著者
和田 崇 山本 健太
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

神楽は本来,農村地域の集落・神社にねざした神事である。中世以降,各地の集落で発生または伝播し,継承されてきた広島の神楽(里神楽)は,近年,地元の商工業者や,広島市内の出郷団体や集客をねらう事業者,さらには行政によって神社・集落の外に引き出され,都市住民や観光者によって宗教・場所から切り離されたコンテンツ,いわば&ldquo;街神楽&rdquo;として消費されるようになった。神楽が演じられる場所は,神座(=結界)から農村,都市へと広がり,さらにDVDなどの映像コンテンツとして流通するようになったことで,神楽が消費される場所はメディア上にも広がった。それに伴い,神座・農村で演じられることに意味のあった神楽は,神座や農村から切り離されてどこでも演じられ,見ることができるものへと変質した。すなわち,宗教空間・村落空間に埋め込まれるかたちで存在してきた神楽は,埋め込みの状態から引き出され(脱・埋め込み化),あらゆる場所でさまざまなかたちで消費されるようになった。神楽団の多くはその流れに対応せざるを得ない状況にあるが,中にはそれに対応できない神楽団や,伝統継承と観光対応のはざまでジレンマを感じる神楽団も少なくない。<br> こうした状況下,報告者が今後の神楽振興のあり方として提案するのが,神楽の「再・埋め込み化」である。具体的には,宗教空間・村落空間から引き出され,都市空間・メディア空間で消費されてきた神楽を宗教空間・村落空間に取り戻し,都市住民や観光者もそこで演じられる奉納神楽を体験し,理解する取組みを展開することを提案する。この取組みは,広島神楽の真正性と多様性を体験し,理解するという,オルタナティブな観光・交流活動に位置づけられるものであり,農村文化を断片的・選択的に消費するのでなく,地域の文脈に沿って体験・理解することが可能となり,そのことが農村文化あるいは農村社会を持続的なものにすることが期待できる。 報告者らはこの取組みの成立可能性を検証するため,広島都市圏の若者・女性らが広島県西部の農村地域を訪ね,秋祭りで奉納される神楽を鑑賞するとともに,神楽団員等住民との交流,周辺観光施設の探訪等をプログラムとする奉納神楽ツアーを企画し,2014年10~11月に4回試行した。<br> 奉納神楽ツアーの参加者からは,多様な神楽を鑑賞できたことに加え,祭り準備の手伝いや直会への参加を通じて神楽団員等住民と交流できたこと,各集落や農村地域への関心が高まったことが評価された。一方,長時間にわたる神楽の鑑賞,地域コミュニティへのとけ込みにくさ,宿泊施設やトイレのアメニティ等について改善が要望された。<br> 試行結果を受けて,報告者は広島県西部の農村地域を訪ね,奉納神楽と当該地域を体験,理解するツアーの企画の方向性について,以下のとおり提案する。 想定されるツアー参加者は,(a)見学型ツアーに物足りなさを感じている者,(b)共同・協働作業に喜びを感じる者,(c)ローカルな祭り(神楽)を好きな者,(d)日本の農村に関心をもち交流や体験を望む外国人,である。ツアー形態については,①短時間の神楽鑑賞と周辺施設観光を楽しむイベントⅠ型(主に中高齢者層向け),②神楽鑑賞に加え,祭り準備の手伝いや直会への参加,周辺施設観光を楽しむイベントⅡ型(主に若年層向け),③秋祭りでの神楽鑑賞,準備手伝い,直会参加に加え,通年で農漁業等を通じた交流を行う集落応援型(主に若年・ファミリー層向け),の3つを提案する。なお,これらのツアーを実施するに当たっては,ア)各集落における観光客受入に対する住民合意の形成,イ)祭り準備の手伝い等における訪問者の役割の明確化,ウ)訪問者が神楽を理解し,地域コミュニティにとけ込むのをサポートするアテンド(ガイド)の配置,が必要になると考えられる。 ただし,今回の試行ツアーについては,参加者が示した支払容認額と実際に支払った経費を考慮すると,旅行代理店等が独自に造成・催行する旅行商品(ビジネス)として成立させることは困難だと考えられる。そのため,具体化に当たっては,経済性を勘案した旅行商品を造成するよりも,取組みの社会性を重視し,訪問者受入に関する住民合意を形成した集落と自治体,農村地域に関心をもつ者が&ldquo;神楽&rdquo;を通して継続的に交流し,相互理解と集落支援を図ることが現実的だといえる。
著者
滝波 章弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

本発表は、パリの北東15kmにあるオルネ=スゥ=ボワの郊外団地について、2007年、2008年、2010年の調査をもとに報告するものである。フランスの郊外問題は1980年代初めからあったが、2005年秋の暴動がメディアに取り上げられて以降、世界的に知られるようになった。そして、「若者」、「移民」、「暴動」、「麻薬」、「強盗」などの語が、郊外と連動して報道される。フランスは多文化社会であり、とりわけ「シテ」と呼ばれる郊外団地は、旧植民地のマグレブ諸国や西アフリカ諸国だけでなく、トルコ、ポルトガル、インドなどの人々も少なくなく、いわゆる「移民系」のマイノリティの空間と化している。以下、オルネ=スゥ=ボワ3000地区を取り上げ、1)郊外文化、2)朝市とメディアの態度、3)余暇的イベントの実態、4)サッカーの報道と実践に注目しながら、郊外団地の現実と表象、およびその領域化の様相を明らかにする。なお、ここで述べる領域化とは、意識的・制度的・物理的な境界によって空間が囲まれることを指す。 郊外文化は、マイノリティ発祥の新しいフランス文化を構成するが、よく知られているのはラップとシテ言葉である。それらは、サルコジが挑発的に言ったように、マジョリティから、「ラカイユ」の文化とみなされる傾向も強いが、それだけにマイノリティは反発する。領域化の手段である地理的呼称にも独自性がみられる。例えば、オルネ=スゥ=ボワ、その北部に位置する3000地区、さらにオルネ=スゥ=ボワが属するセーヌ=サンドニ県、あるいは3000地区内の区画(アパート群)には、独自呼称があり、それがマイノリティの人々によって強調される。 フランスは、大型ショッピングセンターが隆盛している国の一つだが、同時に、パリでも郊外でも、昔ながらの朝市が数多く残っている。3000地区でも週3回、朝市が開催され、近隣の市町村からの来訪者も少なくない。いわば、ポジティブな場所であるが、マイノリティに共感的なメディアであっても、記者がマジョリティの欧州系か、マイノリティのマグレブ系(フランスでは出自の明示化が好ましくないので、氏名から判断)かによって、訪問記事の在り方も違ってくる。 3000地区では、社会活動の一つとして音楽や演劇やダンスなどの芸術にも力を入れている。そのセンターが文化施設カップである。そこでの催し物には、外部向けのイベントと内部向けのイベントがあり、さまざまな点で異なっている。それは、マジョリティとマイノリティの隔絶を意味するが、社会的な活動として止むを得ない部分もある。 郊外文化や芸術だけでなく、サッカーもまた、郊外を特徴づけるものと言える。すでに1998年のW杯で有名になったように、フランスのサッカーは多文化な選手構成で、いわゆる「ブラック・ブラン・ブール」を代表する。しかしながら、2002年のルペンの悪夢や2005年の郊外暴動を経た2006年のW杯においては、フランスが準優勝したにもかかわらず、「ブラック・ブラン・ブール」には冷めた視線が注がれた。その方法は巧妙で、一見熱気を取材しながら、それに対して専門家の見地を交えて、水を差すというものであった。一方、シテのメディアにはそうした姿勢はなく、マジョリティと繋がろうとする意識がみられた。 オルネ=スゥ=ボワではサッカーが盛んであり、多くのプロ選手を輩出しているが、地元クラブの活動には問題が多い。それでも、サッカー関係者には、ローカルなサッカー文化を評価しつつ、グローバルなスタイルにあわせようとする意識がみられ、社会の融合を目指そうとする姿勢を見出せる。 社会の人々やメディアの多くが「シテ」に対してマイナスのイメージを抱いているのは事実である。そして、そこには先入観やステレオタイプも少なからず存在する。それに対して、「シテ」の人々やメディアは、ときに反発や対抗を示し、ときに融和や強調を模索する。現実や表象は、決して一枚岩ではないし、簡単にまとめられるものでもない。
著者
小川 滋之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<b>研究の背景と目的</b> スイゼンジナ(<i>Gynura bicolor</i>)は,キク科サンシチソウ属の多年生の草本植物である.日本,中国,台湾などの東アジアを中心とした広い地域で伝統野菜として古くから食されてきた.しかし,市場に流通することは少なかったため,産地の広がりや各産地の事情はあまり知られていない.原産地もインドネシアのモルッカ諸島や中国南部,タイ北部など諸説あり定かではない.地産地消が叫ばれる現在において,伝統野菜の普及を進める中では産地の事情を明らかにすることが重要である.以上のことを踏まえて,本研究ではスイゼンジナの産地分布と地域名を報告した.<br><b><br> 調査方法 </b>インターネット(Google)を用いて学名を検索し,個体の写真が掲載されているサイト,なおかつ写真撮影地域が特定できるサイトを対象に集計した.現地調査では,産地の分布,販売の形態と地域名を直接確認した.<br><br><b>スイゼンジナの産地分布 </b>この調査では,インターネット上にみられる言語数そのものが影響している可能性は高い.しかし,日本や中国,台湾などの東アジア地域が大半を占め,原産地のインドネシアを含む東南アジア地域の産地が少ない傾向がみられた.<br>現地調査では,東アジアの中でも日本の南西諸島や台湾中部以北,中国南部の一部地域では農産物直売所や屋外市場で多く販売されており,人々に日常的に食されていた.東南アジアではタイ北部の植木市場や少数民族の集落にみられる程度で少なかった.これらの流通量からみると,原産地はインドネシアではなく中国南部からタイ北部の地域が有力であると考えられた.<br><br><b>スイゼンジナの地域名 </b>日本では標準和名のスイゼンジナが,地域名としては水前寺菜(熊本県),金時草(石川県),式部草(愛知),ハンダマ(南西諸島)がみられた.他では,地域あるいは企業が商標登録をしている事例として水前寺菜「御船川」(熊本県御船町),ガラシャ菜(京都府長岡京市),ふじ美草(群馬県藤岡市), 金時草「伊達むらさき」(宮城県山元町)がみられた.<br>日本以外では,紅鳳菜(台湾),観音菜(中国上海市),紫背菜(中国広東省,雲南省,四川省),แป๊ะตำปึง(タイ北部)がみられた.東南アジアではスイゼンジナの近縁種(<i>Gynura procumbens</i>)のほうが多く,タイ北部(แป๊ะตำปึง)やマレーシア,クアラルンプール(Sambung nyawa)では名称に混同がみられた.近縁種については,沖縄島の沖縄市や読谷村においても緑ハンダマという名称で販売されていた.このようにスイゼンジナは,地域ごとに様々な名称があり伝統野菜となっていることが明らかになった.
著者
阿部 和俊
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.43-67, 1984
被引用文献数
16

本稿の目的はわが国の主要都市における本社,支所機能について,歴史的経緯をふまえつつ現況を中心に述べることにある.考察した結果は,以下の通りである.<br> まず第一に,都市におけるこの機能の集積をみると, 1907年にはかつての6大都市(東京,大阪,名古屋,横浜,京都,神戸)に多くの集積がみられ,さらに地方の都市にも相当数の本社の存在が認められた.しかし,次第に地方都市の本社は減少し,かわって大都市,とくに東京の本社が増加し続ける.この傾向は基本的に現在も変わっていない.<br> 横浜,京都,神戸における集積は1935年以降,とくに戦後になってあまり伸びず,逆に1935年に成長の兆しをみせ始めていた地方の中心的な都市での集積が急激に伸長し, 1960年以後完全に逆転した.また,新潟,静岡,千葉,金沢,富山,岡山といった地方都市での増加も著しい.第1表からみてもこの傾向は今後続くであろう.しかし,東京,大阪,名古屋では1980年においては,対象企業数が増加しなかったためか,その集積は停滞気味であった。地方の中心的な都市がわずかとはいえ増加していることと対照的で,今後これがどのように推移するかを注目したい.<br> これら本社,支所の業種を検討すると,初期においては鉄鋼諸機械,化学・ゴム・窯業部門は少なかったが, 1935年を境にこの部門は増加する.とくに, 1960年以後はこの傾向が一層強まる.とりわけ鉄鋼諸機械の支所は1935年から増加し始め,第二次大戦後は最も重要な業種となった.その集積は当初,東京,大阪,名古屋の三大都市に多くみられたが,次第に地方の中心的な都市においても増加してきている.建設業の本社,支所が戦後に増加するのも注目しておきたい.もっとも,支所の延べ数においては,金融・保険がその性格上圧倒的に多い.横浜,京都,神戸と上述の新潟以下の諸都市では,これら機能の集積が多い割に鉄鋼諸機械などの支所が少ないことも重要である.<br> 戦後を対象に本社機能の動向をみると,東京の重要性がますます高くなっていることが指摘できる.とりわけ大阪系企業においては,商社にみられるように発祥の地である大阪よりも東京の機能を強化するようになってきており,この点における大阪の衰退傾向が感じられる.大阪が西日本の中心的地位を保ち続けうるか,あるいはもう一ランク下位階層の広域中心的性格の方をより強めていくのかが,今後大いに注目されるところである.
著者
安 哉宣
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><u>1.研究目的</u></p><p></p><p>本報告では,航空自由化や格安航空会社の出現などにより多様化した日韓間の航空市場の動向を把握することを目的とする。特に本報告では韓国側航空会社の対日航空路線に焦点を当てた。</p><p></p><p><u>2.対日航空旅客数の推移</u></p><p></p><p>1990年から2019年までの約30年間にわたる韓国対日本の航空旅客数の推移をみると,1990年には約4,226千人であったが,2000年には約7,450千人,2005年には90年対比約2倍の約8,592千人にまで増加していた。その後も対日航空旅客数は増え続け,2015年には90年対比約3倍の12,169千人,2018年には過去最高の約21,479千人にまで増加した。</p><p></p><p><u>3.韓国の航空会社による対日路線への参入</u></p><p></p><p>現在,日本に就航している韓国籍の航空会社は全部で8社にのぼる(FSC=フル・サービス・キャリア:2社,LCC=ロー・コスト・キャリア:6社)。韓国における航空旅客輸送は大韓国民航空社(1946〜1962)を嚆矢とし,同社は初の対日路線として1951年のソウル−東京便(チャーター便)を就航させた。その後1962年に大韓国民航空社の事業を継承した大韓航空公社(国営)は,1964年に初の対日定期路線であるソウル−大阪間を開設した。大韓航空公社(現,大韓航空)は1969年に民営化され,1988年に至るまで韓国の航空市場をほぼ独占した。</p><p>韓国第2民営航空会社であるアシアナ航空は1988年に設立されたものであり,1989年に初の国際便であるソウル‐仙台間のチャーター便を,翌1990年にはソウル−東京間の定期便が就航させた。その後大韓航空とアシアナ航空の2社は2008年までにFSCとして日本の25都市・35路線に進出した。</p><p>LCCによる対日路線参入は2008年からであり,チェジュ航空による済州−広島,ソウル−北九州,清州−大阪間のチャーター便であった。翌年同社はソウル−大阪,ソウル−北九州間の定期便を就航させた。エアプサンによる対日航空便の初就航は2010年の釜山−福岡,釜山−大阪,釜山−東京(チャーター便)であった。同2010年にはイースター航空も対日航空便を運行し(ソウル−高知,チャーター便),2011年にはソウル−東京間の定期路線を開設した。この2011年にはジンエアー(大韓航空系,ソウル−札幌)やティーウェイ航空(ソウル−福岡)の日本路線開設もみられた。エアソウル(アシアナ航空系)は2016年度にソウル−高松,静岡,長崎,広島,米子,富山,宇部などの路線を開設した。これらによって2018年までにLCCを含めて,対日航空路線は総27都市・50路線にまで拡大したのであった。</p><p></p><p><u>4.対日航空路線の就航パターン</u></p><p></p><p>韓国航空会社による対日航空路線の開設状況は,時代とともに変化してきた。就航都市のパターンをみていくと,1980年代までは,ソウル発着路線は日本の大都市(大阪,東京,名古屋),広域中心都市(福岡,札幌),地方都市(熊本,新潟,長崎)に就航していた。一方で釜山発着路線は日本の大都市(大阪,東京,名古屋),広域中心都市(福岡)に就航していた。1981年に対日路線が開設された済州は大都市(大阪,名古屋)のみに就航していた。これら3都市のいずれも最初の就航先は大阪であった。対日路線の増加した1990年代をみると,その前半は,ソウルと広域中心都市(仙台,広島),地方都市(6か所)間,済州と広域中心都市(福岡,仙台)間の路線が新設され拡大した。後半は,韓国の地方都市(大邱,広州,清州)と大阪とを結ぶ路線の開設がみられた。また,ソウル発着路線は日本の20都市にまで拡大した。</p><p>2000年代は,FSCによる韓国地方空港からのチャーター便での地方都市(長崎,宮崎,松山,高知,徳島,宇部,富山,出雲,鳥取,米子,秋田,青森など)への就航が相次いだ。2008年からはLCCの進出が著しくなり,両国間の航空自由化とも連動し,対日航空路線はいっそうの拡大をみせた。韓国地方都市と日本の大都市や広域中心都市との結合(便数)の増強とともに,日本地方都市との定期路線も拡大した。これらは,両国の地方空港の国際化を支えるものともなった。2015年以降からは,既設路線への新規航空会社の参入など航空便の量的拡大が顕著になった。しかし,2019年7月以降,日韓の政治的関係の悪化により, LCCの地方都市間路線をはじめ,対日航空路線は急激に縮小した。</p>
著者
樋口 忠成
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1) はじめに<br> 2016年のアメリカ大統領選挙は共和党のドナルド・トランプ候補が当選したが、これは投票前の世論調査と異なっていただけでなく、当選者の全国の一般投票総数では民主党のヒラリー・クリントン候補を下回る得票しか得られなかったという異例な結果であった。これは大統領が得票総数で選出されるのではなく、各州に割り当てられた選挙人をより多く獲得する候補が勝利するという間接選挙方式から生じた現象である。またこの選挙結果は、アメリカ社会の分断の象徴とその結果として取り上げられた。<br> この報告の目的は、アメリカ社会の分断が空間的な分断を伴うとすれば、どのような地理的分断が見られるかをこの2016年大統領選挙結果から明らかにすることである。民主党・共和党の得票数・得票率のカウンティ別データを使って、州、カウンテイ、大都市圏・小都市圏と非都市圏、中心市と郊外などの地理的枠組みを使って分析する。<br>2) 州の分断の進行<br>&nbsp; アメリカの大統領選挙では、ほとんどの州で州全体で勝利した候補が州に割り当てられた選挙人を総取りするので、立候補から当選まで基本的に州ごとに選挙戦が戦われる。近年では州の色分けが定着し、民主党が強いブルー(青)ステートと共和党が強いレッド(赤)ステートがほぼ固定化しているが、これまでの大統領選挙結果から分析すると現在の傾向が定着するのが1992年大統領選挙からである。それ以降の選挙結果は相互に高い相関を伴う結果となっており、青と赤の州が固定した結果、選挙ごとに結果が変わる可能性のあるスウィング・ステートと呼ばれる州をどちらの政党が獲得するかに結果が左右される。<br>3) 地域人口規模による分断<br>&nbsp; 全米にある3100あまりのカウンティのうち人口100万以上のものは44あるが、選挙結果ではクリントン候補が敗れたのは3つだけで、残りの41で勝利した。一方人口規模の小さいカウンティではトランプ候補が圧勝している(人口1万以下のカウンティの86%で勝利)。すなわち、大都市と農村地域の投票行動はほぼ真逆となっている。<br>4) 大都市圏の中心市と郊外による分断<br>&nbsp; 地域人口規模による選挙結果の分断からも類推できるように、大都市圏を単位として得票数を分析すると、大規模な大都市圏ほど民主党が強く(人口250万以上の21の大都市圏ではダラス、ヒューストン、フェニックス、タンパ、セントルイスの5大都市圏のみクリントン候補は僅差で敗れた)、人口50万以下の大都市圏になるとトランプ候補が強くなり、小都市圏ではトランプ氏が圧勝している。またそれぞれの大都市圏の中での得票率は、地域によってはっきりと異なっていいて、地理的分断が見られる。たとえばアトランタ大都市圏での大統領候補の得票率の分布をみると、中心市はクリントン氏が圧勝し、また中心市に近い郊外もクリントン氏が強い一方、郊外の外縁部や超郊外的な地域ではトランプ氏が圧勝している。このように大都市圏では中心からの距離による同心円的な分断が顕著であり、社会の分断は地理的分断と密接に関連することが解明できた。
著者
金 木斗 哲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.18, 2004

セマンゴム干拓事業をめぐる賛否両論は、従来の'開発か環境か'という対立の地域的な展開を越えて、直接的な利害関係をもたない人々をも巻き込んで全国的な展開を見せている。これを空間スケールでみると、'干拓事業の直接的な利害関係住民=生活基盤をなくすことなので反対だが,補償との関係で消極的;補償対象外の地元住民=地域振興への期待と環境悪化への不安;広域の地元(全羅北道)=地域振興への期待で賛成;全国=環境面への配慮からおおむね反対'という構図といえよう。実際に、広域の地元(全羅北道)のマスコミの論調は事業の早期完工を促すものばかりで,テレビの討論番組で反対を表明した地元大学の教員(とその所属大学)は地元住民の抗議電話で職務が中止されるほどであった。また、知事選挙を含む地方選挙では常に「複合産業団地」への用途変更を視野に入れた公約が表明されており,推進派、反対派を問わずセマングム干拓事業によって造成される土地が農地として利用されると考えている人はほとんどいない。(無論、このような図式は、理解のために単純化したものである。)このようにセマングム干拓事業をめぐる論争が全国的に拡大した背景には、セマングム干拓事業そのもののが従来の干拓事業とは桁外れに大規模であること以外にも、'地域感情'称される負の遺産を残している韓国の国土開発の展開と1980年代の民主化運動の過程で培養された市民の政治的交渉能力の向上が大きくかかわっている。したがって、セマングム干拓事業をめぐる対立構図を理解するためには、韓国における国土開発や1980年代の民主化運動に関する理解が不可欠となる。ここでは、セマングム干拓事業との関連のもとに韓国の国土開発の特徴と1980年代の民主化運動の経験を紹介し、それらがセマングム干拓事業をめぐる論争(または運動)とどのようにかかわっているかについて報告者の見解を述べたい。1.国土開発政策の展開とセマングム問題1962年に始まった第1次経済開発5ケ年計画(1962_から_1966)を契機に韓国は高度経済成長期に入り、1980年代まで華々しい経済成長と国土全体にわたる地域変動が続いた。第6次経済開発5ケ年計画(1987_から_1991)に至る過去30年間、その国土開発戦略は拠点開発(1960・70年代)、広域開発(1980年代)、地方分散型開発(1990年代)、均衡開発(2000年以降)と、地域間格差を縮小する方向へ変わりつつあると言われているが、1960年代から始まった国土空間の両極集中(ソウルを中心とする首都圏と釜山を中心とする東南臨海地域)は依然として解決に向かわず、国土面積の約25%に過ぎないソウル_から_釜山軸上に総人口の70%以上が住んでいる。このような過程で開発の恩恵から最も遠ざかっていたのが湖南地方と呼ばれる全羅南道と全羅北道であり、この地域における開発からの疎外感は、当地域出身の政治家である金大中氏への迫害への憤慨とも相まって,「抵抗的地域主義」を生み出した。セマングム干拓事業に対する地元(全羅北道)の執着には、このような国土開発からの疎外に対する補償心理も大いに働いており,複合産業団地のような地域経済への波及効果の大きい産業部門への用途変更がその前提となっている。2.1980年代の民主化運動の経験とセマングムセマングム問題の社会的な表様態が諫早のそれとと大きく異なる原因の一つは、1980年代の民主化運動の経験から蓄積された市民運動団体の組織力と高い政治的交渉能力から求められよう。韓国の民主化運動に参加した個人や組織は、リベラルな市場主義から社会主義までの多様な理念的なスペクトラムをもっていたが,「反独裁民主化」という共通の目標(戦術的であれ戦略的であれ)のもとで戦った。1990年代に文民政府(金永三政権)が誕生して以来、反独裁民主化戦線はほぼ消滅し,運動はそれぞれの専門領域ごとに細分化していった。こうした中で本格化したセマングム保存運動では、1980年代の民主化運動の過程で蓄積された連帯、連携、戦線の経験が存分に発揮され、環境運動団体のみならず宗教界、労働界など市民運動団体のほとんどが参加する国民的な運動へ発展しつつあり、「生命」という哲学的な概念で結ばれている。その結果,セマングム干拓事業をめぐる論争は、初期の「科学的なデータ」の解釈をめぐる部分的なものから、哲学的かつ全国的なものへと拡大しつつある。
著者
永田 彰平 中谷 友樹 矢野 桂司 秋山 祐樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.背景と目的<br> 健康的な生活を支える食料品へのアクセスが剥奪される地域的状況はフードデザートと呼ばれ、特定の社会集団の健康水準を低下させる要因として指摘されてきた。日本社会では、中心商業地の衰退に伴う店舗の閉鎖や都市的な環境で広がる社会的疎外が、高齢者を中心とする徒歩によって生鮮食料品を購買していた居住者に深刻な影響をもたらすと危惧されている(岩間, 2011)。2011年3月に発生した東日本大震災では、津波被災地区を中心に発生した被災による食料品購買機会の喪失が問題となっている(岩間ほか, 2012)。<br> フードアクセスをめぐる課題を受け、近年では生鮮食料品を販売する店舗へのアクセスを評価する地図成果物が公開されるようになった。例えば、農林水産研究所が公開している食料品アクセスマップでは、500mと定義された徒歩圏内にスーパー等の食料品購買機会を得られない地区が示されている(薬師寺・高橋, 2012)。ただし、徒歩圏内に購買機会のない環境が長期的に維持されている場合には、その環境に適応した食料品の確保(例えば、自動車による購買行動)がなされているとも考えられる。そのため、本研究では徒歩での購買行動が可能であった地区において購買機会が失われた状況が、フードアクセスの問題を最も深刻に被る地区と想定した。<br> また、フードデザート問題は、欧米社会にみられる大都市部の貧困地区の健康問題から提起されてきた論点ではあるが(中谷, 2010)、こうした問題発生地区の社会的位置付けを、日本全体を対象として俯瞰する試みはなされてこなかった。これを踏まえて、本研究では近年の生鮮食料品販売店舗の閉鎖に伴って生じた、徒歩でのフードアクセスの喪失地区を特定し、当該地区を社会地区類型(ジオデモグラフィクス)を利用して評価することを試みる(中谷・矢野, 2014)。対象期間は、震災発生前の2010年からその3年後の2013年とした。<br><br>2.資料と方法<br>(1) 座標付き電話帳データベースであるテレポイントPack!(全国版)の2011年2月(2010年10月発行の電話帳と対応)と2014年2月版(2013年10月発行の電話帳と対応)を用いて、生鮮食料品購入可能店舗の抽出を行った。業種はスーパー(生協等店舗を含む)、その他の食料品店(コンビニ、個人商店等)に区別し、店舗名等から実質的な小売店舗であるものに限定した。<br> (2) GIS環境において直線距離500m圏を徒歩圏として、時期別に徒歩圏での食料品アクセス可能範囲を特定するレイヤを生成した。また、両レイヤのオーバーレイによって、食料品店舗への徒歩アクセスの変化を識別した。さらに、各圏域に含まれる人口を基本単位区の人口統計(2010年)を平滑化して推計した。<br> (3) 食料品アクセスの衰退地区に居住する人口を、町丁字等単位の社会地区類型別に比較した。社会地区類型にはMosaic Japan 2010年版(エクスペリアンジャパン(株))を利用した。<br><br>3.徒歩フードアクセスの喪失マップと地区類型<br>徒歩によるフードアクセスが近年失われた地区の全国分布図を作成し、当該地区の地域別・社会地区類型別の特徴を、業種別に検討した。抽出された食料品購入可能店舗の総数は減少しており、とくに津波被災地区ではスーパー以外の店舗の減少が著しい。<br>地区類型別の整理の一例として下図に、2010年において徒歩圏内にスーパーのある地区に居住していた人口の内、2013年にスーパーへの徒歩アクセスを失った割合(%)を、Mosaic Group別に示す(人口密度が低いグループほど上に配置してある)。徒歩によるフードアクセスの喪失は、地区の社会的属性に応じても特徴的に異なることがわかる。<br><br>本研究は,厚生労働科学研究費補助金 循環器疾患・糖尿病等生活習慣病対策総合研究「日本人の食生活の内容を規定する社会経済的要因に関する実証的研究」(研究代表者:村山伸子)および科学研究補助金・基盤研究(B)「GISベースの日本版センサス地理学の確立とその応用に関する研究」による成果の一部である.
著者
伊藤 千尋
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

1 はじめに<br> ザンビアージンバブウェ国境に位置するカリバ湖は、1950年代にダム建設にともない誕生した人造湖である。カリバ湖では、カペンタ (<i>Limnothrissa miodon</i>)と呼ばれるニシン科の淡水魚を捕る漁が行われている。アフリカの内水面漁業が概して小規模で、労働集約的であるという認識とは異なり、カリバ湖のカペンタ漁は企業的・産業的で、資本集約的に営まれてきたことに特徴がある。これには、入植型植民地支配を経験した南部アフリカの地域性が関わっている。<br> 近年、ザンビアにおけるカペンタ漁については、漁船数の大幅な増加、漁獲量の減少といった問題が指摘されている。本発表では、カペンタ漁に関わるアクターの特徴や彼らを取り巻く社会・経済環境を明らかにし、漁船数の増加を引き起こしている背景を考察する。<br><br>2 方法<br> 発表者はザンビア南部州シアボンガ、シナゾングウェを対象として、2010年から断続的に現地調査を行なってきた。シアボンガおよびシナゾングウェは、カペンタ漁の拠点となっている地方都市である。シアボンガは南部州シアボンガ県の中心であり、首都ルサカから約200キロ南に位置している。南部州シナゾングウェ県シナゾングウェは、ルサカから約330キロ南西に位置している。<br> カペンタ漁が開始された初期の動向について明らかにするため、文献調査にくわえてシアボンガおよびシナゾングウェにて1980年代から漁を行っている事業者や造船業者に対する聞き取り調査を行なった。また、現在のカペンタ漁の特徴を明らかにするために、カペンタ漁に携わる事業者、漁師、造船業者に対する聞き取り調査を行なった。<br><br>3 結果と考察<br> ザンビアにおけるカぺンタ漁は、1980年代に白人移住者によって開始された。カペンタ漁はエンジン付きの双胴船、集魚灯を用いた敷網漁により行われる。そのため、初期費用が高く、黒人住民にとっては参入が難しく、漁師や溶接工として雇われるという関わりが主であった。しかしながら、2000年以降は、黒人によるカペンタ漁への参入が増加し、特に2000年代の後半以降、爆発的に事業者・漁船数が増加していることが明らかになった。<br> この背景には、様々なレベルの社会・経済的状況が絡み合っていた。まず、都市・農村住民による副業の展開、生計多様化といった個人レベルの生計戦略が挙げられる。事業者らの多くは、その他の経済活動にも携わっており、カペンタ漁のみに従事している者は稀であった。<br> また、彼らの参入を促進しているのは、造船費用が低下したことである。白人の造船業者のもとで雇用されていた黒人たちが、近年では次々と独立している。さらには、中国との貿易が増加するなか、ザンビアには安価な中国製のエンジンや部品が流入しており、造船はこれまでより低価格で行えるようになった。また、ローンが比較的容易に組めるようになったことも関係していた。<br> 爆発的に事業者数や漁船数が増加するなか、「盗み」や「許可証の不保持」が重大な問題として表出している。このような状況は、政府による管理・モニタリングの不十分さが主要因として働いていることは明らかである。それに加えて、本発表では、アフリカ農村・都市の生存戦略として肯定的に評価されてきたブリコラージュ性や多就業性といった個々の主体の流動的な経済活動の選択、その背景にある政治・経済環境の変化が、資源の過剰な利用に結びついている点について議論したい。
著者
鈴木 晃志郎 鈴木 玉緒 鈴木 広
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.12, 2009

<b>_I_.概説</b><br>発表者らは,文部科学省からの研究助成(研究代表者 鈴木晃志郎:『「開発=保全」問題に直面したコミュニティにおける住民意志決定のメカニズム』(課題番号: 20700673)を得て, 2008年10月下旬,公共事業に対する住民の態度を明らかにすべく住民意識調査を実施した。本発表は,その結果の一部を速報として公表することを目的とする。<br>フィールドは福山市鞆町(=鞆の浦)。昨2008年に公開され,140億円の興行収入をあげた映画『崖の上のポニョ』を,宮崎駿監督は鞆の浦で構想したとされている。このため,鞆の浦は「ポニョの海」として一躍脚光を浴びた。街が抱える港湾架橋問題もまた全国区の知名度を獲得し,『ポニョの原風景が開発で・・』(TBS:10/23)と題する特集が組まれるなど,架橋に対しいっそう厳しい視線が注がれるようになった。<br><br><b>_II_. 問題点の整理</b><br>沼隈半島の南端に位置する福山市鞆町は,城下町特有の細く入り組んだ街路網と狭小な地勢から,慢性的な交通渋滞,船舶の不法係留,駐車用地不足,下水道の未整備などの受苦を長年に渡って被ってきた。1983年,それらの解消を謳って広島県と福山市が計画したのが,港湾架橋計画(正式名称:鞆地区港湾整備事業)である。<br>この種の公共事業が社会問題化するとき多くの場合は,住民(と有識者・文化人)がスクラムを組み,いわば悪玉的存在の行政・企業の地域開発や公共事業を阻止しようとする,といった図式で語られる (長谷川2003)。しかし鞆町の場合,少なからぬ数の住民は,長年に渡る数多の受苦から解放する事業として,むしろ歓迎してきた一面がある。<br>鈴木ら(2008)は各種資料の分析および聞き取り調査をもとに,(1)リーダーの交代によって架橋反対運動の戦略が劇的に変わった,つまり外部有識者や学識経験者,全国レベルの募金や署名活動などを有効に活用し,いわば「外からの声」で事業の白紙撤回をめざす方法になってきたこと,(2) このとき全国から反対の声を挙げたのは,歴史的建築や土木遺構などハード面の景観を専門とする有識者や文化人が多く,鞆の価値が特定の側面からのみ測定される契機となったこと,を明らかにした。一方,多数派であるらしい推進派の声は全く外には届かず,その理由は(3)鞆の社会風土が持つ年功序列・家父長制的な性格と,強固なウチ/ソト意識により,そもそも鞆町内の問題で外部の者に同意を求めるという意識が働かなかったためらしいことも分かった。<br>推進派は,数度に渡る署名活動の結果をもとに,住民の8~9割は計画に賛同していると主張する。反対派は,署名による意志確認は踏み絵に等しいとし,全国からの10万を超える署名や,研究者及びICOMOSによる学術的価値づけを根拠に,事業の撤回を主張する。<br>このような水掛け論は、なぜ続いてきたのか。我々は,可能な限り第三者的な立場に立って,科学的な手続きに則って住民意識調査を実施しようと考えた。<br><br><b>_III_.調査概要</b><br>調査方法と実施状況は以下の通り。<br>・実施日時:2008年10月23~29日<br>・調査形式:訪問配布・訪問回収方式(自記式)<br>・標本抽出:選挙人名簿使用。有権者4434人中600人を無作為抽出(等間隔抽出法:拒否の意思表示がない場合のみ,予備サンプル32名から補充)。<br>・有効回答数441,回収率73.5%(予備標本を含めると69.8%)。<br>・構成比:男性46%,女性54%,高齢者(65才以上)46%<br><br><b>文 献</b><br>長谷川公一2003. 環境運動と新しい公共圏. 有斐閣.<br>鈴木晃志郎・鈴木玉緒・鈴木広2008. 景観保全か地域開発か. 観光科学研究1: 50-68.
著者
廣野 聡子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.91, 2008

<B>1.はじめに</B><BR> 私鉄系のデベロッパーは、高度経済成長期以降、住宅地の郊外拡散を背景に自社沿線の宅地化を進めてきた。その代表的な開発手法の1つが、組合施行による土地区画整理事業を主導し、その事業代行を通じて保留地を獲得するというものであった。<BR> この土地区画整理事業を用いた郊外住宅地開発は、保留地を処分して事業費を捻出するなど事業採算性を土地の売却益に依存しており、地価の上昇が事業を後押ししてきた点は否めない。このため、バブル経済が崩壊し、主に住宅地に供される大都市圏郊外での地価上昇が見込めなくなると、こうした開発手法そのものが大きな岐路に直面せざるを得なくなる。このような問題意識のもと、相模鉄道(相鉄)いずみ野線・ゆめが丘駅周辺地域(横浜市泉区)を事例として、バブル経済崩壊に伴う社会的・経済的な変化の下で、従来型の沿線開発手法がどのような課題に直面しているかを検証したい。<BR><B>2.研究対象地域</B><BR> 相鉄いずみ野線・ゆめが丘駅周辺地域(横浜市泉区)は東京都心から40km圏に位置し、東京駅からの所要時間は約1時間である。<BR> いずみ野線は、横浜市南西部の交通不便地域の利便性向上と、輸送力が限界に達しようとしていた東海道線のバイパス路線確保を目的として計画され、1976年に二俣川(横浜市旭区)からいずみ野(同市泉区・4駅6.0km)が開業して以来、1990年に第2期延伸・いずみ野からいずみ中央(1駅2.2km)、1999年には第3期延伸・いずみ中央から湘南台(神奈川県藤沢市・2駅3.1km)と、およそ20年をかけて段階的に延伸開業した路線で、ゆめが丘駅は1999年に開業した。相鉄は、3期にわたる延伸区間の駅周辺で、土地区画整理事業を用いた住宅地開発を進めてきた。にもかかわらず、現在のゆめが丘駅周辺一帯は市街化調整区域のままであり、駅周辺には商業施設や大規模な住宅地は見られない。いわば「従来型沿線開発の限界」を示す空間といえる。<BR><B>3.研究の概要</B><BR> いずみ野線の新設に際して、相鉄は沿線の宅地開発を計画し、東急電鉄「多摩田園都市」の開発手法を踏襲する形で1972年より沿線7地区で順次土地区画整理組合を立ち上げ、合計354haの住宅地を開発した。<BR> 一方、第2期・第3期の延伸区間は、横浜市の総合計画「よこはま21世紀プラン」(1981年発表)に基づく「いずみ田園文化都市構想」として開発が計画された。この「いずみ田園文化都市構想」は、いずみ野線新規延伸区間の沿線約280haを開発区域とし、良好な住宅地・文化施設などを設け、当地域を都心と県央地域を結び付ける拠点地域とする計画で、開発手法は相鉄を事業代行者とする土地区画整理事業の方式が想定されていた。<BR> 1980年代前半に計画されたこの構想は、バブル経済の崩壊にともなう社会的・経済的な変化の中で見直しを余儀なくされ、1995年、開発区域はゆめが丘駅周辺の約25haのみとなり、大幅に縮小される。しかし、駅の開業から約10年が経過した今日でもなお、この土地区画整理事業は事業化の目処が立たず、駅前には農地が広がっている。<BR> このゆめが丘駅周辺地域の開発が失速した背景として、地価の下落によって計画当初の地権者への水面下での提示価格の維持が困難になり土地区画整理事業の事業化が行き詰まったこと、またバブル崩壊以降、財政悪化に直面した地方自治体が都市開発の民間依存を強める一方、資金力やブランド力が相対的に弱い私鉄系デベロッパーの一部が地方自治体の要請に応えきれなくなった点を指摘することができる。本発表では、これらの点について具体的なデータをふまえつつ検討する。<BR>
著者
島津 弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1.はじめに</b> <br>仙台平野は2011年東北地方太平洋沖地震による津波被害を受けた.名取川に沿って津波はおよそ6km遡上した.名取川下流堤外地は伝統的土地利用慣行が残り,高水敷は現在でも民地として耕作が行われ,これらの農地は津波遡上の被害を受けた.地震津波災害以降,名取川では複数回の洪水が発生し,高水敷にも氾濫した.このとき津波堆積物や塩分が流されるとともに,一部の農地は再び被害を受けた.津波災害後,放棄されたままの農地もあったが,多くは再耕起された.しかし,その後放棄される農地が拡大してきた.本発表では津波遡上およびその後の洪水時の水の流れと高水敷への影響を河川の微地形との関係から明らかにし,耕作放棄およびその拡大との関わりを検討した.現地調査は2011年5月(被害状況,表層堆積物),8月(農地の復興状況,津波被害聞き取り),2012年11月(地形断面測量,その後の洪水による影響,耕作放棄の状況),2013年11月(耕作放棄の状況)に行った.また,耕作放棄状況の把握には空中写真およびGoogle Earthの画像も用いた.&nbsp;<br><b>2.名取川堤外地の微地形と津波遡上プロセス<br></b> 名取川堤外地の微地形と津波遡上の概要についてはすでに報告した(島津,2012,日本地理学会発表要旨集82).堤外地部分は流路となっている低水敷と平水時の水面とは2m程度の比高がある氾濫原である高水敷に分けられる.高水敷は2段の地形面に分けられる.地形面上には流路跡と考えられる縦断方向に延びる浅い凹地が見られる. 河口からの距離に応じて遡上した津波の強さと卓越するプロセス,微地形との関係が異なる.河口~2.5kmでは高水敷における水深が4m程度に達し,遡上および引き波による強い侵食が生じた.2.5km~4kmでは高水敷における水深は3m程度で堆積プロセスが卓越した.4km~5kmでは津波の深さが急に浅くなった.微地形の高まり部分は水没しなかったが,そのほかの部分では水流があり,堆積が生じた.5km~6kmでは微地形の低まりの部分を津波が遡上した.津波が遡上した部分ではわずかに堆積が生じた.<b>&nbsp;<br></b><b>3.津波災害後の河川洪水による高水敷への影響<br></b> 津波災害後の2011年9月,2012年5月,6月に流域で豪雨が発生した.調査地域の上流端の名取橋におけるこれらの出水時の最高水位は平水時の+4~4.5mであった.聞き取りによると高水敷上に氾濫し,河口から4km地点より上流側における影響が大きかった.微地形の低まりの部分では湛水したこともあり,作付けされていた作物が大きな被害を受けた.一方,高まり部分も影響を受けたが,被害の程度は小さかった.氾濫水が低まりの部分を集中的に流下したことが推定できる.2012年11月の観察では,堤防沿いの微地形の低まりの部分では,観察直前の雨で湛水していた.このような部分で耕作を行っている人もいたが,降雨後にしばしば湛水するようになったとのことである.<br>&nbsp;<b>4.津波災害後の耕作放棄地の拡大と微地形の関係<br></b> 津波災害後の5月上旬に現地に入ったときには,盛んに再耕起が行われていた.一方,そのままで放置された農地も多く存在していた.そのような農地は2.5kmより河口寄りに多く,津波による被害程度が大きかっただけでなく,閖上地区では耕作者の死亡,移転により放棄されたところもある. 一度,上流寄りでも再耕起されない場所や,再耕起されたところでもその後放棄された場所も見られた.それらは微地形の低まりの部分に集中し,帯状に分布している.以上のことから,高水敷の微地形が津波遡上とその際の地形プロセスに影響しただけでなく,その後の河川洪水の際も大きく影響した.排水不良地を形成し,その結果そのような場所が耕作放棄につながったと考えられる.
著者
伊藤 修一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論. Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.10, pp.585-598, 2001-10-01
参考文献数
33
被引用文献数
9

本稿では,千葉ニュータウンの戸建住宅に転入した世帯の,夫婦の居住地選択への関わり方の解明を試みた.対象世帯の多くは,「夫が外で働き,妻が家庭で家事や育児」を行う,典型的な郊外居住の核家族世帯である.これらの世帯は,住宅取得が困難な1990年代前後に転居を決定し,住宅の質や価格の面で公的分譲主を信頼していた.用いた住宅情報は,公的物件の情報が得やすい媒体に偏り,公的物件供給の地域的な偏りも住宅探索範囲を限定している.また,夫婦それぞれの居住地選択の基準は性別役割分業に影響を受けており,転居後も継続就業する妻のいる世帯では,妻の就業地の近くに候補地を設定するなど,住宅探索範囲が就業状況によって異なる.ただし,現住地の選択には抽選が制約となっており,選択結果に対する不満は予算の都合により生じている場合が多い.
著者
栗栖 悠貴 小島 脩平 稲澤 容代
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

近年、地理院地図に代表されるように地理空間情報技術のめざましい発達により、誰でも容易に地理空間情報を扱えるようになった。その結果、災害対応をはじめ様々な分野で地理空間情報は効果的に活用されている。しかし、平成26年8月豪雨や平成27年9月関東・東北豪雨に伴う被害状況を振り返ると、事前に土砂災害危険箇所や浸水想定区域などの自然災害リスクに関する地理空間情報が被災地で十分浸透していたとは言い難い。その原因の1つにそれらの情報からリスク情報を解読する難しさがある。自然災害リスクに関する地理空間情報を分かりやすく伝えることは、被害軽減対策の1つとして重要である。<br>本報告は、災害時の被害軽減対策を促すために重要な自然災害リスクに関する地理空間情報を分かりやすく伝えるための工夫を紹介するものである。効果的に伝える工夫として次の方法がある。<br>①土地の成り立ちと自然災害リスクの関係をワンクリックで確認できる地形分類データ。<br>②身近な自然災害リスクを伝えるハザードマップポータルサイト。<br>③浸水被害範囲の時系列変化がわかる地点別浸水シミュレーション検索システム。<br>しかし、これらはツールであり利用されなければ被害軽減にはつながらない。<br>そのため、今後有用なツールを活用してもらうような広報活動をしていくことが必要である。
著者
米地 文夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.71, 2008 (Released:2008-11-14)

宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」と「インドラの網」との二編の童話に天の野原に行った夢の場面を描いた。 前者はジョバンニが夢の中で銀河鉄道に乗って天の野原を旅し, 後者では「私」はツェラ高原から天の空間にまぎれ込む。 ツェラ高原についてはチベットやパミールの高原を基にした架空の地といわれてきたが, 演者はその地形や湖の描写がヘディンの『トランスヒマラヤ』の中のチベット北部, 現阿里地区北東の塩湖の記載と類似点が多いことを見いだした。 ただし植生は詩「早池峰山巓」とその先駆形の山頂の描写と共通したコケモモや灰色の苔や草穂の原などがあり,「インドラの網」の天の野原は早池峰山頂緩斜面の記憶にチベット北部の塩湖を銀河として重ねたのである。なお,チベットにはツェラ(頂きの峠~山道の意味)という地名が複数存在し,音に則拉や孜拉という漢字を当てている。 一方,「銀河鉄道の夜」の沿線の記述は一見,多様であるが,演者はこれを景観から二分することにより,そのモデルを絞り込んだ。すなわち, 岩手軽便鉄道(現JR釜石線)をモデルとする東西線と,東北本線(現JR在来線)のイメージを持つ南北線とである。 東西線は最も初期に書かれた第一次稿の前半部(演者の0次稿)に当たり,地形に大きな起伏がある。車窓のコロラド高原に擬した高原にはトウモロコシ畑があり,白い鳥の羽根を頭につけ弓を持つインディアンが登場する。当時,種山ヶ原に飼料用のトウモロコシ畑もあり(詩「軍馬補充部主事」),また詩「種山と種山ヶ原」に「じつにわたくしはけさコロラドの高原の/白羽を装ふ原始の射手のやうに/検土杖や図板をもって…」とあるので,インディアンは賢治自身の投影,高原は種山ヶ原である。高原から列車は激しく揺れつつ下るのも,同日付の詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(異稿に銀河軽便鉄道の名あり)の猿ヶ石川の谷を下る際の描写と同じである。 南北線部分の地形はほとんど平坦で,三角標や十字架が星と星座を示している。これは,東西線では,インディアン,いるか,鶴など星座名にちなむ人や動物が登場しているのとは対照的である。南北線沿線にはススキやリンドウなど岩手の二次草原の植生がみられる。ジョバンニには,カムパネルラの捜索現場の河原で「川はゞ一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見え」たとある。この河原は花巻の北上川の旧瀬川合流点の州をモデルにしており,したがって南北線は北上川をモデルとした銀河に沿って走り,そらの野原は北上低地をモデルとしたことになる。「プリオシン海岸」の挿話は北上河畔のイギリス海岸がモデルであるから,本来は岩手軽便鉄道に近いが,北上川に沿うため南北線に移して組み込まれている。 このように宮沢賢治の描く銀河に沿う景観は,実際に観察している岩手の景観に,本や映画で知った海外のイメージを重ね,さらにそれを天上の景観の幻想を重ねるという,三重の幻想空間構造になっているのである。したがって宮沢賢治の銀河沿岸の│景観描写のモデルは表のようになる。
著者
束田 大樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.318, 2019 (Released:2019-03-30)

1.研究の背景と目的 1993年に制度が開始された「道の駅」は、当時の建設省によって103カ所の施設が登録されてから、毎年増え続け、その数は2019年1月現在、1145カ所にものぼる。高速道路のSAやPAと同じく、一般道路にも休憩施設を整備することを目的としたため、制度開始当初は道路休憩施設という意味合いが強かった。しかし近年、道の駅は、農産物直売による農業振興、観光拠点としての地域振興、更には地域福祉、交通結節点、防災等の役割も担うようになってきており、地域の核となる施設に変化している。 道の駅は原則、地方自治体やそれに代わり得る公的な団体が設置し、管理・運営は地方自治体、または自治体からの業務委託や指定管理により、第三セクターや地域の民間事業者等が行う。そのため、道の駅は地方自治体それぞれの、道路休憩施設や地域振興に対する考え方や財政事情、土地の特徴がよく表れる施設である。 この研究では、自治体が道の駅を設置した背景と目的、設置をした際の国や県の関与、現在の運営状況を明らかにし、立地による違いを分析することを目的とする。2.対象地域と調査方法 対象地域は、群馬県内の道の駅を設置しているすべての自治体と全32か所の道の駅とする。県北部や西部は山間地域が多くを占め、南部や東部には関東平野が広がるため、山間部と平野部の道の駅を比較するのに適当な地域であると判断したからである。 調査方法は、対象地域内各自治体の担当部署への聞き取りを行い、得られた情報をもとに、各自治体にとっての道の駅位置付けを分析する。そして、対象地域を、過疎地域、特定農山村地域、それ以外の地域(主に平野部)に分け、地域ごとに立地する道の駅の特徴を比較する。3.研究結果 調査結果の中で特に注目されるのは、整備手法、設置の際の補助金、条例の3点である。 道の駅の整備方法は、道路管理者と自治体で整備する「一体型」と、自治体で全て整備を行う「単独型」に分けられる。全国的には「一体型」の方が多いが、群馬県は、「一体型」は32か所中4か所しかなく12.5%と極めて低い。 補助金は、一番多かったのが、農林水産省の農業振興に関する補助金であった。道路休憩施設ではあるが、国土交通省の社会資本整備等の補助金は農林水産省の約半数にとどまった。 条例は、自治体が道の駅を設置する際に制定した条例の「設置の目的」に関する条文に注目すると、農業振興や地域振興が多く、道路休憩を目的として明記している自治体は少なかった。 群馬県の道の駅は「単独型」が多く、自治体が独自で設置しているため、道路休憩よりも地域振興や農業振興を重点化する傾向になると考えられる。地域ごとに比較すると、過疎地域、特定農山村地域の道の駅は、農林水産省から受けた補助金が多く、設置目的も地域振興や農業振興が多い。逆にそれ以外の地域では、国土交通省から受けた補助金が多く、設置目的も道路休憩の意味合いが強い。地域の状況によって自治体が道の駅に求めるものが異なるのである。
著者
沖津 進
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.11, pp.791-802, 1984-11-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
63
被引用文献数
5 3

There has been a discrepancy between the European view of the term “alpine” zone and the Japanese one. European researchers consider orthodoxically the alpine zone as a tree-less area covered with ericaceous dwarf shrubby cushion plants between the timberline at its lower limit and the climatic snow line at its upper limit. Japanese researchers have traditionally reckoned the alpine zone as an area covered with the extension of the Pinus pumila thickets admixing many alpine-boreal elements above the forest limit. Japanese phytosociologists have recently payed attention to such a traditional Japanese view of the alpine zone. The author is much interested in this problematic usage of the term “alpine”; in the present study, an approach is made to this subject through his own research on the ecology of the P. pumila thickets carried out in Mts. Taisetsu, Central Hokkaido. Compared with the European alpine communities with those of Japan, it is clear that the latter is fundamentally different from the former because of the well-establishment of the P. pumila thickets rich in boreal forest elements and the high productivity of P. pumila itself which is nearly equal to that of the Abies-Picea forest. Thermally, WI of the area occupied by the P. pumila thickets is no less than WI=15 that has been considered to coincide with the northern forest limits. Further, P. purnila thickets differ fundamentally from the conifer krummholz which is highly popular to the European high mountains though the thickets look like the krummholz forms. The latter forms the component of the forest while the former never forms the forest. The author concluded that the traditional definition of the “alpine” zone in Japan should be abandoned, and that the P. pumila thicket belongs essentially to the upper part of the forest zone in the vertical distribution. Another conclusion is that the so-called alpine zone occupied with the extension of the P. pumila thickets in Japanese high mountains as well as at Mts. Taisetsu does not strictly correspond to the krummholz zone at the upper part of the forest zone in European high mountains The Japanese alpine zone is a unique and independent vegetational zone, and it is not the fragment of the forest zone such as the conifer krummholz zone in Europe.
著者
天野 宏司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.252, 2008 (Released:2008-07-19)

近代日本の郵便制度は1871(明治4)年に東京~大阪間での逓送を開始したことに始まり,翌年に全国展開が図られた。さらに1873年には,郵便取扱の独占と全国均一料金に規定される現在の郵便事業の原型が完成した。これに伴い,郵便物を実際に逓送するルート・手段,頻度などを把握・周知するための「郵便線路図」が1872年に作成された。郵便線路は,郵便局の新設や廃止,地域交通体系の変化などにより頻繁に改変されるため,「郵便線路図」もしばしば改変された。いわば,「郵便線路図」は逓信省という,公権力による空間把握の結果を示す。明治政府による,国土空間の把握を振り返ると,迅速測図に始まる地図作製が1880(明治13)年からであり,鉄道ネットワークが形成されるのは1890年代である。「郵便線路図」の作成は,これらに大きく先行するとともに,把握および更新頻度の高い空間情報でもあった。「郵便線路図」には同一年紀のものが複冊存在する。各地の逓信区からあげられた郵便線路の改変情報をもとに,「郵便線路図」原簿が作成されていたためと考えられる。
著者
助重 雄久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.112, 2007 (Released:2007-11-16)

I はじめに 政府は訪日外国人によるインバウンド観光を内需拡大や地域振興につながる重要課題と位置づけ、2002年に「グローバル観光戦略」を策定した。2003年4月には「ビジット・ジャパン・キャンペーン」が開始され、外国人誘致に向けたさまざまな取り組みが進められている。 こうしたなかで、長崎県対馬では釜山との間に国際定期航路が開設されたのを機に、多数の韓国人旅行者が来訪するようになり、韓国人を積極的に受け入れる宿泊施設や韓国資本経営のホテルもみられるようになった。一方で、韓国人旅行者をめぐるトラブルも起きており、韓国人に対する不信感を募らせる島民も少なくない。本報告では対馬におけるインバウンド観光の展開について考察するとともに、受け入れにあたっての課題も検討する。 II 韓国人旅行者の受け入れに向けた取り組み 1.定期国際航路の開設 対馬では1990年代から韓国との定期国際航路の開設が模索され、1997年には博多-釜山を結ぶ「ビートル2世号」の臨時寄港が実現した。1999年には高速船が厳原-釜山に不定期就航し2000年には定期運航となった。また2001年からは厳原港と比田勝港に交互入港するようになった。 定期国際航路の利用者は2000年には17,438人であったが、2006年には86,852人(うち韓国人は83,878人)となった。厳原港と比田勝港の外国人出入国者数の合計は全国の港湾・空港のなかで第14位に相当し、長崎港や福岡以外の九州内各空港をも上回った。 2.行政・観光物産協会による受け入れ体制の整備 旧上県・美津島・厳原の3町が招いた韓国人の国際交流員は文書の翻訳や通訳、韓国語講座の講師等で活躍してきた。対馬市や対馬観光物産協会は、外国語表記の道路標識や観光案内標識の設置やデザインの統一、韓国語版観光パンフレットの作成に力を入れてきた。標識は日本語・韓国語・英語・中国語で表記され、観光地の紹介文は日本文の内容をそのまま各国語に訳して外国人旅行者にも日本人旅行者と同じ情報量を提供できるよう配慮した。またパンフレットも日本語版と同じ仕様で同等の情報量を提供できるようにした。 III 宿泊施設における受け入れの現況 宿泊施設38軒を対象とした聞き取り調査によれば、受け入れ経験がある施設は30軒あったが、うち8軒は韓国人とのトラブルを機に受け入れをやめていた。また、14軒は個人や小グループのみを受け入れ、団体は断っていた。受け入れに消極的な施設は概して小規模で、日本人常連客に配慮して受け入れを断る場合が多くみられた。 韓国人を受け入れている施設は厳原市街や美津島町南部(下島)に集中していた。これらの地域では宿泊施設だけでなく周辺の飲食店、大型スーパー等にも経済効果が及んでいる。いっぽう、厳原や美津島から離れた地域では拒否反応が強かった。とくに比田勝港周辺は受け入れに難色を示す宿泊施設が目立った。比田勝港で入出国する韓国人旅行者は、厳原のホテルの送迎バスを利用し比田勝港周辺の飲食店や土産店等には立ち寄らないため、比田勝港周辺への経済効果は非常に小さい。 IV 受け入れにあたっての課題 宿泊施設が受け入れに難色を示す原因としては「臭い」、「料金面で折り合わない」、「ゴミをちらかす」、「直前にキャンセルする」、「トイレの使い方が異なる」、「日本人に迷惑をかける」などがあげられた。これらは食文化や入浴習慣の違い、キャンセル料支払い慣習の有無など、社会的慣習の違いに起因するものも多い。インバウンド観光では国による慣習の違いが受け入れの障壁となることも多い。 近年、対馬では韓国人釣り客によるまき餌が問題となり、島内漁民の反発が強まった。しかし、多くの釣り客は外国人のまき餌を禁止する法律を知らないため不満が増大している。韓国人釣り客の足は対馬から遠のきつつあり、浅茅湾周辺の民宿経営に悪影響を及ぼしはじめている。 また、近年は釜山の免税店で免税の適用を受ける目的で対馬に日帰りする韓国人旅行者が増えてきた。日帰り旅行者の増加は厳原市街の宿泊施設や飲食店にも深刻な打撃を与えかねない。 対馬市は平成15年度の財政力指数が全国の市で2番目に低かった。歳入は少子高齢化や人口減少、既存産業の不振、日本人旅行者の伸び悩みで増加が見込めず、韓国人旅行者がもたらす収入が歳入増加に結びつく唯一の手段といってもよい。両国の社会的慣習の違いを理解しあい、島民と韓国人旅行者の双方がストレスを感じない受け入れのあり方を見直す時期がきているといえよう。
著者
内田 和子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.198, 2009

2000年9月の東海豪雨では約8000億円の被害を生じた。典型的な都市型水害とみなされるこの災害の原因は集中豪雨であるが、被害を拡大した要因として、被災地域の住民が地域の地形条件と土地開発の歴史、人々の治水への対応の歴史を十分に理解していなかった点が指摘できる。<br> 破堤した新川は1787年に開削された人工の排水幹線であり、庄内川の放水路でもある。庄内川からの分派点には洗堰が設けられ、分派後の庄内川には遊水地も設置され、当時の名古屋城下を守るために何重もの治水策が講じられていた。破堤地点は木曽川系統の河川の旧河道と新川とが交差する付近であり、地形条件からみた破堤の危険箇所である。また、庄内川下流部の越水地点は、近世の干拓地とデルタとの境界付近の勾配遷移点であって、木曽川系統の河川が形成した大きな自然堤防により閉塞されている。<br> この災害で大きな被害を受けたもう1つの地点は、名古屋市東部の天白川下流部である。この地点は東西を丘陵と台地に閉ざされ、南部も砂州に閉塞された、古代には入り江であった低湿地であるため、湛水しやすい。越水地点は天白川より勾配の大きい支川・藤川が合流する付近で、しばしばの氾濫により天白川が大きな自然堤防を形成している。しかも、天井川である天白川はこの付近でもっとも緩い勾配となっている。<br> このように、東海豪雨で大きな被害を受けた地点は、地形条件や土地開発の歴史からみて治水上、警戒を要する地点であった。当然、古くからの居住者や為政者は様々な治水対策を講じてきた。しかし現代では、被災地に多くの人々が居住し、人々の心から治水上の警戒意識が薄れていった。以上のように、現代の日本の都市域においても、洪水と地形条件や土地開発の歴史との間には密接な関連がみられ、それらを知ることは減災に寄与できる。<br> 本シンポジウムで対象とする熱帯河川流域は、一般的に日本と比べて河川改修の進捗は小さい上に、気温や降水量などの水文条件は日本より災害を招きやすい条件にあると思われる。こうした地域において、地形条件や水文条件の解明は減災を考える上で、いっそうの重要度を増し、そのような研究を行う地理学者の役割は大きいため、熱帯河川流域における地理学者の社会的貢献も大きいと考える。