。部屋を時間貸しするところ,売買春の温床となっているところも散見される。利用客は国内の観光・ビジネス客,乗り換え・求職などで一時的に滞在する者が主流である。立地条件や機能などから,バス停近接型・城中村型・寄せ場型・インナーシティ型などに分けられる。<BR><BR>4.おわりに<BR> 結節性の高い宿泊施設の機能と分布特性の考察が,都市の構造やダイナミズムを解明するうえで重要であることは言うまでもない。本発表では観光客向けの宿泊施設のみならず,一時滞在者を主な顧客とする小規模なものまで分析対象に含めた。そのなかで,例えば,地方の中心都市で,寄せ場と宿泊施設がセットで形成されているという知見が得られたことなどは貴重であろう。<BR> 中国でも近年,「宿泊」という概念では捉えきれない夜を過ごす様々な都市空間が急速に増殖しつつある。今後はこれらも視野に入れて分析することが課題となろう。<BR>
著者
小田 匡保
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.63, 2005

_I_.はじめに 発表者の所属する駒澤大学文学部地理学科では、2004年度に学科創立75周年を迎え、2005年2月に記念式典や記念誌の発行を行なった。本発表は、この経験をもとに、地理学科の歴史を記念することについて若干の考察を試みるものである。 「記念」や「記憶」については、近年、地理学でも議論が行なわれている。その場合、記念物や特定の場所など具体的な景観が議論の対象とされることが多いが、本発表はそれらとは文脈を異にする(実際のところ、記念の施設を作ってはいない)。 日本の地理学界では、学会組織の創立何周年、あるいは教員の退職に際して記念事業がしばしば見られるが、これらと並んで地理学教室の創立何周年というタイプがある。このような記念行事も、地理学界の出来事である以上、地理学の研究対象となしえよう。本発表では、地理学科創立記念事業を、地理学科の結束を固めるのに貢献したとか、記念誌の発行によって「歴史」を作ったというような結論には持っていかず、記念事業遂行の実際的な面から考察してみたい。_II_.駒澤大学地理学科の歴史 駒澤大学地理学科の淵源は、1929年(昭和4)、駒澤大学専門部に歴史地理科が設置されたことにさかのぼる。1949年には、新制駒澤大学文学部に地理歴史学科地理学専攻・歴史学専攻が設置され、1967年、地理歴史学科は地理学科と歴史学科に分離した。2001年には、地理学科に地域文化研究専攻と地域環境研究専攻を設けている。なお、1966年には、大学院地理学専攻(修士課程・博士課程)も設置されている。_III_.創立75周年記念事業の内容と経緯 地理学科創立75周年記念事業の内容は、記念誌の発行と、記念式典・記念講演会、祝賀懇親会である。記念誌は、「地理学科75年の歩み」、「地理学科の記録」、「地理学科に関する資料」、「思い出の記」の4章から成り、付録として写真集や卒論題目などを収めたCD-ROMを付けている。 2002年に地理学科75周年記念事業委員会を設置し、まず、記念誌に掲載する「思い出の記」の原稿を2003年12月締切で募集した。2004年5月には記念事業の大要を公表し、記念式典・懇親会参加、記念誌購入の受付を開始した(7月締切)。記念式典は2005年2月19日駒澤大学で行なわれ、それに引き続いて中村和郎教授の記念講演会、また同日夕方に渋谷のホテルで祝賀懇親会を行なった。記念誌は、これに間に合うように刊行された。_IV_.若干の考察 資金面から考察すると、収入の約半分が参加費であり、残りの約半分が大学からの補助金である。一方、支出においては、半分近くが祝賀懇親会費で、次に多いのが記念誌発行費である。懇親会参加費・記念誌購入費だけでは不十分であり、大学からの補助金を得られたことが、この記念事業の遂行にとって大きな手助けとなっている。 次に、75周年記念事業に関わる人について考察すると、活動の中心となったのは地理学科専任教員(特に駒澤大学出身者)であり、一方、卒業生は記念式典・懇親会への参加、記念誌の購入、記念誌の原稿執筆という形で関与した。卒業生の参加者数を年代別に見ると、卒業者数の少ない1960年代卒業の参加者数が最も多い。時間的余裕の問題もあろうが、地理学科卒業後、教職など地理学に関わる職業に就いていることが、地理学科の記念事業への参加を促す一因となっているとも考えられる。
著者
佐竹 泰和
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.背景と目的</b><br>スマートフォンなどのモバイル通信機器が急速に普及するにつれて,公衆無線LANに注目が集まっている.公衆無線LANの特徴のひとつは,これまでインターネットを利用できなかった場所にも接続環境を整備できることである.ADSLや4Gなどのインターネット接続方法は,利用対象者をその契約者とするのが普通であるが,公衆無線LANの場合は,不特定多数の人に利用環境を提供できる.近年では,観光客の利便性向上や災害発生時の情報収集手段など,観光や防災の観点からさまざまな自治体で整備されている.その一方で,訪日外国人観光客の増加や2020年に控えた東京オリンピックを踏まえ,日本政府が訪日外国人観光客を成長戦略の一部としてとらえ,彼らに対する公衆無線LANの整備を進めようとする動きもみられる.<br>しかしながら,公衆無線LANを整備するか否かはその場所のオーナーの裁量に委ねられるため,必ずしも目的に沿って整備が進むとは限らない.そこで本研究では,公衆無線LANの整備地域の空間特性を明らかにする.<br><br><b>2.研究事例地域と研究方法</b><br> 本研究では,山梨県の事業である「やまなしFree Wi-Fi Project」をとりあげる.事業の背景には,2013年の富士山のUNESCO世界文化遺産に登録などによる訪日外国人客の増加がある.こうした状況を踏まえて,山梨県は訪日外国人向けにインターネット接続環境を提供することを目的とした全県規模の公衆無線LANの整備事業を進めた.2012年から進められたこの事業により,公衆無線LANの整備数は事業発足当初の230箇所から2015年8月には1,843箇所にまで増加した.<br> 公衆無線LANの分布を明らかにするために,山梨県およびNTT東日本が公表している公衆無線LANの設置場所をジオコーディングにより地図化した.また,訪日外国人観光客の需要動向を把握するために,山梨県へのヒアリングを行った.<br><br><b>3.結果および考察</b><br> 公衆無線LANの整備状況をみると,山梨県内でも比較的訪日外国人観光客の多い地域に集中しているが,利用場所はその中でも局所的である.山梨県の事業により整備された公衆無線LANを利用するにはIDとパスワードが必要であり,それらを印字したカードを県内11箇所(2014年7月時点)で配布している.2012年7月以降の2年間におけるカードの配布数のうち,最も配布数が多かったのは富士ビジターセンターで総配布数の80.9%を占める.次に配布数の多い施設は富士河口湖観光総合案内所であり,12.4%を占め,富士ビジターセンターと合わせると,公衆無線LANの利用者の9割が富士山麓周辺地域で公衆無線LANを利用していると予想できる.<br> 一方,県北部の八ヶ岳高原周辺地域では国内観光客を意識した公衆無線LAN整備を進めている.また,時系列的に公衆無線LANの設置場所をみると,訪日外国人観光客の大小にかかわらず,もともと公衆無線LANの設置が少なかった地域においても設置数の増加しており,面的な広がりが認められる.<br> このように,「やまなしFree Wi-Fiプロジェクト」は訪日外国人観光客を対象として進められた事業であったものの,訪日外国人観光客による需要は富士山麓周辺地域に限られた需要であり,その他の地域に整備された公衆無線LANは,訪日外国人客ではなく,国内客向けのサービスとなりつつある.<br> 公衆無線LANの利用において訪日外国人観光客と国内観光客が決定的に異なるのは,その他の手段でインターネットに容易にアクセスできるか否かである.その機会に乏しい前者においては,公衆無線LANを通じた情報発信など観光振興の面で効果があると予想できるが,後者においては必ずしも公衆無線LANが必要であるとはいえない.面的に広がった公衆無線LANを活用するためには,訪日外国人観光客だけでなく,国内観光客や地域住民の需要を想定した仕組みづくりが求められる.
著者
岩間 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.はじめに</b> <br>発表者は、日本における産業地域社会の形成と内部構造をまとめ、2009年に公刊した。企業城下町に特色を持つといわれる日本において明らかとなったことは、世界の一般性に通じるのであろうか。この解明には、最小限、世界の産業革命発祥地で近代工業の原点である、イギリスのマンチェスターとの比較研究が重要となる。マンチェスターの事例研究については、2016年日本地理学会春季学術大会(早稲田大学)において発表した。<u>本研究の目的は、マンチェスターと、同じ綿工業からスタートした尼崎、ならびに日本の主要な産業地域社会との比較研究より、工業の発展に伴う産業地域社会の形成と内部構造、内的要因、</u>内部構造の発達モデルと発達メカニズム<u>を明らかにする。</u> 1極型とは事業所の事務所を中心に生産、商業・サ-ビス、居住の3機能が1事業所1工場で構成されるものをさす。1核心型とは、日本においては1事業所当たり従業員が1900年代は2000名以上、1920年代からは4000名以上とした。マンチェスターは1760年代からと日本より120年早いため、一応、1000名以上とする。<br><b>2.産業地域社会の形成と内部構造</b> <br>マンチェスターと尼崎の工業地域の発達段階は、両地域とも、近代工業創設期から形成期、確立期、成熟期、後退期、再生・変革期の過程を歩んだ。工業地域社会の内部構造は、一極型から多極型の単一工業地域、一核心・多極型から二核心・多極型の複合工業地域、多核心・多極型の総合工業地域の発達段階を経た(表1)。これらは、日本で捉えた場合も同じ展開である(表2)。 産業地域社会の形成は、3段階を経る。第1に、産業革命時の未熟な段階にあっては、商業・金融資本などの支援を必要とするため、工業地域社会は既存産業地域社会に付随して成長した。工業地域社会は、各企業の1極型が単位となって事務所を中心に工場の生産機能、商業・サービス機能は金融・商業のある市街地に依存し、居住機能は旧市街地・工場周辺・郊外に展開した。日本の事例では、既存集落からでは岡谷、相生など、都市部では芝浦、尼崎、宇部、四日市、浜松などがこれに該当する 第2に、産業資本が確立すると、マンチェスターのトラフォード地区の工業団地に象徴されるように、新開地に独自の工業地域社会を形成した。そこには、一極型を基本とする単一、複合、総合工業地域を形成し、事務所を中心とする工場(群)の生産地域、その周辺に商業地域、外方に住宅地域からなる、同心円状の工業地域社会を展開した。この独自に工業地域社会が展開した形態は、日本では企業城下町、臨海コンビナートにおいて典型的である。即ち、新開地に工業が立地した八幡、室蘭、日立、豊田などの企業城下町、川崎、水島、君津などの臨海コンビナートが該当する。 第3に、工業地域社会の発展に伴って、商業・サービス機能地域に行政、商店街、関連産業などの関連地域社会が付帯し、工業を中心とした産業地域社会、工業都市の性格を強めた。 以上のように、発展した時代と3機能の混在状況は異なるが、マンチェスター、尼崎・日本の工業は、基本的に、同様な産業地域社会の形成メカニズムとその内部構造を展開して共通し、世界の一般性を有する。日本において企業城下町として特異に映ったのは、日本が導入した1880年代当時、マンチェスターは成熟期の段階に達していた。この120年のギャップに追い着くため、日本は官営、財閥、大企業の形態を優先させ、軽・重化学工業、3機能からなる工業地域社会の形態、工業地帯の造成にいたるまで精選して一気に導入を図ったことに起因する。これは、後発型の工業国に共通する傾向といえる。 &nbsp; <b><br>3.工業地域社会形成の内的要因</b> <br>工業地域社会形成の内的要因は経営者および管理・技術集団である。特に、工業においては機械を発明し、機械化を成功させ、管理・技術面を推進させた管理・技術集団の存在と役割が重要である。 以下、後発型で短期間に工業国となったが故に解明が容易であった日本の分析をもって、工業地域社会の発達モデル、発達メカニズムを示す。 <b>&nbsp;</b> <br><b>4.工業地域社会の内部構造発達モデル <br></b> 工業地域社会の中心に位置したのが事業所の事務所であった(図1)。表2に基づいて、日本における工業地域社会形成の内部構造発達モデルを作製した(図2)。 &nbsp; <br> <b>5.工業地域社会における内部構造の発達メカニズム<br> </b> 工業地域社会における内部構造の発達メカニズム(工業都市化)は、企業の生産機能拡大に伴う3機能の作用によって生じる「重層・分化のメカニズム」である。その結果、企業の事務所を中心に生産地域、商業地域、住宅地域の圏構造に分化した。 <b>&nbsp;</b> <br><br>参考文献 岩間英夫2009.『日本の産業地域社会形成』古今書院.&nbsp;
著者
水野 一晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><b>1</b><b>.京都大学自然地理研究会の発足とその目的</b></p><p></p><p> 京都大学に自然地理研究会が発足したのは2001年4月である。演者が1997年より京都大学の全学共通科目(一般教養)にて自然地理学の授業を担当すると、次第に、自然地理学を京大で学べる場を作って欲しいという要望を受けるようになってきた。当時、文学部と総合人間学部に地理学教室があったものの、教員がすべて人文地理学の教員であったため、とくに学部生が自然地理学を学べる場が一般教養以外になかった。その当時、演者は大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の教員であった。自然地理学はとくにフィールドワークを重要視しているため、野外実習を行う場を設けるために、自然地理研究会を発足させることにした。会員制ではなく、登録をすると毎回案内が送られ、参加したいときだけ参加するという緩い組織である。参加資格に制限はなく、他大学や一般社会人の参加もある。計画は7〜8人からなる世話人を中心として、すべて学生が行い、演者は相談にのったり、参加するだけである。</p><p></p><p><b>2. 自然地理研究会の活動</b></p><p></p><p>自然地理研究会は、毎年春から夏まではほぼ毎月、秋〜冬は数ヶ月に1回程度、野外実習を実施してきた。2001年4月から始めたので、今年で20年目になる。当初は自然地理学に関する実習を中心に行っていたが、しだいに、実習の場所が決まると、そこでの自然地理学と人文地理学の両面から実習を行うことが多くなってきた。</p><p></p><p>コロナ汚染の影響でしばらく活動を自粛していたが、2020年7月に、第144回 自然地理研究会「琵琶湖疎水の歴史と周辺の地形」の実習を行った。琵琶湖疎水取水口と三井寺にて、疎水の成り立ちや琵琶湖周辺の地形について、インクラインと南禅寺にて、京都市の近代化について、琵琶湖疎水記念館にて、疎水の歴史を、主に世話人からなる数人の案内者の解説とともに現場で観察しながら学んだ。</p><p></p><p><b>3. </b><b>自然地理研究会の活動例(2016〜2019年度)</b></p><p></p><p><b>2019</b><b>年度</b>:「愛宕山の歴史と自然」「下鴨・上賀茂神社の社叢林:植生観察と都市緑地としての役割」「賤ヶ岳・余呉湖周辺の自然と歴史」「京大周辺の自然観察:大文字山と東山連峰」</p><p></p><p><b>2018</b><b>年度</b>:「京都御苑での冬の野鳥観察」「中池見湿地に生育・生息する動植物」「保津峡の入口と出口における歴史的・地質的観点からの考察」「京大周辺の自然観察:比叡山の地形・植生」</p><p></p><p><b>2017</b><b>年度</b>:「晩冬の京都で観られる季節の野鳥と植物の観察:方法と実践」「奈良盆地の形成と里山の棚田景観-古代の都・明日香村探訪-」「桂川の地形の観察と巨椋池の歴史」「京都で観られる季節の野鳥と植物の観察:方法と実践」「京大周辺の自然観察:大文字山と東山連峰」</p><p></p><p><b>2016</b><b>年度</b>:「自然地理研究会第100回記念〜白浜巡検〜」「海にせりでた伊根の舟屋集落とその成立要因」「都市大阪・凸凹地形散歩」「西の湖一周でわかる内湖とヨシ原の環境」「京大周辺の自然観察:比叡山の地形・植生」「京都:身近な京都の自然・文化・歴史をみる、きく、あるく」</p><p></p><p>写真:第144回 自然地理研究会「琵琶湖疎水の歴史と周辺の地形」(2020年7月撮影)</p><p></p><p>研究会のURL: http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/cgi-bin/spg/wiki.cgi</p>
著者
矢ケ崎 典隆 深瀬 浩三
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.55, 2009 (Released:2009-12-11)

ロサンゼルス大都市圏はアメリカ合衆国において最も急速に都市化が進んだ地域の一つである。ロサンゼルス市とその周辺部では20世紀に入って都市化が加速し、人口が急増した。ロサンゼルス市中心部と多数の郊外都市を結びつける電車網が発達するとともに、モータリゼーションも進行し、都市域が空間的に拡大した。増加する人口に食料を供給するために農業が発達し、第二次世界大戦直前まで日系人は農産物の生産と流通において重要な役割を演じた。しかし、戦後、都市化の更なる進行に伴って農地の蚕食が進み、農業景観は大きく改変されるとともに、日系人の経済活動も変化した。本論文では、ロサンゼルス市中心部の南方に位置するガーデナ市およびトーランス市を研究対象地域として、都市化に伴う農業的土地利用の変化について検討した。この地域では、ロサンゼルス大都市圏において農業が最近まで存続するとともに、第二次世界大戦前から日系社会が存在し、日系農業が盛んに行われた。 ガーデナ・トーランス地域では、20世紀に入ると、日系人の流入とともにイチゴ栽培が盛んになった。イチゴ栽培には大きな資本は不要であったし、借地することにより、家族労働力に基づいた小規模な農場経営が可能であった。日系人の増加に伴って日本街が形成された。また、日系農業協同組合や日本人会が組織され、それらは日系社会において経済的にも社会的にも重要な役割を演じた。時間の経過とともに日系人の居住地は拡大し、多様な野菜類の栽培に従事するようになった。 第二次世界大戦中の強制収用に伴い、日系農業は中断を余儀なくされたが、戦後、日系人の帰還に伴って日系社会が再建された。しかし、都市化の進行によって、また、一世の高齢化に伴って、野菜栽培を中心とした日系農業は衰退した。戦後の日系経済の中心となったのは植木業と庭園業であった。日系植木生産者の多くは、ウエストロサンゼルスからの移転者であった。庭園業は戦前においても一世にとっての主要な業種であったが、戦後の日系人にとっても容易に就業できる業種であった。こうして、植木業と庭園業は戦後の日系社会の重要な産業となった。都心部からの日系人の流入に伴って、ガーデナ・トーランス地域の日系人口は増加した。 都市化の進行に伴ってガーデナ・トーランス地域の農業的土地利用は縮小を余儀なくされ、1980年代までには農地はほとんど消失していた。住宅地化、工業化が顕著であり、特にトーランス市にはトヨタ自動車をはじめとする日系企業の進出が著しい。最後まで存続したのが植木園(鉢植えの花壇苗、グリーンプランツ、鉢植えの花卉)の経営である。しかし、近年、日系の植木業はさらに衰退の危機に瀕している。日系4世の高学歴化が進み、後継者不足は深刻である。外的要因としては、都市化の圧力に加えて、経済の停滞、技術革新(例えば、プラグ方式の普及)、ラティーノ生産者の増加と競合、大型量販店の進出と低価格競争などの影響も深刻である。 2007年8月に行った現地調査により、限定された農業的土地利用の存続が明らかになった。それは、植木業の残存が認められたことである。小規模な植木園が依然として経営を続けており、特に、高圧送電線下の細長い土地を電力会社から借地することにより、鉢物類が栽培されている。また、特殊な残存形態として、日系農民がトーランス飛行場内に借地をして、トマト、イチゴ、とうもろこしを栽培する事例が確認された。農産物は道路に面した販売所で直売され、新鮮な商品を楽しむ常連に支えられて経営が維持されていた。 ロサンゼルス大都市圏は、経済活動、人種民族、文化景観において多様でダイナミックな地域である。今回の調査によって明らかとなったガーデナ・トーランス地域における土地利用の変化と日系農業の変化は、ロサンゼルス大都市圏のひとつの面を示している。こうした事例研究を蓄積することが重要である。
著者
フンク カロリン
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

観光者が様々な観光形態を求めることになり、「新しい観光」と言われる現象を生み出している。その中でアート・ツーリズムが今後の経済活動に重要な役割を果たすとされている創造的階層の旅行形態として(竹田・陳2012:78)、または地域住民の積極的な関わりを可能とする地域活性化手段として(Klien 2010: 519)期待されている。 現在日本で最もアート・ツーリズムの取り組みとして注目を浴びているのは香川県直島町とその周辺で開かれる瀬戸内国際芸術祭である。そこで本研究は直島におけるアート・ツーリズムに注目し、観光者と観光産業関係者の特徴と彼らが抱く直島に対する考えを調べる。また、訪れている観光者は、普段どの程度アートに関心を持っているのか、一般観光者層と異なるのか、アート・ツーリズムは観光産業にどのような効果をもたらしたのか明らかにする。 &nbsp; 2.研究対象と方法 直島町は1917年に三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)の精錬所を誘致し、鉱業の島として繁栄してきたが、銅市場の変化も影響し、精錬場の労働者数とともに直島の人口も1970年代から減少しはじめた。1970年から教育文化施設を島の中心部に集め、「文化ゾーン」を作り出した。1985年、当時の町長と当時の福武書店(現在ベネッセ・コーポレーション)社長の合意に基づいて、島の南部エリアを中心に総合的な観光開発が始まった。直島国際キャンプ場、ホテルと美術館を合体したベネッセハウス、本村地区で展開された家プロジェクト、地中美術館、犬島アートプロジェクトなど、アートを用いて25年をかけた文化・リゾートエリアが直島に誕生し、プロジェクトはその周辺の島にも広がった。その結果、島は現在、北部の産業エリア、中心部の生活・教育エリア、南部の文化・リゾートエリアに別れている。 現地調査は2012年11月24-25日に観光者、観光産業施設、住民という3つのグループを対象にアンケートを実施した。回答者数は観光者255人、観光産業施設40ヶ所、住民34人であったが、この報告では観光者と観光産業のみ取り上げる。 &nbsp; 3.調査結果 アンケート調査で把握した限り、直島を訪れる観光者は旅行全体や普段の生活でもアートに強い関心を持つ人、アートとともに自然を楽しむ人、訪れた相手とゆっくり島を歩き回りたい人など様々であり、性別や年齢層による差もみられる。したがって他の観光地とは全く異なる客層を引きつけているというよりは、客層が拡大し、多様化しているといえよう。 観光産業については地中美術館の開館とそれに伴う観光者数の増加が影響し、2004年以降に島外からの若い人々が移住し、観光産業、特に宿泊施設に取り組む傾向が強まった。しかし、観光者向けのサービス、特に外国人旅行者に対する情報提供などはまだ限られている。外国人の増加に対してもそれほど積極的ではない観光産業従事者が多く、国際観光地としての成長はこれからの課題である。施設管理、サービス、値段がともに高水準であるベネッセの施設に比べると、その他の観光産業は小規模で、個人的で、施設の水準があまり高くなく、そのギャップは大きい。また、彼等はアートに強い関心を持つ、または積極的にアートプロジェクトに関わるようなことがあまりなく、「アート」に対する思いよりも、「島」へのこだわりや、自立して事業を行いたい志向が強いようにみえる。観光産業の成長はアート・ツーリズムの魅力の効果というよりも、アート・ツーリズムを通じて観光地として成功した効果によるところが強いといえる。 Klien, S. (2010): Contemporary art and regional revitalisation: selected artworks in the Echigo-Tsumari Art Triennial 2000&ndash;6. Japan Forum 22/3-4, 513&ndash;543 竹田茂生,陳那森 (2012) :観光アートの現状と展望. 関西国際大学紀要, 13, 77-90
著者
宮内 久光
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>本研究では,座間味島を対象地域として,観光事業所,特にマリンレジャー事業所の経営形態や事業状況を調査し,それらの結果を1997年調査以降の島を取り巻く環境の変化や経営者の現状評価や経営方針などと関連付けながら検討することを目的とする。2015年9月現在,座間味村公式HPには,座間味島にあるマリンレジャー事業者として39店が掲載されていた。このうち,調査時に営業をしていた34店の事業者に対して,アンケート調査を実施した(2015年9月〜10月)。回収したアンケート調査票は32店(有効回答率94.1%)であった。アンケート調査は全体集計とその考察のほかに,事業所設立年代別や,提供するマリンレジャーの種類別に集計を行い,グループ間の比較を行った。</p><p> 1997年調査時に座間味島には21店のダイビングサービスが立地していた。2015年調査ではそのうち19店が存続しており,事業の持続性は高い。また、1997年調査では,全事業所がスキューバダイビングのガイドサービスをしていたが,その後に開設された事業所の中には,ダイビングのガイドサービスをしない店が5店ある。2000年代以降,座間味島のマリンレジャー産業は,それまでのダイビングガイドサービス一辺倒から,SUPやカヤックなど新しいマリンレジャーを取り込んで,提供サービスの多様化が進んできている,といえる。 </p><p> 2010年代は島の観光を取り巻く社会的条件に恵まれて観光客は増加している。しかし,マリンレジャー事業者の中には,スキューバダイビング以外のマリンレジャーを楽しむ層が増えただけ,と認識している人もいる。また,一般旅行客が増えたために,船舶や宿泊施設の予約が取りにくくなり,ダイビングのリピーター客の中には,行きたい時に中々チケットがとれない座間味島を敬遠する動きが出ている,と経営者たちはみている。</p><p> マリンレジャー経営者は日本人の若年層の個人客を顧客のターゲットとして捉えており,外国人や団体客を重視していない傾向がみられた。</p>
著者
荒木 一視
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.6, pp.325-348, 2001-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
32
被引用文献数
2

近年の急速な経済開発下におけるインドの2農村を事例に,耐久消費財の普及という新たな経済的変動がそれまでの伝統的な村落社会の階層構造にどのよラな影響をもたらしたのかを論じた.具体的には,耐久消費財所有に基づく経済的階層と農地所有やカーストに基づく階層の比較を行った.その際,とくに各階層の上位と下位の動向に着目し,結果として,カースト制度に基づく社会の階層構造が崩壊したとはいえないものの,個々の世帯単位では両村ともにまとまった変化の傾向が認められた.これに関わっては,一部の上層農塞を除き,農外就業の多寡が新たな経済階層上の地位に大きく影響した.わけても高い学歴を経て得られる局収入で安定した農外就業の果たす役割が大きい.
著者
今井 理雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.239, 2005

1.はじめに 交通網とそれを取り巻く諸環境の整備は,社会経済の円滑な遂行において必要不可欠である.近代交通機関が発達し,高度経済成長以降のモータリゼーションによって,自家用車の保有が一般化したが,一方,近年では公共交通機関の必要性も再認識されている. 公共交通の必要性が再認識されるなかで,とくに欧州の先進的システムが研究,紹介されているが,我が国の公共交通システムとは本質的な相違も指摘される.また政策的,制度的な背景もさることながら,交通事業者がもたらす営業施策の姿勢も根本的に異なる.我が国における公共交通システムが衰退した要因として,事業者個々のハード整備には積極的であった反面,相互の連携や,ソフト面の整備が重視されてこなかったことが大きいと思われる. とくに複数の交通モードが錯綜し,ネットワークが複雑に入り組む都市部においては,適切な交通システムの構築が重要である.複数の異種公共交通機関の連携は,広範な都市内を有機的に結びつける重要な方策であるが,我が国の大部分の都市では,このようなシステムの構築に視線が向けられることはほとんどなかった.そのなかで北海道札幌市では,戦後日本の都市が試みてこなかった公共交通の連携システムが模索された. 本研究では,我が国の都市公共交通システムにおいて,先進的な役割を果たしたと考えられる札幌市での公共交通ネットワーク形成の過程を対象とし,とくに地下鉄とバスとの連携について,定性的な分析を試みる.2.札幌市における公共交通の整備 北海道札幌市は,人口187万人を有する地方中枢都市のひとつである. 現在に続く公共交通は,1880年に開業した手宮・札幌間の鉄道が嚆矢である.もっとも,札幌市における都市公共交通の機能を拡大させてきたのは,札幌市交通局と民営バス事業者であった.とくに戦前から現在にかけて,市電,市営バス,地下鉄を一体的に運営してきた交通局の位置付けは大きい. 札幌市における公営交通事業は1927年,札幌電気軌道株式会社が運行していた路面電車事業を買収することにより開始された.次いで市営バス事業が1930年,3系統,総系統長14.744kmで開始されている.市電事業は1964年まで拡大され,総延長約25km,1日あたりの輸送人員は約28万人となった.しかし,同年をピークに市電の輸送人員は減少に転じ,市営バスが市電の輸送人員を上回った.1967年には札幌冬季オリンピックの開催を契機として地下鉄建設が決議され,1969年には地下鉄南北線の建設が開始された.これにともなって,地下鉄と重複する区間から市電が順次廃止されており,1971年10月から1974年5月にかけて,4度にわたり廃止・縮小された.また,札幌市における地下鉄の建設・開業にあたっては,市電を廃止するのみならず,市営バス路線の大幅な見直しを実施した.3.地下鉄開業にともなうネットワークの再編成 地下鉄開業以前,札幌市における基幹交通は市電であり,市電が利用できない地域の大部分においては,市営バスがその輸送を担っていた.しかし地下鉄を都市の基幹交通と位置付けるなかで,1971年の地下鉄南北線,北24条・真駒内間の開業にともない,都心から放射状にあった市営バス路線の大部分を,近接の地下鉄駅に短絡させる再編成を行なった.その後7回にわたり,地下鉄の開業にともなって,市営バス路線が再編成されている. これと同時に,地下鉄駅におけるバスターミナル整備と,地下鉄とバスとのあいだで,普通運賃の乗継運賃制度を開始させている.乗継運賃制度は全国初の試みであり,札幌市における軌道系交通とバス交通とのネットワークを形成・維持するうえで,根幹をなす施策であった思われる. また当初は,市営バスのみで再編成および乗継運賃制度が実施されたが,のちに民営バス事業者も対象に組み込まれた.とくに,1994年10月の東豊線福住延伸以降,地下鉄の開業地域周辺におけるバス事業者の主管エリアが,民営バス中心となってきており,これらの大幅な再編成が実施されるようになった.もっとも,これらのバス路線再編が完全に成功しているとはいい難く,わずかに残存した都心直通系統が混雑する傾向も見られる. このようなバス路線の再編成について,地下鉄などの軌道系交通の開業にともなって実施される例が,近年では多くの都市で見られるが,バスターミナルなどのハード面,また乗継運賃制度の導入といったソフト面の双方において,札幌市が先駆的に果たした役割は大きいと思われる.
著者
児玉 恵理
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<p><b>はじめに</b></p><p></p><p>和歌山県美浜町の煙樹ヶ浜松林は、江戸時代から地域の防災資源として重要な役割を果たしている。煙樹ヶ浜松林において、松くい虫の被害が多発し、松林が枯れるといった問題が発生した。そこで、防除作業を開始したが、和歌山県美浜町内で煙樹ヶ浜松林の管理をめぐり、齟齬が生じている。そこで、本研究の目的は、煙樹ヶ浜の歴史的変遷や松林の管理状況を解明し、煙樹ヶ浜松林の保全について考察することである。</p><p></p><p> </p><p></p><p><b> </b><b>煙樹ヶ浜松林の概要</b></p><p></p><p>和歌山県美浜町は、和歌山県中部に位置しており、煙樹ヶ浜松林といった近畿最大の松林を有している。煙樹ヶ浜松林の面積は78ha、延長は4.5km、最大林幅は500mである。2018年時点では、マツの木は50,000〜60,000本ある。</p><p></p><p> </p><p></p><p><b>煙樹ヶ浜松林に関する歴史的変遷</b></p><p></p><p>1619年に初代紀州藩主の徳川頼宜により山林保護政策が実施され、地域住民が多数のマツを植林していた。1873年に「御留山」が和歌山県知事より和田村・松原村へ移管され、煙樹ヶ浜松林の土地は官有、立木は村有となる。1906年に、煙樹ヶ浜松林は潮害防備保安林に指定され、マツの伐採が禁止されている。 </p><p></p><p>1946年に松くい虫の被害が発生し、1961年に第二室戸台風により、マツの木が約3,000本倒れ、その後枯れ木が増加した。1968年から松くい虫の被害対策として、年2回の地上散布が行われ、1974年になると、空中散布と地上散布が実施された。そして、1996年まで空中散布が実施されたが、美浜町の住民たちから空中散布を行うことに対して強い反発があったという。2018年時点では、地上散布を毎年3回実施し、地上散布の実施日を町内放送等で事前に美浜町の住民へ連絡している。他にも、樹幹注入や特別伐採駆除を行い、松くい虫の被害対策が講じられている。</p><p></p><p> </p><p></p><p><b>煙樹ヶ浜松林の管理状況</b></p><p></p><p>地域住民は、松葉をかつてかまどや風呂の焚き付け用に利用していた。1950年代にガスの利用が普及するにつれて、松葉が堆積したままとなり、煙樹ヶ浜松林の生態系に変化が起きるようになった。光が差し込み風通しの良い松林にすべきという地域住民の意見により、2000年以降、松葉かきを行政と一部の住民が連携し、実施している。 美浜町では、煙樹ヶ浜松林の松落ち葉を堆肥として活用し、農産物の栽培を開始している。その農産物の「松きゅうり」等は、美浜町の地域ブランドとされている。</p><p></p><p> </p><p></p><p><b>おわりに</b></p><p></p><p>江戸時代から継承されてきた煙樹ヶ浜松林は、健康保安林および潮害防備林である。松くい虫の被害の予防として、地上散布や樹幹注入があり、行政が主体となって松林の保全・管理を行っている。また、煙樹ヶ浜松林の保全活動として、毎年行政と先駆的な地域住民グループが松葉かきを実施している。煙樹ヶ浜松林の一部は、地域住民の交流の場となっており、次世代への文化継承や地域活性化につなげている。また、美浜町では、松葉堆肥を活用した環境保全型農業が行われており、煙樹ヶ浜松林の保全は新しい局面を迎えている。</p>
著者
川島 友李亜
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

【目的】<br>ソメイヨシノ(<i>Prunus yedoensis</i>)の開花日の変動は気温と密接な関係にあることが、これまで多数の研究で証明されている。また、近年の気候温暖化による春先の気温の変化に伴って、ソメイヨシノの開花時期はこの50年間に全国平均で5日早まっていることも報告されているが、今後さらに気温上昇が進行すると、サクラを初めとする果樹は自発休眠打破に必要な低温遭遇時間を不足し、発芽や開花の不揃い、生育異常現象が多発する可能性がある。本研究では高知市における気候の変化を明らかにするとともに、気候変動がサクラ(ソメイヨシノ)にどのような影響を及ぼしているかを明らかにする。特に、1961年以降の休眠時期及び開花時期の変化と気温上昇との関連性について調査し、地球温暖化との関連に着目して検討した。<br>【対象】<br>ソメイヨシノの開花日のデータは、全国の気象官署で生物季節観測として行われたもの、気象データはアメダスのデータを使用する。高知県では高知城公園(北緯33&deg;N、東経133&deg;W、海抜高度31m)のソメイヨシノが標本木とされており、開花宣言は標本木の花が5~6輪開いた状態の時に行われる。<br>【方法】<br>1886年から2013年までの高知市の気温変動について調査した上、開花日の経年変化、気温との開花日との相関関係の有無について検証した。<br>【結果】<br>高知市の気温は1980年と2012年を比較すると、夏季(8月)は+2.3℃、冬季(1月)は+0.5℃上昇していた。ソメイヨシノの開花日は1954年から2013年の期間において平均開花日は3月23日、最も早かったのは2010年で3月10日、最も遅かったのは1957年で4月2日であった。年度の推移に伴って1954年から2013年までの59年間で1年あたり、開花日はおよそ0.11日早まっていた。また、1989年までと1990年以降に分けて分析すると、前者は1年あたり0.067日、後者は1年あたり0.277日早まっていた。また、開花日と気温との関係性は3月の月平均気温と開花日の間に最も強い相関が見られた。<br>【考察】<br>高知市の気温上昇は1980年以降に顕著に表れ始めていることがわかった。また、開花日も同様に近年早期化が進んでいる。3月の月平均気温と開花日の間に最も強い相関が見られたことから、ソメイヨシノは開花する約1~2週間前の気温に最も影響を受けるということが予想される。
著者
船引 彩子 田代 崇 林崎 涼 中村 絵美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.190, 2020 (Released:2020-12-01)

1. 北海道,静狩湿原 北海道南部,渡島支庁管内山越郡長万部町に位置する静狩湿原は,太平洋(内浦湾)に面した海岸平野に形成された湿原で,北海道の低地に発達する高層湿原の南限とされている. 1922年に「静狩泥炭形成植物群落」として国の天然記念物に指定されたが,1951年の指定解除後は大規模な排水路が湿原内に掘削され,農地化が進んだ.現在でも一部に湿原が残るが,その面積は221ha(1953年)から6ha(1990年)と大幅に縮小している(富士田・橘,1998). 本発表では,空中写真の判読や現地での聞き取り,絵地図などの歴史資料を用い,静狩湿原の地形と歴史の関係を調査した結果について報告する.2. 浜堤列と湿原 1948,1976年撮影の空中写真を用いて静狩湿原周辺の地形分類図を作成したところ,海岸線に沿って南北にのびる3列の浜堤列が確認された.海側の2列の浜堤は標高4〜5m程度で,後背湿地には1951年頃まで浮島が存在しており,静狩湿原の範囲はこの海側の浜堤まであったとされる(富士田・橘,1998).明治初期の絵地図では,浜堤上にアイヌの人々の住居も確認された. 現在の静狩湿原は最も内陸側の浜堤より,さらに西側の地域に限定される.林崎ほか(2020)によると,残存する静狩湿原の泥炭の下位に位置する砂層やテフラからはおよそ3-1kaの年代が得られており,この時期に湿原が形成されたことがわかる. 内陸側の浜堤は3列のうち最も大きなものだったが,1951年以降は砂利採取のため地形改変が進んでいる.隣接する道路面は標高約6m,かつての浜堤内部と思われる地点はそれより約3m掘り下られ,現在は農地に転用されている. また,残存する湿原部分でドローン撮影を行ったところ,開拓当時の暗渠と思われる地形が検出された.長万部町には開拓当時の設計図や暗渠の分布を示す資料が残っておらず,乾燥化が進む湿原をモニタリングしていく中で重要なデータと言える.3.戦後の開拓 静狩湿原では農地転換後,もち米やジャガイモの生産も試みられたが,現在は大部分が牧草地となり,酪農がおこなわれている.経済的効果を期待して行われた戦後の開拓であったが,現在では初期の開拓者の9割以上が静狩湿原を離れている. 湿原の復活・保護を望む声もあったが,1960年代以降の原野商法によって所有者がさらに細かく分かれるなど問題も多く,湿原の復活に向けた動きは道半ばである.引用・参考文献富士田裕子・橘ヒサ子(1998)本国指定天然記念物静狩湿原の変遷家庭と現存植生.植生学会誌,15,7-17.林崎 涼・田代 崇・船引彩子(2020)北海道南部静狩湿原より採取した堆積物中の火山灰と基底砂層の年代に関して.日本地理学会2020年秋季学術大会.
著者
綱川 雄大
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.82, 2020 (Released:2020-03-30)

現在、国の政策として、観光産業の振興が積極的に推進されている。その背景には、長期的な低迷を続ける日本経済の復活と、少子高齢化と人口流出によって衰退しつつある地方圏における「地方創生」の2つの期待がかけられている。こうした状況認識のもと、インバウンドに基づく観光産業への期待が高まりながらも、深刻な人口流出と人手不足というジレンマを抱えている地方観光地において、どのような労働力確保が行われているのか、その特徴を明らかにすることが本報告の目的である。特に、観光産業の要と位置付けられ、主要産業として地域を牽引してきた宿泊業に焦点を当てて調査を行うこととし、研究対象地域として、長野県軽井沢町を取り上げた。本報告では、二次資料の分析と宿泊施設への聞き取り調査に加え、労働の実態をさらにミクロな視点から把握するために、軽井沢にある旅館に住み込みながら働く、参与観察調査も併せて行った。 軽井沢町には、ホテルや旅館、ペンション、民宿といったように、多様な宿泊施設が存在している。また、海外メディアにも紹介され国際的にも広く名前が知られる地域であり、近年では国内・国外資本が多数流入しつつある。このように、観光客の増加だけでなく営利企業の動きからみても、人気観光地だと判断できることから、地方観光地としての調査対象地域として適当であると判断した。 調査結果から、大規模資本が運営するホテルでは、繁忙期における労働の季節性という時間的なミスマッチを始めとした人手不足に対して、派遣・配ぜん人サービス会社を主軸として活用するほか、内部労働市場を用いた労働力の確保や、全国という広範な範囲で求人募集が行われているという特徴がみられる。これに対して中〜小規模宿泊施設が運営するホテルでは、大規模資本と同様に派遣・配ぜん人会社を主軸として活用する労働力確保が行われているものの、求人募集においては、軽井沢周辺からの通勤が可能な地域というローカルな範囲での募集が行われている。これは、雇用された従業員に対して、寮をはじめとする住宅環境を提供できるか否かの違いによるものである。宿泊業の仕事は一日の中で労働の時間性が発生するため、必然的に職住近接な環境が望まれる。これに対処するために、大規模資本は優れた資金力に基づいて、住宅設備を整えることによって労働の時間性の問題とともに空間的なミスマッチをも克服している。これに対して中〜小規模資本は、軽井沢町周辺からの通勤が可能な地域から募集することで、労働の時間性の問題を克服し、空間的なミスマッチを克服していた。 一方、長年、軽井沢町に根差し、地域に密着した個人宿泊施設においては、地縁・血縁を始めとした、「人的つながり」を活用することで、労働力確保を行っていた。このような人的つながりは、個人宿泊施設においては労働力の確保だけでなく、リピーターという顧客確保の面においても大きな力を発揮している。個人宿泊施設では規模が小さいために、必然的に宿泊客との距離が近く関係構築が容易で、リピーターなどの顧客獲得につながりやすく、一定数の顧客を確保することで、毎年安定した収益が得られるマーケティング的な要素としても作用していることが明らかとなった。観光には交流人口の拡大が期待されるが、その外にも、最近では関係人口という新しい概念もある。本報告の個人宿泊施設における宿泊客との人的つながりは、関係人口の増加に寄与する力を持っていると考えられる。
著者
石井 久生
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>アメリカ西部のバスク系移民</b><br> バスク人は19世紀後半から1970年代にかけてアメリカ合衆国西部に主に羊飼いとして入植した。その多くは短期労働査証で入国して故地バスク地方との間を頻繁に往来し,ある程度の蓄財の後にバスク地方に戻った。しかし,一部のアメリカ西部に残った者は,牧羊業やホテル業に参入した。2010年センサスで「バスク系」と回答しているのは全米でわずか約5万人である。数的に極めて少数であるうえ,出稼ぎ目的の還流者が多かったため,エスニック・エンクレイブのように彼らの存在が景観として可視化することはほとんどない。その反面,移民宿であるバスク・ホテルは彼らの重要な活動拠点になった。そのためアメリカ西部主要都市には,バスク・ホテルの集中する地区が形成された。バスク・ホテルは1970年代にバスク地方からの移民が激減するのにともない各地で姿を消し,集中地区も周囲の景観に吸収されていったが,その中で唯一アイダホ州の州都ボイジーではそれが保存・強化されている。<br><b>ボイジーのバスク・ブロック</b><br> ボイジーにバスク系移民がみられるようになったのは20世紀初頭であった。彼らはバスク・ホテルを活動拠点として,牧羊業をはじめ,建設業,鉱業などに就業した。ボイジーのバスク・ホテル集中地区は,鉄道駅の北東側数ブロックの狭い範囲に形成され,最盛期の1920年代から1940年代にかけては10以上のバスク・ホテルが立地した。その中の一区画であるグローヴ通り600番街は,現在「バスク・ブロックBasque Block」と呼ばれ,バスクのエスニックな景観が保存されている。<br> バスク・ブロックは,バスク関係諸施設が集中する世界的にも特異な空間である。このブロックには1940年代までにバスク・ホテルやバスク・センター(バスク人会が運営する集会場)が建設された。しかし1950年代頃から退廃化が進行し,1970年代に進行した再開発計画では,この付近にはショッピング・モールの建設が予定された。しかしバスク系の不動産所有者らからの要望により,1980年代半ば以降,個人と公的機関が協調しつつ既存景観を保全改修する方針に転換された。そして1985年にバスク博物館が開業したのを皮切りに,バスク人会による資金援助もあり,バル,マーケット,レストランなどの諸施設が開業した。<br><b>バスクのポストモダンなエスニック景観</b><br> バスク・ブロックは景観演出においてもバスク色が強調されている。図中⑥にはバスク地方とアメリカ西部のバスク人をモチーフにした巨大な壁画が掲げられている。グローヴ通りの路面には,バスク地方を象徴するラウブルLauburuのイメージが組み込まれている。これらの街路景観整備は, 5年に一度ボイジーで開催される世界最大規模の国際バスク・フェスティバルであるハイアルディJaialdiの会場としてバスク・ブロックが2000年に採用されたのにあわせて実施された。そもそもハイアルディの開催は,1987年に北米バスク組織NABOの会合後にボイジー代表とバスク政府代表の間で交わされた会話が発端になっている。そしてバスク州政府は,ハイアルディ開催のためにバスク地方から人材や情報を今日まで提供し続けている。かつてバスク地方からのヒトの移動がバスク・ホテルを主体としたモダンなエスニック景観を生産したが,バスク地方でバスク州が自治権を得る頃にモダンな移動と景観は終焉し,それにかわり現在では政策や情報のポストモダンな移動が,ボイジーのバスク・ブロックにポストモダンなエスニック景観を生産,強化している。移民の故地と定住地を連動する研究にとっては大変興味深い現象である。
著者
松本 秀明
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.10, pp.720-738, 1984-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
19
被引用文献数
20 27

本論は東北地方の5地域の海岸平野を例に,そこに形成されている浜堤列の成因と形成時期を明らかにするものである. 沖積層の露頭観察,堆積物の粒度分析をもとに,過去6,000年間における旧汀線位置・高度の連続的な変化を復元した.その結果,現在を含めて4回の極大をもつ旧汀線高度の上下変動が認められ,これに伴い沖積上部砂層上面に風成・浅海底砂からなる波状の起伏が生じ,その凸部が地表で浜堤列として認められていることが明らかになった.従来,浜堤列は3列に大別されることが多かったが,本論では地表面下に埋没している浜堤列の存在も認められ,各浜堤列形成時の海水準高度は,仙台平野中部地区において,それぞれ+1m, -1.5m, -1m, ±0m (現在)である. 各海岸平野において個別に求められた浜堤列の形成時期には明らかな同時性が認められ,各列の形成時期は,内陸側から5,000~4,500年前, 3,300~3,000年前, 2,600~1,700年前および800年前~現在であることが明らかになった.
著者
山本 遼介 泉 岳樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1 </b><b>はじめに<br></b>東日本大震災の復興過程のアーカイブについては,NHKの「東日本大震災アーカイブス」の中での復興の軌跡や(独)防災科学技術研究所を事務局とする「東日本大震災・災害復興まるごとデジタルアーカイブス」(略称:311まるごとアーカイブス)をはじめとして,様々な取組がなされてきた.それらの中でも,Google社の日本法人が行っている「未来へのキオク プロジェクト」では,写真や動画の投稿プラットフォームとして既に6万1千件以上のデータがアーカイブされているだけでなく,ストリートビューという360度画像の閲覧サービスのデータを震災直後と震災後2年の2時点で取得し公開している(一部地域については震災前のデータ有).360度画像は,人の目線に近い視点から空間全体を記録しているので,臨場感があるだけでなく,町並みや景観の記録としての価値も高く,このデータを元に建物の3次元モデルを作成し町並みを復元する試みもなされている.<br>本研究では,このように利用価値の高い360度画像を取得できるMMSを用いて独自にデータ取得を行い,復興過程のアーカイブを試みる.その際,写真測量技術により複数の360度画像から画像内の地物の位置や高さなどを計測する機能の有効性についての検討を行う.<br><br><b>2 </b><b>研究手法<br></b><b></b>MMSによるデータ取得は,(株)トプコン製のIP-S2 Liteを用いた.このシステムでは,車両のキャリア上に6つのカメラ,GPS,IMUを備えたメインユニットを搭載し,車内に接続されたPCで動画撮影の制御とデータの保存を行う.このMMSはレーザースキャナを搭載していないが,撮影データの後処理により,動画内の地物の位置や高さを測定することができる.<br>対象地域は,被災地で最も早く防災集団移転事業が進んでいる宮城県岩沼市とした. <br>現地調査は,2012年8月4日~7日と2013年11月18日~19日に行い,津波の被害を受けた岩沼市沿岸部(仙台東部道路の東側)をMMSにより撮影した.<br>&nbsp;<br><b>3 </b><b>結果<br></b><b></b>2012年と2013年のデータを比較すると,以下の変化を見ることができた.(1)防災集団移転地において造成工事が本格化し,用水路の整備や地面のかさ上げ等が開始された.(2)「震災遺構」にもなり得た相の釜地区の水防倉庫が解体された.(3)「千年希望の丘」の造成工事が開始された.(4)海岸部にあった瓦礫等が撤去され,防潮堤の工事が本格化した.また,画像内の計測機能については,特徴点が抽出できるところでは概ね1m以内の精度で測定できることが分かった. <br>今後は,現地調査を継続的に行うとともに,変化の大きい場所について,位置や高さの測定など定量的な解析を行う予定である.
著者
申 知燕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

1.はじめに<br><br> グローバル化の進展に伴い,国際移住が急速に増加しており,グローバルシティと呼ばれる先進国の大都市は,様々な属性を持つ国際移住者を吸収してきた.初期のグローバルシティが吸収していたのはグローバルエリートおよび低賃金労働者層といった,両極化された集団であった.しかし,近年は両者に限らず,より多様な移住目的や様相を持つ移住者が増加しており,中でも,多方向的な移動や,母国との強い結びつきを特徴とするトランスナショナルな移住者が多く見られるようになった.<br><br> 日本においても,少子高齢化の進行や,グローバルな人材への需要を受けて,移住者の受け入れに関する議論が拡大している.しかしながら,移住に関連する議論の多くは,永住目的の労働移民を前提とすることが多く,すでに渡日しているか,今後さらに増加すると考えられるトランスナショナルな移住者については,その実情がつかめていない.そこで,本研究では,東京における近年の韓国系移住者(以下韓人)を事例に,かれらの生活行動および居住地選択の面からトランスナショナルな移住者の特徴を明らかにし,過去の移住者との相違点や関係を把握しようとした.<br><br> 本研究にあたっては,2016年4月から2018年11月にかけて移住者を対象としたアンケートおよびインデップス・インタビュー調査を実施し,移住者個人から得た資料を収集・分析した.<br><br><br><br>2.事例地域の概要<br><br> 本研究では,東京都および神奈川県,埼玉県,千葉県を含む首都圏を事例地域とし,韓人の集住地および市内各地の韓人居住地に注目した.東京においては,20世紀初頭から戦後直後の間に渡日したオールドカマー韓人移住者とその子孫が定住している他,1970年代から1980年代にかけては就労目的で渡日・定住したニューカマー移住者も多数存在しており,当時の韓人は東京における外国人の中で最も高い割合を占めていた.1990年代以降は,高等教育機関への留学や一般企業での就労を目的に移住した韓人若年層移住者の増加が顕著に見られる.首都圏における韓人人口は約15万2,000人であり,東京都および神奈川県の一部地区には集住地も複数カ所形成されている.<br><br><br><br>3.知見<br><br> 本研究から得た結論は以下の3点である.<br><br> 1点目は,1990年代以降に東京に移住した韓人は,主に留学や留学後の就職をきっかけに滞在している移住者層(ニューニューカマー)で,オールドカマーおよびニューカマー移住者とは区別される点である.東京における韓人ニューニューカマーは,キャリアのステップアップを試みて移住を行った層であり,その多くが留学を海外生活の第一段階としているため,日本への定住よりはグローバルスケールでの移動とキャリア形成を念頭に入れている.また,かれらの人生全般における移住経験,アイデンティティ,人的ネットワークなどの面においてもトランスナショナルな側面が多く見られるという点も特徴的である.<br><br> 2点目は,東京において韓人ニューニューカマーの居住地分布は完全に分散しており,既存の移住者とは居住地選択や集住地利用の様相が完全に異なる点である.オールドカマーが三河島や枝川,上野などに不可視的な集住地を,ニューカマーが新大久保に可視的な集住地をそれぞれ形成している一方で,ニューニューカマー移住者は,東京都の23区全体に分散しており,23区外の首都圏居住者は少なかった.また,かれらは,飲食店利用や食材購入のために,オールドカマーやニューカマーが形成した集住地に時折訪れる程度であり,集住地への依存度はあまり高くない.東京において,韓人ニューニューカマー移住者の集住地形成や郊外居住が見られない理由としては,移住者個人の高学歴・専門職化した属性,東京における単身者向け住宅・社宅・寮の存在,エスニック集団別のセグリゲーションがあまり起こらない都心部の民族構成などが同時に作用したと考えられる.
著者
申 知燕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>1.はじめに</p><p></p><p> 近年のグローバルシティでは,国際移住が急激に増加していく中で,従来の労働移民に加えて,トランスナショナル移住者が多く見られる.中でも,留学生やホワイトカラー労働者といった,国際的なキャリア形成を目標とする若年移住者層の急増によって,移住者の集住地を含む都市空間全体が大きく変化している.このような変化は,居住地や商業施設の立地条件だけでなく,インターネットやスマートフォンの普及による移住者の行動変化にも起因すると考えられる.しかしながら,従来の研究は,都市空間における物理的空間としての集住地と移住者間の関係に注目したものが多く,バーチャルな空間がいかに既存の集住地に影響を及ぼしているのかについて把握した研究は少ない.そこで,本研究では,グローバルシティにおける近年の韓国系移住者(以下韓人)を事例に,かれらのオンラインサイトおよびコミュニティの利用状況から,トランスナショナルな移住行動,中でも場所の制約のないオンライン空間でのエスニックな活動が集住地や都市空間全体に与える影響を明らかにしようとした.</p><p></p><p> 本研究にあたっては,2013年5月から2020年1月にかけて移住者を対象としたアンケートおよびインデップス・インタビュー調査を実施した他,回答の中で言及されたオンラインサイト・コミュニティについて,情報を収集・分析した.</p><p></p><p></p><p></p><p>2.事例地域の概要</p><p></p><p> 本研究では,現代における代表的なグローバルシティであるニューヨーク,ロンドン,東京の大都市圏を事例地域としている.それぞれの事例地域における韓人人口数はニューヨークで約22万人,ロンドンで約1万人,東京で約15万人と推定されている.各地域では,戦前もしくは戦後直後から韓人の流入が続いており,主に旧期移住者によって,インナーシティや郊外を中心に集住地が3〜5カ所程形成されてきた.しかし,1980年代後半から,高等教育機関への留学や一般企業での就労を目指して移住する若年層が増加しており,かれらは既存の集住地には流入せず,大都市圏各地,特に市内中心部および生活・教育環境の良い一部郊外に散在するようになった.</p><p></p><p></p><p></p><p>3.知見</p><p></p><p> 本研究から得た結論は以下の3点である.</p><p></p><p> 1点目は,1980年代後半からグローバルシティに移住した韓人は,自らのアイデンティティを保持し,エスニックな必要を満たすために,散在しながらもオンラインサイトやコミュニティを利用することである.かれらからは,集住をし,エスニックビジネスを営み,集住地のコミュニティに積極的に参加するといった,旧期移住者特有の移住行動が見られないが,それはかれらが現地社会に同化しているからではなく,移住過程でインターネットを通じてエスニックな資源を得られるからであると考えられる.かれらは,移住の前段階で,母国や経由地でオンラインサイトやコミュニティを利用することで移住先に関する情報を収集しており,移住後も,それらの情報と自らの社会経済的資本を適切に活用することで,既存の集住地に深く依存しない生活を送る.</p><p></p><p> 2点目は,オンラインサイトやコミュニティは,エスニックな資源を必要とした個人移住者によって自発的に設立・管理・利用される傾向が強い点である.オンラインサイト・コミュニティの利用者は,オンライン上でエスニックな情報交換,親睦活動,中古商品の売買などを行っており,中でも情報交換機能を重視している.これらのサイトやコミュニティは,移住後に情報交換や人脈形成の必要性を感じた個人移住者の善意によって,非営利目的で立ち上げられたものが多く,管理者はサイト・コミュニティが大型化しても,商業化させて収益を得るよりは,一利用者として参加し続ける傾向があった.一部の企業は,インターネットを積極的に利用する移住者層をターゲットとし,同時代の韓国で販売されるような商品やコンテンツを提供することを目的にウェブサイトを立ち上げるが,通販サイトを除いては,情報提供や交流の機能がサイト維持のための原動力となっている.</p><p></p><p> 3点目は,このようなオンラインサイト・コミュニティの利用様相は,かつて物理的な空間としての集住地が持っていた機能の一部が切り離され,バーチャル空間上に別途存在するようになったことを示すことである.大都市圏に散在し,集住地に頻繁に訪れることが難しい移住者にとって,場所の制約がなく,自由に多様な情報を得られるオンラインサイト・コミュニティは唯一無二なエスニック空間となる.しかし,その存在により,逆説的に,集住地に凝集する必要性は低下するため,集住地の機能分化とオンライン化が進む.</p>